2016年08月18日

日露開戦の代償−開戦経緯を再検証する・上

先日ある戦史概説本を読んでいたところ、新著であるにもかかわらず、日露開戦の経緯について「ロシア側で主戦論が台頭し、伊藤博文も外交工作を断念、日英同盟の成立が後押しする形で宣戦布告がなされた」旨の説明がなされていた。典型的な「司馬史観」であり、Wikipediaを始め、日露開戦経緯はほぼ定説化し信じられている。ただ、先に付言しておくと、司馬が『坂の上の雲』を書いた当時は、ロシア側資料が大きく制限されていたこともあって、歴史学の定説でもあり、司馬一人の責を問うつもりは無い。

だが、1990年代以降、ロシア側の文書が公開されたことで、日露戦争の研究も大いに進展があり、特にロシア側の外交、軍事的対応について、従来説の多くが否定されている。例えば象徴的な例を挙げると、『坂の上の雲』でも紹介されている、日露開戦前のロシア内相プレーヴェによる「国内の革命的状況を阻止するために、ちょっとした対外的勝利を得る必要がある」との発言は、最新の研究では、敗戦後に開戦責任を押しつけるために政敵が流したデマだったことが判明しているが(元ネタはウィッテの回顧録)、日本はおろかロシアですらいまだに史実のように扱われている。史実的には、むしろプレーヴェは「もし開戦したら国内の治安に責任は持てない」くらいのことを言っていたようだ。マリー・アントワネットの「パンが無ければケーキを食べればいいのに」はさすがにデマと認識されつつあるが、歴史でも現行の政界でも、一度確立してしまったデマを払拭するのは、恐ろしく難しく、歴史にはまだまだ「史実化されたデマ」が山ほどあると思われる。

結論から先に言えば、「ロシアにおける主戦論の台頭」自体が、開戦当時の日本側の妄想であり、ロシア側は強硬な外交条件を提示したことはあっても、日本と戦争してまで極東利権を守るつもりは全く無く、そもそも優先順位的に極東問題はかなり下の方にあった。そして、日露協商は何度も成立寸前まで至っており、開戦直前にはロシアは日本側条件をほぼ丸呑みすることを伝えていたにもかかわらず、その通達が日本側に届いたのは開戦直後になってしまった(邪魔された感触はある)。日本側は、日英同盟が成立したことで逆に外交的態度を硬化させ、ロシアへの不信感が「戦争準備している」との妄想を膨らませ、主戦派の煽動もあって「一刻も早く開戦する必要がある」との焦燥感に自我を失ってしまった観がある。「優先度の低い極東問題は後回し」というロシア人と、「ここが生死の分かれ目」と思い込み目の血走った日本人の認識差が、日露開戦を引き起こしてしまった、というのが私を始めとする、ロシア学徒の大まかな共通認識になっているが、殆ど広まっていない。
面倒なのは、研究者(日本史、ロシア史、軍事史)が互いにいがみ合っているような状態にあり、細かい部分について「どの辺の線引きが妥当なのか」について、私も確固たる認識を持てずにいる点にある。
とはいえ、司馬史観を放置しておくことは、誤った歴史認識を拡散させて、日露関係の毒にしかならないため、とにかく可能な範囲で払拭していくべきだと考え、本稿の執筆に至った。

日露が開戦したのは1904年2月だが、1900年前後における日本側の政策担当者の対外認識を整理しよう。主に二つの派があり、一つは伊藤博文や井上馨に代表される元老や財界を中心とした日露協商・列強協調路線で、内政改革と国力充実を優先し、大陸進出は「国際環境を見ながら」とするもの、いわば「内治派」である。特に伊藤は、日本に対外戦争を行う余力が無いことを良く知っていた上、列強同士の戦争が他を利する上に当時者を没落させるものに終わる可能性が高いという認識を有していた。二つ目の派は、維新第二世代から少壮官僚を中心とし、「大陸進出が遅れれば、他国に進出可能な地域が奪われる」という帝国主義の意識が強く、内政より外征を優先する「外征派」である。桂太郎や小村寿太郎に代表されるが、外務省や軍部の少壮官僚からも支持されていた。この点、実は昭和初期と大差なく、「明治人は昭和人と違って優秀かつ現実的だった」とする司馬史観は、見直されるべきだろう。ちなみに、山県有朋は当初、前者に属していたが、後に後者に鞍替えしている。

日露戦争の遠因について、従来説は日清戦争後の三国干渉により遼東半島が清国に返還された後、一部(旅順と大連)がロシアに貸し出されたことに始まるとされている。確かに一面では正しい。
下関条約で得た3億1千万円と遼東半島還付によって得られた4500万円のうち3億円が軍備拡張に費やされ、陸軍は7個師団が13個師団になり、海軍は「六六艦隊計画」を発動した。当時の松方正義蔵相は過大な軍拡に反対、「産業育成を同時に行わなければ軍備の維持は不可能」な旨を説いたが、鼻息の荒い軍部と議会によって辞任に追い込まれてしまった。日清戦争前の租税収入が約6700万円、開戦後の大増税によって1億2千万円になったものの、全く身の丈に合わない軍備だったことは間違いない。
この軍拡を推し進めた結果、対露開戦が既定路線となり、議会では藩閥・吏党・民党が軍拡(ミリタリズムの推進)で一致、日露協商路線を破棄して日英同盟に突き進んでいったことは、昭和期の軍縮条約破棄から対米開戦への流れの中で海軍の反対が中途半端に終わって日独伊三国同盟を許してしまった経緯を彷彿とさせる。
日清戦争の「勝利」を検証する

だが、同時に元老たちは、当時の日本にロシアと戦う実力が無いことは百も承知で、現実路線として、「山県=ロバノフ協定」(1896、朝鮮独立の確認)、「西=ローゼン協定」(1898、満韓交換論の基礎)などが採用された。特に、「西=ローゼン協定」で、ロシアが日本の韓国利権を完全に認め、軍事顧問と財政顧問を韓国から退去させていることは、強調されてしかるべきだろう。
この前の1895年には、日本の公使が主導して、日本軍守備隊や領事館警備隊が韓国宮廷を襲撃、親露派の閔妃を暗殺するという事件が起き、その反動で韓国内の親日派が一掃され、親露路線への傾斜を深めていただけに、むしろ日本側の大失策とロシア側の配慮が見て取れる。この時点でロシアが朝鮮半島を影響下に置くことは可能だったからだ。
なお、この閔妃暗殺事件(乙未事件)も、定説では「現場(三浦公使)の暴走」とされているが、日本政府や軍部の関与が取り沙汰されており、その手法はやはり昭和軍閥の源流をなしていると言える。

日露協調路線が一転するのは、義和団の乱(北清事変)である。乱自体は、1900年8月に列強連合軍が北京を占領して収束に向かうが、ロシアは自国の権益である東清鉄道に大きな被害を出したことで、その保護を名目に満州に大軍を派遣して占領下に置いた。この補償と撤兵をめぐる露清交渉は、他の列強が清の味方をしたことで難航、ロシアの満州占領は翌年以降も続き長期化してしまう。
日本側は、これを「ロシアの南進政策の一環」と決めつけ、「ロシアとの協商は不可能、朝鮮がロシアに取られる前に行動する必要がある」とする上記の外征派が勢力を強め、日英同盟に邁進していった。一方、元老を中心とする内治派は、日露協商の継続を模索するが、少壮官僚などからの妨害を受けることが多くなった。
(以下、続く
posted by ケン at 12:54| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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