2008年04月14日

薩摩の蛮性

色々なものを読めば読むほど、「薩摩は異国」という思いが強くなる。これまでも、郷中制度、衆道肝食いなどの話をしてきた。
どうせなので、今少し縷々暑苦しい話をしようと思う。

関ヶ原の合戦に際し、島津は流されるまま石田方につくこととなった。
だが、大坂にいた島津義弘の手元には、わずか200人しかいなかった。
義弘は、国元に増援を要請するが、兄で当主の義久はこれを黙殺。
しかし、話を聞きつけた武者たちは、動員令を待たずに、個々の判断で武具を携え、義弘の下へ向かった。それは文字通り、鎧を担ぎ、自分の足で九州と中国を駆け抜けたのである。
義弘の武名は、神と崇められるほどだったからだ。
最終的に、関ヶ原の戦場には、甥の豊久を始め、1500人に上る兵が集まった。
合戦の後、脱出して薩摩に辿り着いたのは、100人に満たなかったという。
この故事を思い返すために行われているのが、「妙円寺参り」である。
関ヶ原合戦が行われた10月になると、鹿児島城下の二才(ニセ)たちは、武具を身につけ、あるいは武具を担いで、義弘が祀られている徳重神社までの20キロ(往復40キロ)を走るのだ。走っている間は、ひたすら惟新公(義弘)のことを思い、「チェストー関ヶ原!」と叫び、それ以外のことは一切考えてはならない、という掟まで課された。
いかにも薩摩らしい汗臭そうなイベントである。今では歩いちゃってるみたいだけど……(そんなの薩摩じゃない)

次は幕末。
白洲次郎の妻、白洲正子が聞いた話が残っている。
彼女の祖父は、薩摩藩士で、後に海軍大将になる樺山資紀だった。
幕末、樺山がまだ橋口覚之進と名乗っていた頃のことである。
示現流の使い手である指宿藤次郎が、京の祇園の石段下で、見廻組に殺される。
指宿は、5人を斬り伏せるも、下駄の鼻緒が切れて転倒したところを、斬られてしまう。
その際、同行していた若侍の前田某は、いち早く逃げてしまった。
指宿の葬儀には、親友だった橋口も参列、焼香になっても、指宿の棺の蓋を開けたままにさせていた。
橋口は、前田の顔を見るやいなや、
「おはんが一番焼香じゃ。さきぃ拝め!」
と叫ぶ。
前田は、ブルブル震えながら前に出て、焼香をあげ、指宿の死体の上にうなだれたところ、橋口は、抜刀し、一刀のもとに前田の首を叩き斬り、その首はボトリと棺の中に落ちたという。刀を収めた橋口は、
「こいでよか。蓋をせい!」
とだけ言ったという。

明治初頭の東京では、「薩摩人が宴会するたびに一軒潰れる」と言われたほど、薩摩人の酒乱ぶりは有名で、彼らは飲むと必ず大暴れして、大乱闘になった。
また、宴がたけなわになると、天井から銃をつるして、クルクル回す「ロシアンルーレット」も本当にあったらしい。
それは、明治政府の大官となったようなものでも同様で、重要な案件で会議が煮詰まると、殴り合いの喧嘩で決めるといったようなことすらあったらしい(当然、薩摩人同士の時に限るが)。
鉄道敷設をめぐって、逓信大臣の黒田清隆と参謀次長の川上操六が対立した折も、双方主張を譲らず、最後には黒田が、「陸軍さえよければ、鉄道で国が滅びてもいいのか!」とテーブルを叩きながら怒号した挙げ句、「まだ文句を言うなら、表に出ろ!」と掴みかからんが勢いになったため、周囲のものが必死に止めたという。
この黒田は、首相すらも務めたが、凄まじい酒乱で、酔うと刀を抜いて、所構わず斬り、自分の妻すらも斬り殺してしまったという伝説が残っている。

初期の海軍兵学寮は、薩摩出身者が多かった。
日露戦争時の海軍大臣だった山本権兵衛などは、典型的な「薩摩っぽ」で、

「山本権兵衛首謀となりて、しばしば教官排斥の運動を起こし、教官室に乱入し、あるいは教官と乱闘し、あるいはテーブル、イスなどを破壊し、流血の暴挙を演ずるに至れり」
『伯爵山本権兵衛伝』

と書かれるような始末だった。明治7年(1874年)のことである。
それ以前に明治5年には、
「爾今海軍兵学寮園内にて立小便するを禁ずる」
なる布告が出されていた。当時、休憩時間や放課後になると、生徒たちがどっと出てきて、兵学寮の庭先でズボンをずりおろし、我先と立小便をするような有様だった。
日本人士官が生徒を追い立て、英国人教官が、生徒を便器の前に立たせて、ズボンのボタンをはずさせて、用を足させるよう指導することから、日本の海軍教育は始まった。
もちろん、幕臣の子弟は、軍事のような野蛮なものには見向きもしなかったため、ほとんどいなかった。
仙台藩士の子に生まれた大叔父が、こうした蛮性を嫌い、徹底的にジェントルマン教育を推進したのは当然だった。

こうしてみると、幕臣の末裔としては、やはり薩摩人は同じ人種には思えないのである。
しかし、一方で、「公園で中高生の男女が平気でいちゃついている」という話を聞くと、「なんてもったいないことを……」と残念でならない気もする。
グローバル化は地域文化を絶滅させるという一つの証例なのだろうが、日本文化はトヨタ車のようになりつつある、ということなのだろう(涙)
もちろん私自身は、「み〜て〜る〜だけ〜」でいいんだけど(笑)
posted by ケン at 00:40| Comment(4) | TrackBack(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私の父母の教育方針が東京志向だったため、私は郷里でもかなり浮いた存在でありまして、おそらく十年位は時代を先取りして軟弱オタクと化してしまいましたが、そんな私でも東京で仕事していたときにはK島出身というだけで「酒が強い」「無口・純朴」「怖い」等々の誤解(ホントに誤解でそのうち解くのも面倒になりましたよ...)にさらされ、嫌になったものです。

まあ、私の父親世代までなら分からなくもないんですが、私の世代以降だと特に都市部ではせいぜい話言葉がやや乱暴に聞こえるぐらいではないかと。
むしろ、大阪弁や博多弁の方が我々には凶暴に聞こえるのですが...

ただ、地方に行きますと蛮性がかすかに残ってはいます。また、家庭の所得や教育度が低くなるほどその種の蛮性が残っている場合が多いです。

近代化度合いと標準語の受容や生活水準の向上が正の相関性を持つとするとバブルが弾けるまでは蛮性が減少する方向にあったのだと思います。

問題は「失われた十年」の時期でしょうね。
Posted by winter_mute at 2008年04月14日 08:24
母方の祖母は、徹頭徹尾薩摩を嫌っており、薩摩のかっぺっぺーとバカにしていました。わが子が暴走族が近づくと、かっぺっぺーとバカにするのも遺伝かなと思っています。
父方の一族の故郷はキリシタン大名の都であり、西南戦争で薩摩に街をめちゃくちゃにされたので、薩摩の悪口を言うだけで、半日は酒が持ちます。
薩賊と仕事をすることが多い職場なのが悩みです。私の周囲の薩賊に珍しくいい人が多いことも悩みです。
Posted by きょうも歩く at 2008年04月14日 22:21
そういやわたしの上司も薩摩でした。

そしてわたしは薩摩料理屋によく行くんだな、これが。
「和解の印に」と会津の酒を持っていったりするのだが(嫌がらせか)。
Posted by o-tsuka at 2008年04月15日 09:59
winter_muteさん、

地方へ行くと、近代化=東京化ですからね。方言に対するコンプレックスも同じでしょう。
今の新保守の問題は、「愛国」を言う割には、地域や郷土を愛することなく、中央集権を志向することにあると考えています。

それはさておき、普通の人が話すKG島弁は、のんびりしていて穏やかなイメージがあります。
東京などでは、どうしてもマッチョな部分が強調されて、イメージが増幅される傾向があるのは否めません。私自身も。

それと、私も惟新公の「敵中突破」の話は大好きなので、一度はKG島へ行って、できれば「妙円寺詣り」もしてみたいと思っています。走らずに、武具は軽めで(笑)友人とツアーでも組もうかと……

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同志諸兄、

野党側にいる我々は、やはり薩長嫌いが多いみたいですね(笑)
私の印象でも、薩摩だけでなく、九州の人はいい人が多い気がします。頑固かもしれませんが。私の知っているK県人は、ヘタレばかりです。島津氏が恐れた「近代化=東京化」の結果でしょう。
近代化とは、蛮性の否定ですから、当然の結果ではありますが、マンモスが絶滅するのと同じ意味で、残念です。

それから、芋焼酎が好きな人は、それだけで薩摩びいきであることが多いですね。
Posted by ケン at 2008年04月15日 14:45
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