2017年04月25日

山崎雅弘 「天皇機関説」事件

1106759252_main_l.jpg
『「天皇機関説」事件』 山崎雅弘 集英社新書(2017)
【目次】
第一章 政治的攻撃の標的となった美濃部達吉
1 貴族院の菊池武夫が口火を切った美濃部攻撃
2 美濃部攻撃の陰の仕掛け人・蓑田胸喜
3 美濃部達吉が述べた「一身上の弁明」
4 当代随一の憲法学者・美濃部達吉
5 国会の内外でエスカレートする「美濃部叩き」

第二章 「天皇機関説」とは何か
1 天皇機関説と天皇主権説(天皇神権説)
2 上杉慎吉と美濃部達吉の「機関説」論争
3 文部省も加わった天皇機関説の排撃運動
4 美濃部擁護の論陣を張った「帝国大学新聞」
5 昭和天皇も認めていた天皇機関説の解釈

第三章 美濃部を憎んだ軍人と右派の政治活動家
1 「陸軍パンフレット」に対する美濃部の批判
2 軍人勢力各派は「機関説問題」にどう反応したか
3 右翼団体による「機関説排撃運動」のエスカレート
4 騒動を岡田内閣打倒に利用しようとした立憲政友会
5 美濃部が『憲法撮要』に記した「統帥権」の意義

第四章 「国体明徴運動」と日本礼賛思想の隆盛
1 次第に追い詰められた岡田啓介首相
2 急激に力を持ち始めた「国体」というマジックワード
3 岡田首相の第一次国体明徴声明の発表
4 さらに激しさを増した美濃部と機関説への糾弾
5 消えかけた火を大きくした美濃部の「第二の弁明」

第五章 「天皇機関説」の排撃で失われたもの
1 窮地に立った岡田内閣と第二次国体明徴声明
2 天皇機関説事件から二・二六事件へと通じた道
3 美濃部の学説と共に排斥された、自由主義と個人主義
4 際限なく称揚される「天皇」「国体」という錦の御旗
5 実質的に機能を停止した日本の「立憲主義」

『戦前回帰』『日本会議 戦前回帰への情念』で軍事史以外の分野でも論壇デビューされた山崎雅弘氏の新著。
1935年春に起きた天皇機関説事件を概観した新書だが、本件を中心に据えた書は1970年の宮澤俊義『天皇機関説事件―史料は語る』以外に殆どなく、約50年を経て新たに光を当てている。

天皇機関説事件は、戦前期に「軍部独裁」が確立してゆく過程に生起し、明治憲法の立憲制や権力分立を否定し、形式上は天皇に権力を集約させつつ、実権は軍部を中心とするエリート官僚が掌握する結果となった。つまり、明治体制なりの分権体制から昭和の権力集中体制に移行する理論的転回の転機となった事件と言える。
1935年2月、貴族院で菊池武夫議員が美濃部達吉議員(東京帝大名誉教授)の天皇機関説を攻撃したことに始まり、「国体を否定するもの」「国賊」「学匪」などといった非難、攻撃が激化、美濃部家には続々と脅迫が届き、本人や家の周囲に不審者がつきまとうようになった。甚だしきは、文部省から「右翼テロに注意するよう」旨の警告に続いて「転向」を求める文書までが来たと言われる。
ところが、実際には美濃部説は当時の学界、官界における通説で、官僚採用のための高等試験も全てこれに基づいていた。しかも、当の貴族院では美濃部が自説を説明したところ、大きな拍手が起きて理解を得たはずだった。にもかかわらず、美濃部は不敬罪で告発され、マスゴミの攻撃にさらされ続け、ついには貴族院議員を辞任、その後右翼テロリストに銃撃されて重傷を負った。その間、政府は「国体明徴声明」を出して美濃部説を否定している。恐ろしいことに、美濃部を負傷させた銃撃犯はついに逮捕されず、同じく銃撃し命中しなかった犯人は懲役3年で済んでいる。
(中略)
昭和のテロリズムは、個々の政治家や財界人や学者を死傷させたことではなく、明治憲法に明文化されていない多元支配の構造(明治末年から大正期にかけて理論化された)を否定し、天皇による一元支配と擬装された軍部支配を実現した点に真の効果がある。同じ意味で、大正期の国際協調主義を否定し、軍国主義を促進させた点も大きい。テロルの副次的効果として、マスコミが便乗して大衆を扇動、リベラル派の知識人が沈黙し、官僚が自らこぞって国家主義・軍国主義に転向していった。また、(左翼)テロに対する警戒を理由に治安維持法などが制定されて恐怖支配が正当化された。
テロルの効用について(2014.10.2)

本件は満州事変や226事件のようなドラマティックな展開があるわけではなく、弾劾された美濃部博士もテロルに遭ったとはいえ、殺害は免れた上、当局に逮捕・収監されたわけでもないため、「悲劇のヒーロー」に祭り上げられることもなく、非常に地味な出来事にされている。だが、ソ連史で言えば、トロツキー追放やブハーリン裁判に匹敵する転機の一つであり、これを無視して戦前史は語れない。

今日的には、パックス・アメリカーナによる国際秩序が瓦解しつつある中にあって、日本の国力も低迷する一方、中国の影響力が急速に拡大、冷戦期の対立構造から脱却できない日本は、非常に大きな緊張下におかれている。国内でも貧困が蔓延し、経済格差が拡大して、社会不安が広がっている。結果、分権的なデモクラシーに対する否定的見解が広まり、自民党と霞ヶ関に権力を集中して「危機」を乗り越えようとする考え方が支持を集めつつある。つまり、戦前期とよく似た政治、国際環境の中で、似たような社会風潮が醸成されつつある。天皇機関説事件を俯瞰する意義はそこにある。

本書は、事件の時系列を正確に追いながら、様々な勢力の様々な思惑が交錯する複雑な背景にも焦点をあて、複合的に解説、事件の前後で何が変わったのか明快に説明している。
宮澤『天皇機関説事件』は、いかんせん当事者の一人(美濃部の弟子にして反逆者)である宮澤が著者であるため信頼性に欠ける上、法律家であるため資料の羅列と訓詁学的解説に終わっている。宮澤の問題は後でまた触れるが、上下二巻を読むのも一苦労な代物なので、山崎氏の新書は大きな意義がある。

ただ、新著という制約もあって、惜しい点もある。天皇機関説事件の意味するところ、経緯、人間関係、勢力図などは端的に説明されているが、「なぜ事件が起きたのか」「なぜ権力の集中が求められたのか」などの背景説明が十分とは言えず、ある程度の前提知識が無いと大局的には理解できないかもしれない。

私なりに補足しておくと、日本は第一次世界大戦で生産力を大きく拡大させたものの、同大戦の終了により需要が急低下して、大正デフレ(慢性不況)が生じる。1920年代は、国際協調路線により、英米圏の市場を利用することで破断界を免れたものの、それも1929年の大恐慌の勃発により頓挫する。国内に目を向けてみると、デフレと緊縮財政と大正軍縮によって、不景気が長期化し、軍人(退役者を含む)を中心として国民の不満が高まっていた。
世界恐慌を受けて英米が自由貿易から保護貿易・ブロック経済に転じる中、日本政府は為すすべを持たず、軍部の暴走が始まる。軍部は世界恐慌から国際緊張が高まると判断し、再度の大戦勃発を念頭に必要な軍事力を担保しつつ、独自の経済圏を確立する方策を模索する。

海軍は、「米英との手切れ」を想定して軍拡が不可欠と考える艦隊派と、「国際協調はまだ可能」と考える条約派に二分していたが、1930年のロンドン会議の時点では条約派がやや優位にあり、民政党浜口内閣と連携して軍縮条約を締結させた。これにより軍拡競争は避けられたものの、艦隊派には強い不満が残り、「統帥権干犯」問題の発端となった。
次いで、陸軍は満州事変(1931.9)を起こす。陸軍としては、米英との連携が難しい以上、単独でソ連の脅威から身を守る総力戦体制を築く必要があり、その経済的基盤として中国を支配下に置いて日本独自のブロック経済を構築しなければならないと考えた。だが、満州事変では、陸軍中央や内閣からの掣肘が入り、必ずしも関東軍(大陸進出派)側の満足する結果にはならなかった。

この二つは密接に関係していて、ロンドン軍縮条約が今で言う政治主導で締結されたのは、憲法の美濃部説(天皇機関説)に基づく権力分立論に依っていた。美濃部説は、軍の編成権は内閣にあるが、統帥権は軍部にあるというものだった。軍縮条約締結を受けて、大陸進出派は「統帥権の範囲ならオレ達で勝手にやっていいんだな」と考え計画したのが満州事変だった。
いざ満州事変を起こしてみると、美濃部の権力分立論が立ちはだかり、陸軍の思うようにはならない。海軍は海軍で、ロンドン軍縮条約の更改が1935年に行われるので、そこに焦点を合わせて艦隊派が挽回を図る。陸海軍は、ともに「次の大戦」を想定して編成権と統帥権の独占的行使が必要と考え、その攻撃の矛先を美濃部へと向けていった。

こうした軍部の思惑を利用したのが政友会だった。満州事変の対応に失敗し、軍部への統制力を発揮できなかった民政党若槻内閣が瓦解すると、政友会の犬養内閣が成立し、満州事変と軍部への協力姿勢を示した。ところが、軍部の若手が暴発して5・15事件を起こし、犬養を殺害してしまう。「政党政治家では軍を抑えられない」との重臣らの判断から、海軍出身の斎藤実、岡田啓介に組閣を命じるが、二人は民政党に近かった。これは「軍に近すぎる政友会は危険」との重臣らの認識に基づいていた。ところが、1932年2月の総選挙では、親軍派の政友会が圧勝、定数466のうち303議席を獲得していた。

議席の3分の2以上を有していたにもかかわらず、政権を担えない政友会は大きなフラストレーションを抱えていた。その任期は1936年2月までであり、政友会としてはゲーム的判断から、「解散させず、絶対多数を保ったまま政権を取る」ことを至上命題とし、具体的には民政党寄りの岡田内閣を徹底攻撃する戦術に出る。そこに降ってわいてきたのが「天皇機関説事件」だった。
事件は政党に関係ない貴族院で勃発するが、政友会は即座に美濃部批判を開始、在郷軍人会と連携して「国体明徴運動」を展開していった。最終的には、岡田内閣を倒すには至らなかったものの、これを屈服させて天皇機関説を撤回させることに成功した。
にもかかわらず、36年2月20日の総選挙では政友会は大敗し、民政党が議席の過半数を獲得してしまう。その6日後に起きたのが2・26事件で、軍部反乱の責任をとって岡田内閣は総辞職し、親軍派の外務官僚である広田弘毅が組閣、1年後の37年2月に総辞職するも、その半年後の37年7月に日華事変が勃発、全面戦争・戦時体制へと突入していった。
何のことは無い、政友会は自分の手で議会政治と政党政治を葬り去ったのだ。

最後になるが、資料集としては価値が認められる『天皇機関説事件―史料は語る』を著した宮澤俊義は、一般的には「八月革命説」をもって現行憲法の正統性を理論づけた法律家として知られるが、もともとは美濃部の教え子で、後継者と目されていた。ところが、事件が起きると学説を曲げ、天皇主権論に転向、師匠の排撃にも一役買った挙げ句、「皇孫降臨の神勅以来、天照大御神の新孫この国に君臨し給ひ、長へにわが国土および人民を統治し給ふべきことの原理が確立」(岩波『憲法略説』1942)とまで述べた。
終戦後も当初は「憲法改正の必要なし」との見解を示していたが、ある日突然(46年4月)「八月革命説」を唱えて憲法改正の必要性と新憲法の正統性を訴えた。八月革命説については「日本国憲法は欽定憲法だった!」を参照のこと。
自らの師匠を追放し、その地位に収まった挙げ句、自説を二転三転させてなお「(現行)憲法の擁護者」のスタンスをとり続けたのが宮澤だった。ほとんどフーシェ並の厚顔無恥ぶりであるが、この手の機会主義者(クズの本懐)どもが作り上げたのが戦後民主主義であることを思えば、容易に瓦解しそうなのも頷けるであろう。

【追記】
事件に際しては、検察から「起訴する」と脅されてやむなく一切の公職から身を引いた美濃部だったが、その胆力というか頑固さは凄まじいものがある。長男・亮吉(経済学者、人民戦線で弾圧、戦後都知事)の回顧によると、戦時中は吉祥寺に住んでいたが、近くに中島飛行機の工場があったため(現ICU)、頻繁に爆撃を受け、そのたびに家鳴り震動して窓ガラスが割れたが、美濃部は頑として座敷から離れようとせず、決して防空壕には入らなかったという。

posted by ケン at 12:56| Comment(2) | 学問、文学、教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
山崎氏の本でも参考文献として挙げられていた、米山忠寛『昭和立憲制の再建』(千倉書房、2015年)では天皇機関説事件は次のように説明されています。
軍部や右翼は天皇機関説では、天皇は国家の最高機関と位置付けられているため、天皇以外の者を最高機関の地位に置けばよいという革命を正当化する理論に転化しないかと恐れた→しかし、美濃部は反対者が自分の学説を根本から批判し、天皇主権説を唱えていると誤解した。美濃部が天皇主権を前提としていることを強調すれば問題は早期に沈静化出来た(昭和天皇も軍部や右翼の言い分を誤解していた)→政府は美濃部を辞職させて、事態を沈静化させようとした→美濃部が教師が物わかりの悪い生徒に説教するかのような弁明を貴族院で発表したため、反対派を刺激し、事態を悪化させた→政党は政党内閣の失敗によって世論の風当たりが強く、美濃部を弁護してさらに風当たりが強くなることを避け、世論に便乗した。

米山氏の歴史観も独特なものですが、説得力がありました。そのため、山崎氏の本は少し陰謀史観に過ぎるような気がしました。
Posted by hanamaru at 2017年04月26日 11:49
やはり一つの事象や事件にのみ焦点を当てると、大局や経緯が見えにくくなり、どうしても陰謀論に引っ張られてしまいがちです。例えば、キーロフ暗殺だけ見ると、「スターリンの陰謀」としてしまいがちですし、9・11テロだけ見ると、「ビン・ラディンの陰謀」とか「米当局の自作自演」とかにされがちなのと同じです。自分のブログでも良く戒めているところです。

米山氏の史観はなかなか独特なようですね。私も読んでみます。ただ、軍部が総力戦を前提に権力の集中を目指していたことは間違いないと思います。
Posted by ケン at 2017年04月26日 13:02
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: