2018年04月25日

「米内を斬れ!」の遠景を望む・上

終戦時の陸軍大臣だった阿南惟幾は、自決前に義弟の竹下正彦中佐と杯を交わしたが、その際に「米内を斬れ!」と口走ったとされる。その真意については、実際に耳にした者たちも解釈に戸惑ったようで、今日に至るまで定説はない。実際のところ、阿南は相当に酩酊していたようで、どこまでが本意だったのかは今では分かりようもない。最も一般的なところでは、「和平論の首魁で、陸軍を責め立てた米内に対する個人的感情」という解釈があるが、和平論者という点では東郷外相の方がより急進的だったはずだし、「聖断」に持ち込んだ鈴木総理の策士ぶりも槍玉に挙げて良さそうなものだ。

だが、最新の研究を踏まえてより広い視野で見た場合、異なるものが見えてくる。その最大の問題は、日中戦争の開戦責任である。
日中戦争の開戦責任は、1937年7月に盧溝橋事件で国府軍と戦端を開いた陸軍(特に牟田口)と、関東軍・朝鮮軍の支援派兵を決めた近衛内閣に帰せられるのが、まず一般的な解釈と言える(中国側の挑発もあるが)。
例えば、当時、参謀本部戦争指導課長だった河辺虎四郎の回顧に依れば、事件の第一報を受けて柴山兼四郎軍務課長(陸軍省)が「厄介なことが起こったな」と言ってきたのに対して、武藤章作戦課長(参謀本部)は「愉快なことが起こったね」と言っていたという。陸軍の中は慎重派と積極派に完全に二分されていた。
また、7月11日の夜、近衛首相は政界、財界、マスコミの重鎮を官邸に集め、挙国一致・国論統一に向けた協力を呼びかけるが、「官邸はお祭り騒ぎのように賑わって」(石射『外交官の一生』)という有様で、やる気満々だったことが分かる。ところが、この近衛は翌8月に訪ねてきた池田純久中佐に対して、「池田君とうとうやつたね。支那事変は軍の若い人たちの陰謀だ」と言ったというから、全く他人事で無責任だった(『陸軍葬送委員長』)。その池田は、戦争を決めたのは貴方ですよと返して、近衛を黙らせている。

だが、盧溝橋事件自体は、1937年7月17日に停戦協定が成立、その後も小規模の衝突を繰り返しつつ、「船津工作」による和平交渉が進められていた。それを潰したのは、海軍による第二次上海事変だった。
詳細は笠原十九司先生の『海軍の日中戦争』(平凡社)を読んでいただきたい(陰謀論に傾きすぎだが)。当時、日本海軍はロンドン条約の失効を経て大建造体制に入っていたが、対米戦の備えとして航空戦備の充実が課題となっていた。しかし、海軍予算は全て新艦建造に回されており、航空予算を確保するためには、小規模の戦争が起こることが望ましかった。仮に日中戦争が生起した場合、陸軍による対ソ戦を回避できると同時に、海軍は自らの艦艇の消耗を防ぎつつ、海軍航空隊の実験と練度向上を図ることが可能と考えられた。
結果、海軍は「大山事件」を利用して(自作自演の疑いがある)、上海で武力衝突を起こし、海軍陸戦隊を勝手に上陸させた上で、陸軍に救援を求めた。陸軍的には全く乗り気ではなかったのだが、当時上海には数万人からの在留邦人がいたこともあって、放置することはできず、二個師団からの上海派遣軍を編成、派兵したものの、上海を重要視した国民党軍は最大戦力を動員して対抗したため、戦力が不足、日本側も大動員したことや日中両軍が空爆を始めたこともあって、全面戦争に発展、船津工作も破綻した。

「上海居留民の保護」を名目に上陸したはずの上海派遣軍が、中国軍と全面交戦するところとなり、長期に渡る対峙状態に業を煮やした司令部が杭州湾上陸作戦を敢行したところ、「裏崩れ」によって中国軍は敗走したものの、今度は日本軍による追撃戦が始まってしまい、戦線拡大が止められなくなった。そして、停戦・休戦交渉が不調のまま南京攻略を行い、虐殺事件が生じたことで、ますます休戦する機会を失っていった。

上海事変後、海軍は大々的に渡洋爆撃を開始、9月に入ると漢口、広東、南昌へと爆撃対象を拡大させ、さらに中国沿岸の海上封鎖を宣言した。北京周辺と上海をめぐる地域紛争は中国全土における全面戦争へと発展していった。
首都の南京進撃が俎上に上がった際も、現地軍は繰り返し南京攻略の許可を参謀本部に求めるが、多田駿次長はこれを握り潰し、国民党政府のメンツが立つ形で講和に導く方針を有していた(トラウトマン工作)。11月24日には、大本営御前会議が開かれるも、近衛首相も米内海相も広田外相も多田の主張に耳を傾けず、12月1日には大陸命第八号を発して南京攻略を命じている。
さらに南京陥落後の翌38年1月15日午前には、大本営政府連絡会議が開かれ、陸軍の多田参謀次長と海軍の古賀軍令部次長が国力の限界から長期戦を戦うことの困難さを説明し、中国側との和平交渉の継続を主張した。ところが、近衛首相「速やかに和平交渉を打ち切り」、広田外相「支那側の応酬ぶりは和平解決に誠意なきこと明瞭」、杉山陸相「蒋介石を相手にせず、屈服するまで戦うべき」、米内海相「統帥部が外務大臣を信用しないのは政府不信任」などと声を揃えて反論され、立ち消えに終わり、近衛総理の「爾後国民党政府を対手とせず」声明に繋がった。
以下、続く
posted by ケン at 12:39| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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