2013年03月27日

現実を伴わない教育政策〜自ら母語を捨てる保守

【文系入試も理数必須 自民提言 技術立国に不可欠】
 自民党の教育再生実行本部(遠藤利明本部長)が理数教育の充実策として、文系を含むすべての大学入試で理数科目を必須とすることや、小学校の理科の授業をすべて理科専門の教師が行うことを提言することが24日、分かった。日本経済を復活させ、技術立国として「イノベーション(技術革新)」を進めていくには、将来世代に対する理数教育の充実が不可欠と判断した。安倍晋三首相に提出する第1次報告案に盛り込み、夏の参院選公約の目玉の一つにする方針だ。
 文系の大学入試では、特に私立大の試験科目は英語・国語・社会の3科目が中心となっている。同本部は、文系の入試に理数科目が加われば中学、高校での理数科目の時間が増え、科学技術系分野に関心を持つ生徒が増えるとの期待をしている。同時に、高校で理数科目に重点を置く文部科学省指定の「スーパー・サイエンス・ハイスクール」(SSH)の生徒を倍増する。特に優れた生徒を対象とした「超SSH制度」の導入も図る。
小学校では、理科の授業について、中学・高校の理科の教員免許を持つ教諭に限定する。 平成25年度の大学入試では、経済不況の影響からか学費の安い国公立大の理系に人気が集まる傾向があった。ただ、同本部は若者の「理科離れ」の傾向が止まったわけではないとみている。小学校教諭には文系学部出身者が多く、児童に対して理科の魅力をうまく伝えられていないのではないかと分析。観察や実験の知識や技術を持つ専科教師が指導することで、児童の理科に対する興味が伸びると期待している。
 同本部は、第1次報告案で、大学入試・卒業時に英語運用能力テスト「TOEFL(トーフル)」を活用する英語教育の抜本改革や、27年をめどに全小中高生に情報端末(タブレットPC)を配ることを盛り込むことにしている。これらに理数教育の充実を合わせ「教育再生の3本の矢」として、今後1兆円規模の集中投資を図る
(産経新聞、3月25日)

「道徳の教科化」(文科省)と言い、日本の教育政策は破綻に向けて加速しそうな勢いだ。一言で言えば、「部分最適化による全体的破綻」であろう。「いじめが多いから道徳を強化」「理科と英語が弱いから強化」と個別の利害を全て反映させた結果、全体のバランスが大きく歪むことになる。
全体の兵力は限られているのに、脆弱な部分を全て守ろうとした結果、戦線全体が破綻してしまう典型的な例と言える。会社に例えるなら、経営再建するのにどこの部署も工場も縮小・再編することなく、特定部分を強化しようと投資したところ、資金繰りが破綻してしまったような話だ。

「いじめが増え、家庭教育が疎かになっている」「理科系が弱い」「英語が上達しない」などの個別状況に対する認識は間違っていないかもしれないが(個人的には思わない)、全体のバランスを考慮せずに部分対処を進めれば、その他の問題が顕在化していない部分に齟齬が生じる恐れがある。
学校の授業時間や教員の数に限りがある以上、何かを整理・縮小しない限り新たな要素を加えることは出来ない。具体的にはどの教科を減らすのかという話になる。

また小学校の理系教育については教育現場の実情から大きく乖離している。小学校の理科教育の現場では、「危険だから」という理由で子どもが実験に関わらせないようにしており、生徒は教員が行う実験を「見るだけ」になっている。これは保護者のクレームを回避するためでもあるが、ADHDなどの「じっとしていられない」子どもが実験でケガをすることを避ける意味もあり、なかなか全否定できないのが実情らしい。
いずれにせよ、理科免状を有する教員に限定しようとしたところで、員数を確保できないだけの話であって、全く現実的ではなく、議論している者たちがいかに現場を知らないかを物語っている。殆ど『ヒトラー最期の12日間』の総統である。

「英語教育の強化」も全く非現実的だ。国民の大半は母語・日本語のみで十二分に生活できており、一般的な生活に不必要な言語を学校で学ばせようとしても効果が上がらないのは当然なのである。インドやフィリピンで英語教育が盛んなのは、一般国民生活における共通言語としての需要が高いからに過ぎず、もちろんそれは地方語としての母語を犠牲にすることで成立している。
公教育が最優先で実現しなければならないのは、「一般生活に不可欠な知識と能力の養成」であり、それが「基礎学力」と定義づけられている。まずは「(高度な)英語は基礎学力なのか」という議論から始めるべきだろう。現実には日本のGDPに占める外需(純輸出)の割合は3%以下に過ぎず、仮にその倍の人間が外国関連の職に就くとしてもその割合は5%程度でしかない。5%の人しか使わないスキルは特殊技能であって基礎学力ではない。言うなれば、高校で法律学や医学を教えるような話であって、やるならば経済学の方が役に立つだろう。

もう一つの視点は公共財のあり方である。近代国家における政府の役割は、「民間で提供できない、あるいは提供しがたい財とサービスを提供すること」にある。
現在行われている基礎教育の殆どは民間による提供が難しいものであり(但し高校は約3割が私学)、公共が提供しているが、英語教育はむしろ民間の英語教室の方が充実しているという実態がある。「民にできるものは民に」という経済リベラリズムの原則に照らし合わせても、英語教育が本当に公共サービスとして必要なのか大いに疑問がある。
まして「英語によるコミュニケーション能力」のような高度な技術を全国民に身につけさせるとなれば、凄まじい巨費を投じて大いなる無駄(身につかない人)が生じることを覚悟する必要がある。

さらには公教育の哲学的位置づけも考慮されねばならない。仮に教育が真に個人の能力を伸ばして、それによって得られた利益が全て個人に還元されるのであれば、教育は純粋に私費によってのみなされるべきである。つまり、英語教育が純粋に個人的スキルの充実を目的とするのであれば、それは私費で行われるべきものということになる。逆に英語教育が、日本社会の形成や発展に不可欠であるとするならば、公教育で行わなければならなくなる。
現状ではそれらの位置づけが非常に曖昧であるが故に実質を伴わない形式的なものになっている。

政府や自民党が現状から遊離した政策を打ち出してくる一つの要因は、政策を検証・策定する場に現場の人間と教育学者(思想家ではなく)が居ないことにある。日教組嫌いは良いとしても、それは現場の声を拒否する理由にはならない。
それにしても、政治家や企業経営者が教育に口をはさむと全くロクなことにならないのはどうしたら良いものか。。。

【追記】
高等教育機関でも一部のエリート校では「英語による授業」を増やしており、政府や自民党も推奨しているが、「母語による高等教育が受けられる」という圧倒的なメリットを自ら手放そうとするものであり、保守的に言えば「亡国の所業」であろう。他方で中学レベルの英語を教えている大学も山ほどあり、全入時代の高等教育制度の在り方こそ問われるべきだ。この問題についてはまた機会を見て語りたい。

【追記2】
文部科学省は、今春から完全実施される高校の新学習指導要領に「英語の授業は英語で行うことを基本とする」という新ルールを盛り込んでいるが、全く現場の実情と乖離しており、むしろ英語離れを促進させるのではないかと危惧している。
posted by ケン at 12:54| Comment(3) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
自民党は保守といっても親米保守(対米隷属保守)なのと
日本のアメリカ化を望む財界の影響力が大きいので母語である日本語を軽視するのでしょう
財界人は総じてブラックな人間が多いので法律で教育に関わる事を規制するしかありませんね(同時に企業献金や個人献金を禁止するのがベスト)政治家については選挙で落選させるのが一番です
安倍政治は小泉・竹中政治の再来に過ぎないので早めに退場させなければ
Posted by のび太 at 2013年03月27日 19:17
政府は明治期の知識人でも目指してるのでしょうか。
当時の高等教育には英語しか使えなかったという歴史的事情を考えると、母語による高等教育を放棄しようとする政府の政策はたしかに退行しているように見えますね。
Posted by 学鳩 at 2013年03月27日 20:05
エリート教育を推進するなら、相応の国家像と教育制度を提示していただかないといけません。制度をそのままにして、自分の利害や主張だけを盛り込もうとするから無理が生じるのです。

自民党は旧田中系が劣化して清和会に代表されるタカ派ばかりになって、米ブッシュ政権並みになっていますね。
Posted by ケン at 2013年03月28日 12:38
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