2017年11月06日

地毛登録制度なる現代の中世

【<損賠訴訟>「髪染め強要で不登校」高3、大阪府を提訴】
 頭髪が生まれつき茶色いのに、学校から黒く染めるよう強要され精神的苦痛を受けたとして、大阪府羽曳野市の府立懐風館(かいふうかん)高校3年の女子生徒(18)が約220万円の損害賠償を府に求める訴えを大阪地裁に起こした。27日に第1回口頭弁論があり、府側は請求棄却を求めた。生徒は昨年9月から不登校になっており、「指導の名の下に行われたいじめだ」と訴えている。
 訴状などによると、生徒は2015年4月に入学。中学時代に黒染めを強要されて嫌な思いをしたため、母親は「高校では同じことがないよう配慮してほしい」と伝えていた。
 しかし、学校側は生徒の入学後、1、2週間ごとに黒染めを指導し、2年の2学期からは4日ごとに指導。度重なる染色で生徒の頭皮はかぶれ、髪はぼろぼろになった。教諭から「母子家庭だから茶髪にしているのか」と中傷されたり、指導の際に過呼吸で倒れ、救急車で運ばれたりしたこともあった。文化祭や修学旅行には茶髪を理由に参加させてもらえなかった。
 生徒は昨年9月、教諭から「黒染めしないなら学校に来る必要はない」と言われ、それ以降は登校していない。高校は今年4月、生徒の名前を名簿から削除。他の生徒や保護者には、退学したと虚偽の説明をしたという。
 学校側は生徒の代理人弁護士に「たとえ金髪の外国人留学生でも規則で黒染めさせることになる」と説明している。
 府教委高等学校課と同校は取材に、「係争中なので答えられない」と話している。
複数の大阪府立高校では、頭髪が生まれつき茶色い生徒に誤った指導をしないように、「地毛登録」と称する制度を導入している。登録自体を問題視する声もあるが、府教委は「導入は各校に任せており、実態は把握していない」としている。
 ある府立高では、約10年前から制度を始めた。地毛が茶色い生徒は入学時に色合いを計測し、数値化して登録し、色の変化がなければ指導しないという。1学年に10人ほど登録する生徒がおり、校長は「生徒の人権を守るためにも制度を続けている」と話す。
 訴訟を起こした女子生徒の母親は入学時、「地毛登録制度があるなら申請したい」と訴えたが、懐風館高校は導入していなかった。
東京都でも、都立高校の一部が「地毛証明書」を提出させ、頭髪の色が生まれつきかどうかを確認している。幼少期の写真を求める学校もあるといい、都教委は7月、「届け出が任意であることを、生徒保護者に明確に伝える」ことを全191校に通知した。
(10月27日、毎日新聞)

出自や外見など、自らではどうにもならないことを身分化し、居住地を限定、差別することで社会統制を図るのは、中世社会の一大特徴である。これに対し、身分制度や社会的差別を否定し、個々人の自由意思を尊重、移動の自由を認めるのが近代社会の一大特徴である。
この意味においては、ロシアや中国は、近代化が不十分なまま近代を終えようとしているかもしれず、いち早く近代化を実現した欧米では、自ら築き上げた近代の特性を否定する動きが広がっている。

「地毛登録制度」
「黒染めしないなら学校に来る必要はない」
「たとえ金髪の外国人留学生でも規則で黒染めさせることになる」


これらは基本的人権の一つである自由権と学習権を否定している。この学校が行っているのは、欧米基準で言えば「人種差別煽動行為」に相当すると思われるが、日本では「個々の学校で判断されること」で許されている。結果、国連の介入が待たれるという何とも恥ずかしい状況になっている。

一般的に日本の近代化は明治維新(戊申政変)に始まると理解されている。教育分野で言えば、身分に関係なく学べる場が提供される義務教育と、個々人の意思で学べる場が選べ、そこに行くことができる自由こそが近代の象徴だった。
とはいえ、初等学校などは居住地に限定されたし期間も短く、女子教育の選択肢は非常に狭かったことなどを考えれば、近代化は限定的にしか実現できなかった。それが広範囲に実現したのは、やはり戦後のことだった。

ところが、21世紀に入って近代の大原則が否定されつつある。記事のケースは象徴的で、個々人の努力ではいかんともしがたい身体的特徴を理由に、公学校が生徒の教育機会を奪うことが正当化されている。しかも、外国人に対して、身体的特徴の強制同化を堂々と就学の条件としている。
つまり、学校の強制同化命令に服従する者のみが学習機会を得られ、不服従者は公的な学習機会が奪われることを意味する。これは明白な社会的排除であり、貴族や地主階層の出身者を差別したソ連や中国と何ら変わらない。

先に「自由と余暇について」で述べたとおり、経済成長の根幹となる技術革新に最も必要なのは創造力であり、その創造力は自由な発想の下で生まれる。故に全体主義、権威主義国家では技術革新が起こりにくいとされる。その自由な発想は、人が持つ自由な時間に着想される。ところが、日本の学校や会社は、「兵隊を遊ばせておくと士気が弛緩する」という兵営と同じ考え方なので、「いかにして24時間、生徒と社員を管理するか」という発想の上に成り立っている。
制服を着せ、髪の色や髪型まで規格化を図り、行事と部活動で生徒を24時間管理下に置こうという日本型教育は、技術革新から最も遠い存在であり、衰退の原因でしか無い。まさにフーコーの言う学校=監獄であろう。

大阪や東京における学校の極端な権威主義化の背景には、新自由主義的な中央統制の影響があるという。
公学校間で学力や民間企業への就職率を競わせ、成果の上がらない学校は廃校や統廃合を検討、教員は学校への貢献度をもって人事評価がなされ、連続して最低評価だった者は解雇できるシステムになっている。
これは民間企業では「妥当」なことかもしれないが、公学校に適用された結果、「企業が求める人材を育てる」「茶髪の生徒が多いと不良校と見られて偏差値が下がる」などの理由から非人道的行為が正当化されてしまっている。
教員からすれば、人事評価をちらつかされて、「茶髪の生徒を容認する教員は評価を下げる」と言われれば、従わざるを得ないだろう。さらに「民間人校長」がこうした傾向を助長していると見られる。
同時に、日本の企業側も規格化された奴隷的人間を求めるため、こうした「需要」が生じていることも強調すべきだろう。日本社会そのものがブラックであることを象徴している。

現実には、例えば東京都の初等教員の選考倍率が3倍を切るような事態になっており、離職率の高さを考えても、その質は低下の一途を辿っている。教員の質的低下は、教育や管理能力の低下を意味する。教育力や人徳で補えないものは、権威主義的あるいは暴力的統制によって学校を統御する他ないため、自然と後者に流れてゆくことになる。差別や学習権の侵害を禁止、抑止する法律が無いことも、この傾向を助長する。

もはや現代社会において、学校組織や個々の教員に委ねるには教育は重すぎる、ということかもしれない。複雑化と個別化が進む現代社会で、何百人何千人も集めて規格化した教育を強制し、人格を含めて矯正を図ろうという19世紀型の教育はすでに時代遅れが甚だしくなっている。
技術的には、初中等教育はAIとVRによる個別教育に移行するか、最低でもその選択肢をつくる方向に進めるべきだろう。SF的かもしれないが、生徒は学校に通うことなく、自宅でVRを学校とし、AIの教員による個別教育を受ける形が一般的となる可能性がある。個々人の人格や能力に依存しすぎる生身の人間では、多様なニーズに合わせると同時に一定のクオリティを維持することが難しくなっているためだ。

記事にもあるような監獄的学校は、地方では大昔から常態化していると見られ、むしろ都市部に拡大し、全国的傾向となっていると見るべきだ。中等教育におけるリベラリズムの喪失と否定は、いずれ国全体に波及するだろう。現代日本は、大正デモクラシーが否定され、軍国教育に移行した1935年に近い段階にあると考えられる。
posted by ケン at 12:41| Comment(4) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月27日

大手メディアは権力に癒着してるだけ

【「日本メディア、政府圧力に弱い」 国連報告者が会見】
 国連の「表現の自由の促進」に関する特別報告者のデービッド・ケイ氏が25日、米ニューヨークの国連本部で会見し、報道機関の独立性について情勢を語った。日本については、記者が所属メディアを変える環境がないとして、政府の圧力に弱い「メディアの構造」を指摘した。日本の情勢について質問を受けたケイ氏は、日本の報道機関の問題として「大手に独占されている」と指摘。その上で「先進国では優れた記者が所属媒体を移る、一種の流動性があるが、日本には存在しない。そのため政府からの圧力が記者にも特別な影響を与える」と述べた。報道機関への圧力が、所属先への依存の大きい記者個人にも影響しやすい、という趣旨とみられる。
(10月26日、朝日新聞)

部分的には正しいのだが、全体の理解としては浅いように思われる。日本の大手メディアは、「記者クラブ」「クロスオーナーシップ」「再販制」「電波許可制」「軽減税率」などによって政府から得た独占的権利をもって市場を占有しており、これが他社の参入を拒んで権力との一体化をなしている。そのため、大手メディアは自らの利権に基づいて権力側についているのであって、安倍政権や自民党からの圧力の影響など微々たるものに過ぎない。集産主義的な市場構造(官民一体)こそが問題なのだ。
民主党政権はその大部分の期間でメディアからの攻撃にさらされ続けたが、これは民主党政権がメディアの既得権益に手を付けようとしたためだった。その特権とは、

・記者クラブ:政府から情報提供の独占的便宜
・再販制:独占禁止法の例外
・クロスオーナーシップ:印刷媒体と電波媒体の寡占
・電波許可制:政府による放送統制
・軽減税率:免税特権


が象徴的だ。メディアが寡占状態になるほど、公権力との癒着が進み、「一心同体」になるため、不利な報道は控えるところとなる。
分かりやすい例を挙げるなら、大手メディアがオリンピックのスポンサーとなった結果、オリンピック反対論やオリンピックに絡む不正については、殆ど報道されなくなっている。これも、メディアが寡占状態にあり、スポンサーになれるだけの資本と権力を有しているがためで、結果として公権力と一体化してしまっている。これが、秘密保護法や安倍政権の問題では無いことは明らかであり、あくまでも日本社会におけるメディアの在り方を問うてこなかったことに起因している。ただ、歴史的には、戦争中に報道統制を強化するために、政府がメディアの統合を図ったことが、無反省に戦後に引き継がれてしまったところはある。

要は、日本のメディア界自体が権威主義体制に極めて親和的であるため、権威主義体制が確立すると、自ら進んで一体化しようとするインセンティブが働いてしまう。安倍政権は確かに問題だが、これを替えたところで「首のすげ替え」にしかならない。本質的には、現在大手メディアが有する諸特権をことごとく廃し、寡占状態にある新聞社や
報道の自由が72位に
posted by ケン at 13:08| Comment(0) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月26日

20世紀型選挙の終焉

今回の総選挙で後方本部を統括して強く感じたのは、従来型の選挙が実施不可能になると同時に、その効力も失いつつあることだった。

日本の公職選挙法は、いわゆる先進国では類を見ない厳しい規制を課している。大まかに言えば、「政府が認める活動しかできない」というもので、他国の「いくつかの禁止事項以外は何でもできる」の真逆を行く制度になっている。
具体的には、選挙はがきの収集と郵送、電話がけ、そして街頭宣伝であり、つい最近になってインターネットの使用が「解禁」されたものの、それでもメールなどによる投票依頼には厳しい規制が課されている。

このうち選挙はがきを見た場合、衆議院総選挙では候補者枠で3万5千枚(無償)、政党枠で2万枚(有償)の発送が認められているが、これは予め宛名を書いた候補者のはがきを選挙事務所が用意して発送しなければならない(分けることは可能)。そのため、候補者や地方議員が自分の名簿を使って宛名を書いたり、支援者に知り合いを紹介してもらうことになる。つまり、巨大組織がバックについているか、多数の地方議員の支持がないと、まともにはがきも送れないことになる。中選挙区制のシステムを縮小再生産したためだ。
ところが、個人情報保護法や核家族化、社会的分断などの原因から名簿の収集が困難になり、中間団体や地域ボスも力を失って「大口の集票」が難しくなっている。また、移動(引っ越し)が増えているのか、「宛先不明」で戻ってくるはがきも選挙毎に増えている気がする。
結果、5万5千枚ものはがきを送れるのは、自公共と大手労組の支援を受けた候補くらいのものになっているが、それもすでに名簿の確保自体が難しくなっている。

電話作戦も同様で、まず大量の電話番号を有している候補が圧倒的に有利で、少ないあるいは持っていないとなると、電話帳で片端から掛けるほか無くなる。そして、電話がけの要員(ボランティア)をどれだけ集められるかが勝敗を分けるところとなる。結果、狂信的な宗教団体やトップダウンで人を動員できる権威主義的団体を味方に付けた候補が圧倒的に有利となる。だが、電話番号の収集は年を追う毎に難しくなってきている上、電話帳も年々薄くなってきている。固定電話を持つ人が少なくなり、かつ電話帳に掲載しない人が増えているためだ。この分では10年後には「電話作戦」は成り立たなくなっている公算が高い。

電話とはがきが成り立たなくなると、残るのは街頭宣伝だけだが、恐ろしいことにここにも大きな規制がある。その最たるものは、選挙期間中、街宣車のスピーカーに許されているのは、走行中の「連呼」と停止中の「演説」のみという公職選挙法の規定である。
第140条の2(連呼行為の禁止)
何人も、選挙運動のため、連呼行為をすることができない。ただし、演説会場及び街頭演説(演説を含む。)の場所においてする場合並びに午前8時から午後8時までの間に限り、次条の規定により選挙運動のために使用される自動車又は船舶の上においてする場合は、この限りでない。

第141条の3(車上の選挙運動の禁止)
何人も、第141条 (自動車、船舶及び拡声機の使用) の規定により選挙運動のために使用される自動車の上においては、選挙運動をすることができない。ただし、停止した自動車の上において選挙運動のための演説をすること及び第140条の2第1項 (連呼行為の禁止) ただし書の規定により自動車の上において選挙運動のための連呼行為をすることは、この限りでない。

自分もよく「選挙カーの連呼はうるさいだけで票が減るのでは」と言われるのだが、実は公職選挙法の規定で「走行中の街宣車は連呼以外できない」となっているためなのだ。
しかも、この選挙カーは広大な小選挙区の中で候補者一人につき一台しか認められていないため、期間中一人の居住地に来るのは一回か二回程度にとどまる。大きな駅を使って通勤している人を除けば、候補者の顔を見るのは稀だろう。

他にも挙げればキリがないので止めておくが、上記の理由から前世紀型の選挙手法と、それ以外の活動を一切許さない公職選挙法が、有権者の選挙離れを加速、政党や候補者はますます「風」に頼るほかないという悪循環に陥っている。
そう考えると、デモクラシーの自壊を狙う政府内の明治帝政復活論者(復古主義者)の陰謀のようにも思えてくるが(爆)
posted by ケン at 12:16| Comment(0) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月11日

演劇人と全体主義

【安保法2年、無言の抗議 演劇人ら「時代のカナリア」】
 文学座の演出家西川信廣さん(67)や鵜山仁さん(64)ら俳優や演出家らで作る「安保法制と安倍政権の暴走を許さない演劇人・舞台表現者の会」は19日、無言でプラカードを持って安保法制や戦争反対を訴えるサイレント・スタンディングを行った。東京や名古屋、大阪、京都など全国各地で実施した。
 同会は2015年9月9日に発足。賛同者1434人、賛同団体65団体からなり、毎月19日、各劇団の最寄り駅などでサイレント・スタンディングを継続している。これまで安保法のほか、「共謀罪」法への反対も訴えてきた。
 この日の朝、東京では劇団俳優座や劇団東演の有志らが、通勤客が行き交う六本木駅や下北沢駅などの近くで行った。2年間、ほぼ毎月立ち続けてきた俳優座の俳優、阿部百合子さん(84)は六本木の街頭に立った。取材に対し、「子どもの頃、疎開先の群馬県で爆撃にあった。B29が去るまで畑の中を逃げ回ったり、川に潜って息を止めたりした。戦争はもうこりごり」と話した。
 夜はJR新宿駅南口で、文学座や青年劇場など、約50人が結集。大勢の通行人が行き交う中、「何がなんでも憲法改悪は許さない!」「戦争NO!」などのプラカードを持ち、無言でアピールした。
 西川さんは取材に「われわれ表現者は時代のカナリアで変化に敏感ではなくてはならない。政権のチェック機能を果たしたい。今後も運動は継続していく」と話した。
(9月19日、朝日新聞)

15年戦争期には、まず共産主義者が弾圧され、後に左翼運動家や平和運動家、さらには自由主義者や宗教人にまで粛清の手が伸びた。それは演劇人や芸術家も例外ではなかった。共産党やソ連との関係を疑われたためだった。特に演劇分野はロシアの影響が大きく、トルストイやゴーリキーの信奉者が多く、プロレタリア演劇運動が活性化、1928年には「東京左翼劇場」が結成され、特高からは「共産党シンパ」と見られる演劇人が多かった。佐野碩(戦時中はメキシコに亡命)や宇野重吉などはその筆頭と言える。
戦後、俳優座を設立した東野英治郎、千田是也、小沢栄太郎らはみな戦前に「新劇の舞台に立った」という理由によって治安維持法違反で検挙、投獄されている。東野英治郎の刑事役が堂に入っていたのは、特高に尋問、拷問された経験ゆえだったという。

ソ連・東欧ブロック諸国では、演劇人は常に監視対象だった。秘密警察シュタージを描いた名作『善き人のためのソナタ』で工作員の大尉を演じたウルリッヒ・ミューエは、東独時代、女優でもあった妻が当局に夫の行動を定期的に報告、所属していた劇団で親友と思っていた二人も実はシュタージの協力者(コラボ)だったことがベルリン崩壊後に判明している。

現在の日本政府はほんの80年前に「新劇の舞台に立った」という理由で演劇人を弾圧、粛清したものたちの末裔であり、しかもそれについていかなる反省も謝罪もしていない。つまり、治安維持法が組織犯罪防止法になっただけの話で、いつ再び弾圧の魔の手が舞台に伸びてくるかという演劇人たちの恐怖は至極当然のものなのである。
posted by ケン at 18:39| Comment(2) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月08日

武装難民は射殺?

【麻生副総理「警察か防衛出動か射殺か」 武装難民対策】
 麻生太郎副総理は23日、宇都宮市内での講演で、朝鮮半島から大量の難民が日本に押し寄せる可能性に触れたうえで、「武装難民かもしれない。警察で対応するのか。自衛隊、防衛出動か。射殺ですか。真剣に考えなければならない」と語った。
 麻生氏はシリアやイラクの難民の事例を挙げ、「向こうから日本に難民が押し寄せてくる。動力のないボートだって潮流に乗って間違いなく漂着する。10万人単位をどこに収容するのか」と指摘。さらに「向こうは武装しているかもしれない」としたうえで「防衛出動」に言及した。
 防衛出動は、日本が直接攻撃を受けるか、その明白な危険が切迫している「武力攻撃事態」などの際に認められており、難民対応は想定していない。
 麻生氏は先月、「少なくとも(政治家になる)動機は問わない。結果が大事だ。何百万人も殺しちゃったヒトラーは、いくら動機が正しくてもダメなんだ」と発言し、撤回していた。
(9月23日、朝日新聞)

「ドイツ国防軍のある報告書には、パルチザン1万431人を殺害したと書かれているが、押収したと記録されている銃の数はわずか90挺だった」

「ドイツ軍が対パルチザン戦全体で殺害した人の総数は約35万人で、その九割以上が武器を持っていなかった」
ティモシー・スナイダー『ブラッドランド』

「武装難民」も多分こんな感じかと。
桑島節郎『華北戦記 中国であったほんとうの戦争』も読んで、日中戦争における「治安戦」や「便衣兵」の実態についても把握してもらいたいものだ。
posted by ケン at 18:11| Comment(2) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月23日

7、8月の読書(2017)

国会と都議選が終わったと思ったら、この暑さと代表選(毎年恒例かよ!)。とても本を読む気になれない。って、今度は代表選で夏休み没収ないし延期。いろいろウンザリだけど、こうした倦怠感自体も「デモクラシー離れ」の一つの表れなのかもしれない。

51omRayvWsL._SX342_BO1,204,203,200_.jpg
『昭和天皇の戦争―「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと』 山田朗 岩波書店(2017)
「軍部の暴走に悩まされ、あるいは騙されて戦争突入を余儀なくされ、最後は聖断によって終戦に導いた平和主義者」とのイメージが流布されている昭和帝の実像に迫る。「昭和天皇実録」と軍人や政治家の回顧録やメモ等の一次資料を照らし合わせながら、「実録」に書かれた部分と削られた部分を比較、「穏健な帝国主義者」「機会主義者」としての昭和帝の実像をあぶり出し、宮内庁による印象操作(イメージ戦略)の意図を暴いている。これを読むと、「実録」から天皇が関わった侵略行為や戦争指導に関する部分が巧妙に削除されていることが分かる。昭和史に興味のあるものは一読しておくべきだろう。

『近代日本軍事力の研究』 山田朗 校倉書房(2015)
近代日本の軍事力は、どのような構想の下で整備されていったのか、ソフト(思想・価値観)・システム(制度・法体系)・ハード(兵器体系)の面から検証する研究書。

満蒙開拓団.jpg
『満蒙開拓団―虚妄の「日満一体」』 加藤聖文 岩波現代全書(2017)
意外とあるようで無い、満蒙開拓団の歴史。昭和恐慌などによる農村の疲弊にはじまり、満州事変を経て開拓団の編成と派遣が国策化されるが、関東軍による屯田兵、現地召集兵確保の意向などによって歪められ、日中戦争の勃発によって景気が回復、若年労働力が不足し、いつしか官僚的な対応が強まって、強制移住に近いものになってゆく。私なども「満蒙開拓に慎重だった高橋是清が226事件で暗殺されたため、一気に話が進んだ」と信じていたクチではあるが、必ずしもそうとは言えなかった模様。

二次大戦の起源.jpg
『第二次世界大戦の起源』 A・J・P・テイラー 講談社学術文庫(2011)
いまや大戦研究の「古典」に数えられる一冊だが、「邪悪なヒトラーによる計画的な侵略戦争だった」とする今日に至る定説に対する反論は、現代でも有効だろう。さすがに今読むと、古いし、言い回しがくどいと思うところもあり、なかなか読み進めないのだが、非常に刺激的で興味深い。

『信長嫌い』 天野純希 新潮社(2017)
今川義元、六角承禎、三好義継、佐久間信栄など、織田信長によって没落させられた同時代人たちの目を通じて信長像を描いた小説。信長本人はほとんど出てこない。新説を取り込んで上手く話を膨らませており、あまりドラマティックにもなりすぎず、良い加減に仕上がっている。若い作者ゆえか、感覚が現代的なところが好き嫌いの分かれどころかもしれない。
posted by ケン at 12:00| Comment(0) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月27日

何でもタダでやらせる東京五輪

【木材公募「供出」「搾取だ」ネットで批判】
 2020年東京五輪・パラリンピック組織委員会が選手村の交流施設「ビレッジプラザ」で使用する屋根や柱などの木材を全国の地方自治体から公募する方針を示したことが、インターネット上で批判されている。「五輪は搾取のための錦の御旗(みはた)ではない」などと無償で提供を受けることが否定的にとらえられたが、組織委は「全国各地の自治体から『無償でも』と申し出があった。双方に利益があるのだが」と思わぬ反応に困惑している。
 ビレッジプラザは各国・地域選手団が共用する選手用の飲食店や銀行などが並ぶ約6000平方メートルのスペースで、約2000立方メートルの木材が必要となる。国際オリンピック委員会(IOC)に提出した立候補ファイルでは「日本の文化を感じてもらうため、プラザの設計は日本の伝統的な建築様式を取り入れ、木材を使用する」とのコンセプトを掲げていた。このため、全国の自治体から提供の申し出があったという。
 そこで組織委は大会後に木材を各地に戻し、学校などで大会の遺産(レガシー)として活用してもらうことにした。組織委によると、カラマツ、スギなど各地の特産木材が集まれば、大会コンセプトの一つである「多様性と調和」を示すことにもなると判断した。
 大会後に会場の資材を再利用する取り組みは過去の五輪・パラリンピックでもあったが、今回のように設計段階で再利用先まで決めるのは史上初。事前に決めることで、各地での再利用がスムーズに運ぶメリットがある。
 組織委は24日の理事会でこの案を了承して、25日に公募要項を発表した。9月中旬に自治体からの応募を受け、10月上旬に決める予定。約45自治体の参加を想定しており、多数の応募があった場合は抽選で決める方針だ。
 組織委は今年4月から大会のメダルを製作するために「都市鉱山」と呼ばれる不要になった携帯電話や小型家電から回収した金属で大会メダルを作る事業を始めていた。5月までの2カ月で、NTTドコモの全国2400店舗を通じて約53万台の機器を回収したほか、全国の967自治体も(14日現在)が協力を表明しており、74自治体から約106トンが集まっている。
 このときはインターネット上で批判は目立たなかったが、今回は「金属の次は木材供出か」と反発が強い。いずれも盛り上がりを全国に広げることを目的とした事業とはいえ、今後は大会に向けた無償提供は慎重な対応が求められそうだ。
(7月25日、毎日新聞)

2020年8月に予定されている東京五輪の組織委員会は、すでに運営要員や観光案内要員を9万人の無償ボランティア(交通費、宿泊費も自腹)で賄うとしている。その応募条件として想定されているのは、「最低1日5時間以上かつ10日以上」「途中で辞めないことを宣誓する」「事前の研修に参加する」などであり、事前研修を有料化する方向でも検討が進んでいるとされる。敢えて強調するが、8月の東京は連日35度を上回るだろうし、実際の外気温やアスファルト上は40度前後にも達するだろう。

さらに通訳も無償ボランティアが3千人以上募集されるという。各地の大学が前向きに協力を検討しているというのは、狂気の沙汰である。英語の本を丸ごと一冊渡されて、「五輪だから無償で」と翻訳を求められるとすれば、少しは状況の異常性が理解されるだろうか。この他にもIT関係の多くもボランティアで賄われる予定だという。
こういうのは勤労動員と言うのであって、内的自発性に基づくボランタリーではない。

「強制じゃ無いからいいじゃん」というレスがありそうだが、問題はそれほど単純では無い。
例えば、東京マラソンの場合、約1万人のボランティアが運営を担っているが、そのうち自発的に応じたボランティアは半分程度で、残りの半分はスポンサー企業などからの勤労動員による「ボランティア」で賄われている。つまり、公募で足りない要員を、スポンサー企業が社員に強制的に有給休暇を取らせてボランティアに応じさせているのが実情なのだ。

東京マラソンが行われるのは2月下旬の東京で平均気温は6〜7度、もちろんプラスであり、北方の出身者や欧米に滞在した経験のあるものなら寒いうちに入らない。それを考えた場合、五輪のそれは9万人の募集に対して自発的市民は半数も集まらないと見込まれ、結果5〜6万人はスポンサー企業からの勤労動員となる可能性が高い。
つい先日、新国立競技場の現場監督を担っていた若者が月200時間を超える時間外労働を強要され、自決したとの報道があったが、五輪の関係企業はどこも過酷な労働環境にあり、勤労動員される社員も同様と思われるだけに、凄まじい屍の山が築かれることになるだろう。

話を本題に戻そう。木材の無償提供が、人的ボランティアと異なるのは労働力では無く、商品を無償提供するところにある。本来、市場価格のある、国際価格に比して高い国産木材が、大量に無償提供されるとなれば、木材価格の低下、デフレを加速させることになる。しかも、今年は大雨と洪水で被災地の復興が求められており、本来的には国産材は優先的に公共が調達して被災地に割り振られるべきであり、無償提供している場合ではない。
木材の他にも携帯やスマホなどの希少金属を目当てに無償提供を呼びかけている。

東京都は国内で圧倒的に裕福な、中規模国家並みの予算を持った自治体であり、これが大々的に金属も木材も労働力も高額で買い取ることこそが、デフレ脱却の最短ルートだった。ところが、現実には最も裕福な東京都が主催地でありながら、最もカネを出し渋り、最大規模の収奪を進めている。

そもそも2兆6千億円とも言われる予算を計上しながら、人件費や建設費はおろか、授与するメダルの製造費すら事欠くなど、恐ろしい額が中抜きされてパトロネージ(私腹)にされていることを物語っている。
東京五輪は国民と市場を殺すだけのイベントであり、今すぐに中止すべきである。
posted by ケン at 12:04| Comment(2) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする