2016年12月27日

米国の大学の授業で使われる文献

米国の大学の授業でよく使われている文献トップ100」なる面白いサイトを紹介してもらったので、ここでも紹介したい。
「Open Syllabus Explorer から、米国の大学に限って、授業で教科書としてよく使われている文献を1位から100位までリストにしたものである」との説明。ここでは1位から10位まで引用したい。

1. ストランク『英語文章ルールブック』
2. プラトン『国家』
3. キャンベル『生物学』
4. マルクス『共産党宣言』
5. アリストテレスの倫理(学集)
6. マキアヴェリ『君主論』
7. ホッブス『リヴァイアサン』
8. ソポクレス『オイディプス王』
9. シェリー『フランケンシュタイン』
10. トゥラビアン『シカゴ・スタイル 研究論文執筆マニュアル』


英文実践を除けば想像以上に古典、それも古代ギリシア系が多いことに驚かされる。やはり欧米の学生にとっての基礎文献、基礎知識はそこなのだろう。同時に、意外と文学の講読が多いようで、日本の大学とは異なるようだ。全体の印象としては、英米系に偏り過ぎなのが気になるところではあるが、「基礎を徹底的に」というスタンスには非常に好感が持てる。あと、歴史関係が恐ろしく少ない点も、「アメリカだなぁ」と思わせる。
米国の大学で教えたこともある妹にも感想を聞いてみたいところだ。

アジアの某国ではカリキュラムの何分の1かが英語の勉強で、でもシェークスピアなんて無駄だから簿記をやるとかいう大学が一般的らしいから、えらい違いである。
だが、いま学校で学ばれている実学など20年以内に相当数がAI化されると思われるだけに、AIでは代用できない基礎体力、即ち思考回路の深層性や重層性を強化してこそ高等教育の存在価値も残るはずだが、日本の文部官僚や大学人にその認識は無さそうだ。そもそも文科省が高等教育に介入している時点で「終わっている」のだが。
つまり、日本の教育にはいかなる未来も無いと予測される。

ちなみにケン先生の場合、上記10点のうち『共産党宣言』と『君主論』は高校時代に読んでいる。プラトンは岩波文庫を手に取ってみたが、読みづらくて諦めた。
さらに高校のフランス語では、バルザック、プルースト、カミュ、サルトルなどを原語で読まされたが(もちろん一部抜粋)、プルーストは「死ねばいいのに!」というくらい最悪に退屈だったし、サルトルの仏語は訳が分からなかった記憶がある。読みやすかったのはカミュで、そのおかげで大学に入った後も(日本語で)評論集を読みあさった。どうせならデュラスとかアルトーを原語で読みたかったが、「読みたきゃ自分で読め」と言われるのがオチだろう(笑)
高校の外国語で原書講読は相当にハードルが高く、しかもいかなる実用性も無いのだが、実は「基礎体力・知力を身につける」点では意外とバカにできないのではないか、と最近は感じている。

自分は大学(学部)では、言語や必修の授業以外は超適当にやっていた、(当時としては)ごく一般的な学生だったが、周囲のものよりは本を読んでいたと思う。大学というのは、読書を習慣化する最後の機会であり、これを逃すと殆どの場合、読書するのが苦痛になってゆくようだ。私の母などは70を過ぎても凄まじい読書量だが、そこまで行かなくとも初老を過ぎた私が仕事を抱えながらも最低限の読書を続けていられるのは、高校と大学で読書を習慣化できたことが大きい。

末尾に学部時代に自分が読んだ本の一端を紹介しておきたい。今から思えば、異端過ぎて恥ずかしい独自路線ではあるが、しかもロシア語科だったのにフランス文学ばかり、何と言うか「中二病」ならぬ「大三病」って感じ(爆)

ジョルジュ・バタイユ『ジル・ド・レ論』『眼球譚』『無神学大全』
アルベール・カミュ『反抗的人間』『異邦人』
マルキ・ド・サド『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』
アルトナン・アルトー『ヘリオガバルス あるいは戴冠せるアナーキスト』
マルグリット・デュラス『破壊しに、と彼女は言う』『モデラート・カンタービレ』
カール・シュミット『政治的ロマン主義』『パルチザンの理論』
ホセ・オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』『反文明的考察』
レフ・トロツキー『永続革命論』『ロシア革命史』『わが生涯』
コリン・ウィルソン『現代殺人百科』『右脳の冒険―内宇宙への道』『宗教とアウトサイダー』
澁澤龍彦『神聖受胎』『人形愛序説』『異端の肖像』
posted by ケン at 12:24| Comment(3) | 学問、文学、教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント

プラグマティズム主流のアメリカの大学で、第4位にマルクスの『共産党宣言』が入っているのには私も驚きます。しかし、私が以前読んだ『サムエルソン経済学』(都留重人訳 原書第13版)の14ページの討議のための例題にマルクスの墓石のことが書いてありましたが、そこに出ている文章はマルクスのフォイエルバッハに関するテーゼの11「哲学者たちは世界を解釈したにすぎない。大切なことはしかしそれを変えることである。」でした。
アメリカの大学ではここまでゼミでやっているのかな、と思ったことがあります。
私の年齢はケンさんのお母様と同じくらいです。私も学生時代に買ったの本を引っ張り出して読んでいます。しかし、残念ですが、いくら読んでも世界を変えることはできません。
Posted by 九州人 at 2016年12月27日 15:46
 「アメリカの大学の政治学科は古典教育をみっちりやった後、科学的な政治学の授業をおこなうが、日本では古典教育を捨象して、いきなり科学的政治学の授業を始めるので、ロクな人材が育たない」という話を聞いたことがあります。ただ、現在の日本の大学は、というより、昔から日本の大学は「古典学習は学生が自主的におこなうもの」という考え方が強く、体系的な古典学習は怠っているのですね。そのうえ、授業も教師が自分がそのとき研究していることをしゃべるだけで、何の学習にもなりませんでした。実学を教えるようになっただけ、「進歩」だと私は思います。
 私はドイツ文学にはまっていたので、ドイツの著名な作家の小説および評論をかたっぱしから読みました。トーマス・マンはわかりやすい解説が中公新書で出ていたので、それを読んだ後でトーマス・マンの戦間期から第二次世界大戦直後のドイツの民族性に関する考察とか読んでもすんなり理解できました。カール・シュミットは読んだはずですが、記憶にありません。丸山真男の著作には感銘を受けた記憶があります。ただ、体系的な古典の知識は自分が教える立場になって、学生に教えるために勉強して初めて身に付きました。かたっぱしから闇雲に読んでいくのもいいですが、やはりある程度、体系的な古典教育が必要であると学生のころから感じています。
 語学に関しては、ICU出身の我々の大先輩の某氏が「大学時代、語学の授業は退屈で苦痛にすら感じたが、社会に出た時にこのときの語学教育ほど役に立ったものはない」とおっしゃっていました。
Posted by hanamaru at 2016年12月28日 11:56
九州人さん、
共産党宣言が4位に入っていることは、レッドパージにもめげないアカデミズムの骨太が感じられますね。日本の大学ではマルクス経済学者が完全に排除されましたが、再び需要が生じている現代に対応できなくなっています。異端を許さない不寛容な社会はますます衰退してゆくものと見られます。
それはさておき、我々は独裁者ではないので、個人の力で世界や社会を変えることなど不可能であることは自明のことと考えます。独裁者と呼ばれるヒトラーやスターリンにしても、少なくとも当初自分が願っていたものを実現できたとは思えないのですから、やはり限界があるのです。伯父は三国同盟や日米開戦に反対したにもかかわらず、全て無視されて悲惨な結末を迎えましたが、伯父のやったことが無駄だったとは思えません。
私は運命論者ではなく、確率論で考えるタチなので、「自分ができることをやる」「成功率が低ければ、高める努力をするか、勝負を降りる」と割り切って考えています。

hanamaruさん、
東大出の曾祖父、早稲田出の祖父を見た限り、戦前の大学はギリシアかどうかは別にしてきちんと古典を抑えていたように思えます。東大出の母を見ても、今よりはずっと古典を読んでいます。そう考えると、60年代から70年代にかけて大学が大衆化してゆく過程で、古典教育も疎かになっていったように思うのです。体系的に古典を学ぶと要点を抑えて、知識の基礎として根付くので、独学でやるのとは効果が異なるのでしょうね。いずれにせよ、AI化が進むことが明白な現代にあって、高等教育の在り方は大きく見直されるべきと思いますが、どうも悪い方向にしか向かっていないように見えます。
Posted by ケン at 2016年12月28日 13:57
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