2011年08月22日

左右の定義

若い秘書が「自分、右とか左とかって良く分からないんですよね」と言う。
(おみゃあみてぇなヤツが政治やるな!)
と叫びそうになってしまったが、しかし考えてみれば、(政治的)左右の定義をどう捉えるかはそれほど簡単なものではない。
ごくごく一般的には、

左=社会主義、共産主義
右=保守、反動


と言えば済む話であるが、(勉強しない)若い人たちにはそれすらも分からないかもしれない。
そもそも、本当にこれで良いのかという話もある。
左右の定義は、通説では、フランス革命における国民議会での席の位置(左が共和派、右が立憲派、王党派)に由来するとされているが、当然のことながらこの時期には社会主義の概念はまだ未成熟だった。
あるいは、社会主義的だけど立憲君主制はOKな人とか、エコロジストは、ネオリベラリストは、となるとどう答えるだろうか。
自分一つとってみても、共和主義者で社会主義者だが、9条を含む憲法改正派であり、急進的な脱原発には反対の立場に立つ。移民の受け入れにも反対だ。

そこで、中高の先輩でもある片山杜秀先生の仮説を援用しつつ、説明してみよう。
政治的左右は、政治的スタンスあるいは議論の立脚点の時間軸によって定義可能となる。ごく単純化すると、

左翼とは、現状の政治的問題の原因を過去との関係に求め、過去との断絶を図ることによって現状の問題を整理・一掃した上で、過去に無い新しい価値観による政治・社会体制を築き上げることによって、人類の幸福を実現できると考える勢力である。

右翼とは、問題の原因を過去からの変化に求め、変化・変革・進歩を否定しつつ、かつてあった理念・体制の復活・再構築によって、現状の問題を解決すると同時に、人類の幸福を実現すると考える勢力である。

ここで大事なことは、左翼の立脚点が過去の否定と新しい価値観への信仰にある点と、それに対して、右翼の立脚点が過去への憧憬と新しい価値観への懐疑にある点である。
つまり、左翼がすこぶる観念的未来志向(バラ色の未来)であるのに対して、右翼は「現在にも過去にも実現されたことのない理念が人類を幸福にするワケがない」と真っ向から否定する。
そして、左翼が進歩や変化を肯定するのに対して、右翼はこれを否定する。
左翼と右翼が決して相容れない理由である。

フランス革命で言うと、王党派・立憲王制派は「市民階級の隆盛に伴う封建制の崩壊こそが問題の基点であり、王制を再構築することによって、フランスの現状を立て直す」と主張する。
他方、共和派は「君主制・貴族制こそが問題の原点であり、これを一掃し、市民階級による自由・平等な共和政治を確立することによって、新しいフランスを確立する」と宣言する。
ところが、王党派・立憲君主派に言わせれば、「自由・平等・博愛」などは実際に存在しない理想論・観念論であって、それで現状の問題を解決するなど、非現実的な空論に過ぎないということになる。
だが、共和派からすると、未来を否定し、過去に執着する王党派・立憲王制派を打倒することによってのみ、新しい理念を実現できることになるため、闘争が激烈化することになる。

また、フランス革命が進行してジャコバン派による独裁が成立した後も、「革命は十分だ」と判断して恐怖政治からの脱却を主張したダントン派は「右派」とされ、「革命は不十分である」として恐怖政治のさらなる推進と平等分配の強化を主張したエベール派は「左派」とされた。

ペレストロイカ末期には、「改革は不十分、さらなる民主化を」と主張したエリツィン派が左派となり、「行き過ぎた改革が経済を疲弊、混乱を招いた」と改革に歯止めをかけたリガチョフ派が「右派」あるいは「保守派」とされた。

しかし、それでは「左右」は説明可能かもしれないが、「保守」「反動」「中道」などはどうなるだろうか。
まず、右翼も左翼も現状を憂うか否定することによって成り立っているのに対して、保守は現状を限りなく肯定する点に立脚する。
保守の立脚点は、「今ある状態を最良ないしはベターと捉える」にある。現状肯定は、過去に依拠するものであり、過去をも肯定するが、変化を否定まではしない点が特徴となる。そして、現状の変化を限りなく少なくすることに注力すると同時に、現状の維持こそを至上目的とする。

それに対して反動は、現状を否定し、過去への回帰願望が非常に強い。現状の問題を過去からの変化にあると規定、あるべき理想は過去にのみ存在すると考える。
つまり、過去にあったある制度や理念が失われたことが、問題の原点であり、失われた価値を取り戻すことによって、問題を解決し、幸福を実現すると考える。
保守が「現状が一番」と考えるのに対して、反動は「過去が一番」と考える。
その意味では、古代中国の聖賢の世を最良とする儒教は反動的存在と言えるが、現実の儒者は、孔子を始め、現状を肯定するので保守と呼べる。ただ、その例外として孟子は現状を否定し、現世に聖賢の理念を実現せんとするが故に、反動的にならざるを得ない。
フランス革命の初期で言えば、立憲君主派は保守だが、王党派は反動ということになる。
現代日本で言えば、象徴天皇制を肯定するのが保守、天皇親政や戦前の帝国型を志向するのが反動ということになる。

そして、中道もまた現在に立脚する。つまり、現状の政治体制、社会体制を肯定することのみが中道であることの所以である。
現在の日本で言えば、象徴天皇制、民主主義、自由主義、議会制度を肯定するものは、ことごとく中道の範疇と言える。
ただ、より現状維持的だったり、若干過去回帰的だったりすると「中道右派」となり、より改革志向と未来志向が強いものが「中道左派」となる。
言い換えれば、中道右派は今ある価値を維持・発展するがために変革を試みるが、中道左派は現体制の中で新しい制度・価値観を確立せんと改革を志向する。

ただ、「保守・反動」に相当する左側の用語は思いつかない。
あるいは「進歩・革命」であるのかもしれないが、定着しているとは言い難い。
それは、「保守・反動」が左翼からのレッテルであったのに対して、右翼からのレッテルはせいぜいが「アカ」しかなかったという、語彙の貧困に起因するかもしれない。

「分かりやすい」とは言い難いかもしれないが、今のところ、私はこの定義付けで考えているが、同志・読者諸兄からの忌憚なき意見をお願いしたい。

【参考】
『近代日本の右翼思想』 片山杜秀 講談社選書メチエ(2007)
posted by ケン at 17:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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