2019年09月07日

佐賀豪雨から学ぶこと

【<佐賀豪雨>水はけ悪くなる「内水氾濫」 「低平地」リスクも影響 有明海に面した平野部で深刻な浸水被害】
 28日未明から佐賀県内を襲った記録的な大雨は、干満差が大きい有明海に面した平野部で深刻な浸水被害を引き起こした。勾配が緩くて「低平地」と呼ばれる佐賀平野や白石平野は、地形的に大雨になった場合の水害のリスクが高い。雨のピークが早朝の満潮時と重なって水はけが一層悪くなり、河川や水路の水があふれる状況が続いた。
 有明海の満潮時は、海面が陸上の低平地よりも高くなり、潮が満ちるにつれて六角川などは上流へ逆流する。川の水位が一定の高さを超えると、支流との合流部の水門を閉めて水が流れ込むのを防ぐ。そのため、堤防の内側の中小河川や用水路などは水がたまりやすい状態となる。
 河川の水が堤防からあふれたり決壊したりして生じるのが「外水氾濫」であるのに対し、平野部の水がはけなくなって起きるのは「内水氾濫」と呼ばれる。今回の雨により低平地は一部で堤防の越水はあったが、内水氾濫が中心だった。
 国土交通省武雄河川事務所は、浸水が生じやすい地域性や雨の降り方、潮汐の状況などを挙げ、「複合的な要因が重なって被害が拡大したとみられる」と指摘する。
 低平地に詳しい大串浩一郎佐賀大学教授(河川工学)は「観測史上最大となる記録的な雨が降り、満潮とも重なったために広範囲にわたって深刻な被害が生じた。堤防の復旧や点検を急ぐとともに、今後の雨に注意して自ら身を守る意識を持つ必要がある」と話す。
(8月29日、佐賀新聞)

以前のログとかぶる点も多いが、記しておきたい。

内水氾濫は人為的要因が大きい。
水害は人災でもある。近年水害の被害が大きくなっているのは都市化に起因している。都市部の住宅化と舗装化が進んだことで地表の吸水力が極端に低下、雨水が全て下水管に流れて容量オーバーを起こし、排水溝やマンホールから水が溢れ出て洪水が起きるという現象になっているためだ。遠因としては、遊水地や貯水池・調整池を埋め立てて居住区画にしたことで都市部の保水力がゼロ近くなっていることが挙げられる。
私の実家から近い多摩川住宅などは、多摩川の遊水池を埋め立てて団地をつくっている。

また、河川整備で大河の直線化が進んだことも、都市部への雨水の加速集中を促進している。さらに、80年代あるいは90年代以降に設置された下水管はコスト削減のため規格が小さくなっており、容量オーバーが起こりやすくなっているという指摘もある。この話も福島原発と同じで、「100年に一度の大雨を想定するのは合理的ではない」との理由で大型規格を却下した経緯がある。

古来、治水とは統治者の義務であり、「統治=治水」と言っても過言では無かった。
かの後白河帝は「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」とこぼしたと言われているが、天皇の権力をもってすら賀茂河の治水すらままならないのが、日本の技術水準だった。日本最大の平地である関東平野の特に下流域が長いこと未開地であったのは、利根川と多摩川を治める手段がなかったためだった。

翻って中国を見ると、戦国期の秦の時代(まさにキングダムの)にすでに鄭国渠(120kmからの灌漑水路)がつくられている。隋期につくられた京杭大運河などは1400年経た現在でも現役バリバリである。
日本でも、武田信玄や加藤清正は家が滅亡してなお名君と崇められているが、治水名人であったことが大きい。清正はむしろ「治水名人だから」肥後を任されたと言われる。

古代中国では、王朝末期には災害が頻発し、統治力を失って、治安が悪化、革命に至るわけだが、統治度の指標の一つが治水だった。
蒋介石などは、今もって黄河の堤防を決壊させたことをもって悪魔扱いされている。
日本でもここ数年水害が頻発しているが、統治度の低下を表すものとして見ておく必要がある。
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2019年08月26日

天皇の戦争責任とは何か

【昭和天皇、戦争を悔い退位に言及 改憲再軍備も主張、長官の拝謁記】
 昭和天皇が戦後、戦争への後悔や退位の可能性に繰り返し言及していたことが、19日公開された初代宮内庁長官の故田島道治による昭和天皇との詳細なやりとりを記した資料から明らかになった。戦前の軍隊を否定しつつ改憲による再軍備の必要性にも触れた政治的発言を、田島がいさめた様子が残されていた。資料は手帳やノート計18冊。田島は「拝謁記」と題していた。
 拝謁記には、軍部が暴走した張作霖爆殺事件(1928年)や、青年将校による二・二六事件(36年)、太平洋戦争などに関する昭和天皇の回想が登場する。
(8月19日、共同通信)

残念なことに貴重な歴史資料である「拝謁記」は準国営報道機関であるNHKの手に落ちてしまい、今後全文が公開されるのか分からない状態にある。その報道も都合の良いところをつまみ食いした形になっており、にわかには信じられない内容になっている。

その主旨の一つは「昭和帝は反省していた」というものだが、何について反省し、誰に対して表明しようとしていたのかについては明確では無い。そして、「天皇が謝罪すると、天皇に責任があったことになってしまうから、公式謝罪はダメだ」という結論になっている。
果たしてこれは美談なのだろうか。そんなわけは無いだろう。

過去ログを引用しながら考えてみたい。
近代の絶対王政は、国王が一身に国防の義務を担い、それを果たすために軍事権や外交権の占有が認められている。
しかし、国王が軍事権と外交権を専横するとなると、あっという間に財政が破綻してしまい、税を搾り取られるブルジョワジーが保たないという話になり、「まずは課税権だけでも制限して、新規課税は議会を通してもらおう」として誕生したのが近代議会だった。
その議会が上手く機能せず(あるいは気に入らないからと)、弾圧しようとして勃発してしまったのが清教徒革命であり、フランス革命だった。
大日本帝国軍のあり方を見てみよう。大日本帝国憲法の記載はシンプルだった。
天皇は、陸海軍を統帥する。(第11条)

日本臣民は、法律の定めるところに従い、兵役の義務を有する。(第20条)

ここから分かるのは、天皇が唯一の統率権(軍事大権)を有することと、主権を持たない臣民が兵役義務を負っていた点だけであり、軍隊が誰のために何を目的として設置されているのか分からない。ところが、明治帝政においては、現代日本の「自衛隊法」やロシアの「国防法」のような根拠法や基本法が存在しないため、法律に根拠を求めるのも難しい。そこで傍証的に、まず軍人勅諭を見ることにしたい。原文は長文の上、旧字体ばかりで文字化けするので、現代文で抜粋代用する。
朕は汝ら軍人の大元帥である。朕は汝らを手足と頼み、汝らは朕を頭首とも仰いで、その関係は特に深くなくてはならぬ。朕が国家を保護し、天の恵みに応じ祖先の恩に報いることができるのも、汝ら軍人が職分を尽くすか否かによる。国の威信にかげりがあれば、汝らは朕と憂いを共にせよ。わが武威が発揚し栄光に輝くなら、朕と汝らは誉れをともにすべし。汝らがみな職分を守り、朕と心を一つにし、国家の防衛に力を尽くすなら、我が国の民は永く太平を享受し、我が国の威信は大いに世界に輝くであろう。

ここから分かるのは、天皇は唯一の国家守護者であり、軍隊は天皇の守護責任を補佐するための道具であるという考え方だ。その前の文では、長期にわたって武家に預けていた(奪われていた)軍事権が天皇に帰したことを受けて(明治維新)、二度と軍事権が他者に渡らないようにするという誓いが立てられている。
これは近代絶対王政の考え方で、王権神授説に基づき天皇が統治権と軍事権を占有するとともに、国防の責務を負うというもので、臣民は天賦の軍事権を占有する国王の責務を全うする道具として兵役徴集されることになる。言うなれば、「人民のものは王のもの、王のものは王のもの」というジャイアニスムである。
ただし、軍人勅諭は西南戦争後の近衛兵の反乱を受けて、軍を戒めて統率を厳にすることを目的につくられた経緯があり、天皇個人への忠誠が強調されていることは否めない。だが、他に軍の存在意義を規定する法律が存在しないために、軍人勅諭の内容がデフォルトになってしまったことも確かだ。例えば、明治5年の徴兵令には、「四民平等を実現するために全国で募兵した陸海軍を作ることになった」旨が書かれており、フランスやオランダ寄りの民主的要素をわずかに感じ取ることが出来る。

話を整理すると、明治帝政下では、無答責(責任を問われない、憲法第3条)の天皇が国防の義務を有しつつ、軍事大権を占有、帝国臣民は天皇が負っている義務を全うするために奉仕すべく義務兵役が課されていた。つまり、天皇=国家であり、臣民はこれに奉仕する道具に過ぎず、帝国軍は天皇の私軍であると同時に国軍という位置づけだった。例えば、日露戦層の開戦詔書には、
朕茲に露国に対して戦を宣す。朕か陸海軍は宜く全力を極めて露国と交戦の事に従ふへく朕か百僚有司は宜く各々其の職務に率ひ其の権能に応して国家の目的を達するに努力すへし。

とあるが、要は「朕(天皇)はロシアに宣戦布告したから、朕の陸海軍は国家目的を達成するよう全霊努力せよ」ということである。第二次世界大戦も同様で、天皇の名において宣戦布告し、天皇のプライベート・アーミーが全アジアを廃墟と絶望の淵へと追いやったわけだが、天皇が戦争責任に問われることはなかった。そして、休戦条件として軍の武装解除が、天皇免責の代償として軍事権の放棄がなされたはずだったにもかかわらず、国際情勢の変化を受けてわずか数年で「自衛隊」という形で復活するに至った。

以上で重要なことは、大日本帝国憲法は西欧の絶対王政に倣って天皇に軍事権と外交権を帰属させた。これは欧州の法律解釈に倣えば、天皇が国防義務を担い、それを果たすために軍事権と外交権を有するということになる。だが、実際の運用については輔翼者の助言の下に駆使するとされ、外交権については外務大臣、軍事権については参謀総長などが輔翼者となった。そのため、天皇は最終責任を負わず、輔翼者は天皇に対して責任を負う立て付けとなった。
ここで重要なのは、輔翼者の責任はあくまでも助言者としての責務であり、国防の義務自体は天皇にあるということである。
敢えて補足しておくが、戦前の法体系において国防の義務は天皇にあって、臣民は義務を担っておらず、天皇が果たすべき義務に対して忠実に従うことのみが求められた。それが特攻のような自殺攻撃の根拠となっていく。

古来、中国でも欧州でも、王が国防の義務を果たせない時は王権が瓦解し、別の者が義務を担うところとなった。
日本の場合、長いこと天皇から軍事権を委託された征夷大将軍が国防と国内治安を担い、それに失敗すると「政権交代」が起きて、他家に軍事権が委譲されるという制度にあった。
幕末に起きたのは、「確かに軍事権は徳川家に委託したものの、外交権まで渡した覚えは無い」という問題で、これが鎖国・開国問題の発端となり、「徳川家に国防は任せられない」となって、勤王・討幕運動に発展していった。最終的には、第二次長州戦争の失敗によって徳川幕府に国内治安を維持する力が無いことが示されたことで、幕府権力の正当性が失われたと見て良い。

戊辰政変によって徳川家は軍事権を返還(大政奉還)、朝廷は軍事権を他者に委託するのを止め、天皇自らが軍事権を行使する制度が発足した。明治帝政である。この時点で、国防の責務は天皇が一身に負うところとなったが、その実際の運用は輔翼者が行い、天皇に対して責任を負い、天皇は責任を負わない(帝国憲法第3条)というのが、明治帝政の法解釈だった。とはいえ、この無答責は国防の責務を負わないことを意味するのでは無く、「輔翼者の失敗の責任について天皇が負うものではない」と解釈するのが妥当だろう。

1945年の敗戦は、昭和天皇が国防義務を果たせず失敗し、300万人以上の臣民を殺害した挙げ句、全植民地の統治権と沖縄等の行政権を失うという結果に終わった。
明治憲法の原理に基づけば、国防に失敗したのはまず輔翼者の責任であり、特に軍部(参謀総長と陸海軍大臣)と外務省(外務大臣)が天皇に対して責任を取らなければならない。ここで重要なのは、「天皇に対して責任を取れば良い」ということであって、臣民・国民・市民は謝罪の対象とはならないということだ。さらに天皇は無答責であるため、敗戦をもたらし、国防義務を果たせなかった輔翼者を任命した責任が問われることは無い。さらに言えば、輔翼者を処罰する法制は存在しない。
そのため明治法制下では、失政の責任を問うシステムが存在せず、日本市民が革命を起こすか、外国勢力による処断を待つことしかできなかった。
連合軍司令部(GHQ)は、日本で共産革命を起こさせないために、同時に休戦条件(ポツダム宣言)を履行するために、敗戦の責任者を自ら処罰するという選択を行う。根源的には、日本政府あるいは国民が自ら処断すべきだったが、明治日本にはその仕組みも概念も無かったため、放置することはできなかっただろう。
そして、アメリカの占領政策の基本的な考え方は、「軍部に戦争の全責任を負わし、天皇制と明治官僚は傀儡として残して、対ソ戦の前進基地となす」というものだった。実際、日本側の強い抵抗と人身御供の精神もあって、極東軍事裁判は軍部を中心にごく一部の「戦犯」が処断されたのみに終わり、民主化の担保となるはずだった公職追放も、講和条約の締結=冷戦勃発の中で解除され、敗戦の責任追及は不完全に終わった。

少し話を戻そう。
明治帝政下では、天皇は、原理的に国防の義務を一身に負っている。そして、その義務を果たすために軍事権と外交権を占有している。
ところが、明治以降、日本が行った戦争あるいは武力行使のうち、明らかに「国防上不可欠」というものは何一つ無かった。日清戦争は朝鮮半島の利権を清国から奪うため、日露戦争は朝鮮と満州の利権を巡るもの、シベリア干渉戦争に至っては沿海州に傀儡政権を打ち立てるためのものだった。日華事変・日中戦争に至っては、誰も何のための戦争か説明できず、太平洋戦争は「半年後に石油が無くなってしまうから、先に叩こう」として始めた戦争だった。
これらの戦争も勝利しているうちは、国防の義務が果たされているとして強弁できるが、敗戦して国土が灰燼に帰し、あまつさえ外国軍によって占領されるとなれば、事情は違ってくる。だが、日本では思想原理が全く未熟だったことも災いし、国防義務を果たさなかったことに対する責任追及の声は高まらず、天皇制がそのまま継続するところとなった。世界史上の奇跡である。
欧州型の政治制度では、王権(行政府)による軍事権と外交権の濫用を防ぐために議会が設置され、監督することになっているが、日本では議会にそうした権限は与えられず(従って情報も提供されない)、むしろ議会がこぞって侵略戦争を支持する構図になってしまったことも不幸だった。これは、制度の原理や意味を考えずに形式だけ真似たことにも起因しており、その弊害は現代にまで及んでいる。

近代共和制は、王が有していた国防の義務は市民が受け持ち、その義務を果たすために全ての市民は国防の義務を負う、同時に全ての市民は主権者である、という原理の上に成り立っている。
戦後日本は、国防の義務を実質的に放棄して国連に丸投げするという画期的すぎる憲法をつくった。これ自体は、天皇の免責を得るために軍そのものを廃止せざるを得なかった日本側の事情も大きく影響している。だからこそ当時は左右ともに憲法を支持して、むしろ共産党が安全保障上の理由と天皇制存続に反対するという、状況が見られたのである。
ところが、冷戦の激化に伴い、アメリカの要請もあって、日本政府は「軍事力では無い実力組織」を再建してしまう。これ自体は、当時の国際情勢と政治情勢を反映したものだったが、戦後憲法制定時に国防の義務を放棄してしまったため、「誰が国防の義務を負うのか」という議論の無いまま、実質的な再軍備が進められてしまった。
現在のところ、自衛隊の最高指揮官は内閣総理大臣で、実質的に統括するのは防衛大臣であるわけだが、恐ろしいことに憲法でも法律でも国防の義務を負っていない。例えば、自衛隊法を見ると、
自衛隊は、我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対し我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする。
(自衛隊法第三条)

とあり、任務=職務は書かれているが、国防の義務には触れていない(同時に市民は防衛の対象になっていない)。防衛省設置法も同様だ。
これは法理上どうにもならないことで、日本国憲法第9条で軍事権を放棄してしまった以上、天皇にも国民にも国防の義務を課すことはできなくなっているためだ。
その結果、「自衛隊は憲法9条が否定する軍事力では無い」という解釈改憲論に立脚して、法律上の職務として「防衛省と自衛隊は国防を担う」とする他なくなっている。「誰にも義務もないし、責任も問われないけど、法律上の職務である」というのが、現代日本の国防の立脚点になってしまっている。

現在のところ、自民党を中心に憲法改正の主張が高まっているものの、仮に「自衛隊は憲法9条二項に違背しない」旨を書き加えてみたところで、「国防の義務と責任は誰が負うのか(天皇か国民か)」という大命題は残り続けることになる。そして、それは明治帝政下にあって、国防の義務を負いながら一切果たすことができないまま、国土を灰燼に帰した昭和帝が、そのまま責任を取らずに帝位を保ち続けたことの延長上に存在する。
仮に憲法を改正して、国民に国防の義務を課そうとした場合、「俺らに義務を課す前にまず天皇に責任を取らせてからにしろ!」とならざるを得ないからだ。
にもかかわらず、国連は機能不全、米軍の撤退は時間の問題、中露韓台とは領土紛争を抱えているという日本の安全保障環境は危機的状況にある。
やはり明治帝政はもはや詰んでいるとしか思えない。

【参考】
軍隊のあり方について続・日本軍の場合
軍隊のあり方についてB〜近代国民軍の成立
posted by ケン at 12:00| Comment(9) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月22日

本邦初公開?!曾祖父の卒業証書

母が部屋を整理していたら、古い書類筒が出てきて開けてみたら「お宝」が出てきた。
曾祖父の卒業証書である。
もともと祖父が使っていた部屋なので、そういうことなのだろう。
せっかくの機会なので、まずは画像にして公開したい。

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まずは旧制四高(金沢)である。
旧制高校は現在の大学教養課程に当たる。明治28年は1895年なので、日清戦争の時代だ。
曾祖父は出身が淡路なので、最初三高(京都)に入ったが、肌に合わず(スノッブなのが嫌だったとか)、色々無理を言って四高に移ったらしい。
四高はもともと加賀藩の藩校で、場所も金沢城、兼六園のすぐ横という素晴らしい場所にある。
著名な卒業生には、現総理の祖父や正力松太郎、あるいは中野重治、井上靖、西田幾多郎らがいる。

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そして、東京帝国大学文学部史学科へ。明治31年は1898年、この二年後に北京京師大学堂の招聘を受け、清国に渡る。
この当時、文学部史学科には一学年2〜3人程度しかいなかったという。やはり圧倒的人気は法学部と理工系だったようだ。
学問ごとに担当教授の署名入りというところが凄いし、外国語も英語、ドイツ語、ラテン語というラインナップ。外国語が他の学問と同列に扱われているところが、時代を感じさせる。外国語教員としては「できて当たり前」「学問ではなく技術」の現代は色々辛いものがある。

曾祖父は淡路出身者として初めて東大を卒業したということで、島に帰った際には提灯行列が行われたという。
もっとも彼自身は島に大した思い入れはなかったようで、それどころかその目は常に世界、主にアジア、インド、ペルシアに向いていた。
その後、さらに独学で中国語、ウルドゥー語、ペルシア語、アラビア語などを学び、重訳かつ抄訳ではあるが、日本で初めてコーランを翻訳している。その著作も、日本の風俗史や児童書から諸外国の歴史書まで、あまりに多岐に渡り、才人過ぎて何をやっている人なのか分からない有様になっている。
posted by ケン at 12:00| Comment(3) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月23日

2019年06月20日

ゴールデンカムイの背景にある日露戦争症候群

野田サトル『ゴールデンカムイ』を評価したいことの一つは、日露戦争症候群をきちんと描いていることにある。
戦争後遺症の問題は、二次大戦後のものも含めて、日本で扱われることは少ないのだが、日露戦争やシベリア出兵については殆ど関心すら持たれていない状況にある。中でも日露戦争については、司馬史観に代表される「明治の男たちが苦労の末頑張って勝利した」で終わってしまっている。

早速見てみよう。
1905年(明治38年)の米の生産高3818万石で、平年より14%減収となった。これは戦時動員による働き手の不足と、同じく戦時動員による物資不足と肥料高騰、さらに牛馬が動員されたことで労働力と肥料が失われたことが大きいとされる。特に東北は悲惨で、福島では前年比76%、岩手では66%という有様で、農民はクヌギや樫の実、ゴボウの葉、ワラビや葛の根を食べて糊口をしのぎ、それでも足りずに衣類を売り払って、冬を迎えてもロクに着る服すら無かったという。
そのため、東京に出稼ぎに出るものが後を絶たなかったが、都市部もまた戦後不況を迎えており、特に二十代の若者は失業率が5割を超え、中年層でも失業率は2割を超えたという。そのため出稼ぎに来ても仕事は無く、ホームレス、路上死が急増、犯罪も激増して、東京の治安は急速に悪化した。

仕事が無いのは、除隊、退役した軍人兵士も同じだった。戦時恩賞による一時金などは、一晩で飲んで使い果たし、さりとて仕事も無く、まともな仕事にありついてもPTSDなどの影響で長続きしないケースが頻発した。実家や故郷に帰っても、冷たい仕打ちにさらされ、あるいは銃後の社会に馴染めず、荒れるものが多かった。
当時の新聞は、「帯勲窃盗」「強姦兵士」「人斬り軍人」「賭博軍人」などの語で溢れたというから、ゴールデンカムイの世界はかなり的を射ており、決して北海道独自の話では無かったことが分かる。

戦傷帰還した廃兵の家族も悲惨だった。『平民新聞』の記事にはこうある。
妻は毎日午前九時より午後十時まで労働に従事して藁細工を為せども、其工賃として手に入るは僅か十銭にて三名の口を糊するには足らず食ふや食はずで泣の涙に暮し居るとぞ

『ゴールデンカムイ』の舞台となる旭川第七師団の野戦砲兵第九連隊第四中隊では、1907年3月に37名の兵士が集団脱走している。同じく主人公杉本がいた東京第一師団歩兵第一連隊でも、兵士32名が演習中に武器を携行したまま集団脱走している。およそ知られていない事実である。

戦時期にあっても、明治38年度(1905年)の弘前第八師団管内で行われた徴兵検査において該当者8003人中、逃亡したものが1521人に及び、さらに170人に及ぶ外国居留者がいた。その徴兵検査表を見ても、「身長4尺8寸未満」が462人、疾病者が336人おり、いかに栄養不良、衛生不良にあったかが想像される。さらにいえば、「不具者」が1704人と異常に多いが、徴兵忌避のために故意に自傷したものがいることを暗示している。その上、陸軍を志願したものは108人、海軍は239人でしかなく、我々現代日本人が知る「日露戦争」とは違いすぎる実態が見えてくる。

結果、東北からは北海道への移住者が続出、例えば宮城県からの移住者は1904年には1905人だったものが、05年には5220人、06年には13312人、07年には16202人と急増した。大量移住と呼べるレベルだ。
生まれ育った東北は戦争の影響もあって飢饉同然、出稼ぎに行こうにも戦後不況で職はなく、無事戻れるかすら不安なほど治安が悪化、そうなれば北海道にわずかな望みを託すのは避けがたいことだったことは容易に想像できる。

『ゴールデンカムイ』が描く日露戦争帰還兵と北海道とは、そういうものだったのである。

【参考】
『明治の墓標 庶民のみた日清・日露戦争』 大濱徹也 河出書房新社(1990)
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2019年05月11日

中世の蛮風残す皇家

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ケン先生は共和主義者ですが、こういう話は好きです。
明治帝の頃なんか、普通に帝と家臣が相撲を取って、臣下が帝を投げ飛ばしたりしていたみたいだからなぁ。
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2019年04月17日

歴史研究とフィクションとシミュレーションゲーム

少し前にある学者と作家が論争を演じ話題になっていた。
個人的には、作家の方が「オレだって史実を書いているんだから、ケチつけるな!歴史は学者のもんじゃねぇ!」と叫んでいるだけで、いわゆる「愚にも付かない論争」にしか見えなかった。だから、それ自体にはあまり興味は無い。要は、「史実を織り交ぜた(文学的?)作品」と「歴史研究」を混同しているだけの話だった。

そもそも歴史学は、確かに最終目標こそ「史実の解明」にあるかもしれないが、あくまでそれは理想論であって、現実には史料分析を積み上げて、「ここにはこう書いてある、あそこにはこう書かれている」ということを延々と繰り返すだけのもので、「史実はこうだった!」と言ってしまった段階で歴史学ではなく、フィクションの世界になってしまう。そして、現実の歴史研究ができるのは、「こうだった可能性がある」までで、百歩譲って「こうだった蓋然性が高い」というところまでなのだ。

恐らくは、欧州であればもう少し研究と創作の棲み分けができているのかもしれないが、どうも日本では混同が著しく、その悪しき影響として、「司馬史観」やら一連の歴史修正主義が横行するところとなっている。
創作作家も史料は読むだろうが、それはあくまでも創作のための基礎知識を身につけるものであって、研究のためではない。その点を踏まえずに、「これが史実だ!」とやってしまうから大問題となる。しかし、現実にはそれが大売れしてしまうから、非常にやっかいなのだ。
しかも、歴史の研究書というのは、基本的に面白くない。それは当然で、最初から最後まで「この史料にはこう書いてある」ばかり続いて、最後の最後に「従来の研究とは少々違って、〜だった可能性がある」で終わり、そこには物語性のかけらもないからだ。
例えば、長篠合戦に関する学術論文を読んでも、「この史料には鉄砲三千丁と書いてあるが、江戸期中期のものだ」「この史料には一千丁と書いてあるが、これは江戸前期のものだ」という話が延々と続き、最後の最後に「やはり確定的なことは言えない」とくるのだから、よほど根気のある人にしか耐えられない世界である。
それでも、私がフィクション・創作よりも研究書の方が好きなのは、やはり「少しでも史実に近づきたい」ということと「シミュレーションゲーム」であろう。

シミュレーションゲームの醍醐味は、「後世の歴史家」の視点ではなく「当時の指揮官」の視点から世界を眺め、その当事者が抱いたであろう様々な不安、問題意識、ジレンマなどを追体験して、限られた情報と資源の中で戦略目標達成に向けて何らかの意思決定を行うことにある。
それだけに、「ゲームとしての面白さ」と「史実再現性」の二つの要素をいかに両立させるか、あるいは一方をどの程度切り捨てるかというところに、デザイナーの才能と独創性が求められる。

独ソ戦を主題にしたゲームでも、かつてはドイツ軍がほぼ無傷のままモスクワ前面まで来るという作品が少なくなかったが、歴史研究によって批判的に見られるようになっている。クルスク戦についても、「大戦車戦は本当にあったのか」「ソ連軍の損害は実はかなり大きかった」などの検証がなされ、新たな作品に生かされている。
そもそもソ連崩壊を経てソ連側資料が公開されたことで、戦闘序列や部隊配置、あるいは損害の見直しがなされ、新作ゲームには最新の研究が反映される。
「どうせフィクションなんだから、細かいところはいいじゃん」という考え方も成り立つが、そこはユーザーの評価に委ねられるべきだ。

もっとも、逆に関ヶ原の合戦の場合、最新の研究では、「開戦と同時に小早川が離反し、西軍はすぐさま潰走に入った」という説が一次資料から導き出されており、「ゲームにならないじゃん!」ということになっている。
そもそも戦国時代の合戦というのは、実際の戦闘がどのように行われたのか良くわかっていないところが多く、ゲームをつくるにしても、かなり(大半)創作を施さざるを得ないのが現状だ。

鎌倉期の元寇も最近の研究で大きく評価が変わって、文永の役における「元軍は一夜で撤退した」も、弘安の役における「台風で壊滅して撤退」も、いずれも後世に書かれたフィクションで、一次資料には全く根拠を見つけることができないという。「軍船900隻」についても、上陸用舟艇や艦載舟の類いが600隻含まれており、大海を渡る能力を有する「千料舟」は126〜300隻と見られている。これなどは、作家が「これが史実だ!」などとフィクションをでっち上げてしまうと、後々まで歴史研究を阻害してしまう好例であろう。
ちなみに、改めて地図で確認すると、対馬と朝鮮半島は最短距離で50kmしか離れておらず、びっくりさせられる。

フィクションに話を戻せば、あまり史実を重視し過ぎると、現代人の感覚とかけ離れて全く理解できないという問題も生じる。
例えば、たかだか150年前のことでも、戊辰戦争において宇都宮城や会津若松城をめぐる戦いの後には、首無し死体が散乱していたというし、西南戦争では薩軍人たちが官軍兵の死体から内臓を奪ったり(ひえもんとり)、首狩りを行ったりしていたというから、およそ現代人の視聴に耐えられるものにはならない。
鎌倉時代から戦国時代にかけての武士の精神構造は、基本的に河部真道『バンデット』のそれであり、およそ現代人の感覚で理解できるものではない。

要は研究と創作を分けて考えるというだけの話なのだが、どうしてそれが難しいのだろうか。

もっとも、研究者でこそないものの長くソ連・ロシア学に従事してきた私からすれば、突っ込みが入りまくる日本史研究はうらやましい限りだ。まぁ戦国時代などかなり限定的ではありそうだが。
アフガニスタン介入」「チェコスロヴァキア介入」「ポーランド危機」「ペレストロイカ」などを書いてきたケン先生的には、自由主義史観論者などから何の反論もなく、全く寂しい限りである(笑)
posted by ケン at 12:00| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする