2016年01月24日

バレエからヨガへ

腰を痛めてバレエを止め、1年前に急性腰痛を患ってから、整骨院に通院しながらヨガとピラティスでリハビリに努めている。ピラティスは、もともとバレエ用の体幹を鍛えるために始めたものだったが、本来傷痍軍人のリハビリをスポーツ化したものであるだけに、腰痛のリハビリとしても十分に機能していると思われる。ただ、ピラティスだけだと物足りなく思えてきて、ダイエットを兼ねて始めたのがホットヨガだった。同じ系列のヨガスタジオがすぐ近くにあったことも大きい。

私の人生も完全に後半期に入っているため、実際には「体を鍛える」というよりも「肉体老化を少しでも遅らせて、悪影響を減らす」ことが目的となる。例えば、職場の同僚は、私と同い年ながら「五十肩」を患って腕が肩より上に上がらなくなっているし、老眼も甚だしいという。このうち、老眼はどうにもならないかもしれないが(一定まで進行したらレイシックという手もある)、五十肩はある程度予防できる。
四十肩あるいは五十肩と呼ばれるものは、要は肩関節の劣化であり、特に肩甲骨の経年劣化に負うところが大きい。そして、関節部の経年劣化は「使わない」ことで加速される。つまり、平素腕や肩を動かさないことが劣化を促進しているのだ。
これを避けるためには、平素から腕や肩を動かすことが必要で、一般的には水泳やゴルフ、野球やテニスなどが考えられる。関節部の劣化そのものは止められないが、周辺の筋肉を鍛えることで関節部を補強することが可能だからだ。
私の場合は慢性腰痛があるが、これは腰椎や椎間板の劣化に起因する。骨の劣化そのものは、大きく止めることは難しいのだが、それを補完するために腰回り、特に腹筋と背筋を鍛えることが推奨される。

こうした目的は、ゴルフやテニスのような一般的なスポーツでもそれなりには満たせるが、やはり基本は競技を楽しむことを目的としているだけに、「体を鍛える」ところまで持って行くには相応の自覚が必要となる。もっとも、バレエをやっていた時は、下手すると練習の翌日は壁に手を突いて歩くほどの筋肉痛になったものだが。
その点、「肉体をつくる(健全な肉体に健全な精神が宿る)」ことを目的としたヨガは、私の要求に適合していた。実際にやってみると、予想外に脚(部)を鍛えることに驚いたが、これは野生動物が歩けなくなると死ぬことに象徴されるように、人間もまた「健脚」こそが健康の源ということらしい。もっとも、脚を鍛えると言っても、内転筋のような内側の筋肉なので、一般的な競技スポーツとは鍛えるところが少し異なるのだが。
これはヨガ全体に言えることで、日常生活では使われない筋肉を敢えて酷使することで(変なポーズをする)、肉体全体のバランスを整えるという発想のようだ。
とはいえ、実際のヨガはそれなりにハードなのだが、苦しいポーズを維持するかどうかは自分の判断次第となるので、「自分の肉体と向き合う」側面が強い。もっとも、ヨガは「苦しくても堪える」ことを推奨はしていないので、その点気が楽と言えば楽なのだが、やはり自律能力(セルフコントロール)が求められる。私的には、この「自分の肉体と向き合う」時間と感覚が気に入っている。

また、ヨガの良いところは年齢と無縁の点であろう。世に言う「ヨガの達人」はみな筋肉質の高齢者であり、むしろ痩せている印象が強い。私も長く続けられたらと考えている。
今のところ、バレエをやめてから太った5kg超分のダイエットには成功していないものの、これはどうやら筋肉がついてしまったためのようで、ジャケットの肩幅がきつくなってしまっている。もともと格闘家の人に「何か(格闘技を)されているのですか?」と聞かれるような体つきなのに、ますます「それっぽく」なってしまっているようだ。
上記の理由から、ヨガは「スポーツは苦手だけど、何か肉体を鍛えたい」という人にお勧めである。
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2016年01月23日

【宣伝】新・映像の世紀 世界は秘密と嘘に覆われた

いまのNHKには思うところ満々だが、これは必聴か?

新・映像の世紀 第4集 世界は秘密と嘘に覆われた
2016年1月24日(日) 午後9時00分〜9時49分
 資本主義のアメリカ、社会主義のソビエト。冷戦時代、両陣営は激しいスパイ合戦を繰り広げた。アメリカの諜報機関CIA、ソビエトの秘密警察KGB。諜報活動、破壊工作、暗殺。米ソのスパイ合戦は空前の規模で拡大した。疑心暗鬼にとりつかれた権力者は、異常な監視社会を生みだし、人々の自由を奪った。冷戦時代に東独の秘密警察シュタージが行った諜報活動の映像が公開された。夫婦がお互いに監視し合ったり、親しい隣人を盗撮するなど、人間性破壊のおぞましい映像である。一方、アメリカでも同様のことが行われていた。国内にいる共産主義者を探し出すために、盗聴、郵便開封、家宅侵入が行われた。また、CIAは秘密工作によって外国の反米政権を次々に転覆させた。
 核兵器による恐怖の均衡が続く中、米ソは直接戦うことを避け、アジア、南米、アフリカなど世界各地で代理戦争を繰り返した。
 冷戦終結から25年、情報公開が進み、舞台裏の全貌がみえてきた。CIAとKGB、FBIやシュタージ。世界を秘密と嘘が覆った。第3次世界大戦という破局に怯えた冷戦の時代を、スパイ戦という視点から見つめ直す。
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2016年01月13日

【追悼】D・ボウイさん逝去

【時代動かしたロック歌手=東西ドイツ統一にも影響−ボウイさん死去】
 音楽だけでなく映画やファッションにまで多大な影響を与えた英国歌手デビッド・ボウイさん。その活動は東西冷戦を象徴した「ベルリンの壁」崩壊にさえ及んだとされる。AFP通信によると、ボウイさんはこれまでにレコードなど約1億4000万枚(推定)を売り上げた。1970年代には「世界を売った男」(70年)や「ジギー・スターダスト」(72年)で独特の世界観を打ち出し、そのスタイルは中性的なファッションやルックスが特徴の「グラム・ロック」と呼ばれる。ボウイさんは76年、麻薬などに依存していた米国での生活に別れを告げ、東西冷戦下の西ベルリンに移住、3年間暮らした。西ベルリンではアルバム「英雄夢語り(ヒーローズ)」(77年)に代表される作品を制作した。「その特別な体制や緊張感、壁がもたらす影響など、ベルリンにいなければあの時の音楽は作れなかった」と後のインタビューでボウイさんは語った。壁が崩壊する2年前の87年には、壁に近い現連邦議会議事堂前でコンサートを行った。壁越しで聴いていた多くの東独民衆を西側へ引き寄せながら、ヒーローズを歌った。独外務省は11日、「さようなら。今やあなたはヒーローだ。壁崩壊を助けてくれてありがとう」とツイッターに投稿した。
(1月12日、時事通信)

デビッド・ボウイさんの訃報に接し、心からお悔やみ申し上げます。
デビッド・ボウイは、中学生の時のヒーローでした。当時は、まだアナログ・レコードの時代で、中学生の小遣いで買えるはずもなく、ちょうど普及し始めたレンタル・レコード屋さんで借りて聞いたり、カセットテープに落として聞いたものだった。ちょうど「レッツ・ダンス」が一世を風靡した時代だったが、私は過去作品も聞いて、結局「ジギー・スターダスト」と「ハンキー・ドリー」の二作がいちばんのお気に入りで、これだけはCDも買い直した。やっぱ少し陰鬱なイメージの残る、グラム・ロック時代の曲が印象に残っている。CD版のボーナストラックにある、ジギー・スターダストのギター弾き語りと、レディ・スターダストのピアノ弾き語りは鳥肌物だった。

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部屋で発掘されたCD。ハンキー・ドリーは何故か見当たらなかった。

そして、『戦場のメリークリスマス』。私が初めて見た、旧軍の負の側面を正面から描いた映画だったが、それ以上に「デビッド・ボウイと坂本龍一」という組み合わせに惹かれて見に行き、「この2人が出れば、どんな映画でも売れるよな〜〜その上、この配役というのは、大島監督は凄い人だ」と素直に感心したものだった。もっとも後に、色々断られて、結局この配役になったことを知ったのだが、それでもこの配役と(柔らかい)同性愛表現が衝撃的だったことは間違いない。
それにしても、この作品が昨今ロードショーされていたら、映画館が右翼に焼き討ちにされていた恐れがある。まったく隔世の感がある。

結局コンサートには一度も行かなかったのだが、これは「ZIGGY STARDUST THE MOTION PICTURES」のビデオを見て、イメチェン後のコンサートを見て幻滅することを恐れたためだったが、今となっては惜しい気もする。
久しく聞いていないので、供養を兼ねてCDを回してみようかと。
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2016年01月01日

新年の挨拶:2016年を迎えて

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明けましておめでとうございます。旧年中はお世話になりました。本年もよろしくお願いします。
本ブログも無事11年目を迎えることができました。永田町で日々感じ、考えていることを備忘録的に書くことから始まりましたが、マスメディアが本来の機能を発揮しない現在となっては、現場で直接見聞きしたことや、周辺情報から類推される政府・政権党の内部事情を伝えるツールにもなっていると自覚しております。

この間、様々な歴史書を読んで感じるのは、一般的に「歴史」として流布されていることの多くが時の権力者によって改ざんされたり、あるいは権力者の意向に沿って書かれており、往々にして事実と異なっているということです。また、事実とは違わないまでも、見る立場によって視点や考え方が大きく異なっており、一方的な視点からのみ見ていると、大きな見落としをしてしまいます。
メディアの本来の役割は、政府や権力者が隠そうとしている情報を伝えることで、主権者が客観的な評価を下せるようにすることにあったはずですが、今日ではメディアの存在が自己目的化してしまい、政府・政権党から下賜された特権を保持するために、権力に奉仕するものとなっています。自民党と安倍政権の権威主義は、彼らのみによって成立しているのでは無く、財界やメディアと、権威主義を支持する国民に基盤があるわけで、この構図はナチス・ドイツや戦前の日本にも共通しています。
その意味で、野党の第一線にあるものが、何を見て、どう考えているのか、記録しておくことは、読者の皆さんに判断材料を提供しつつ、歴史資料にもなる、というのが私の考えです。

さて、今年は同日選になるかはともかく、衆議院と参議院の両方で選挙となる可能性が高く、結果次第では一気に憲法改正、権威主義体制の確立へと動いて行く第一歩になります。
現状では、自民党は必ずしも強い支持を受けているわけではありませんが、無関心層が多いことと、野党に対する不信が非常に強いことによって、相対的に自公体制が安定している構図です。2007年の参院選と09年の衆院選において民主党が自民党に勝てたのは、自民党の支持母体の一部を切り崩しつつ、無関心層の動員に成功したためで、その功績の大半は小沢一郎氏にあると思います。同時に、民主党が2012年の選挙以降、全く票を集められなくなった(旧社会党よりもはるかに少ない)のは、その政策と主張が自民党とほぼ同じになってしまったことにあります。つまり、たとえ維新残党と合流したところで、従来の主張をしている限り、決して票は集まらない、ということです。党員としては残念ながら、今の民主党には「支持される理由」「アベよりマシな理由」について挙げられるだけの根拠がありません。
他方、自民党はTPPによって財界を、軽減税率によってKM党とマスメディアを統制下に置くことができたので、「他に選択肢が無い」という理由も相まって、「相対的に自民が野党を圧倒する」図式になっています。

こうした不利な戦況を覆すのは全く容易ではありません。が、日本政府と自民党は無理に無理を重ねて財政と経済の現状を支えている格好であり、いつ崩壊が始まってもおかしくないところに来ていることも確かです。不利なら不利で「これ以上、悪化させない」というのも立派な戦い方であり、今夏の参院選は「自公に改憲に必要な3分の2をとらせない」という辺りが関の山でしょう。「それでは社会党と同じでは無いか」と言われそうですが、現状の民主党は社会党ほども票を得ていないのですから、そもそも戦いになっていないのです。問題は、時間を稼ぐ間に「自民党とは異なる」野党をつくることにありますが、それこそが最大の難問だというのが私の認識です。

新年早々暗い話で申し訳ありませんが、どうか本ブログを通じてわが闘いを見守って頂ければ幸いに存じます。
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2015年11月14日

シュミット元西独首相の逝去を悼む

【旧西ドイツのシュミット元首相が死去、96歳】
 冷戦時代に西ドイツの首相を務め、その後も積極的に政治にかかわり続けたヘルムート・シュミット氏が10日、出身地の独ハンブルクで死去した。96歳だった。独議会と私設の事務所スタッフが同日、CNNに語った。シュミット氏は1974年、社会民主党(SPD)から2人目となる首相に就任。82年に連立政権の崩壊とともに退陣し、ヘルムート・コール氏が後任に就いた。首相時代の前後には国防相、財務相、臨時の外相も務めた。その後も90年の東西ドイツ統一を経て、2002年に83歳で心臓発作を起こしバイパス手術を受けた後も、政治に関する発言を続けていた。
  訃報を受けて、国内外から追悼の声が寄せられた。シュタインマイヤー独外相はツイッターで「深い悲しみ」を表明した。北大西洋条約機構(NATO)のストルテンベルグ事務総長は、シュミット氏を「欧州統合への信念を持った立派な政治家」「強固な防衛と対話は共存可能だと熟知していた、見識ある指導者」とたたえた。欧州中央銀行(ECB)のドラギ総裁も「欧州は偉大な指導者を1人失った」と述べ、「シュミット氏の知識と温かい人格を尊敬していた」と振り返った。
(11月11日、CNN)

ヘルムート・シュミット元西ドイツ首相が逝去されたと聞き、心からお悔やみ申し上げます。

シュミット氏は「政権を取る社会民主主義政党」のシンボル的存在であり、右派社会党の系譜を自認する私にとって目標の一つだった。ドイツ社会民主党(SPD)は、1969年から1982年までの13年間にわたって自由民主党と連立政権を組んでいたが、当初首相を担っていたヴィリー・ブラントがスキャンダル事件(秘書が東独シュタージの協力者だった)で辞任したのを受けて、国防大臣だったシュミット氏が首相の座を引き継ぎ、82年に自民党が連立を離脱するまで続いた。ただ、党首の座は左派寄りのブラントが担い続け、シュミット氏は首相ながら副党首だった。これもドイツらしい現実主義の表れであり、日本では想像しがたい。

シュミット氏は、1939年から45年まで国防軍にて兵役を担い、独ソ戦に参加、後に士官になり砲兵中尉。戦後すぐにSPDに入党し、ハンブルク市の職員となったが、再軍備後は連邦軍予備士官も担い、予備役少佐になっている。再軍備に反対した社民党にあって、国防大臣時代には、徴兵期間の短縮、国防大学の設置、長髪の容認、女性軍人の限定的導入などを実現、首相としてはパーシング2を導入、国防力増強と併行して対ソ軍縮交渉を進め、ドイツ赤軍に対して警察力の行使を厭わないという、一筋縄ではいかないリアリストぶりを見せている。
同時期の日本社会党では、左派出身の委員長が続き、自衛隊廃止論や非武装中立論が唱えられていたことを思えば、政権担当能力の点であまりにもかけ離れていたことが分かる。逆に民社党は急速に右傾化し、有事法制の制定や原発推進を訴え、韓国やチリの反共軍事独裁政権を称賛するという状況にあった。
ドイツ社会民主党は、安保・外交分野で現実主義を貫きつつ、社会保険や年金制度の整備を続け、最低賃金や労働時間短縮も進めたのである。

もっとも、シュミット氏は2000年代に入ってからも原発政策を支持しており、国防軍潔白信者であり続け、国防軍の評価見直しに対して激しく反発したというので、この点でも単純な評価は難しい。
私は一度だけ(たぶん)SM党旧本部でお見かけしたことがあるが、特別大きいわけではないものの、老齢ながら体格が良く、とにかく風格を醸し出していた記憶がある。さすが独ソ戦の生き残りというべきか、目力が凄かったことが思い出される。恐ろしくヘビースモーカーで、90過ぎても行く先々で「禁煙」が一時的に解禁されるという話だったが、どうやらどこでもタバコに火を付けてしまうのだが、誰も「禁煙です」とは言えない雰囲気だったようだ。確かNHKのインタビューでも、SM党本部での講演会でも、タバコを吸い続けていた。

日本において、自民党の永年一党優位体制と際限なき右傾化を許してしまった一因が、一人のシュミットも輩出できなかった社会党にあることを思えば、改めて「どこで道を踏み外してしまったのか」と考え込んでしまう。
ちなみに戦後卒業したハンブルク大学の卒論は、「ドイツの通貨改革と比較した日本の通貨改革」だったという。
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2015年11月07日

連続殺鯉事件

この間わが家を震撼させてきた「連続殺鯉事件」。
庭池の鯉の数が合わず、かといって死体も確認されず、池の端が水びたしになっていることから、当初、犯人像は「ネコかカラス」と思われてきた。だが、先日未明、家人が未遂現場を目撃、真犯人は「アオサギ」であることが判明した。
まさか東京の、しょぼい庭池に飛来していたとは想定外もいいところ。確かに野川ではよく見かけるようになったが……
急遽対策会議がもたれ、「(セッターのような)鳥撃ち犬の導入」と「フェンスの設置」で意見が分かれ、財政上の理由から後者に決定されたものの、わが家の防衛力増強という点では一致を見た。
冤罪容疑を掛けたネコ殿とカラス殿には心からお詫び申し上げる。
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2015年09月23日

小県へ行く

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小県に行きましたが、カメラを忘れたのでパンフだけ。
上田城は何十年かぶりで、歴史知識を身につけて改めて見ると、小県を部分支配している程度の小大名の城としては相当に大きいことが分かります。第一次上田合戦で真田方に2千人強もいたことは、徳川方にすれば全く想定外の動員力だったに違いない。上田盆地だけで2千人動員とか無理ですから!沼田領もあるとはいえ、100km以上離れているから動員は非現実的。
たぶん徳川方としては7対1を想定していたものが、蓋を開けてみれば3対1、城の防御効果で1対1になってA2Rみたいな結果。昌幸としては、2千人いるのを5百人くらいに見せて、挑発したのだろう。
いや、百聞は一見にしかず。大河ドラマが始まる前に見ておくことをお勧めします。

別所温泉では『真田太平記』で幸村が密偵と落ち合っていた温泉へ。
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