2020年07月08日

徳川家広氏が立憲離党

【徳川家広氏が立憲離党】
 立憲民主党静岡県連は26日までに、昨年の参院選静岡選挙区に同党から立候補し落選した徳川家広氏の離党を了承した。徳川氏は徳川宗家19代目。「自分の役目は終わった」などとして、5月に離党届を提出していた。 
(6月26日、時事通信)

もともと立民は「国会議員の、国会議員による、国会議員のための党」であり、単なる選挙互助会に過ぎないわけだから、立候補するために入党し、当選できなければ離党は正しい姿だとは言える。

しかし、それを徳川宗家がやるとなると、幕臣の末裔としては色々思うところがある。
1868年1月6日、鳥羽伏見戦に敗れた旧幕軍は、大坂城に向けて退却途上にあった。
大坂城にはなお2万人からの軍が詰めており、再戦に向けて士気は上がっていた。徳川慶喜も、一世一代の名演説をもって兵を鼓舞した。
戦すでにここに至る。たとい千騎戦没して一騎となるといえども退くべからず。汝らよろしく奮発して力を尽くすべし。もしこの地(大坂城)破るるとも関東あり、関東破るるとも水戸あり、決して中途にして止まざるべし。
『会津戊辰戦争史』

ところが、その晩、慶喜は松平容保らを連れて船に乗って江戸に逃げてしまった。二万の兵は置き去りにされたのである。
夜半に及び、松平太郎(組頭)は戎服に容を改めて来たり、余輩一同が悠然として落ちつきたるを見て余と西に向かいて、君たちは何で落ちついて居るか(と親指を出して)、

「もう疾(と)うにお立ち退きになりましたぞ、早く落ちる用意をしたまえ」

と告げたり。西はこの語を聞きて怪しめる色をなしたるに、余は早く語を発して、

「太郎殿そんな不吉な戯言は仰せられぬものでござる」

と一本やり込めて見たれば、松平は

「どっちが戯言だ。嘘と思うなら、御用部屋なり、御座の間へなり、行って見たまえ。御老若方も奉行衆も皆お供で立ち退かれたぜ。僕は今にわかに陸軍の歩兵頭に転じて、これから出陣する所だ。君たちは早く立ち退きたまえ」

と言い捨て、急ぎ役所を出で行きたり。  

『懐往事談』 福地源一郎

わが先祖は戊辰役に出征しなかったとはいえ、主君に置き去りにされ、敵中の城に放置されたご先祖の同僚の気持ち、いかばかりか。
幕臣の末裔としては、この故事が思い出されるだけに、徳川家広氏のやり口を見ると、「結局、おみゃあもきゃ!」と叫びたくなるのである。
posted by ケン at 12:00| Comment(0) | 政局ほか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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