2014年08月14日

ムダとは何かを考える

「増税や自己負担を増やす前に歳出のムダをなくせ」という意見は非常に多い。職場に掛かってくる「市民の声」(電話やファクスあるいはメール)でもこの手のものの割合が多い(最近はネトウヨ系も多いが)。
確かに一般論としてはその通りで、2009年に政権交代が起こった遠因は自民党政権による「ムダ遣いの連鎖」と、それを野党として批判し続けた民主党が支持を得たことにある。ところが、その民主党は「ムダ撲滅」を掲げて「事業仕分け」を行ったものの、肝心のチェック対象は財務官僚が上げてきたものでしかなく、最終的に目標の3兆円の半分強(1.7兆円)という結果に終わった上、各所から怨嗟の声が上がり、別に始めた事業で新規の「ムダ」が生じるなど、様々な課題を残してしまった。
私自身は事業仕分けとは無縁のところにいたのだが、あの部署にいた議員や秘書は賛成派と反対派の板挟みにあって本当に大変そうだったのを覚えている。
何が大変かと言えば、「何がムダで、何が必要なのか」を判断することの難しさ、例えば客観的に判断することが常に正しいとは言えない、あるいは長期的に必要なものは短期的にはムダになりやすいといったことが挙げられる。

例えば2012年の生活保護不正受給額は190億円に上り、全体の約0.5%だったが、不正受給対策につぎ込まれている予算は50億円。果たして「元」がとれるのか、どちらがムダなのか、どっちもムダなのか、誰がどのような基準で判定するのか、まさに難題としか言いようが無い。
不正受給(支給)がムダであることは明白だが、現金を支給する以上、不正受給を試みるものが後を絶たないことは言うまでも無い。ところが、生活保護の適正を確保するために審査を厳密にした結果、保護を必要とするものへの支給が遅れたり、「窓際阻止」が採られるなど、制度の主旨を脅かしてしまっている。
不正受給の取り締まりを強化すればするほど、本来保護に回すべき予算が適正審査に取られてしまい、保護が必要かどうかギリギリのラインの人が後回しにされてしまう傾向が強まる。

これは小売店における万引き(被害)と類似している。万引きが悪であることは明白だが、万引き被害をゼロにしようとして店の警戒レベルを上げれば上げる程、店の雰囲気が悪くなって一般客の足が遠のいてしまう。同時に、万引き対策費と万引き被害額のバランスをどう設定するのかは店主にとって死活問題だろう。
実のところ、この手の対策費は増やせば増やすほど効率が悪くなって「ムダ」が生じてしまうものなのだ。だが、万引き対策はキリがないだけに見極めが難しい。
もっとも生活保護の場合は、社会福祉としての公平性を担保することが制度上の正義である以上は、不正受給の摘発が過剰になったとしてもやむを得ない側面がある。

世間的に「ムダ」と判断されやすいものの中には、「リスクに対する備え」や「長期的投資」といった側面のものもある。
例えば、政府が所有する政府専用(旅客)機は2機あるが、これは常にリスク対策上、実際に使用せずとも2機同時に飛行している。これはテロ対象となる確率を半分にすると同時に、一機が不調となった際の代理の役割を果たしている。2機目の存在は殆ど常に「ムダ」なのだが、「万が一」への備えとして評価され、いまだに廃止されていない。
また、「リスクに対する備え」として自民党は100兆円とも200兆円とも言われる災害対策費を新たな公共事業費として求めており、その理由に東日本大震災を挙げているが、これらの投資がどこまで役に立つのかは、実際に災害が起こってみない限り検証のしようがない。
さらに象徴的なのは、先の記事でも挙げた本四連絡橋だ
瀬戸内海にかかる3本のルートの総工費は2兆5千億円に及び、維持・運営費を含めてその債務は4兆円とも5兆円とも言われる(現在は独法債務返済機構が保有)。
車の交通量は需要予測の半分程度に過ぎず、運営主体の本州四国連絡高速道路会社自身も2009年に同30年には費用便益比が1.03になるとの見通しを示した。この数値は00年で1.7であったことを鑑みても、さらに低下が早まる公算が高い。

現在ある三本の本四連絡橋は40年後に耐用年限を迎えるが、40年後の日本に三本とも架け替える体力(財力)はなく、その需要も無いと見られる。
仮に一本だけ残すとしても、今度はどれを残すかで三本の地元が合意できない可能性が高いし、その一本にしてもどのように費用をねん出するのか問題になろう。
逆に撤去するとしても、巨額の費用が必要になり、「撤去するくらいなら架け替えを」という声が高まることが間違いない。
「あったら良いよね」でつくってしまったが最後、致命的な足かせになってしまうケースだ。

東京に住むものからすれば、本四連絡橋そのものがムダに思えるし、少なくとも「三本はいらなかっただろう」と思う人が大半では無かろうか。しかし、連絡橋の近隣に住む当時者からすれば生活に不可欠なインフラである可能性が高く、「3本は維持できないので1本廃止します」と言えば、廃止の当時者になった人は100%反対するだろう。だが、事業者や当該自治体だけでは維持できないインフラに巨額の国税が投じられ続けば、いずれ破綻するのは目に見えている。
本四連絡橋の維持すらおぼつかないのに、自民党政権は新たな巨大公共事業を準備し続けている。これは、自民党政権というものが、霞ヶ関に中央の政策を丸投げする代償として選挙区に公共事業を誘致することで成り立っているからに他ならない。
民主党は、八ッ場ダムの中止を掲げて2009年の選挙に勝利したが、官僚の根強い抵抗にあってついぞ時間切れとなり、自民党に政権が戻って元の木阿弥となってしまった。これは自民党による長期政権と中央省庁の既得権益がいかに強固なものであるかを物語っている。

さらに毛色の違う例を挙げよう。一昨年に大阪の橋下市長が文楽協会への補助金の打ち切りを表明したことがある。過去ログから少し紹介したい
ここで検討されるべき課題は、

1.補助金は適正に使われているか。
2.補助金は必要不可欠なのか。
3.補助金は公共に資するものなのか。

である。
文楽の件で問題にされているのは、特に2と3だが、文楽協会の専従職員12人のうち3人は大阪府と大阪市職員OBであり、「天下り」だったことが判明している。

文楽を担う主な団体は3つあり、国の独立行政法人である日本芸術文化振興会、民間の文楽座(NPO)、そして大阪府・市とNHKの後援で設立された文楽協会である。
概観すると、文楽座は元々松竹の傘下にあったものが、松竹の撤退と国立文楽劇場の設立を経て、商業経営が成り立たなくなって一度解散してNPO法人化している。
文楽協会は、大阪の伝統芸能を用いての地域振興を目的としたが、まずNHKが撤退し、国立文楽劇場が設立されるに及んで、その立ち位置は日本芸術文化振興会と被ってしまっている。
市場の小さい文楽の主体が分かれている背景には、文楽の担い手内部の対立も影響しているらしい。

大阪市が出している補助金は約5千万円で、技芸員の養成と文楽協会の運営に充てられている。
仮に大阪市が補助金を廃止した場合、それを入場料に転嫁すると、約500円の席料アップになると試算されている。一般的な席料は5千〜6千円程度なので、約10%のアップということになる。
やや乱暴に単純化すると、

「国が補助してんだから、破綻寸前の市がやらなくてもいいっしょ」

「振興会(国)とNPOがあるんだから、文楽協会はもう要らねぇんじゃね」

「チケット代10%アップで済むんだから、利用者負担でいいじゃん」

という話なのである。
これに対して、「なぜ大阪市が文楽協会に対して5千万円の補助金を出し続けなければならないのか」という理論武装がなされない限り、「伝統芸能を守るため」という理由だけでは正当化できなくなっている。

橋下氏は挑戦的な言動を別にすれば、至極真っ当な議論をしていたと思うのだが、今度は左翼を中心に「伝統を守れ」といった感情的な反応がなされ、建設的な議論になっていなかった。だが、ここで重要なのは「文楽協会の専従職員の25%が自治体官僚の天下り」「補助金イコール文化保護なのか?」「文楽は公共が税金で保護すべき対象なのか」というテーマだったはずだったが、一体どのような結論になったのだろうか。
この手の「ナントカ協会」は一定数の天下りを抱えているが、それは補助金や各種行政支援を円滑に受けるために必要な人材(人脈)であり、補助金と天下りは切っても切れない関係にある。かといって、補助金の類いを全て廃止しろというのも乱暴な議論だろう。

さて、こうした歳出のムダをチェックするために設置されたのが近代議会の始まりだったことは、以前の稿でも述べている。
イギリスの清教徒革命は、国王チャールズ1世がスコットランド侵攻を行って敗北し、その戦費と賠償金に困り果てて、議会に新規課税を高ピーに要求したところ、議会はこれを拒否。そんな折にアイルランドでもカトリックによる蜂起が起こって、再度遠征することにもなって、議会は国王非難の姿勢を強め、その外交大権を抑制しようとしたところ、それに反発した国王が、議会の武力弾圧を試みたため、内戦を勃発させてしまった。

また、フレンチ・インディアン戦争で財政危機に陥った英国議会は、「植民地の維持費は植民地で」の方針から、植民地からの砂糖に(のみ)課税する砂糖法を可決し、さらに植民地における印紙に新規課税をなし、その上「東インド会社が輸入する茶だけは無税」という茶法を成立させるに至り、有名な「代表なくして課税なし」のスローガンの下、英国本土による独断支配を拒否する空気が強まった。そこに英国王ジョージ3世が軍隊を介入させたため、アメリカ独立戦争が勃発してしまった。
その独立戦争で英国は増税を余儀なくされるが、議会は増税を承認する代わりに軍事支出の予算科目の細目開示を要求した。それまでは軍事費全体で一括審議されていたものが、1789年から予算科目の区分と細目別の審議がスタートした。

今日では政府内の独立機関として会計検査院が置かれ、さらに衆参両院の決算委員会で政府歳出の適否をチェックすることになっている。特に会計検査院は、民主党の「事業仕分け」など不要なくらい良い仕事をしているのだが、いかんせん強制力が無いために一向に改善されない。
つまり、日本にはムダをチェックする機能がありながら、十分に働いていないことこそが問題なのだ。最も重大なのは政権交代が起きないために政官業の癒着や補助金の関係が固着、既得権益化してしまい、自浄能力を完全に失っていることにある。
権力は常に腐敗する。それを前提にして、与野党が適度な頻度で交替することで緊張感を生むと同時に相互監視を強める必要があるのだ。

【参考】
会計検査院の強化を! 
posted by ケン at 13:33| Comment(2) | 財政、社会保障 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月12日

福祉充実と高齢化のジレンマ

【介護保険利用者に厳しい大改正 医療・介護改革法成立】
 高齢化がピークを迎える「2025年問題」を見据え、医療・介護制度を一体で改革する「地域医療・介護推進法」が18日、成立した。患者や要介護者の急増で制度がもたなくなる恐れがあり、サービスや負担を大きく見直す。とりわけ介護保険は、高齢者の自己負担引き上げなど制度ができて以来の大改正で、「負担増・給付縮小」の厳しい中身が並ぶ。人口減と高齢化が同時に進む日本。医療・介護制度は、高齢者の急増、支え手世代の減少、財政難の「三重苦」に直面する。厚生労働省によると、25年には医療給付費がいまの37兆円から54兆円に、介護給付費は10兆円から21兆円に膨らむ。病院にかかれない高齢患者があふれ、介護保険料は負担の限界を超えて高騰。そんな近未来の予測が現実味を帯びている。サービスを提供する人手の不足も深刻だ。こうしたなかで保険財政立て直しを目指す介護保険分野は、利用者の痛みにつながるメニューが目立つ。負担面では、一定の所得(年金収入なら年280万円以上)がある人の自己負担割合を1割から2割に上げる。低所得者の保険料を軽減する一方、高所得者は上乗せする。高齢者にも支払い能力に応じて負担を求める方向が鮮明だ。
(朝日新聞社、6月18日)

少し前の記事だが、朝日の割には理知的な記事で評価できる。
本件では共産党系の労働組合や市民団体などから続々と陳情が来て閉口させられる。確かに野党として反対はしたものの、個人的には利用者・受益者の負担増は避けられないと考えており、NK党や外郭団体が言う「負担増反対、保険料増反対、増税反対、労働者の待遇改善」なる主張には全く同意できない。
これも何度も述べていることなので繰り返しになるが容赦されたい。
医療費も介護費もシステム自体は複雑怪奇だが、原理は単純でその財政は、

労賃+経費+設備費(+利潤)=医療費(介護費)

医療費(介護費)=保険料+自己負担+税金


から構成されている。
ヨーロッパでは還付制が基本であるため、利用者は受けた医療や介護費用の全額を一旦支払い、後日還付される形になっている。他方、日本の場合、受けたサービスにかかる費用の1〜3割を窓口で支払うだけなので、負担感が軽くアクセスが容易である反面、乱用されやすい側面がある(必ずしも要のない医療等を受ける、救急車の乱用も無料であることが大きい)。そのため、日本の医療費や介護費は高齢化という人口構造の他に、保険システムの構造上においても肥大化しやすくなっている。

上の公式を見れば分かるように、医療費や介護費が増えた場合、「保険料を上げる」「自己負担を増やす」「税投入を増やす」のどれか、ないしは組み合わせで対処するしかない。特に安価な自己負担分がサービスの利用(乱用)を促進している面と労働人口の減少を考えれば、優先的に挙げられるのは自己負担増でしか無い。
現状において、医療費総額に占める70歳以上が使用する高齢者医療費の割合は45%を超えており、全人口の18%を占める高齢者が医療費の46%を使用しているにもかかわらず、現役層の負担強める保険料アップという選択肢を採った場合、保険制度そのものに対する懐疑が高まる恐れがある。
そして、保険制度は本来自己完結すべきものであり、社会インフラの整備と公共サービスの提供を目途として徴収された税を、社会保険の赤字補填に使うことは本来的には「目的外使用」に当たるため、モラルハザードなのだ。しかも、一度税を投入すると、固定化されてしまい、財政難になった時に「税投入を止めます」と言った途端に保険財政を丸ごと破綻させてしまうリスクを抱えている。この点でも社会保険に対する税の投入は戒められるべきなのだ。
逆に医療費、コストを抑えようとするなら、医師や看護師を始めとする医療従事者の賃金を下げるか、医療サービスのクオリティを下げるかくらいしか選択肢が無いが、現実性は低い。

もう一つの問題は、公的医療や介護が充実すればするほど寿命が延び、医療や介護の需要が増え続けてしまうことだろう。高齢者の体調不良は完治に至ることが稀であり、医療や介護の支援を受けた状態で延命することになる。医療の質やサービスが向上するほど、従来であれば死亡したであろう症例の患者も延命が可能となるが、その分医療費が肥大化してしまう。
こうした傾向そのものは避けようがないのだが、これも利用者の自己負担を増加させない限り、サービスの利用や乱用が促進され、保険財政をますます危機に陥れることになろう。

社会保障制度の仕組みを理解していれば、「負担増反対、保険料増反対、増税反対、労働者の待遇改善」などという無責任な主張が出るはずはないのである。
「持続可能な社会保障制度」というのは言の葉に乗せるのは簡単でも、それを実現するには非常に厳しい利害調整が不可欠であり、それを民主的合意の上で行おうとすれば、時間がかかってしまうのは避けられない。だが、これを放置すれば財政が破綻するだけの話であり、我々に残された時間は多くない。

【参考】
医療費の肥大化続く 
医療費は誰が出すの? 
肥大化する医療費で国は? 
posted by ケン at 12:34| Comment(2) | 財政、社会保障 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月20日

少子化対策という愚・続

【未婚率上昇、晩産化も=仕事と育児の両立困難―少子化白書】
 政府は17日午前の閣議で、2014年版「少子化社会対策白書」を決定した。若い世代の未婚率は上昇が続き、最新の10年の時点で25〜29歳を見ると、男性は71.8%、女性は60.3%。女性の晩産化も進み、第1子を出産した平均年齢は12年で30.3歳だった。白書は仕事と育児の両立に向けた環境整備の必要性を指摘している。内閣府が実施した意識調査では、若い世代で未婚・晩婚化が進んでいる理由について、20〜30代男性の回答は「経済的余裕のなさ」が最も多かった。しかし、同年代の女性では「独身の自由さを失いたくない」がトップ、「仕事や学業に打ち込みたい」が続き、男女の意識の違いが示された。また、「子どもを持つ場合の条件」に関し、20〜40代の既婚女性の回答は「働きながら子育てができる職場環境」が最多だった。別の調査では、妊娠・出産時の職場の理解について、既婚女性の54.6%が「不満」と答えた。出産を機に退職した女性の約4分の1が「仕事を続けたかったが育児との両立が難しく仕事を辞めた」と話しているという。
(時事通信、6月17日)

上の記事とは直接関係ないのだが、少子化のもう一つの問題は都市部への人口集中である。江戸あるいは室町の時代から大都市は「人喰らい」と言われて地方から人を集めるだけ集めて吸収してしまう問題があった。近年でも、旧ソ連や中国では、治安と人口管理の問題から都市部への移住を大きく制限していたくらいだ。
都市に人口が流入し、減少する理由は古来より研究されてきたが、貧困と社会関係の問題が大きいとされている。人が地方から都市部に出る最大の理由は「仕事がないから」なのだが、地方の貧困層が都市部に来たところで仕事にはありつけても低収入のものが圧倒的に多数であり、結婚するのも子どもを産んで育てるのも条件的に難しい。この条件は現代でも変わらない。地方から都市に出てきた者は、居住環境を自前で維持するだけでも大きなコストが掛かるため、低収入な上、生活コストが高くなる。

東ドイツから西ドイツに移住した者は、合法か非合法かを問わず(あまり知られていないが、反社会分子の合法出国が部分的に奨励されていた)、貧困と社会・政治的理由が半々(複合的)だったとされているが、東独からの移住者で西ドイツ人の平均的な生活水準を達成できた者は4分の1程度に過ぎなかったとする研究結果もある(どの論文だったかちょっと確認できないが)。その結果、移住者のうち相当数が「東独時代の方が生活は楽だった」と思うに至っている。だが、「生活は楽」だからといって「戻りたい」とはならないのは、現代日本における地方と都市部の関係に似ているのかもしれない。

現代日本において、地方から都市部に移住する理由として「仕事」に次ぐのは社会的理由だと考えられる。特に地方の閉鎖性や相互監視あるいは様々な社会的圧力に対する拒否感が大きい。これも例えば、東ドイツからの出国の動機(社会学的研究)を見た場合、「言論の自由の欠如」「政治的圧力、国家権力の干渉」「移動の制限」が主なものとして挙げられているが、現代日本人が地方嫌いの理由として挙げるものと酷似していることが分かる。村落共同体における言論監視や移動規制、あるいは様々な社会的干渉と強圧はシステム化されていないだけで、社会主義統一党を自民党に、シュタージをムラ社会に置き換えて考えることは非常に容易だ(以下参照)。

田舎すげぇ! 
田舎すげぇ!2 
やっぱ田舎すげぇ! 

この短い体験記だけ見ても、現代日本にいまだ民主主義が根付いておらず、ホーネッカーも羨むような全体主義が地方を支配していることが分かるだろう。しかも、私が行ったのは草深い山奥などではなく、三大都府県にほぼ隣接した市で三大都市に出るのに一時間とかからないところなのだ。これはで九州や四国などは一体どれほど抑圧的な社会なのかと勘ぐってしまう。
若年層の視点に立った時に象徴的なのは、群馬県の青少年外出禁止条例である。これは午後10時から午前4時までの間、外出している未成年者を片端から補導するというものであり、たとえ親と一緒にファミレスに行ったとしても警察署に連れて行かれてしまうほどのものになっている。これは日帰りで原宿やディズニーランドに遊びに行くことすら「悪」と断じる地方の価値観を具現化した条例であり、少なくとも自分が群馬県に生まれたら一日も早く「国外脱出」したいと請い願ったことであろう。

地方に若い女性が根付かずに都市部に出てしまうのは、貧困と同レベル以上にこうした社会的抑圧によるところが大きく、女性の方がより虐げられる存在であれば、脱出願望を一層強固にしているものと思われる。同時に、日本における婚姻が抑圧された環境を生むと考えられるからこそ、若い女性が結婚を先送りにしているとみるのが自然だろう。

さらに象徴的なことに、少し前まで日本の農村部ではフィリピンやタイなどから若い女性を呼んで日本人男性と婚姻させて労働力を維持する政策や習慣が採られてきたが、今日では東南アジア諸国から日本に来たがる女性そのものが激減しており、シンガポールや中国の都市部の人気が急上昇しているという。そもそもこうした「嫁取り政策」そのものが、合法的な「緩やかな奴隷制」に近いだけに、どうせ身を売るなら貧しい日本の農村部よりは、派手な中国の都市部の方が望ましく思われるのは当然のことだった。恐らくは農村部の抑圧的な社会環境に対する悪評も災いしているだろう。
また、逆に外国人男性と結婚する日本人女性は増加の一途にあり、それも従来のような欧米人に限らず、中国やアジア系あるいはアラブ系など多様化が進んでいるという。これも日本人男性の経済的価値が相対的に低下していることの表れである。

以上を俯瞰すれば、政府が進めている少子化対策がいかにムダなものかが分かるだろう。地方を疲弊させ、都市部への人口集中を進めた結果、貧困層がこぞって都市部に流出、地方は保守層ばかりが残って抑圧的な社会構造がますます強化され、地方へのUターンを困難なものにしてしまっている。人口減対策としては、一極集中を改めて地方振興を進めると同時に、抑圧的な村落共同体を解体して民主化を進める必要があるはずなのだが、そのような視点は見たことがない。
また、女性の都市流出が進むのは女性の経済的地位と社会的地位が低いことが大きく、同時に国外脱出が増加傾向にあるのは教育度が高い割に経済・社会的地位が低いままに置かれていることが大きいと考えられる。その一方で、男性の大半も貧困化が進んでいるだけに、「資本と労働力の共有」という婚姻の根源的メリットが達成不可能になりつつある。これを回避するためには、女性の経済・社会的地位を高めるか、あるいは男性の所得水準を1990年代以前に戻す反動的政策が考えられるが、現実にはどちらも実現しそうにない。その将来不安が、国外脱出と非婚をますます加速させるという悪循環に陥っている。

実のところ日本の「少子化対策」で最も有効なのは「地方に自由とデモクラシーを!」ということなのかもしれない(爆)

【追記】
先日、東京都議会で少子化対策について質問した女性議員に対して自民党席からセクハラ・ヤジが浴びせられた事件があったが、東京でも地元で自民党系のオヤヂや同年代の人間と呑んでいると同レベルの話が普通に交わされている。自民党議員は飲み屋の感覚でヤジってしまったのだろうが、実はそれは嘘偽り無きホンネなのだ。私の皮膚感覚では、自民党議員の7割以上は同感覚の持ち主という感じであり、総理が「女性の社会進出」とか「少子化対策」と言ってみたところで、付いてくる者などごくわずかだろう。ジェンダー分野もまた人権と同様、日本は中世の域から一歩程度しか進んでいない。
posted by ケン at 12:11| Comment(0) | 財政、社会保障 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月13日

ムダな目標設定:50年後に1億人

【「50年後も1億人維持」 政府、骨太の方針に人口目標】
政府は6月末に閣議決定する「経済財政運営の指針」(骨太の方針)で、50年たっても人口1億人を維持する目標を盛り込む。そのために来年度予算以降、第3子からの出産・保育の給付を増やすなど子育て支援を手厚くして出生率を上げ、2020年に少子高齢化の流れを変えるという。政府が人口目標を掲げるのは初めてで、「人口減社会」への対応を重点政策に位置づける。骨太の方針は政府の経済財政諮問会議がまとめ、来年度以降の予算づくりや政策に反映される。朝日新聞が入手した原案では、人口減少をデフレ脱却などの次に取り組む「最大のハードル」として、「50年後に1億人程度の安定的な人口構造を保持する」という目標を盛り込む。諮問会議内の試算では、女性が生涯に産む子どもの数を示す出生率をいまの「1・43」から30年に「2・07」に回復させれば、60年代でも1億人を維持できる。原案は、この実現に向けて「20年をめどに少子高齢化の流れを変える」と掲げる。ただ、出生率の目標は「出産の強制」との批判があり、盛り込まない。
(朝日新聞、6月8日)

この手の目標設定は誰が何のためにやるのだろうか。
大方、仕事のないヤクニンが「ボクたちちゃんと仕事してマス!」的にでっち上げているのだろう。とりあえず目標を立てておけば、実際の仕事が大したものでなくとも、何となく「目標に向かって」頑張っているように(自分たちが)主張できることが重要なのだと考えられる。
だが、現実にはこの手の「目標」は何の意味も持たない。検証がほぼ不可能あるいは無意味であり、検証後の見直しもできないからだ。例えば、実際に50年を経て人口が1億人を下回っていた場合、50年を遡って人口政策や家族政策を検証するのだろうか、そしてその検証を行って失敗が認められた場合、誰に責任を取らせるのだろうか。目標というのは、あくまでも達成可能で、かつ検証可能な期間をもって設定されねば意味をなさないのである。
その意味では、「10年後に1億2千万人を維持する」といった目標であれば、検証が可能で、かつ責任も明確にできるだろう。だが、この場合、出産を奨励するよりも延命治療を徹底させて平均寿命を延ばす方が、目標達成のための政策として「合理的」になってしまい、本来の「出産増」から離れてしまう。故に「50年後」という話になったのだろうが、結果的には「目標を作るために目標を設定する」ような話になってしまっている。

そもそも戦後日本で最初の「少子化対策」が採られたのは1994年の「エンゼルプラン」だったが、20年を経ても出生率の改善は殆ど見られず、せいぜいのところ「下げ止め」が良いところだった。その総括と政策担当者に対する責任追及すらなされていないのに、50年後の目標を設定することにいかなる意味があるのか。

ちなみに東ドイツの場合、建国の1949年に1879万人いた人口は、消滅した90年には1618万人になっており、40年間での国外脱出者の数は400〜500万人超に上るとされている。従来の説では「抑圧に対する反動」「体制への恐怖」といった政治的理由による亡命が殆どを占めていると考えられてきたが、ドイツ統一後の検証では様々なデータがあるものの、政治的理由と経済的理由が半々で、かつ複合的であったと考えられるようになっている。この話はまた別途稿を設けたいと思う。

現代日本の場合、若年層の貧困と労働環境の悪化という経済要因の他に、社会・政治の右傾化・権威主義化に伴って人権軽視、当局による監視、表現規制、戦争不安、排外主義化などの要素が強まっている。ただ人口に対する現象として、国外脱出ではなく社会に対する引き籠もり(婚姻拒否・不能)や出産減(出産格差)となって現れていると想定される。
南北格差を考えれば分かるように、人口減は決して経済的要因のみにて引き起こされるのではなく、一定の高い生活水準が実現する中で「子どもができると、これまでの生活水準や自由な生活が脅かされる」という不安が強く作用している。特に日本の場合、年金制度も万全ではないだけに、老後の生活まで考えると、ますます不安が強まってしまう。
もっとあからさまに言えば、子どもの育児・教育費にかかるコストと犠牲にされるプライベートと、子どもが成人した後に自ら(親)に還元されるコストを比較した場合、明らかに前者が大きすぎて、とうてい合理的な理由から子どもを持つという選択肢が採れなくなっていることこそが、大問題なのだ。

国家が人口の目標を掲げるのは、国民を単に労働力として捉えて生産力の低下が危惧されるためであり、そこには国民の幸福を追求するという視点は全くない。そして、国民を一労働力と捉える視点が、労働と出産の強制という方向に働き、国民の不幸感を強め、出産減や国外脱出という現象となるのである。
現代日本の不幸は、全体主義を知らない政治家や官僚が、自ら行おうとしている政策が全体主義そのものであるという自覚すらないまま国民に強制し、洗脳された国民は自国が自由で人道的であると勘違いして無批判に生活環境の悪化を受け入れてしまっているところにあるのかもしれない。

【追記】
実のところ、出生率を増やすことは原理的には難しくない。現状では子どもが増えれば増えるほど生活が困難になるため、合理的な選択として出産が抑えられているわけだから、要は子どもが増えれば増えるほど所得が増える構造にすれば良いのである。例えば子ども2人までの児童手当を低めに抑える代わりに、3人人以上の子どもがいる世帯には劇的に手当の額を増やし、「働かなくても暮らせる」くらいの手当を出せば良いのである。厳密には計算しないが、例えば、現在のところ3歳以上の児童の手当額については、第1子、第2子月5千円、第3子以降月1万円となっているが、第2子までを月3万、第3子を月5万、第4子以降を月7万という感じにすると、3人子どもがいれば月11万円、4人子どもがいれば18万円受給できる計算になる。この場合、児童手当の総予算額は現状の6倍以上、つまり9兆円程度が必要となり、7兆円以上の新規財源が求められる。その財源は70歳以上の高齢者の医療費窓口負担を3割に、生活保護世帯の医療費自己負担の導入、消費増税、子どもがいない世帯への所得増税(独身税)、外国人労働者を雇用している企業に対する法人増税などが考えられる。だが、これは一種の麻薬で、生活保護と同様、一度受給したら止められなくなってしまう作用があり、財源不足に陥った場合、あっという間にルーマニア化する恐れがある。同時におよそ自由主義国にふさわしくない全体主義的政策であり、「子どもを増やすために労働し、納税する」という意味で、「国民の幸福のために奉仕する国家」から「国家の繁栄のために奉仕する国民」へと移行することになる。私としてはあまりお薦めしない(笑)
posted by ケン at 12:08| Comment(8) | 財政、社会保障 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月12日

少子化対策という愚:アクセルとブレーキ

【政府調査:未婚者への結婚支援、望む対策は…】
 未婚者への結婚支援に関する政府の意識調査(複数回答)で、国民が最も重要と考える対策は「給料を上げて、安定した家計を営めるよう支援する」(47.3%)ことであることが、2014年版の「少子化社会対策白書」のまとめで分かった。ただ、39歳以下の未婚者に限ると女性は「夫婦がともに働き続けられる職場環境の充実」が50.6%を占め、男性の40.4%を引き離した。女性が結婚に際して自身の就労環境を重視していることが浮かんだ。非正規雇用労働者の増加など若い世代の所得低下が背景にあるとみられる。既婚、未婚を問わず全国の20〜59歳の男女1万3260人から回答を得た。重視する結婚支援策は1位の「安定した家計を営めるよう支援」に次いで「共働き環境の充実」(45.8%)、「安定した雇用機会を提供」(45.7%)と続き、出会いの場の提供など「結婚支援サービス」は18.4%にとどまった。一方、39歳以下の未婚者でみると、女性が「共働き環境の充実」を重視していることが分かる。重視する人の割合は全職種で女性が男性を上回り、学生は女性(62.6%)が男性(35.3%)を大きく上回った。同白書は1997年と12年の所得分布を比較し、背景を探った。30代でみると、97年は年収500万〜699万円の人の割合が最も多かったのに、12年には300万円台が最多となった点を挙げ、「子育て世代は97年から10年間で低所得層にシフトし、その状態が続いている」と指摘した。政府は同白書を6月に閣議決定する。
(毎日新聞、5月28日)

このところ政府や財界が「50年後に人口が一億を下回る」「自治体の半数が消滅」などと大騒ぎして、「少子化対策」やら「移民導入」などと叫んでいるが、問題の本質を全く無視した議論になっている。いや、財界は経済至上主義的に合理性を追求しているだけなのかもしれないが。
政府が言う「少子化対策」は、ジェンダー対策上の用語であって、その実質は出産奨励策、人口政策に他ならない。出産奨励策は、労働力の維持と増加を目的としており、国民の自由意思よりも国家の生産力向上を優先する思想(集産主義)が根底にある。ところが、現代日本は少なくとも形式上は自由と民主主義を標榜しているため、表だって出産奨励策を掲げられない事情があり、「少子化対策」という形で地味に進めるしかないのだが、財界を中心とした経済至上主義の主張が強く、国民の収奪が進んで生活水準の低下が進んでますます出産を難しくしてしまっている。

上の調査結果を見れば分かるとおり、子どもを欲する層にとって最大の課題は「安定した家計」であり、次いで「夫婦ともに働ける職場環境」となっている(夫婦限定というところにも問題があるのだが、今は触れない)。つまり、この2つの問題を解決するだけで、課題の半分以上が解決するはずなのだが、社会の実態は逆を行っている。
雇用環境と収入の点では、非正規の増加や超長時間労働と残業代不払いのブラック企業の横行(労基法と労基署の機能不全)、そしてブラック企業を公認する形になる「残業代ゼロ法案」などの形で悪化する方向にしか働いておらず、子どもを欲しい層が子どもをつくる方向に逆行してしまっている。外部市場の獲得が難しくなっている今、今後はさらに国家と企業による収奪が強化されるとみられ、国民の圧倒的多数の家計環境はさらに悪化してゆくだろう。

「夫婦ともに働ける職場環境」も似たような状態にある。保育所を乱造することで「預ける場所」だけは確保されてゆくかもしれない。だが、平均的な労働環境と給与待遇はさらに悪化してゆく。先にも述べたが、「残業代ゼロ法案」の本質は労使間合意無しで「1日8時間、週40時間」の労働時間規制を取り払う点にあり、要は労働基準法を実質的に無効化しようというものなのだ。これが意味するのは、主要働き手は残業代無しの超長時間労働を強いられる一方、家計不足分を補うために補助働き手が長時間のパート労働を余儀なくされるという「ともに働ける職場環境」でしかない。

資本主義社会の黄昏は、フロンティアとしての外部市場の消滅とその代替としての内部市場の収奪という形で現出している。自国の労働者や国民の財を収奪することで利潤を上げるわけだが、具体的には人件費の抑制と国民に負債を負わせる形で需要を先食いさせる形となって現れる。その象徴が非正規雇用の増加と「残業代ゼロ」、そして低所得層に対する住宅購入の促進である。
かつて1960年代以降、日本政府はその住宅政策を賃貸から持ち家へと転換させ、新興中産階層の住宅購入を奨励した。これは住宅ローンによって金融業のマーケットを拡大させると同時に、労働者に負債を背負わせることで企業と社会に対する従属(労働)を強化する狙いがあった。ところが、90年代以降、中産階層が没落して金融市場が飽和すると、今度は低所得層に対する住宅購入を奨励するようになる、いわゆる「サブプライム・ローン」がそれだ。
家計収入が厳しくなる中、国策として中低所得層に対する住宅購入が促進された結果、子育て世帯は自分の学資ローン(奨学金)の返済が残る中で、住宅ローンを背負わされ、それらを支払った残りから普段の家計や子どもの教育費をやり繰りすることになる。
現代の資本主義社会は国民を借金漬けにすることで成立しているのである。

繰り返しになるが、「残業代ゼロ法案」で労働時間規制を取り払うと同時に、過労によって貴重な労働力を自殺に追い込まないようにするのが「過労死防止法案」の狙いだった。
日本の出産数が減少を続けるのは、出産によって生活水準が下がる恐れが高いこと、将来不安が強いこと、教育費の自己負担が高いことなどが挙げられるが、全般的には「自分たちが不幸で不安定な(奴隷的)生活を強いられているのに子どもなんてとても無理」という気分が広まっていることが大きいと考えられる。なお、日本において15歳から39歳までの死因のトップが自殺であることは、少なくとも主観において若年層の相当数が不幸であると感じていることの例証の1つであると同時に、「国民を幸福にする国家」の創設に失敗したことの証と言える。
要は子どもが減るのは国民が不幸であるからであって、国民の幸福感が高まれば自然と子どもも増えるのが道理なはずだが、現実の政府の施策は国家の生産力向上を理由に国民をさらに不幸にする方向に突き進んでいる。上手く行くはずがないのだ。
posted by ケン at 12:33| Comment(0) | 財政、社会保障 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月28日

保育所は何故足りないのか?

少し前のことだが、起きたベビーシッター宅での幼児死亡事件について新聞で読んだ(仮)ボスから「保育所は増えていないのか?」との御下問を賜った。いくら専門外とはいえ、関心があるなら抑えておいて欲しいテーマではあるが、データを提供するのが秘書の務めである。

少なくとも公式発表上、保育所は増えている。
2013年4月1日段階で全国の保育所定数は229万人で、前年度比で4万9千人増、5年間で17万人近くも増えている。実際に入所している児童数は222万人で充足率は97%にもなる。一方、待機児童数は22471人で前年度比2千人の減少、3年連続の減少となっている。地方都市で待機児童が解消される傾向にある一方で、首都圏ではむしろ増えている自治体も見られるようだ。
安倍政権は自らの成果を誇っているが、民主党政権下での取り組みが実を結んだ格好とも言える。

入所者数が定数を下回っているのに「待機」が発生するのは需要が偏在するためであり、首都圏に人口が集中する中で大規模な住宅群ができて子育て層が急増すると、保育所の設置が間に合わないケースが多い。民間住宅はあっという間にできるが、保育所の増設は容易ではないからだ。
また、保育所を設置するためには事前に需要が調査されるわけだが、実際に設置されるまでにタイムラグが存在することと、要望された数ほど実際に応募がなかったケースも散見される(つくってはみたものの希望者が少ない)。
さらに言えば、待機児童問題が報道されたことで子どもを預けること自体を諦めていた人たちが、保育所増設の話を聞いてあらためて希望を出すケースも少なくなく、要は保育所を増設するほど需要も増えてしまうという構図がある。

マスコミなどによって待機児童問題が喧伝され、保守の自民党(そもそも公的保育に否定的)ですら保育所の増設を政策に掲げるまでに至っているものの、介護施設や公的病院などと同じで、保育所も建てれば建てるほど自治体の赤字が増える構造になっている。
建設費を除く運営費だけ見ても、公営保育所で児童一人当たり年間150万円円程度のコストが掛かるが(地域や年齢による違いが大きい)、利用者が実際に支払う保育料は平均で30〜50万円に過ぎない。民間保育所でも年間100万円程度はかかる。ゼロ歳児保育になると2〜3倍のコストが必要となる。
さらに都市部になると地代や人件費の高さから、平均をはるかに上回るコストが掛かる一方、人口は地方からだけではなく郊外からも都市部への流入が続いているため増加傾向にあり、どうしても供給が需要に追い付かない。運営費は国から補助が出るが、初期費用については補助がないため、地代が高く優良物件が少ない上、「迷惑施設」と敬遠されがちな保育所の新設は非常に高コストとなり、自治体に二の足を踏ませている。
これ以外にも自治体ごとに無認可保育所に対する支援や独自の負担軽減策がなされており、要は保育所が増設され、利用者が増えるほど自治体の財政負担が重くなってゆく。

保育料の自己負担分は30〜50万円だが、働きに出ればたとえ低賃金で年間200〜300万円稼いで納税したとしても、家計にはプラスの方が大きい訳で「預け得」状態であることが分かる。そのため「夫婦正社員の共働き」限定だった保育所入所の規制が緩和されれば、新たな希望者(需要)が続出するのは当然の帰結と言える。

根源的には、自由市場において商品・サービスの需要に比して供給が少ない場合、価格が高騰することで需給バランスの調整がなされる。
ところが、医療にも介護にも共有することだが、サービス価格が公定価格であるために、需要に比して供給が少ない場合でも価格が同一であり続けるため、「物不足」が常態化してしまう。私のようにソ連や東側ブロックに住んだ経験のある者ならば体感していることなのだが、日本の場合、どういうわけか福祉関係の(ソ連型に近い)社会主義政策については完全に国民に浸透しており、誰も疑問を覚えなくなっている。
逆を言えば、保育料の価格統制を止めて、市場に委ねて自己負担にすれば、保育料が月額8〜10万円ほどになるため、「子どもを預けて働きに出よう」という新規需要そのものが減少し、「待機児童」そのものが解消に向かうと考えられる。ただ、その解決法は「少子化」を加速させるであろう。とはいえ、公定価格を維持する限り、家族政策部門での赤字が肥大化し、それにどこまで国と自治体の財政が耐えられるか、という話になる。とはいえ、保育部門は介護部門と異なり、将来の税収増に直結するだけに投資効果が高いことは確かだ。
それでも、子どもの減少が続き、大都市部では半分前後が単身世帯で、子育て世帯を圧倒的に上回る中で、保育部門に巨額の税金を投入することに理解を得るのが難しくなっていることも確かであり、高齢者の人数と投票率が若年層を圧倒している点も含めて、デモクラシーの困難さ、弱点を示している。
posted by ケン at 12:09| Comment(0) | 財政、社会保障 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月28日

光が強ければ陰もまた濃く

【昨年10月の生活保護216万人=7カ月ぶり最多更新―厚労省】
 厚生労働省は8日、昨年10月に生活保護を受けた人が全国で前月比4530人増の216万4338人になったと発表した。7カ月ぶりに過去最多を更新した。受給世帯数も同3818世帯増の159万4729世帯で過去最多を更新した。ただ、厚労省は「2012年度と比べると伸び率は落ち着いており、今後の変動を注視したい」と話している。高齢者の受給増加が続いており、生活保護を受けた高齢者世帯は同2399世帯増の71万9398世帯に上った。
(時事通信、1月8日)

自公は「政権交代して一年で株価が倍になった」と喧伝しているが、その一方で生活保護の受給者は減少することなくむしろ増加傾向にある。一義的には記事にもある通り、高齢化の進行に伴う無年金層の増加に起因するものだが、若年層の貧困化とその若年層を保護してきた団塊世代の定年を考えると、状況はより深刻であることが想像される。
24歳以下では非正規雇用と失業者の割合が5割近くにも達し、賃金でいえば25〜29歳の勤労者の平均年収は、1997年から2009年の12年間に、373万円から328万円へと45万円も減少している。
他方、65歳から69歳までの男性高齢者の就業率は47%にも達しており、定年を迎えてもなお「年金だけでは食えない、心配だ」という層が相当数に上ることを意味する。高齢者の就業率の高さは若年層の雇用にも影響しており、世代を超えた求職競争が労働市場の買い手優位となって待遇悪化を常態化させ、若年層の収入減に繋がっていると見られる。
実は定年を迎えた団塊世代の就業率上昇は、子である30代以下の低収入を補うためという側面があり、労働市場の流動化が高齢層の求職を促進してしまっているという問題もある。

生活保護の捕捉率(生活保護水準以下の人に対して実際に受給している人の割合)は、25%前後と言われている(もっと低い数字もある)。これはつまるところ1千万人近い人が生活保護受給ライン以下の生活を余儀なくされ、700万人近い人が「生活保護受給水準以下の収入しかないけど生活保護を受けないで我慢している」ことを意味する。

さらに先の臨時国会で生活保護法が改悪され、保護申請のハードルが上げられると同時に家族による扶養義務が強化された。詳しくは先の記事で説明したが、もともと生活保護の申請者は生活困窮者であり、行政へのアクセスが困難であることを考えれば、生活が逼迫している人ほど保護から遠ざけてしまう可能性が高い。また、扶養義務の強化は「(平素交流の無い)親族に迷惑をかけてしまう」と保護申請を自粛させる効果があり(政府、自民党はそれを狙っているのだが)、これも必要な支援が行き渡らなくなる懸念が高い。

高齢化に伴い無年金者が増加するのは避けられないとしても、就労可能なシングルマザーや若年者などに対するセーフティネットと職業訓練を充実させなければ、徒に貧困層を増加させる結果になりかねない。
米国ではフードスタンプの受給者が5千万人を超したと言われるが、日本もその一方後ろを歩んでいるに過ぎないと言えそうだ。

【参考】
生活保護不正受給疑惑に関する問題整理
11時間半の審議で生活保護法改正 
アメリカはもはや末期症状?
posted by ケン at 12:38| Comment(0) | 財政、社会保障 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする