2015年08月29日

警察によるデモ隊撮影から考える権威主義と民主主義

明日8月30日には安保法制・集団的自衛権行使に反対する全国的なデモが行われるが、同時にその裏では公安警察が総動員されて、参加者の肖像撮影、リスト化が準備されている。それに対して、一部の弁護士らが「肖像権の侵害」「憲法違反(表現の自由、集会の自由、幸福追求権に対する侵害)」を訴えているものの、当局は全く取り合うつもりがなさそうだ。

この問題については1960年代の学生運動において一つの判例が出ており、基本的に当局はこれに準じていると主張している。京都市公安条例違反デモ事件(1969年)がそれだ。デモに参加した学生が、京都府警によるデモ隊の撮影を妨害したとして、公務執行妨害罪で起訴された。被告の学生はプライバシーの侵害を訴えるも有罪となり、上告したものの、棄却されて有罪が確定した。判決の要旨的には、
「警察官が、正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影することは、憲法13条の趣旨に反し、許されない」

「現に犯罪が行なわれもしくは行なわれたのち間がないと認められる場合であって、しかも証拠保全の必要性および緊急性があり、かつその撮影が一般的に許容される限度をこえない相当な方法をもって行なわれるときである。このような場合に第三者である個人の容ぼう等を含むことになっても、憲法13条、35条に違反しない」

「本件写真撮影は、現に犯罪が行なわれていると認められる場合になされたものであって、しかも多数の者が参加し刻々と状況が変化する集団行動の性質からいって、証拠保全の必要性及び緊急性が認められ、その方法も一般的に許容される限度をこえない相当なものであった」

というものだった。その後、この判例が継承され、今日に至るまで、デモ隊参加者の肖像撮影が合法化される根拠となっている。
この判例に則っては、公安警察などがデモや集会参加者を撮影しているということは、日本の警察は、

「デモや集会参加者は犯罪予備軍である」

「デモや集会は現在進行形の犯罪である」


のどちらかの認識の上に立って、「集団行動だから証拠保全の必要性及び緊急性が認められる」と判断、「一般的に許容される限度内で撮影」していることを意味している。要は、日本の警察的には、デモや集会に参加することは、犯罪行為であるか、犯罪準備をしている、という認識なのだ。これを権威主義と言わずして何と言うべきだろうか。それこそ、明日の全国行動について主催者側は、全国で100万人の動員を豪語しているが、警察がデモ参加者を撮影すれば、参加者全員が「犯罪者」ないし「犯罪予備軍」であるという認識を示すことになるが、とうてい現実的あるいは合憲的とは思えない。

デモクラシーの原理は、主権者全員が国家の意思決定に参加する前提の上に成り立っている。議会制民主主義は便宜的に主権代行者を選挙で選出して議会を構成しているわけだが、議会に代議員を送り出したからといって、市民が有する主権が失われるわけではない。大多数の市民は日常生活を送る中で、常に意思決定に参画することは現実的に不可能であるため、便宜的に代議員を議会に送っているだけだからだ。この代議員、あるいは議会が十分に機能せず、主権(市民の意思)が十分に国政に反映されていないと考えられる時、市民は積極的に街頭に出て自らの主権を提示、政治的意思を直接訴えることが許されている(集会、結社の自由)。少なくとも、デモクラシーの原理上、デモや集会などの直接民主主義は、「許されている」というレベルでは無く、「積極的に行うべきもの」という義務に近いものと考えるのが筋なのだ。その意味において、「投票は権利」「デモや集会は権力者の許可を得てやるもの」と考えている日本人は、全くデモクラシーの原理が普及していないと言える。

つまり、デモや集会などのデモクラシーの要を「犯罪」と見なす日本政府(霞ヶ関、桜田門)の国家観は、甚だ反民主主義的であり、この時点で戦後憲法を否定してしまっている。そして、民主主義を肯定する国会議員は、法務委員会や内閣委員会で、デモ隊撮影の合法性と法的根拠を徹底的に追及すべきである。これは安倍政権の問題では無く、帝国の本質部分を憲法改正によって継承してしまった戦後国家のあり方が問われているのだ。
posted by ケン at 10:44| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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