2018年07月30日

衆愚化の果てに永田町を去る

先週末をもって秘書を辞め、累計で15年ほど奉職した永田町を去る。
特段の郷愁、感慨はない。そもそも現在の政界自体がオワコンと判断したことを考えれば、むしろ「清々した」くらいの気持ちかもしれない。
まずは、その辺の事情を記しておこう。
民族・国民国家とデモクラシーが終焉を迎えることの理論的説明は、すでに記事にしているので、そちらを参照して欲しい。

・民族国家とデモクラシーの終焉

なので、今日は職務上の卑近な例を挙げて、議会制民主主義の末路を語りたい。
党職員として4年、秘書として11年勤めたことから感じる最大の問題は、通信手段の変容である。自分が秘書を始めたのは2007年のことだが、その頃すでに携帯電話とメールは普及していたものの、例えば議員が海外に出張したり、飛行機に乗ったりすれば、秘書は上司から「解放」されたものだが、今日では海外からも、しかも時差が考慮されること無く、次々と議員から職務上の指示が降りてきて、下らない話(多くは愚痴)につきあわされる。
これは、民間企業の営業などにも言えることだが、かつては社を出て外回りするついでに、多少の遊びや休憩が可能であったわけだが、今ではスマートフォンで所在を確認され、恒常的に連絡や報告が求められ、実質的に常時監視下に置かれている。議員秘書も、地元勤務者は会社の営業と全く同じことが言える。
かつてなら秘書が外回りしている時は、逆に議員からは「解放」されていたものが、今日では外回りしていても、ひっきりなしに議員から指示や連絡が入る上、事務所や支援者からも連絡が入るため、外回りに専念することもできなくなっている。
また、今日ではラインやSNSで「グループ」が形成されるため、直接自分に関係ない連絡や報告が勝手に「共有」され、「自分は知りませんでした」と言うことすら許されない上、ひっきりなしにスマホが鳴り続ける始末になっている。このストレスは尋常では無い。

だが、より深刻な問題は秘書よりも議員の方にある。携帯電話が無かった時代、つまり1990年代前半くらいまでは、議員は有権者と直接顔を合わせるか、事務所で電話を取る以外に、有権者とのコミュニケーションに費やす機会は無かった。議員が不在の時に事務所に掛かってきた電話は、秘書が「議員に申し伝えます」と言って、報告を受けた議員が必要と判断すれば、かけ直しただけの話だった。
ところが、それから20年もしないうちに、議員は常に携帯電話を持ち歩くようになり、他の議員、支持者、官僚、メディア関係者などから直接電話やメールなどが来るようになり、それに伴って議員から秘書に指示が行くため、その作業量たるや恐ろしく膨大になってしまっている。

携帯でのコミュニケーションが常態化した結果、投票率の低下も相まって、議員はますます厚い支援者との癒着関係を強め、陳情や相談(つまり利益誘導=腐敗)が増えている。「直接連絡できる」ハードルの低さが、ますます陳情のハードルを下げると同時に、秘書や官僚にも携帯で連絡がつけられるため、陳情処理の速度が速まっていることから、ますます陳情が増えるという悪循環に陥っている。一部の陳情が増える一方で、幅広い有権者と接触する機会が減る問題もある。結果、議員と直接的なコネを有するものが、その地域で有利な立場(利権と情報)を得られるため、地縁血縁に基づく縁故政治が跋扈するところとなる。加計・森友問題の背景でもある。

また、ツイッターやフェイスブックなどのSNSの登場によって、ライバル候補との競争が激化、議員本人が情報を発信して自己アピールする必要が生じた。しかも、その発信内容は「専門家」によって「短ければ短いほど良い」と指導されるため、恐ろしく無内容なものか、恐ろしく煽動的なもので溢れるところとなる。政界では古くから「悪名は無名に勝る」と言われており、「炎上歓迎」は当然の流れだった。ケン先生がツイッターをやらないのは、そのためだ。
結果、議員は一日のうちの相当な時間を、スマホでの連絡と無内容な情報発信に費やしている。かつてなら、車や汽車での移動時間は、本や資料を読み、あるいは沈思黙考することで、政治家としての知識と思考を深めた機会が、今日では全て失われ、自ら「哲人」たらんことを放棄して衆愚の穴に身を投じてしまっている。そうしなければ、選挙に当選できないためだ。
同時に、SNSでは支援者ではない者、何の関係もない者、匿名の敵対者からの攻撃や嫌がらせ、無意味な問い合わせなどが膨大に送られてくるため、精神の損耗が激しくなる。
さらに、議員はSNSによって「大衆と繋がっている」幻想を得るため、その歓心を買い続けるべく、一層大衆受けのする発信を行うところとなる。
それらの様は、さながら議員が通信ツールの奴隷と化しているかの如くである。

デモクラシーは、人格高潔で高い知性を有する市民が全員参加の議論を行うことによって、私心を排した最も合理的な合意形成をなすことができる(はずだ)という前提の上に成り立っている。しかし、現実には全員参加の議論が不可能であるため、知性と教養を有する大衆が人格高潔で高い知性を有する代議員を選出、主権者を代表して代議員間で合意形成を行うのが、近代の代議制民主主義の根幹だった。
ところが、通信手段とコミュニケーションの変容によって、プラトンやアリストテレスが指摘した衆愚化が、大衆レベルでも代議員レベルでも加速、互いに衆愚をあおり立てるため、合意形成が困難を増し、強行採決=多数派による意思の強要が横行、少数派の不満は高まる一方になっている。他方、与野党を問わず、投票率の低下から、一部の手厚い支援者を優遇せざるを得ないため、不公正な縁故政治が跋扈するところとなっている。
君主政において、使用人の徳とは愚かさに他ならない。しかし公共の徳は犯罪とされており、唯一の徳は君主による犯罪の従順な道具であるということであり、唯一の名誉は君主と同じくらい悪であるということである。
(マクシミリアン・ロベスピエール)

戦後教育は、愚かで従順な帝国臣民を育成することに成功した一方、デモクラシーの前提となる人格高潔で高い知性を有する市民の涵養には失敗した。文部省が70年かけてばらまいたウィルスが、スマホの普及によって全国的に発症、デモクラシーの内部崩壊を促進しているのである。
posted by ケン at 12:31| Comment(3) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「激闘永田町編」お疲れ様でした。
今後の記事も楽しみにしております。

内情を知るほど、1有権者としては無力感に苛まれますね。手に職つけておけばよかったです。
Posted by ガースー at 2018年08月01日 03:42
いつもキレキレの時事問題の記事、楽しく読ませていただきました。
かつてはロシアへ行き、今度は中国と、フットワークの軽さが魅力的です。
再び舞い戻られることを密かに期待しています。

私も教員兼研究者をしていますが、実情が露わになるにつれ、日本で働くのがバカバカしくなってきました。日本が落ちるとこまで落ちるのを、海外で見届けるのもアリと考えています。
Posted by 学鳩 at 2018年08月01日 09:49
皆さん、ありがとうございます。

どんな体制でも60〜70年が耐用限界のようで、それを伸ばすためには変革が必要なのですが、上手くいかなければ寿命を迎えてしまいます。だからこそ、主権者に知性が求められるわけで、デモクラシーにおいては全員が知性を磨き上げる義務があるのです。知性があれば、変化にも対応できますし。

政治を担うものは、フットワークが軽くないと、既得権益の呪縛にあっという間に絡みとられて身動きできなくなってしまいます。それだけに長く政治を担うものに公正な人間などいないと考えるべきでしょう。20年も権力を用い続けて公正を保てるほど、人間は神ではありません。

停滞がズルズルと続くのなら、そのまま大陸に残るだけですし、変革の兆しがあり、再び自分の力が求められるのであれば、復帰することもあるでしょう。
Posted by ケン at 2018年08月01日 12:05
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: