2015年02月12日

紛争解決に交渉は不可欠

この間、中東における人質事件に絡んで「テロリストとは交渉しない」「テロに屈するな」といった「勇ましい」論調が社会を賑わせ、「解放交渉すべきだ」という意見が上がると「テロに同調するのか」「テロリストに味方するのか」などと恫喝して沈黙させられるケースが散見された。国会では、某参議が反テロ決議に棄権しただけで「非国民」などと蔑まれ、殆ど戦時体制と化している。

日華事変・日中戦争が始まると、それまでは辛うじて保たれていたわずかな言論の自由も失われ、軍部批判はもちろんのこと、戦争反対や平和を訴えただけで「非国民」「支那人の手先」と呼ばれ、特高に密告されて逮捕、牢獄で拷問を受ける社会になった。それまでは共産党員と完全なシンパのみを対象にしていた治安維持法が拡大解釈されて、合法社会主義者、反戦運動家、さらには自由主義者や宗教家にまで対象を広げていった。私の祖父が、市電に乗っていて皇居の横を通過した際に遙拝しなかったと難癖を付けられて殴打されたのも、ドイツ語の書籍を読んでいて特高に尋問されたのも、全て開戦後の話だった。現代との違いは、特高と治安維持法が無いことくらいで(秘密保護法がどうなるかはあるが)、世相としては酷似していると思われる。

例えば、幕臣末裔の私からすれば、高杉晋作や伊藤博文などはテロリストにしか見えないが、逆に彼ら勤王派からすれば新選組は官憲テロでしかなかっただろう。ジョージ・ワシントンは英国人からすればテロリストの首魁であったろうし、ネイティブ・アメリカンにとっては世紀の大虐殺者でしかなかった。少なくとも報道では、主観をまじえた用語を使うべきでは無いだろうし、自由と民主主義を掲げる国が安易に敵味方を固定する二分法を採るべきではない。それは、自由と民主主義が希求する公正性に反するためであり、過剰な二分法は自らの公正性を脅かす危険性を秘めている。
日本人は、明治政府を樹立して、現代に至る内閣や議会制度の根幹をつくった元勲たちが、御殿山の英国公使館を焼き討ちした「テロリスト」であったことに、今一度思い浮かべるべきだろう。
そのテロリストどもが実権を握る長州藩を叩き潰すために、江戸幕府は「長州征討」を敢行するも、全戦線で一歩も長州領内に入ることなく敗北、和平交渉に入った。いわば休戦状態に入り、その間に幕府は大政奉還をなして平和裏に政権を移行しようとするも、薩長が各地で幕臣を挑発、幕府の急進派が暴発する形で戊辰戦争が始まり、今日で言うところの「武力による現状変更」が行われることになった。
戊辰戦争は、薩長が交渉に応じ、幕臣が暴発しなかったら回避可能だったはずだ。

歴史的に見て紛争の圧倒的多数は交渉によって解決している。たとえ一時的に武力が使用されたとしても、最終的には和平交渉にて解決するのが当たり前で、第二次世界大戦におけるドイツのように国土が完全に占領されて交渉すべき対象すら存在しないというケースは極めて例外的だ。中世ですら城攻めの大半は交渉や内応によって陥落するのが普通で、強襲による陥落は例外と言える。
「敵とは交渉しない」というスタンスは、一見格好良く見えるかもしれないが、自ら紛争解決のカードを見せて捨ててしまっている点で愚劣極まりない。具体例を見てみよう。

1989年の「東欧革命」において、最も平和的に権力移行がなされたのはハンガリーだったが、それは早い段階でペレストロイカの流れを読んで、独裁的な立場にあったカーダールを引退させ、穏健派が社会主義労働者党の主導権を握って、民主化運動団体と複数政党制への移行を前提に交渉を始め、主体的に国境の開放を始めたことが大きい。その結果、大きな混乱が起きること無く、民主的体制に移行し、社労党は社会民主主義政党に衣替えして今日まで大政党の一角をなしている。
それに対して、民主化運動そのものを否定したルーマニアでは、治安部隊が民主化デモに対して発砲したことを切っ掛けに、国軍が民主派に寝返り、治安部隊と交戦、内戦自体は一週間で民主派が勝利して終わったものの、両側で凄惨な殺戮が繰り広げられ、最終的には軍事法廷でチャウシェスク大統領に死刑判決が下されて即日執行されて終わった。なお、ルーマニア共産党は非合法化されて消滅した。

日本人的には日中戦争のケースで説明した方が分かりやすいかもしれない。日華事変の最大の汚点は南京事件と言えるだろうが、これは当時の日本政府が中華民国政府との交渉を疎かにした結果起きたものだった。
当時、陸軍の事変拡大派軍人でも中国との全面戦争まで考えていたものは稀だったようで、多くは「増長する中国政府に一大鉄槌を下して日本の要求を受け入れさせる」程度に考えていた。ところが、1937年8月13日に始まった上海事変は、上海市を制圧するのに3カ月もかかる有様で、当初軍人たちが主張していた「一撃で粉砕」には程遠かった。その上海を制圧する11月から駐華ドイツ大使による休戦工作(トラウトマン工作)が始まった。
日本側が提示した第一次条件は、この時点ではまず穏当なもので、国民党軍は上海以外では大敗を喫していたこともあり、受け入れをめぐって激論が交わされた。その途中で上海が陥落し、首都・南京に日本軍が迫ってきたこともあり、11月末には蒋介石は休戦交渉を進める方向で考え、12月2日には一次条件を交渉の基礎として認める旨をトラウトマンに伝えた。
なお、上海事変で強く出兵を要請したのは海軍側で、要請を受けた陸軍は上海派遣軍を編成して上陸させ、海軍は大々的に渡洋爆撃を開始、9月に入ると漢口、広東、南昌へと爆撃対象を拡大させ、さらに中国沿岸の海上封鎖を宣言した。北京周辺と上海をめぐる地域紛争は中国全土における全面戦争へと発展していった。

こうした中で現地軍は繰り返し南京攻略の許可を参謀本部に求めるが、多田駿次長はこれを握り潰し、国民党政府のメンツが立つ形で講和に導く方針を有していた。11月24日には、大本営御前会議が開かれるも、近衛首相も広田外相も多田の主張に耳を傾けず、12月1日には大陸命第八号を発して南京攻略を命じてしまった。一方、現地の第十軍は中央の命令を待たずに南京への進撃を始めており、文民統制どころかそもそも軍の統率が十分に機能していなかったことが伺われる。
中支那方面軍は12月10日に南京市に対する攻撃を開始、13日には市内を完全に制圧するが、この際にいわゆる「南京事件」が発生、中国側のナショナリズムがさらに高揚した上に、対日国際世論が一気に悪化した。南京事件の真相がどうであれ、日本軍が南京を占領したがために、国民党蒋政権は国内世論的に和平交渉を進めるという選択肢が採れなくなった上に(和平派は沈黙)、「これで米英の支援が得られる」という期待を抱くところとなった。日本側の目論みは裏目に出て、中国側の抗戦意志を強化してしまったのである。さらに12月14日には日本側が華北に傀儡政権を打ち立てたことも、中国側を大きく刺激した。

南京陥落で気を良くした日本側は、休戦条件のハードルを上げ、華北分離政権の承認を要求、満州国の正式承認も加えられた。蒋介石はこの新条件を一蹴するが、国民党内部には異論もあり、回答期限は12月末だったものが翌年1月10日とされるも、正式回答には至らなかった。
1938年1月14日に国民党政府から「現条件は曖昧なので細目を提示されたい」旨の通知が日本側に伝えられるも、ここでまた日本政府と国論は過剰に反応し、「時間稼ぎだ」「誠意が無い」などの声が沸騰して、収まらなくなってしまう。
1月15日午前に大本営政府連絡会議が開かれ、陸軍の多田参謀次長と海軍の古賀軍令部次長が国力の限界から長期戦を戦うことの困難さを説明し、中国側との和平交渉の継続を主張した。ところが、近衛首相「速やかに和平交渉を打ち切り」、広田外相「支那側の応酬ぶりは和平解決に誠意なきこと明瞭」、杉山陸相「蒋介石を相手にせず、屈服するまで戦うべき」、米内海相「統帥部が外務大臣を信用しないのは政府不信任」などと声を揃えて反論され、政府と統帥部の対立が解消されないまま休憩に入った。

その結果、翌16日には「爾後国民党政府を対手とせず」の声明が発表され、和平交渉は完全に頓挫してしまう。日本側の条件が厳しくなったとはいえ、国民党政府側には自国の継戦能力を疑問視する勢力も少なくなかった。日本側が粘り強く交渉を継続し、寛容な姿勢を見せれば、休戦の糸口はまだつかめたかもしれなかった。この時むしろ和平交渉に誠意が無かったのは中国を蔑視し居丈高な態度をとり続けた日本の方だった。
後に撤回したとはいえ、国民党政府を交渉相手と認めなかった日本は、その後も7年半に渡って泥沼の戦争を続け、特に華北部では陰惨極まりない対ゲリラ戦が繰り広げられた。南京入城前にトラウトマン工作で休戦していれば、南京事件はもちろんのこと対米戦すら回避できた可能性があるだけに、日本政府の「敵とは交渉しない」スタンスの愚劣ぶりが際立っている。

現代のケースを挙げるならば、イスラエルがそれまで「テロリスト」と非難してきたPLOと和平交渉を行い、自治政府樹立を認めた結果、アラファトによる「テロ放棄」宣言がなされた。その一方、イスラエルはハマスとの交渉を否定、ガザ侵攻と空爆を繰り返し、ハマス幹部を多数殺害しているが、解決の糸口はなく、陰惨な事態が続いている。
アイルランド紛争もまた英国政府がIRAを交渉相手と認めることが紛争解決の第一歩となったことを考えれば、「テロリストとは交渉しない」という選択肢が果たして存在しうるのか、首をかしげざるを得ない。
posted by ケン at 12:23| Comment(0) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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