2017年07月11日

長州人から見た明治維新150周年

来2018年の「明治維新150周年」に向けて政府が記念事業を計画している。
政府、国家官僚からすれば、第二次世界大戦の敗戦に伴う休戦条約締結の条件として民主化、戦後和解体制の構築を余儀なくされただけの話であり、戦前の明治体制こそが「自分たちの本来の姿」であるという思いが強い。
そもそも日本の場合、国家官僚になるためにデモクラシーやリベラリズムの原理を問われることが無いため、国家主義者や全体主義者による蚕食を許してしまっている。かのドイツですら、軍内に国家主義に浸食を許し、反乱が企図されていたことが発覚する事態になっており、日本でも「テロ」の恐れよりも、行政機関や自衛隊における極右勢力の伸張の方が深刻かもしれない。
明治帝政を称揚する明治維新150周年事業は、自分たちの意に添わずに施行されたデモクラシーと戦後和解体制を払拭する象徴的イベントとしての意味を持つ。

だが、長州人や山口県人から見た明治維新は全く別の風景があり、これが理解できないと、安倍政権が明治維新150周年に前のめりになる理由も一面的な理解に止まってしまう。

2015年に放映された大河ドラマ『花燃ゆ』は、安倍政権と長州人脈の強い要望を受けてNHKが制作した作品で、松下村塾をめぐる人々の半生を描いた。だが、下関戦争における外国船砲撃の対象が米国船からフランス船に改変されたり、吉田松陰による老中暗殺計画の経緯が改ざんされたりと、様々な歴史改ざんが行われたことで悪評が立った。そもそも内容云々よりも、演出や演技の拙さから「学芸会レベル」と酷評され、歴史ドラマとしての評価は皆無に等しかった。あれはあれでNHKの制作現場レベルでのサボタージュだったかもしれないのだが。
それでも、当のNHKに圧力を掛けた長州人たちにはそれなりに評判良かったらしいのだが、本音レベルで長州人たちにとってあれで良かったのかについては、大いに疑問だ。
『花燃ゆ』は別格としても、幕末を描く映画、ドラマは必ず「激動の歴史」を描こうとするわけだが、そのどれもが陰惨な、血塗られた側面を正面から描いていないからだ。幕末を史実に忠実に描くなら、『ヒトラー最後の12日間』や岡本版『日本のいちばん長い日』のような集団狂気が再現されねばならない。

注目したいのは、「維新の殉死者」である。勤王運動(テロリズム)から明治維新(暴力革命)に至る過程で、吉田松陰(刑死)、久坂玄瑞(禁門の変で自害)、高杉晋作(長州戦争後に病没)ら勤王倒幕運動の主要人物が続々と死亡したことは知られているが、長州全体を見ても相当数が落命している。
幕末の長州の人口は約79万人。このうち、禁門の変、下関戦争、第一次長州戦争、長州内戦(元治内乱)、第二次長州戦争(四境戦争)、戊辰戦争という「革命戦争」に動員されたのは7500人から8千人。その内訳は、2千人が上級士族、3千人強が下級士族(足軽、中間、陪臣など)、2500人強が町人、農民等(いわゆる諸隊)だった。79万人は、現在の福井県や浜松市の人口に相当する。
そして、一連の戦争の中で戦死(扱いも含む)したのは1500人以上で、戦病死を含めるとさらに増えるものと思われる。仮に戦死率を20%としよう。近代戦争の始まるとされる日露戦争でも、90万人の動員に対して戦死・戦病死者は8万9千人で約10%だったことを考えれば、戦死率20%は想像を絶する損害であることが分かる。つまり、長州で維新運動に従事し、五体満足で帰ってきた者の方が少なかったというレベルにあった。
さらに、この他に維新後の「脱退騒動」(諸隊反乱)と「萩の乱」(士族反乱)で、戦死者100人、刑死者250人を出している。

比較対象を考えてみよう。長州とともに「御一新」をなした薩摩の場合、動員可能兵力最低3万7500人を誇りながら、戊辰戦争に出征したのは最大1万人で、戦死者は約500人。禁門の変や薩英戦争などの戦死者を足しても540人程度だった。戦死率は5%強である。つまり、薩摩藩の場合、藩士でも戊申戦役に動員された者の方が少なく、まして戦死者は稀だった。
これに対して、西南戦争で西郷軍が動員したのは日向を含めて2万6千人、戦死者は4千人近くに達し、薩摩人にとっては西南戦争の方が強烈なイメージを持つのが普通なのだ。

戦死、戦病死だけでなく、刑死、凶死(テロ)の多さも長州における維新運動の特徴だった。個別の事例を見てみよう。
「日本のヒムラー」と呼ばれ、内務省で治安畑を歩んだ安倍源基(鈴木内閣で内相)の場合、伯父3人(当時21、18、16歳)が戊申戦役に出征し、うち2人が戦死、生還した末弟も維新直後に病没、末妹が婿をとって安倍家(大野毛利家家老)を継いでいる。

長州藩の革新官僚(家老)として知られる周布政之助の場合、勤王派を支援したこともあって禁門の変、第一次長州戦争後の政変中に自害。長男の藤吾は第二次長州戦争で戦死、次男の公平が家を継いだ。

日露戦争時の満州軍総参謀長を務めた児玉源太郎の場合、幼少期に勤王派の実父(徳山藩士)が藩内の権力闘争に敗れて閉門蟄居にあい、憤死。姉の婚家である児玉家(同)に引き取られるが、義兄にして養父の次郎彦は佐幕派藩士のテロによって凶死(惨殺)、源太郎13歳の時だった。児玉家は家禄を召し上げられ貧窮に苦しむ中、戊辰戦争が勃発、源太郎は16歳で召集され、献効隊の一員として出征、箱館で初陣を果たした。

元勲の一人となった井上馨の場合、世嗣の小姓を務めるほどの家柄に生まれながら勤王派に参加、英国公使館焼き討ち(実行)や外国公使殺害計画(頓挫)などのテロ活動に従事した。第一次長州戦争の混乱の最中、佐幕派(俗論党)の一団に襲撃され、医者が「息をしているのが不思議」と言うほどの重傷を負った(縫合6箇所、50針)。テロリストの中には、井上の顔見知りの友人もいたという。

つまり、長州藩の場合、身分に関係なく全ての武家が何らかの形で維新に参加し、大半の家で何らかの形で犠牲者を出していたと言える。こうした長州人の「御先祖が血を流して為した革命」という意識が理解できないと、彼らの「明治維新150周年」に対する執念も理解できないかもしれない。
posted by ケン at 12:30| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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