2020年10月06日

「すてかまり」は創作だった?!

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島津隊による「捨てがまり」戦法は、司馬遼太郎の創作だった?!
これだから、歴史知識は常に最新版に更新していく必要がある。
国民作家の罪深さよ。
それにしても、典拠が「甲陽軍鑑の一カ所」って。。。

もっとも、「海音寺潮五郎が言っていた」との話もある。
海音寺家は島津家中で、潮五郎は伯父の「ひえもんとりを見た」という回想を聞いているほどの世代で、その海音寺が「島津家の秘技」というのであれば、「公文書には記録が無い」というのも「仕方ない」という話になるわけだが。。。
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2020年09月11日

ドラマ 東京裁判

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2016年にNHKが制作した歴史ドラマ。後にNetflixが出資することになり、Netflixでも放映されている。
最新の研究や近年発見された資料を使いながら、11人の判事それぞれの視点から極東国際軍事裁判を再現する。
判事たちの視点によるドラマ部分は4Kで撮影する一方、被告たちの部分は記録映像を解析、再着色して組み込む手法をとっており、興味深い。
もっともドラマ部分の4Kがきれいすぎて、逆に全てセットにしか見えず、リアリティーを失ってしまっているようにも見える。

11人の判事の内面や判事たちの間の確執、政治的な思惑などが描かれており、通り一遍のドラマではなくなっている。
1時間番組四回でボリュームもあり、見応えはあるし、様々な発見もあったのだが、わかりやすく描かれている反面、わかりやすさ故の省略、特に政治的背景が失われていること、そして、仕方ないことだが、判事視点なので検察と弁護人が殆ど描かれておらず、法廷ドラマとしては成立していない。もともと二年半も費やした裁判だっただけに、四回ドラマでやることすら難しかったとは言えるだろう。
詰まるところ、「平和に対する罪」を「事後法だから無効」と捉えるか、「そんなの関係ない」とゴリ押しするかという話を延々としているだけではあるのだが、それをどう評価するかという話かもしれない。

個人的には、つまらなくは無かったが、ドラマとしては今ひとつ盛り上がらなかった気がする。
「この裁判で侵略を抑止できるようになるだろう」などと言っていた米英が、アフガニスタンやイラクに侵攻している事実を見れば、むしろ茶番にも見えてくる。

【追記】
改めて考えてみると、東京裁判で裁かれた被告は「いかにも小者」ばかりだった。言うなれば、「お前がボタンを押した」という話が中心で、そうせざるを得なかったのはわかるとしても、それがいかにも「裁判のための裁判」になってしまっている。言うなれば、ゴキブリの巣の入口を爆破して、その時外に出ていたゴキブリを叩き潰して、「オレはやったぜ!」と快哉を叫んだだけの印象だ。であれば、むしろ昭和帝一人を死刑にして、帝政を廃止、後は日本人に丸投げして「帝政を復活したら連合国と再戦」旨の講和条約を締結した方が、後腐れ無かったのではなかろうか。
また、近年では1937年の日中開戦における海軍の主導的役割や、日米開戦における海軍の無責任さも明らかにされており、「海軍善玉論」に基づく東京裁判史観がいかにも色あせてしまっていることも強調しておきたい。詳細は「「米内を斬れ!」の遠景を望む」を参照。
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2020年09月07日

ケン先生は妖怪好き?

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ケン先生は「昭和の妖怪」の大ファン。
政治家としての凄まじい生命力を発揮する一方で、意外とあっさり権力を投げてしまう淡泊さ、同時に恐ろしいまでの読みの深さと意外な人間味がある。そして、それらを支えている闇の深さは、戦後政治家の中でも断トツと呼べるだろう。

闇の深さでいえば、いまや「佐藤栄作蔵相はマッカーサー大使に秘密資金援助を求めた」ことまで暴露しているアメリカの公文書が、いまだ岸信介関係については、膨大な量を機密指定したままにしている。
満州帝国では、アヘン利権に一部関わり、政治資金化しており、戦後の政界進出時の資金にもなったと考えられるが、もはや遠い闇の中に埋もれている。

読みの深さで言うと、例えば1941年12月に対米戦が始まると、ジョセフ・グルー駐日米大使は大使館内にて軟禁下に置かれた。
当時東条内閣の商工大臣だった岸は、その大使を大臣車に乗せて連れ出し、何度かゴルフを楽しんだ。
そこで培われた信頼関係が、東京裁判にも影響し、不起訴となる要因の一つになったとされる。
この豪胆さは、小心保身を旨とする官僚のものではあり得ない。

戦後戦犯訴追のため収監された巣鴨プリズンでは、「久しぶりに暇な時間ができた」と喜んで、ディケンズの『デイヴィッド・カッパーフィールド』を原著で一気読みし(日本語訳だと文庫五冊分)、英語版の「レ・ミゼラブル」の翻訳を始めたという(未完らしい)。

また、1960年の米大統領選に落選し、62年のカルフォルニア州知事選にも落選して、「終わった政治家」と言われていたリチャード・ニクソンを、岸は「日本に来ないか?ゴルフでもしようや」と招待して、一緒にゴルフして各地を旅行した。ニクソンが68年の選挙で大統領に選出された後、岸はニクソンに電話して「今度弟(佐藤栄作)が訪米するから、沖縄(返還)の件、話を聞いてやってくれ」と言ったという。
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2020年09月05日

外務省の棄民政策と帝政の本質

1945年の満州における悲劇は、関東軍と陸軍による軍事優先、棄民政策と考えていたが、実は外務省も同レベルの極悪な対応をしていた。
まず、佐藤量「戦後中国における日本人の引揚げと遣送」から一文を紹介したい。
 終戦直後、少なくとも1945年8月から9月にかけての基本方針は、「できる限り現地に定着」というものであった。
 1945年8月14日、大東亜大臣東郷茂徳による訓令「三ヶ国宣言受諾二関スル在外現地機関二対スル訓令」において、「居留民八ハ出来ウル限リ定着ノ方針ヲ執ル」と定められた。また、中国においては、1945年8月18日に支那最遊軍総司令部による「和平直後の対支処理要鋼」のなかで、「支那居留民は、支那側の諒解支覆の下に努めて支那大陸に於て活動するを原則とし(中略)其の技術を発揮して支那客済に貢献せしむ」と言及されている。居留民は残留を原則とする方針であった。
 日本政府が、日本人を残留させる方針を取った背景にはいくつかの要因かある。まず、GHQの占領下にあった日本は。戦後ほどなく外交機能を停止され、独自に残留日本人を引楊げさせることかできなかった。また,戦争によって日本国内の財取も逼迫し、国内の日本人の生活もままならなかったため、引揚者のための膨大な散の引揚舶や食糧,衣料などの生活物資を用意することは極めて困難であった。

満州における移民団を初めとする様々な悲劇や中国残留孤児の原因の一つは、外務省(東郷外相)による「在外邦人は帰国せずに現地に留まれ」の指示であった。
「在外邦人は現地に定着せよ」の理由は、「日本国内に十分な食糧や住居が無い」「外交権が停止された」の他に、「在外邦人は現地で日本資産を死守せよ」というものがあったという(同上)。いかにも明治帝政と霞が関の発想である。帝国は、自らの権益拡大のために侵略戦争と植民政策を行って、臣民の海外進出を進めた挙げ句、敗戦となれば「現地で死ね」と命令したのである。
終戦時における在外邦人(本土人等)の総数は600万人を超えていたとされるが、正確な数はわからないらしい。

言うまでも無いことだが、敗戦によって昭和帝は罪を問われること無く、そのまま帝位を維持し続け、帝政の存続を成功させた。
霞が関もごく一部の官僚が数年間の公職追放を受けたのみで、実質的には罪に問われること無く、同時に何らの反省もしないまま、明治帝政の体制を存続させている。
恐ろしいことに、外務省の自伝である『日本外交文書』とその概要を記す省HPは、本件について「外務省は直ちに各在外公館へ詔書を通報し,その趣旨を体して行動を十分自重するよう命じ,あわせて在留邦人へもこの趣旨を十分説明して自重を促すよう訓令しました」と歴史改竄を行っている。

明治帝政を形だけ変えて何の反省もないまま存続している昭和帝政は、何度でも同様の罪を繰り返すだろう。
当然私などは真っ先にその対象にされるのであり、警戒と保身に全力を尽くす必要がある。
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2020年08月26日

佐々木大尉に見る戦後民主主義

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日本の「戦後民主主義」がどれだけ胡散臭いかと言えば、第一には終戦から9年後に成立した鳩山内閣閣僚の7割以上が戦犯であったことが挙げられる。
しかし、通俗的に面白い話をするなら、昭和20年8月14日夜に起きた「宮城クーデター」において、鈴木貫太郎首相官邸と首相私邸を襲撃、焼き討ちした佐々木武雄陸軍大尉であろう。戦後は逃亡を重ねるも、1949年には名前を変えて上京、「亜細亜友之会」(後に財団法人)を設立して事務局長、理事長を務め、いかなる罪にも問われること無く、人生を全うしている。

恐ろしいことに、佐々木は社会民衆党の党員で、赤松克麿に心酔する形で国家社会主義者となった経緯があり、さらに戦後は大アジア主義者としてアジアからの留学生支援に奔走しており、色々と考えてしまう。

俯瞰すれば、戦後民主主義は二次大戦の休戦条件として連合国から強制され、明治帝政は牛歩戦術で対処するも、業を煮やしたGHQが強制力を発動して民主化を促進する。しかし、冷戦の勃発によって日本の民主化は優先順位を下げ、アメリカの衛星国化と反共の牙城化が優先されるようになった。戦犯たちはその協力者となることで実質的に無罪放免となり、あるいは講和条約の発効によって日本政府から恩赦された。
わが大先輩である浅沼稲次郎も社会大衆党の親軍派にして帝国主義者として戦争協力に全力を挙げたが、戦後は少なくとも公的には何らの反省も表すことなく社会党の委員長にまでなっている。
「戦後民主主義とはそういうものだった」という前提無くして現状を見るのは、「木を見て森を見ず」の過ちの元となろう。

(追記)
当然のことながら、昭和帝政という視点から言えば、最も胡散臭いのは、皇帝固有の「国防の義務」を果たせずに300万人以上の国民を無為に死亡させながら、帝位と帝政を維持した昭和帝と戦後帝政である。その基盤の上に成り立っている、自称「立憲君主・民主制」など、ウソの上にウソを塗り固めた体制でしかないだろう。
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2020年02月18日

多摩方言公用語化運動

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ケン先生は調布生まれ調布育ちなので、少し多摩方言も使えます。~じゃん、~さぁ、などなど。
女性の前で多摩弁でしゃべり始めたら、「イメージ変わるから止めて!」と言われたことも(笑)

多摩弁使わない市会議員なんか要らねぇんじゃね?
今は自由の身だからさぁ、多摩方言公用語化運動を推進する政治家を応援したいじゃん!!


地元では、新選組の近藤勇(上石原村、宮川一族)は多摩方言が抜けず、武家言葉を上手く使えずに苦労したという話が伝えられている。
松平中将(会津)に拝謁する前の晩などは、夜遅くまで一人で口上の練習を繰り返していたという。
これに対して副長の土方歳三は、江戸で様々な職業を転々としていたこともあって、非常に器用で、江戸の下町言葉も武家言葉も難なく普通に使い分けていた。
鳥羽伏見の戦いの五日目の話らしい。
旧幕軍が全軍潰走する中、大坂の入口に当たる山崎の陣に最後まで踏みとどまる兵糧方の坂本柳佐が、後退中の土方と交わした会話である。

「(土方)どうも君たち、ここで兵糧を弄っていたところが否(い)かんじゃないか。もう小橋も破れてしまって、味方が居らんくらいの話である」

「(坂本)いや、しかし松平豊前守とも約束して、この地を我が死する処と覚悟したから一歩も動かないつもりだ」

「(土方)なに、もはやその松平は八幡の方へ引き揚げた」
(『史談会速記録』)


面白いのは、この当時は身分を超越した新しい一人称、二人称である「君と僕」が大流行しており、長州藩士も幕臣も「それがし・余、その方」から転向していたことである。
以下、徳川慶喜が大坂城から単身江戸に引き揚げ、要は放置された2万人の旧幕軍の一人だった福地桜痴の回顧。
夜半に及び、松平太郎(組頭)は戎服に容を改めて来たり、余輩一同が悠然として落ちつきたるを見て余と西に向かいて、君たちは何で落ちついて居るか(と親指を出して)、

「もう疾(と)うにお立ち退きになりましたぞ、早く落ちる用意をしたまえ」

と告げたり。西はこの語を聞きて怪しめる色をなしたるに、余は早く語を発して、

「太郎殿そんな不吉な戯言は仰せられぬものでござる」

と一本やり込めて見たれば、松平は

「どっちが戯言だ。嘘と思うなら、御用部屋なり、御座の間へなり、行って見たまえ。御老若方も奉行衆も皆お供で立ち退かれたぜ。僕は今にわかに陸軍の歩兵頭に転じて、これから出陣する所だ。君たちは早く立ち退きたまえ」

と言い捨て、急ぎ役所を出で行きたり。  

『懐往事談』 福地源一郎

名家の出で歩兵組頭の松平太郎から成り上がりの土方まで、かなり多くの武士が「君と僕」で会話していたことが分かるだろう。
江戸期までの一人称・二人称は身分によって異なるため、会話そのものが既存の身分制度の上にしか成立しえなかった。「君と僕」は誰しもが対等な関係を表す画期的な人称名詞であったことを認識して欲しい。
以下、参考

山手言葉     下町言葉        多摩言葉
「行ってきます」→「行ってくるぜ(ぃ)」→「行ってくんべ」
「私も武士ですから」→「あっしも武士なんでさぁ」→「あっしも武士だんべさぁ」
「失礼したいんですが」→「帰りたいんよ」→「けぇりてべさぁ」
「あなたも来ましたか」→「おめぇも来たんけ(ぃ)」→「おめぇも来たべ(け)」
「ご署名願います」→「よ、サインしてくんな」→「あいよ、サインしてくんべ(よ)」
「先生がいらっしゃいましたよ」→「先公、来やがったな」→「先生来たべ(よ)」

逆に現代日本語、いわゆる標準語は明治期に山手言葉を基に人工的に作られた言葉だった。
その目的は、形而下的には明治政府が作った法律を日本全国に広めて従属させるためであり、形而上的には天皇のお言葉を臣民に理解させるためだった。ところが、実際には明治帝は京の公家言葉の使い手であり、江戸の山手言葉をどこまで理解できたのか、怪しいところがある。
つまり、天皇(大正帝以下)といえども「現代日本語」を学ばねばならなかったところに明治の面白さがあるとは言える。

そして、ケン先生が地域語=方言を推奨する理由もまた、反中央=反権力に依拠しているのである。
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2020年01月20日

朱舜水師を偲ぶ

上海市郊外の松江区にある方塔園の中に「朱舜水紀年堂」があると聞き、知人に案内してもらった。

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聞いたことのある人は少ないと思うが、朱舜水はいわゆる「抗清復明」運動家の一人で、一市民(非官人)の立場ながら鄭成功に従って清朝に抵抗を続け、日本の江戸幕府に復明支援を求めるべく四度来日した。
だが、希望は叶わず、60を過ぎて運動を断念、1660年に日本に亡命、水戸藩の庇護を受けることになった。
その後、江戸と水戸を行き来しながら、20年以上にわたって漢学を教授し、水戸学の基礎を築き、1682年に83歳で逝去した。
東京・本郷の東京大学農学部の敷地内(旧水戸藩邸)には今も「朱舜水先生終焉之地」の碑が残され、水戸藩主の墓がある瑞龍山には明朝式の墓が建てられた。

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上海は新しい街で、明代以前は松江の方が栄えていたとされ、朱舜水自身もすぐ隣の浙江省出身で、日本亡命前の数年間をここで暮らしたという。
方塔園は小さいながらも風光明媚な公園だったが、肝心の朱舜水紀年堂は建物はともかく、展示は雑で、コピー品ばかりで、いかにも「やっつけ仕事」な感じで残念なものだった。
まぁ、まずは「こんな人がいたんですよ」と知ってもらうところから始めているのだろうが。。。
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