2017年08月17日

映画『ウィッチ』

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THE WITCH−ウィッチ』 ロバート・エガース監督・脚本 米加(2015)

ホラー映画なんて超久しぶりに見たけど、これは凄かった。もう一度見たいと思うホラー映画自体、ほとんど記憶にないだけに、日頃ホラーものを嗜まないケン先生としては珍しい。
ピルグリム・ファーザーズ(分離派清教徒移民団)の一家族の末路とグリムなどの残酷童話のモチーフを巧みに組み合わせたサイコ・ホラー。演技も演出も映像も非常にレベルが高い。
若い頃に桐生操先生の残酷童話シリーズに熱狂したことがあるだけに、何十年ぶりかで見ることにしたが、大正解だった。


1630年、ニューイングランド。街を追い出された父ウィリアムと母キャサリンは、5人の子供たちと共に森の近くの荒れ地にやって来た。しかし、赤子のサムが何者かに連れ去られ、行方不明に。連れ去ったのは森の魔女か、それとも狼か。悲しみに沈む家族だったが、父ウィリアムは、美しく成長した愛娘トマシンが魔女ではないかと疑いはじめる。疑心暗鬼となった家族は、やがて狂気の淵に陥っていく・・・。

キリスト教原理主義に支配された家族が、その信仰ゆえに新天地のコミュニティからも追放され、荒野で孤立した生活を余儀なくされるが、その閉じられた空間と信仰ゆえに妄想とヒステリーに陥っていってしまう。確かに画面上の字幕だけ見ていると、戯言や妄想のような台詞が並ぶわけだが、リアルに作り込まれたアメリカ大陸と開拓生活の暗黒面を具現化した映像を合わせると、単純に「狂信者の妄想」と言ってしまうには厳しい現実がある。

ただ、キリスト教の「罪と罰」を土台に、様々な童話や民話のモチーフを盛り込んでいるだけに(盛り込み過ぎなくらい)、キリスト教や欧州文学、あるいはアメリカ移民史についての基本的な知識が無いと、「意味不明なダーク・ファンタジー」で終わってしまう可能性が高い。その意味で日本人にはハードルが高い作品だとは思うが、逆にそれらの知識があれば、巧みに組み合わされて演出されていることに感動するだろう。

ヒロイン役のアニャ・テイラー=ジョイを始め、子役までも迫真の演技で、台詞も古英語(私程度では全然理解できない)なので、映像だけで無く細部にわたるまで作り込まれている感じが良い。山羊や兎までヤバいデス。
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2017年08月14日

樺太1945年夏 氷雪の門

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『樺太1945年夏 氷雪の門』 村山三男監督 日本(1974)



K先輩から靖国神社遊就館で上映されているから一緒にどうと誘われて観に行く。
自分も初めて耳にした作品だが、様々な事情から限定的な公開となってしまった「幻の映画」らしい。民社党や同盟労組が上映運動を展開していたという点でも特異な作品と言える。

1945年8月9日、ソ連軍の侵攻を受けた樺太(サハリン)が舞台。現地の第88師団はソ連軍の動きを一定程度探知していたが、第5方面軍は国境紛争の勃発による本格侵攻を危惧して警戒活動の抑制を要請していた。方面軍が反撃・迎撃の許可を出したのは8月3日のことだった。

樺太は戦争中ながらも空襲なども受けることなく平穏な日が続いており、中には空襲を受けて疎開してきた者もいた。ここでも「住民の動揺を招くと同時に、ソ連側を刺激する」との理由から、事前に避難計画が発動されることは無かった。当時、樺太には40万人以上が居住していた。結果、開戦してから緊急避難が始められるものの、特に国境から近い南樺太北部は交通網が脆弱で、住民の大半は遠くの鉄道駅まで徒歩で行くほか無かった。現実には、赤軍が国境を越えたのは11日のことだったが、避難の過程や戦闘に巻き込まれて3千人からの民間人死者が出た。
ソ連軍は、玉音放送が流れた15日以降も戦闘行動を止めず、休戦を求める日本側軍使を射殺して侵攻を続け、20日には真岡に上陸、22日には豊原に進軍、市街地にも砲爆撃が行い、25日に大泊を占領するまで継続した。

本作は、真岡郵便電信局を舞台とし、開戦直前から真岡に残留した女性の電話交換手9人が自決するまでを描いている。大まかなストーリーは史実通りだが、細部では脚色がなされている模様。
DVDによる上映のためか、あまり画質も音質も良くなく残念ではあったが、映画としては「沖縄決戦」や「日本のいちばん長い日」(ともに岡本喜八監督)のような名作とは言えないものの、樺太における末期戦を描いた貴重な作品であることは間違いない。
ただ、「ひめゆり」と同じで女性電話交換手を悲劇のヒロインとしているため、個々のエピソードが多く、悲劇性が強調されていることは否めないが、敗戦の記憶がまだ残っている時代に撮られた作品なだけにやむを得ないところかもしれない。

制作者たちはかなり気合いを入れて自衛隊や自民党議員と交渉して自衛隊の協力を得て、T34に擬したM24(チャーフィー)やM41(ウォーカー・ブルドッグ)などが登場するのだが、今日の我々が見ると「富士演習場を米戦車が走っているだけ」なのがバレバレ過ぎて、「むしろ要らなかったのでは?」と思わせてしまう。実際、ソ連側には戦車は1個旅団いただけだったのだから、強調する必要は無かったのではないか。むしろ、「ウィンター・ウォー」のように赤軍の砲撃を強調した方が、後世の視聴に耐えるものになったはずだ。いずれにせよ、重要な点では無いのだが。

軍人役は、丹波哲郎、若林豪、島田正吾などのベテランが熱演しているのだが、「沖縄決戦」のような熱さはなく、脇役だから仕方ないのかもしれないが、惜しい使われ方になっている。

映画としては色々惜しい点はあるのだが、テーマ的に2つと無い貴重な作品であることは間違いなく、一度は観ておきたいところだろう。
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2017年08月02日

青年座『旗を高く掲げよ』

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劇団青年座 第227回公演『旗を高く掲げよ』
作=古川健(劇団チョコレートケーキ)
演出=黒岩亮
青年座劇場にて8月6日まで

『治天ノ君』の古川氏の脚本を青年座が上演。
ナチス期における一般的なドイツ家庭の有り様を描く。普通に暮らしていた市民が時流の中でナチ体制に組み込まれ、戦争と敗戦によって「自分たちの世界」そのものが崩壊してゆく。
1939年9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻し第二次世界大戦は勃発した。
物語はその前年から始まる。

歴史教師のハロルドは善良なる市民。
妻レナーテ、娘リーザ、妻の父コントラートとベルリンに暮らすミュラー一家は、ごく一般的なドイツ人家庭。
1938年11月、ドイツ各地で起こったユダヤ人に対する組織的暴動事件(水晶の夜)直後、事件を受けて亡命を決意したユダヤ人の友人オットーが今後のドイツを憂える。
ナチス支持者の妻レナーテは、時流に乗らない夫に物足りなさを感じている。
夫、妻、義父、夫の友人、妻の友人、それぞれの立場からナチスドイツを語る。
その数日後、SS(ナチス親衛隊)の友人ペーターが、ハロルドに歴史の専門知識を活かした仕事をしてほしいとSSへの入隊を奨める。
乗り気のレナーテに対し、二の足を踏むハロルドだったが……、ついに入隊を決断する。
1940年7月フランスの降伏、1942年4月ホロコースト(ユダヤ人の組織的大量虐殺)開始、1944年9月ドイツ軍敗色濃厚、1945年4月ベルリン陥落寸前、そして……。

ドイツ崩壊が進むにつれ、反比例するかのようにナチスに傾倒していく家族。
ナチス独裁政権下のベルリンを舞台に、物語は時を移して転がっていく。

「旗を高く掲げよ」はナチス党歌で、「ホルスト・ヴェッセルの歌」名の方が知られている。
全体主義体制下で、「模範的な市民」であろうとすることが、いつの間にか「模範的なファシスト」になってしまう暗喩である。私などは政治を生業としているが、麻生先輩や浅沼先輩といった日本社会主義の偉大なる先人が軍国主義者、国家社会主義者となっていった前例に接しているだけに、いっそう感慨深いものがある。
もちろん、本作は二次大戦期のドイツを舞台にしているが、権威主義化、監視国家化が進み、外国人・障がい者などへの差別が蔓延、中国や朝鮮に対する敵意が煽られる現代日本をイメージさせるのは間違いない。登場人物たちの台詞の一つ一つに、思い当たる節があるはずだ。

舞台としても、さすがは青年座で演技も演出も完成度が高く、隙の無い仕上がりになっている。ただ、ラストに若干分かりにくい部分があることと、登場人物の造形がやや類型的であることは否めないが、「敢えて言えば」というレベルだろう。
ジェラテリー『ヒトラーを支持したドイツ国民』やTVドラマ『ジェネレーション・ウォー』に触れていると、さらに理解が深まるだろう。
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2017年07月05日

ハクソー・リッジ

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『ハクソー・リッジ』 メル・ギブソン監督 アメリカ(2016)

良心的兵役拒否者ながら太平洋戦線への従軍を志願し、公式記録で75人の負傷兵を保護したとして名誉勲章が授与されたデズモンド・T・ドスの入隊から沖縄戦までを描く。
とはいえ、映像化されているのは沖縄戦の、前田高地戦の2〜3日間だけで、「ハクソー・リッジ」とは米軍側の名称で「弓鋸崖」を意味する。そもそもこの邦題が適当だったのか大いに疑問だ。

以下、ネタバレ注意。



ネット上の評判は悪くなく、一部に熱い支持者がいるようだが、動員の方は芳しくないらしい。敢えて沖縄や対日戦であることを隠した宣伝が、映画の内容までも隠してしまって、二の足を踏ませているのかもしれない。何がテーマなのか分かりづらいとも言える。
そして、結論から先に言えば、戦闘シーンこそ部分的に充実しているものの、テーマ的に戦争映画なのか宗教映画なのか曖昧で、しかも最終的には形の異なる英雄譚になってしまっていて、「こんな立派な人がいたんです」程度の主張に終わっている

客観的に見ると、宗教的に尖りすぎた主人公が、愛国心と信仰と宗教的義務に突然目覚めて、軍隊内の軋轢を乗り越え、美女と恋を成就させ、文字通り剣林弾雨の戦場で八面六臂の活躍をして戦友を救いまくり、生還するという話で、しかも本人は自身の特異な精神と信仰に何の疑問も躊躇も無いため、ある種、異世界ヒーローもののような話になってしまっている。
おそらくは、現代日本人の大半は主人公に共感を覚えることは無いのではなかろうか。狂信的なまでの「信仰に基づく義務感」から軍の規範や習慣に反してでも従軍し、「国家に尽くす」という発想は、普通に想像の範疇を超えるからだ。

ところが、現実のアメリカ人がどう感じたかは分からないが、米国と米軍の成り立ちを考えた場合、本主人公の存在は必ずしも特異なものではない。少し長くなるが、説明しておこう。

アメリカ独立戦争は、もともと七年戦争とフレンチ=インディアン戦争に伴う財政危機を回避するために、英政府が植民地(のみ)に対する課税強化を行ったことに端を発する。様々な新規課税が植民地移民の合意なくして進められた上に、東インド会社の茶だけは非課税の独占販売ということになり、「ボストン茶党事件」(1773年)が起きる。これに対して英政府が弾圧に乗り出して懲罰的立法による自治権剥奪を行った結果、各植民地を守る民兵が暴発、イギリス正規(連合王国)軍との戦闘に入った。アメリカ独立のための「大陸軍」が結成されたのは、植民地ごとに分断された民兵の統率を一本化するためであり、現に独立が認められ戦争が終結すると、大陸軍は実質的に解散、その後も長いこと常備軍を置くことに慎重なスタンスが続いた。独立戦争に続く、米英戦争が1812年に起きたとき、米陸軍はわずか1万人足らずしか持たなかった。

アメリカ軍の目的は「独立を維持すること」にあり、「必要なときに必要な兵を志願募集、不要になったら解散して市民生活(信仰)に戻る」ことを原則とした。アメリカ合衆国は、本来的には平等な権限を有する州の連合体(合州国)であり、巨大な権限を有する中央政府や軍隊は「悪しき英国モデル」として忌避すべき存在だった。アメリカ市民にとって至高の価値は、イギリス国教会から独立した「崇高なる純粋な信仰生活」(ピューリタニズム)であり、個人の信仰と家族共同体を守るために軍に志願することは、神に忠誠を尽くし天に徳を積むものだった。結果、軍に集ったものは「信仰と家族を守る兄弟」と考えられた。つまり、「神に対する義務と神の下での平等によって信仰共同体を協同防衛する」というのがアメリカ軍の根幹理念だった。アメリカが、無神論のソ連や中国、あるいはイスラム諸国に過剰な敵愾心を示すのは、「信仰共同体に対する脅威」であるからなのだ。

作中の前半部は、志願して入隊しながら小銃を手にすることを拒否する主人公に対する隊内イジメと軍法会議で終始するわけだが、「信仰の内容がどうあれ、信仰を守るために軍役に従事するのは米国市民の本分である」という主人公の主張と、軍事法廷が出した結論は、アメリカの国と軍の成り立ちを理解していないと、主張は狂信者のそれ、判決は非常に御都合主義的に見えるだろう。結果、よほどアメリカ史に通じていないと作品の意味するところが理解できず、恐ろしくハードルの高い作品になっている。そして、後半部の延々と続く戦闘と救出のシーンは、ギブソン監督にとっては「神の試練」を描いたに過ぎず、監督の主張は前半部に集約されているという点でも、戦争映画としては問題ありすぎだろう。

その戦闘シーンは、確かに沖縄戦の中でも最も過酷な5月上旬の前田高地を描いているだけに、日本側の火力集中も凄まじく、米側にも死傷者が続出するわけだが、肉体損壊の描写が全く容赦なく、スプラッター映画以上になっている。故に「プライベート・ライアンを超えた」などという話も出ているが、どうだろう。日本軍は真っ昼間から突撃してくるし、しかもかなり密集しており、映像演出上の理由なのだろうが、疑問は禁じ得ない。

やはり戦争ドラマとしては、トム・ハンクス『ザ・パシフィック』の方が、平均的なアメリカ市民が出征してどう感じて何を考え、見えない日本軍に撃たれまくる恐怖感や、突然襲いかかってくる敵の恐ろしさ、つまり太平洋の戦場の実相が良く伝わっている(ような気がする)。
やはりギブソン映画は「宗教映画」なのである。
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2017年07月02日

完全版 ウィンター・ウォー〜厳寒の攻防戦

ソ・フィン戦争=冬戦争を描いたフィンランドの名作『TALVISOTA』(邦題:ウィンター・ウォー〜厳寒の攻防戦)の完全版が、一週間限定で公開された。「完全版」というのは、元々90年代に公開されたのは半分以下に大幅カットされたバージョンで、販売されたDVDもそれだった。私もDVDで見たクチだが、面白いは面白いが人物関係もストーリーも全く繋がりが分からず、「どうしてこんなことに」と思っていた。
制作は1989年で、もっと早く完全版も公開できたのではないかと思うのだが、版権が散逸してしまってどうにもならなかったらしい。とにかく今回完全版が公開されたのは僥倖だったが、今度は一週間限定、しかも朝の一回だけ。つまり、土日のどちらかで必ず見なければならないという状況に陥った。
しかも、相変わらず邦題は『ウィンター・ウォー』などというもので、何故日本語で定着している「冬戦争」にできなかったのか。日本のDVDでは95分程度のバージョンだったものが、実は原作ドラマは300分以上、映画に編集されてなお197分の超大作であったことも判明、省略しすぎて別物ではないかと。
言いたいことは山ほどあるが、ここは我慢。

以下、ネタバレ注意

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『ウィンター・ウォー 厳寒の攻防戦』 ペッカ・パリッカ監督 フィンランド(1989)


1939年秋、軍事的要衝カレリア地峡の割譲を迫るソ連の要求をフィンランドが拒否。ソ連軍の侵攻に備え、マルティとパーヴォのハカラ兄弟をはじめ多くの男たちが招集されるが、武器は乏しく満足な装備もなかった。凍てつく寒さの中ついに強大な兵力と軍事力を誇るソ連軍が国境を越えてくると、フィンランド軍は厳しい戦いを強いられ……。

本作は、今公開されている「ハクソー」のような英雄譚とは異なり、ごく一般的な市民が徴集され、民兵も同然の兵装で「まさか戦争にはならないよね」位の感覚で前線に送り込まれたところ、「兵が七分に森が三分」みたいなソ連軍が攻め寄せてきて、ひたすら壕に籠もって耐え続ける話である。
人間関係も戦争も非常に淡々と描かれ、戦死はあっという間、ラストですら突然終わってしまう感じで、どこまでもカタルシスを否定する精神が貫かれている。アメリカ人に爪の垢を煎じて飲ませたいところだ。
動員される方も、米国人のように愛国心に燃えて志願するとかではなく、「ソ連、攻めてくるってよ」「ふ〜ん、どうせちょっと戦ってすぐ講和ってとこだろ、面倒くせぇ」くらいのノリで、見ている日本人の方が「そんなんでいいんきゃ?」という感想を持ちそうだ。

全体的には、動員から戦場に着くまでのシーンは比較的短く、戦場シーンの大部分は塹壕戦で、ひたすらソ連軍の砲爆撃に耐え、時々T26に支援されたソ連軍が大挙して突撃してくるのをスオミ機関銃とモロトフ・カクテルでなぎ倒すというもので、似たようなシーンが延々と続くという意味で退屈は退屈なのだが、冬戦争の実相が良く伝わっている感触があり、どこまでも貴重な映像であることは間違いない。延々と続く砲撃の恐ろしさがよく分かる作品でもある。
マニアックなフィンランド軍やソ連軍の装備については、よだれものであることは言うまでも無い。

ただ、完全版を見ても、相変わらず登場人物の人間関係はよく分からない点が多かった。日本陸軍などと同じで、一つの郷里から召集されて部隊が編成されているため、小隊内もかなり縁戚関係で占められているみたいなのだが、それを抜きにしてもまだ誰が誰だかわかりにくい演出になっている。一つには、軍事に疎い人が翻訳をしているため、どうも階級や部隊編成、指揮系統に誤訳があり、物語を分かりにくくしてしまっている。フィンランド語ができる日本人など数える程度しかいないだろうから、やむを得ないかもしれないが、DVD化するときは、多少値段が上がっても良いので、梅本先生に監修してもらうべきだ(必ず買うから)。また、大河ドラマを再編集して短くしているところも、「完全版」ながら限界があるのだろう。

色々難点はあるものの、テーマと映像自体が超貴重であるという点だけでも名作といえる作品であり、DVDが出たら必ず購入して普及に努めたい。そして、是非とも継続戦争の映画『Tali-Ihantala 1944』も公開あるいはDVD化していただきたい。
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2017年06月27日

夏アニは賭ケグルイの一択!

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2017夏アニは賭ケグルイ(原作・河本ほむら、画・尚村透)の一択!
すでに原作も予習済み。準備万端であります!

「勝てば特権階級。負ければポチ。ハイリスク・ハイリターン」−政界も同じです。そりゃあみんな狂いますよ。

シグルイにしても賭ケグルイにしても、日本人はこっちの方が素なのでは無いかとすら・・・・・・
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2017年06月25日

ミュシャ展とバベルの塔展

別の日ではあるが、ミュシャ(ムハ)展とバベルの塔展に行く。
特にミュシャ展は会期末ということもあり、凄まじい混雑で、平日に早退して行ったにもかかわらず、入場に40分待ちで、もうちょっと遅かったら入れなかったかもしれなかった。最終日などは90分待ちだったという。

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ミュシャ展が特別だったのは、門外不出だった「スラヴ叙事詩」が全20点まとめて来日し、展示されたことにある。「スラヴ叙事詩」はチェコを始めとするスラヴ民族の歴史的エピソードを巨大絵画に描いた作品群。一次大戦前後の混乱、二次大戦中の秘匿(ナチスの掠奪を逃れるため)、共産党政権下での冷遇(退廃芸術)が重なって、日の目を見るようになったのは、1960年代のことだったが、それも作品が巨大すぎる問題もあって、辺境地の城で展示されていた。プラハ市内のヴェレトゥルジュニー宮殿に移設されたのは2012年のことだった。自分も90年代にプラハとブルノには行ったが、その頃はプラハにはなく、図鑑でしか見たことなかっただけに、この機会を逃せば二度と見られないかもしれなかった。
実際に見てみると、確かに巨大で、作品の全容を見るためにはかなり離れて見る必要があった。あまり展示されてこなかったためか、保存状態は良いようで、ミュシャの淡い色使いが非常に美しい。個々の題材は、日本人には殆ど馴染みのないもので、私でも「知っている」程度のものが多かったが、そんなことはどうでもいいだろう。
圧倒的多数の装飾絵画とは異なるミュシャの魅力とパワーに直に接することができて、この上なく幸福だった。

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バベルの塔展は、16世紀ネーデルラント絵画のボシュ(ボス)とブリューゲルを中心に聖書のエピソードを題材にした幻想絵画を中心に展示している。
改めて見ると、シュルレアリスムの原点とも言える怪奇作品が多く、『ベルセルク』の三浦建太郎氏が非常に強く影響受けていることがよく分かる。
「バベルの塔」は何人もの画家が描いているが、中でもブリューゲルのそれが最も有名。私も実物は見たことがないので楽しみだった。作品は思ったよりも小さく、非常に緻密に描かれているので、凝視しなければ細かいところは分からないのだが、同作の前だけはエスカレーターのように通過させられるため、詳細は背後に展示されている拡大図を見なければならなかった。まぁこれも最新技術で良くできているので文句はないのだが。
全体の展示バランスも作品の選定もセンスが良く、見応えのある展覧会だった。ただ、ミュシャ展よりはずっと人が少ないものの、作品が小さいものが多いだけに、見て回るのは大変だった。
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