2017年01月21日

平田弘史展

山岸凉子展に続き弥生美術館で開催されている平田弘史展に行く。やはり原画や原書のパワーは強力なものがあり、しばらく頭にこびりついて離れなさそうだ。

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白土三平(カムイ伝)、小島剛夕(子連れ狼)に並ぶ時代劇画の雄なのだが、2人に比べると知名度は低い。主な作品は『薩摩義士伝』『黒田三十六計』。書家としても一部では絶大な人気があり、例えば大友克洋『AKIRA』、山口貴由『シグルイ』、西尾維新『刀語』の題字がある。
知名度が低めなのは、読者を選ぶ独自路線でとうてい万人に勧められるものではないからだが、逆にそれ故にマニアックな人気を博している。また、漫画作品として見た場合、情念が深すぎてストーリー的に分かりづらかったり、下手すると破綻しているので、とにかく読みづらいのだが、それを上回る画力とパワーが読者を魅了している。
例えば『薩摩義士伝』などは、冒頭の第一話からして、東西二軍に分かれた武士群が死罪人の生肝を血だるまになって奪い合う「ひえもんとり」から入るわけだが、一般の読者は97%くらいの人が第一話を読み終えること無く、本を閉じるだろう。だが、残りの3%の人は熱烈なファンになってしまう。『駿河城御前試合』(原作は南条先生)や『日本凄絶史』もその類いだ。
『首斬り朝』や『子連れ狼』を人に勧めまくった私も、平田弘史先生は勧めづらいものがある。

そして、先生は天才である。
劇画も書も独学で、全て「見よう見まね」でしかなく、伝説では「三年働くと、電池切れして三年休み、困窮を極めるとまた再開する」と言われていたが、「当たらずとも遠からず」よりは当たっていたことが判明。さらに、他人に先駆けて1990年代にPCを導入して作画のフルデジタル化を実現するも、「俺には合わん!」と言って元のペン画に戻してしまっている。

現代の時代劇は映画でもドラマでも、中世の蛮性がそぎ落とされて美麗に取り繕われており、武家出身の私からすると、まったくリアリティが無いだけに、平田先生の作品と画は貴重すぎるものがある。
本ブログでも「リアルな時代劇を求めて〜薩摩健児残酷物語」や「薩摩の蛮性」で中世の蛮性を記してきたが、やはり絵があるのと無いのとでは理解が異なるだろう。
武士や戦国に関心のあるものなら、作品を一読して本展に足を運ぶべきだ。

【追記】
個人的にはリアルな「足軽物語」が一本欲しいと思っている。食い詰めた小作人が足軽になって、「戦場働き」をするが、戦もそこそこに田畑には入って米や麦を勝手に刈り取り焼き払い、民家を襲っては掠奪して主を誘拐し、後日駐屯所に立った「人質市場」で奴隷商人と価格バトルを繰り広げ、提示された値段が気に入らないと斬り殺して遁走、また別の武将に仕え、延々と繰り返してゆく話である。やはり世の中に必要なのはリアリズムである。

【追記2】
「観光」「明治百五十年」「死刑」のキーワードを組み合わせると、自然「ひえもんとり」しか出てこないだろう。いま鹿児島でやれば全世界から観光客が何十万人と集まると思うので、ぜひ官邸か観光庁に進言したい。読者の皆さんもぜひこの機会に、海音寺潮五郎「西南戦争遺聞」、里見ク「ひえもんとり」、平田弘史『薩摩義士伝』を読んで欲しい。
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2017年01月17日

ヒトラーの忘れもの

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ヒトラーの忘れもの』 マーチン・サントフリート監督 独・デンマーク(2015)




終戦後、デンマーク・ユトランド半島に埋設された250万個の地雷処理を強制されたドイツ軍少年兵の物語。背景事情は史実に基づいており、実際に多くの少年兵が地雷撤去作業を強制され、全体で2千人以上が動員され、約半数が死亡、あるいは重傷を負い身体に障害を残したとされる。
第二次世界大戦の最末期、ドイツでは13、4歳の少年も戦時動員された。上は65歳くらいまで動員されたという。「僕、ドイツに帰ったら兄さんと会社興して国の復興の手助けするんだ」などという死亡フラグが次々と立つのだが、自分も子どもがいれば中高生くらいかもしれないだけに、精神ダメージがハンパない。仮に自分が軍人だったとして、自軍が埋設した地雷の撤去を強制されるのは諦めもつくが、自分の子どもにそれをさせるのは、さすがにキツ過ぎるだろう。ドイツでは、下手すると祖父、父、子の三代が戦時動員され、相当の確率で戦死しているからシャレにならない。

本編では説明されていないが、これはジュネーブ条約が適用される「戦時捕虜」ではなく、適用外の「降伏元軍人(Surrendered Personnel)」として扱われ、強制労働が可能という理解がなされた結果の出来事だった。
似たようなことは、例えば英軍がビルマで降伏した日本兵に対し行っており、強制労働と捕虜虐待により1600人から死亡している。会田雄次先生の『アーロン収容所』では、日本兵の収容所がわざわざ糞尿処理場の隣に建てられており、虐待され続けた先生は「もう一度イギリスと戦争するなら、英国人は女子どもまで皆殺し」とまでおっしゃっていたと言われる。

話がそれ続けるが、日本でも沖縄では14歳から動員招集がなされた。例えば、吉村昭『殉国』の冒頭、主人公は沖縄県立第一中学校の3年生(14歳)として3月末に招集されるが、その背後では召集令が出なかった1、2年生たちが「自分たちも兵隊にしてくれ」と涙して懇願し、教員は「先に志願しなかったお前たちが悪い!」と一喝、それを見た主人公は優越感に浸ってしまうのである。これは、12歳、13歳の子どもでも志願し(親の承諾付)ていれば、軍に配属されていたことを意味する。さらに上級生からは「一中健児は全員死ね!」と励まされてしまう。県立工業学校で動員された生徒の死亡率は90%を超えた(死傷率ではない)。

本作でも、デンマーク人はドイツ人に対して容赦ない憎悪を浴びせかけ、それは少年兵に対しても例外では無く、そこが一層映画のリアリティを引き立てている。「ジェネレーション・ウォー」に続く、リアルなキツい戦争ドラマだが、我々は目を背けるべきでは無い。確かに本作を見ると、『この世界の片隅に』が「なんだか戦争が災厄みたいに描かれている」という批判がなされるのも頷けるだろう。
相変わらず邦題は微妙すぎるが(原題は「Under sandet(砂の下)」)。
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2016年12月29日

アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場

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『アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場』 ギャヴィン・フッド監督 英(2015)



南ア出身のフッド監督が無人兵器・ドローンをテーマにした対テロ戦争の実相に迫った作品。
ドローンを描いた作品はすでに何本かあるようだが、私は本作が初めてなので比較はできないが、非常に考えさせられる一本で、映画館を出て家に帰るまでいろいろと考えてしまった。
設定はいささか戯画的なところがあるものの、似たようなケースは実際にあったことを想像させるに十分で、リアリティが感じられる。
ストーリー的には単純といえば単純で、テロ組織の幹部を発見して無人機からミサイルを撃つか撃たないかで延々と「会議が踊る」だけなのだが、それだけの話を100分の映画にしてずっと緊張感を保っているところが秀逸で、見た後疲労感を覚えるほどなのだ。

【以下ネタバレ注意!】
本作が秀逸なのは、まず設定にある。作戦の指導権は英国にあるが、実施者は米軍で、実施国はケニア、敵はソマリアのジハーディスト組織幹部(ラビリンスのプレイヤーなら組織名は知っている)という複雑な状況にある。ケニアは旧英国植民地で現在も友好国だが、隣国のソマリアは延々と内戦を続けており、テロの温床となっている。敵は友好国のケニアに潜伏中だが、指揮所はロンドンにあり、無人機の操縦者はハワイにいる。この時点でワケ分からない感がハンパないだろうが、これが現代戦なのだ。

作戦の主導者は英軍だが、テロリストの中にはジハーディスト化した自国人がおり、「敵」とはいえ自国民であり、裁判にもかけずに殺害して良いのか。「敵」を攻撃するといっても、ミサイルを撃ち込むのは友好国内であり、政治的、外交的な問題は発生しないのか。無人機を操縦するのは米軍人で、たとえ同盟国とはいえ、他国軍の指揮官からミサイル発射を命ぜられる葛藤。ミサイルの弾着先は、民間人も居住する市内であり、民間人への被害はまず確実に避けられない。
軍事的要請、政治的リスク、外交的リスク、コンプライアンス(交戦規程)、人道問題、国民国家の原理など様々な要素が絡み合い、それを誰がどのように判断し、決断するのか、という課題・ハードルこそが、本作の最大のテーマになっており、見事に描ききっている。

個人的に思ったのは、自由民主主義とテロ戦争の相性は非常に悪く、確かに最新技術で軍事的な勝利は挙げられるかもしれないが、「作戦」を実施すればするほど「敵」も増やしてしまう構図になっているが、指導者は遠い安全な場所にいるので「よっしゃよっしゃ」で終わってしまい、何の疑念も持たないのだから始末に悪い(ゼロではないのだろうが、考え始めたらテロ戦争などできない)。
別の観点では、100馬力超しかなかった「プレデター」が、いきなり10倍近い出力を持つ「リーパー」になり、非常に強力になっていた。「ヘルファイア」が想像以上の威力だったことにも驚かされた。ほかの最新機器も含めて「百聞は一見にしかず」だった。

GMT「ラビリンス」のプレイヤーならば、より多くの「気づき」があるだろうし、そうでない人でもニュースや本で読む知識と、映画とはいえ映像から得られる情報は非常に大きいものがあると考えられるので、テロ戦争や現代戦に関心のある者はぜひ見に行くことをお勧めしたい。特にゲーマーの皆さんには、映画を見て本コメント欄に感想を書いて欲しい。
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2016年12月10日

クラーナハ展―500年後の誘惑

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「クラーナハ展―500年後の誘惑」 国立西洋美術館 1/15まで

西洋美術館のクラーナハ展に行く。
クラーナハは、大学時代に澁澤龍彦にはまって以来のファンで、展示があれば見に行ったものだが、「個展」としては本邦初と聞き、驚いている。確かにマルティン・ルターの肖像画といえばクラーナハではあるものの、それ以外ではドイツかルネサンス、あるいは澁澤ファンでない限り、馴染みがあるとは言えないのかもしれない。

とはいえ、宗教以外のテーマで女性、それも裸婦を描いたり、大工房で作品を量産したりするなど、ルネサンスの「革新」を象徴する画家だった。また、単なる画家ではなく、大工房の経営者であり、宗教改革の支援者であり、貴族の顧問であり、市の評議員や市長でもあった。
この当時は、まだ板に直接描いている時代だが、先進的なカンバス画もあり驚かされる。
『ホロフェルネスの首を持つユディト』をはじめ、初来日の作品も多く、クラーナハに特化しているのは見応えがある。ただ、ウィーン美術史美術館から来た作品は、どれも完全に修復されピカピカになり過ぎて、まるで昨日今日描いたような仕上がりになっており、逆に「これマジで真作?」みたいになってしまっている。昨今の技術は凄まじいものがある。

また、クラーナハをモチーフにした現代作家の作品も展示されているが、面白いものもあれば、「何故これ?」というものもあり、評価の分かれるところだろう。だが、全体としてはバランスの良い展示になっており、何よりも「人が多くない」ため非常に見やすい展覧会であることが良い。印象派展などになると、行列して止まることも許されない話になってしまい、とても見に行く気になれないが、本展は土日でも普通に見られるところがお勧めだ。
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2016年12月07日

山岸凉子展

山岸凉子先生の初展覧会に行く。
本郷にある弥生美術館(文京区弥生町)は、東大の裏手にあるが、都心部ながらも閑静な住宅街であると同時に、東大の敷地に面している関係で大きな木も多く、散歩しても心地の良い空間だ。

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山岸凉子展 「光 −てらす−」 ―メタモルフォーゼの世界― 弥生美術館 12/25まで

「山岸凉子展」は激ヤバだった。印刷媒体では体感できない、原画が醸し出すパワーが圧倒的。カラー原画も、華やかな彩色と黒の静謐さの対照が見事で、思わず何度かガラスに額を付けてしまった(笑)展示の質も高く、色々見応えがあった。
来館者は私よりも年上の妙齢の婦人ばかりだった。1人で行くにはやや抵抗があったので、同行をお願いして正解だった。
気に入りすぎて展覧会オリジナルカレンダーも購入。

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同行していただいた方に「アラベスクとか日出処の天子とか読んだの?」と聞かれ、「その辺はあまり〜」と答えたところ、「信じられない!」と叱られた。いやいや、自分が生まれる前にデビューされてるんですから!
妹の「花とゆめ」とか「ASUKA」は読んだけど、小学生は「LaLa」読みませんから!
確かに自分は「テレプシコーラ」からの「にわか」ではあるのだけれど。
でも、アラベスクは貴重なソ連ネタだから読んでおくか・・・・・・
先生も来年古希か〜〜

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そして、次回はこれであります!解散はもうちょっと待って〜〜
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2016年11月17日

Реминисценция

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『レミニセンティア』 井上雅貴監督 ロシア・日本(2016) ユーロスペースにて上映中



ソクーロフ監督のスタッフを務めた日本人スタッフが、ロシアでロケし、ロシア人俳優を使って作成した自主映画。しかも渡露したスタッフはわずか3人で、撮影場所もモスクワやサンクトペテルブルクではなく、ヤロスラヴリ。これだけ見ても、パートナーがロシア人であることを差し引いても、かなりの蛮勇ぶりが感じられる。

「記憶」をテーマとしたロシアSFで、人の記憶を消去する特異能力を有する初老の男性を主人公としている。だが、人の記憶とはそれほど「確か」なものなのか。「正しい」のは、物理存在なのか、人の認識なのか。存在するから認識するのか、認識するから存在するのか、哲学的な命題を、ロシアのごくありふれた街並みとアパートの一室で表現している。

自主制作とは思えない映像美でロシアの普通の街並みを撮っており、「日本人視点だな」とは思うものの、スターリン建築の「らしさ」が良く表れている。まぁロシア人的には面白くもおかしくもない風景なのだが、普通の日本人からすれば、それ自体がSF感に溢れていると言えよう。

また、登場する役者は、殆ど全てヤロスラヴリ劇場の専属俳優だそうで、言われてみれば確かに演劇的な演技ではあるが、作品の意図を理解した重厚な演技になっており、作品の深みを増している。
監督は、シナリオや場面の急変に即応できるロシアの役者のプロフェッショナリズムを称えていたが、これは当然の話なのだ。日本の役者と違って、ロシアでは演劇コースを有する中高が普通にあり、さらに演劇科や映画科を有する大学や大学院を出た者が俳優になるのであって、日本のように「劇団に入っていた」者が役者になるわけでは無い。つまり、日本ではまず教えられることの無い、理論と教養の素養が背景にある。作品の背景にあるものや、作家の意図を深く捉えられるのが、ロシアの役者であり、それは日本の役者に圧倒的に足りない要素なのだ。

これは、バレエやフィギュアスケートを観る者ならより良く理解できると思う。昨今では技術的には日本のダンサーはロシア人に劣らなくなってきたが、芸術的表現になると相変わらず全く太刀打ちできない。これも作品や作家の理解が足りない、あるいは技術優先で芸術表現を軽視する姿勢の表れなのだ。
例えば、「白鳥の湖」で日本人ダンサーは白鳥は素晴らしく上手に踊れるが、黒鳥になると全く魅力も威圧感も失ってしまう。白鳥は技術的に優れていれば踊れるが、黒鳥は人間の暗黒面をどこまで、どうやって表現するかに掛かっているため、精神面や教養面の理解の深さが無いと、ただ黒い衣装を着て踊っているだけになってしまうからだ。

全体的には、内容の割にカットが多すぎてやや落ち着かない感じはしたものの、自主制作とは思えない、フルスペックの映画に近い完成度を実現しているが、日本市場に受け入れられるかと言えば、残念ながら厳しいものがありそうだ。
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2016年11月16日

この世界の片隅に

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『この世界の片隅に』 片渕須直監督・脚本 日本(2016)

先に本ブログでも宣伝した『この世界の片隅に』を、ロードショーから三日目に観に行ったところ、全く予期していなかった監督の緊急舞台挨拶に遭遇した。なんでも前日の広島映画祭で「ヒロシマ平和映画賞」を受賞されたとか。おめでとうございます!!
片渕監督の挨拶は、「すずさんを一日でも長くスクリーンにいさせてあげてください!」とヒロイン愛で満ち溢れていた。ちなみにケン先生は、左のプロデューサー氏の頭の後ろあたりに座っている。

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たまたま良い席で観たかったので、ネット予約したのが好運だった。その回も、次の21時からの最終回も、映画館の外まで行列ができるほどの盛況ぶりで、何でも全国60余箇所での上映(大手なら200箇所以上)で、二日間で3万人以上を動員したというのだから、大したものだろう。上映後に拍手が起きたのは、ロシアやフランスでは経験したが、日本では初めてかもしれない。
ネット情報では、様々な妨害工作が仕掛けられているという話だったが、杞憂にせよ、上々の滑り出しで歓迎したい。

今回はできるだけ内容に触れないようにしたいが、ストーリー的には昭和19年に広島から呉に嫁いだ絵描きの好きな少女の銃後の日常を描いている。
アニメではあるが、とにかく当時の広島や呉の街並みの再現度がハンパ無く、海軍の艦艇についても微細に描いている。全体の淡いトーンとリアルな再現度が見事にマッチングしており、それがファンタジー要素と現実の出来事のギャップによる表現を巧みにしている。この要素はストーリー上にも表れ、決して裕福とは言えず、知らぬところに嫁に行かされるという日常の淡い幸せと、突如襲いかかり全てを奪っていく圧倒的な暴力との落差になっている。あのトーンでここまで空襲の恐ろしさを表現できるのは、まことに凄いことだ。
基本的には、やたら悲劇性を強調せず、淡々と日常を描いてはいるものの、「大事なものを失う」ことの恐ろしさと悲劇に身につまされる。映画館では、何故か圧倒的に男性が多かったが、そこここで泣き声が聞かれた。
声優としての「のん」さんは、広島弁に「演技」感が見られたものの、熱演であることは間違いなく、その巧拙にかかわらず心を打たれたことは確かだ。

本作は長期の視聴に耐えうる作品に仕上がっており、後世まで評価されると思われる。私ももう一度くらい映画館に足を運ぶかもしれない。
posted by ケン at 12:15| Comment(0) | サブカル、音楽、アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする