2017年06月04日

TVドラマ「巨匠とマルガリータ」

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ТВ Сериал "Мастер и Маргарита"

ミハイル・ブルガーコフの発禁小説「巨匠とマルガリータ」がロシアでドラマ化され、初回視聴率50%という恐ろしい数字をたたき出した。
原作を読む気にはなれないので、せめてドラマでもと思ったのだが、500分という大河で、これすら見終える自信が無い。
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2017年05月31日

祖国は我らのために

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「祖国は我らのために」 マコンドープロデュース 古川健・脚本 蔵本朋幸・演出

ロシア革命100周年ということで、様々な図書が出版される中、舞台も上演されていた。脚本家の方からして物心ついた頃にはソ連が無くなっていたくらいの年頃で、演じている役者さんに至っては大半がソ連崩壊後の生まれという、圧倒的に若い世代ばかりで、実際のソ連を知る最後の世代になってしまった私としては、観る前から不安ばかりしかなかった。案の定、観客も若い人ばかりで、自分は圧倒的に高齢寄りだった。一般論的には、ソ連でも演劇でも若い人に興味を持ってもらうのは良いことだとは思うが・・・・・・
1917年ロシア歴2月、帝政ロシア首都ペトログラード。
圧政と世界戦争の長期化によって市民たちは、その日のパンにすらありつけない貧しい生活を余儀なくされていた。
彼らの目の前にはまばゆい宮殿。
贅沢な生活を思うさま楽しむ一部の貴族、資本家。
やがて貧しい市民の心に怒りの炎が宿る。『革命』という名の炎が・・・。

「20世紀最大の事件」と呼ばれたロシア革命。

名もなき若者たちは立ち上がり、強大な旧権力に戦いを挑んだ。その戦いの先に理想の社会を夢見て

まず脚本が非常にボリシェビキ視点で、今どき日共でもこんな革命礼賛はしない。とはいえ、帝政に対する絶望と「二月革命の裏切り」が、十月革命の原因になったことは否めない。だが、2時間という枠で分かりやすさを追求した結果、ケレンスキーらが悪者、レーニンらが救世主になってしまっている。これを肯定的に捉えるとしても、ケレンスキーにもメンシェヴィキにも彼ら(なり)の正義があったことを描かないと、ただの革命礼賛になってしまう。ケン先生的には、そこまで割り切ることはできない。

演出的には、35人もの役者が絶え間なく動き回り、あるいは組体操的なものがあったりして、迫力はあるのだが、どうにも「力技で押し切る」観が強く、「パワー以外はどうなの?」と思わざるを得なかった。つまり、大声とドタバタが多すぎてプロパガンダ的になってしまい、評価するのが難しい。幕間も暗転も殆ど無く、観ていて疲れるのも問題。
やはりロシア革命を描くなら、視点は大衆では無く中上流になってしまうものの、『ドクトル・ジバゴ』辺りのものを参考にした方が、現代あるいはソ連を知るものとしては良い(ロシアっぽさが出る)ような気がする。
そうでなければ、あれこれバランスを取ろうとしてことごとく失敗して臨時政府を瓦解させてしまうケレンスキーの「無能」に焦点を当てた方が、政治的には面白く、現代的な視点となるだろう。

細かいところでは、メンシェヴィキはレーニン派によるレッテルに過ぎず、決して誰も少数派を自称したりはしない。まぁ分かりやすくするためには必要な措置なのかもしれないが。また、アレクサンドロフのソ連国歌「祖国は我らのために」は、スターリン期のものであり、当時みなが歌っていたのは圧倒的に「インターナショナル」だった。この点も気になる人は非常に気になっただろう。

厳しい話にはなってしまったが、こうしたテーマに取り組む姿勢は高く評価したく、今後も期待したい。
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2017年05月26日

Hugo Bossと黒い制服はヤバいという話

実はドイツのアパレル・ブランドである「Hugo Boss」がナチスの制服を制作していたことを知り、驚いている。レベルこそ低いものの、ヲタ歴だけは40年からある上、短いものの一時期はアパレル業界に身を置いていたこともある自分が知らなかったことがショックだった。

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初代フーゴ・フェルディナント・ボスは、婦人服仕立屋の店主で一次大戦に一兵卒として出征、生還後、混乱下の南ドイツ・メッツィンゲン(ロートリンゲン)で総合ブランド「Schneiderei Hugo Boss」(仕立屋ボス)を立ち上げ、作業着や地方自治体の制服を中心に制作していた。それもドイツ経済の浮沈に大きく左右され、大恐慌で一度は倒産してしまう。ところが、フーゴ氏が1931年にナチ党に入党したことから、大転機が訪れる。

1932年、ボスは国家社会主義ドイツ労働者党の制服の制作を受注する。最初に制作したSSの制服がいきなり大ヒットする。同党の国政選挙の得票は、1932年7月で1375万票と急成長する時期にあった。そして33年には政権を獲得、翌34年には独裁権を確立する。
ボスがプロデュースしたSA、SS、ヒトラーユーゲントなどの制服デザインがナチス人気に大きな影響を与えたことは言うまでも無い(デザイナーはKarl Diebitschら)。数年前に自社を潰した街の仕立屋のオヤジがわずか数年にして、欧州随一の大国の各種制服を一手に手がける国家的あるいは世界有数のメーカーになったのである。
だが、それも10年を経て第三帝国が崩壊、同時に「ボス帝国」も瓦解し、一転して「ナチス協力者」として告発され、事業停止に追い込まれてしまう。フーゴ氏は、公民権を停止され、「全体主義への奉仕者」と罵倒されながら、48年に死去する。

戦後は娘婿が事業権を継承、戦後も警察や郵便の制服を作り続け、紳士用スーツで再起を図り、80年代には再び西ドイツを代表するアパレル・ブランドに成長、全世界に進出している。
私がプロデューサーだったら、是非とも映画化あるいは舞台化したいところだが、欧州では上映できず、ボス家の許可も下りそうに無いから、今まで実現していないのだろう。

やはり黒い軍服というのは、それだけで強そう(怖そう)に見える。だが、デザインを学んだ経験のある者としては、黒は「締める」のが難しく、下手するとアクセントや締まりの無いデザインになってしまい、扱いが難しいのを知っている。
この点、ケン先生のお勧めは、ソヴィエト・ロシアの海軍歩兵(Морская пехота)である。ボーダーのシャツとレトロな海兵帽が特徴で、どちらかと言えば「ダサ格好いい」系ではあるし、米海兵隊と同様「マッチョなヤンキー」ではあるのだが、引き締まった印象を持たせるデザインになっている。ウラジオストクで、少人数ではあるが行進しているところを見たことがあるが、実際に見ても格好良かった。

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日本の場合、明治期は陸軍でも海軍でも黒を基調としていたが、後に機能性の問題から廃止されていった。現代では、陸上自衛隊の予備学校である高等工科学校の制服に残っているくらいだが、今見ても「明治の香り」がしてヲタク的には嬉しいものの、強さや格好良さの点では惜しいものがある。個人的には赤い線が締まりを悪くしているように見えるのだが。まぁ、現代ドイツや日本の場合、敗戦国である以上、周辺国に脅威を与えないよう配慮する義務があり、軍服もあまり強そうに見えてはならないという暗黙の了解があるのだろう。仕方ないとは言え、惜しすぎる。

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2017年05月22日

今夏期待の戦争映画

この夏はリバイバルを含めて「戦争映画祭り」とも言える状況にある。自分の備忘を兼ねて紹介しておきたい。


『ウィンター・ウォー/厳寒の攻防戦』 ペッカ・パリッカ監督 フィンランド(1990) 6/24より公開
1990年に公開された冬戦争を描く傑作。日本では大幅にカットされたものがDVD化されて販売され、私も持っていたのだが、後輩に貸したまま行方不明になっていた。今回はフルバージョン(139分)でリバイバルされる。スオミ短機関銃を始めとするフィンランド軍装備やT26を始めとするソ連軍装備が超見物。アメリカやソ連の戦争映画とは色々と描き方が異なるところも興味深い。冬戦争を描く作品は殆ど無いだけに、見ていない人は是非映画館に足を運ぶべき。これも何故素直に「冬戦争」とできないのか。フルバージョンのDVDもゼッタイ購入すべき。


『ハクソー・リッジ』 メル・ギブソン監督 米(2016) 6/24より公開
1945年の沖縄戦において最悪の戦場と言われた嘉数高地戦(シュガーローフ)に次ぐ激戦地として知られる前田高地戦を描く。宗教上「不殺」の信条を持つ衛生兵が八面六臂の大活躍をするという話らしいのだが、先に公開したものを見た人によれば、「やり過ぎ」「盛り過ぎ」という。まぁメル・ギブソンだからなぁ。内容はさておき、邦題を「前田高地の戦い」としなかった配給者の責任は問われるべきだ。


『戦争のはらわた』 サム・ペキンパー監督 英・西独(1977) 8/26より公開
知る人には「Cross of Iron」の方が通りが良いかもしれない、戦争映画の金字塔とも言える作品がデジタル・リマスターでよみがえる。舞台は1943年のクリミア。すでに士官不足から曹長が小隊長を担っており、小隊もベテラン揃いだが、激しく定数割れして士気も弛緩している。そこに実戦を知らないプロイセン貴族の中隊長?が着任してくる。43年ながら大戦末期のドイツ軍の荒みっぷりや、東部戦線の過酷な戦場が見事に再現されており、「傑作」の名をほしいままにしている。今見ると、ユーゴスラヴィアで撮影されていることや、役者の英国人がドイツ人に見えないところが気になるものの、ジェームズ・コバーンの名演は映画史上に残るものであり、作品の完成度は疑うべくもない。私などは世代的にビデオでしか見ていないだけに、映画館の大画面と爆音で再体験したいものだ。


『ダンケルク』 クリストファー・ノラーン監督 米(2017) 9/9より公開
1940年フランスのダンケルクから撤退する英仏軍を描く。現地でも撮影しているらしく、リアリティはありそうなのだが、「映画としては正直どうなの?」と思わなくもない。見には行くけど。
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2017年04月15日

塩山紀生先生逝く

【埼玉・三郷団地火災で亡くなった無職男性 人気アニメ「装甲騎兵ボトムズ」のキャラクターデザイナー、塩山紀生さんだった】
 埼玉県三郷市彦成で13日未明に起きた団地火災で、亡くなった無職男性が、アニメ「装甲騎兵ボトムズ」などのキャラクターデザインを手がけた塩山紀生さん(77)だったことが14日、県警吉川署への取材で分かった。同署は家族から確認を取ったとしている。火事は13日深夜、「UR都市機構みさと団地」8階の一室が全焼し、焼け跡から塩山さんと妻の時子さん(85)の遺体が発見された。同署によると、台所の焼け方が激しいといい、出火原因を調べている。塩山さんはアニメ「無敵鋼人ダイターン3」「太陽の牙ダグラム」「装甲騎兵ボトムズ」などのキャラクターデザインや作画監督を担当し、「ボトムズ」の主人公、キリコ・キュービィーなどには現在も根強いファンがいる。平成27年に東京・上野で開催された「メカニックデザイナー大河原邦男展」では、キャラクターデザイナーとしてギャラリートークに出席していた。
(4月14日、産経新聞)


あ〜塩山先生がまさかの焼死!心よりお悔やみ申し上げます。
先生の作画監督デビューは「人造人間キャシャーン」と「勇者ライディーン」。その後も「ザンボット3」「ダイターン3」「ダグラム」「ボトムズ」と、まさに私の青少年期のヲタク生活に不可欠の作品ばかりだったことが思い出されます。いや、実に名作ばかりで、どれもリメイクされる価値があります。
安らかにお眠りください。
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2017年04月11日

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ

最近めっきりサブカルのレビューから遠ざかってしまっているので、久しぶりに書いてみたくなった。2015年秋と2016年冬の分割4クール(全50話)で放送された『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』である。
ネット上では、否が多めの賛否両論のようで、1クール目は相対的に高かった評価も2クール目で台無しになってしまった観がある。気持ちは分かるので、不肖ながら私も分析、評価してみたい。先に言っておくと、ケン先生の評価は「総論万歳、各論ブーブー」である。

以下ネタバレあり、注意!

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まず本作が最も斬新だったのは、「ガンダムで仁義なき戦い」を試みた点にあり、「ガンダムでヤクザ抗争?」に評価が集約される傾向がある。つまり、国家や崇高な理想に依らない点、どこまでも生臭い(死人が多い)点が、どのように描かれ、どのように受け取られたか、というところが大きかったと考えられる。
つまりかいつまんで言ってしまえば、その日暮らしのチンピラ少年たちが集まってMSを乗り回し、日銭を稼ぐために(結果的とはいえ)殺戮を行い、最終的にはヤクザの内部抗争と当局の介入によって死人の山を築きながらボコボコにされる、という身も蓋も無いストーリーなので、「ヤクザもの」という視点が無いと非常に感情移入しにくい作りになっている。そして同時に「じゃあ、ヤクザ映画のオマージュとしてはどうなの?」というと、そこも微妙に中途半端になってしまっている。それでも、第1部は「革命の乙女(ヒロイン)を地球に送り届ける」という大義名分があったから良かったが、第二部ではその大義も無くなり、ただの行き当たりばったりの抗争に終始してしまった。第二部におけるヒロインの扱いに大失敗したことも不評の原因かもしれない。

基本的な設定は現代に共通している。超大国アメリカが衰退する中で、周辺部の治安が乱れ、奴隷や少年兵が横行し、軍閥が跋扈する中東やアフリカがイメージされている。本作も、横暴な大人を追放して、奴隷と少年だけによる傭兵団を結成して、「火星一の軍閥を目指す」という構成になっているのだが、この時点で中東やアフリカの現状、あるいは清帝国崩壊以降の中国大陸についての知識が無いと、どうにも想像しづらいように見える。問題意識は分かるし、個人的には好意的に評価しているのだが、敷居が高いのは否めない。

同様に言えるのは、今どきの10代から30代の若者が『仁義なき戦い』を見て、登場人物にどこまで共感できるのか、という点だ。1973年に『仁義なき戦い』と第二作『広島死闘篇』が公開された時は、文字通り日本中の若者が熱狂して、映画館は連日超満員になったと言われるが、それは世代の中で共有されている精神や社会的背景に合致していたからだろう。その子ども世代(団塊ジュニア)である私などは、今見ても「凄い」と感じ、理解できる感性は持ち合わせているものの、そのさらに下の世代になり、ヤクザも暴走族も完全に下火という時代の感性にはそぐわないのかもしれない。この点が、若頭としてのオルガや鉄砲玉としての三日月に共感できるかどうかに関わってくる。まして、「ガンダムでやる必要あるのきゃ?」と言われれば、返す言葉も無い。
個人的には、アニキ的なオルガが好きだし、キリコ・キュービー的な三日月も歴代ガンダム主人公の中で最も相応しいと思うのだが、いかんせんアニメという形でやや客観的(二次元)に見てしまうと、「暴走するバカと追随するだけのバカ」になってしまうのかもしれず、惜しいところだ。『仁義なき戦い』の登場人物をバカにできないのは、ドキュメンタリー風のリアルな映像と迫真の演技が、観客をドラマの中に取り込んで、決して他人事とは思わせないからなのだろう。

では、ヤクザ・ガンダム、軍閥ガンダムとしては何がマズかったのか。主に二つの問題から説明される。一つは、裏主人公であるマクギリスが顔と口調の割に恐ろしく無能であった(にしてしまった)ことにある。ぶっちゃけ、「錦旗を掲げれば皆自分に従う(はず)」というのが唯一無二の「計画」で、本当にそれ以外何も無かったため、その話に乗ってしまった主人公たちも「タダの騙されたバカ」になってしまっている。「上手の陰謀にまんまとハメられた」というならまだしも、「錦旗を掲げたけど、誰も従いませんでした、終了」では、あまりに惨すぎる。まぁ織田信長を弑逆して朝廷のお墨付きは得たけど、誰も支持してくれなかった明智光秀をイメージしているのかもしれない。だとしても、光秀に味方する主人公ってどうよ。

もう一つは、テイワズのマクマード代表(大親分)が立派そうに見えて、これまた全く部下を統制できない無能だったことだ。それっぽい風貌にそれっぽいことを言いながら、実際には配下はみな勝手放題で、ナンバー2とされるジャスレイの暴走を止めようとすらしなかった。結果、「あの杯は何の意味があったのか?」という話になる。あれなら、「仁義なき」の山守組長(金子信雄)のように、配下同士を競わせる一癖も二癖もある「悪いヤツ」という設定にした方が説得力があった。これに関係して、タービンズが突然当局の手入れを食らっていきなり壊滅してしまったのも、いかにも「制作の都合」で杜撰だった。

この2つの意味するところは、「気前の良い親分と人の良いアニキに付いたはいいものの、美形なだけの無能な詐欺師に騙されて全て失いました」になってしまっているということだ。ヤクザ映画で若者が突っ走るのは「お約束」だが、人間関係に深みが無く、バカっぽさが前面に出てしまい、共感を呼びにくくなっている。人物造形や設定に失敗があったことは間違いないだろう。その結果、主人公たちが「それっぽいカッコイイ台詞」を言ってみても、「仁義なき」の登場人物たちが吐くような記憶に残る「名台詞」(ex. わしらどこで道間違えたんかのぅ、弾はまだ残っとるがよう)にはならなくなっている。説得力が無いからだろう。

私が見るところ、CGSの大人の一人で鉄華団に従うも後に裏切る「トド」は、「仁義なき」の槇原をモチーフにしていると思われるが、全く田中邦衛らしさ(偉大なる小物感)が再現されておらず、出すだけムダだったのではないかと思われるほどだった。これも惜しいところだが、若い脚本家に笠原和夫先生のコピーはできなかったということなのかもしれない。まぁ無理だよなぁ。ちなみに、誰がなんと言おうと、田中邦衛の最高傑作は『仁義なき戦い』である。
ちなみに「ラフタ」が玩具屋で殺されるのは、「仁義なき」の坂井(松方弘樹)へのオマージュだと思われるが、「とってつけた」感が否めない。

上記2点以外で問題点を挙げるなら、「カタルシスの欠如と否定」だろう。ラスボスが条約で禁止された兵器を大量駆使して主人公側をボコボコにした挙げ句、ラスボス側の登場人物は殆ど死なずに終わり、しかも、そのラスボスが主人公らが夢見た変革を実現してしまう。ラスボスは第二次世界大戦のアメリカをイメージしているのだろうが、爽快感の正反対にあるのは間違いない。

生き残った主人公周辺もいかにも微温的な生活を送るラストになっており、変に現実味を出して、「失ったものと得たもののバランスを取らない」(死体の山を築いて得たものこれだけ?)形にしたことが、これまた評価を分け、多数を悪い評価に傾けてしまっている。制作者側の意図は理解できるし、「仁義なき」もそうなのだが、ガンダムでそれをやるのは無理があったのではなかろうか。冲方丁作品なら「いつものこと」だが、それでも一般的な評価は厳しいものが多い。最終的に主人公側が敗北するにしても、「最後の一発」が無いと見る方としては非常に虚しいものに終わってしまいがちだ。敢えて「せめて一発」を外させたところに制作者側の強い意志を感じ、個人的には前向きに評価したいが、一般受けという点では厳しいだろう。
玄人向けの設定を、素人にも分かりやすい脚本にした結果、どちらからも厳しい評価にさらされる感じになっている。

細かいところで言えば、マーケットの要請なのか、脚本家の問題なのか、BLとショタ要素が濃厚に出ている点も気になる。あれは本当に必要だったのだろうか。そんなに前面に出さなくてもと思うが。

私的に高く評価したいのは、MSの設定について、銃砲ではMSの装甲は貫けないので、白兵戦で決着つけるしかない、とした点である。結果、重厚なMSが無骨にガンガン殴り合い、叩き合う形になっているが、デジタル化で描写水準が高まっているだけに重厚感が良く表れていて、発想の転換に成功したと言えるだろう。もっともその弊害として、パイロットの死に様が陰惨になっている気もする。

どうも否定的意見の羅列になってしまったが、全体的にはコペルニクスとまでは行かなくとも、大きな発想の転換を行い、作品化を試みた点について非常に高く評価しており、だからこそ最後まで見てこんな長いレビューも書いている。ただ、コンセプトが興味深いだけに、細部の演出や表現の失敗が必要以上に厳しい評価になってしまっている。スタッフの皆さんには、厳しい評価を受け止めて今後も前向きにガンダムに取り組んで欲しい。

【追記】
ネット上には「マリーにガンダムの脚本なんてムリだったんだ」旨のコメントが散見されたが、厳しいとは思うものの「むべなるかな」であろう。やはり虚淵氏や東出氏あたりが妥当だったのではないか。冲方氏は世界が違うだろう。
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2017年04月02日

わが友イワン・ラプシン

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『わが友イワン・ラプシン』(Мой друг Иван Лапшин) アレクセイ・ゲルマン監督 ソ連(1984)

フルスタリョフ、車を!』『道中の点検』のアレクセイ・ゲルマン監督作品。もともと寡作の監督で、ほとんど10年に一本のペースでしか撮っていない。『道中の点検』は1970年に撮影されて、85年に公開されたが、本作も84年に完成したものの、「公開保留」とされて、ペレストロイカが始まった後の86年に公開された。当時は大人気を呼び、観客動員1200万人を達成したという。



ストーリー的には特筆することはない。1935年、ある地方都市にいる殺人鬼を追う刑事課長の日常なのだが、事件も捜査も「日常」の1ページに過ぎず、あくまでも一ソ連市民の日常に焦点が当てられている。つまり、全く刑事物ではなく、ストーリーに抑揚があるわけでもなく、淡々と流れてゆく。変に期待して見ると、「どこから本編が始まるんだ?」などと思ってしまうだろう。

興味深いのは1935年という設定で、この年は同32〜33年の大飢饉を乗り越えて、37年の大粛清が始まる前の「スターリン期の中で最も幸福な時代」に当たる。ミハルコフ監督の『太陽に灼かれて』も同時期だ。

その撮影と演出は、ゲルマン監督らしい独特のもので、最小限のカット、コマ割でドキュメンタリー風のリアリティを重視している。舞台の一つである警察の官舎と言っても、刑事課長が普通のアパートの一室に複数の同僚と同居しており、お世辞にもきれいとは言えない。街並みも「いかにもソ連の田舎街」な感じで、いかにも侘しく、貧しいところが良く再現されている。車も市電もボロボロで、「これならまだ日本の方がマシだったんじゃね?」と思えてくる(汚らしさが違う)。内容云々よりも、このリアルな生活感の再現が「公開保留」にされた理由なのではないかとすら思える。だが、ソ連帰りとしては、これらの映像がどこまでも懐かしく見えてしまう。

『フルスタリョフ、車を!』もそうだったが、登場人物はムダに大声でがなり立て、その会話は成り立っているのかも微妙な感じで、かと思えば突然ブラスバンドが鳴り始めるという、奇妙なカオス的祝祭空間がある。ロシアの庶民のパーティーや食事に同席すると、そのうるささや無秩序に閉口させられるが、まさにそれだ。これに比べると、ミハルコフ監督の作品は貴族的すぎて、ロシアっぽさが足りない。

決して恐怖に怯えていただけでは無い、スターリン体制下のソ連市民の日常を、ドキュメンタリー風に撮っている本作は、今日だからこそなお貴重だと言える。
なお、アレクセイ氏の父ユーリのいくつかの作品を原作としているそうだが、原作では主人公以外の登場人物の大半が獄死、戦死しているというから、その視点で見るとまた色々な感慨が沸いてくる。
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