2017年07月05日

ハクソー・リッジ

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『ハクソー・リッジ』 メル・ギブソン監督 アメリカ(2016)

良心的兵役拒否者ながら太平洋戦線への従軍を志願し、公式記録で75人の負傷兵を保護したとして名誉勲章が授与されたデズモンド・T・ドスの入隊から沖縄戦までを描く。
とはいえ、映像化されているのは沖縄戦の、前田高地戦の2〜3日間だけで、「ハクソー・リッジ」とは米軍側の名称で「弓鋸崖」を意味する。そもそもこの邦題が適当だったのか大いに疑問だ。

以下、ネタバレ注意。



ネット上の評判は悪くなく、一部に熱い支持者がいるようだが、動員の方は芳しくないらしい。敢えて沖縄や対日戦であることを隠した宣伝が、映画の内容までも隠してしまって、二の足を踏ませているのかもしれない。何がテーマなのか分かりづらいとも言える。
そして、結論から先に言えば、戦闘シーンこそ部分的に充実しているものの、テーマ的に戦争映画なのか宗教映画なのか曖昧で、しかも最終的には形の異なる英雄譚になってしまっていて、「こんな立派な人がいたんです」程度の主張に終わっている

客観的に見ると、宗教的に尖りすぎた主人公が、愛国心と信仰と宗教的義務に突然目覚めて、軍隊内の軋轢を乗り越え、美女と恋を成就させ、文字通り剣林弾雨の戦場で八面六臂の活躍をして戦友を救いまくり、生還するという話で、しかも本人は自身の特異な精神と信仰に何の疑問も躊躇も無いため、ある種、異世界ヒーローもののような話になってしまっている。
おそらくは、現代日本人の大半は主人公に共感を覚えることは無いのではなかろうか。狂信的なまでの「信仰に基づく義務感」から軍の規範や習慣に反してでも従軍し、「国家に尽くす」という発想は、普通に想像の範疇を超えるからだ。

ところが、現実のアメリカ人がどう感じたかは分からないが、米国と米軍の成り立ちを考えた場合、本主人公の存在は必ずしも特異なものではない。少し長くなるが、説明しておこう。

アメリカ独立戦争は、もともと七年戦争とフレンチ=インディアン戦争に伴う財政危機を回避するために、英政府が植民地(のみ)に対する課税強化を行ったことに端を発する。様々な新規課税が植民地移民の合意なくして進められた上に、東インド会社の茶だけは非課税の独占販売ということになり、「ボストン茶党事件」(1773年)が起きる。これに対して英政府が弾圧に乗り出して懲罰的立法による自治権剥奪を行った結果、各植民地を守る民兵が暴発、イギリス正規(連合王国)軍との戦闘に入った。アメリカ独立のための「大陸軍」が結成されたのは、植民地ごとに分断された民兵の統率を一本化するためであり、現に独立が認められ戦争が終結すると、大陸軍は実質的に解散、その後も長いこと常備軍を置くことに慎重なスタンスが続いた。独立戦争に続く、米英戦争が1812年に起きたとき、米陸軍はわずか1万人足らずしか持たなかった。

アメリカ軍の目的は「独立を維持すること」にあり、「必要なときに必要な兵を志願募集、不要になったら解散して市民生活(信仰)に戻る」ことを原則とした。アメリカ合衆国は、本来的には平等な権限を有する州の連合体(合州国)であり、巨大な権限を有する中央政府や軍隊は「悪しき英国モデル」として忌避すべき存在だった。アメリカ市民にとって至高の価値は、イギリス国教会から独立した「崇高なる純粋な信仰生活」(ピューリタニズム)であり、個人の信仰と家族共同体を守るために軍に志願することは、神に忠誠を尽くし天に徳を積むものだった。結果、軍に集ったものは「信仰と家族を守る兄弟」と考えられた。つまり、「神に対する義務と神の下での平等によって信仰共同体を協同防衛する」というのがアメリカ軍の根幹理念だった。アメリカが、無神論のソ連や中国、あるいはイスラム諸国に過剰な敵愾心を示すのは、「信仰共同体に対する脅威」であるからなのだ。

作中の前半部は、志願して入隊しながら小銃を手にすることを拒否する主人公に対する隊内イジメと軍法会議で終始するわけだが、「信仰の内容がどうあれ、信仰を守るために軍役に従事するのは米国市民の本分である」という主人公の主張と、軍事法廷が出した結論は、アメリカの国と軍の成り立ちを理解していないと、主張は狂信者のそれ、判決は非常に御都合主義的に見えるだろう。結果、よほどアメリカ史に通じていないと作品の意味するところが理解できず、恐ろしくハードルの高い作品になっている。そして、後半部の延々と続く戦闘と救出のシーンは、ギブソン監督にとっては「神の試練」を描いたに過ぎず、監督の主張は前半部に集約されているという点でも、戦争映画としては問題ありすぎだろう。

その戦闘シーンは、確かに沖縄戦の中でも最も過酷な5月上旬の前田高地を描いているだけに、日本側の火力集中も凄まじく、米側にも死傷者が続出するわけだが、肉体損壊の描写が全く容赦なく、スプラッター映画以上になっている。故に「プライベート・ライアンを超えた」などという話も出ているが、どうだろう。日本軍は真っ昼間から突撃してくるし、しかもかなり密集しており、映像演出上の理由なのだろうが、疑問は禁じ得ない。

やはり戦争ドラマとしては、トム・ハンクス『ザ・パシフィック』の方が、平均的なアメリカ市民が出征してどう感じて何を考え、見えない日本軍に撃たれまくる恐怖感や、突然襲いかかってくる敵の恐ろしさ、つまり太平洋の戦場の実相が良く伝わっている(ような気がする)。
やはりギブソン映画は「宗教映画」なのである。
posted by ケン at 12:43| Comment(2) | サブカル、音楽、アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
なるほど〜
メル・ギブソンといえば、そのガチガチの信仰心を、
シャマラン監督に映画サインで超絶おちょくられてましたが。

で、パッションときて前田高地と。
異文化、アメリカ人を知るという意味では良い映画なのでは。
Posted by taka at 2017年07月06日 14:18
何も知らない人が見るとただの美談のように見えてしまうところが本作の危険なところです。実際に「美談」だったことがタチが悪いのですが。

背景事情やキリスト教の何たるかを知らないで、「美談」と捉えてしまうと、「いい話だ」で終われってくれれば良いのですが、何か嫌なものを感じます。上手く説明できないんですけどね。
前半部を見て、「何故そうなるんだ?」と思える人はいいんですよ。
Posted by ケン at 2017年07月07日 12:58
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