2015年05月13日

GWは東北へ

GWは世間で言う後半に休みをとり、久しぶりにまとめて休めた感じだが、ずっと彼女といたので気疲れとロシア語疲れで精神的にはやつれてしまったかもしれない(笑)しかし、いかんせん選挙続きで色々と疲弊しており、今後は安保法制を含めて重要法案が目白押しなので、まずはともあれ気分転換できて良かったとは思っている。
そのGW「後半の前半」は東北へ向かった。

最初の夜に愛車を飛ばして福島に泊まり、多賀城で2泊して帰京する。福島までは休憩を含めて5時間強、都内を出るのに1時間半かかったことを考えれば速いものだ。
彼女のビザの関係もあって、宿を予約するのは一カ月前になってしまったのだが、すでに仙台市内はほぼ満員で、古い友人の住んでいる多賀城でビジネスホテルの空きが見つかった程度だった。さすがGWと思っていたところ、あとでその友人に聞いたところ、まだまだ復興需要で長期滞在者が多く、良く空きがありましたねと言われる始末だった。なるほど、仙台周辺でもまだそれほど復興需要があるとは思わなかった。やはり、色々自分でやると分かることも多い。

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猊鼻渓

初日は平泉の中尊寺と猊鼻渓へ。
金色堂はもちろんのことだが、八重桜がギリギリ花を残しており、庭園もツツジやサツキを中心にきれいでしきりに感心していた。
猊鼻渓はいかにも水墨画のテーマに相応しい「名勝」そのもので、ロシアではまず見られない風景だし、ロシア人がここまで来ることもまず稀であろう。手漕ぎ船で船頭の謳を聞きながら絶景を堪能する風流は、どこまでも日本(アジア)的だ。
しかし、よく見てみると4年前の大地震や、その後の水害で崩れた跡が残っており、完全復活とまでは言えないようだ。
舟下りもさることながら、彼女的には乗り場の近くにあった紙工芸品のお店をいたく気に入ったようで、「持って帰るのが難しい」と悩みながらも何枚か和紙を購入していた。
この日は多賀城に泊まるも、友人がやっている焼肉屋で4時間も痛飲してしまった。10年ぶりの再会で、まだまだ積もる話もあったのだが、翌日の予定もあり引き上げた。

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金華山山門

二日目は金華山。
車で石巻から牡鹿半島の鮎川港に向かい、そこからフェリーに乗る。石巻辺りまで来ると、確かにまだまだ津波の傷跡が残っていることが分かる。金華山行きのフェリーも昨年か一昨年に再開されたばかりで、埠頭の真新しさが際立っている。
運が良いと鯨が見られるらしいのだが、季節的にも時間的にも難しいだろう。向かった金華山も海に近いところは木が倒れ、地肌を露出させており、痛々しい感じを強く残していた。
だが、少し登ると鹿が出迎えてくれるし、神社は健在だった。神社は小さいし、鹿も奈良のようには沢山いないので参詣はすぐに済んでしまうが、それではもったいない。幸いにして連休中はフェリーの便も多く、時間に余裕があったため、意を決して金華山を登ることに。まぁ私よりも彼女の方がノリノリだったのだが、
たかが450メートルの山とはいえ、海抜0メートルから登るわけで、山道もなかなかに険しく、休み休み登って一時間半近くかかってしまった。だが、山頂から見下ろす太平洋、牡鹿半島、陸前海岸はまさに絵のように美しく、登った甲斐があったというもの。もっとも、彼女はそれから1週間近く筋肉痛に悩まされていたが。
外国人からすれば、船に乗っていった先の島で鹿が歓迎してくれて、(八重)桜に覆われた神社をお参りして、山を登れば太平洋を見渡せるのだから、エキゾチシズムそのものであるに違いない。

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金華山山頂より

三日目は塩釜から遊覧船に乗って松島を眺め、改修中の瑞巌寺はスルーして円通院で数珠づくりを楽しんだ。もっとも、彼女的には松島遊覧は今ひとつだったようだ。数珠づくりは妹の勧めでやってみたが、自分で好きな石を選んで数珠をつくるため、あれが良いこれはどうかと話し合いながらやるのはなかなか楽しかった。
その後電車で塩釜に戻り、水産市場に寄って市場を見学、ランチして帰京の途に就いた。帰りはさすがに渋滞に引っかかったものの、塩釜から7時間超で帰れたなら「まずます」というところだろう。ただ、私はもっと東京寄りで渋滞するのかと思っていたら、最も混んでいたのは宇都宮と館林の周辺だったので、「そういうものなのか」と少し驚いた次第。まぁ7時間運転するなんてことができるのも年齢的に限界かもしれないので、その意味でも良い機会だったかもしれない(笑)

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松島

【追記】
ちなみに金華山の起源は、749年に陸奥守・百済王敬福が聖武帝に黄金900枚を送ったことにある。当時の朝鮮半島からの亡命者は先進技術と知識を有するとして、東方開拓に大きく寄与し、優遇されていた。大和朝廷にしても、関東開拓にしても、我々は渡来人の合力をもっと正当に評価すべきではなかろうか。
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2015年05月11日

藤と躑躅と梟と

来日した彼女と「初」デート。
まず近所の神社で藤を見るが、ロシアに藤が無いのはもちろんのこと、彼女の出発前日まで雪が降っていたというのだから、感動もひとしおだろう。ロシアにはツル型の木で、しかも花を付けるものは無さそうだから興味深いのも当然だ。

さらに池袋で話題のフクロウカフェへ。
1週間くらい前に予約したが、やはり休日は予約しないと難しそうだ。
店内は様々な種類のフクロウとミミズクが10羽強おり、かなり大きいものから手乗りサイズのものまである。大きいものは羽を伸ばすと想像以上の大きさになり、圧巻だった。
鳥かごではなく、店内に設置されているバーに止まっており、脚がひもでくくられている。
フクロウなので、見た目は本当に置物のように見えるが、ちょっとした動きや小声での鳴き声が愛らしい。もちろんお触り自由だ。
2、3羽は腕や肩に乗せて記念撮影することができる。フクロウ好き、あるいはファンタジー好きとしては一度は試してみたい。
1ドリンク1時間で週末は1600円。通うかどうかは別にしてデートコースとしては十分アリだと思う。

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そして、根津権現へ。小さい頃に連れて行かれたことはあるらしいのだが、全く記憶に無い。つまり40年ぶりくらいか(笑)
お目当てはツツジ祭り。暖かすぎてピークが過ぎているのと、花も少しヘタってしまっているのだが、都心のど真ん中の斜面に2千株からのツツジが咲き乱れる光景は見応えがある。
ロシアやヨーロッパでもアザリアは咲くものの、株ごとに何輪かの花を付ける程度で、日本のツツジのようにド派手な展開にはならない。それだけに彼女の目にも華やかに写ったようだ。
凄まじい人混みで社殿に入れなかったのはご愛敬か。最近はガイドブックにも載っているようで観光客がかなりの割合を占めていた。まぁ我々も人のことは言えないか。
それにしても、4月中に藤やツツジがピークを過ぎてしまうというのは早すぎだろう。

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2015年04月26日

【告知】ブログオフ会in宮城 開催について

突然ですが、昨年7月に開催したブログ10周年記念オフ会の宮城版を開催します。
と言っても、私が勝手に下記の店に行って飲んでいるだけなので、気が向いたらお越し頂いてお声がけください。
古い友人がやっている店なのですが、東日本大震災で被災した後、一度も見舞いに行っておらず、私も初めて行くんですけどね。
場末の飲み屋でロシア美女といるのが私ですので、まずもって間違えることはないかと(笑)
楽しみにしています。

ケン

日時:5月2日(土)だいたい19時から
場所:ケムリノアブサン 多賀城市八幡4丁目2−21
費用:各自精算
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2015年04月02日

事務連絡:更新部分休止

事務連絡です。
本日より統一自治体選挙前半戦で地元に寄騎されましたので、12日までの間、更新が不定期となります。
衆院選から3カ月しか経っておらず「また選挙か」という感じですが、自分の選挙でない上に任務は「後詰」、しかも1週間ちょっとなので気楽なものです。
地元ネタで楽しいことが書けると良いのですが。

ケン
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2015年03月29日

2015年03月22日

日本カトリック司教団戦後70年メッセージ「平和を実現する人は幸い〜今こそ武力によらない平和を」

ケン先生自身は限りなく無神論に近い不可知論者であるものの、カトリックに世話になった期間が長く(中学から大学まで)、色々恩義があるし、批判もある一方でシンパシーも感じているので転載したい。
二次大戦に際して日独伊各国のカトリックは「反共」のスローガンの下、積極的にファシスト政権や軍部に協力していた経緯(戦後もナチ党員がスペインや南米に亡命する手助けをした)があるだけに、その点に一切触れていないのは不満だが、主旨には賛同する。
キリストにおける兄弟姉妹、ならびに平和を願うすべての方々へ

 日本カトリック司教団はこれまで、1995年に『平和への決意 戦後五十年にあたって』、また2005年には『「非暴力による平和への道」〜今こそ預言者としての役割を』というメッセージを発表してきました。戦後70年を迎える今年、ここに改めて平和への決意を表明することにいたします。

1. 教会は人間のいのちと尊厳に関する問題に沈黙できない

 カトリック教会にとって今年は、1962年から1965年にかけて行われた第二バチカン公会議の閉幕から50年という記念すべき年にもあたります。二十世紀の前半、ヨーロッパを中心としたキリスト教会は、二つの世界大戦やナチスドイツによるユダヤ人の大量虐殺などを経験しました。これらの悲劇の反省から教会は、いわゆる宗教的な領域に閉じこもるのではなく、人類の問題を自分の問題として受け止めなければならないと自覚するようになりました。第二バチカン公会議の終わりに発表された『現代世界憲章』の冒頭には、その自覚が次のような文章ではっきりと示されています。
 「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある。真に人間的なことがらで、キリストの弟子たちの心に響かないものは何もない」。
 第二バチカン公会議後のカトリック教会は、フランシスコ現教皇にいたるまで、人間のいのちと尊厳の問題、とくに抑圧された人や排除された人の問題に真剣に、積極的に向き合おうとしています 。

2. 戦争放棄への決意

 1945年までの日本の朝鮮半島などに対する植民地支配、中国や他のアジアの国々に対する侵略行為はアジアの人々に大きな苦しみと犠牲をもたらしました。また、日本人にとっても第二次世界大戦は悲惨な体験でした。1945年3月10日の東京大空襲をはじめ、日本の多くの都市への大規模な空爆がありました。沖縄における地上戦によって日本や外国の兵士だけでなく、多数の民間人が犠牲になりました。そして8月6日広島への原爆投下と8月9日長崎への原爆投下。これらの体験から平和への渇望が生まれ、主権在民、戦争放棄、基本的人権の尊重を基調とする日本国憲法が公布されました(1946年)。日本はこの平和憲法をもとに戦後70年、アジアの諸国との信頼・友好関係を築き、発展させたいと願って歩んで来たのです。
 一方、世界のカトリック教会では、東西冷戦、ベルリンの壁崩壊などの時代を背景に、軍拡競争や武力による紛争解決に対して反対する姿勢を次第に鮮明にしてきました。
 ヨハネ二十三世教皇は回勅『地上の平和』において「原子力の時代において、戦争が侵害された権利回復の手段になるとはまったく考えられません」と述べています。第二バチカン公会議の『現代世界憲章』は、軍拡競争に反対し、軍事力に頼らない平和を強く求めました。1981年、ヨハネ・パウロ二世教皇が広島で語った平和アピールのことば、「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」にも、はっきりとした戦争に対する拒否が示されています。
 以上の歴史的経緯を踏まえるならば、わたしたち日本司教団が今、日本国憲法の不戦の理念を支持し、尊重するのは当然のことです。戦争放棄は、キリスト者にとってキリストの福音そのものからの要請であり、宗教者としていのちを尊重する立場からの切なる願いであり、人類全体にとっての手放すことのできない理想なのです。

3. 日本の教会の平和に対する使命

 日本カトリック司教団は、特別に平和のために働く使命を自覚しています。それは何らかの政治的イデオロギーに基づく姿勢ではありません。わたしたちは政治の問題としてではなく、人間の問題として、平和を訴え続けます。この使命の自覚は、もちろん日本が広島、長崎で核兵器の惨禍を経験したことにもよりますが、それだけではなく戦前・戦中に日本の教会がとった姿勢に対する深い反省から生まれてきたものでもあります。
 1986年9月26日、東京で開催されたアジア司教協議会連盟総会のミサにおいて、白柳誠一東京大司教(当時)は次のように述べました。 「わたしたち日本の司教は、日本人としても、日本の教会の一員としても、日本が第二次世界大戦中にもたらした悲劇について、神とアジア・太平洋地域の兄弟たちにゆるしを願うものであります。わたしたちは、この戦争に関わったものとして、アジア・太平洋地域の2千万を越える人々の死に責任をもっています。さらに、この地域の人々の生活や文化などの上に今も痛々しい傷を残していることについて深く反省します」。
 これは一個人としてのことばではなく、司教協議会会長として司教団の総意を代表して述べたことばでした。さらに日本司教団は戦後50年と60年にあたっての平和メッセージ(上掲)の中で、戦前・戦中の教会の戦争責任を反省し、その上に立って平和への決意を表明しています。

4. 歴史認識と集団的自衛権行使容認などの問題

 戦後70年をへて、過去の戦争の記憶が遠いものとなるにつれ、日本が行った植民地支配や侵略戦争の中での人道に反する罪の歴史を書き換え、否定しようとする動きが顕著になってきています。そして、それは特定秘密保護法や集団的自衛権の行使容認によって事実上、憲法9条を変え、海外で武力行使できるようにする今の政治の流れと連動しています。他方、日本だけでなく、日本の周辺各国の政府の中にもナショナリズム強調の動きがあることにわたしたちは懸念を覚えずにはいられません。周囲の国と国との間に緊張がある中で、自衛権を理由に各国が軍備を増強させるよりも、関係改善のための粘り強い対話と交渉をすることこそが、この地域の安定のために必要なのです。
 また日本の中でとくに深刻な問題は、沖縄が今なお本土とは比較にならないほど多くの基地を押しつけられているばかりか、そこに沖縄県民の民意をまったく無視して新基地建設が進められているということです。ここに表れている軍備優先・人間無視の姿勢は平和を築こうとする努力とは決して相容れません。

5. 今の世界情勢の深刻な危機の中で

 今、世界を見渡せば、各地で軍事的な対立やテロの悲劇が繰り返されています。国家間、民族間の対立、宗教の名を借りた紛争が激しくなり、対話を不可能と感じさせるような状況が世界各地に広がっています。その中で数多くの人々、とくに女性や子ども、少数民族や宗教的マイノリティーの人々のいのちが脅かされ、実際にいのちが奪われています。世界各地で続くこのような惨状について、フランシスコ教皇は「第三次大戦」という人もいるだろうとの懸念を表明し、過ちを繰り返さないようにといさめました。この世界は、結局のところ、力がものをいう世界なのかと疑わざるをえないような危機的状況に直面しています。人間性を尊重する理性はどこへ行ってしまったのでしょうか。暴力を押さえ込むために新たな暴力を用いるようなやり方を繰り返していては、人類全体が破滅に向かうだけです。
 世界はグローバル化された企業や金融システムの力に支配されています。その中で格差は広がり続け、貧しい人々が排除されています。人間の経済活動は気候変動や生物多様性の喪失を引き起こすまでになっています。平和の実現のためには、このような状況を変えること、世界の貧困や環境の問題、格差と排除の問題に取り組むことが不可欠です。わたしたち一人ひとりにも地球規模の問題に対する無関心を乗り越え、自分の生活を変えることが求められています。わたしたちにできることは、すべての問題を一気に解決しようとせずに、忍耐をもって平和と相互理解のための地道な努力を積み重ねることです。

おわりに

 もう一度、ヨハネ・パウロ二世教皇が広島で語った『平和アピール』のことばを思い起こします。
 「目標は、つねに平和でなければなりません。すべてをさしおいて、平和が追求され、平和が保持されねばなりません。過去の過ち、暴力と破壊とに満ちた過去の過ちを、繰り返してはなりません。険しく困難ではありますが、平和への道を歩もうではありませんか。その道こそが、人間の尊厳を尊厳たらしめるものであり、人間の運命をまっとうさせるものであります。平和への道のみが、平等、正義、隣人愛を遠くの夢ではなく、現実のものとする道なのです」[8]。
 わたしたちは「平和を実現する人は幸い」(マタイ5・9)というイエス・キリストのことばにも励まされます。戦後70年、第二バチカン公会議閉幕50年にあたり、平和を求め、平和のために働く決意を新たにしましょう。わたしたち日本のカトリック教会は小さな存在ですが、諸教派のキリスト者とともに、諸宗教の信仰者とともに、さらに全世界の平和を願うすべての人とともに、平和を実現するために働き続けることを改めて決意します。

2015年2月25日
日本カトリック司教団
posted by ケン at 09:08| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月12日

「マッサン」を見て師を想う

「マッサン」を見ていて思い出した。ヒロインのエリーは1941年12月に太平洋戦争が始まっても、すでに日本国籍を取得していたこともあって日本残留を決意するが、特高の監視と住民の嫌がらせにあって余市工場の敷地内に実質軟禁状態に置かれてしまう。さすがにNHKの朝ドラなので基本的にはかなりソフトな演出になっているが、それでも特高に捜査令状の提示無しで自宅に踏み込まれるシーンがあり、今のNHK会長や政府、政権党のスタンスを考えれば、「スタッフが良心と勇気を示した」と評価すべきかもしれない。
最近では「反戦運動を含む思想弾圧の何が悪いんだ」旨の意見がネットを中心に増えているようで、これでは日本で「ジェネレーション・ウォー」のようなドラマがつくるのは「夢のまた夢」であろう。

以前にもどこかで触れたことがあるかもしれないが、私が学んだ中学校は古いカトリック系の学校で、フランス人の老修道士にフランス語を教わった。先生の回顧によれば、戦時中はカトリック信者を含む生徒を連れて何度も靖国神社を参拝したという。もちろん、軍部の意向に沿うためのものであり、教会と学校を守るためには服従するしか無かった。こうしたことも、今日の歴史修正主義では「強制は無かった、自主的に協力した」という話にされてしまうのだろう。ただ、当時のバチカンは「反共」のスタンスからナチスと協力関係にあり、日本のカトリック支部に対しても軍部に積極的に協力する旨の指令を出していた。

1940年5月にドイツ軍がフランスに侵攻すると、師は日本の仏国大使館経由で召集を受け仏印に派兵されるが、輸送船(普通の商船)が現地に着く前にパリ政府が降伏。その後日本軍が北部仏印に進駐して武装解除を受け、日本に送還された。御殿場の修道院に45年8月まで軟禁された。捕虜収容所では無いだけマシだったとは言えるかもしれない。
第三共和政が瓦解した後に成立したヴィシー政権は実質的にはナチス・ドイツの従属下にあったため、「ヴィシー政権下のフランス軍人」は捕虜ではなく、「友好国の元軍人」という扱いにされたと推察される。それでも戦時下の在日ドイツ人やイタリア人と同様、当局の厳しい監視下に置かれた。

なお、師はアルザス出身で、その御父君は一次大戦に際してドイツ軍の召集を受けて東部戦線でロシア軍と戦ったという。歴史の大津波に飲み込まれた一族だったのだ。
そして、師はドーデ『最後の授業』のアメリ先生を地で行くようなフランス愛国者であらせられたが、ホスピスに入った頃にはフランス語が話せなくなってアルザス語ばかり発するようになり、意思疎通が困難になっていたという。母語と第二言語の業と因縁がいかに深いものか思い知らされる。
posted by ケン at 12:33| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする