2018年06月25日

ゲッベルスと私

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『ゲッベルスと私』 クリスチャン・コロネルほか オーストリア(2016)



ナチス・ドイツの宣伝相だったゲッベルスの秘書ポムゼル女史が、103歳にして69年間の沈黙を破り、ひたすらしゃべるまくるドミュメンタリー。インタビューは総計30時間に及び、記録映像を交えながら約2時間に編集しているが、実質的には彼女が2時間近く延々と回顧するだけの映画なので、映画館では爆睡者が続出、私も一度寝かけたほどだった。

取材が行われたのは2014年で、当時103歳ということは1911年生まれで、実際彼女の記憶は一次大戦が勃発して父親が出征するところから始まる。先頃94歳で亡くなられたK顧問も、ご父君がシベリア出兵に出征されて国家主義から社会主義に目覚めた経緯を話されていたが、まさに想像を超える歴史そのものである。

彼女自身はありふれた中流の家庭のベルリン市民で、より良い仕事を求めてナチ党に入党し、1933年に放送局に就職、仕事ぶりが認められて、1942年に宣伝省に入り、大臣官房の秘書となっている。放送局に入る前は、ユダヤ人の法律・保険事務所で事務員を務めており、純粋に「より良い仕事」を求めただけの話だったという。
大量虐殺などナチスによる蛮行については、一切関与を否定、強制収容所の存在は知っていたとしつつも、「自分は何も知らなかった」と繰り返す。

顔こそ皺だらけで年相応なのだが、その記憶力と話し口はおよそ100歳超のものではなく、80歳超の者でさえ、あそこまで蕩々と話せるものは少ないのでは無かろうか。この点は超人的と言える。その記憶も非常に精密で、覚えていないところはハッキリ言い、よどむところが殆ど無い。感情を露わにするところも非常に少なく、むしろ空恐ろしいほどに淡々と述べているのが印象的だ。
作り手は殆ど操作せずに生のインタビューを流しているだけに、批判的、懐疑的に読み取るのが難しく、聞き手のリテラシーが問われるドキュメンタリーになっている。

私なども若い頃には「十五年戦争に際して、なぜもっと戦争に反対しなかったのか」と考えていたクチであったが、今日のデモクラシーの危機やポピュリズムあるいはナショナリズムの高揚に際して、積極的に抵抗しているとは言えず、むしろ本格的な危機に陥る前に亡命を選択している。自分が採れる選択肢が、「身一つで逃げる」しか無い、あるいは比較的容易に採れるものだからだ。実際に、全体主義政権や軍部独裁が成立してから抵抗あるいは逃亡するのは命がけになってしまい、英雄願望を排除した場合、現実的な選択肢とは言えないだろう。

リベラル系の知識人は「市民の無関心がファシズムを生んだのであって、市民一人一人が批判精神をもって為政者を監視、対峙しなければならない」などと軽く言うが、理想論としては正しくても、その認識は現実的なのだろうか。
全体主義学徒であるケン先生的には、「市民が主体的に日常課題の暴力的解決を望んだ」とするE・トッド先生の解釈を支持するものである。そうでなければ、日本の日比谷焼き討ち事件も南京陥落時の熱狂も説明が付かない。ファッショに至らずとも、日清・日露戦争における開戦要求は、むしろ市民レベルの方が高揚していた。

ポムゼル女史は前後、5年間ソ連に拘留された後、釈放、東ドイツにて放送局に再就職し、人生を全うしている。
「女史が何を語ったか」以上に、受け手が考えさせられる好ドキュメンタリーである。ただし、居眠り注意だが。
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2018年06月10日

軍中楽園

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『軍中楽園』 鈕承澤 台湾(2014)



中国と台湾の緊張が続く1969年。台湾青年兵ルオ・バオタイは、大陸沿岸からわずかしか離れておらず砲弾が降り注ぐ最前線の島のエリート部隊に配属される。しかし泳げないことがわかり、軍中楽園と呼ばれる娼館・特約茶室を管理する831部隊に回されることに。ここには、様々な事情を抱える女性たちがいた。小悪魔のように男たちに愛を囁くアジャオとの未来を夢見る大陸出身の老兵ラオジャン。過酷な現実に打ちのめされ、空虚な愛に逃げる若き兵士ホワシン。バオタイはどこか影のある女ニーニーと奇妙な友情を育んでいく。純潔を誓った婚約者から別れの手紙が届いたバオタイの悲しみを受け止めたのは、ニーニーだった。バオタイはやがてニーニーに惹かれていくが、彼女は許されざる罪を背負っていた……。

名作『モンガに散る』のニウ・チェンザー監督の新作。鈕氏は、古き良き昭和テイストとノスタルジーを見事に再現する希有な映画監督である。「台湾なのに昭和?」と思われるかもしれないが、こればかりは実際に観てみないと実感できないだろう。

その鈕監督が、軍娼・軍営娼館という台湾の黒歴史(廃止は1992年)に焦点をあて、国共内戦の最前線である金門島を舞台に様々な人間模様を描いている。ある意味、タブーだらけの作品で、台湾で完成、公開できただけでも大したものだったが、観客動員はあまり芳しくなかったらしい。

全体的には、暗く厭世的になりがちなテーマを、政治的な描写を避けつつ、兵士と娼婦の日常と人生を情緒的に描いている。いささか美しく、情緒的に描きすぎているところが、気になる人はいそうだが、ケン先生的にはこれで丁度良いくらいに思えた。2時間以上の長尺で、ストーリーに起伏があるわけでもないが、微細な笑いと哀しみが見事に混ざり合って、映像美から目が離せない。敢えて陰惨な描写を避けることで、エンターテインメントと歴史ドラマを両立させている、希有な作品と言える。
ヒロインを演じた万茜女史や下士官長役を演じた陳建斌氏の演技はプロフェッショナルのそれであり、演技としても一見の価値がある。

韓国と台湾を冷戦の最前線にしたことで高度成長を果たした日本人としては、慰安婦問題も含めて、正面から向かい合うべき課題を秘めているだけに、是非とも観ておくことを薦めたい。
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2018年06月08日

映画『マルクス・エンゲルス』

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『マルクス・エンゲルス』 ラウル・ペック監督 フランス・ドイツ・ベルギー(2017)


1840年代のヨーロッパでは、産業革命が生んだ社会のひずみが格差をもたらし、貧困の嵐が吹き荒れ、人々は人間の尊厳を奪われて、不当な労働を強いられていた。20代半ばのカール・マルクスは、搾取と不平等な世界に対抗すべく独自に政治批判を展開するが、それによってドイツを追われ、フランスへと辿りつく。パリで彼はフリードリヒ・エンゲルスと運命の再会を果たし、エンゲルスの経済論に着目したマルクスは彼と深い友情をはぐくんでゆく。激しく揺れ動く時代、資本家と労働者の対立が拡大し、人々に革命的理論が待望されるなか、二人はかけがえのない同志である妻たちとともに、時代を超えて読み継がれてゆく『共産党宣言』の執筆に打ち込んでゆく――。
原題は「The young Karl Marx」で確かに20代後半の数年間のマルクスを描いているのだが、実質的にはエンゲルスとコンビを組む過程が中心軸になっている。ストーリーは、マルクスがドイツを追われてパリに移住し、そのパリからも追放されてブリュッセルに行き、『共産党宣言』を準備するところまで。
マルクスは評伝を読む限り、友人だろうが恩人だろうが、考え方が異なる者に対しては容赦なく罵倒、攻撃する人物であり、人間的にはなかなかのロクデナシで、この傾向は年を経るごとに悪化するのだが、焦点を若年期に絞ることでロクデナシ要素を薄めている。史実では、奥さんとエンゲルスが寛大すぎると思うのだが。

哲学論争は最小限度に抑え、時代の空気感や背景、マルクス・エンゲルスをめぐる人間模様に焦点を当てることで、難解にならないようにつくられている。確かに分かりやすくはなっているが、物足りなく思う人もいそうだ。
とはいえ、1840年代に何故マルクスが歴史の表舞台に登場し、2010年代に再評価されるのかを考えるに際して、映像で見ておく価値はあるだろう。
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2018年06月02日

祝!あそあそアニメ化!

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『あそびあそばせ』 涼川りん 白泉社より既刊5巻

日本生まれ日本育ちでまったく英語ができない
金髪の美少女・オリヴィア、真面目で知的な雰囲気を漂わせながら
英語がまったくできないショートカットの眼鏡っ娘・香純かすみ、
そして明るいけれど、リア充になれないおさげ髪の少女・華子はなこ、
3人の女子中学生が作ったのは「遊び人研究会」!? 
最高に可愛くて最高に楽しい抱腹絶倒の
JCガールズコメディが今、幕を開ける!

涼川りん先生の『あそびあそばせ』がアニメ化され、今夏より放送されると聞き、心よりお祝い申し上げます。

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ケン先生は、昔からギャグ・コメディを嗜む習慣を持たないが、本作は例外と言える。中国赴任に備えて、KINDLEを購入する予定だが、本作は絶対に外せないと考えているくらい。
ネット上では、「表紙詐欺」とか「圧倒的な画力の無駄遣い」と言われているが、どちらもその通りだ。

中学生らしい日常(正気)と妄想(狂気)の暴走っぷりが、涼川先生の「画力の無駄遣い」によって見事に使い分けられているところは、岡本喜八の映画すら思わせるところがある。
しかも、登場人物はみな腹黒い部分を抱えており、一つ一つは些細なことだが、友人を貶めることも、友人を見捨てることも躊躇しない。そのドス黒さも、それが裏目に出るところも、いきなりテンションマックスになったかと思えば、いきなり急降下するところも、抱腹絶倒させられる。

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演出過剰を楽しむギャグ漫画ではあるのだが、何度読んでも笑えるだけの魅力(魔力)を備えている。
アニメになるとどうなのかという不安はあるものの、楽しみにはしている。最後まで見られないのが惜しすぎるが。
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2018年04月30日

ヴァイオレット・エヴァーガーデン原作入手!

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前期最高傑作『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の原作三冊を入手!「終戦後」と戦争後遺症をテーマにした珍しいラノベ。
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2018年04月15日

河部真道『バンデット』

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『バンデット』 河部真道 講談社 全6巻

専用サイト

10年以上続いた『へうげもの』が完結したが、歴史戦国漫画は意外と多い。とはいえ、「これ」というものは多くは無い。一方で、たかぎ七彦先生の『アンゴルモア 元寇合戦記』に代表されるように、戦国時代や幕末以外の時代も取り上げられており、興味深い。

本作もまた南北朝期を舞台にした珍しい作品で、タイトルの通り山賊、(歴史用語の)悪党をテーマにしている。時代的には、鎌倉幕府の再末期なので、厳密には南北朝ではないのだが、時代の空気的には鎌倉幕府の秩序が瓦解過程に入り、あらゆる社会秩序が揺らいでカオスが醸成されている。その中で、下人(奴隷)の主人公が身分を脱して、己の力で封建社会の中でのし上がろうとする。

常々指摘していることだが、ケン先生は中世の蛮性が全く反映されない大河ドラマや時代物に非常に批判的で、歴史修正主義と言っても良いくらいだと考えている。とかく現代日本人は、武士を理想化してしまう傾向が強いが、特に戦国期以前の武士というのは蛮性そのものだった。鎌倉期の絵巻物『男衾三郎絵詞』にはこんな一文がある。
弓矢とる物の家よく作ては、なにかはせん。庭草ひくな、俄事のあらん時、乗飼にせんずるぞ。馬庭のすゑになまくびたやすな、切懸よ。此門外とをらん乞食・修行者めらは、やうある物ぞ、ひきめかぷらにて、かけたてかけたておもの射にせよ

要するに、「サムライの家では、馬草にするから庭の草は放っておけ、庭端には常に生首をさらしておけ、気合いだ!外で乞食や放浪者を見つけたら、引っ捕らえて、弓矢の練習の的にしろ!」ということである。
「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」
『朝倉宗滴話記』

「先づ太刀をとつては、いづれにしてなりとも、敵をきるという心也」
『五輪書』

戦闘力の高さこそが、武士の本懐なのだ。
年寄りどもの大好きな宮本武蔵は、「人を斬る」ことを究めることしか頭にない。
俗に言われる宮本武蔵の武伝も、子細を検討すれば、「弱いヤツとしか戦わない」「強いヤツと戦う時は策を弄する」ことが徹底されていることが分かる。かの『五輪書』には、「いかにして敵を斬るか」しか書かれていない。

鎌倉・戦国期は言うまでも無く、つい150年前の戊辰戦争においても会津や宇都宮の戦場には多数の首無し死体が放置されていたと言うし、1876年に熊本で起きた「神風連の乱」では、真っ先に熊本鎮台の種田少将が討ち取られ、その生首は神前に奉じられた。現代ですら、東京日日新聞の浅海一男記者の回想によれば、日華事変の折、丹陽にある歩兵学校を日本軍が制圧した後、校庭に足を踏み入れたところ、(中国)国府軍の制服を着た首無しの死体が数十も放置されていたという。

【参考】 薩摩の蛮性

その意味で、本作はグロいことは確かだが、こうした中世と武士の蛮性をあまねく表現している。
「武士とは何か?ナメられたら殺す!」(なめられなくても殺すんだけど)

「家柄・血筋・高貴な武者といえども、殺せばただの汚い首となる」

武士どころか皇族ですら大変なことになっており、一昔前なら不敬罪が適用されかねない勢いにある。「ゴダイゴ最強伝説」と呼んでも良いくらいだ。

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史実の人物も登場するが、どれも濃ゆい人物として描かれており、非常に興味深い。
全6巻ながらストーリーは一本道にならず、圧倒的な熱量を維持させながら上手く完結させている。

是非とも実写化したい作品である。
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2018年04月10日

ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書


『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』 スティーブン・スピルバーグ監督 アメリカ(2017)

ヴェトナム戦争真っ最中の1971年6月、NYタイムズとワシントンポストが米国防省の最高機密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」をすっぱ抜く。これは、撤兵を掲げて当選した共和党のニクソン大統領の下で作成された報告書で、1950年代からのヴェトナム戦争に至る経緯と戦争の経緯や分析などを網羅していた。中には、秘密工作、情報操作、プロパガンダ、情報隠蔽なども無数にあり、60年代半ばには勝利の見通しが立たない旨の報告もなされていた。

本作は、ワシントンポスト紙を舞台に、編集部が同文書を入手する経緯、その掲載をめぐって、ホワイトハウスや司法省からの圧力、経営陣との対立、政府有力者と記者の信頼関係との葛藤を描く。当時、同紙の社主は、亡き夫から経営権を継承した元専業主婦で、様々な圧力や葛藤とともに女性蔑視とも戦わなければならなかった。

様々な情報が秘匿、隠蔽され、政府と報道が癒着して「報道の自由」が先進国最低レベルとなっている日本に住むものとしては、まさに「耳が痛い」話。報道の自由と独立性、司法の自立と権力の分立、差別と戦う女性、反戦運動など様々な要素が盛り込まれている。

作品としては、地味なテーマながら非常に手堅くまとめられており、一定の緊張感を保ちながら最後まで見られる。だが、やはりアメリカ映画であるため、主人公があまりにも英雄的に描かれており、ストーリーもきれいにまとまりすぎていて、欧州文化育ちのケン先生的には現実感に乏しく見える。

そして、アメリカの政治社会について最低限の知識が無いと、一体何の話なのかストーリーについて行けないだろう。説明的なシーンは皆無に近いだけに、ヴェトナム戦争、アメリカにおける権力分立制度、米国憲法、アメリカの新聞制度などの知識が無いと厳しいものがある。例えば、NYタイムズやワシントンポストが全国紙では無く地方紙であることなど、日本人的にはなかなかイメージしにくいかもしれない(名称を見れば一目瞭然なのだが)。
また、合衆国憲法修正第一条は、
議会は、国教の樹立を支援する法律を立てることも、宗教の自由行使を禁じることもできない。 表現の自由、あるいは報道の自由を制限することや、人々の平和的集会の権利、政府に苦情救済のために請願する権利を制限することもできない。

と規定しているが、第一条で天皇を国民統合の象徴と規定する日本国憲法とあまりにも違い過ぎて、この点でもイメージしづらいものがある。つまり、国家の存立基盤として、アメリカはリベラリズムを求めるのに対し、日本は君主制を選んでいるためだ。
最後の司法判断も、この合衆国憲法修正第一条に則ってなされるわけだが、日本の最高裁判所(大審院)が米同様に、憲法の主旨に則って行政に反する判断を下す可能性は皆無と言って良い。この点でも、日本人的には異世界のイメージでしかない。

まあ日本人的には「ネヴァーランド」くらいの気持ちで見ておくのが吉ということだろう(爆)
posted by ケン at 13:15| Comment(0) | サブカル、音楽、アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする