2021年01月17日

何でも無かったことに

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解体される軍人会館と人権博物館。
すべて「無かったこと」にする昭和帝政。
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それでも私たちは生きていくしかないのよ!

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おはようございます。今日も一日。

"Мы, дядя Ваня, будем жить. Проживем длинный, длинный ряд дней, долгих вечеров."
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2021年01月02日

リメイク版『月姫』夏発売??



神再降臨!!
これで中国行はなくなった?!
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2021年01月01日

2021年は何故か東京発

明けましておめでとうございます。
旧年中はお世話になりました。
本年もよろしくお願い申し上げます。

去年は結局中国に渡航できず、一年間延々とオンライン授業を続けて終わってしまいました。
いかんせん、オンライン用にイチから授業内容を見直し、作り変えなければならなかったため、休日は休めても平日は非常に多忙で、ロクに本も読めないほどでした。オンラインは課題も多くなりやすいため、添削作業が増え、たとえ休日でも朝起きて家を出るまでは添削してる感じでした。

私も当初はオンライン授業を支持していましたが、実際に一年間続けてみると、学生のモチベーションは低下の一途を辿っており、対面授業の水準を維持できる学生は20〜30%というのが肌感覚です。
確かに全てを対面にする必要はないと今でも思いますが、全てをオンライン化するのは、少なくとも語学では難しく、仮に語学で行う場合はオンラインであっても10人以下のクラスにする必要があると思います。
その意味でもいい加減渡航しなければと思い、大学側からも二月に渡航するよう求められておりますが、コロナ感染の現状を見る限り、あまり実現性は高くないように思われます。

さて、日本の現状に目を向けてみましょう。
昭和帝政の瓦解が始まりつつあります。
表面上は「コロナの流行」「株価が最高値」「東京五輪と大阪万博」程度で、瓦解とは程遠いイメージです。
しかし、モスクワ五輪は1980年、サラエヴォ五輪は1984年に行われていることを考えれば、10年以内にソ連もユーゴもなくなってしまうとはほぼ誰も予想していなかったことに気づくはずです。
以下、キーワードに基づいて解説します。

「コロナの流行」は医療関係者の献身的精神によってかろうじて維持されてきただけの、日本の「低額医療」を瓦解に導きつつあります。
日本の医療は先進国内で最も安価に抑えられている上、「保険証一枚で誰でもいつでも受診できる」ことを売りにしていました。
しかし、実際にはコロナ禍で全ての医療機関がパンクしつつあるにもかかわらず、医療従事者のボーナスは半減し、当然ながら休暇もなくなり、あまつさえ市中では差別にさらされています。欧米ならストライキが起こるところですが、日本では退職者と休業者が自然増加することで、医療機能が停止していくことになりそうです。
「財政健全化」と称して公的病院を次々と廃止した結果、救急などの不採算サービスが提供されなくなったことは、明らかに政治的な失敗と言えるでしょう。

「株価が最高値」は、少子高齢化によって利益が出ない実体経済への投資が無意味化しているにもかかわらず、金融超緩和でカネがジャブジャブ余っているため、行き場のない資金が株に流れているだけの話です。
国家としても、株価が瓦解した途端に政権と市場も瓦解するため、公的資金(年金など)をつぎ込んででも株価を維持する他に手がない状態です。
ゲーム的に言えば、サドンデス敗北を避けるために、持っている資源を全てVPに換算しているものの、保有資源がなくなった途端に敗北するだけの、全く展望がない状態にあります。
「株価が最高値」は実は、他の投資先が「全く展望がない」ことを示しているのです。

「東京五輪と大阪万博」は、前回のもとと比較するとわかりやすいでしょう。
1964年の東京五輪と1970年の大阪万博は、それを名目に巨額のインフラ投資をし、そのインフラ整備によって経済成長を成し遂げることができました。これは、人口ボーナスとインフラが未整備だったためです。
これに対し、2020年代の東京五輪と大阪万博は、すでにインフラ過剰、かつ人口減少の中で行われます。結果、巨額の資本投下はただの浪費にしかならず、逆に巨額の維持費がかかるだけの巨大インフラを増産して負債を残すだけとなるでしょう。東京も大阪もそのような新規インフラは不要だからです。
実はモスクワ五輪とサラエヴォ五輪も同様で、当時のソ連もユーゴスラヴィアも長い低成長期を経て外貨や財政余剰金が不足する中で、五輪を強行した結果、「巨大な建造物の墓場」を作って負債だけを残して終わりました。
ゲーム的に言えば、最後の予備兵力を使い切って1VPを獲得しただけに終わった格好だったのです。
「このまま戦力をすり減らすよりは1VPでも取れるものは取っておこう」というのは、ゲーマーなら理解できるのですが、現実は「投了」で終わるわけではないのです。

ここに来て際立っているのが政府、政治の無能ぶりです。
例えば新型コロナウィルスの話で言うと、少なくとも秋段階で新型コロナを「第二類相当の指定感染症」から除外し、「インフルエンザと同程度の五類感染症」に指定しておけば、現状の医療崩壊は避けられたはずでした。
ところが、政府が指定感染症の維持に拘った結果、無症状や軽症のものでも隔離病棟に入院させざるを得ず、しかも長期化するため、全く病床が足りなくなった上、医療従事者の離職を誘発させています。
さらに言えば、政府が早々に「インフルエンザと同等」と認めておけば、そもそも「GoTo」などをやる必要すら無かったかもしれないのです。
誤った認識に基づいて誤った対応をした結果、より悲惨な結果を招いているのです。

実は選択的夫婦別姓も同じです。
政府・自民党は「夫婦別姓と女性の社会進出や収入は関係ない」と主張していますが、日本女性の平均収入は男性の約半分で、欧米の8割に大きく劣っています。
夫婦別姓は、婚姻で姓が変わることで、それまでの業績が無効化されることからも、女性にとって凄まじく不合理な制度であることは間違いありません。
少子化が進む日本では、今後、勤労世代が急速に減少しますが、女性の生産性や収入が高まらないと経済規模を維持することすら難しいわけです。
にもかかわらず、「(誤った)伝統」を盾に女性の社会進出を否定する昭和帝政は、極小化する若年層の男性だけで経済成長が可能であると考えているわけです。これはもはや救いがたい妄想でしかありません。

日本の場合、ソ連やユーゴのように突然破断界を迎える形にはならないかもしれませんが、確実に帝政は空洞化し、破滅していくでしょう。
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2020年12月21日

武田氏史跡巡り・末 高天神城

最終日は岡崎城を攻め、昼食をとった後、東京に向けて出発。
途中、東名掛川で下りて高天神城へ向かった。
掛川インターからは15km超のところにある。ゲームマップで見ると、もっと海沿いのイメージだったか、それほどでもなかった。
世に知られる堅城だが、調べてみると標高は132メートルしかなく、「山城つーても、ほぼ平山城じゃん。何がそんなに凄いのきゃ?」と思っていたのだが、「事実は小説より奇なり」だった。

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100mちょいと言っても、山の傾斜が半端なく、断崖絶壁とも言える場所も多く、武装して登ること自体が難行苦行だ。
両手に武器を持っていたら、登るのは困難で、まして下から上を攻撃するなど、ほぼほぼ無理な感じ。
そのため、戦闘正面は恐ろしく狭い上に急坂で、仮に大兵力で包囲しても投入できる兵力は限られるため、意味はない。
山頂部は非常に狭く、籠城できる兵も少ないが、その割に山全体は長く広がっており、全ての出口を封じるためには相当数の兵が必要となる。
確かに非常に厄介な城であり、強襲するなど、「何をバカなことを」という話でしか無い。これを二の丸まで強襲で落とした勝頼が過剰な自信を抱いてしまったとしても、おかしくはない。
城跡もほどよく整備されており、様々な遺構が確認できて面白かった。

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ただ、高天神城は主要な街道から離れており、大軍を籠城させるには不向きな山城でもあり、これを無理して攻撃する理由がわからない。
逆に落としたとしても、武田家がこれを維持するのは容易ではなく、実際に勝頼は同城を見殺しにして、それが家臣内での評判を大きく下げるところとなった。
私がプレイヤーだったら、放置の一択だと思うのだが、当時の人的にはどうだったのだろうか。

3日間の「山歩き」でへばりつつあったところに、最後の高天神城がもっともきつく、久しぶりに足にきていた。
今回の旅は三人全員運転できたので、一人は常に休息できる形となり、それも良かったが体力を考えると、やはりこの10年内に色々回っておくべきであることを再確認した次第。
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2020年12月17日

武田氏史跡巡り5 岡崎城

武田関係ではないのだが、H氏先輩の希望もあって、長篠で一泊してから岡崎に向かう。
新城ICから新東名に乗ってすぐのところにある、設楽原PAからは長篠一帯を見渡すことができるが、戦場は一部しか見えない。
しかし、信長の本陣があった茶臼山のすぐ隣にあり、本陣跡まですぐ登ることができる。
残念ながら、木が立っていて、設楽原を見渡すことはできないが、想像以上に高い丘で、勝頼の本陣や家康の本陣を見下ろす好点と言える。

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岡崎までは長篠から40kmほどしかなく、吉田(豊橋)なら20kmしかなく、こんなところに武田軍がいるというだけで、家康的には生きた心地がしなかったろう。
その岡崎城だが、三河鈴木氏の系譜を持つケン先生的には「聖地」の一つである(養子相続なのでDNAは無い)。
ご先祖は、三河一揆に際して「主君との縁は一代限りだが、仏との縁は未来永劫」との大義を掲げて一向宗派につき、岡崎城を囲んでいる。
家康自身、末年に至ってなお、「最も苦しかったのは、一揆勢に岡崎城が包囲されて、孤立無援で籠城せざるを得なかった時」と回顧しているほどだった。三方原でも大坂の陣でも本陣を蹂躙された家康だが、身内の半分に裏切られて包囲されたことの方が苦しかったらしい。
一揆は最終的に家康が折れる形で、「(真宗から浄土宗に)宗旨変えをするなら、罪を問わず帰参を許し、これまで通りの奉公を認める」ことで和解が成立し、わが先祖もこの時に浄土宗に変わった。確かに、帰参は許されたものの、その後も遠江や駿河あるいは武田遺臣などの「外人」勢が出世していく中で、鈴木氏は幕末まで冷や飯ぐらいを続けざるを得なかった(皆が皆ではないが)。
それもあってか、わが先祖は戊辰政変に際しては、徳川家や幕府に殉じることなく、早々に明治政府の東京府に出仕している。勤王志士などと言っても、実態はテロリスト集団であって、行政の実務に耐えなかったためだった。

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そんなことを話しながら、岡崎城を回る。なお、ケン先生は以前にも来たことがある。
平城だが、菅生川と矢作川の交点にあり、川を天然防壁とする、大規模な城である。とはいえ、平城になったのは江戸期のことで、戦国期の本丸は龍頭山という丘の上にあったらしく、それを想像するのは難しい。いかんせん、岡崎市のど真ん中にあるためだ。
江戸期にも使われ続けているので、どこからどこまでが戦国期のものかわからないものの、色々と整備されており、日本人がイメージする城らしい城であるとは言えるだろう。何重にもある深い堀は、見ただけで萎えそうだ。
検分していくと、仮に武田軍が1万や1万5千人程度で包囲しても、容易には落ちなかったに違いない。

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城を検分した後は、カクキューさんで八丁味噌のお土産。
併設の食堂で食した、八丁味噌の味噌煮込みうどんが絶品であった。
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2020年12月15日

武田史跡めぐり4 長篠

武節、足助を抜けて、少し東に戻る形で長篠に向かう。
遠江から西上するルートは「浜松を通るか通らないか」くらいの選択肢しかないのに対し、信濃から南下あるいは西上するルートは、吉田、岡崎、あるいは尾張ストライク、美濃ストライクなど進撃路に幅があり、相手に特定させないメリットが有る。
ゲームでも、岩村城や足助城が取られると、織田・徳川プレイヤーとしては胃が痛くなってくる。
長篠もそんな場所の一つであり、岡崎と浜松のどちらも狙える位置で、交通の要所でもある。

まずは愛知県道257号線で田峯方面から豊川沿いに南下、「馬場信房戦死の地」を探す。
これもGoogle先生の賜物で、15年前だったら場所の特定も困難だったろう。
現地に行けば、一応小さな看板は出ているのだが、旧道ということもあり、通り過ぎてしまう恐れもあった。
現地を見つけても、碑を見つけるのはさらに困難で、整備不十分なところを登る必要がある。
豊川沿いの狭い道で、実際には勝頼が豊川を渡ったのを見届けた上で、ここで殿を務めて果てたものと見られる。

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豊川をさらに南下すると長篠城に出るので、まずは長篠城を検分。
小さな平城で、それなりに堀などはあるものの、堅城には見えない。
しかし、廃城後は畑にされたり、本丸の中を飯田線が通っていたり、開発度がハンパなく、ほぼ「公園」と化しており、当時の姿を思い浮かべるのは難しい。
史実では、奥平氏が500人で籠城し、武田方は1万5千人で包囲したはずだが、本気で強襲するつもりがあったのが疑問すぎる。

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次いで、設楽原へ。
まず設楽原歴史資料館から攻めてみたものの、実際には「火縄銃博物館」で、合戦関連の資料や展示は乏しい。
気を取り直して歩いてみる。

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これが連吾川って言われても。。。

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馬防柵はイメージの再現だが、本当にこれに向かって騎馬突撃したのだろうか。

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山県昌景の墓

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家康本陣近く

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畑や民家はあるものの、おおよその戦場を想像できる感じで、そこここに碑や塚が残されていて探して回るのが面白かった。
織田・徳川方の本陣と武田の本陣はどちらも丘の上にあるが、その間に広がる設楽原が想像以上に狭く、細長い感じで、これは実際に立ってみてよくわかった。
連吾川自体はほぼほぼ用水路レベルの川だったが、当時はどうだったのか、梅雨の時期で増水していたのか、色々想像してしまう。
しかし、小川とは言え、川を渡って、前日の雨でぬかるみがちな原っぱを渡って、堅固な防護柵に向かって騎馬突入したとはとても思えない。
やはり主戦場は柵のない戦場南方だったのではないか。

長篠城や資料館は期待はずれではあったが、戦場跡としては一級品であると言える。
posted by ケン at 12:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする