2007年12月02日

侵略されても戦わないのか

H宮崎県知事(その●んま東)が徴兵制の導入について、「あってしかるべき」と発言し、物議を醸している。
その意図するところは、若者がある一定期間、自衛隊などで規律を学ぶのは重要だとするものらしい。
右派からは好意的に受け入れられ、左派からは強い反発が出ている。
左派の反発は当然としても、右派の支持はいただけない。
宮崎県知事の論は、あまりにも思想性薄弱にして、稚拙であり、徴兵制の意義について大きな勘違いがある。それを認識しない右派こそ、日本の保守思想の水準の低さを物語っている。
また、私は日本国内では極めて少数派になる「独立自衛」社会主義者であり、この点、特殊なセクトを除く「真っ当」な左派内では、ほとんど「同志」がいない。
その超少数派の「戦闘的左翼」の視点から、徴兵制を考えてみたい。

まず、H県知事の論はお話にならないほど稚拙である。
軍は社会の規律や規範を学ぶ組織ではなく、それを学ぶのはあくまでも地域社会や義務教育機関でなければならない。
地域や学校あるいは家庭で学べないものを、軍隊で学ばそうという発想は、保守人によく見られるが、軍隊の存在意義を知らないということと、「共同体の維持・再生」という保守の本来的目的を忘れているという2点で、ひどい勘違いをしている。
「軍隊で道徳教育を」と言うのは、自らの認識不足と、責任放棄を露呈するだけのことになる。

そうは言っても、徴兵制度を軍事的側面から見るのも浅薄だ。
確かに、技術のハイテク化と軍事の専門化が進んだ今日にあっては、徴兵制の軍事的価値は極めて低くなっており、志願制による職業軍隊が世界の多数派を占めている。
日本もまた同様で、実際に日本で徴兵制を敷いても、それに見合う武装を整えるだけで莫大な資金がかかり、動員、教育、組織にかかる費用は国家財政を大きく圧迫するだろう。保守の人間はそれを考えて発言をするべきだ。

にもかかわらず、私は「国民皆兵」論者である。
近代の「市民」あるいは「国民」といった概念は、ギリシャの都市国家に原型を見いだすことができる。
都市国家群における自由民は、自由民の権利を得る条件として、納税と兵役の義務が課されていた。逆に、非自由民には納税も兵役もなかった。
自由民は、政治参加の権利を行使し、都市防衛の義務を果たすことによって、共同体としての意識を共有し、それが「市民」という概念に昇華していった。
こうした概念は、中世ヨーロッパの都市に受け継がれていく。
また東洋では、古代には中国にも日本にも兵役は存在したものの、権利(政治参加)と引き替えのものではなく、ただの強制動員に過ぎなかった。
その結果、ポリスの非自由民や東洋の兵役参加者たちは、(国家)共同体の意識を持つことなく、古代を終えた。

近代に入って、フランス革命に代表される新たな市民意識・概念が誕生し、古代的な市民概念を駆逐したと見る歴史家が多いのだが、どうであろう。
17世紀以降誕生した近代的市民の概念は、個人の自由と権利に重きを置くのが特徴となる。
「他者の権利を害さない範囲で、個人の最大利益を追求する権利」が、「自由」の基本概念となった。
個の自立と私有財産の権利が、国家や共同体と対立するようになってくる。
先に説明した、自由主義と共同体主義の誕生だ。

しかし、自由主義を突き詰めると、無政府主義にしかならない。
国家や共同体の存在は、絶対的に個人に介入し、規制するものだからだ。
同様に、共同体主義もまた突き詰めると、個人を否定する全体主義国家にしかならず、その困難さは共産主義国家やファシスト国家(日本を含む)の歴史からも明らかであろう。
従って、現状では、自由主義と共同体主義のバランスをどう取るかの議論が、国家と社会を構築するに当たっての最重要課題となる。

ところが、日本にあってはこうした議論が存在しない。
第二次世界大戦の敗北と米国の占領政策を経て、全体主義体制が否定されたのは良いとしても、その後の共同体を構築する理念を議論すること自体否定してしまったのだ。
日本国憲法が、国民に要求する義務は、納税と教育のみとなり、義務教育の現場で教えられるのは自由と権利の行使のみとなった。
「モンスターペアレント」に代表される、行政にとにかく「ケチをつける」群衆の背景には、「税金を払ってるんだから、文句を言う権利がある」という精神構造がある。
そこには、「自治体」とか「共同体」という観念が全く存在しない。
「自治体」は、あくまで市民が自らの手で共同体を運営するシステムであって、そこには全ての市民が参加することが前提となる。
システム的には、市民が納税し、公務員が自治業務を代行しているということであり、本来的には自治の主体は市民である。その市民が、政治的意見を表明する権利として、選挙権を持っているのだ。
「モンスターペアレント」の誕生は、こうした近代民主主義の理念を教えなかった結果であろう。

同時に、防衛の義務を持たないという点でも、日本は非常に特異な環境にある。
この点、同じ敗戦国(本人たちは戦勝国と思っているが)のイタリア憲法は、私にとって明快である。
基本原理を「他国民の自由を侵害する手段として、および国際紛争を解決する手段として戦争を否認」としつつも、
「祖国の防衛は市民の神聖な義務である。(中略)軍隊の秩序は、共和国の民主的精神にもとづいてつくられる。」
「すべての市民は、共和国に忠誠であり、ならびにその憲法および法律を遵守する義務を有する」
としている。

1939年11月、フィンランドは、ソ連軍に侵略される。しかし、わが同志にして大先輩にあたるフィンランド社会民主党は進んで対ソ戦に参加し、全面的に戦った。同国の共産党もまた分裂し、多数派はソ連との戦争を支持した。
私は、このフィンランド社会民主党の精神にこそ、社会主義の共同体と連帯の精神の模範を見ている。
オーストリア社会民主党の同志たちも、ナチスのウィーン入城に際して、党本部に立てこもって最後まで抵抗を続けた。

ひるがえって日本の社会主義者たちは、「社会党が政権取ったら、ワルシャワ条約機構に参加する」とか「アメリカ帝国主義は日中共同の敵」などと言うか、逆に米国従属主義か、どちらかに分裂する始末だった。

長くなりすぎたので、とりあえず結論だけ先に述べておきたい。
要は、国防意識は、共同体意識の柱の一つであり、軍隊組織は教育機関ではないものの、徴兵制には共同体(国民)意識を醸成する効果がある、ということ。
私が追求する社会主義は、福祉と労働環境の充実(共同体の質的向上)とともに、共同体意識の醸成(公教育と国防)を図る点に特徴がある。
具体的には、全ての男女に6カ月間の軍役を課し、良心的徴兵忌避者には自治・行政の業務の一端を負担させる。この義務を経たもののみが、選挙権を得、旅券の取得を可能とする、というもの。

左派は共同体の質的向上のみを主張し、右派は国家意識の強制のみを主張する現代日本の政界、思想界の有様は、ただただ無様なばかりである。

この問題は、テーマが大きすぎるため、話が散漫になってしまったことはお詫びしたい。
機会があれば、土佐の一領具足と中江兆民に、日本の共同体主義の原点を見いだせるという話をしたいと思う。

【参考】
『日本政治思想』米原謙 ミネルヴァ書房(2007)
『「市民」とは誰か』 佐伯啓思 PHP新書(1997)
posted by ケン at 23:41| Comment(7) | TrackBack(0) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
NSにも荒畑寒村とかいたやん。

俺は
「真っ当」な左派
なのかどうか、悩んでしまいます。
Posted by o-tsuka at 2007年12月03日 01:24
私も以前は国民皆兵を考えていましたが、現代戦争ではむしろ邪魔で自衛隊のプロフェッショナル達の効率を著しく下げる見込みが大(ただでさえMDと人件費で正面装備品に割ける予算が少ないのにお子様方の面倒まで観た日には...)なので、むしろ公共奉仕活動(治安警察と司法とか低年齢の教育とか介護・医療補助とか清掃活動とか、あるいは自治体や政府機関のコピー取りやお茶くみ)に従事させた方がよいような気がします。

近頃はドイツも連邦軍よりもその種の活動の方に人員を充当しているようですし。

なにより社会的機能としての個人というみもふたもない現実と、自由・共同体主義という輝かける闇を存分に体感できる(特に自治体の現業や介護医療・教育など)のがよろしいかと。
Posted by winter_mute at 2007年12月03日 11:37
おお、ハインラインの描いた世界の様で良いですね。
 普通選挙制度の否定という観点は必要と思います。例えば、選挙権を放棄する代わりに税金を軽減するなら、多くの人が放棄するのでは(笑)。
 純粋軍事的に徴兵制度が有害無益であるのは議論の余地のないことと考えますが、私的に気になるのはマンシュタイン御大が1950年代に公的な場で西独においては徴兵制が必要と述べている点。手持の文献では理由が不明なのですが、誰か知っている人が教えて下さい。
 まあ御大のことですから、Курская битваの地図を前にして「完全充足の歩兵一個師団が足りません総統閣下」と述べたが如く、緻密な計算に基づいて「その時は必要だった」というだけなのかも知れませんがね。
Posted by 胴田貫 at 2007年12月03日 23:26
自宅のネットが断線し、更新が滞っています。
ご迷惑をおかけします。

同志、
本稿の表題は、荒畑寒村先生のお言葉ですよ。
先生へのオマージュのつもりだったんですけどね。

winter_muteさん、
私は軍事力、特に国防力はハード面や職業軍隊だけに依存すべきではない、と考えています。
詳細は次号に掲載します。

胴田貫さん、
選挙権と税金のトレードオフは、貧困層から脱落していくような気がしますけど……
マンシュタイン氏の発言は、私もどこかで記事を目にしたような気がしますが、覚えていません。
Posted by ケン at 2007年12月04日 11:01
フランス革命にも王侯貴族の持ち物であった「軍」を、国民のものにしたという側面がありますね。
しかし、それが戦争の悲惨さを増大させたという意見も強い。
「国民軍、その光と影」
というわけですな。

ところで男子1年制の徴兵制を敷いたとして、対象者は60から70万人。ひとりあたりの経費を500万で済ませるとしても3~3.5兆円、訓練担当要員は事務方含めて5万は必要でしょう。こちらの経費で1兆近くいくかな。消費税4%ぶんか。
そして60万人年分の労働力がみすみす失われ、消費活動も低減する。経済的にありえん。

高校でライフル射撃教育をする位ならいいと思うけどさ。
モンゴルの成人女性は全員、AK-47の野戦分解が出来るそうですぞ。萌え。

現代の国民皆兵国家というとスイスくらいしか思いつきませんが、実包は役所が管理しているとはいえ、各戸に備えられた自動小銃を使った殺人もやはりあるそうで、ちょっとイヤですね。
Posted by o-tsuka at 2007年12月04日 11:27
いぇーい、なんか盛りあがってるようで

で、金がない

それなら、敵に恐怖をあたえるような戦法でしょう。首をはねるとか頭の皮を剥ぐとか

それで、コスプレ
たとえば、モヒカン刈
体、赤くぬりたくるとか
ニューギニアみたいに
P(自粛)ケースもいいかもしんない

日本も共同体意識の醸成にふんどし一丁で走り回ったりしてるから素地はありますね

>対独協力の観点から見た 戦後フランスの政治と文化
http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/report/2-pdf/4_bungaku1/4_16.pdf
法的手続きを経て処刑されたものは1500人程度とされているが、実際には10000人ほどが公にされることなく殺されたといわれている。

フランス人もなかなかやるな。今度、やるときは負けそうになって、休戦を言い出す議員は処刑ですね。

BC級戦犯 - Wikipedia
>日本のBC級戦犯は、連合国軍総司令部(GHQ)により横浜やマニラなど世界49カ所の軍事法廷で裁かれ、のちに減刑された人も含め約1000人が死刑判決を受けたとされる。
Posted by msx at 2007年12月05日 20:52
o-tsuka同志、
ソ連時代は、女子は徴兵の対象にこそなりませんでしたが、コムソモールの女性団員は一定の軍事訓練を受けていました。その話はいずれ。

msxさん、
戦争は始めるのは簡単ですが、終えるのは非常に難しいのです。後始末も大変。
軍人に終戦を任せるのはそれこそ「総玉砕」にしかならないでしょう。
Posted by ケン at 2007年12月06日 11:01
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