2020年02月18日

多摩方言公用語化運動

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ケン先生は調布生まれ調布育ちなので、少し多摩方言も使えます。~じゃん、~さぁ、などなど。
女性の前で多摩弁でしゃべり始めたら、「イメージ変わるから止めて!」と言われたことも(笑)

多摩弁使わない市会議員なんか要らねぇんじゃね?
今は自由の身だからさぁ、多摩方言公用語化運動を推進する政治家を応援したいじゃん!!


地元では、新選組の近藤勇(上石原村、宮川一族)は多摩方言が抜けず、武家言葉を上手く使えずに苦労したという話が伝えられている。
松平中将(会津)に拝謁する前の晩などは、夜遅くまで一人で口上の練習を繰り返していたという。
これに対して副長の土方歳三は、江戸で様々な職業を転々としていたこともあって、非常に器用で、江戸の下町言葉も武家言葉も難なく普通に使い分けていた。
鳥羽伏見の戦いの五日目の話らしい。
旧幕軍が全軍潰走する中、大坂の入口に当たる山崎の陣に最後まで踏みとどまる兵糧方の坂本柳佐が、後退中の土方と交わした会話である。

「(土方)どうも君たち、ここで兵糧を弄っていたところが否(い)かんじゃないか。もう小橋も破れてしまって、味方が居らんくらいの話である」

「(坂本)いや、しかし松平豊前守とも約束して、この地を我が死する処と覚悟したから一歩も動かないつもりだ」

「(土方)なに、もはやその松平は八幡の方へ引き揚げた」
(『史談会速記録』)


面白いのは、この当時は身分を超越した新しい一人称、二人称である「君と僕」が大流行しており、長州藩士も幕臣も「それがし・余、その方」から転向していたことである。
以下、徳川慶喜が大坂城から単身江戸に引き揚げ、要は放置された2万人の旧幕軍の一人だった福地桜痴の回顧。
夜半に及び、松平太郎(組頭)は戎服に容を改めて来たり、余輩一同が悠然として落ちつきたるを見て余と西に向かいて、君たちは何で落ちついて居るか(と親指を出して)、

「もう疾(と)うにお立ち退きになりましたぞ、早く落ちる用意をしたまえ」

と告げたり。西はこの語を聞きて怪しめる色をなしたるに、余は早く語を発して、

「太郎殿そんな不吉な戯言は仰せられぬものでござる」

と一本やり込めて見たれば、松平は

「どっちが戯言だ。嘘と思うなら、御用部屋なり、御座の間へなり、行って見たまえ。御老若方も奉行衆も皆お供で立ち退かれたぜ。僕は今にわかに陸軍の歩兵頭に転じて、これから出陣する所だ。君たちは早く立ち退きたまえ」

と言い捨て、急ぎ役所を出で行きたり。  

『懐往事談』 福地源一郎

名家の出で歩兵組頭の松平太郎から成り上がりの土方まで、かなり多くの武士が「君と僕」で会話していたことが分かるだろう。
江戸期までの一人称・二人称は身分によって異なるため、会話そのものが既存の身分制度の上にしか成立しえなかった。「君と僕」は誰しもが対等な関係を表す画期的な人称名詞であったことを認識して欲しい。
以下、参考

山手言葉     下町言葉        多摩言葉
「行ってきます」→「行ってくるぜ(ぃ)」→「行ってくんべ」
「私も武士ですから」→「あっしも武士なんでさぁ」→「あっしも武士だんべさぁ」
「失礼したいんですが」→「帰りたいんよ」→「けぇりてべさぁ」
「あなたも来ましたか」→「おめぇも来たんけ(ぃ)」→「おめぇも来たべ(け)」
「ご署名願います」→「よ、サインしてくんな」→「あいよ、サインしてくんべ(よ)」
「先生がいらっしゃいましたよ」→「先公、来やがったな」→「先生来たべ(よ)」

逆に現代日本語、いわゆる標準語は明治期に山手言葉を基に人工的に作られた言葉だった。
その目的は、形而下的には明治政府が作った法律を日本全国に広めて従属させるためであり、形而上的には天皇のお言葉を臣民に理解させるためだった。ところが、実際には明治帝は京の公家言葉の使い手であり、江戸の山手言葉をどこまで理解できたのか、怪しいところがある。
つまり、天皇(大正帝以下)といえども「現代日本語」を学ばねばならなかったところに明治の面白さがあるとは言える。

そして、ケン先生が地域語=方言を推奨する理由もまた、反中央=反権力に依拠しているのである。
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2020年01月20日

朱舜水師を偲ぶ

上海市郊外の松江区にある方塔園の中に「朱舜水紀年堂」があると聞き、知人に案内してもらった。

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聞いたことのある人は少ないと思うが、朱舜水はいわゆる「抗清復明」運動家の一人で、一市民(非官人)の立場ながら鄭成功に従って清朝に抵抗を続け、日本の江戸幕府に復明支援を求めるべく四度来日した。
だが、希望は叶わず、60を過ぎて運動を断念、1660年に日本に亡命、水戸藩の庇護を受けることになった。
その後、江戸と水戸を行き来しながら、20年以上にわたって漢学を教授し、水戸学の基礎を築き、1682年に83歳で逝去した。
東京・本郷の東京大学農学部の敷地内(旧水戸藩邸)には今も「朱舜水先生終焉之地」の碑が残され、水戸藩主の墓がある瑞龍山には明朝式の墓が建てられた。

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上海は新しい街で、明代以前は松江の方が栄えていたとされ、朱舜水自身もすぐ隣の浙江省出身で、日本亡命前の数年間をここで暮らしたという。
方塔園は小さいながらも風光明媚な公園だったが、肝心の朱舜水紀年堂は建物はともかく、展示は雑で、コピー品ばかりで、いかにも「やっつけ仕事」な感じで残念なものだった。
まぁ、まずは「こんな人がいたんですよ」と知ってもらうところから始めているのだろうが。。。
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2020年01月10日

ゴーン問題の根は明治帝政から〜蟹工船英訳者の場合

堀邦雄「英訳された『蟹工船』」などによると、

旧制一高の英語教師だったW・ビカートンは、1933年に小林多喜二『蟹工船』を英訳、米英で出版した後、1934年3月に特高に逮捕される。その容疑は、日本共産党に対する資金援助(カンパ)と同党文書の英訳・宣伝などの協力を行った旨の治安維持法違反だった。
ビカートンは、拘置所の中で、日本人党員よりはマシなものの、欧米基準では非人道的な接遇と暴力を受けた。一か月の拘留後、英領事館の奔走によって保釈金200円(当時の小学校教員の月給は40〜60円)が納められ、保釈。そのまま英当局の手引きで国外に脱出し、イギリスに帰国したという。帰国したビカートンは、英紙に日本当局による拷問の数々を発表(“Third Degree in Japan”)、英国内で一大センセーションを引き起こした。
なお、ビカートンは党へのカンパやソ連、欧州への渡航などについては供述したものの、他の党員が不利になるようなことは一切言わなかったという。

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要は明治帝政の本質は、GHQ改革=通称「民主化」を経ても大きくは変化しなかったのである。
NK党は改めてビカートンを表彰した上で、戦後帝政に対する積極的闘争を再開すべきであろう。

ゴーンは労働者から収奪したカネをもってPMCを雇って、日本の暗黒司法からの離脱を図ったが、ビカートンはコミンテルンやその協力者の支援(当時は米英ともに共産党の力が強く、政府内にも協力者がいた)を得て脱出することができた。この違いは、21世紀のさらなる暗黒を示唆しているのかもしれない。
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2019年12月13日

合法野党が摘発される日

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写真は信州戦争資料センターさんより

1937年7月盧溝橋事件、同年12月人民戦線事件にて「合法左翼」一斉摘発。何のための合法だったのか、サッパリわからない。帝政とはそういうもの。
いまでも南シナ海や東シナ海で戦争が勃発すれば、現在の「合法野党」にも「鉄槌」が下されることだろう。

ケン先生はそれに備えた拠点作りをしています。

人民戦線事件で父君が逮捕された古老の話によると、「盧溝橋事件や上海事変の時点で、日中が全面戦争になると考えた者は殆どいなかったし、ましてそれが大弾圧の引き金になるとは誰も思わなかった」とのこと。歴史の流れとはそういうもの。生き残りたければ、「まさか今の日本で〜」などと考えないことだ。

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2019年09月07日

佐賀豪雨から学ぶこと

【<佐賀豪雨>水はけ悪くなる「内水氾濫」 「低平地」リスクも影響 有明海に面した平野部で深刻な浸水被害】
 28日未明から佐賀県内を襲った記録的な大雨は、干満差が大きい有明海に面した平野部で深刻な浸水被害を引き起こした。勾配が緩くて「低平地」と呼ばれる佐賀平野や白石平野は、地形的に大雨になった場合の水害のリスクが高い。雨のピークが早朝の満潮時と重なって水はけが一層悪くなり、河川や水路の水があふれる状況が続いた。
 有明海の満潮時は、海面が陸上の低平地よりも高くなり、潮が満ちるにつれて六角川などは上流へ逆流する。川の水位が一定の高さを超えると、支流との合流部の水門を閉めて水が流れ込むのを防ぐ。そのため、堤防の内側の中小河川や用水路などは水がたまりやすい状態となる。
 河川の水が堤防からあふれたり決壊したりして生じるのが「外水氾濫」であるのに対し、平野部の水がはけなくなって起きるのは「内水氾濫」と呼ばれる。今回の雨により低平地は一部で堤防の越水はあったが、内水氾濫が中心だった。
 国土交通省武雄河川事務所は、浸水が生じやすい地域性や雨の降り方、潮汐の状況などを挙げ、「複合的な要因が重なって被害が拡大したとみられる」と指摘する。
 低平地に詳しい大串浩一郎佐賀大学教授(河川工学)は「観測史上最大となる記録的な雨が降り、満潮とも重なったために広範囲にわたって深刻な被害が生じた。堤防の復旧や点検を急ぐとともに、今後の雨に注意して自ら身を守る意識を持つ必要がある」と話す。
(8月29日、佐賀新聞)

以前のログとかぶる点も多いが、記しておきたい。

内水氾濫は人為的要因が大きい。
水害は人災でもある。近年水害の被害が大きくなっているのは都市化に起因している。都市部の住宅化と舗装化が進んだことで地表の吸水力が極端に低下、雨水が全て下水管に流れて容量オーバーを起こし、排水溝やマンホールから水が溢れ出て洪水が起きるという現象になっているためだ。遠因としては、遊水地や貯水池・調整池を埋め立てて居住区画にしたことで都市部の保水力がゼロ近くなっていることが挙げられる。
私の実家から近い多摩川住宅などは、多摩川の遊水池を埋め立てて団地をつくっている。

また、河川整備で大河の直線化が進んだことも、都市部への雨水の加速集中を促進している。さらに、80年代あるいは90年代以降に設置された下水管はコスト削減のため規格が小さくなっており、容量オーバーが起こりやすくなっているという指摘もある。この話も福島原発と同じで、「100年に一度の大雨を想定するのは合理的ではない」との理由で大型規格を却下した経緯がある。

古来、治水とは統治者の義務であり、「統治=治水」と言っても過言では無かった。
かの後白河帝は「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」とこぼしたと言われているが、天皇の権力をもってすら賀茂河の治水すらままならないのが、日本の技術水準だった。日本最大の平地である関東平野の特に下流域が長いこと未開地であったのは、利根川と多摩川を治める手段がなかったためだった。

翻って中国を見ると、戦国期の秦の時代(まさにキングダムの)にすでに鄭国渠(120kmからの灌漑水路)がつくられている。隋期につくられた京杭大運河などは1400年経た現在でも現役バリバリである。
日本でも、武田信玄や加藤清正は家が滅亡してなお名君と崇められているが、治水名人であったことが大きい。清正はむしろ「治水名人だから」肥後を任されたと言われる。

古代中国では、王朝末期には災害が頻発し、統治力を失って、治安が悪化、革命に至るわけだが、統治度の指標の一つが治水だった。
蒋介石などは、今もって黄河の堤防を決壊させたことをもって悪魔扱いされている。
日本でもここ数年水害が頻発しているが、統治度の低下を表すものとして見ておく必要がある。
posted by ケン at 12:00| Comment(2) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月26日

天皇の戦争責任とは何か

【昭和天皇、戦争を悔い退位に言及 改憲再軍備も主張、長官の拝謁記】
 昭和天皇が戦後、戦争への後悔や退位の可能性に繰り返し言及していたことが、19日公開された初代宮内庁長官の故田島道治による昭和天皇との詳細なやりとりを記した資料から明らかになった。戦前の軍隊を否定しつつ改憲による再軍備の必要性にも触れた政治的発言を、田島がいさめた様子が残されていた。資料は手帳やノート計18冊。田島は「拝謁記」と題していた。
 拝謁記には、軍部が暴走した張作霖爆殺事件(1928年)や、青年将校による二・二六事件(36年)、太平洋戦争などに関する昭和天皇の回想が登場する。
(8月19日、共同通信)

残念なことに貴重な歴史資料である「拝謁記」は準国営報道機関であるNHKの手に落ちてしまい、今後全文が公開されるのか分からない状態にある。その報道も都合の良いところをつまみ食いした形になっており、にわかには信じられない内容になっている。

その主旨の一つは「昭和帝は反省していた」というものだが、何について反省し、誰に対して表明しようとしていたのかについては明確では無い。そして、「天皇が謝罪すると、天皇に責任があったことになってしまうから、公式謝罪はダメだ」という結論になっている。
果たしてこれは美談なのだろうか。そんなわけは無いだろう。

過去ログを引用しながら考えてみたい。
近代の絶対王政は、国王が一身に国防の義務を担い、それを果たすために軍事権や外交権の占有が認められている。
しかし、国王が軍事権と外交権を専横するとなると、あっという間に財政が破綻してしまい、税を搾り取られるブルジョワジーが保たないという話になり、「まずは課税権だけでも制限して、新規課税は議会を通してもらおう」として誕生したのが近代議会だった。
その議会が上手く機能せず(あるいは気に入らないからと)、弾圧しようとして勃発してしまったのが清教徒革命であり、フランス革命だった。
大日本帝国軍のあり方を見てみよう。大日本帝国憲法の記載はシンプルだった。
天皇は、陸海軍を統帥する。(第11条)

日本臣民は、法律の定めるところに従い、兵役の義務を有する。(第20条)

ここから分かるのは、天皇が唯一の統率権(軍事大権)を有することと、主権を持たない臣民が兵役義務を負っていた点だけであり、軍隊が誰のために何を目的として設置されているのか分からない。ところが、明治帝政においては、現代日本の「自衛隊法」やロシアの「国防法」のような根拠法や基本法が存在しないため、法律に根拠を求めるのも難しい。そこで傍証的に、まず軍人勅諭を見ることにしたい。原文は長文の上、旧字体ばかりで文字化けするので、現代文で抜粋代用する。
朕は汝ら軍人の大元帥である。朕は汝らを手足と頼み、汝らは朕を頭首とも仰いで、その関係は特に深くなくてはならぬ。朕が国家を保護し、天の恵みに応じ祖先の恩に報いることができるのも、汝ら軍人が職分を尽くすか否かによる。国の威信にかげりがあれば、汝らは朕と憂いを共にせよ。わが武威が発揚し栄光に輝くなら、朕と汝らは誉れをともにすべし。汝らがみな職分を守り、朕と心を一つにし、国家の防衛に力を尽くすなら、我が国の民は永く太平を享受し、我が国の威信は大いに世界に輝くであろう。

ここから分かるのは、天皇は唯一の国家守護者であり、軍隊は天皇の守護責任を補佐するための道具であるという考え方だ。その前の文では、長期にわたって武家に預けていた(奪われていた)軍事権が天皇に帰したことを受けて(明治維新)、二度と軍事権が他者に渡らないようにするという誓いが立てられている。
これは近代絶対王政の考え方で、王権神授説に基づき天皇が統治権と軍事権を占有するとともに、国防の責務を負うというもので、臣民は天賦の軍事権を占有する国王の責務を全うする道具として兵役徴集されることになる。言うなれば、「人民のものは王のもの、王のものは王のもの」というジャイアニスムである。
ただし、軍人勅諭は西南戦争後の近衛兵の反乱を受けて、軍を戒めて統率を厳にすることを目的につくられた経緯があり、天皇個人への忠誠が強調されていることは否めない。だが、他に軍の存在意義を規定する法律が存在しないために、軍人勅諭の内容がデフォルトになってしまったことも確かだ。例えば、明治5年の徴兵令には、「四民平等を実現するために全国で募兵した陸海軍を作ることになった」旨が書かれており、フランスやオランダ寄りの民主的要素をわずかに感じ取ることが出来る。

話を整理すると、明治帝政下では、無答責(責任を問われない、憲法第3条)の天皇が国防の義務を有しつつ、軍事大権を占有、帝国臣民は天皇が負っている義務を全うするために奉仕すべく義務兵役が課されていた。つまり、天皇=国家であり、臣民はこれに奉仕する道具に過ぎず、帝国軍は天皇の私軍であると同時に国軍という位置づけだった。例えば、日露戦層の開戦詔書には、
朕茲に露国に対して戦を宣す。朕か陸海軍は宜く全力を極めて露国と交戦の事に従ふへく朕か百僚有司は宜く各々其の職務に率ひ其の権能に応して国家の目的を達するに努力すへし。

とあるが、要は「朕(天皇)はロシアに宣戦布告したから、朕の陸海軍は国家目的を達成するよう全霊努力せよ」ということである。第二次世界大戦も同様で、天皇の名において宣戦布告し、天皇のプライベート・アーミーが全アジアを廃墟と絶望の淵へと追いやったわけだが、天皇が戦争責任に問われることはなかった。そして、休戦条件として軍の武装解除が、天皇免責の代償として軍事権の放棄がなされたはずだったにもかかわらず、国際情勢の変化を受けてわずか数年で「自衛隊」という形で復活するに至った。

以上で重要なことは、大日本帝国憲法は西欧の絶対王政に倣って天皇に軍事権と外交権を帰属させた。これは欧州の法律解釈に倣えば、天皇が国防義務を担い、それを果たすために軍事権と外交権を有するということになる。だが、実際の運用については輔翼者の助言の下に駆使するとされ、外交権については外務大臣、軍事権については参謀総長などが輔翼者となった。そのため、天皇は最終責任を負わず、輔翼者は天皇に対して責任を負う立て付けとなった。
ここで重要なのは、輔翼者の責任はあくまでも助言者としての責務であり、国防の義務自体は天皇にあるということである。
敢えて補足しておくが、戦前の法体系において国防の義務は天皇にあって、臣民は義務を担っておらず、天皇が果たすべき義務に対して忠実に従うことのみが求められた。それが特攻のような自殺攻撃の根拠となっていく。

古来、中国でも欧州でも、王が国防の義務を果たせない時は王権が瓦解し、別の者が義務を担うところとなった。
日本の場合、長いこと天皇から軍事権を委託された征夷大将軍が国防と国内治安を担い、それに失敗すると「政権交代」が起きて、他家に軍事権が委譲されるという制度にあった。
幕末に起きたのは、「確かに軍事権は徳川家に委託したものの、外交権まで渡した覚えは無い」という問題で、これが鎖国・開国問題の発端となり、「徳川家に国防は任せられない」となって、勤王・討幕運動に発展していった。最終的には、第二次長州戦争の失敗によって徳川幕府に国内治安を維持する力が無いことが示されたことで、幕府権力の正当性が失われたと見て良い。

戊辰政変によって徳川家は軍事権を返還(大政奉還)、朝廷は軍事権を他者に委託するのを止め、天皇自らが軍事権を行使する制度が発足した。明治帝政である。この時点で、国防の責務は天皇が一身に負うところとなったが、その実際の運用は輔翼者が行い、天皇に対して責任を負い、天皇は責任を負わない(帝国憲法第3条)というのが、明治帝政の法解釈だった。とはいえ、この無答責は国防の責務を負わないことを意味するのでは無く、「輔翼者の失敗の責任について天皇が負うものではない」と解釈するのが妥当だろう。

1945年の敗戦は、昭和天皇が国防義務を果たせず失敗し、300万人以上の臣民を殺害した挙げ句、全植民地の統治権と沖縄等の行政権を失うという結果に終わった。
明治憲法の原理に基づけば、国防に失敗したのはまず輔翼者の責任であり、特に軍部(参謀総長と陸海軍大臣)と外務省(外務大臣)が天皇に対して責任を取らなければならない。ここで重要なのは、「天皇に対して責任を取れば良い」ということであって、臣民・国民・市民は謝罪の対象とはならないということだ。さらに天皇は無答責であるため、敗戦をもたらし、国防義務を果たせなかった輔翼者を任命した責任が問われることは無い。さらに言えば、輔翼者を処罰する法制は存在しない。
そのため明治法制下では、失政の責任を問うシステムが存在せず、日本市民が革命を起こすか、外国勢力による処断を待つことしかできなかった。
連合軍司令部(GHQ)は、日本で共産革命を起こさせないために、同時に休戦条件(ポツダム宣言)を履行するために、敗戦の責任者を自ら処罰するという選択を行う。根源的には、日本政府あるいは国民が自ら処断すべきだったが、明治日本にはその仕組みも概念も無かったため、放置することはできなかっただろう。
そして、アメリカの占領政策の基本的な考え方は、「軍部に戦争の全責任を負わし、天皇制と明治官僚は傀儡として残して、対ソ戦の前進基地となす」というものだった。実際、日本側の強い抵抗と人身御供の精神もあって、極東軍事裁判は軍部を中心にごく一部の「戦犯」が処断されたのみに終わり、民主化の担保となるはずだった公職追放も、講和条約の締結=冷戦勃発の中で解除され、敗戦の責任追及は不完全に終わった。

少し話を戻そう。
明治帝政下では、天皇は、原理的に国防の義務を一身に負っている。そして、その義務を果たすために軍事権と外交権を占有している。
ところが、明治以降、日本が行った戦争あるいは武力行使のうち、明らかに「国防上不可欠」というものは何一つ無かった。日清戦争は朝鮮半島の利権を清国から奪うため、日露戦争は朝鮮と満州の利権を巡るもの、シベリア干渉戦争に至っては沿海州に傀儡政権を打ち立てるためのものだった。日華事変・日中戦争に至っては、誰も何のための戦争か説明できず、太平洋戦争は「半年後に石油が無くなってしまうから、先に叩こう」として始めた戦争だった。
これらの戦争も勝利しているうちは、国防の義務が果たされているとして強弁できるが、敗戦して国土が灰燼に帰し、あまつさえ外国軍によって占領されるとなれば、事情は違ってくる。だが、日本では思想原理が全く未熟だったことも災いし、国防義務を果たさなかったことに対する責任追及の声は高まらず、天皇制がそのまま継続するところとなった。世界史上の奇跡である。
欧州型の政治制度では、王権(行政府)による軍事権と外交権の濫用を防ぐために議会が設置され、監督することになっているが、日本では議会にそうした権限は与えられず(従って情報も提供されない)、むしろ議会がこぞって侵略戦争を支持する構図になってしまったことも不幸だった。これは、制度の原理や意味を考えずに形式だけ真似たことにも起因しており、その弊害は現代にまで及んでいる。

近代共和制は、王が有していた国防の義務は市民が受け持ち、その義務を果たすために全ての市民は国防の義務を負う、同時に全ての市民は主権者である、という原理の上に成り立っている。
戦後日本は、国防の義務を実質的に放棄して国連に丸投げするという画期的すぎる憲法をつくった。これ自体は、天皇の免責を得るために軍そのものを廃止せざるを得なかった日本側の事情も大きく影響している。だからこそ当時は左右ともに憲法を支持して、むしろ共産党が安全保障上の理由と天皇制存続に反対するという、状況が見られたのである。
ところが、冷戦の激化に伴い、アメリカの要請もあって、日本政府は「軍事力では無い実力組織」を再建してしまう。これ自体は、当時の国際情勢と政治情勢を反映したものだったが、戦後憲法制定時に国防の義務を放棄してしまったため、「誰が国防の義務を負うのか」という議論の無いまま、実質的な再軍備が進められてしまった。
現在のところ、自衛隊の最高指揮官は内閣総理大臣で、実質的に統括するのは防衛大臣であるわけだが、恐ろしいことに憲法でも法律でも国防の義務を負っていない。例えば、自衛隊法を見ると、
自衛隊は、我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対し我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする。
(自衛隊法第三条)

とあり、任務=職務は書かれているが、国防の義務には触れていない(同時に市民は防衛の対象になっていない)。防衛省設置法も同様だ。
これは法理上どうにもならないことで、日本国憲法第9条で軍事権を放棄してしまった以上、天皇にも国民にも国防の義務を課すことはできなくなっているためだ。
その結果、「自衛隊は憲法9条が否定する軍事力では無い」という解釈改憲論に立脚して、法律上の職務として「防衛省と自衛隊は国防を担う」とする他なくなっている。「誰にも義務もないし、責任も問われないけど、法律上の職務である」というのが、現代日本の国防の立脚点になってしまっている。

現在のところ、自民党を中心に憲法改正の主張が高まっているものの、仮に「自衛隊は憲法9条二項に違背しない」旨を書き加えてみたところで、「国防の義務と責任は誰が負うのか(天皇か国民か)」という大命題は残り続けることになる。そして、それは明治帝政下にあって、国防の義務を負いながら一切果たすことができないまま、国土を灰燼に帰した昭和帝が、そのまま責任を取らずに帝位を保ち続けたことの延長上に存在する。
仮に憲法を改正して、国民に国防の義務を課そうとした場合、「俺らに義務を課す前にまず天皇に責任を取らせてからにしろ!」とならざるを得ないからだ。
にもかかわらず、国連は機能不全、米軍の撤退は時間の問題、中露韓台とは領土紛争を抱えているという日本の安全保障環境は危機的状況にある。
やはり明治帝政はもはや詰んでいるとしか思えない。

【参考】
軍隊のあり方について続・日本軍の場合
軍隊のあり方についてB〜近代国民軍の成立
posted by ケン at 12:00| Comment(9) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月22日

本邦初公開?!曾祖父の卒業証書

母が部屋を整理していたら、古い書類筒が出てきて開けてみたら「お宝」が出てきた。
曾祖父の卒業証書である。
もともと祖父が使っていた部屋なので、そういうことなのだろう。
せっかくの機会なので、まずは画像にして公開したい。

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まずは旧制四高(金沢)である。
旧制高校は現在の大学教養課程に当たる。明治28年は1895年なので、日清戦争の時代だ。
曾祖父は出身が淡路なので、最初三高(京都)に入ったが、肌に合わず(スノッブなのが嫌だったとか)、色々無理を言って四高に移ったらしい。
四高はもともと加賀藩の藩校で、場所も金沢城、兼六園のすぐ横という素晴らしい場所にある。
著名な卒業生には、現総理の祖父や正力松太郎、あるいは中野重治、井上靖、西田幾多郎らがいる。

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そして、東京帝国大学文学部史学科へ。明治31年は1898年、この二年後に北京京師大学堂の招聘を受け、清国に渡る。
この当時、文学部史学科には一学年2〜3人程度しかいなかったという。やはり圧倒的人気は法学部と理工系だったようだ。
学問ごとに担当教授の署名入りというところが凄いし、外国語も英語、ドイツ語、ラテン語というラインナップ。外国語が他の学問と同列に扱われているところが、時代を感じさせる。外国語教員としては「できて当たり前」「学問ではなく技術」の現代は色々辛いものがある。

曾祖父は淡路出身者として初めて東大を卒業したということで、島に帰った際には提灯行列が行われたという。
もっとも彼自身は島に大した思い入れはなかったようで、それどころかその目は常に世界、主にアジア、インド、ペルシアに向いていた。
その後、さらに独学で中国語、ウルドゥー語、ペルシア語、アラビア語などを学び、重訳かつ抄訳ではあるが、日本で初めてコーランを翻訳している。その著作も、日本の風俗史や児童書から諸外国の歴史書まで、あまりに多岐に渡り、才人過ぎて何をやっている人なのか分からない有様になっている。
posted by ケン at 12:00| Comment(3) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする