2016年11月26日

恐父の大魔王と鬼いちゃん

秩父宮の回顧によると、子どもの頃、毎年3度祖父である明治帝の下に伺候したが、恐怖のあまり全身が硬直し、下を向いて立っているのがやっとだったという。しかも、明治帝はウムとかデアルカとしか言わないため、結局祖父がどんな顔でどんな風に話すのか知らずに終わった。それが、東宮御所に帰ると、父である嘉仁親王はひっきりなしにしゃべりまくり、食事が終わると母の節子妃がピアノを弾いて、侍従や女官もまざって一緒に合唱するという有様で、同じ家の出来事とは思えなかったらしい。

わが家も似たところがあり、ただし祖父がめっぽう優しく温厚な人で、対して父が恐怖の大魔王状態にあった。私は家の中では、いつも「いかに父と顔を合わせないようにするか」ばかり考え、父に呼ばれると全身硬直させて前に出たものだった。父が早世して私が思ったのは、「これで自由になった」だった。中学生の時の話である。
ただ、今から思えば、自らの寿命を悟った父が私の将来を案じ、ことさら厳しくしたという側面はあったかもしれない。『四月は君の嘘』の有馬家に通じるものがあった。

優しかった祖父も、その父(曾祖父)は厳格で気難しく、暴力を振るったり、無用に厳しいことを言うわけではないが、恐くていつも逃げて回っていたという。
貴族の家というのは、そういう傾向があるのかもしれないが、おかげで私は「父親業とか死んでもムリ」と思ったまま今日に至っている。

「戦国三大悪謀家」(斎藤道三、松永久秀、宇喜多直家だが、毛利元就が加わることもある)の一人として知られる宇喜多直家の弟忠家は、生涯兄に付き従い、時に領内整備を指揮し、時に総大将を務めた。直家の死後も長命したが、後年「兄はそれは恐ろしい人で、必要とあらば親だろうが子だろうが殺すことに何の躊躇も覚えませんでした。私などは、兄に召されるとそのつど死を覚悟し、上下の下に鎖帷子を着込んで御前に出たもので、生きた心地がしませんでした」旨を述懐している。出家号を「安心」としたことも、色々なことを想像させる。

「家族の絆」とかマジで軽々しく言わないで欲しい。
posted by ケン at 12:00| Comment(2) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
自民党改憲案の家族条項はN本会議から要求がきているようですが、N本会議の前身の学生団体は親の言うことをよく聞く子供たちの団体だったようで(親に反発するような子供はそもそもそのような団体に入らない)、家族に関する葛藤がなかったのでしょう。ただ、それをすべての人間がそうだと考えるのはあまりにも視野が狭いと思います。(視野が狭くなければ、あんな改憲案は出さないでしょうが)
私がものすごく疑問なのは、日頃は「憲法9条で戦争放棄を定めれば、戦争がなくなるなんて考えるのはナンセンス!」と言っている人たちが家族条項をもうければ、家族の関係がうまくいくと考えていることで、どちらも憲法を魔法の呪文か何かと勘違いしているという点ではどっこいどっこいだと思いますが。
自民党を見ていると荒れた学生の扱いにてこずって「校則をガチガチに厳しくして、力で抑えよう」と考える若い体育系教師、民進党を見ていると学生時代に頭の中で考えていた理想がいざ、教壇に立ってみるとうまくいかなくて頭が真っ白になり、学生の言うことに一切耳を傾けなくなって、上司の言いなりになってしまった大卒直後の教師を連想します。結局、政治の世界から老練さが消えてしまってるので原因で、国対政治・守旧派などのレッテルで老練な政治家を排除し続けた、ポピュリズムの成れの果てでしょうか?
Posted by hanamaru at 2016年11月26日 12:51
現実の政治エリートが、大衆の不満を抑えられなくなり、それが極右や極左に向かうわけですが、日本では左翼自体がNK党のようなある種の既得権益代表になってしまっていて受け皿になり得ないため、自然と極右に流れ、自民党はそれを上手く利用しているのが現在、ってことでしょうか。

外国人労働者がいて、「出て行け」というのが極右、「安く使え」が保守、「人権守れ」がリベラル、「日本人と同一賃金にしろ」が左翼であるはずですが、日本には本当の左翼がいないため、「人権守れ」というリベラルが宙に浮いたまま空転しているように見えます。
Posted by ケン at 2016年11月28日 13:28
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