2017年06月17日

ボリショイ2017 パリの炎 

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日本初演となる「パリの炎」を観に行く。本来はマリインスキー(キーロフ)の演目であるはずだが、ボリショイが日本で初演してしまって良いのか気になるところではある。まぁラトマンスキー版が制作された時点で「ボリショイのレパートリー」になったと解釈すべきなのだろう。それでも何故いま「パリの炎」なのか、ひょっとしたら当局の指示があったのかもしれない。背景事情を聞けたら面白そうだ。

「パリの炎」はフランス革命賛歌のバレエ劇で、初演は1932年11月7日、つまり「十月革命15周年」を記念して制作された。当時、農業集団化政策によってウクライナで数百万人が餓死する「ホロドモール」が進行していたことを思えば、まさに亀山先生の言う『熱狂とユーフォリア』の祝祭的側面を象徴する演目と言える。

スターリン時代というと、一般的には粛清の嵐が吹き荒れ、人々は絶対的な絶望の中でただひたすら暴風が過ぎ去るのを待つだけの暗黒の時代だったように思われている。だが、現実には粛清の暗黒と同時に、「共産主義社会の建設」に向けた全体主義的な一体感、熱狂、ユーフォリア感覚が同居していた。

『熱狂とユーフォリア―スターリン学のための序章』 亀山郁夫 平凡社(2003)

時期は異なるが、「スパルタク」(ハチャトリアン)もボリショイの演目で革命賛歌だが、音楽的にも舞踏的にもあまり好きでは無かったため、「パリの炎」も「例のソヴィエト・バレエだろ」と「食わず嫌い」状態にあった。だが、縁あってチケットを一枚融通してもらえる機会があり、観てみることにした。日本人には馴染みの無い演目であるが故に、これが最初で最後になってしまうかもしれないからだ。

さて、肝心の舞台。「スパルタクもどき」を想像していたが、あに図らんや全く別物で、確かに革命賛歌ではあるのだが、そこには突き抜けた祝祭感が溢れていて、主催者が言う「圧巻のステージ」は決して誇張では無かった。「まぁここまでやるなら文句の付けようが無い」というくらい徹頭徹尾高揚感に満たされており、その点がスターリン死後の不安定な時期に制作された「スパルタク」との違いなのだろう。
その代わり細かい感情表現などは無きに等しいわけだが、「そんなものはどうでもいい」と思わせるほど、パワーと勢いで2時間を押し切ってしまう。舞台上のダンサーの多さも圧巻で、特に男性ダンサーが広い舞台を所狭しと飛び回るところが、大きな魅力になっている。

今回の場合、革命指導者フィリップ役のラントラートフ氏が、「これでもか」というくらい少女漫画に出てきそうな理想の男性ダンサーを演じている。とにかく線が細く、背もあまり高そうではないのだが、力強い跳躍とリフトアップで完全に観客を魅了していた。逆に、惜しいことにヒロイン・ジャンヌ役のクリサノワ女史が地味に見えて舞台に沈んでいた観があったくらい。
私などは、フィリップ役はもっとマッチョな方が良いのではと思うわけだが(舞踏的には非常に良いのだが、見た目的に)、それでは完全に一人舞台になってしまうし、女性ファンの大半はラントラートフ氏に熱狂していたに違いない。

全般的には、振付の基本はクラシックであるにもかかわらず、舞台としてはダンス、パフォーマンス、パントマイムの要素が強く、クラシック・バレエの舞台としては伝統的でも現代的でも無いという点で非常に中途半端なものになってしまっている。玄人的には「評価するにも値しない」と言いそうなレベルなのだが、舞台パフォーマンスとしては観客を熱くさせるに十分で、非常に満足度の高い演目に仕上がっている。結果、舞踏のプロからすると、「ケッ、あんなの邪道」と陰口を叩きながら、興行的には認めざるを得ないものになっているものと推察される。
実際、私が観た舞台も、ボリショイとしてはあり得ないくらい空席があったものの、観客の熱狂具合と満足度は非常に高かったように見受けられた。

もう一つロシアっぽいところは、劇中劇と言えるヴェルサイユ宮殿における夜会と、そこで演じられるバレエ劇で、シュライネル女史の熱演もあって舞踏的には一つの見せ場になっているのだが、本筋とは本来関係ないにもかかわらず、かなり長い時間が割かれていた。こうした「このシーンは一体何の意味が?」みたいなものの多さは、ロシアの映画や舞台でも一つの特徴と言える。

「パリの炎」は熱い舞台デス。
posted by ケン at 13:00| Comment(2) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月13日

日本社会の腐敗構造について・補

「日本社会の腐敗構造について」の補足になる。腐敗を無くすことは不可能としても、その影響を最小限にするためにできることはある。
政官業報の「腐敗テトラゴン」構造を理解すれば、その癒着関係を一つずつ絶ってゆくことが近道であると推定することができる。

最大の問題は選挙制度だ。政治家個人がカネと票を集めなければならない選挙区制度では、政治家が有権者に利益誘導(公共調達、公共事業、公的融資、補助金等)する代償としてカネと票をもらうシステムになっており、投票率の低さも相まって有効に機能している。
法律上は、公職選挙法、収賄罪、あっせん利得罪などがあるものの、殆ど機能していないことを鑑みても、これらの罰則を強化したところでまず効果は無いだろう。
政治家と有権者の個人的癒着を断ち切るためには、党員の事前投票によって党名簿の順位を決める単純比例代表制が望ましい。ただし、この場合でも、企業団体による政党への献金も禁止あるいは制限する必要はあろう。これにより政業の癒着を絶つ。

次に政官の癒着。これは、政権党が行政府の出す法律案を丸呑みする代償として、行政が利益誘導(公共調達、公共事業、公的融資、補助金等)することで成り立っている。立法府に行政監督権がある以上、「どこまでが監視でどこからが利益誘導か」という判断は常に残る。だが、英国のように政治家と官僚の接触を厳しく制限し、その交渉内容を必ず記録して公文書に残すようにすれば、政治側からの要求は全て明白となろう。もちろん公文書管理法や情報公開法の改善は不可欠だ。
これによって政治側からの不当要求を減らせば、逆に政治側は行政側の立法提案を丸呑みする必要は無く、少なくとも「貸し借り」の関係を弱めることはできるだろう。

そして官業。財界は政治家を通じて行政から利益誘導(公共調達、公共事業、公的融資、補助金等)を受ける代償として、官僚に天下りポストを用意する。民主党政権時に、天下り規制を強化したものの、自民党に政権が戻ってほぼ有耶無耶にされてしまったが、このこと自体が「癒着テトラゴン」の存在を示している。
これを抑止するためには、まず省庁に降格制度を設け、全員が定年まで勤め上げられるシステムを構築し、比較的早い段階から年金を受給できるようにする必要がある。この場合、「官優遇」の非難は起きようが、官僚の天下りによって生起される癒着構造が社会に与えているダメージを考えれば、やむを得ない措置だろう。

最後にマスゴミ。日本の大手メディアは、「記者クラブ」「クロスオーナーシップ」「再販制」「電波許可制」などによって政府から得た独占的権利をもって市場を占有しており、これが他社の参入を拒んで権力との一体化をなしている。従って、この4つの特権を廃止し、市場競争を促せば大半の問題は解決されるだろう。民主党政権は、これにメスを入れようとしたため、徹底的に攻撃された。それを考えると、現行システムでの漸進的改革は難しいかもしれない。

【追記】
政党は資本家の走狗であり、その腐敢は極度に達し、外交もまた追従妥協、不甲斐なきこと恰も外交者流は国際女郎の観あり
(橋本欣五郎の手記、陸軍、桜会、昭和5年)
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2017年06月12日

日本社会の腐敗構造について

森友、加計疑獄をめぐって野党が政権を攻撃し続けているが、成果は殆ど上がっていない。それは当然で、森友疑獄では維新も共犯者、加計疑獄では民進党内に共犯者がいたことが判明しており、何をどう攻撃しても「ブーメラン」にしかならないためだ。

現状、日本の議会政党で腐敗を免れているのは、せいぜいのところNK党とSM党くらいしかない。だが、SM党は目端の利く者から率先して離党して「腐敗することすらできない」者だけが残っているだけの話であり、NK党は全く別の行動原理に基づいているため、単純に「腐敗してないから良い」ということにはならない。
では、この場合の「腐敗」とは何を指すのか、政治に関わりの無い人にはなかなか想像できない世界だと思われるので、分かりやすく解説してみたい。

戦後日本は長いこと中選挙区制(学術的には大選挙区制)を採用してきた。そこでは、1つの党から複数の候補が立候補してしのぎを削るため、より多くの資金と人員を動員できた陣営が勝利した。その結果、「五当四落」という言葉が生まれたが、それは「選挙に5億円投じれば当選するが、4億円では落選」という意味だった。あくまでも象徴的な言葉ではあるが、とにかく巨額の費用が掛かったことは間違いなく、多くの政治家は「井戸塀」と呼ばれるように、政治家を引退する頃には、かつては広大な敷地があった自宅も井戸と塀しか残らないものだった。

選挙用の資金をつくるために、政治家は集票マシーンとしての後援会とは別に、資金収集用の特殊後援会をつくった。通常の後援会は、年会費5千円とか1万円、あるいは無料だが、この特殊後援会は月会費が1万円から3万円という高額に設定され、企業家や地場の名士が加入した。
彼らは、年間12〜36万円の会費を納める代償として、政治家事務所に様々な陳情を行う権利を有した。その「陳情」は様々で、主なものを挙げれば、「税金の減免」「公共事業や公共調達の優先権」「公有地の優先的払い下げ」「公的銀行からの低利融資」「公的補助金の優先確保」などがある。陳情者は、政治家秘書を連れて行政や公共機関に赴いて陳情を行い、後に「しかるべきところ」に政治家本人が電話して、「○○の件、よろしく頼む」と言うのである。
「陳情=利益誘導」によって得られる利益は、当然会費を上回るが、上回った分については政治家側から謝礼金や集票が期待されるので、選挙に際しては社員や名簿を提供して支援することになり、ズブズブの関係に陥ってゆく。また、個別に陳情を処理した秘書は、「出来高払い」や「謝礼金」をもらえるので、必死に陳情処理に励むことになる。自民党の秘書の場合、基礎給ゼロで全て陳情者からの謝礼だけが「給与」というケースも珍しくなかった(最近では聞かないが)。
例えば、年間36万円の会費を納める会員が300人もいれば、年間収入は1億円以上になる。それに陳情受理(成功)による謝礼(献金)を含めれば、1億数千万円になる。

自民党の田中派、あるいは従来の小沢派などは、派閥として数十億円の資金をつくり、政府や地方自治体が必要としそうな土地を予め買い占めて、政策誘導してその土地に事業を誘致させることで、土地の価格を上げるという「土地転がし」による資産運用を行っていたとされる。規模の差はあれど、国家レベルであれ地方レベルであれ、こうした腐敗の手口は蔓延していると見て良い。
社会党系のベテラン議員でも年会費12万円の特別後援会員を100人以上抱えて、集金と集票に勤しんでいることを鑑みれば、自民党議員はその数倍、数十倍の規模で行っていると見て良い。事実、「中選挙区制は金がかかる」との批判から、小選挙区制に移行したとはいえ、現在でも「二当一落」(二億円なら当選、一億では落選)と言われていることから、数千万円規模の集金マシーンをつくらないと、日本の選挙は「風頼み」になってしまうことが分かる。
つまり、政治家個人を選ぶ選挙制度が腐敗を誘発しているのだ。同時に政治家を介する政策減税(企業減税)、公的融資、補助金等が、市場競争力の低いゾンビ企業を延命させ、企業の新規参入や労働市場の流動性を阻害、市場経済を停滞させている。

一方、行政は行政で立法府と癒着関係にある。前提として、立法府は「行政監督権」を持ち、「行政が適切に執行されているか」監督する義務を有している。少なくとも建前上は、上記の陳情行為は「行政の不適切な執行によって損失を被り、不満を有している市民の声を反映させるもの」として行われるため、行政府としては原則的に全面拒否することはできない仕組みになっている。
また、実務面では、日本型システムでは行政が予算や必要な法律案を作成し、内閣が提出する仕組みになっているため、与党・政権党の意向に反すると何もできなくなってしまう。そのため、行政は与党政治家の陳情を優先的に許容し、その対価として自分たちのつくった予算や法案を無修正で通してもらう、という癒着関係が成立している。

また、財界は政治家を通して政策減税(企業減税)、公的融資、補助金等の陳情を行い、官僚が行政の公平性を曲げて優先的に利益を供与、財界はその見返りに「天下りポスト」を提供することで、政官業の「腐敗トライアングル」が形成されている。
例えば、加計学園は1つの失敗例かもしれないが、原理的には、新興大学が政治家に金と票を融通して学部新設を陳情、与党政治家は文科省に圧力をかける。認可権を有する文科省は、学部新設を認める代わりに、与党に法案成立を要請する一方、新設大学に天下りポストを用意させる構図になっている。こうした構図は、日本全国であまねく成立している。

ところが、こうした腐敗構造や具体的な事例は殆ど報道されない。マスコミもまた腐敗構造の一角をなしているためだ。
日本の大型メディアは、「記者クラブ」「クロスオーナーシップ」「再販制」「電波許可制」などによって権力と一体化しており、実質的には旧ソ連の「イズベスチヤ」や中国の「新華社」に近い宣伝機関の機能しか果たしていない。
再販制度と電波許可は、政府から独占禁止法の例外として認められた特権であり、他の新規参入を拒むものとなっている。クロスオーナーシップ制度は、新聞社と放送局の一体化を許すもので、これも「マスコミ集中原則排除」を拒んで報道の独占を許すシステムになっている。また、記者クラブは、公的情報ソースの独占権だけでなく、情報提供だけでなく、記者室の利用料や管理・運営費に至るまで、情報提供者(政府)が負担している。この記者クラブに加入していない、弱小マスコミやフリージャーナリストなどは、記者室に入ることも、情報提供を受けることも許されないため、独自に一からアポを取って取材しなければならない。こうした情報ソースと報道ルートの独占権が、政府によって認められ維持されているため、日本のマスゴミは権力に盲従しなければ、存続もおぼつかない仕組みになっている。

結果、「国境なき記者団」の「報道の自由度ランキング」では、日本は先進国の中で最低水準にあり、今後も下がりそうな気配だ。しかし、これは安倍政権だけの問題ではなく、マスゴミを含めた政官業報の「腐敗テトラゴン」に起因している。
腐敗構造と一体化しているマスゴミが、自らを否定する報道をなすはずもなく、情報公開制度や公文書管理法の未熟も相まって、社会の隅々に至るまで腐敗と汚染が広がっている。

【追記】
上記の腐敗構造は、今に始まった話ではない。ただ、かつては高度成長下で広範な人が発展の恩恵にあずかることができたが、90年代に成長が止まり、「集中と選択」が行われ、繁栄を享受できる人が限られるようになり、そこから脱落した人たちが怨念を募らせ、告発するようになっていると考えられる。

【追記2】
腐敗が温存される原因の一つは、日本型組織における意思決定過程や責任所在の不明確さにある。詳細は「新国立競技場の責任者は誰?」で述べているが、組織における最終意思決定者も意思決定過程も恐ろしく不明確であるため、責任を追及することも失敗の原因を探すこともできず、同じ失敗を何度でも繰り返すことになるシステムなのだ。
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2017年06月09日

官邸・文科闘争の裏にあるもの

「ここに来て加計疑獄を裏付ける資料が出てきているのは何故でしょうか」との質問を受ける。本ブログでは、保身上の理由から、あまり生々しいネタは扱わないことにしているのだが、今回はちょっとだけ触れてみたい。とはいえ、あくまでもケン先生の妄想なので、内容の真偽については全く保証しない。
なお、同志諸兄には心配をおかけしているが、「禁忌の少し手前」で「死の舞踏」を舞うのが本ブログの本懐であり、今のところは何の問題もないので安心して欲しい。

まず、文科省の前川前次官が辞任に追い込まれたのは、文科省の天下り問題がクローズアップされたことに依る。だが、同様の天下りは他の省庁でも行われていることであり、文科官僚が傘下の国立大学等に天下るのは、教育を聖務と見る向きからすれば恥ずべき行為だが、本来は文科省に限った話ではなかった。
そして、この天下り問題をリークしたのは首相官邸で、官邸のプロパガンダ機関である読売新聞が大々的に取り上げ、同じく協力者である他のマスゴミも同調した。その狙いは、最初から前川次官の追放にあり、それは加計学園の獣医学部新設の手続きに難色を示す文科省に対する攻撃だった。「ザ・黒幕−日本支配」で言うところの「Pで攻撃」である。仮に抵抗者が前川氏一人であったなら、次官を更迭すれば済む話だったが、1つには更迭する正当な理由がなかったのと、2つは文科省の相当部分が前川氏に賛同して官邸に抵抗姿勢を示していたため、謀略によって文科省の権威を失墜させ、これを屈服させる戦術に出た。

この陰謀を主導したのは、S田内閣官房副長官だった。氏は、民主党野田政権から官邸に参画、共謀罪や秘密保護法を準備していたことから、自民党安倍政権に交替してからも格別の配慮で官邸に残り、官房副長官に抜擢されている。我々の間では「安倍政権のベリヤ」と呼ばれている。
そして、特定秘密保護法に基づき「特定秘密を扱う可能性のある者」の身辺調査を行い、前川氏の「ガールズ・バー通い」をも暴露した。前川氏は、次官在任中にこのS氏から同件について「警告」を受けたというから間違いない。
ちなみに、「特定秘密を扱う可能性のある者」はかなり広範囲に適用可能な上、国会議員も与党の一員である限りは政府の役職に就く可能性があるため、全員が調査対象になる。結果、官邸は全ての与党議員のセンシティブ情報またはスキャンダル・ネタを握ることができ、それが絶対権力の源泉になっている。まさにベリヤなのだ。

官邸は、前川次官が辞任した時点で勝利を確信していたが、その前川氏が「実名告白」という反撃に転じる。だが、前川氏一人では限界があり、様々な文書が出てくるところを見る限り、文科省内に少なくない支持者がいるものと見られる。
その根底にあるのは、官邸の主導でオリンピック利権を経産省に奪われ、大学開設の権限も官邸に奪われそうになり、挙げ句の果てに一人悪者にされて天下りを封じられた文科省のルサンチマンである。なるほど、前川氏個人は、理想に燃えた立派な官僚だったかもしれないが、平均的には「官邸一極集中」「省の存在意義に関わる」事態に対する不信と不満こそが元凶だろうと見られる。特に秘密保護法が、権力闘争の武器として早々に使用されたことは、良心を保っている官僚たちに「次は自分かもしれない」と思わせるに十分だった。結果、官邸一極集中や暗黒支配に不満を抱く官僚層にも支持を広げている。

とはいえ、全体的にはやはり局所的な反乱の域を出そうにない。議会は与党が絶対多数を占め、官邸は絶対権力を有し、マスゴミはプロパガンダ機関に堕し、野党も半分は共犯関係という有様では、一省庁の抵抗などパルチザン程度のものに終わるだろう。
ただし、ここに来て週刊誌を始め、安倍政権に対する攻撃が強まっているのも事実で、「アベノミクスを終わらせたい宗主国の意思が働いている」と見る向きもある。

いずれにせよ、問題の本質は、政治家が財界から金をもらって行政執行を恣意的に歪める陳情政治と、行政による予算や立法を成立させるために政治側の陳情を容認する霞ヶ関行政、御上から下賜された独占権を守るために政権に従属するマスゴミによる「腐敗テトラゴン」にこそある。要は、腐敗した統治構造内部での権力争いなのであり、その視点を忘れてはならない。
なお、この腐敗構造については、別途解説したい。
posted by ケン at 12:41| Comment(1) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月08日

日本型組織の終焉

『OECDスキル・アウトルック 2017年版 』より。日本の労働者は読解力でも数的思考力でも「低い」者が圧倒的に少なく、OECD平均が23%のところ、日本は10%しかいない。にもかかわらず、労働生産性ではOECD内で最低レベル。この意味するところは、「エリートが無能だから」「無能なエリートが排除されない」「硬直した会社組織、市場、行政制度」などが考えられる。

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まず日本型システムは組織内部の交渉コストが異様に高く、迅速な判断や対応ができない構造になっている。例えば、私の妹は外資系銀行のディーラーだが、上司はシンガポールにいて、指示を受けたり、仰いだりするのは週に1回あるかないかだと言う。彼女の前勤務先は、国内トップ水準の不動産会社だったが、会議の多さと「ホウレンソウ」の煩わしさ、様々な意味不明な拘束や不文律に飽き飽きさせられていた。
つまり、一定の権限が付与されていても、個々人の判断では容易に行使できず、かといって必ずしも上に決定権があるわけでもなく、「何時、誰が、どこで」決めるのか全く不明な組織、システムなのだ。
意思決定の遅さは権限と責任の所在が不明確なシステムや組織文化に起因する。会議の多さは1つの象徴だが、現代社会あるいはグローバル市場に適合できなくなっている(競争力を持たない)のは間違いない。

新国立競技場の新設、建設費肥大化問題で、誰が最終責任者なのかが議論になったのは、つい最近のことだったが、原発再稼働問題でも同じことが起きている。これに関連して「インパール作戦は誰が決めたのか」も検証したので、記事を読んで欲しい。
意志決定過程や責任の所在が非常に不明確なのは、昨今に始まったことでは無いのだが、全く改善されそうに無いし、問題意識すら持たれていない。

・新国立競技場の責任者は誰? 

これはトップレベルだけの話では無い。例えば、残業=時間外労働は、管理者の命令をもって所定の手続きがなされて初めて成立しうる。これは、労働法で決められていることなのだが、現実には命令も手続きもまともに行われず、「何となく」習慣的に残業がなされるため、記録すら無い「サービス残業(違法労働行為)」が横行している。
公式統計上、日本の平均労働時間は年間1800時間弱とされているが、実際には2300時間を超えるとも言われ、年間500時間以上が「命令と手続きの無い違法労働」と見て良い。これでは、労働生産性が上がるはずも無い。

この意味するところは、日本の管理職は、部下の労働時間を管理する必要が無く、労働者はおろか労働組合も「自発的に」違法労働時に従事するため、生産性の向上にコストを支払うよりも、「率先してただ働きに従事する」労働者を酷使する方が「楽」なのだ。つまり、管理能力が低くても務まることを意味する。

そもそも日本の労働者は「職能」ではなく「人格」で雇用され、職務が限定されないため、成果を測る術がなく、組織や上司に対する忠誠度で昇進が決められていることが大きく影響している。
能力ではなく忠誠度で昇進が決められているということは、管理職は管理能力、マネージメント能力ではなく、組織に対する忠誠心を示さねばならず、結果・成果よりも「努力しているところを見せる」ことに長ける傾向が強くなる。その行き着くところは、「ガンバリズム」であり、精神主義でしかない。
有能な人間は、えてして組織の効率改善を求めて上層部に苦言を呈するため、忠誠心を疑われ、日本型組織ではまず昇進できない。結果、上に行けば行くほど、「忠誠心の高さ」だけが売りの人間しかいなくなるので、比例して無能度も高まってゆく構造になっている。

また、日本型システムは人事降格がなされないため、課長級で成果を上げた者が、部長になったらダメだった場合、無任所にするか社外に出すほか無くなってしまう。欧米型であれば、「課長に戻す」ことも可能だが、それができないため、あるポジションで有能だったものを有効活用し続けることができないシステムになっている。
象徴的な例としては、米軍の場合、戦時中を除いて誰もが少将までしか昇進できず、あとは師団長なら中将、軍司令官なら大将などとポストに付随して階級が上がるだけで、師団長として成果が上げられなかったら、旅団長に戻すことが可能なのだ。
ところが、日本では一回大将になってしまったら、中将には戻せないため、無能な上官やムダなポストを乱造してしまうのだ。私の伯父などは、大戦末期の昭和20年5月、もはや指揮する艦隊も無いのに大将に昇進している。

日本では明治以降、「忠実で勤勉な臣民を涵養して偉大な帝国をつくる」ことをスローガンとし、大戦後は「帝国」が「西側自由陣営の一員」になったものの、基本方針に変化は無かった。だが、実際には「上司や組織の顔色をうかがいながら、不平不満を言わず、仕事するフリをするだけ」の社会組織になってしまった。評価基準が、具体的な成果では無く、「組織と上司に忠誠を貫いた」なのだから当然だ。これは、小中学校の内申点から仕込まれているのだから、もはや「洗脳」と呼べるレベルであろう。
日本型組織は、グローバル化に対応できず、沈んでゆくのみだ。
posted by ケン at 13:03| Comment(4) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月05日

加計疑獄に見る規制緩和問題など

共謀罪や加計疑獄につけて、「野党は審議拒否して欲しい」とのファクスやメールが続々と届いている。これも一種のポピュリズムの表れであろうが、旧式左翼どもの後先考えない浅はかさである。「民主主義の危機」とか言うのはマジで勘弁して欲しい。そのデモクラシーの定義は何よ。

審議拒否は議会戦術の一つだが、「伝家の宝刀」であり、一度鞘から抜いてしまったら戦を終えるまで収められない。にもかかわらず、敵にダメージを与えられる保証はどこにもない。
具体的に想定してみよう。仮に現状で「安倍内閣ケシカラン、審議拒否する」と言った場合、与党側の選択肢は2つある。1つは、「すみませんでした。こちらが悪かったです。できるだけ野党の言うとおりにしますから許してください」と条件付き、または無条件降伏する。2つは、「内閣は誠実に応じているのに、野党は議会での議論を拒否した。これでは国政が全面ストップしてしまう。仕方ないので、与党だけでやらせてもらいます」と完全無視するパターン。

審議拒否や議員総辞職は1つ目のパターンが成立することが前提となり、有り体に言えば、与野党の国対が最初から「話がついている」状態で無いと成立しない。
つまり、現状ではほぼほぼ後者のパターンになる。結果、政権に従属するマスゴミは官邸の意向に従って「野党の横暴」を全面的に報じ、「審議拒否する野党は自らの責任を放棄して国政を停滞させようとしている」なる「印象操作」がなされるだろう(しかも、あながち間違っていない)。そこで、与党は審議を全部スルーして、共謀罪などの悪法の数々を予定を繰り上げて成立させることが可能になる。もちろん森友・加計疑獄の追及も不可能になり、内閣にとっては「ラッキー」くらいの話だ。政府・与党の圧勝に終わり、野党にとってはマイナスしかない。
「国民政府を対手とせず」との声明を出した近衛内閣がどうなったか、日華事変・日中戦争の故事を学ぶべきだ。

さて、加計疑獄を見る視点として「規制緩和」は欠かせない。今回の場合は獣医学部の新設だが、例えば私の家の周りには、徒歩数分のところに少なくとも5軒の動物医院があり、競合している。ところが、全体的にはペット数は微減傾向にあり、特に犬の減り方は顕著だ。酪農家の廃業も急速に進んでいる。
にもかかわらず、地方では獣医師が不足しているという。これは人間の医者も同じ構造にある。地方での開業は様々なリスクがあり、閉鎖的な地域社会に溶け込める保証はどこにもない。ビジネスとしても、地方ではペットを獣医師に診せないケースが非常に多く、酪農・畜産業の衰退もあって、長期的な経営計画が成り立たない。また、個人的にも、獣医師や医師が自分の子を自分と同レベルの大学に入れようとしても、低レベルの学校しか無く、とうてい高度な教育を受けさせられる環境に無い。その結果、たとえ競合が激しくても都市部で開業した方が「まだマシ」であり、「都市か地方か」というのは選択肢として成立していない。

その結果、獣医師会は「医師数は適切」と主張するのに対し、酪農・畜産業者を始めとする地方財界は獣医師増を要望するというギャップが生じている。安倍内閣は自分で規制を掛けながら「岩盤規制の打破」などと言っているが、不必要な規制緩和を行った結果、弁護士、歯医者、タクシーなどがどのような末路を迎えたか、考え直すべきだ。
そして、日本の選挙制度は小選挙区制であるため、地方財界から献金付きで陳情を受ければ、与党だろうが野党だろうが、これを拒否できない。そのため、民進党でもE田前参議やT井議員などを筆頭に複数の議員が、加計学園等から献金(パーティー券の購入を含む)を受けて政府に働きかけ(圧力)を行っていた。
要は、加計学園は「ロビー活動が上手い」というだけなのだが、財界から献金を受けた政治家が、法や行政の逸脱を強いているという腐敗こそが問題なのであり、それは自民党が「より酷い」というだけで、民進党も汚染されているのは間違いない。
魚は頭から腐る。(ロシアのことわざ)

国家というものは、下から上へ向かって腐敗が進むということは絶対にないのです。まず頂上から腐りはじめる。ひとつの例外もありません。(銀英伝・ルビンスキー)

獣医学部の新設は、医師の偏在という問題を解決することなく、闇雲に地方に学部を新設したところで、都市部の医師数が増えて競合が激しくなるだけの話であり、地方での開業が増える保証はどこにもない。

かつては医学部には医局制度があり、医局の教授が圧倒的な権力をもって若い医師を地方に送り込み、地方で任務を無事遂行した医師は出世や開業が保証されるという仕組みだった。ところが、これが様々な理由から「権威主義的」として実質的に廃止され、「個人の自由」に委ねられた結果、誰も地方に行かなくなってしまった。医局制度は確かに権威主義的ではあったが、少なくとも一定の需給調整機能を果たしていた。それを代替させるものを容易せずに廃止してしまった結果が、地方の惨状を招いている側面は否めない。

また、「規制緩和」は緩和する側が圧倒的な権力を有するため、そこに腐敗が集中する。それだけに、意志決定過程を全て明らかにしなければ、腐敗を加速させることになるが、日本の場合、先進国最低水準の情報公開がこれを妨害、自民党の超長期政権が腐敗を加速させるというスパイラルに陥っている。
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2017年05月29日

加計疑獄と前川前文科次官をめぐるあれこれ

加計疑獄については、行政の裁量権がどこまで許されるのか、同時に「総理の要請」に象徴される「政治的配慮」がどこまで正当なものとして考えられるか、という話であり、金銭の授受や政治的取引(例えば、選挙の応援や名簿提出)が確認できない限り、告発は難しく、政治的批判を超えるものにはなりにくいだろう。

自民党政権が超長期にわたって続いているため、保守的あるいは右翼的傾向を持つ法人が政権に強いパイプをもって働きかけできているだけの話であり、仮に社会党政権が成立して続いていれば、リベラルあるいは社会主義的傾向を持つ法人が優遇されていただろう。つまり、非常にアジア的な「御上に嘆願する」陳情政治(構図としては中国皇帝やロシア・ツァーリに請願するようなもの)が根幹にあり、それを是とするかどうかなのだ。
仮に欧米型の政党政治が存在していれば、定期的に政権交代が起こるので、特定の勢力を支持するグループが圧倒的な影響力や人的パイプを持つことにはならないが、日本の場合、戦後70年のうち55年以上を自民党が支配している上、いまや衆参両院で自民党が大多数を有しているだけに、現代ロシアのような「絶対与党と衛星党と超少数の野党」みたいな構図になっている。
結果、アクトンの「権力は腐敗する、絶対的権力は絶対に腐敗する」が具現化している。長期政権により権力が腐敗して自浄能力を失っている以上、検察(行政)もまた機能せず、いかなる不法行為も隠蔽され、摘発されることはない。
また、欧米のように情報公開制度が整備されているなら、政官業報の不適切な接触についても情報公開を請求し、不正を告発することも可能だが、日本では公文書管理も情報公開も「中世よりはマシ」程度であるため、自浄能力を持たない。この点でも、日本は欧米の先進国型民主主義ではなく、アジアの開発独裁国型に近い。

それはさておき、前川前文科事務次官は興味深い人物のようだ。
全部又聞きになってしまうが、省内では「気骨ある革新官僚」という評価で、その評価は日教組に至るまで高かった。曰く、教員の減員に強く反対して、逆に増員を主張、2009年の政権交代前に民主党が打ち出した「高校無償化」にはいち早く賛成の意を明確にして省内で孤立、安倍政権後には「無償化廃止あるいは所得制限導入」に局長として最後まで抵抗して更迭されたという。古くは、小泉政権期にも三位一体改革(教育費の国庫負担削減)に激しく反対したことで、省内で話題になったとされる。このような経歴を持ちながら、なおあの霞ヶ関で局長を経て事務次官になったというのは尋常では無い。殆ど、海軍にあって、軍令部条例改定案、日独伊三国同盟、マル五計画などに反対し続け、常に反主流派を歩きながら次官、大将にまでなった伯父上を見る思いだ。

もっとも、今回の事件については、確かに「官邸の都合で行政のルールを歪め、省の信頼を貶めるな」という正義感が動機になってはいるのだろうが、より根源的には「天下り問題は他省でもいくらでもやっているのに、文科省をスケープゴートにした。森友、加計疑獄でもか!」というルサンチマンが文科省を覆っているため実行可能だったと見られる。つまり、前川氏の単独犯ではないだろう。

官邸は、「怪文書」の出所が前川氏であることを突き止め(少なくとも裏で糸を引いている)、スキャンダル情報(怪情報)を流す。カウンターインテリジェンスの類いだが、それには前川氏の行動を事前に調査収集していなければできないことだった。
ところが、官僚の身辺調査は現在では法的根拠があり、完全に合法化されている。「特定秘密保護法」がそれだ。
特定秘密保護法は、特定秘密を取り扱う可能性のある官僚の身辺調査を行うことを義務づけている。特定秘密は、原則的には軍事、外交、テロ関係などに限定されているものの、例えば文科省は原子力を始めとする科学技術全般を所管しており、「特定秘密を取り扱う可能性」に該当する官僚は少なくない。つまり、この点で調査する側の裁量が非常に大きく設定されているため、適当な理由を付ければ、「全ての官僚」は言い過ぎにしても、相当に広い範囲で身辺調査することが許されている(義務)。
先に補足しておくと、これは当然ながら総理大臣を始めとする閣僚や政務三役、政権党の幹部なども含まれるが、その意味するところは当局が、政権党幹部の身辺調査を行って、スキャンダル情報をプールしておくことが合法化されているということだ。理論上は、政権党の議員は政務三役になる可能性があるため、たとえ一年生議員でも当局による身辺調査が可能になっている。ただし、野党議員は特定秘密を扱う可能性が無いため、少なくとも合法的には身辺調査できない(秘密会所属議員は例外)。

つまり、今回の「前次官スキャンダル」は、特定秘密保護法がかなり広範囲の公務員のセンシティブ情報の収集を許し、官邸がその情報を駆使して敵対的あるいは批判的な政敵や官僚の追い落としにかかることを可能にしていることを示している。さらに言えば、秘密保護法と改正通信傍受法(盗聴の無限拡大)と共謀罪のコンボがどのような社会をなすのか、強く暗示している。
すでに日本は暗黒時代に突入している。そして、それを覆い隠すために、東京五輪がセットされているのだ。
posted by ケン at 12:55| Comment(0) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする