2018年07月23日

気候変動から予測する明治帝政の終焉

古来、王朝の終焉に際しては天変地異が頻発するのが常だが、これは気候変動と大きく関係している。例えば平安時代と平氏政権の終焉は、温暖化に伴う西日本における連続干魃とマラリアの大流行に端を発している。詳細は「気候変動に見る源平合戦」を読んで欲しいが、大和朝期から平安初期にかけての日本は寒冷期にあったが、8世紀半ば頃から気温が上昇を始め、その後100年間で平均気温が2度前後も上がったとされている。その結果、西国では旱魃、洪水、蝗害が増える一方、関東や東北での収穫が増え、大量移住、大開墾期を迎えた。平将門の乱に象徴されるように、東国で反乱が頻発したのは、東国で開墾が進み、関東が「日本の穀倉地帯」としての地位を確立する一方で、西国では農業生産が減少したために国家収入が減り、その対処として朝廷が土地国有化と徴税強化を進めたことに対して、東国武士が独立の意志を固めたことに起因した。

ちなみにヴァイキングがグリーンランドに渡って農耕を始めたのは西暦1000前後とされるので、この頃は全世界的に温暖化傾向にあり、それは現代を上回るレベルだったと見て良い。
源平合戦として知られる「治承・寿永の乱」の発端となる以仁王の挙兵は治承4年6月(1180年)のことだが、この年は雨が極端に少なく、早くから旱魃が始まり、西日本では全面的に飢餓が発生する。鴨長明の『方丈記』にも「また、養和のころとか、久しくなりて、たしかにも覚えず。二年があひだ、世の中飢渇して、あさましき事侍りき。或は春・夏ひでり、秋・冬、大風・洪水など、よからぬ事どもうち続きて、五穀ことごとくならず」と記されている。そして、平清盛がマラリアで死んだことは象徴的だった。

平安後期における数々の戦乱は、温暖化に伴う西日本の不作と東日本の豊作、それに始まる東日本に対する収奪と経済格差の増大に起因するところが大きかった。この収奪と格差を是正するために暴力的手段がとられたのである。
だが、鎌倉幕府が成立した頃から温暖化が終わり、今度は13世紀後半あたりから寒冷化が始まる。その最たる影響が「蒙古襲来」だった。寒冷化によってモンゴル高原における牧畜が困難になったモンゴル族が南下を開始、ついには高麗を下して日本にまで手を伸ばしてきた。
ちょうどこの頃、グリーンランドに植民したヴァイキングが撤退、全滅しているので、全世界的に小氷河期に入っていることが分かる。
そして、鎌倉幕府は対元戦の戦費負担に耐えられなくなり、集権化することで秩序の維持を図るも、寒冷化の中で税収が上がらず、逆に寒冷化で農業が復活して経済力を付けた西日本の武士層が東国政府に強い不満を抱くようになっていったのである。政権交代を受けた足利氏が政府を鎌倉から京に移した所以でもある。

16から17世紀にかけて小氷河期(概ね14〜20世紀)が頂点に達するが、日本の戦国時代とドイツ三十年戦争、あるいは明朝の崩壊と清朝の勃興がその象徴である。これは有名な話なのでここではしない。

現代に通じるところを見た場合、前期明治帝政は、大正末から昭和初期にかけて寒冷化によって北日本で飢饉が起こり、国民が暴力的解決を望むようになったことから暴走が始まった。今では考えられないが、戦前には多摩川が河川凍結して普通に歩いて渡れたという。
もちろん、飢饉はあくまでも一因に過ぎず、日露戦争後の過剰な軍拡や世界恐慌の影響も大きいのだが、例えば2・26事件を起こした陸軍将校たちが「農村窮乏の救済」を掲げたことは重く見て良い。また、満州事変や日華事変の勃発に際して、国民の大半がこれを熱狂的に支持したことは、決して軽く見るべきでは無い。
これらの歴史は、平和的手段による貧困や経済格差の是正が達成困難になった場合、人々が容易に暴力的解決を支持する傾向があることを示している。

そして、今日は温暖化によって西日本で水害と干ばつが頻発、大型地震も増加傾向にあり、国家財政を圧迫している。政府中央の腐敗も含めて、後期明治帝政(戦後民主主義体制)は終焉に向かっていると見て良い。
今回の全国豪雨では、自民党が「これでスーパー堤防の予算が下りる」と祝杯を上げている一方、エコロジストは「ダム不要論」を声高に謳っている。この辺でも、デモクラシーに求められる合意形成能力が機能しなくなりつつことを予見させる。
スーパー堤防は、見積もりで30兆円とも40兆円とも言われるが、広大な地域で移住・再開発が必要となるため、建設業と不動産業に支持層の多い自民党としては、是が非でも実現したいところだろう。
逆にダム不要論は、豪雨がダムの許容量をオーバーさせてしまい、逆に「巨大水瓶」となって下流域の脅威となる危険を指摘している。

とはいえ、近年の水害で最も被害が大きかったのは、1940年代後半から50年代にかけてのもので、これは戦時中に日本中の木を切り倒して戦時徴用したことに起因している。戦国時代も、全国で木が切られた結果、そこら中はげ山だらけになってしまい、長篠の戦いに際して織田信長は馬防柵用の木を岐阜から輸送しなければならないほどだった。そのため、江戸期に入ると、徳川幕府は護林・植林に努めている。

他方、近年水害の被害額が大きくなっているのは都市に起因している。都市部の住宅化と舗装化が進んだことで地表の吸水力が極端に低下、雨水が全て下水管に流れて容量オーバーを起こし、排水溝やマンホールから水が溢れ出て洪水が起きるという現象になっているためだ。遠因としては、遊水地や貯水池・調整池を埋め立てて居住区画にしたことで都市部の保水力がゼロ近くなっていることが挙げられる。遊水池を埋め立てて多摩川住宅を建てたことは非常に象徴的だ。また、河川整備で大河の直線化が進んだことも、都市部への雨水の加速集中を促進している。さらに、80年代あるいは90年代以降に設置された下水管はコスト削減のため規格が小さくなっており、容量オーバーが起こりやすくなっているという指摘もある。この話も福島原発事故と同じで、「100年に一度の大雨を想定するのは合理的ではない」との理由で大型規格を却下した経緯があると言われる。

気候変動によって予見可能性を超えた災害が頻発し、既存インフラを破壊、大衆の生活を脅かす一方で、国家財政が圧迫され、国民の不満を抑制するために権力集中が図られるが、権力集中の結果、腐敗が蔓延する流れとなる。これは「デモクラシーだから」といって回避できる類いのものではない。むしろ利害調整が困難になって、政治不信が統治不全を促進する可能性が高い。
今後は、さらなる超規模の水害と、首都直下型地震、南海トラフ地震などの大災害が連発すると見られる。財政的に追い詰められ、国内の不穏が強まる中で明治帝政は、国民の不満をそらすために対外戦争を指向する可能性が高く、最終的には瓦解に向かってゆくと考えられる。
posted by ケン at 12:41| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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