2017年06月20日

ロシア人の安保観を代弁する・中

前回の続き)
そして、一次大戦の延長上に、日本では「シベリア出兵」として知られる「極東介入戦争」がある。1917年の二月革命と十月革命によってロマノフ朝は瓦解し、ボリシェヴィキ政権が樹立する。ロシアの大戦からの脱落と東部戦線の崩壊を恐れた連合国は、ボリシェヴィキ政権を打倒すべく、軍事介入を決断する。日本は日本で、朝鮮と満州の利権を確立しつつ、シベリアに影響力を拡大、さらにロシアとの緩衝地帯を設けるべく、シベリアに傀儡政権を打ち立てることを視野に、宣戦布告無しでシベリアに侵攻した。日露戦争で排除しきれなかったロシアの軍事的脅威を完全に排除する目途もあった。
日本では学校でまともに教わることも無く、しかも「出兵」などとされているが、ロシア人的には全く言われ無き侵略であり、その死傷者は民間人を含めて50万人以上に上った。
ロシア人エリート的には、日本の国家イメージは「話し合いの通じない、いつ襲いかかってくるか分からない、鋭利な刃物を持った狂人」でしかない。これを理解せずに、日本固有のイメージで「ロシア人は凶暴で何を考えているか分からない」などと考えていると、日露関係に関わる時に大きな誤解が生じることになる。
また、極東以外でも内戦、介入戦争は1922年まで続き、連合国は白衛軍(反ボリシェヴィキ)を支援し続けた。このことは、現在でも民主化勢力を支援し続ける米欧列強に通じる。

極めつけは第二次世界大戦である。一次大戦後、ドイツはヴェルサイユ条約で過重な賠償金と軍備制限を課されたが、外交的に孤立していたソ連とラパロ条約を締結、蜜月時代に入る。両国はともに苦しい状況下にあって、ソ連は天然資源やドイツ軍用の実験場と訓練地を提供、ドイツは各種技術を提供した。この関係は、反共を掲げるナチズムの台頭によって途絶するものの、欧州情勢の緊迫化に伴い、独ソ不可侵条約となって復活する。ソ連はドイツとの資源貿易を再開するが、これはドイツを英仏と戦わせて双方を疲弊させるためでもあった。
ところが、バトルオブブリテン(英本土航空戦)で敗退すると、ヒトラーは「ソ連に背後を突かれる前にやってしまえ」との判断に傾き、バルバロッサ作戦(対ソ戦)を発令する。スターリンの下には、ドイツの対ソ開戦を示唆する様々な情報が集まるが、全て欺瞞情報として退け、逆に前線の軍事行動を制限して挑発行為を戒める有様だった。その結果、それだけが理由では無いものの、赤軍は緒戦で大敗北を喫し、レニングラードは包囲され、モスクワの郊外まで攻め立てられ、南はクリミア、コーカサス山地まで攻め込まれた。ソ連側の死者数は少なくとも2千万人以上に達した。

戦後、あるいはソ連崩壊後に資料が公開されて、「ソ連による先制攻撃計画があった」という話も流布されたが、どれも裏付けは弱く、せいぜいのところ「構想はあった」程度のものだった。つまり、ロシア人的には、今回も意味不明な理由で侵略を受け、数千万人が家を失い、国家滅亡の危機にさらされたとのイメージを強くした。
ソ連にとって二次大戦後の東側のブロック化は、「ナチズムに替わる反革命勢力による再侵攻」に備えるために必要不可欠の「緩衝地帯」「前進防御」だったが、それは一次大戦で一度は破綻したはずのドイツによって、ソ連が崩壊寸前にまで追い込まれた反省に基づいていた。

ところが、東欧諸国を陣営化して西側連合国との防衛線にするという構想は、「ベルリンの壁」崩壊によって瓦解する。
歴史に言う「ベルリンの壁崩壊」は1989年11月9日に起きるが、ドイツ社会主義統一党(SED)の独裁政権が同時に倒壊したわけではなかった。まず89年10月にホーネッカー書記長が辞任、改革派のモドロウ政権が樹立して、民主化と憲法改定を行い、一党独裁規定を削除した後、1990年3月18日に東ドイツ国内における最初で最後の自由選挙が行われた。ここでキリスト教民主同盟を中心とする保守系三派連合が多数を確保してデメジエール政権を樹立、西ドイツとの統一の方針が確認された。最終的には90年10月3日、東ドイツが西ドイツに吸収される形で統一が果たされた。

その際に最大の問題となったのは東ドイツに駐留する34万人(38万という数字もあり、さらに他に家族や軍属が20万人)からのソ連軍の扱いと統一後のドイツのNATO加盟問題だった。何と言ってもソ連の駐兵権は第二次世界大戦の戦勝によって得られた正当な権利であり、東独を吸収することはソ連の駐兵権を引き継ぐことをも意味していただけに、西ドイツにとっては重大な問題だった。
この件について、当時のコール西独首相とゲンシャー外相は、ブッシュ米大統領とベーカー国務長官と調整、「統一ドイツはNATOに帰属する、しかし東ドイツ領域はNATO管轄領域としない」ことで合意された。しかし、ドイツ国内には中立化論が根強く存在しており、他方でアメリカや近隣諸国は「ドイツ再軍備」を危惧して「NATOの拡大」を支持する向きが強かった。他方、ソ連ではドイツ統一そのものに反対するものが多かったようだ。現状を見る限り、現在ロシアが置かれている苦境の大半はドイツ統一を許したことに起因していることを考えれば、ロシア・エリートが欧州をどう見ているか想像できよう。

そして、90年2月9日、ベーカーはゴルバチョフと会見して、「統一ドイツがNATOから離脱するのと、統一ドイツはNATOに残るが、NATO現状から1インチたりとも東に入らないのと、どちら良いか?」と尋ねたところ、ゴルバチョフは「NATOの領域拡大は受け入れられない」と回答したという。
これを受けて、2月10日、コールはゴルバチョフに、「NATOは領域を東独まで拡大しない」と確約、ゲンシャーはシュワルナゼ・ソ連外相に「統一ドイツのNATO加盟は複雑な問題を生むが、一つだけ確実なことは、NATOは東に拡大しないということだ」と述べ、東独だけでなく東欧全体に適用されることを前提に「NATOの不拡大は、全般に適用される」と付け加えた。この「保証」を受けてゴルバチョフはドイツ統一とソ連軍の撤収に同意するが、この時に合意文書がつくられなかったことが後の禍根となる。
さらに同年10月、ソ連邦の維持すらも困難をきたし始めたゴルバチョフは、駐独ソ連軍の撤退保証金をドイツ政府に要求、コールは150億マルクの借款と引き替えに「NATOの東ドイツ部分への適用拡大」を要求し、ゴルバチョフはこれを呑んでしまい、これがさらに問題を複雑にしてしまった。

最終的に「ゴルバチョフ・コール合意」は幻となり、完全に反故にされた。1991年12月にソ連が崩壊すると、99年にはチェコ、ハンガリー、ポーランドがNATOに加盟、続いて2004年にはスロバキア、スロベニア、バルト三国、ブルガリア、ルーマニアが、09年にはクロアチア、アルバニアが加盟した。いまやロシアにとって西側との緩衝地帯はベラルーシ、ウクライナ、モルドヴァだけであり、NATO加盟国のエストニアとは直接国境を接している。あとは、セルビアなどの旧ユーゴ地域の一部が未加盟な程度だ。つい最近モンテネグロのNATO加盟が決まり、ロシア人の警戒心はますます強まっている。
(以下続く)
posted by ケン at 12:03| Comment(0) | ロシア、国際関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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