2018年03月13日

日本型組織のトップがダメなわけ

戦争中、日本軍に対する評価として「兵卒と下士官は優秀だが、上に行けば行くほど能力が低下する」というものがあった。現在でも、福島原発事故に際しての東電幹部の記者会見や、数々の疑獄における大臣や高級官僚の国会答弁を見ていると、若者が絶望的な未来しかイメージできないのも肯ける。永田町に勤務するケン先生が見ても、国会など「知性も教養も無い連中がバカ騒ぎしてるだけ」にしか思えず、「終わってる観」がハンパ無い。
もっとも、現代の場合、憲法や原発問題で陳情や意見具申してくる者たちも、殆ど岡本版『日本のいちばん長い日』の軍人たちのような狂騒状態にあり、ネトウヨも含めて昭和初期のような精神状態に陥りつつある気がする。永田町はモンスターどもの対応だけで手一杯で、とても落ち着いて何らかの政治課題を考えながら仕事する環境にはなく、自分が離職を決意した一因になっている。

日本型組織が「上に行けば行くほど能力が低下する」理由については、雇用や人事の面から説明すると分かりやすい。

日本の雇用慣行において、従業員は「職掌(ジョブ)」で雇用されるのではなく、全人格ごと雇用されるため、「作業効率が悪い」程度では解雇されない。司法判例も、まず他部署に配置して他の作業で試すことを要求している。これに対し、欧米の企業はジョブの能力で雇用しているため、その能力が会社の要求水準に達しない場合は、それを「正当な理由」として解雇できる。この結果、日本社会では正社員は、よほどの不祥事を起こさない限り解雇されない一方、企業は無能あるいは不適合な社員を囲い続けなければならない。同時に、日本の社員は職掌範囲が定められていないため、仕事の成果や能力が定量化、計測できず、公正に評価される基盤が無い。結果、個々の社員は生産性を上げるインセンティブが存在せず、企業側は無能な社員にも仕事を与えて人海戦術で対応せざるを得ず、組織としても生産性を向上させる術が無い。

日本型組織においては、仕事が定量化されず、職掌範囲も無限定であるがために、昇進のための公正な基準を設定することが不可能になっている。その結果、昇進基準は「部局に貢献した」「課を盛り上げた」「○○に際して頑張った」などの印象や主観によってしか定めようがなく、究極的には直系上司に対する忠誠度で計られることになる。
能力ではなく忠誠度で昇進が決められているということは、管理職は管理能力、マネージメント能力ではなく、組織に対する忠誠心を示さねばならず、結果・成果よりも「努力しているところを見せる」ことに長ける傾向が強くなる。その行き着くところは、「ガンバリズム」であり、精神主義でしかない。
有能な人間は、えてして組織の効率改善を求めて上層部に苦言を呈するため、忠誠心を疑われ、日本型組織ではまず昇進できない。結果、上に行けば行くほど、「忠誠心の高さ」だけが売りの人間しかいなくなるので、比例して無能度も高まってゆく構造になっている。

例えば、2009年に発覚した障害者郵便制度悪用事件に際して、大阪地検特捜部主任検事が検事調書を改ざんして冤罪を推進した件では、部長が「議員は無理でも、少なくとも高級官僚の一人も立件できなくてはメンツが立たん」と部下に(あいまいな)指示を行い、主任検事は忠誠を示すべく、調書の改ざんを行ったと言われている。なお、この部長は懲戒免職にこそなったものの、刑事裁判では執行猶予つきの判決が下されるに止まっている。
このように組織に対して無条件の「忠誠」を尽くし、なおかつ偶然悪事が発覚せず、「大過なく」組織生活を送ることができたもののみが、能力や成果に関係なく昇進してゆくのだから、トップが無能ばかりになるのは当然だろう。

また、日本の国会議員は、1990年代に小選挙区制に移行したことで急速に能力低下が進んでいる。これについては、過去ログから引用したい。
国会議員は、参議院の比例代表選出者や衆議院の比例単独選出者を除く大半が選挙区から選ばれている。日本の場合、有権者は候補者の政策や主張よりも、人柄や人物像を重視する傾向が強いため、候補者もそれを重視せざるを得ない。結果、実際の選挙時に掲げる政策や議会での活動実績よりも、日常活動で「顔を売る」ことが重要となる。具体的には、選挙区内の各種イベントや酒席にひたすら出席して、一人でも多くの有権者に「見知ってもらう」ことが活動の中心となる。とかく保守系の政治家が、軽薄な発言を繰り返すのは、少しでも有権者に自分を印象づけたいがために発せられる「サービス」の部分が大きい。そして、自分の当落が掛かっているだけに、議会活動よりも地元回りを優先することになる。実際、自民党であれ旧民主の小沢氏であれ、「1、2回生の仕事はひたすら地元を回ること」と教えている。

この「地回り」の中で、もう一つ重要となるのが「陳情受け」である。有権者から各種陳情を受け、処理することで支援者と献金を増やすことが目的となる。陳情と言えば聞こえが良いが、現実には行政に圧力を掛けて、特定の者に優先的にサービスを供与させる汚職でしかない。最近では甘利問題が有名だが、自民党では当たり前すぎて、何故それが問題にされるのかすら理解できないだろう。結果、当選回数の若い国会議員は、議会活動などせずにひたすら地元を回り、陳情を受けて処理し、御礼にカネや票をもらうことに専念する。これを当選回数で2回、当選前から数えれば10年近くもやるのだから、3回生になる頃には地元の有権者とズブズブの関係になり、腐敗システムが構築され、議員本人も秘書もそれが「当たり前」になって、正常な感覚を失ってしまうのだ。
要は、自民党や小沢氏の教えは、「腐敗体質が強いほど選挙に強い」ということであり、日本の政治制度はその前提の上に成り立っている。
地域代表制が政治と地域を腐敗させた?)

国会議員は「選挙に強い」と当選を繰り返し、当選を重ねると能力に関係なく、政権党にあれば閣僚になることができる。ところが、「選挙に強い」とは、政治調整能力や行政手腕とは無縁で、選挙区内の有権者とズブズブの関係になって集票マシーンを構築できるかどうかにかかっているため、行政手腕や統治力に関係なく腐敗臭の強い者しか当選を重ねられない構造にある。

日本はどこをどう切っても「お前はすでに死んでいる」のである。

【追記】
日本型システムは人事降格がなされないため、課長級で成果を上げた者が、部長になったらダメだった場合、無任所にするか社外に出すほか無くなってしまう。欧米型であれば、「課長に戻す」ことも可能だが、それができないため、あるポジションで有能だったものを有効活用し続けることができないシステムになっている。
象徴的な例としては、米軍の場合、戦時中を除いて誰もが少将までしか昇進できず、あとは師団長なら中将、軍司令官なら大将などとポストに付随して階級が上がるだけで、師団長として成果が上げられなかったら、旅団長に戻すことが可能なのだ。
ところが、日本では一回大将になってしまったら、中将には戻せないため、無能な上官やムダなポストを乱造してしまうのだ。私の大伯父などは、大戦末期の昭和20年5月、もはや指揮する艦隊も無いのに大将に昇進している。

【追記2】
新卒採用も同じ問題を抱えている。日本の雇用習慣は、職掌範囲を定めずに新卒者を一括採用するため、能力ではなく人格が採用基準となる。その人格も会社に対して従順で、どのような命令にも逆らうこと無く従い、無制限の残業や不合理な異動についても全く文句を言わないことが条件となる。結果、教養、理性、人道的精神、倫理観、社会道徳などの要素を持たない者が優先的に採用されることになる。
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2018年03月12日

リベラリズム原理を否定する公文書改ざん問題

【森友14文書書き換え 1つは開示請求後 財務省理財局職員が関与】
 学校法人「森友学園」(大阪市)への国有地売却問題で、財務省近畿財務局が作成し、途中で書き換えた文書(決裁文書を含む書類の束)は14あり、このうち1つは、情報公開法に基づく開示請求後に書き換えていたことが11日、分かった。財務省は12日に調査結果を国会に報告する方針だが、これまで書き換えを否定してきただけに、野党は反発を強めており、事態収拾のめどはつかない。
 複数の政府高官が明らかにした。書き換えがあった14の文書の内訳は、貸し付けに関する決裁書が2つ、売買に関する決裁書が1つ、特例に関する稟議(りんぎ)書が2つ、これらに付随する文書が9つだった。1つの文書から交渉の経緯などを削除しようとしたところ、玉突きで次々に書き換えせねばならなくなったという。
 開示請求後に書き換えた文書は、近畿財務局と森友学園の籠池泰典理事長(当時)の交渉に関するメモ。籠池氏と価格交渉したと受け止められかねない部分について開示請求後に削除したとみられ、財務省理財局の職員が関与した疑いが強い。
 理財局が保管していたのは決裁後の文書だけ。近畿財務局も文書の大半を大阪地検に押収されていたため、財務省は森友学園との交渉に関与した近畿財務局職員27人からヒアリングを行い、自民党幹部らに「明確な書き換えの事実はみつからなかった」と説明していた。
 だが、自民党側は納得せず、さらなる調査を要請。佐川宣寿氏が国税庁長官を引責辞任した直後の10日未明、法務省が検察当局に資料の提供を求め、検察当局が、これに応じて押収文書の写しを提供した。財務省が提供文書を10、11両日に分析したところ、14文書で書き換えが確認されたという。書き換えの動機は、佐川氏が昨年の通常国会で理財局長として「交渉記録は残っていない」などと答弁したことだった。理財局の職員らは、答弁との整合性を取るために次々に書き換えを続けたとみられる。
 この問題に関し、麻生太郎副総理兼財務相、福田淳一財務事務次官、太田充理財局長らは一切関与していなかったという。一方、近畿財務局が、3年間貸し付ける計画だった問題の土地を、籠池氏の強い要請を受けて10年間に延長することの承諾を求める稟議書にも書き換えがあった。鴻池祥肇元防災担当相、平沼赳夫元経済産業相、鳩山邦夫元総務相(故人)、北川イッセイ元参院議員の各秘書らの働きかけがあったことの文面はすべて削除されていた。ただ、近畿財務局は政治家に関連する働きかけについては「ゼロ回答」だったという。
(3月12日、産経新聞)

森友・加計疑獄については、特別な情報を持っているわけではなく、スキャンダル追及は自分の趣味にもスタンスにも反するので本ブログでは避けるようにしている。従って、ここではもう少し大きな話をしたい。

アメリカの独立宣言前、イギリスとフランスが米大陸の覇権を争ったフレンチ・インディアン戦争によって財政危機に陥った英国議会は、「植民地の維持費は植民地で」の方針から、植民地から輸入する砂糖に課税する砂糖法を可決し、さらに植民地における印紙に新規課税をなし、その上「東インド会社が輸入する茶だけは無税」という茶法を成立させるに至り、米大陸では有名な「代表なくして課税なし」のスローガンの下、英国本土による独断支配を拒否する空気が強まった。そこに英国王ジョージ3世が軍隊を介入させたため、アメリカ独立戦争が勃発する。その独立戦争で英国は増税を余儀なくされるが、議会は増税を承認する代わりに軍事支出の予算科目の細目開示を要求した。それまでは軍事費全体で一括審議されていたものが、1789年から予算科目の区分と細目別の審議がスタートした。

政治制度におけるリベラリズムの本則は、「権力の分立による権限の分散と相互チェック」にある。リベラリズムが権力分立を求めるのは、権力が一箇所に集中し暴走することを防ぐためで、その予防策として権力を分散して相互監視、競争・競合させる構造にしてある。公文書管理と情報公開の制度は、最大権力を有する行政が、適切に権力行使しているかどうかを、主権者が直接チェックするためにある。

代議制民主主義は、国民(人民)が有する主権を代議員に委託、代議員が無数の主権者の主権を代行することで成立している。しかし、議会が有しているのは、あくまでも立法権であり、行政権は政府(官僚)が行使するため、議会で多数派を形成する政権党が内閣を組織して行政権を統括している。と同時に、憲法第二十五条に「公務員はすべて国民全体の奉仕者である」と規定することで、シヴィリアン・コントロールをなそうとしている。
ところが、官僚は公務員試験で採用されるだけで、試験は主権者やデモクラシーに対する忠誠心を問うわけではないので、どうしても「全体の奉仕者」は空文化してしまう傾向にある。

他方、主権者は原理上「国家の保有者」であるものの、現実には主権は代議員に委託、政府・官僚は全ての情報を開示するわけではない。また、納税者は税を納める代わりに、国は税の使途を明確にし、それが適切に運用されていることを説明することで、国家内の信頼関係とバランスが保たれる構造になっている。
アメリカ独立戦争もフランス革命も、「税は適切に徴収され、運用される」という原理原則が守られなかったことから勃発し、リベラリズムの原理が政治体制に組み込まれ、今日に至っている。

閣僚や政権党議員と官僚が共謀して霞ヶ関で公文書の改ざんが日常的に行われていることは、上記のリベラリズムを否定、加速度的に腐敗が進んでいることを示している。日本の場合、投票率が低く、政権交代が起きにくいことで権力の相互監視機能が働きにくい上、小選挙区制によって民意の反映度も低いため(比例得票率33%で議席の3分の2)、戦後型のリベラル・デモクラシーは本来の機能を果たさなくなりつつある。

リベラル・デモクラシーを(一応)謳う日本で腐敗が蔓延する一方、一党独裁を強化する中国で腐敗撲滅が進んでいる現状は、あまりにも皮肉であろう。

【追記】
公文書偽造は戦後の統治原理であるリベラル・デモクラシーを否定する行為であり、本質的には「国家反逆罪」(主権者である人民に対する反逆)に相当するため、有印公文書偽造罪の最大刑期である懲役十年を適用しない限り、日本の統治原理そのものが維持できなくなるかもしれない。
posted by ケン at 12:55| Comment(7) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月14日

ルーリー、スリーパーセル論で炎上

国際政治学者を自称している三浦女史がテレビの発言で炎上しているらしい。2月11日に放送された『ワイドナショー』なる番組で、北朝鮮の暗殺部隊が、日本の大都市部、特に大阪に潜伏し、日朝開戦に備えているという話だ。
実際に戦争が始まったら、テロリストが仮に金正恩さんが殺されても、スリーパーセルといわれて、もう指導者が死んだ、っていうのが分かったら、一切外部との連絡を絶って、都市で動き始める、スリーパーセルというのが活動される、活動すると言われている。
(略)
テロリスト分子がいるわけです。それがソウルでも、東京でも、勿論大阪でも。いま結構大阪がヤバいって言われていて。
(略)
潜んでます。というのは、あの、いざというときにその最後のバックアップですよ。そうしたら首都を攻撃するよりかは、正直他の大都市が狙われる可能性もあるので。東京じゃないからという風に安心はできない。というのがあるので、正直我々としては核だろうがなんだろうが戦争して欲しくないですよ、アメリカと。

GMT「ラビリンス」のプレイヤーとしては、確かにセルを潜伏状態のままアメリカに送り込んで大量破壊兵器を起動させるのが、ジハーディスト側の勝利条件(の一つ)であるだけに100%否定することは難しいし、現実に911テロは、アルカイダの潜伏工作員によって行われたとされている(ただ裁判ではまともな証拠は上がっていない)。

もう一つ思い出す。慶応3年10月、討幕の密勅が薩長に下されると、西郷隆盛は江戸在住の薩摩隠密「スリーパーセル」に対して後方破壊活動を命じた。彼らは尊皇攘夷主義者を煽動しつつ、府内で放火、略奪、破壊活動を行い、これが幕府司直による薩摩藩邸焼き討ちに発展。戊辰戦争に直結した。今回のNHK大河ドラマは、「スリーパーセルの元締め」としての西郷を描いてくれるに違いない。

江戸から薩摩に送られる密偵「薩摩飛脚」は、「生還率一割以下」と言われたが、潜入できたものは在薩「スリーパーセル」として市民生活を続けた。その薩摩飛脚は、特段の裁判も経ずに問答無用で殺害されるのが常だったという。この辺もNHKにはリアルに再現してもらいたい。

工作員とは異なるが、ソ連学徒的に思い出されるネタもある。
1936年秋、パリの地元紙が日独防共協定をすっぱ抜いて記事にしたのを、佐藤尚武大使が目にして、わざわざ大使名で本省に問い合わせ、「そんな交渉はしてないし、あり得ない」旨の回答を得たので、記事を書いた女性記者に抗議したところ、「きちんとファクト・チェックされたらいかがですか?」と鼻で笑われたという。その記者は、ゾルゲ・クリヴィツキーのソ連ルートから日本陸軍の情報を得ていた。その日本側協力者だった「エコノミスト」は今日まで正体が判明していない。

なお、ベルリンの壁崩壊時に西ドイツに潜伏していた東独シュタージの工作員は200人ほどだったとされるので、韓国ならいざしらず、北朝鮮の工作員が日本にどれほどいるかというのは相当に疑問だろう。

ただ、ルーリーの言い様は劇薬である。かつてヒトラーとナチスは、「第一次世界大戦でドイツが負けたのは、後方でユダヤ人が破壊工作を行い、降伏を先導したためだ」という主張を掲げ、ユダヤ人差別を煽動した。
ソ連のスターリン期の大粛清は、「潜在的な反革命を排除する」として行われた。
アメリカですら、「潜在的な共産主義者を排除する」としてマッカーシズム「赤狩り」旋風が吹き荒れた。
日本では関東大震災で同じことが起きている。
その意味で、ルーリーは立派に煽動者としての役割を果たしているのである。こうした言動が公共空間で認められていることを鑑みても、日本でマンハントが始まる日はそう遠くないかもしれない。
まともな人間は、「まとも」であるが故に早く日本から離れるべきなのだろう。
posted by ケン at 12:42| Comment(4) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月02日

イズベスチヤ化するNHK

【「ことしはウナギの供給不足に陥ることない」農相】
 ウナギの稚魚の「シラスウナギ」の漁獲量が極端に減少していることについて、齋藤農林水産大臣は、23日の閣議のあとの記者会見で、ことしの夏の「土用のうしの日」にウナギが極端な供給不足に陥ることはないという見方を示しました。
 養殖ウナギの稚魚の「シラスウナギ」は今シーズンは漁獲量が減少していて、水産庁のまとめによりますと、国内の養殖池に先月入れられたシラスウナギは0.2トンと、前の年の同じ時期のわずか3%にとどまっています。
これについて、齋藤農林水産大臣は、閣議のあとの記者会見で「シラスウナギの漁獲量は年によって変動が大きいものだが、これまでのところ不調だ。海流など海洋の環境が影響していることが考えられるが、今後、回復するかどうか状況を注視したい」と述べました。
 そのうえで、今後のウナギの供給については、「ことし出荷されるウナギは、前のシーズンに漁獲されたシラスウナギが育てられたものが多い。前のシーズンの漁獲量は平年並みだったので、極端な供給不足に陥ることはないのではないか」と述べ、ことし夏の「土用のうしの日」への影響は限定的だという考えを示しました。
(1月23日、NHK)

「ことしはウナギの供給不足に陥ることない」

この辺の言い回し、ソ連帰り、全体主義学徒的にはピピッとくるものがありますな(微笑)
ウナギを食肉とか石鹸とかに置き換えれば、もう1980年代のソ連・東欧。

ウナギは完全に食べ尽くしたものと見て良いだろう。他にも今期はサケ、サンマ、マグロ、カツオなどが不漁で、特にサンマは歴史的不漁だという。また、マグロは世界的な需要高から天然物の絶滅が危惧されている。

世界的影響の大きい絶滅の可能性には言及することなく、ただ単に「国民をいたずらに混乱させないため」に事実を最大限に歪めて報じる姿勢は、もはや全体主義国のそれと同様だ。
その意味でもNHKは戦後民主主義における公共放送の役割を負え、権威主義政府に奉仕する機関へと変貌を遂げつつあることを示している。
posted by ケン at 12:10| Comment(2) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月01日

パリ市が万博断念

【パリ万博、仏政府が断念 財政上の懸念理由に】
 大阪が誘致を目指す2025年の国際博覧会(万博)について、パリ郊外サクレー地区を候補地として挙げてきたフランスの誘致委員会のジャンクリストフ・フロマンタン会長は22日、記者会見し、「ゴール直前で誘致をあきらめるのは遺憾だ」と述べ、仏政府による誘致断念を公式に認めた。
 仏メディアによると、フィリップ仏首相は万博の誘致関係者らに送った書簡や電話で、民間からの投資不足や入場者数予測の見通しの甘さによる財政上の懸念を表明し、国として立候補の取り下げを決めたと告げた。
 会見でフロマンタン氏は「万博計画は公的資金の投資がない前提で立てられ、国も認可していた」と説明。万博に予測されたほどの経済効果が期待できないとの政府側の主張を「ウソで公平でない」と批判した。
 候補地を含む自治体であるイルドフランス地域圏のペクレス議長も21日、「採算が合わないと一方的に決めつけている」と仏ラジオでフィリップ氏の判断を批判するなど反発が広がっている。
 万博誘致を巡っては、パリ郊外サクレー地区が大阪の最大のライバルとみられてきた。ほかに、ロシア中部のエカテリンブルク、アゼルバイジャンの首都バクーが立候補している。開催国は、11月の博覧会国際事務局(BIE)総会で行われる投票で決まる。
(1月22日、時事通信)

【万博誘致「気緩めず拍車」=仏断念で世耕経産相】
 世耕弘成経済産業相は23日の閣議後の記者会見で、大阪が誘致を目指す2025年の国際博覧会(万博)をめぐり、フランス政府が立候補を取り下げる方針を固めたことに関し、「正式に発表されていないので、日本政府としてのコメントは控えたい」と断った上で、「気を緩めず、オールジャパンの体制で誘致に向けた取り組みに一層拍車を掛けたい」と述べた。25年万博は日本のほか、ロシア、アゼルバイジャンも立候補している。
(1月23日、時事通信)

五輪誘致を取り下げたローマ、ハンブルク、ブダペスト、ボストンらと、五輪、賭博、万博とハコモノつくって集客、収奪することでしか成り立たなくなっている日本は、一体どこが違うのだろうか。
民意に基づいて選出された行政の長が五輪返上を申し出るのだから、そこには「巨額の税金を投じて祭りを開催することの不健全性」が民意として自覚されていると解釈すべきなのだろう。これに対して、日本の場合、民意が「御上が主導して祭りを開く」ことを求める傾向が強い。ミニマムな話だと、自治体が成人式を開催するのも同じ理由からだ。

財政難で民生を優先するためにイベントを断念する欧米諸国と、財政難で民生が犠牲にされる中でイベントを「オールジャパンで進める」と言ってしまう日本、その民度の差(鼎の軽重が理解できない)は今後ますます日本をどん底に突き落としてゆきそうだ。
posted by ケン at 12:38| Comment(0) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月24日

保身しか考えないヤクニンども

【公用メール、1年で自動廃棄 政策検証が困難に】
 省庁で利用が急増している公用電子メールについて、国土交通省は2月から、送受信後1年が経過したものをサーバーから自動的に廃棄することを決めた。保存が必要な公文書に該当するメールは職場で保存するよう指示したが、廃棄可能なメールとして、国会議員からの説明要求の連絡文書などを挙げている。専門家は「政策の検証に必要なメールが消去される」と懸念している。
 毎日新聞が入手したメール管理指針案や国交省の説明によると、同省は昨年、自動廃棄の方針を職員に伝えたうえで、今年1月末までに保存期間が1年以上の公文書に該当するメールをデータファイル化し、共有フォルダーなどに保存・登録するよう指示した。登録手続きをしないメールは、サーバーから自動廃棄された時点で見られなくなる。
 公文書に該当する場合でも、官僚の裁量で重要性が低いと分類されれば保存期間は1年未満となる。指針案は保存期間1年未満のメールについて、職員間で共有する必要性が高いものを除いて廃棄するよう求めた。廃棄可能な例として、国会議員からのレクチャー要求の内容を記載した連絡文書、会議や国会議員への説明の日程調整のためのメールなどを挙げている。
 指針案には、廃棄可能なメールが「(情報公開の)対象になり得ることに留意する必要がある」と記されていたが、同省関係者は「職員にまずいメールは捨てろというふうに受け止められかねない」と話した。
 森友学園問題や南スーダンPKO日報問題では、政府が「保存期間1年未満」との理由で文書を廃棄したと説明。1年未満の文書の定義があいまいだと批判が出ていた。国交省は森友学園への国有地売却の事務手続きを担当していた。
 国交省はメールを自動廃棄する理由について、政府の公文書管理のガイドラインが改正され適正な管理が求められたことや、サーバーの容量確保の必要があるためなどと説明。廃棄可能なメールは、紙であっても保存期間1年未満のものだとした。
(1月16日、毎日新聞)

今どき受信したメールを全て保存しておくくらいのことは簡単にできるだろう。メールは添付さえなければ一通あたり10から50kb程度で、仮に1億通あったとしても、50億kbで約5テラバイト、ちょっと大きめのハードディスクに収まってしまう。全て保存するという選択を採ったとしても、技術的にも資金的にも全く問題ないはずだ。
この意味するところは、メールを保存して将来的に問題追及された際に証拠となってしまうことを避けるメリットの方が、将来的に政策検証を行う資料とするメリットよりも大きいと官僚が判断したということだろう。

また、常識的に考えて一年以上前のメールが自動消去されて検索できなくなったら、通常の業務にも支障が生じると思うのだが、これも2年毎に異動のあるヤクニンにとっては何の不都合も無く、むしろ一年以上放置された案件は無視して良いという解釈もできるだけに大喜びなのかもしれない。
電子媒体でのコミュニケーションが常態化する中で「文書」の定義を逆手に取った、「ルールの悪用」の典型例と言える。

リベラリズムが権力分立を求めるのは、権力が一箇所に集中し暴走することを防ぐためで、その予防策として権力を分散して相互監視、競争・競合させる構造にしてある。公文書管理と情報公開の制度は、最大権力を有する行政が、適切に権力行使しているかどうかを、主権者が直接チェックするためにある。
森友・加計疑惑の検証が進まないのは、省庁側が情報公開を拒み、当該文書の廃棄を進めたことが大きいが、霞ヶ関はそれをシステム化・合法化しようとしているのだろう。

霞ヶ関が主権者に情報公開を拒み、「不都合な真実」を隠蔽することは、行政の腐敗を加速度的に進めると同時に、デモクラシーとリベラリズムの実態を薄め、権威主義化を促進させるところとなる。その意味で、日本は立法府も行政府も戦後民主主義とリベラリズムを否定していると言えよう。
posted by ケン at 13:13| Comment(2) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月23日

ヨメが怖いあまり亡命しマス?

北朝鮮から木造漁船で日本海に出て、日本に漂着した北朝鮮人が警察に拘留、尋問され、「嫌々結婚させられた妻から逃げたかった」と答えたため、「そんな訳あるか!」と延々と同じ尋問が続けられているという話を聞いた。お気の毒なことである。

ソヴィエト学徒的には、1976年にミグ25で函館空港に亡命した「ベレンコ中尉事件」を思い出すが、あれも「妻から逃げたい一心で、気づいたら日本上空まで来ていた」と後に回想している。彼の回顧によれば、妻は相当に金遣いが荒い上に酒好きで悪い酔い方をするらしく、「当時は、いかにして妻を顔を合わせないようにするかばかり考えて鬱々としていた」ということ。
他にも軍内の腐敗やシベリアの生活難にも嫌気がさしていたらしいが、どうやら最大の悩みは妻との関係だったようだ。そこから、綿密な亡命プランを立てて、実行に移すところは、凡百の人間とは異なるところだろう。それでも、精神的にはかなり追い詰められていたようで、少なくとも気持ちの上では、「気づいたら日本を目指していた」ということだったらしい。

私の周囲には同様の「妻から逃げることばかり考えている」同志は多く、程度の差はあれど、むしろ多数派と言えるほど。違うのは、ほんのちょっとの勇気があるかどうか、なのだ。
どうか当局の皆さん、北朝鮮から来た「亡命者」に同情を賜らんことを。
posted by ケン at 13:00| Comment(0) | 政治、社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする