2016年04月29日

【事前ノート】ペレストロイカを再検証する

狭い業界だから誰とは言わないが、歴としたロシア・ソ連研究者が「ゴルバチョフは、自らの改革のスピードについていけなくなって、行動不能に陥り、支持を失っていった」旨を述べているのを見て驚かされた。また、ゴルバチョフがインタビューで、ソ連崩壊の一因として「原油安」や「チェルノブイリ」を挙げているのにも、「おいこら、ちょっと待てや!」と声を上げてしまった。さらには、大御所の先生までもが、「1990年頃には、ソ連という国は事実上の社会主義離れを遂げつつあった」と書いているのを見るに至り、絶望的な気分にさせられた。一つには、歴史学や政治学の視点と、経済学の視点では、評価が異なりうることがあるのだろうが、現地で生活した者として、また今現在政治の現場にある者として、違和感を覚える見解ばかりだった。
「ソ連はなぜ崩壊したか」は、私にとって非常に重要なテーマの一つであり、ずっと細々と資料を読み込んできたが、定説化しつつある評価がどうにも納得がいかないので、一念発起して中間報告的な記事を書こうと準備している。

日本における一般的なペレストロイカの評価は、大きな危機意識を持ったゴルバチョフが共産党書記長の座について「上からの改革」を進めると同時に、「下からの運動」を推奨したところ、改革のスピードが現実に追いつかなくなり、保守派と急進派の板挟みになったゴルバチョフは身動きが取れなくなって、大衆的支持を失っていった、というストーリーに基づいている。それは、優秀な指導者が孤軍奮闘するも、時代の大波に飲み込まれて挫折していったというストーリーであり、大衆の判官贔屓を刺激するものではある。
だが、経済史の側面を注視すると、悲劇よりも喜劇的とすら言える流れが観測される。

例えば、ペレストロイカは1985年にゴルバチョフが書記長に就任するとともに始まったと見て良いが、その目的は文字通り「(国家)再建」にあった。話は前後するが、結果的にソ連を崩壊させたのは財政的要因が大きく、一義的には市場経済化による経済成長を実現できなかったこと、二義的にはアメリカとの軍拡競争の財政負担に堪えられなくなったこと、三番目の理由として同盟国支援の経済負担に堪えられなくなったことがある。
つまり、ゴルバチョフがどこまで自覚的だったかは別にして、ペレストロイカの急務として挙げられるのは、「市場経済化による経済再生」「軍備負担の削減と軍需産業の民需転換」「同盟国再編による軍備削減と貿易収支の適正化」、そしてもう一つ加えるなら、市場経済化と関連して「補助金漬けの赤字財政の解消」があった。

ところが、ペレストロイカは、指導層の掛け声や、西側社会からの評価に比して、全く進んでいなかった。具体例を挙げると、1989年時点で企業の民営化率は1%、90年時点で商品の自由価格率は1割に遠く及ばなかった。1990年予算で歳出に占める食糧価格調整金(補助金)の割合は20%、コルホーズを始めとする国営企業補助金が20%、軍事費が15%超という有様だった。
ミクロで見ても、1954年から90年に至るまでパンの公定価格は一切変わらなかった(70コペイカから1ルーブル)にもかかわらず、独立採算制の導入や政治的理由から労働賃金を上げ続けた結果、貨幣の過剰滞留現象が起き、潜在的インフレーションを表面化させていった。また、生産価格を無視した公定価格を維持するために、国庫から際限なく補助金が出された結果、歳出に占める食料価格調整金の割合は20%にも達していた。このことは、ゴルバチョフ政権が食糧の公定価格制度に全く手を付けられなかったことを示している。大御所が指摘するところの「社会主義離れ」とは裏腹に、現実は全く「社会主義離れ」ができなかったのだ。

社会主義体制下では「存在しない」とされた財政赤字を実質的に補填していたのが、資源輸出だったわけだが、1980年代後半には原油価格が低迷し、その赤字補填力は失われていった。ゴルバチョフはこれをペレストロイカ失敗の要因の一つに挙げているわけだが、凄まじい放漫財政を放置したまま、外的要因による歳入不足に失政の責任を負わせるのは、為政者として公正な評価とは言えない。なお、西側では、チェルノブイリ事故処理費やアフガニスタン戦費が財政に大打撃を与えたと今日でも信じられているが、89年で前者は60億ルーブル、後者は50億ルーブルで、歳出に占める割合は各々1%程度と、一国を崩壊させる要因と言えるものではなかったことが分かっている。

つまり、1990年の時点でペレストロイカの改革は殆ど進んでおらず、目標達成の目処すら立っていなかった。かろうじて合格点を出せるのは、「同盟国再編による軍備削減と貿易収支の適正化」であったが、それは他の問題をカバーできるほどのものではなかった。
卑俗に喩えるなら、ゴルバチョフは、四教科の宿題を出されながらも何一つまともに終わらせることなく、新学期を迎えてしまった小学生でしかない。

ゲームで喩えるともっと分かりやすい。GJ社の『信長最大の危機』は、織田信長が、「浅井・朝倉」「本願寺」「三好三人衆」などの敵に囲まれる中、さらに「武田」「毛利」「上杉」から攻め込まれるシチュエーションになっている。後半の強敵のうち最も早く参戦するのが武田信玄なのだが、武田が参戦する前に「浅井・朝倉」「長島一揆」「三好三人衆」のうち最低2つ片付けられる(滅亡させる)かどうかが、織田家勝利のカギとなっている。これを我々は「宿題」と言うわけだが、宿題を片付ける前に武田が参戦してしまうと、兵力の集中ができず、武田に有効な打撃を与えられないため、そのうち毛利と挟み撃ちにあって投了せざるを得なくなる。逆に「宿題」をきちんと片付けられれば、信長は余裕を持って信玄と対峙できるので、信玄側も防勢に立たざるを得なくなる。
ゲームプレイヤーとしてのゴルバチョフは、「浅井・朝倉」も「長島一揆」も手を付けぬまま、武田と毛利に攻め込まれて瓦解してしまった信長みたいなものだった。そこでもう一度、1990年時点のゴルバチョフの宿題進捗度を確認してみよう。
・市場経済化による経済再生:企業民営化率1%、自由価格率5%

・軍備負担の削減と軍需産業の民需転換:軍事費ほぼ横ばい、軍需部門における民生品生産は統計上40%を超えるも実態は微妙。

・同盟国再編による軍備削減と貿易収支の適正化:対社会主義国貿易比率は86年の67%から89年で62%に。駐独ソ連軍の撤退開始は89年。

・補助金漬けの赤字財政の解消:食糧価格調整金、企業補助金ともに割合増加。

これを見て、合格点をやる教師はいないだろう。ペレストロイカでゴルバチョフが優先すべきは、「民主化」ではなく「経済再生」だった。国営企業の民営化を促進し、価格を含む流通の自由化を進め、重工業偏重を改めて資本をハイテク産業と軽工業に充て、国家財政を食い潰していた各種補助金を大幅にカットして健全化する必要があった。だが、現実にはどれも実現すること無く、時間切れを迎えたのが、ペレストロイカだった。ゴルバチョフの失敗は、経済改革で発動すべき強権を、自らの民主化改革で手放してしまい、制御不能に陥ってしまったことにある。また、ゴルバチョフ自身も、時期の確認はできないが、ペレストロイカ末期にスリューニコフ経済担当書記が、軍需部門の投資予算を民生消費財の購入に回す提案を行った際に、これを拒否していることからも、どこまで「ゲーム(勝利条件)」を理解していたか疑問符を付けざるを得ない。
ゴルバチョフは、「改革派」として政治局でも中央委員会でも満場一致で選出されながら、いざ諸改革を進める段になると、共産党員はほぼ例外なく抵抗していた。「総論賛成各論反対」の極地とも言える現象だったが、これを排除するためには、スターリンばりの強権が必要であることに、本人は最後まで気づかなかった、あるいは考えないようにしていたと見られる。
これらを全てゴルバチョフ個人の責任に帰するのは無理があるものの、「分かっているはずの宿題をやらなかった(できなかった)」理由と原因については明確にする必要がある。それは、今後の日本の運命を占う上で貴重な教訓となるはずだ。

【追記】
ゴルバチョフは、言うなれば、無自覚なまま西側社会に対して「接待プレイ」を演じて自国を崩壊させてしまったゲームプレイヤーだった。その「接待プレイ」故に、西側では今日に至るまで高く評価されているが、ロシアでは今日でも最低級の評価しか与えられていないのは、以上の理由から説明される。2011年にレヴァダ・センターが行った世論調査では、ロシア人の6割が「ソ連解体は回避できた」と回答、「解体は必然的だった」の約2倍に達している。もっとも同調査では、半数がペレストロイカそのものに否定的であり、改革開始から四半世紀を経てもなお、ソ連型システムに疑問を抱いていないことを示しており、その評価は単純にはできないことも確かだ。
ソ連崩壊後、エリツィン政権下でソ連の工業資本は西側に買い叩かれたが、その全評価額はわずか50億ドルに過ぎなかった。エリツイン政権は、国営企業の株式と交換できるバウチャーを発行し、国民に無償で配布、国民はこれを委託・直接投資して、民営化が図られた。しかし、現実にはバウチャーの買い占めと転売が行われ、大衆の多くが資産を失い、巨大財閥が誕生し、現在に至るまでその禍根を残すこととなった。プーチン氏が、オルガルヒ(巨大財閥)を叩いて絶大な支持を得ているのも、ここに理由がある。これが理解できない、あるいは無視しているがために、メディアに登場するロシア分析は常に全く的外れのものばかりとなっている。

【追記2】
1989年から頻発した炭鉱ストにおける労働者側の要求の一つに、「月800グラムの石鹸の増配」というものがあった。アメリカと世界を二分していたはずのソ連と共産党政府は、この程度のものすら供給できず、ストライキされてしまうような存在であったことを、再確認しておく必要がある。つまり、社会主義を云々する以前に、統制経済・計画経済であるにもかかわらず、全く統制も計画もできなくなって、自由経済・市場経済に移行しようとして、それもできなかったのが、ゴルバチョフ政権の実情だった。
posted by ケン at 01:00| Comment(2) | ロシア、国際関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 中国は政治改革あとまわしでとにかく市場経済化を進めて、国民生活の向上を最優先したので持ちこたえたが、ソ連は市場経済化を後回しにして、政治改革だけ先に進めたので国内が混乱して、崩壊した。というのは10〜20年前は普通に言われていたことですが、今の学会主流派の見解は違うのですか?
Posted by hanamaru at 2016年04月29日 13:07
そうなんですよ。ロシア・ソ連の狭い業界内では、なぜかまだペレストロイカやゴルバチョフ信仰が根強いようで、全く困ったものです。一つには、ロシア・ソ連の政治分析だけで、世界的な視点や経済あるいは生活者からの視点が弱すぎるからだと思うのですが。
Posted by ケン at 2016年04月30日 09:47
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