2016年08月19日

日露開戦の代償−開戦経緯を再検証する・中

の続き)
ここで一旦、ロシア側に視点を移したい。ロシアの極東政策は、もともと優先度が低く、基本的な安全保障上の優先順位は、第1にヨーロッパ・バルカン半島、第2にトルコ・アフガニスタンで、第3にシベリア・沿海地方の防衛で、満州への進出はその下にあり、韓国となるとはるかに下の方になってしまう。さらに、国内の情勢不穏により、ロシア国内の治安維持やポーランドなどでの反乱に備える必要があり、その深刻度は日に日に高まっていた。結果、中国・極東方面へ進出は常に4番目以下の扱いだった。この傾向は、日露が開戦するまで変わらない。実際、財政難もあって、東清鉄道やシベリア鉄道の建設は遅れに遅れていた。
それでも、1896年には李鴻章に巨額のワイロを送って露清密約を結び、清に満州利権を認めさせる。だが、これは日本の大陸進出を危惧する清が、ロシアに協同戦線を求めた側面もあり、一概には「南進政策」とは言えないものがあった。

現代のウクライナ紛争にも見て取れるように、歴史的に強国の侵略を受け続けているロシアは、第三者からすると過剰な防衛意識を持っており、常に自国領土と他国勢力圏の間に緩衝地帯を設けようとする意図が強い。現代のロシア人が「NATOの脅威に備えて緩衝地帯を設ける」と考えているものが、欧米人からすると、「ロシアの侵略」と捉えられ広く信じられている。当時の満州も、ロシア人的には「シベリア・沿海地方の弱い腹部を守るための緩衝地帯」だったわけだが、日本人的には「ロシアの伝統的な南進政策」と写ってしまった。

話を戻す。次いで、三国干渉の見返りとして、1897年に旅順、大連の租借が決まるが、これは当時のムラヴィヨフ外相が推進したことで、ヴィッテ蔵相は財政上の理由から反対だった。租借が決まると、南満州鉄道の建設が始まり、ますます朝鮮半島に手を出す余裕がなくなり、「西=ローゼン協定」で朝鮮の日本利権を認めた。だが、その一方で、ムラ気のあるロシア版大陸浪人とも言える、皇帝の寵臣であるベゾブラーゾフが暗躍し、北部朝鮮に調査団を派遣したり、開発会社を立ち上げたりして、日本側の疑惑を深めてしまった。
1900年の北清事変では、建設途上の東清鉄道に被害が出たこともあり、清に満州の保障占領を認めさせたが(第二次露清密約)、日本を始めとする諸外国の疑惑を深めた。
1902年1月に日英同盟が成立すると、ロシアは外交的に追い詰められ、満州駐留軍の維持費が重いこともあって、同年4月には清と満州還付条約を締結、半年毎に三度にわたる撤兵が取り決められた。だが、満州からの撤兵は、旅順・大連の孤立を意味することになり、日本の朝鮮進出への脅威と相まって、ロシアの外交的地位を難しいものにしていった。
総体的には、ロシアは財政的裏付けもないまま、遼東半島や満州に手を出して、自ら望まない極東の不安定化と外交的孤立を招いてしまったと言える。
なお、外務省が進めた日英同盟と併行して、伊藤は一元老として個別に自身のルートを辿ってヴィッテらと日露交渉を進め、ほぼ満韓交換論の線で合意しかけていたが、外務省や桂総理らから掣肘が入り、中止させられている。

日英同盟が成立すると、今度は日本側が強気に出る。同盟条約には「清韓両国の独立・領土保全」が謳われており、ロシア側に満州からの撤兵を強く要求するようになり、ロシア側の満州利権すら認めなくなってしまう。これは、伊藤・井上ら内治派が進めてきた「満韓交換論」を否定し、「朝鮮は日本のものだが、満州は中立(ロシアのものではない)」という要求になった。
だが、ロシア側からすれば、満州問題は露清間の問題であって、日本が口出しすべき話ではなく、「日本がイギリスと結託して満州進出を狙っている証左だ」という疑惑を生んでしまった。現実には、日本には京釜鉄道や京義鉄道などを敷設する資金の捻出にも汲々としている有様で、とても満州に経済利権を求める余裕は無かった。

満州還付条約に従って、ロシアは1902年10月の第一次撤兵は行ったものの、その後満州撤兵に伴う清との補償交渉が難航した他、ロシア宮廷内の外交方針の対立もあって、1903年4月の第二次撤兵の履行を見送ってしまう。
これを日本側は、「ロシアの南進政策」「韓国進出の基盤強化」と見なし、「対露開戦やむなし」の声が強まり、軍部は作戦と動員の準備が本格化させていった。軍部では、「ロシアがシベリア鉄道や満州のインフラ整備を進めた場合、日露が開戦した際、日本軍は戦力的に勝てなくなる」との見解が大勢を占め、早期開戦論が高まった。

こうした中、日本では内治派の筆頭である伊藤博文が、徐々に支持・統制力を弱め、枢密院議長に追いやられ、政友会総裁も辞任させられてしまう。外征派が主導権を取り、03年8月に日露交渉が再開するも、その要求は、@日本の韓国権益の独占、A朝鮮鉄道の満州南部への延線、B満州におけるロシア利権の限定、といったもので、従来の交渉内容から大きく逸脱した、恐ろしく強硬なものだった。もともと交渉を決めた6月23日の会議では、「ロシアと交渉して日本の朝鮮支配を認めさせる。認めなければ、戦争して認めさせる」という大方針を確認したはずだったが、日英同盟を背景に政府内では強硬意見が幅を利かせていった。

なお、時期が前後するが、同03年6月に日本を訪れたクロポトキン陸相の訪日メモには、「この時期の極東における私たちの活動の基礎におく必要があるのは、日本との平和維持である。それは韓国問題よりも重要である」とある。クロポトキンは、近代化を進める日本を目の当たりにして、「いずれ清の利権をめぐって列強と衝突する日が来る」と喝破していたが、自国がその当時者になることは避けなければならないと考えていた。ただ、彼の方法論は「韓国の中立化」にあり、当時の日本政府が飲めるものではなかった。

また、ロシア皇帝ニコライ2世は、個人的にはヨーロッパや中東方面の外交が行き詰まる中で、東方への進出には常に積極的なスタンスをとっていたが、政策全体の中での優先度は低かったようで、積極的な関与は見受けられない。この時期の彼の関心はむしろプライベートに偏っていた。
一般的には「ツァーリ」とか「スターリン」と聞くと、「万能の独裁者」と見る傾向が強いが、その認識は事実と大きく異なる。たとえスターリンといえど、常に自我を押し通せたワケでは無いことは、いくらでも例証を挙げることが可能だからだ。皇帝や共産党書記長の権限を過大評価しないことは、ロシア・ソ連学徒にとって重要な戒めの一つである。

9月にはロシア駐日海軍武官から、「日本が朝鮮出兵を準備中」との報告が入り、8月の強硬な要求とともに、ロシア政府内は「ヤポンスキーはマジでやる気だ!」と大騒ぎになった。だが、そこはロシア人で、「弱気を見せると相手はつけあがる」との認識から、10月には強硬な回答を示してしまう。@満州は日露交渉の範囲外、A韓国には日本の政治的指導権だけ認める、B韓国の北3分の1は中立地帯とする、というもので、日本の強硬姿勢がロシアの強硬態度を誘発してしまった格好だった。
他方、日本では、ロシアが沿海地方と黒龍地方に38個大隊(3〜4万人)の増強をしたとの情報が入り、「ロシアは対日戦争を準備中」との認識が広がっていった。もともと同地方には、8〜10万人の兵力が駐留していたが、日英同盟を受けて対日緊張が増した以上、ロシア側としては「当然の対応」だったものの、日本人はそうはとらなかった。
1903年9月にクロポトキン陸軍大臣が上程した資料を見ると、日本は戦時に最大100万人の兵力が動員可能で、比較的短期間に30〜35万人を韓国・満州に派遣できると考えていた。当時の日本は13個師団で、平時の兵力は15万人ほどだったが、予備役を動員することで50万人まで召集することは計算済みだった。実際の戦争では、高齢の後備兵まで動員され、奉天会戦には25万人が参加、最終的な動員数は100万人以上に達したことを考えれば、ロシア軍部の予測はあながち外していなかったことが分かる。そして、ロシア側の動員可能な兵力が200万人強で、最大の敵であるドイツ・オーストリアが同数近い兵力を有している以上、国内の不穏も抱えた状態で、極東に大規模な増員を行うことは全く現実的ではなく、まして戦争など「あり得ない」選択肢だった。
最新の研究では、これまで「主戦派の首魁」と見なされてきたベゾブラーゾフですら、「極東の兵力均衡を図ることで戦争を回避すべきだ」と主張していたことが分かっている。03年8月に交わされたクロポトキン・ベゾブラーゾフ論争を見ても、「いかに日本の侵略から沿海地方と満州利権を守るか」という視点で方法論の違いから意見が対立しているだけで、その上どちらも悲観的観測を争っているような状態で、韓国への進出など論外だったことが分かる。
(この辺の感覚は、VG社「Pax Britanica」をプレイしたことがあれば、かなり理解できると思う。)

話を日露交渉に戻す。日本の強硬な要求を受けて、ロシア側は対清交渉を急ぎ、9月には清側に要求していた満州撤兵7カ条条件を取り下げつつ、撤兵期限の延期を求めるが、清に拒否され、交渉が頓挫してしまう。
他方、日本政府は10月末に条件を軟化させた第二次提案(修正案)を行う。日本は、満州南部に対する利権要求を取り下げ、自国の韓国への関与を軍事と民政部門に限定、満韓国境に両側50kmにわたる中立地帯を設定するというもので、ロシア側の要求を相当程度認めるものだった。日本の外征派も、必ずしも戦争を望んでいたわけではなかったことが分かる。
だが、この頃には日本国内の世論はすでに開戦に向けてヒートアップしつつあった。10月下旬の『東京朝日新聞』の社説を見ると、「百選、百勝の成算、我国にあること疑ひなし」
(10/23)、「無期的に此痛苦を忍ぶは、有期的に戦争の痛苦を忍ぶに如かず」(10/24)、「帝国自身に和乎戦乎を決するの時機既に熟したり」(10/28)とばかりに、早期開戦を連呼している。
こうした状況下にあって、露清交渉のもつれから、駐満ロシア軍が奉天を再占領するという事件が起き、日本側の不信感をさらに煽ってしまった。逆に韓国では、11月に入って、ロシアの外交官や軍人が日本人居留民に襲撃される事件が相次ぎ、露日間の国民感情は悪化の一途を辿った。
(以下、続く
posted by ケン at 12:00| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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