2014年09月07日

日清戦争の「勝利」を検証する・上

「ノルマンディ上陸作戦70周年」はそれなりの話題を博しているが、日本人的には「日清戦争開戦120周年」の方に関心を持つべきかもしれない。だが、日露戦争に比して日清戦争は様々な理由から今ひとつ一般の関心が低いように思われる。かく言う私も尖閣諸島の領有権問題や沖縄の独立問題が浮上した関係でようやく学び直し始めたばかりだ。
私の関心は戦争の過程や作戦内容よりも、開戦経緯や戦後処理あるいは戦時財政にある。本ブログでは、日露戦争における戦時財政について検証しているが、政府が戦争や財政の内実を隠蔽した結果、「欧州列強の大国であるロシアに圧勝した」というイメージが国民に流布し、現代では司馬遼太郎の小説などによって同様のイメージが定着してしまっている。
日清戦争については日露戦争ほど関心が高くないため、一般書籍は多くないものの、日中共同研究を含めた学術研究は進んでいる。しかし、圧倒的多数の歴史観は従来のままにあると思われるので、私自身も検証途上ながら少しずつ考えていきたい。

一般的に、軍事学において、戦争の勝敗を考える根拠は3つの要因から成り立っている。

@ 客観的要因:占領した土地、敵味方の損害など(具体的、数値化できるもの)
A 主観的要因:当事者がどう考えているか(達成感とか敗北感といったもの)
B 目標到達水準:作戦目標をどの程度達成したか


この3つの要因がすべて達成されていれば、まず無条件勝利と言える。
2つの達成にとどまる場合は、留保がつき、完全な勝利とは言えなくなる。
1つしか達成していない場合は、客観的には勝利したとは言い難くなる。
以前、ノモンハン事件に関するソ連側の機密文書が公開されてソ連側の損害が日本と同レベルだったことが判明した際、日本の歴史修正主義者たちがこぞって「日本はノモンハンで負けたわけではなかった」と喧伝したことがあったが、これは上記の客観的要因の一部を誇張しただけのもので、「ソ連側勝利」という歴史的評価を覆せるようなものではなかった。

これを日清戦争に当てはめた場合、客観的要因と主観的要因は、軍事的に日本が圧勝して朝鮮半島から清軍を排除した上で領土割譲と賠償金を含む講和条約を締結したのだから、「清国敗北、日本勝利」として間違いないだろう。問題は3番目の「目標到達水準」であるが、従来の歴史評価はここが弱かった印象があり、それ故に「完全勝利」のイメージが定着している観がある。
そこでまず日清戦争開戦に際しての宣戦詔書を見てみよう。カナはかなに振り替えて読み下し文にした。
朝鮮は、帝国が其の始啓誘して、列国の伍伴に就かしめたる独立の一国たり。
而して清国は、毎に自ら朝鮮を以って属邦と称し、陰に陽に其の内政に干渉し、其の内乱あるに於て、口を属邦の拯難に籍き、兵を朝鮮に出したり。
朕は、明治十五年の条約に依り、兵を出して変に備えしめ、更に朝鮮をして禍乱を永遠に免れ、治安を将来に保たしめ、以って東洋全局の平和を維持せんと欲し、先ず清国に告ぐるに、協同事に従わんことを以ってしたるに、清国は翻て、種々の辞ネを設け、之を拒みたり。

これは一部分だが、要は「本来独立国であるはずの朝鮮を、清国は属国と称して内政干渉し、日本の対朝協力を妨害、日本側の数々の提案も拒否し、朝鮮に大軍を送るに及んだため、宣戦布告に至った」というものだった。もちろんこれは日本側の一方的な主張に過ぎず、現実には朝鮮は清帝国ブロックを形成する一国であって純然たる独立国たり得なかったわけだが、本稿の主題はそこにはない。ただ、もう一言付け加えるなら、日本は宣戦詔書で「朝鮮の独立」を求めながら、開戦に先立って朝鮮に対して行ったことは、軍事力によって内政改革を強要するという完全な内政干渉だった。
宣戦詔書を読めば分かるが、朝鮮半島における清の影響力を排除して日本の影響力(栄光)を確立することに主眼が置かれ、むしろそれ以外のことには触れていない。実際、日本側は当初(開戦前)、清国側に朝鮮半島について現代に言う共同統治を申し入れたわけだが、外交交渉の中で浮上してきた天津条約案は当時(甲午農民戦争)の軍事・政治バランスを反映して清国側に有利な内容のものだった。
それに危機感を覚えた日本側は半島の軍事バランスを修正するために混成第9旅団を派兵する。この際、伊藤博文総理は平時編制の2千人程度を想定していたが、陸軍の川上操六参謀次長は戦時編制の8千人にして送ってしまう。派兵を決した伊藤にしても、不平等条約改正問題で非難にさらされる中で衆議院解散を控えて、「人気取り」あるいは「タカ派を抑える」という判断が働いていた。ところが、いざ派兵してみると、朝野のマスコミ、輿論が沸騰、さらに衆議院でも開戦論が圧倒的多数を占めるに至り、閣内でも大山陸相と陸奥外相が開戦を迫って伊藤は決断を余儀なくされた。

つまり、日清戦争は政策担当者の主観的には外交交渉の敗北を軍事的勝利をもって上書きすることを目的とし、政治的には朝鮮半島から清国の影響力を排除して日本の単独的影響力を確立することを目的として始められた戦争だった。実際、開戦に先だって日本軍が行ったのは朝鮮王宮の制圧と、李王家の確保だった。
ただし、大衆的には全く異なる文脈で受け止められており、キリスト者の内村鑑三ですら「日支那の衝突は避べからずと、而して二者衝突して日本の勝利は人類全体の利益にして世界進歩の必要なり」(1894年7月27日、国民新聞)という具合に「近代国家と封建国家による文明戦争」と捉えていた。この解釈は今日の「対テロ戦争」に繋がる系譜と言える。

余談になるが、日清戦争の開戦時、宣戦詔書公布の後に土方久元宮内相が伊勢神宮および先帝稜に派遣する勅使の人選について明治帝に相談したところ、帝は同戦争について「朕もとより不本意なり、閣臣等戦争のやむべからざるを奏するにより、これを許したるのみ、これを神宮および先帝稜に奉告するは朕甚だ苦わしむ」と言うので、土方が慌てて諫めたところ、お前の顔など見たくないと怒られ退出させられたという。
明治帝は今日に言う平和主義者ではなかったが、「朝鮮に軍を出しても清と戦争になることはあり得ない」と無責任な説明がなされ、その後ロクに経過報告もされないまま事後的に開戦の報告がなされて宣戦詔書の公布が求められたのだから、ブチ切れるのは当然だった。この辺りの官僚や政治家の態度(利用主義)は昭和から平成に至るまで変わらない。
以下続く
posted by ケン at 11:37| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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