2018年04月21日

自由を守るために独裁強化する中国のパラドクス・下

前回の続き)
もう一つは、日本と同じ「少子高齢化」と「貧困」で、恐らくは国防問題よりも深刻だろう。
日本でもよく知られる「一人子政策」を続けた結果、中国は人口激増からは解放されたものの、経済成長に伴う公衆衛生の向上も相まって、日本以上の少子高齢化が懸念されている。
例えば、先日お目に掛かった大学教授の場合、車椅子で生活する90代前半の父君、半入院中の80代後半の母君、亡くされた妻の両親、そして一人娘の面倒を一身に背負っておられるという。都市部の中間層では、ごくありふれた光景だというから、日本と全く同じ問題を抱えていることが分かる。現代中国には、「未富先老」という言葉があり、これは「豊かになる前に年を取ってしまった(ロクな年金も無い)」という貧困高齢者の深刻な悩みと不満を象徴している。

中国では、改革開放路線の中でそれまで職場単位で運営されていた社会保障制度を解体して、統一的な制度(国家基金)へと移行が進められた。その結果、1990年代から2000年代にかけて、病院へ行くと入口に、各医師の顔写真と診療報酬額の一覧が掲げられ、病院はもちろんのこと、診てもらう医者によって診察料が異なるという状態が現出していた(ある意味では非常に合理的なのだが)。
近年、医療機関等は大都市部ではかなり整備が進んだものの、今度は日本と同じで、社会保障費の高騰を招き、少子化によって一人当たりの負担額は今後も急増してゆくものと見られる。

【参考】 医療費9年連続最高記録更新中

また、中国では急速なスピードでインフラ整備が進められている。例えば、上海市にはすでに18本もの地下鉄路線があり、杭州市は現在3本走っているが、今後あと7本の路線が計画されている。だが、これも日本と同じで、インフラ整備中は経済成長が続くものの、その後巨大な維持費が生じた際に、これを担保する財政が維持できるかどうかが課題となる。

【参考】 水道代は高騰の一途

これに対して中国政府の財政基盤は必ずしも強固ではない。例えば、法人税率は25%と低く抑えられており、個人所得税の課税最低額は3500元(2011年時点)で平均所得の3800元とほぼ同一水準の高さに設定されている。株取引などによる金融取引税も存在しない。土地の私有が禁じられているため、固定資産税に相当するものも無い。日本に居ると分からないが、中国は非常に低負担国家なのだ。
この低負担が故に、大きな経済成長を実現できているわけだが、成長は永続せず、将来を見据えた社会保障制度と税制度改革が求められている。堂々と増税を打ち出した日本の民主党野田内閣が総選挙で大敗したように、どの国においても増税は最大の政治的困難を伴うものであり、それが故に中国では強権が必要とされている。

三つ目は歴史的経緯である。中国共産党は元々「社会主義・共産主義国家の設立」を目標に掲げ、「労働者・農民が持ちたる国」を独裁権力の正統性の根拠となしてきた。だが、1980年代に計画経済が行き詰まり、社会主義を一旦脇に置いて自由市場化を進めた。市場改革に伴って発生した社会的不穏は、権力の集中と弾圧によって鎮静させたものの、長くは続けられないため、戦後日本と同じく「経済成長と社会保障制度の再整備」をもって権力の正統性を担保することにし、今日に至っていると考えられる。だが、経済成長は実現したものの、貧富の格差は拡大する一方にあり、同時に共産党幹部の階層化・身分固定も進んでしまった。社会主義は本来、貧困の撲滅と階級間の平等実現を標榜するものであるため、共産党の名称と実態の乖離は拡大の一途を辿っている。その意味で、中国共産党の権力的正統性は、実のところ見た目ほどには強固では無い。
中国の場合、議会制民主主義のように、選挙によって有権者・納税者の不満を和らげるシステムを持たないため、常に腐敗撲滅運動を進めると同時に、党幹部の特権を監視あるいは透明化する措置の導入が不可欠となっている。「腐敗と戦う強く清廉な最高指導者」というイメージが共有されて初めて、中国共産党は一党独裁を堅持できる構造になっていると言える。実際、中国を行き来しているビジネスマンは、「この数年で賄賂を要求する者がほとんどいなくなった」と口をそろえて言っている。

すっかり長くなってしまったので、タイトルが補足になってしまった。
民族社会の歴史的形成を見た場合、長い専制の歴史を持つ中国の方が、分権的な封建社会が続いた日本よりも、社会慣習的により自由であるという指摘がある。
中国の場合、皇帝に権力を一元化してゆく過程で中間団体の活動を否定する傾向が強く、日本や欧州には古くから存在する職能団体や同業者組合のようなものが存在しない、ないしは恐ろしく緩い組織でしかないという。

例えば、日本では鎌倉・室町期には、市や座といったものが生成され、特定の商品を特権的に扱う権利が確立、他の参入を許さない慣習・システムが生まれていた。町の市場ですら権利者以外は店を開くことが許されなかった。当然、その特権は家名で継承されるため、商家は世襲とならざるを得ず、競争原理が機能しなかった。油商人の出身である斎藤道三は、特権による商業活動の非効率を熟知していたがために、「楽市楽座」を進めたとされる。
これに対して、中国の場合、歴史的に国が定めた法律があるのみで、同業者組合の特権もなければ掟(私法)も無いため、商業活動は日本よりもはるかに自由だった。市場では、誰が何を売っても良く、農民であれ元官吏であれ自分の店を持つことができた。実際、科挙に落ちた地方エリートが商人に転じるケースは非常に多かったという。古代(紀元前)ですら、商家出身の呂不韋が秦帝国宰相に就任している。日本で、庶民出身者が宰相になるのは、1938年の広田弘毅が最初である。

現代においても中国の人民代議員は国家主席の御尊顔を拝していれば、「あとは自由」だが、日本の国会議員は何かにつけて業界団体、同業者組合、労働組合、市民運動などなどから圧力を加えられるため、常に皆の顔色を窺っていなければならない。
庶民生活でも、中国人は当局の顔色さえ窺っていれば良いが、日本人は自治会(町内会)やPTAなどの強制力が非常に強く、周囲の顔色を窺ってからでないと何一つ発言できない。
飲み会の席ですら、中国では共産党や政府批判以外は「何でもあり」だが、日本ではそもそも政治の話を忌避・自粛する傾向が強い。以前ロシアの大学で教鞭ととっていたころ、外国語講師と学長との懇親会が持たれたことがあり、その場で若い女性の中国人講師が「私たちの給料安すぎです!」と学長に食ってかかり、「この場でそれを言うのか!」と驚愕したことがある。
これはロシアの話になるが、ロシアの映画や演劇舞台の現場では、監督・演出と俳優が対等に話し合い、往々にして対立や喧嘩に陥ることがあるのだが、日本では監督や演出家が絶対的な権威を持っており、俳優は奴隷のように従属しているケースが大半を占めている。
実のところどちらの社会の方が自由なのか、軽々には判断できないものがあるのだ。

中国の場合、皇帝に権限を集中することで中間団体の発生を抑制し、ある種の市民生活の自由を守る「伝統」があることを知らないと、生半可な戦後デモクラシーの知識と感覚で中国社会を非難してしまう「愚」を犯してしまうことになる。我々日本人は、自分たちが考えているほど「自由」ではないことに、もっと自覚的であるべきなのだ。

【追記】
中国の市場経済化の過程については、一度きちんと勉強しなければと思いつつ、なかなか実現できない。

【参考】
『専制国家史論 中国史から世界史へ』 足立啓二 筑摩書房(2018)
「中国の社会保障制度と格差に関する考察」 柯隆 『ファイナンシャル・レビュー』119号所収(2014)
「中国の個人所得制改革―税額控除適用によるシミュレーションとともに」 申雪梅 『横浜国際社会科学研究』第17巻6号所収(2013)
posted by ケン at 00:00| Comment(2) | ロシア、中国、国際関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私も中国をウィットフォーゲルのアジア的専制を俗耳的に理解したようn半可通の言説には抵抗感を感じてはおりますが、没落がもはや避けられないのならば、末期の水に塩を混ぜたからと言って何になろうと最近では少し諦念を持つに至っています。マルクスが「悩める者のためいき」と宗教を評したように、今の侮蔑嘲弄する言説は「ホスピス病棟」での鎮痛剤としての効用は少なくともあるのではないかと言うことです。最近日比谷図書館で清沢冽の「暗黒日記」を読み、昭和18年19年の言説が、米国英国は第一次大戦のドイツ・オーストリアのようにいずれ内部から四分五烈に崩壊するに違いないとのマントラの反復が現在のまかり通っている対中言説と完全にクリソツで居たたまれなくなりました。
Posted by arkanal1 at 2018年04月23日 01:43
ウィットフォーゲル!久しぶりに耳にしましたね。
私も恐らくは貴君が抱いているような諦観を抱いていたところはあるのですが、中国研究を始めて、むしろ中国型自由の方が21世紀のポスト資本主義に適合するのではないかと積極的に評価する方向に傾ています。だからこその中国行きなのですが。

これはいずれ記事にしたいと思いますが、日本型組織の企業ではリスクを過大に評価して、権限と責任が曖昧にすることから、新たな事業を起こすことも、失敗した事業から撤退することもできなくなっています。この悪弊は国家から企業、そして地域共同体にまで蔓延しており、本来は才能ある若者が活躍する場をも奪っています。この中で多少の政治的自由など、どれほどの価値があるのか、ということです。

戦中との大きな違いは、自由に海外に出られるということですね。19世紀型の国民国家が終焉を迎える点も、積極的に評価すべきなんだと思います。
そういえば、多民族国家としてのオーストリア=ハンガリー帝国の普遍性が前向きに評価される傾向があるのも非常に興味深いです。
Posted by ケン at 2018年04月23日 16:34
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: