2015年10月05日

シュタージあるいは特高の終焉について

この間の私の記事を読んだある同志から、「デモに冷たいのではないか」と言われた。私のスタンスは、「議会人は直接行動と一線を画すべきであり、あまり一体化しないよう留意すべきだ」というものであって、直接行動を否定しているわけでは無い。それどころか、私は以前より「デモクラシーの条件」として、

@ 直接民主主義
A 間接民主主義
B 独立した司法
C 批判的マスコミ


の4つを挙げ、いずれも欠かすことの出来ない要素だが、日本で水準を満たしているのはせいぜい2番目の選挙と議会だけで、他の3つの要素はいずれもデモクラシーの水準を満たしていない旨を主張している。

【参考】日本の民主主義が「限定的」なワケ 

ただ、今回の安保法制をめぐる問題を見れば分かるとおり、国会議員がデモなどの直接行動に深入りしすぎると、議会人が議会内での劣勢を覆すために議会外での行動を支援する形になってしまい、突き詰めると間接民主主義の否定になってしまうからだ。極論すれば、国会議員がデモ隊を率いて議場を占拠するようなことがあってはならない、ということである。
しかし一方で、デモクラシー下において、市民による抵抗権は認められなければならず、そこには議場占拠や行政府占拠のようなものも含まれる。その一例を挙げよう。

一般的に東ドイツは、1989年11月10日の「ベルリンの壁崩壊」によって解体され、西ドイツに併合されたと理解されているが、実際に統一ドイツが成立するのは翌90年10月のことであり、90年3月には東ドイツで最初にして最後の自由選挙が実施されている。この自由選挙において、独裁政党だった統一社会主義党(SED)の後継である民主社会党(PDS)は16%の得票で66議席を確保、「統一」を解消して分派した東ドイツ社会民主党(SPD)は同22%、88議席を獲得した。両党は野党化したものの、当時の東ドイツでは、形を変えて社会主義の存続を望む声が強かったことを示している。また、90年初頭に行われた世論調査では、70%の人が東独の存続を望む回答をしたというデータもあり、興味深い。

この東ドイツが解体する過程において、「シュタージ」がいかに解体されたかがポイントとなる。シュタージは、日本でその名を知る人でも「東ドイツ秘密警察」くらいに理解している人が殆どかと思われるが、実態はそんな生やさしいものではない。確かに帝政期にあった日本の特高警察が内務省の一部署であったことを考えれば、同様のものとしてイメージされるのは致し方ないかもしれない。
だが、東独のシュタージは正式には「国家保安省」という、独立した省庁であり、内務省は別個に存在していた。そして、その特異性は、まず法文に表れている。国家保安省設置法には、「これまで内務省にあった国民経済防衛のための主要機関は、独立した国家保安省に改編される」との一文があるのみで、その権限や役割については一切書かれていなかった。これは、東ドイツが成立した際にソ連に存在した「国家保安省(MGB)」をモデルにしたためであるが、そのソ連では同省は内務省に併合された後、閣僚会議直属の機関として再独立している。

法文にいかなる規定も記されていないにもかかわらず、シュタージの規模と活動範囲は際限なく拡大していった。1950年の発足時2700人で始まったものが、60年代には2万人を超え、70年代には5万を超え、1990年には9万人を超えていた。さらに、さらに非公式協力員が20万人から30万人いたという(一度でも登録した人は60万人とも)。東独の人口が1600万人であることを考え、日本の人口に換算すれば、職員が70万人、協力者が200万人いる計算になる。
その任務は、内外の諜報活動、治安活動、国境警備に及ぶばかりでなく、独自の軍事力や教育機関(大学)をも持ち、「国家の中の国家」「党の盾と剣」と呼ばれた。ベルリンに駐留していたシュタージの「ジェルジンスキー連隊」は定数1万6千人と最新装備を誇った。
シュタージの活動がどのようなものであったかについては、映画『善き人のためのソナタ』を参照されたい。
同じ国民間で尾行、盗聴、密告が横行し、夫婦生活の回数までシュタージに報告される始末で、統一後は離婚が激増した。フィギュアスケート選手だったカタリーナ・ビットの『メダルと恋と秘密警察』には、「20時00分からセックス。20時07分終了」というシュタージの報告書が紹介されているが、果たして誰の「報告」だったのか。

全国に全く隙の無い監視網を築いて国民から一切の批判を封じ、その各地区の責任者は党支部の幹部を兼任、長官は政治局の一員という権勢を誇ったシュタージだったが、その最後はあっけなかった。
ホーネッカーSED書記長の退陣を受けて、シュタージ長官のミールケも辞任、89年11月13日には改革派のモドロウ内閣が成立して、同17日には国家保安省を「国家保安局」に改編(格下げ)することを宣言した。これに前後して、各地のシュタージ機関では文書資料の焼却処分を始めたとおぼしき煙が上り始めたため、これを見た市民が怒り狂ってシュタージの建物に突入、占拠し、職員を拘束する事件が各地で起きた。前長官のミールケは、人民代議員の資格を剥奪され、12月には汚職罪で逮捕され、かつてのシュタージの拘置所に収監された。翌90年1月15日には、ベルリン・リヒテンベルクにあるシュタージ本部も市民に占拠され、3月にはシュタージは後継・改編なしに完全解散させられた。
市民がシュタージ本部を占拠した結果、相当数の公文書が廃棄を免れ、その量は並べるとベルリン本部分だけで178kmになるという。個人別調査カードは、東ドイツが400万人分(人口1600万人)、西ドイツが200万人分あり、統一後の91年12月に成立した「シュタージ文書法」に基づいて管理、公開されている。

翻って、日本の特高警察はどうだったか。戦前期(帝政期)の特別高等警察は、1910年の大逆事件を受けて、1911年に内務省警保局の直轄として主要府県に設置されたが、そもそも大逆事件自体、現在に至っても真相が判明していない。さらに、共産党結党、日ソ国交、普通選挙法の成立を受けて、全国に設置され、規模も拡大していった。その役割は、社会運動、労働運動、反政府運動、後に反戦運動などの摘発と防諜活動にあった。特高による小林多喜二の拷問死は有名だ。戦時中は、日本全国に監視網を構築し、密告を奨励した。ただ、その規模は最大時でも1万人を超える程度だったようだ(但し特高は一般警察も駆使していた)。

1945年8月10日、帝政日本は連合国からのポツダム宣言を受諾、同15日に国民に向けて降伏を表明し、9月2日に連合国との間に休戦協定が結ばれた。このポツダム宣言の中に、
日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除するべきであり、言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべきである。

という項目があり、特高警察や治安維持法の廃止が視野に入れられていることは明白だった。ところが、国体の変革や私有財産廃止を主張するものを取り締まる治安維持法は、戦後もなお機能し、1945年9月に至っても共産党員に対する摘発や拷問が続いていた。
さらに、GHQの政治犯釈放要求に対し、東久邇宮内閣の岩田司法大臣は釈放を拒否、山崎内務大臣が「反皇室的宣伝を行ふ共産主義者は容赦なく逮捕」と表明したことを受けて、10月3日、GHQは特高警察と治安維持法の廃止を指令(人権指令)する。
東久邇宮内閣はこれを拒否して総辞職し、後を継いだ幣原内閣の下で10月15日、『「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ基ク治安維持法廃止等』なる勅令を発し、同法を廃止、特高警察も廃止された。ここで重要なのは、同法が議会で廃止されたのでは無く、天皇の特別立法権(勅令)によって廃止されたことだった。
また、天皇が統帥大権を有し、内閣や議会のコントロールから外れた陸海軍についても、武装解除の後、45年12月1日付で陸海軍省が廃止された。

国体を護持するための国家テロルと暴力装置は、ポツダム宣言の受諾とGHQの指令無くしては廃止されなかったのである。また、東独に見られたような、市民による警察本部占拠や拘置所・刑務所の開放も無かった。そのため、特高関連文書の大半が廃棄処分され、わずかに個人が所有するものが現代に残るだけとなった。シュタージが作成した個人別調査票のようなものは、特高も作成していたはずだが、全て廃棄されたため、戦後の検証が不可能になり、現在も過去の克服を困難にし、歴史修正主義の温床となっている。
また、特高警察の幹部は、あらかじめ情報を入手して手前人事で他の部署や省庁に異動して公職追放を免れたため、特高関係者で公職追放指定されたのは現場の刑事ばかりとなった。また、特高関係者の一人として戦犯指定されることもなかった。統一ドイツでは、シュタージの職員だった経歴を持つ者は、公的機関、各級議員、政党幹部についてはならないことになっているが、日本では特高幹部が大臣や議員を始め、各省庁に分散して権力を維持し続けた。
内務省は1947年末をもって解体されるが、特高の機能は警視庁公安部と公安調査庁に引き継がれ、市民運動や労働運動に対する監視活動を続けている。

【参考】安保法制反対行動が盛り上がらないワケ

同じ全体主義体制下にあったとはいえ、東ドイツの市民が暴力装置としてのシュタージの危険性と公文書の重要性を認識し、直接行動によってデモクラシーを実現したのに対し、帝政期の日本臣民は特高警察の暴力性と公文書の重要性を認識すること無く、占領軍の強制指導によってしかデモクラシーを実現できなかったのだ。その結果、日本では、占領軍が去った後、秘密警察機能の復活を許し、今日に至っている。

日本は、今一度、今度は自らの手で民主化を実現する必要があるのだが、果たして日本人のどの程度がデモクラシーを望んでいるかは分からない。

【参考】
・「シュタージ」とは何であったか 中野徹三 労働運動研究所収(1996.7)
・『東欧革命―権力の内側で何が起きたか』 三浦元博 岩波新書(1992)
・『特高警察』 荻野富士夫 岩波新書(2012)
posted by ケン at 12:29| Comment(2) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
東独が崩壊した後、旧東独を訪問した日本の視察団が現地の教師に「旧東独は40年にわたって権力に従順な国民を育成しようとしましたが、実現できませんでした。日本はどのような秘策を用いてあのように従順な国民を育成したのですか?」と質問されたそうです。
Posted by hanamaru at 2015年10月06日 20:50
江戸時代260年で培われた「文化」なのでしょうかね。今読んでいるテキストにもありますが、天皇を頂点とする疑似家族を模した国家体系が日本人に適合してしまっているということでしょう。ブラック企業の大半が「家族的雰囲気」を掲げ、「家族に対する滅私奉公」でブッラクな労働環境を糊塗することがまかり通り、殆ど摘発すらされていないわけです。労働組合を作ろうとすれば、「大恩ある親に弓を引くのか」と言われ、何も出来なくなってしまう構造です。
犬ですら、洋犬は主人の言うことを聞かせるまで大変ですが、上手くやれば良いパートナーシップを築けます。他方、日本犬は比較的容易に躾けることが可能ですが、主人との関係は「主従」に固定されてしまうようです。
Posted by ケン at 2015年10月07日 14:13
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