2019年02月01日

21世紀に王政復古の何故・上

欧州を中心に王政復古派が少しずつ勢力を増しているという。
共和主義者・天皇制廃止論者の私としては非常に憂慮すべき事態だが、その背景事情を鑑みれば、むべなるかなとも思ってしまう。

最大の要因はデモクラシーの空洞化であり、それに起因する議会制民主主義の機能不全にある。
デモクラシーは「クラシー」という語尾が象徴するように思想ではなく、本質的には社会政治構造を指す。最大多数の主権者意思を政治に最大的反映させることを旨とするシステムだ。
デモクラシーが近代国民国家と歩調を合わせ、ともに発展してきたのは、産業革命による富の拡大に始まり、次いで国家・資本による戦力動員・労働力動員が不可欠となって、市民の政治参加を認めることが対価にされたところが大きい。大まかに言って、普通選挙が広まったのが第一次世界大戦、女子に選挙権が付与されたのが第二次世界大戦であることは非常に象徴的だった。
労働者階級によるストライキやサボタージュを最小限度に留めるためにはデモクラシーが不可欠だったと言える。

第二次世界大戦後も米欧日で曲がりなりにもデモクラシーが維持されたのは、経済的繁栄と米ソ対立を前提とした階級和解(休戦状態)が担保されていたからだった。ところが、1990年代に、西側諸国の没落が明らかになってくると、米ソ冷戦が終わったこともあり、階級和解は反故にされる。中間層の増大によって、社会民主主義政党の力は弱まっているか、政治力や対資本交渉力を失っており、労働時間規制の緩和、非正規化・請負化、脱時間給、成果報酬制度の導入など労働者階級の分断が図られると同時に、消費増税や所得増税などによって中間層に対する収奪が強化され、一方で法人税の引き下げや銀行支援などによって資本の延命と優遇が進められた。

民主主義諸国では階層分化が進む中、投票率は低下の一途を辿り、国政選挙で5割前後の投票率が常態化しつつあるが、これはデモクラシーの空洞化を意味する。
投票率の低下は階層分化と相まって、相対的に社会的エリート層による独裁を実現させている。
例えば、2017年6月に行われたフランス国民議会選挙では、マクロン氏を支持する新党「共和国前進」が全議席の6割を超える308議席を獲得したが、第一次投票の得票率は28%に過ぎず、しかも投票率は5割を切る有様だった。つまり、全投票者のうち「前進」に投票したのはわずか13%でしかなかった。が、結果的に、フランス式の決選投票で大勝しただけの話で、第二次投票の投票率は42%にまで低下している。
国民議会選挙の第一次投票で、13%を得票した国民戦線(右派)はわずか8議席、同11%の「不服従のフランス」(左派)は17議席を獲得したに過ぎない。この二党だけで投票者の約2割が「民意を示したのに議会に反映されなかった」わけだ。
日本においても絶対的得票率で20〜25%しかない自民党・安倍政権が国会に圧倒的議席を擁して6年以上に渡って政権を握っている。

これらは議会制民主主義がもはやデモクラシーを体現するシステムとしては機能しなくなっていることを意味している。
その結果、フランスでは選挙で主権者の意思を反映させられなかった「少数派」の市民が10万人単位でデモあるいは「暴動」を起こす事態となっている。フランスの情勢は、支配者層と非支配者層、有り体に言えば階級対立が先鋭化し、議会制度では抑えられなくなっていることを示している。

ヨーロッパでデモクラシーや議会制民主主義が機能不全に陥っている理由はもう一つある。それはEUの存在だ。
欧州連合の成立によって、欧州各国は財政金融政策の自律性をEU政府に奪われてしまった。これは実のところ主権の重要な一部が民主的根拠を持たないEU官僚に奪われ、各国の主権者が主権を行使できない状態にあることを示している。ギリシア、スペイン、イタリアなどで長く混乱が続いている一因はまさにここにある。
自律的に財政出動ができない欧州諸国では、再分配機能が急速に低下、難民や移民の受け入れによる失業率の向上や待遇悪化も相まって、階級対立がますます先鋭化している。いわゆる「リベラル」層が難民や移民の受け入れに寛大であるのは、安価な労働力を欲するが故であり、人道主義はあくまでも小奇麗な看板でしかない。

またアメリカの場合、もともと選挙人登録したエリート市民しか投票できない仕組みになっているが、それでも「民意」で選ばれた大統領と議会が対立を先鋭化させて一ヶ月も政府機関が閉鎖する事態になっている。その議会も「ロシアの介入」をブチ上げることでしか求心力を維持できない有様にある。
ヨーロッパや日本を含めて、「市民が良心に従って適切なエリートを選別し、選ばれたエリートが民意を反映させつつ統治の責任を負う」仕組みがもはや機能しなくなりつつあるのが現状なのだ。
例えば、フランスにおけるオランド政権やマクロン政権の統治不全、日本の霞ヶ関における統計改竄や自民党による国有資産の私的売買などは、「エリートが統治の責任を負う」仕組みが成り立たなくなっていることの証左と言える。エリートが失政の責任を負わないと、市民の信頼が失われると同時に、失政による負の連鎖が止まらなくなる。フランスでも日本でも国政選挙の投票率が5割前後にまで低下しており、「選挙によって失政の責任を追及し、統治者を代替する」機能が作用しなくなっている。

この場合、統治者は安定した民意の支持を持たないため、どうしても支持を回復するための博打を狙いがちになる。銀英伝における同盟軍の帝国本土侵攻作戦などはその最たる例だが、現実の日本でも満州事変や盧溝橋事件に始まる日中戦争などがそれに値するし、さらに古くは日清戦争もそうだった。
日清戦争などは、当時の帝国議会は高額納税者しか投票できない非民主的な議会だったにもかかわらず、開戦論が沸騰、議会に支持基盤を持たない伊藤は、総理の座を保つために開戦に踏み切るほかなかった。
(以下続く)
posted by ケン at 12:00| Comment(0) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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