2007年02月28日

昭和史再学習?

「なぜ日中戦争が分水嶺なのか」を考えてみたい。

1937年(昭和12年)7月7日に盧溝橋事件が勃発。
日本軍と国民党軍が戦闘を開始するが、9日には一度、現地で停戦が成立している。
参謀本部からも不拡大の方針が現地に伝えられた。
11日には、現地では停戦協定の締結まで話が進んでいた。
が、同じ頃、東京の五相会議では、杉山陸軍大臣が強硬論を近衛首相に迫り、閣議で「北支派兵」が決定された。
その結果、軍内の事変拡大派を勢いづけた上、中国側の世論を著しく硬化させた。
その後、日中両軍の戦闘散発を経て、7月末には戦闘再開。
9月には第二次国共合作が成立、一方の日本軍は北京より南進を開始し、本格戦争に突入していく。
12月には南京攻略と南京事件(南京大虐殺)が起きる。
翌38年1月16日、近衛首相が「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず」と声明、停戦・講和の道がほぼ絶たれた。

同じ流れで国内の事件を追ってみると、
1937年12月15日、第一次人民戦線事件。
「コミンテルンとの関係」の名目で、全国の労農派(非共産党系社会主義左派)が一斉検挙。人数は446人に及び、加藤勘十や黒田寿男といった衆議院議員まで逮捕された。
翌38年2月1日の第二次検挙では、宇野弘蔵や美濃部亮吉といった左派系の学者まで検挙された。
起訴名目は治安維持法(国体変革と私有財産否定)違反。
当時の新聞には、検挙者の名前と顔写真まで掲載されている。
読売新聞の一面には「事変下、左翼陣営壊滅」の見出しが掲げられ、「反戦の宣伝」が検挙理由に挙げられており、興味深い。
つまり、軍部が日中戦争の遂行・拡大を意図しており、左翼陣営をその障害と見なしていたことが分かるわけだが、当時の新聞もそう認識していたのだ。

ついで、2月17日には三多摩防共護国団(悲しいことに多摩なんだよね)が、「聖戦貫徹」などのスローガンの下、政友会と民政党の本部を一時占拠して、気勢を上げた。その数は3百人とも4百人とも言われているが、陸軍が後押しする右翼テロがますます野放しになり、警察は無力化し、政党の権威がますます低下する発端となった。
さらに3月3日には、社会大衆党の党首・安部磯雄が小石川のアパートで右翼に襲われ、重傷を負った。
同じその日、衆議院で、佐藤賢了陸軍中佐による「黙れ事件」も起きている。
3月24日には、国家総動員法が可決され、言論・出版・集会などの自由は完全に国家統制下に入ることになった。
同法には、社会大衆党が積極的に賛成することによって、今日「国家社会主義政党」の烙印を押される決定打になってしまった。

人民戦線事件と政党本部襲撃事件は、衆議院議員たちを大いに萎縮させ、「反ファッショ」の矛先を大きくにぶらせたと思われる。
その原因となったものが日中戦争の勃発・拡大だったことを思えば、戦前のデモクラシーが日中戦争勃発によって終止符を打たれたとする説は、非常に説得力があるように思われる。

われわれ現在の左翼がここから学ぶべきものは多いが、われわれはあまりにも知らなさすぎる。

参考:昭和史再学習
posted by ケン at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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