2017年09月10日

極限状態で生き残るということ

古老が「戦場ではいいヤツから死んでゆく」というのは真実で、ソ連帰りとしても実感できる。ソ連史や昭和史を学んだものなら想像できるはずだ。

戦場では「勇敢な者」「義務感の強い者」「戦友を助ける者」から死んでゆく
勇敢な兵士は危険な任務を厭わず、自ら引き受けるため、砲火が最も苛烈なところに身をさらすだろう。義務感の強い兵士は、降伏したり、勝手に退却したりしないため、死ぬまで戦うだろう。そして、戦友を助ける兵士は自ら危地に赴くことになる。

飢餓に際しては「盗まない者」「身体を売らない者」「他人に食料を分け与える者」から死んでゆく。
他所から食料を盗み、食料を得るために自らの体を売ったり、自分の女房や子どもを売ったりし、飢える隣人に自らの少ない食料を分け与えたりするものは、結局のところ飢餓を乗り越えることができない。

虐殺時には「信念を曲げない者」「仲間を売らない者」「友人を助ける者」から死んでゆく。当局や殺戮者の言いなりにならないものは殺される。自分が生き残るために仲間を当局に差し出すのが合理的選択となる。友人を救おうとする者は当局に疑われるだろう。

後に苦難を生き延びた者が美徳を称揚するのは、彼らの生が死者の美徳の上に成立しているからに他ならない。同時に権力者が美徳を称揚するのは、極限状態におけるこうした美徳こそが最も権力に奉仕するためである。

日本で言えば、ガダルカナル、ニューギニア、フィリピン、インパール、沖縄、あるいは中国戦線や特攻作戦などがこれに値する。大震災もこれに含めて良いかもしれない。
そして、我々は次の世代にこれを教えるべき時が近づいている。
posted by ケン at 13:00| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「善人」は共同体への信頼を喚起する存在ですから、善人に淘汰圧がかかった社会では信頼に基づく共同体維持は不可能になり、金と暴力による支配が蔓延することになりますね。
その状態がさらに善人に対する淘汰圧になるという悪循環をもたらすと。
幕末期や大戦期における善人大量淘汰が近代日本人の性質を形作ってきたとすれば、納得できることが多くありますね。
Posted by はげはげ at 2017年09月10日 22:28
はい、幕末から敗戦に至る明治体制の本質の一つはそこにあるのかなと最近考えています。
Posted by ケン at 2017年09月11日 12:53
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