2012年07月24日

日本国憲法は欽定憲法だった!

ある調べ物をしていて気になることがあったので、後で脱線して調べたところショッキングな事実を知った。

実は日本国憲法は欽定憲法だったのである。

日本国憲法は、GHQ案に基づく英語版の日本案が起草され、その日本語訳が1946年に「三月二日案」としてまとめられ、再度GHQとの調整を経て、同年3月6日に「憲法改正草案要綱」として国民に公表された。
さらに口語訳と微調整を経て、4月17日に大日本帝国憲法改正案(内閣草案)となった。
その直前の4月10日には、女性の選挙権が認められた初の普通選挙制度によって総選挙が行われ、第一次吉田内閣の下、6月20日、「第九〇回帝国議会」の衆議院に帝国憲法改正案として提出された。
なお、当時まだGHQの制限下で有効だった大日本帝国憲法第三五条には、

「衆議院ハ選挙法ノ定ムル所ニ依リ公選セラレタル議員ヲ以テ組織ス」

とあるのみで、公職選挙法さえ改正すれば、女性の選挙権を認めることは可能だった。
衆議院では、若干の修正を加えた後、8月24日、NK党を始めとするごく少数の反対があったものの、圧倒的多数をもって可決。
貴族院でも若干の修正がなされた後、10月6日に圧倒的多数で可決された。
さらに枢密院での諮詢を経て、昭和天皇臨席の下、10月29日に全会一致で可決、その同日、天皇が裁可している。
そして、11月3日に「日本国憲法」として公布され、1947年5月3日に施行された。

経緯だけ見るなら、GHQの介入を除いて、不自然なところは無い。
問題は、連合軍の占領下において逆に不自然なまでの連続性にある。
大日本帝国憲法においては、憲法改正は天皇大権に属していた。同七三条には、

「将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ」

とあり、天皇の勅命をもってのみ改正案を議会に提案することが出来たのだ。
つまり、少なくとも形式上は、昭和天皇の勅命をもって政府(内閣)が、大日本帝国憲法改正案を起草、帝国議会に付したことになる。
そして、46年11月3日の日本国憲法公布に際する昭和天皇の上諭(布告文)。

「朕は、日本國民の總意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、樞密顧問の諮詢及び帝國憲法第七十三條による帝國議會の議決を經た帝國憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。」

「上諭」とは、君主から臣下に下される言葉であり、この言葉こそが正に日本国憲法が欽定憲法(君主から臣下に与えられる憲法)であったことを示している。
だが、実際に日本国憲法が施行されるのは翌47年5月3日からのことであり、それまでは明治憲法が有効であるため、形式上・手続き上は明治憲法に則るしか無かった。
だが、その結果、「国民主権」(主権在民)を謳いながら、「君主から国民が賜る」という歪な形になってしまった。

そして、同様に明治憲法では統治大権もまた天皇に属していたが、憲法改正によって「国民主権」に移行している。果たして、国体の変更を憲法廃止では無く、改正で出来るのだろうか。

さらには、大日本帝国憲法七三条の規定について「帝国議会内で改正案を審議・採決することはできても、議会が条文に手を加え修正を施すことは出来ない」とする法解釈もあった。

これらの矛盾を解決する解釈が、憲法学者の宮沢俊義による「八月革命説」だった。
詳細な説明は省くが、1945年8月の「ポツダム宣言受諾」によって、天皇の統治大権は否定されて、主権が国民に移行したとする、法学上の「革命」と捉える解釈・学説を指す。
だが、この主権の移行はあくまでも潜在的なものであり、具体化する手続きは旧法に則って行う必要があるとされた。
そのため、形式上は帝国憲法下で憲法改正が行われたものの、実質的にはすでに国民主権に移行しているため、(ポツダム宣言下で)すでに成立している国民主権(主義)に基づいて国民(民選議会)が制定した民定憲法(国民自身で定めた憲法)であるという解釈を採っている。

実は、日本国憲法の公布主体となった昭和天皇自身も、貴族院で開かれた「日本国憲法公布記念式典」に際して、以下の勅語を出している。

「本日、日本国憲法を公布せしめた。この憲法は、帝国憲法を全面的に改正したものであつて、国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された国民の総意によつて確定されたものである。(後略)」

上の上諭と勅語を比較した場合、どうやら昭和天皇自身も憲法改正プロセスの不自然性を理解しつつ、八月革命説を斟酌しながら言葉を選んでいた可能性がある。
戦前に美濃部達吉の「天皇機関説」が叩かれた際、「どこに問題があるんだ」と怒ったことがあるだけに真実味があろう。

なお、自民党の森清議員が1985年6月25日に提出した「日本国憲法制定に関する質問主意書」は、以上に私が挙げたような質問が並んでおり、「天皇統治から国民主権に憲法改正で移行できるのか」「当時の幣原総理が憲法改正案を内奏して勅語を賜ったというが事実か」「議会における条文修正は違憲では無いか」などがある。
それに対する政府の答弁はあまりにも簡潔で素っ気ないものだった。

「日本国憲法は、大日本帝国憲法の改正手続きによって有効に成立したものであって、その間の経緯については、法理的に何ら問題はないものと考える。」

説明も無く全否定する辺り、「八月革命説」に素直に賛同するわけにも行かないが、かといって詳細に説明すると改憲の矛盾点が露見してしまうだけに、「強行突破」する他ないのだという政府・官僚の苦しさが伝わってくる。
だが、だとすれば、憲法改正について、本当に昭和天皇の勅命があったのか、その内容はどんなものだったのか、疑問が残る。
これは、憲法審査会でボスが質問することがあったら、ぜひお願いすることにしよう。

そして、改憲プロセスの不具合に目をつむって、敢えて憲法の連続性にこだわったのは何故か。
一つには、軍国主義や反動勢力が復活して支持を集めるのを未然に防ぐという、GHQとリベラル派官僚・議員の強い意向があったのだろうと推察される。
それは、再改憲が不可能なほどの厳しい縛りを入れた改憲条項からも伺われる。

以上の経緯を見る限り、どうも「連合国による押しつけ」という右派の主張よりも、「天皇条項と主権在民は矛盾する」とした極左の主張の方が実態に近いように思えてくる。
しかし、「八月革命説」を否定すると、私の社会民主主義性の否定にも繋がりかねないだけに、自分としてもスタンスの置き方が難しい。だからこそ、私は圧倒的な改憲派なのだが。
まったく勉強すればするほど、自分の無知がさらけ出される……

「政策秘書としてこの程度のことも知らなかったのか!」という批判は甘んじて受ける所存である。

【参考】
『憲法 第五版』 芦部信喜 岩波書店(2011)
posted by ケン at 12:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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