2018年05月24日

日本の教育はなぜ空洞化したか・下

前回の続き
ところが、1980年代に学力偏重主義や受験競争が批判にさらされ、財界からは「国際化、情報化時代に対応した教育を」という要求がなされた結果、「生きる力」「自分で考える力」「個性重視」などの曖昧な指標を中心とする「ゆとり教育」が導入された。現実には、中等教育で教えられるパターンが激減、「人の価値は学力以外にもある」として学習習慣も軽視されていった(学習時間の減少)。パターン学習を減少させた分(学習内容の3割減)については、体験型学習、総合学習、英語などが導入された。

不足した基礎学力については高校で補うとされたが、高校の学習水準が地盤沈下を起こし、少子化と大学進学率の向上が相まって、本来高等教育の基準を満たさない学生が大学進学を果たすようになった。
同時に、高卒者はおろか大卒者の新卒採用者の水準が低下、企業側から「パターン認識力・対応力が足りない」とクレームが付けられるようになり、就職率の向上をめざす大学側はこぞって中等教育で行うべきパターン教育を施すようになっていった。

パターン教育を行う中等教育に対して、大学などの高等教育は、一定のパターンに当てはまらない状況を認識し、個別に対応する能力を養うと同時に、パターンの原理を理解して独自のパターンを作成する能力を追求する。
日本の場合、1970年代に大学進学率が急上昇したため、大学教育のマスプロ化が進み、テキストを暗記して試験に臨み、先輩の卒論をコピペして提出して卒業という、パターン教育になってしまった。しかも、1990年代以降は、中等教育におけるパターン教育も不足するに至り、大学に中等教育がなすべきパターン教育が求められるようになってしまった。

ところが、AIの導入によって工場労働はおろか、単純事務の多くが自動化されるに至り、中等教育におけるパターン教育の価値が大きく低下している。同時に、本来は高等教育に求められるパターン外教育の価値が高まっている。しかし、「パターン外教育」というのは、パターン原則を理解しなければ、「何がパターン外なのか」分からないだけに、中等教育をすっ飛ばすことはできない構造になっている。また、事務作業にしても、求められる水準が非常に高くなってしまい、平均水準では対応できなくなりつつある。

そして、日本の中等教育の場合、「上司の不条理な要求に耐える」「超長時間労働に耐える」能力を身につけることを目的に、部活動が推奨・強制されている。その結果、「指示が無いと何もできない」「指示が無ければ何もしない」「誤って出された指示を延々と繰り返す」などといった日本国内のごく限られた範囲でしか通用しない労働者ばかりが育成されている。同時に、この部活動が本来なすべき学習時間を削り、パターン学習の効果を減少させている。

日本の文部行政の失敗は、「パターン教育なんて時代遅れ」と性急に判断して、中等教育の脱パターン化を進めてしまったところ、労働力の質が低下、財界が応急処置的に大学に対してパターン教育の強化を求めたところ、パターン外教育も瓦解、ホワイトカラー労働者の質も低下、職場環境の悪化も相まって労働市場における人的荒廃を進めている。
最初の判断の誤りは、「ポスト工業化時代に対応した能力育成が必要」という認識にあったわけだが、これ自体は間違いとは言えなかったものの、それをパターン教育の否定に直結してしまったことが失敗の起源だったと考えられる。
恐らく真に必要だったのは、基礎学習能力とパターン教育の強化であって、どちらかと言えば、詰め込み式教育の前倒しプラス強化とパターン外教育の拡充こそが正解に近かったはずだ。

具体的には、幼児教育の2年間を初等教育に組み込んだ上で、高校を義務化、全14年間の初中等教育を実現。就学年限に一定の幅を持たせつつ(成長の遅い子もいるため)、中等教育や高等教育への移行には個別的に幅を持たせる(飛び級あり)のが望ましい。
もっとも、現実にはAIの進化速度を考えた場合、学校に子どもを収容し、生身の先生が多数の子ども相手に高説を垂れるマスプロ教育がいつまで行われるのかという疑問がある。遠くない将来、学校などに通わず、自宅でゴーグルを付けて、AI先生を相手に一対一で個別に授業を受ける形に移行するのではなかろうか(理論的にはまだまだ非現実的らしいが)。

問題は、文部官僚が現状の問題を認識せず、いまだ誤った認識のまま、英語教育の拡充だの、アクティブ・ラーニングなどと主張しているところにあり、かなり絶望的な状況にある。第一言語である自国語(日本語)の構造を理解していないものが、外国語を学んだところで自動翻訳に敵うはずもなく、まるっきり無駄な労力であろう。同時に、議論するに十分な知識の無いものがアクティブ・ラーニングを受けてみたところで、ネトウヨを増やすだけの話でしか無い。どう見ても、市民社会にとって害悪を増やす結果にしかならないだろう。

中国と8年にわたる大戦争をした挙げ句、連合国とも戦争になって大敗を喫したアジア太平洋戦争も、最初は「中国なんぞ、一撫でしてやれば、すぐ頭を下げてくる」という誤った認識に始まり、最後までその認識を正すことができなかった帰結だった。
我々は80年を経てもなお、同じ過ちを繰り返そうとしている。
霞が関官僚も政治家も「あれは正しい戦争だった」という認識の上に立っているのだから、正されるはずもないわけだが、あまりにも愚かである。
posted by ケン at 00:00| Comment(2) | 教育、法務、司法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
なかなか実感させることばかりです。私は2008年から2013年まで民間塾にいましたが、もっとも最悪な意味でのスタハノフ式突撃労働ばかりさせる塾が多かったです。80年代予備校文化的なノンシャランな風土は一掃され個別の定量的な管理ばかり。いわゆる一流合格実績のない小中塾はいまは塾の窓に貼る看板広告用として漢検、数検に狂奔し、中堅以下の私立高校は活路を見出すために民間塾に指南と費用を献上し、10年前までは学校に体育会参加実績垂れ幕も、学校長の代わり映えのしない月次行事校門前刑事訓示もいつのまにか全国津々浦々十把一絡げのスタンダード平版デフォルト化しました。2か月前に埼玉県の道徳教育の状況聞きましたが、県教委は一授業ごとに推薦教材を使ったかを電話ヒアリングで各校に聞いてチェックリストを作成しているという涙が出るばかりの道徳教育の一元化に邁進しているという現場の教師の愚痴をきかされました。極まった状況です。ケン先生はご承知かもしれませんが、日能研、麻布、東大法、生保、自己費用での退職後中国留学、某県庁、司法試験合格、弁護士として自活されている方の「中国備忘録」というブログがあります。10年以上にわたって愛読しているブログは他にシドニー雑記帳とこの備忘録とケン先生のものの三つですが、中国備忘録は日本の組織というものの残念な実態を結構赤裸々に描いています。そしてどこかで書かれていることの二番煎じでない点が非常に啓発的です。有意の士が次々と見捨てる中で我が国が最後はメデューズ号の筏のような状況を呈するのではないかと懸念してはおりますが、むしろとことん落ちるところまで落ちねば立ち行かぬとも思います。
Posted by arkanal1 at 2018年05月25日 02:06
80年代までの塾は、今ほどビジネスライクではなく、先生方も余裕があったように思えます。まぁ今の塾の先生は知らないんですけど。教育現場の疲弊は凄まじく、どこのアンケートか忘れましたが、「転職できるなら希望するか」という設問に対して半分以上の方が「希望」していました。

1978年、ソ連のフェリックス・ロジネルという作家がイスラエルへの移住を決めたとき、友人の物理学者アリトシューレルが「なぜ今出て行くんだ」と問い詰めたところ、「そりゃ君のせいさ。だって君はサハロフを擁護しているから、いずれ逮捕されるだろう。そうしたら、今度は僕が君を擁護するために奔走することになるから、僕も逮捕される。だから、君のために僕が逮捕されないよう、いまソ連を出るんだ」と答えたと言います。

改めて記事にしますが、資本主義、自由主義、民主主義の時代は終焉を迎えているにもかかわらず、代案も無いまま、国民からの収奪によって延命を図ろうとするのが今の霞ヶ関と自民党で、抵抗意思に欠けるのが日本国民です。例えば、貯蓄ゼロ世帯が3割を越えているのに、唯一の無産政党である共産党の議席占有率は5%に満たず、民主主義は機能していません。であれば、あと10〜20年は成長が見込め、その成長に応じて自由化している中国を目指すのは合理的選択であると考えます。資本主義+民主主義=国民国家というモデルが崩壊している以上、自国にこだわるスタンス自体、陳腐であるという理解です。
Posted by ケン at 2018年05月25日 13:21
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