2017年08月16日

航空人事から見た日本の戦争運営について

1941年7月に海軍省が「対米開戦を辞せず」を決定した際(そして南部仏印進駐)、航空本部長だった伯父は「こんな航空戦備で対米戦などできるわけがない」「長期戦をどう戦うつもりなんだ」と噛みついたという。
工業力や資源、資金などの対米格差については、いくらでも知る機会があるが、今日は現代ではあまり顧みられない組織人員の面から考えてみたい。

開戦時の日本海軍の常用航空機定数は3019機で、運用に必要な搭乗員は3445名だったが、海軍所属の搭乗員は全3615名に過ぎなかった。このうち勤務2年以上の熟練搭乗者は49.5%だった。だが、42年末までに2300人からの搭乗員が失われ、熟練搭乗員の割合は22%にまで落ち込んだ。開戦時の米海軍と海兵隊が保有していたのは約4千機、同6千人だった。職場で一人でも有休を取ったらもう組織が回らないという日本型組織の体質は昔から同じだったのだ。

42年8月に始まるガダルカナル航空戦を見た場合、日本軍は892機、搭乗員1881名を失ったが、米軍が失ったのは621機、同420人だった。開戦当初の搭乗員数と比較した場合、日本が半分を失ったのに対して、米国は7%に過ぎなかった。
他の海戦も同様で、例えば一般的に「引き分け」と認識されている珊瑚海海戦を見た場合、日本海軍は航空機100機、搭乗員104名を失ったのに対して、米海軍が失ったのは同128機、35名だった。
同じく日本では一般的に「痛み分け」と解釈されている南太平洋海戦(1942年10月26日)を見た場合、確かに物理的には両軍ともに空母1隻撃沈、同1隻中破なのだが、空母搭乗員の損失は日本128名に対して、米39名だった。

日本の航空機は防弾性能や通信装備を犠牲にすることで、攻撃力や運動性能において米軍に対し優位に立ち、超エリート教育で練度においてもアメリカにひけを取らない水準に達したが(全体の練度において日本軍が米軍に優位に立っていたというデータは無い)、これは「一度限りの会戦であれば負けない」という話であって、戦争が長期化すればするほど優位性を失うものだった。事実はより過酷で、日本軍は開戦から一年でアメリカに対する優位を失っていた。

開戦前、日本の搭乗員教育は、教官1人に生徒1人という超エリート教育だったが、アメリカでは教官1人に6〜8人は当たり前だった。これには国民教育水準の背景があって、米国では当時すでに若者が普通に自動車運転免許を持っていたが、日本では運転免許など現在の航空機免許レベルの特殊技能だったため、搭乗員候補の基礎があまりにも違った。
これは搭乗員養成にかける予算にも顕著に表れている。日本海軍の航空関係予算に占める搭乗員養成費の割合は、1938年で0.08%、1940年で0.21%、1941年で0.16%と常に超低位で推移していた。ここにも「社員にカネを掛けるなんてタダのバカ」という日本型経営の決定的脆弱性が見られよう。

なお、ソ連では1937年に「全ソグライダー協会」が設立され、コムソモール員を中心に参加が奨励され、同時に「パイロット15万人計画」が策定された。戦時中、中学生のゴルバチョフがトラクターを運転していたことを考えても、兵舎に入るので初めて汽車に乗ったという若者が少なくなかった日本とは、機械文明の裾野が違いすぎたのである。

興味深いのは、アメリカが士官搭乗主義で9割士官、1割下士官だったのに対し、日本は真逆で1割士官、9割下士官だったことで、この辺にも「飛行機を飛ばせれば十分」と考えていた日本人の思考法を見て取れる。
また、元々日本は「総力戦を戦い抜き生き残って大帝国をつくる」ことを目的にファッショ体制(社会統制によるミリタリズムの最適化)を選択したはずだが、現実には中世ばりの「一回戦って負けたら終わり」という軍備しかつくれなかった。この辺は改めて別稿にて検討したいが、果たして伯父上を除く御先祖方が「総力戦とは何か」をきちんと理解していたのか、あの世で問い詰める必要がある。

【参考】
『近代日本軍事力の研究』 山田朗 校倉書房(2015)
posted by ケン at 12:31| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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