2009年01月31日

エロスの伝統?−森鴎外の場合−

森鴎外(林太郎)のもっともよく知られているイメージは、夏目漱石と双璧をなす明治文学者としてのものだろう。
さすがに今どきの国語の教科書には『舞姫』など出ていないと思うし、私も駄作と切り捨てているが、『阿部一族』や『興津弥五右衛門の遺書』は武士好きには不可欠な作品となっている。
しかし、文学者はあくまでもプライベートな側面であり、当時のステータスはあくまでも軍医としてのものだった。それも、日露戦争直後には軍医総監になるほどだった。
そんな明治陸軍の高官が、発禁小説を書いていたことは、あまり知られていないようだ。

1909年に文芸誌「スバル」に掲載された『ヰタ・セクスアリス』は、その発売直後に「猥褻」として政府から発禁処分を受けてしまう。
今読めば、直接的な性表現(行為)はどこにもなく、なぜ発禁になったのかすら良く分からないようなものなのだが、開国を経て「文明開化」でキリスト教文化と欧米の法体系が急速に導入された結果、江戸以来の伝統の多くが「蛮風」として否定されるに至った。特に、江戸期の明けっ広げな性風俗は、厳格なキリスト教文化に染まった欧米人から見て「もっとも野蛮な風習」と写ったため、徹底的に弾圧されるところとなった。

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『ヰタ・セクスアリス』 森鴎外 新潮文庫(1949)

『ヰタ・セクスアリス』はラテン語の「vita sexualis」で、要は「my sexual life」、林太郎の性的体験を回顧したものである。もちろん架空の主人公ではあるが。
森は、1862年、津和野藩(島根、長州のすぐ隣)の典医(藩主の主治医)の家に嫡男として生まれた。ごく幼い時から論語を始めとする四書五経を読み、オランダ語を学ばされる英才教育を受け、中学生ぐらいの年齢にはドイツ語も習得していた。つまり、上流とは言えないものの、中流武家の超優秀な「おぼ」だった。
その武家の「おぼ」から見た江戸時代の性風俗は、非常に興味深く、少し紹介したいと思う。
 空地を隔てて小原という家がある。主人は亡くなって四十ばかりの後家さんがいるのである。僕はふいとその家へ往く気になって、表口へ廻って駈け込んだ。
 草履を脱ぎ散らして、障子をがらりと開けて飛び込んで見ると、おばさんはどこかの知らない娘と一しょに本を開けて見ていた。娘は赤いものずくめの着物で、髪を島田に結っている。僕は子供ながら、この娘は町の方のものだと思った。おばさんも娘も、ひどく驚いたように顔を上げて僕を見た。二人の顔は真赤であった。僕は子供ながら、二人の様子が当前でないのが分って、異様に感じた。見れば開けてある本には、綺麗に彩色がしてある。
「おば様。そりゃあ何の絵本かのう」
 僕はつかつかと側へ往った。娘は本を伏せて、おばさんの顔を見て笑った。表紙にも彩色がしてあって、見れば女の大きい顔が書いてあった。
 おばさんは娘の伏せた本を引ったくって開けて、僕の前に出して、絵の中の何物かを指ざして、こう云った。
「しずさあ。あんたはこれを何と思いんさるかの」
 娘は一層声を高くして笑った。僕は覗いて見たが、人物の姿勢が非常に複雑になっているので、どうもよく分らなかった。
「足じゃろうがの」
 おばさんも娘も一しょに大声で笑った。足ではなかったと見える。僕は非道く侮辱せられたような心持がした。
「おば様。又来ます」
 僕はおばさんの待てというのを聴かずに、走って戸口を出た。

これは6つの時と言うから、まだ津和野の城下にいた頃の話であり、件の家も武家であろう。一緒にいた「娘」は「島田結」というのだから、町人、それも玄人筋ないしは相当遊び好きの町人娘らしい。言うまでもなく、彼女たちが真っ昼間から読みふけっていたのは春画であり、主人公が「足」と指摘したのは「第三の足」である。
退廃した江戸ならいざ知らず、津和野のような「田舎」の武家で、独身女性が昼間っからエロ本を眺めていたというのは驚きに価する。
さらに10歳の時のこと(父親から英語を教わり始めたらしい!)、
 或日お父様のお留守に蔵の二階へ上って見た。蓋を開けたままにしてある長持がある。色々な物が取り散らしてある。もっと小さい時に、いつも床の間に飾ってあった鎧櫃が、どうしたわけか、二階の真中に引き出してあった。甲冑というものは、何でも五年も前に、長州征伐があった時から、信用が地に墜ちたのであった。お父様が古かね屋にでも遣っておしまいなさるお積で、疾うから蔵にしまってあったのを、引き出してお置になったのかも知れない。
 僕は何の気なしに鎧櫃の蓋を開けた。そうすると鎧の上に本が一冊載っている。開けて見ると、綺麗に彩色のしてある絵である。そしてその絵にかいてある男と女とが異様な姿勢をしている。僕は、もっと小さい時に、小原のおばさんの内で見た本と同じ種類の本だと思った。

「そこかよっ!」と思わず私。
何気なく開けてみた荷箱は、武士の魂とも言える鎧を仕舞っておくためのものだったが、その鎧の上にはなんとエロ本(春画)が置かれていたというのである。
今で言えば、父親の衣装棚を開けてみたら、上からエロビデオが落ちてきた、みたいな感じだろうか。
もっとも、これには異論があり、長持に春画を入れておくのは「魔除け」のためだったとする説がある。これは、日露戦争から日中・太平洋戦争に至るまで、日本兵が御守の中にエロ写真や、妻・恋人あるいは好みの商売女性の陰毛を入れていた、というのと同様の発想らしい。まぁ考えてみれば、戦争に行く男の発想など皆同じようなものかもしれないが……
次は11歳の時のこと、父親と東京に出てきた頃の話だ。
 御殿のお次に行って見る。家従というものが二三人控えている。大抵烟草を飲んで雑談をしている。おれがいても、別に邪魔にもしない。そこで色々な事を聞いた。
 最も屡ば話の中に出て来るのは吉原という地名と奥山という地名とである。吉原は彼等の常に夢みている天国である。そしてその天国の荘厳が、幾分かお邸の力で保たれているということである。家令はお邸の金を高い利で吉原のものに貸す。その縁故で彼等が行くと、特に優待せられるそうだ。そこで手ん手に吉原へ行った話をする。聞いていても半分は分らない。又半分位分るようであるが、それがちっとも面白くない。中にはこんな事をいう男がある。
「こんだあ、あんたを連れて行って上げうかあ。綺麗な女郎が可哀がってくれるぜえ」
 そういう時にはみんなが笑う。

11歳の子ども、しかもお屋敷の「坊ちゃん」の前で堂々とタバコを飲みながら遊郭の話をする家人たち。江戸時代も後期になると、武家の下人(下働き)の給料は相対的に低くなり、その質は相当悪くなった。多くの場合、「口入れ屋」という、今で言う派遣業者に頼んで来てもらっていた。その名残が偲ばれるが、まぁのどかと言えばのどかである。
東京に出てくると、私立学校に入ってドイツ語を学ぶが、13歳の頃には「哲学がやりたい」と父親にねだって転校し、寄宿舎に入る。おませな「おぼ」ぶりが想像される。
 性欲的に観察して見ると、その頃の生徒仲間には軟派と硬派とがあった。軟派は例の可笑しな画を看る連中である。その頃の貸本屋は本を竪に高く積み上げて、笈のようにして背負って歩いた。その荷の土台になっている処が箱であって抽斗が附いている。この抽斗が例の可笑しな画を入れて置く処に極まっていた。中には貸本屋に借る外に、蔵書としてそういう絵の本を持っている人もあった。硬派は可笑しな画なんぞは見ない。平田三五郎という少年の事を書いた写本があって、それを引張り合って読むのである。鹿児島の塾なんぞでは、これが毎年元旦に第一に読む本になっているということである。

当時、「軟派」とは女色を指し、「硬派」とは即ち男色のことだった。鴎外も寮で何度となく危ない目を見たようだ。林太郎自身は完全に軟派だった。
鴎外によれば、当時でも硬派はあくまで少数派だったが、もっぱら鹿児島を中心とした九州男児のほぼ全員と長州男児の一部だったという。しかし、多数派にもかかわらず、女子を愛好する男子は常に後ろめたい思いを持っていたらしい。
今日でもこの硬派の伝統を受け継ぐ議員は、自民党のF先生ぐらいしか知らない(空手6段しかも画家!)。自民党が伝統を愛するなら、軟派議員を排除し、女性の公認を取り消すべきだろう(マジでそこまでやるなら転向を考えても良い)。
なお、詳しくは「やおいの系譜・下」を参照のこと。

とにかく自分が見てきた日本の性風俗を、冷静な分析と落ち着いた筆跡で辿っている。
エロスを期待すると面白くないかもしれないが、江戸から明治期の日本の性風俗を知るにはもってこいの作品。
ぜひ一読を薦めたい。青空文庫でウェブ上でも閲覧可能。

ちなみに、もし私が文科大臣になったら、中学国語の教科書には『ヰタ・セクスアリス』を入れて自己の性を客観視することを学ばせ、高校国語(古文?)の教科書には『興津弥五右衛門の遺書』を入れて公私の別について考えさせたいと思っているが、まぁ空想だな……
posted by ケン at 18:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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