2017年09月13日

総力戦体制とは何だったのか・下

前回の続き)
ここで冒頭の伯父上の話に戻るが、総力戦体制の掛け声に比して、政治指導者や軍幹部が「総力戦の何たるか」を理解していたかと言えば、相当に心許ない。先の野砲の他に、いくつか象徴的な例を挙げておきたい。

例えば、日本の航空機開発は、性能第一主義で、それも極端な攻撃力偏重で生産性は殆ど考慮されなかった。
最も有名な零戦の場合、戦闘機の空気抵抗を少なくするために、鉄板を接合するために打ち付けられたリベットの頭を一つずつ削る作業を行っていたが、これは熟練工が1機ずつ相当な時間をかけて行う必要があり、恐ろしく効率の悪いものだった。
また、被弾面を小さくし、生産資材を減らすために、航空機自体のサイズの極小化が図られたが、これにより同時に投入できる労働者の数が少なくなった他、組み立てなどに際しての些少なズレも許されなくなり、生産管理(質の維持)が難しくなった。
エンジンについても、軽量化と極小化が図られ、そして低オクタン燃料を前提としたノッキング防止性能を持つ「水メタノール噴射法」が1939年に開発、搭載されるようになったが、非常に複雑な構造を持ち、膨大な生産時間を要するところとなった。
こうしたことが積み重なった結果、戦争中に海軍が失った約2万7100機のうち、戦闘による喪失は1万350機だったのに対し、戦闘外の自然消耗は1万6750機と全体の61.8%に及ぶに至った。つまり、欧米の標準的な発想では、零戦は兵器というよりも工芸品に近いもので、量産することを想定した設計とは言えなかった。

そして、問題の本質は、基礎工業力の低さにあった。日本製のエンジンは、同時期の他国主力戦闘機のそれに比して10〜20%も出力が低かった。例えば零戦二一型のエンジン栄一二型は940馬力だったのに対し、英国のハリケーンMk1が1030馬力、Mk2で1280馬力、半世代前(戦間期)のソ連製イリューシン−16ですら1100馬力、零戦二一型と同世代のミグ−3は1350馬力あった。エンジン出力の低さを補った上で、他国機以上の攻撃力(旋回性能、重武装、航続距離)を追求した結果、極めて特殊な、つまり生産コストの高い機体整形となり、同時に機体重量を極限まで減らすために防弾装備、通信機、救命装置などを撤去するところとなっている。
また、当時の日本は石油精製技術も低かったため、高オクタン価の航空燃料を独自で精製できず、アメリカから輸入していたが、日米関係の悪化によって困難になり、上記の特殊な技術を搭載したエンジンを開発した。結果、量産も品質管理も難しくなり、熟練労働者の召集も相まって、カタログスペックからほど遠い低品質の機体を作り続けるに終わった。

もう一つは、大量生産制に移行できなかった点である。上記のような特殊技術満載の機体が量産を拒んだこともあるが、そもそも日本には自動車産業を始めとする、大量生産のための技術的蓄積が無かった。
大量生産の要諦は、部品と作業工程を規格化し、熟練労働者の必要や作業労働者の数を最小限に止めるところにある。ところが日本では、日米開戦の直前まで工場内請負制度に基づいて一機ずつ熟練労働者の手作業でつくられていた。しかも、同じ陸軍や海軍内の戦闘機や爆撃機でも殆ど互換性がなく、戦場で故障すると現地の整備兵が手作業で部品を改造するなどして誤魔化すほかなかった。アメリカ戦略爆撃調査団の報告では、ある時期の日本海軍の航空機の作戦有効率は20%だったとしているが、これは生産された機体の5機のうち1機しか実戦で使えなかったことを意味する(USは80%)。
日米開戦後ですら、ベルトコンベアー式のような大量生産への移行は遅々として進まず、例えば三菱を見た場合、1944年末までに組立工程のベルトコンベアー化を実現させたのは、全国17工場のうち2箇所に過ぎなかった。

人的資源の面でも大きな問題があった。第二次世界大戦ではどの国でも軍隊指揮官=将校が問題となったが、特に日本とドイツでは顕著だった。例えば、日本陸軍の兵科将校の数は1939年の6万7千人が1945年には25万人に膨れあがったが、兵員数もまた124万人から600万人を超えるに至った。つまり、将校一人に対する下士官兵の数は、約17人から25人へと増加している。同時期のアメリカが12人から8人へとむしろ減少させていることは非常に対称的だろう。また、将校全体に占める現役将校の割合は、39年の36%から45年の19%へと低下している。
なお、ソヴィエト赤軍を見た場合、大粛清前の陸軍の将校数は約40万人、うち4万人以上が粛清されたと見られ、1939年段階では38万人程だった。それでも独ソ戦が始まると、あっという間に士官が不足、最終的には全国に100カ所以上の士官学校が設置され、年間3万人以上の養成体制が組まれた。これに対し、日本の陸士は1944年2月入学の60期生でも1824人に過ぎなかった。

現実には、日華事変の緒戦から「士官不足」が指摘されていた。1937年7月の盧溝橋事件に端を発する日華事変は全面戦争となり、38年中には保有する 34 個師団のうち24 個師団が中国戦線に配備され、その動員兵力は23万人、事変発生からの累計だと73万人に達し、日本本土(内地)には1個師団しかいないという状況に陥った。これらの多くは、予備役兵で賄われたが(常設師団で42%、特設師団だと後備兵が66%)、特に小隊長、中隊長クラスの指揮官が圧倒的に不足した。現役士官の不足は予備役士官によって充当するわけだが、とにかく定数を満たすために根こそぎ応召した結果、特設師団の中隊長の中には58 歳の老人がおり、小隊長の殆どは大正期の 1 年志願兵(中卒以上等の学歴を持つ者は費用自弁で志願すると3年現役のところ1年で許され、試験に合格すると予備士官になれた制度、1928年廃止)出身だった。そのため、現地の大隊長や連隊長からは「せめて大隊の 4 人の中隊長のうち 1 人、12 人の小隊長のうちの 1 人くらいは、現役を回してくれ」などという悲痛な訴えが相次いだ。
『華中作戦―最前線下級指揮官の見た泥沼の中国戦線』を著した佐々木春隆は、士官学校、歩兵学校を出た後、1943年に華中戦線の特設師団に中隊長として赴任するが、小隊長は歯科医出身の予備士官、見習い少尉、ベテラン曹長の三人で、使い物になったのは曹長の予備小隊長だけだったが、いかんせん下士官は下士官なので扱いが難しかった旨を回顧している。

これは、もともと少数精鋭主義を謳っていた日本の軍事思想にも原因が求められるが、大正期の山梨・宇垣軍縮などで士官学校の定数が激減されたことも影響している。例えば、陸軍士官学校の卒業人数を見ると、1919年で489人いたものが、1928年には225人、1932年でも315人、1936年でかろうじて388人という有様だった。例えば、1938年段階で中国戦線に張り付いている陸軍23万人で考えた場合、将校と下士官兵の理想割合を1:15と想定すると、1万5千人からの士官が必要になる計算だが、陸士の育成ペースでは40年もかかる計算で、まるで現実的で無かったことが分かる。
この「非現実性」の穴を埋めたのは、一年志願兵制度に替わる幹部候補生制度(甲種)で、日華事変勃発までは年間4千名が採用されたものの、修業期間は10カ月で任期は一年、満了後は予備役に入り民間に戻るというもので、軍事技術者として十分な水準を満たせるものではなかった。
結果、1939年1月時点で陸軍兵科将校の少、中尉の約7割が一年志願兵、幹部候補生出身の応召となり、終戦時には兵科将校25万人のうち20万人以上が幹部候補生となった。なお、水木先生の『総員玉砕せよ!』を読むと、主人公のいる大隊で現役士官は大隊長一人だけのように思われ、非常に興味深い。

上記のようにただでさえ貴重な兵科将校も、「捕虜厳禁」「退却禁止」「自決強要」「玉砕」「特攻」「交替、休養なし」などの要素によって、戦局の悪化に伴って加速度的に消耗を促進させていった。この点でも、日本の戦争指導が戦力の刷り潰しを前提とし、長期戦や総力戦を想定したものでは無かったことが指摘できる。
なお、1945年4月に大本営が各軍に配布した「国土決戦教令」は、決戦時に軍部隊の後退を禁止するだけでなく、傷病者を後送することも禁じている。

同じく総力戦体制の構築を目指したドイツやソ連と比較する余裕は無かったが、あの世で伯父上に尋ねるまでもなく、当時の政治指導者や軍幹部が「総力戦とは何か」を理解していたとは思えない。様々な資料を読めば読むほど、「御先祖方は一体何がしたかったのか」と疑問が増えるばかりである。

【参考】
『近代日本軍事力の研究』 山田朗 校倉書房(2015)
『第二次世界大戦の起源』 A・J・P・テイラー 講談社学術文庫(2011)
『未完のファシズム』 片山杜秀 新潮選書(2012)
『井上成美』 井上成美伝記刊行会(1982)
『ノモンハンとインパール』 辻密男 旺史社(2000)
『華中作戦―最前線下級指揮官の見た泥沼の中国戦線』 佐々木春隆 光人社(2007)
「日本軍の人的戦力整備について―昭和初期の予備役制度を中心として」 長野耕治、植松孝司、石丸安蔵 防衛研究所紀要第 17 巻第 2 号(2015)

【追記】
1943年の日本陸軍二等兵の給与は6円だったが、銃後の家族の生活保障として「留守宅給与」が給付された。だが、それは応召前の給与の3分の1でしかなかった。例えば、当時の小学校教員の平均給与60円で計算した場合、支給額は20円でこれを本人と留守宅でほぼ折半された。実際には他にも手当がつくので、家族が受け取るのは20円程度だったものの、夫が召集された家族は困窮するのが普通だった。ちなみに当時の公定米価は10kgで3円36銭である。これに対し、ドイツの場合、この留守宅給与に相当する所得補償が、応召前職の給与の85%もあり、さらに児童手当などもあったため、銃後の夫人は「亭主元気で留守が良い」状態にあったという。ちなみに米英は45~50%だった模様。この辺にも日本とドイツの総力戦に対する考え方の違いが良く表れている。
posted by ケン at 00:00| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: