2018年10月27日

中国で動員されてインドに死した大先輩たち

1943年夏、中支戦線で警戒任務に当たっていた陸軍第15師団(豊橋、後の「祭」)は、ビルマ戦線への転進を命ぜられる。上海からタイに上陸するが、上海で物資集積中に現地居留民から補充兵500人を動員した。
当時上海には10万人以上の日本人が滞在していたが、すでに多くの壮年男子が動員済みだったため、新たに動員した者の中には、40代50代のものも少なくなく、学校教員や大学教授までいたという。
その15師は、バンコクからチェンマイを経て、シャム高原からビルマに入り、警戒任務に当たるはずだったが、かのインパール作戦に急遽参加するところとなり、1000kmの距離を強行軍した後、休む間もなく1944年3月8日に作戦開始となった。
その後は言うまでも無く、師団の半数以上が戦病死(戦死傷ではない)するという大損害を受けて撤退するわけだが、補充兵の場合、もともと年齢でも体力でも劣るものたちだっただけに、大半が亡くなったようだ。

いやはや、明治帝政がある限り、中国にいてもいつ動員されて殺されるか分かったものではない。
が、いまは大先輩方に合掌したい。

【追記】
大先輩方が送られたインパール作戦では、将兵のほぼ全員がマラリアとアメーバ赤痢に罹患したが、前線では「一日に下痢80回未満」は「戦闘可能」と見なされ、同80回以上でようやく「要休養」が認められたという。現在の学校における部活動や、ブラック企業の勤務環境はすべて旧軍の伝統を継いだものと言える。明治帝政の悪弊はむしろ今日に至って、悪化していると言えそうだ。全く先輩方に合わせる顔もない。
posted by ケン at 12:00| Comment(6) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
80回って要するに認めないってことだよね。ふざけた話だ。
実質的には四・五回の段階で戦闘不能でしょうに。(まぁ、後送するロジもなかったんだろうけど…)
Posted by o-tsuka at 2018年10月29日 01:14
後送手段もなかったし、休養すると言っても、敵とジャングルしか無いのに、どこで?ってことなんですけど、その設定が凄すぎたので、掲載しました。
Posted by ケン at 2018年10月29日 19:58
窮すれば鈍するという事なんでしょうが、つくづく先の見えない無理をしてはならないと思い知らされますな。そこを頑張るのを美徳とする訳のわからん空気は残念ながら今以て根強い。
Posted by mashimo.koichi at 2018年10月30日 15:56
良くも悪くも個人の考え方がないので、誰でも一兵卒として徴兵して前線に送ってしまうんですよね。結果、兵站部門や情報部門に回せば、大きな戦力になるはずの経済学者や数学者を二等兵として最前線で死なせてしまうわけです。非常に社会的な話でもあって、根が深いのです。
Posted by ケン at 2018年10月31日 19:11
なるほどね。。。専門性も何も蔑にして最前線に。。。根本的に人の使い方がだめですな。

現在の企業社会でも、つくづくうちはまだマシな方なのでしょうが、大学での専攻科目も何もかも就職したら完全リセット(工学卒に飛び込み営業やらせたり国文卒にプログラミングやらせたりという類)なんてあちこちで聞きますし。
Posted by mashimo.koichi at 2018年11月01日 12:57
組織内の教育やOJTが行き届いていた時代はそれが強みであったわけですが、内部教育ができなくなるといきなりどうにもならなくなるんですよね。
つまり、条件が全く変わってしまったのだから、異なる結果しか出ないのは当然なのに、それを認めようとしないところが絶望的なのです。
Posted by ケン at 2018年11月01日 20:36
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