2014年11月27日

忠義とロイヤリティA補

「犬の忠義」を全兵士、全国民に強要し、一切生命を顧みなかったのが十五年戦争期の戦争指導部だった。玉砕命令を受けて生き残った兵士は「不名誉者」として扱われ、自死か再玉砕を強要された。一族から敵の捕虜を出した家は「国賊」として村八分にされ、家族まで徹底的に差別された。兵と国民に死を強要する一方で、肝心の指導部からは敵前逃亡や捕虜(逮捕)が続出した。
こうした「伝統」は今日まで受け継がれ、無制限(かつ残業代ゼロ)の「サービス残業」が横行、これを拒否する者は経営者や上司から侮蔑されたり、解雇されたりするも、それが許容される社会になっている。挙げ句の果てには、労災申請や内部告発を行うと社会的に排撃される風潮すらある。
ところが日本には、こうした権威主義、非合理主義とは一線を画す系譜もまた存在した。陸軍中野学校である。

私の伯父は、陸軍幼年学校から士官学校に進み、ロシア語を専攻していたこともあって、どこかの時点で中野学校への入校を命じられた。中野学校は日華事変勃発に伴い、謀略戦・情報戦のエキスパートを養成するために設立された機関で、後には対米本土決戦を視野にゲリラ戦の要員育成も担った。ルバング島で遊撃戦を指揮し、終戦を経てなお30年近くにわたって潜伏し続けた小野田寛郎は、最も有名な卒業生だろう。
中野学校は「スパイ養成校」として一般教養、外国語から情報戦や謀略術まで教えていたが、その特色はむしろ「戦時下にもかかわらず自由な校風」にあった。図書室には当時すでに禁書であったマルクス主義や民主主義の本が並び、大学風のゼミでは天皇制の是非まで議論されたほどだった。その目的は「世界のどこにあっても諜報者として働ける頭脳と柔軟性」を育成することにあった。逆を言えば、陸軍の首脳部は、自分が行っている軍人教育が世界に通じない硬直した精神を育てていることに対して自覚的だったことになる。伯父も戦時下にあって、陸軍軍人でありながら背広に長髪という出で立ちで「出勤」していたので、家人も「一体何をしにどこに行っているのか?」と思っていたという。
中野学校では、「生きて虜囚の辱を受けず」という軍のモットーは否定され、「たとえ国賊の汚名を着ても、どんな生き恥をさらしてでも生き延びよ。できる限り生きて任務を遂行するのが中野魂」と教えていた。たとえ捕虜になっても、情報収集、偽情報の流布、収容所の反乱煽動など、できることは山ほどあり、どのような状況下にあっても生き残ることが最優先であるとされた。
学校の雰囲気は『Dの魔王』を参照されたい。

こうした校風ゆえに、入校者にはちゃきちゃきの陸軍軍人は少なく、大卒や高専卒が9割近くを占めたという。それだけに幼年学校から士官学校を出ている伯父は異端中の異端だったに違いない。
中野学校を出た伯父は、戦争末期に関東軍参謀二課(情報部)に配属された。私がこれまで聞いたところでは、関東軍主力が通化を目指して退却した後も新京に残って、機密文書廃棄や残務処理をした後、単身満州平原と朝鮮半島を徒歩で踏破して本土に帰還したということになっていて、それだけでも伝説だったのだが、真実はもっと「事実は小説よりも奇なり」だった。
実際の伯父は、新京を出た後、朝鮮商人に身をやつしながら、ソ連軍の戦線をすり抜けて後方に出た後、ひたすら東に向かって歩き、ウスリー川を渡ってウラジオストクに出て、どんな手段を使ってか日本行きの船に乗り込んで、そのまま帰ってきてしまったという。従って、他の復員兵よりもよほど早い、9月中頃には東京に戻っていて、「あれ?満州にいたんじゃないですか?」と亡霊でも見たかのように言われたとのこと。
確かに合理的に考えれば、ロシア語ができるのだから、南下するソ連軍をスルーして戦線の後方に出てしまった方が安全なことは間違いない。だが、実際にその決断が出来るかと言われれば、99.9%の人は南下を選ぶだろう。
さらに言えば、シベリア抑留の観点からしても、満州でソ連軍に捕捉されていたら抑留されていただろうが、「民間人」としてソ連領内に入ってしまったが故に、逆に日本への帰国船に乗り込むことができたのだ。

中野学校の教えの通り、「生き残って帰る」ことを優先させた伯父は、戦後国会図書館の職員として対ソ諜報に従事、国会議員団が訪ソする際には通訳を務めた。「必ず生きて祖国に献身する」という中野学校の精神を最期まで守ったのだ。
面白いことに、幼年学校上がりのゴリゴリの陸軍軍人だったにもかかわらず、60年代の学生運動に参加した父が逮捕されて警察署に保証人として迎えに行った際にも、非難がましいことは一切言わなかったという。これも「中野魂」の一つの表れかもしれない。

中野学校の精神が軍全体を占めていたら、特攻や玉砕が行われることはなかったと想像されるだけに、極めてマイナーな一セクションに留まってしまったことは返す返すも惜しい限りだ。そして、中野学校の近代合理主義は忘れ去られ、権威主義と非合理主義が戦後社会の主流を占め続け、現代もなお日本人を苦しめ続けている。中野学校は今も「伝説」に過ぎないと言えよう。

【追記】
伯父上がもう15年生きていてくれれば、話を聞いて小説&映画にしたのだが、あまりにも惜しすぎる。
posted by ケン at 12:52| Comment(0) | 学問、文学、教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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