2017年03月24日

江戸武士の収入を考える

母上から「わが先祖の収入は今の価値にすると、どの程度だったのか?」との下問がなされ、奉答したので、補足しつつ、ここに記しておきたい。「西南戦争の原因を考える」の補足でもある。

幕府御家人だったわが家の正確な石高は分からないが、どうやら百石超の御家人だったらしく、仮に120石とする。幕府の御家人は基本的に「出世」はしないものの(固定役職)、勤務実績に応じて200石程度までは加増された模様。これはあくまでも生産高なので、これに税金「四公六民」が加算され、年貢収入は80石となる。一石は米150kgなので計1万2千kgとなる。もっとも、これは「大名家の模範」たらんとした幕府のみの例外で、他の諸藩では「五公五民」や「六公四民」が一般的だった。
無役だとこれが全収入になるが、わが家は四谷見附の与力役を拝領しており、その役料は150俵と仮定する。一俵は米60kgなので、計9千kg。家禄と合わせると、21トン、4トントラック5台分という量になる。
現代では米10kgで5千円程度だが、これは暴落気味。とはいえ江戸期も時代を経るにつれて米価が低下しているので、一概には言えないが、仮に1万円で計算すると、2100万円となる。自分が考えていたよりも、はるかに裕福だったように思える。
現実には「搗減り」(米を搗くなどの食用処理した際に生じる目減り)などの要素を加味する必要がある様だが、ここでは省略する。

だが、現実には100石超級の家には「槍持1人、中間1人」の常備軍役が課されており、その人件費を含めての家禄である上、下女・下働きの給与も必要だった。また、役料は経費の意味もあり、これで10人以上の家族と家来を養い、職務上の経費も賄う必要があった。そう考えると、当時の人件費は非常に安かったことを考えても、「裕福」とまでは言えない気もする。
ちなみに、江戸後期の中間の給料(年給)は3〜5両、下女の給料は2〜4両。計算し直すが、家禄と役料を合わせた実収入は140石で、このうち60石程度が日常生活で消費され、残りを売却して現金化する。1石1両で換算すると、80両が与力家の「手取り」となり、ここから給金が支払われる。給金の合計を20両とすると、段々苦しくなってくる。

ただ、伝え聞くところでは、地代収入や運上金などもあったようだ。これは家禄とは別に家で所有する土地や権利などから得られる現金収入で、これがそれなりの金額になったようだ。わが家の場合、内藤町あたりに家を構え、中野に相応の土地を有して小作等に貸していたと見られる。
さらに江戸期には「付け届け」が「文化」として横行しており、役職によっては馬鹿にならない額になった。町奉行所などの場合、家禄+役料以上の収入にもなったと言われる。わが家の場合、見附与力という、現代で言うところの「税関課長」に相当するものであるため、やはり相当な額の付け届けがあったと考えられる。
完全に推測でしかないが、上記の「手取り」分と同等額=80両の「その他収入」があると考えると、家人への給金を支払った上で140両が手元に残ることになる。1両は、現代の価値に直すと10〜15万円に相当するので、私が最初に抱いた「裕福」水準に戻ってくる。

なお、幕臣の場合、旗本は婚姻に幕閣の許可が必要だったが、御家人はさほどうるさくなかったようで、わが家の場合、江戸期最後の当主は本郷の米問屋の娘を、前当主は福生の町医者の娘をもらっている。戦略的に町人との通婚を進めることで、殖財と人的ネットワークの構築に努めていたものと見られる。故に、私も人から結婚相談を受けたときは、「フローよりもストックを重視しろ、貧乏人とは絶対に結婚するな」とアドバイスしてきた。
その甲斐があってか、わが家は、御一新でも落剥することなく、敗戦をも乗り越え、私の学費まで余裕があった。
江戸期最後の当主(高祖父)は、どうやら新設の東京市にも出仕していたようだが、息子(曾祖父)を新設の早稲田大学(東京専門学校)に入れ、日本銀行に就職させている。こうした柔軟な思考と適応能力も、わが一族の「家風」なのかもしれない。

以下は補足になる。わが一族が裕福だったのは、幕臣である上に「おいしい役職」にあったためで、同じ家格の武士がみなこうだったとはとても言えない。
一般的には、江戸中期以降、幕府を始め、どの藩も財政危機に陥り、大半の藩で「家禄の借り上げ」が行われた。これは実質的な「賃金切り下げ」で、家禄の3分の1から半分が藩政府に召し上げられた。
例えば、同じ120石の与力家で考えた場合、実支給額60石、「五公五民」で手取り30石になってしまい、役料がない限り、中間や下女はおろか家族を食わせることにも苦労する状態にあったことを示している。

また、時代小説に良く出てくる「30俵二人扶持」の場合、30俵+日1.5kgの米で約2350kg、年235万円となり、現代のアルバイト並みの給与だったことが分かる。
posted by ケン at 12:25| Comment(3) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
某ドラマで貧乏旗本の三男坊という設定がありますが
幕臣上級武士である旗本が平時に生活に困窮する事などあったのでしょうか
Posted by at 2017年03月24日 18:41
コメントありがとうございます。ただHNくらいは入力してもらえると助かります。

お問い合わせの件ですが、幕末の戯作者で知られる柳亭種彦先生のケースを見てみましょう。無役の小普請組で200俵の旗本。無役なので逆に「小普請金」の上納が求められ、約3俵分差し引かれます。禄米なので197俵がそのまま支給されますが、仮に切り詰めて97俵を日常生活分に回すとしても、残るは100俵で換金すると40両、そこから使用人の給金などを20両支払うと、手元に残るのは20両に過ぎません。武家社会というのは、平素の付きあいや贈答が頻繁なので、旗本家の体面を保とうとすれば、すぐに借金まみれになってしまうのです。故に「就職活動」に精を出すことになりますが、これも「金次第」なので、結局借金がかさむことになります。
大塩平八郎は大坂町奉行与力で我が家より豊かな200石取りでしたが、賄賂や贈答を一切拒否していた上、門人も抱えていたので、毎年10両以上の赤字を出していたようです。大乱に際しては、塾の蔵書を全て売り払って軍資金にしています。

柳亭先生はラノベが売れまくったので結構贅沢していたようですが、それが徒になり、上司に密告されて「旗本にあるまじき所行」と譴責を受け、憤死されました。
Posted by ケン at 2017年03月25日 02:12
補足しておくと、旗本は将軍への御目見得権があるのに対し、御家人は無いことが一応の目安になります。まぁ例外もあるようで、微妙なんですけど。
Posted by ケン at 2017年03月27日 12:05
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