2018年12月04日

漱石は百年後まで見えていた?

最近改めて夏目漱石の偉大さを思うようになっている。
漱石は、日露戦争の勝利に沸く日本にあって、「いずれ滅びる」と見ていたわずかな人間の一人だった。
夏目漱石の『三四郎』の冒頭、熊本から上京する汽車の中で席を同じくした男が、日本の貧相さを自嘲気味に話すのに対して、三四郎は日露戦役の戦勝を念頭に「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と応える。だが、男はしれっと「滅びるね」と言ってのけて、三四郎を面食らわせるシーンがある。
恐らくは漱石は、戦勝の裏にある巨大なツケについて認識していたのだろう。日露戦争は戦勝に反して、その内実は実に酷かった。
「日露戦争は予算を確保した」とは言うが、その内実は酷いものだった。
日露戦争の戦費は18〜20億円で、そのうち8億円(借り換え含めれば13億円とも)が外債だった。
当時の日本の一般歳出は2.6億円に過ぎず、当然税収は2億円にすら満たず、そんな中で2億円規模の増税を行ったのだから、ある日突然税金が倍以上になったわけで、当時の日本人は偉すぎるとは思うものの、今から考えれば「あり得ない」ほどの無茶だった。

これを今日のレートに直せば、300〜400兆円もの戦費がかかったことを意味しており、うち100〜200兆円は借金で、「C国と戦争勃発」ということで、ある日突然消費税が20%、所得税が倍になってしまうようなイメージである。

さらに、この外債の内実は惨憺たるものだった。
最も規模の大きかった英国債を例に挙げると、一回目と二回目の公債は利率6%で、発行価格が額面の約90%の上、関税収入を担保に入れるという代物だった。
最初から割引して発行していることを考えれば、実効利率は7〜7.5%といったところだった。
日露戦争のツケ

日露戦争後、日本は韓国を併合するが、その経営は赤字続きで、1932年の一般会計予算が15億円のところに7千万円も交付金を出して補填しなければならなかった。
一方、ロシアでは革命が勃発、第一次革命は鎮静させたもの、帝政の終焉を早めたことは間違いなく、十月革命を経てソ連というより強大な脅威を作り出す遠因になった。そして、韓国や樺太などを防衛するためとして、シベリア出兵や満州事変が起こされ、「ソ連の脅威」に備えるため陸軍の際限なき軍拡が進み、その軍事負担は日本の重工業や民政発展に深刻な打撃を与えた。

漱石は、1909年6〜10月に東京朝日新聞に連載した小説「それから」の中で、代助の言葉を借りて当時の日本の有り様を批判している。
日本程借金を拵えて、貧乏震いをしている国はありゃしない。此借金が君、何時になったら返せると思うか。そりゃ外債位は返せるだろう。けれども、それ許りが借金ぢゃありゃしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでいて、一等国を以て任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入りをしようとする。だから,あらゆる方向に向かって奥行を削って、一等国丈(だけ)の間口を張っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。其影響はみんな我々個人の上に反射しているから見給へ。斯う西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、碌な仕事は出来ない。悉く切り詰めた教育で、そうして目の廻る程こき使はれるから、揃って神経衰弱になっちまう。話をして見給へ大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日の、只今の事より外に、何も考えてやしない。考えられない程疲労しているんだから仕方がない。精神の困憊と、身体の衰弱とは不幸にして伴っている。のみならず、道徳の敗退も一所に来ている。日本国中何所を見渡したって、輝いてる断面は一寸四方も無いじゃないか。悉く暗黒だ。
(夏目漱石『それから』)

何のことはない、間もなく2019年を迎える日本は当時から一歩も進歩していない、あるいは1909年水準にまで落ち込んでしまったことが分かる。漱石の慧眼からも今の日本がもう一度「滅びる」のは間違いないと見てよいだろう。
posted by ケン at 12:00| Comment(4) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月02日

銀決済の革命性について

世界で初めて銀貨による公的決済を行ったのは元朝だったという。
それ以前は現在の価値で10万円に相当する現金を持ち運ぶためには、約5kgの銅銭が必要だった。だが、銀決済の導入により、同額の現金は50グラムの銀貨を持つだけで良くなった。この革命性とグローバリゼーションが理解できないと、真の歴史は理解できないという。

中国では、前漢期には銀貨が鋳造されていたようだが、市場決済が可能なほどの量産はできなかったらしい。
当然ながら、高額決済ができないということは、それだけ市場や流通の規模が規定され、資本の蓄積が進まないことを意味する。
同時に携行できる現金に限界があるということは、旅行や小商業も大きく制限されることを意味する。中世以前は大キャラバンを組まないと、商売などできなかったのだ。

最新の仮説では、蒙古帝国の成立に伴い、銀決済が導入され、それが南宋にまで及んだ結果、中国で不要になった宋銭が大量に日本に輸入、流通するようになり、室町期の経済的繁栄をもたらしたという。
但し、日本で銀貨が流通するようになるのは、江戸幕府の成立を経て江戸中期以降のことになるらしい。
古代・中世人や近世人がどのように決済していたかまで考えないと、時代劇もずいぶんと陳腐なものになってしまうということだろう。

私ももう一度上海博物館に行く必要がある。
ちなみに、5千人民元を持つためには中国人民銀行券で50枚、もしくは日本銀行券なら9枚必要だが、キャッシュレス決済の割合は中国の60%に対して、日本は20%に過ぎない。

【追記】
元帝国が銀決済を導入して、中国で余剰した銅銭が日本に二束三文で「輸入」され、日本で流通に乗った結果、室町期には「四日市」や「八日市」などの定期市が各地に生まれ、流通経済が形成された。同時に貸金業なども栄えるようになり、現在では悪名高き「徳政令」が発令されるに至っている。まだ現金決済ができるようになったため、足軽などの傭兵業も成立し、戦国時代に突入するきっかけにもなった。経済史を知らずに日本史は語れないということだ。
posted by ケン at 10:24| Comment(7) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月27日

中国で動員されてインドに死した大先輩たち

1943年夏、中支戦線で警戒任務に当たっていた陸軍第15師団(豊橋、後の「祭」)は、ビルマ戦線への転進を命ぜられる。上海からタイに上陸するが、上海で物資集積中に現地居留民から補充兵500人を動員した。
当時上海には10万人以上の日本人が滞在していたが、すでに多くの壮年男子が動員済みだったため、新たに動員した者の中には、40代50代のものも少なくなく、学校教員や大学教授までいたという。
その15師は、バンコクからチェンマイを経て、シャム高原からビルマに入り、警戒任務に当たるはずだったが、かのインパール作戦に急遽参加するところとなり、1000kmの距離を強行軍した後、休む間もなく1944年3月8日に作戦開始となった。
その後は言うまでも無く、師団の半数以上が戦病死(戦死傷ではない)するという大損害を受けて撤退するわけだが、補充兵の場合、もともと年齢でも体力でも劣るものたちだっただけに、大半が亡くなったようだ。

いやはや、明治帝政がある限り、中国にいてもいつ動員されて殺されるか分かったものではない。
が、いまは大先輩方に合掌したい。

【追記】
大先輩方が送られたインパール作戦では、将兵のほぼ全員がマラリアとアメーバ赤痢に罹患したが、前線では「一日に下痢80回未満」は「戦闘可能」と見なされ、同80回以上でようやく「要休養」が認められたという。現在の学校における部活動や、ブラック企業の勤務環境はすべて旧軍の伝統を継いだものと言える。明治帝政の悪弊はむしろ今日に至って、悪化していると言えそうだ。全く先輩方に合わせる顔もない。
posted by ケン at 12:00| Comment(6) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月13日

戦争はカネがかかるのです!

「支那との戦争は多大の費用を要するものであってその費用は我々代議士が議会に於て尽力し予算を取るものであるが、今仮に二十億の予算を取るとするも戦争の費用は一ヶ月五億円を要するが故に二十億は四ヶ月で費消するを以て、その時期に至れば我国は財政的に行詰ることになる」
(社大党・佐竹晴記代議士、1937年8月14日、高知県内にて)

社会大衆党の衆議院議員だった佐竹晴記が上記の話を知人にしたところ当局に通報されてしまい、特高課長より戒告処分を受けたという。
昭和12年の税収13億円に対し、一般歳出は35億円、日華事変勃発による臨時軍事費特別会計は20億円となった。この35億円のうち、国債償還費などを除く一般会計は27億円で、このうちの12億円が軍事費だった。

大量動員は戦後にも巨大なツケを残す。戦後38年を経た1983年の軍人恩給・遺族年金受給額は1兆7358億円。同年政府歳出は50兆4千億円で、予算の3%が軍人恩給だったことになる。戦後68年を迎える2013年度政府歳出に占める恩給・遺族年金の額は4787億円だった。高校無償化にかかった予算が3960億円であったことを考えても、凄まじい額だが、殆ど議論にならない。

ケン先生の国外退去が当局に認められたのは、来年に東京五輪を迎えるに際して、国際的非難を浴びるような弾圧は避けたいという判断がなされたものと考えられる。これはベルリン五輪に際して、ナチスが一時的に市民弾圧を緩めた故事と同じだ。この点、自分で確認しなかったのは、渡航前に当局の人間と接触すると、今度はあちら側に無用の疑念を抱かせる恐れがあるためだ。
つまり、東京五輪の後、日本は本格的に暗黒時代を迎える可能性が高い。

【参考】
巨大な軍隊を持つツケ
posted by ケン at 12:06| Comment(2) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月23日

気候変動から予測する明治帝政の終焉

古来、王朝の終焉に際しては天変地異が頻発するのが常だが、これは気候変動と大きく関係している。例えば平安時代と平氏政権の終焉は、温暖化に伴う西日本における連続干魃とマラリアの大流行に端を発している。詳細は「気候変動に見る源平合戦」を読んで欲しいが、大和朝期から平安初期にかけての日本は寒冷期にあったが、8世紀半ば頃から気温が上昇を始め、その後100年間で平均気温が2度前後も上がったとされている。その結果、西国では旱魃、洪水、蝗害が増える一方、関東や東北での収穫が増え、大量移住、大開墾期を迎えた。平将門の乱に象徴されるように、東国で反乱が頻発したのは、東国で開墾が進み、関東が「日本の穀倉地帯」としての地位を確立する一方で、西国では農業生産が減少したために国家収入が減り、その対処として朝廷が土地国有化と徴税強化を進めたことに対して、東国武士が独立の意志を固めたことに起因した。

ちなみにヴァイキングがグリーンランドに渡って農耕を始めたのは西暦1000前後とされるので、この頃は全世界的に温暖化傾向にあり、それは現代を上回るレベルだったと見て良い。
源平合戦として知られる「治承・寿永の乱」の発端となる以仁王の挙兵は治承4年6月(1180年)のことだが、この年は雨が極端に少なく、早くから旱魃が始まり、西日本では全面的に飢餓が発生する。鴨長明の『方丈記』にも「また、養和のころとか、久しくなりて、たしかにも覚えず。二年があひだ、世の中飢渇して、あさましき事侍りき。或は春・夏ひでり、秋・冬、大風・洪水など、よからぬ事どもうち続きて、五穀ことごとくならず」と記されている。そして、平清盛がマラリアで死んだことは象徴的だった。

平安後期における数々の戦乱は、温暖化に伴う西日本の不作と東日本の豊作、それに始まる東日本に対する収奪と経済格差の増大に起因するところが大きかった。この収奪と格差を是正するために暴力的手段がとられたのである。
だが、鎌倉幕府が成立した頃から温暖化が終わり、今度は13世紀後半あたりから寒冷化が始まる。その最たる影響が「蒙古襲来」だった。寒冷化によってモンゴル高原における牧畜が困難になったモンゴル族が南下を開始、ついには高麗を下して日本にまで手を伸ばしてきた。
ちょうどこの頃、グリーンランドに植民したヴァイキングが撤退、全滅しているので、全世界的に小氷河期に入っていることが分かる。
そして、鎌倉幕府は対元戦の戦費負担に耐えられなくなり、集権化することで秩序の維持を図るも、寒冷化の中で税収が上がらず、逆に寒冷化で農業が復活して経済力を付けた西日本の武士層が東国政府に強い不満を抱くようになっていったのである。政権交代を受けた足利氏が政府を鎌倉から京に移した所以でもある。

16から17世紀にかけて小氷河期(概ね14〜20世紀)が頂点に達するが、日本の戦国時代とドイツ三十年戦争、あるいは明朝の崩壊と清朝の勃興がその象徴である。これは有名な話なのでここではしない。

現代に通じるところを見た場合、前期明治帝政は、大正末から昭和初期にかけて寒冷化によって北日本で飢饉が起こり、国民が暴力的解決を望むようになったことから暴走が始まった。今では考えられないが、戦前には多摩川が河川凍結して普通に歩いて渡れたという。
もちろん、飢饉はあくまでも一因に過ぎず、日露戦争後の過剰な軍拡や世界恐慌の影響も大きいのだが、例えば2・26事件を起こした陸軍将校たちが「農村窮乏の救済」を掲げたことは重く見て良い。また、満州事変や日華事変の勃発に際して、国民の大半がこれを熱狂的に支持したことは、決して軽く見るべきでは無い。
これらの歴史は、平和的手段による貧困や経済格差の是正が達成困難になった場合、人々が容易に暴力的解決を支持する傾向があることを示している。

そして、今日は温暖化によって西日本で水害と干ばつが頻発、大型地震も増加傾向にあり、国家財政を圧迫している。政府中央の腐敗も含めて、後期明治帝政(戦後民主主義体制)は終焉に向かっていると見て良い。
今回の全国豪雨では、自民党が「これでスーパー堤防の予算が下りる」と祝杯を上げている一方、エコロジストは「ダム不要論」を声高に謳っている。この辺でも、デモクラシーに求められる合意形成能力が機能しなくなりつつことを予見させる。
スーパー堤防は、見積もりで30兆円とも40兆円とも言われるが、広大な地域で移住・再開発が必要となるため、建設業と不動産業に支持層の多い自民党としては、是が非でも実現したいところだろう。
逆にダム不要論は、豪雨がダムの許容量をオーバーさせてしまい、逆に「巨大水瓶」となって下流域の脅威となる危険を指摘している。

とはいえ、近年の水害で最も被害が大きかったのは、1940年代後半から50年代にかけてのもので、これは戦時中に日本中の木を切り倒して戦時徴用したことに起因している。戦国時代も、全国で木が切られた結果、そこら中はげ山だらけになってしまい、長篠の戦いに際して織田信長は馬防柵用の木を岐阜から輸送しなければならないほどだった。そのため、江戸期に入ると、徳川幕府は護林・植林に努めている。

他方、近年水害の被害額が大きくなっているのは都市に起因している。都市部の住宅化と舗装化が進んだことで地表の吸水力が極端に低下、雨水が全て下水管に流れて容量オーバーを起こし、排水溝やマンホールから水が溢れ出て洪水が起きるという現象になっているためだ。遠因としては、遊水地や貯水池・調整池を埋め立てて居住区画にしたことで都市部の保水力がゼロ近くなっていることが挙げられる。遊水池を埋め立てて多摩川住宅を建てたことは非常に象徴的だ。また、河川整備で大河の直線化が進んだことも、都市部への雨水の加速集中を促進している。さらに、80年代あるいは90年代以降に設置された下水管はコスト削減のため規格が小さくなっており、容量オーバーが起こりやすくなっているという指摘もある。この話も福島原発事故と同じで、「100年に一度の大雨を想定するのは合理的ではない」との理由で大型規格を却下した経緯があると言われる。

気候変動によって予見可能性を超えた災害が頻発し、既存インフラを破壊、大衆の生活を脅かす一方で、国家財政が圧迫され、国民の不満を抑制するために権力集中が図られるが、権力集中の結果、腐敗が蔓延する流れとなる。これは「デモクラシーだから」といって回避できる類いのものではない。むしろ利害調整が困難になって、政治不信が統治不全を促進する可能性が高い。
今後は、さらなる超規模の水害と、首都直下型地震、南海トラフ地震などの大災害が連発すると見られる。財政的に追い詰められ、国内の不穏が強まる中で明治帝政は、国民の不満をそらすために対外戦争を指向する可能性が高く、最終的には瓦解に向かってゆくと考えられる。
posted by ケン at 12:41| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月26日

「米内を斬れ!」の遠景を望む・下

前回の続き
日中戦争についてはもう二点ある。
あらゆる休戦工作が頓挫して日華事変が泥沼化する1938年末、海軍は重慶爆撃を提案する。これは、当時最先端の理論だったジュリオ・ドゥーエの戦略爆撃論に基づいたもので、都市に対する無差別爆撃によって首都住民をはじめとする国民の抗戦意思を挫く考え方だった。当時は「理論倒れ」と見る向きも強かったが、日本海軍が1935年に採用した九六式陸上攻撃機(中攻)の存在が実現可能にしていた。例えば、同作戦を主導した伯父上は、「われわれは海軍航空隊による重慶を初めとする中国奥地戦略要点の攻撃に重点を置いており、その成否は、当面する支那事変解決の鍵であると確信している。この作戦は、日露戦争における日本海海戦にも匹敵するものであるとの認識のもとに、全力投球している」と述べている。
この重慶爆撃についても、陸軍は軍事的効果と外交的影響の両面から否定的で、遠藤三郎らの強い反対もあって途中から参加を拒否したほどだった。実際、重慶爆撃はむしろ国民政府に対する支持を強めただけでなく、連合軍による日本本土に対する無差別爆撃や原爆使用を正当化するネタにされてしまった。

もう一つは海南島上陸である。1939年2月、日本海軍は海南島に奇襲上陸を行い、以後6半年にわたって、海軍管理の軍政下に置いた。海南島は、南シナ海を隔ててフィリピン・ルソン島を1000キロ以内に収め、東の対岸は仏領インドシナという戦略的重要地点にあった。1000キロ以内というのは、上記の九六式中攻や零戦の攻撃範囲内であることを意味する。また、連合国による援蒋ルート(ハノイとビルマ)を遮断するためにも航空機の作戦距離内に飛行場をつくる必要があった。
それだけに、対米英戦を想定していた海軍軍令部はかねてより海南島攻略と基地設置を要望していたが、戦線拡大や米英仏への刺激を懸念した陸軍の反対もあって、先送りになっていた。これも当時の米内海相(平沼内閣)がゴーを出す形で、海軍が単独(陸軍的には勝手に)で作戦を強行するに至っている。海軍陸戦隊による治安戦(ゲリラ討伐)と慰安婦や奴隷化を強要した占領政策は、今日に至るまで日中間のトゲとなっている。
この海軍による海南島占領と、それに伴う39年3月の新南群島(南沙諸島)領有化宣言(高雄市編入)は、陸軍が危惧した通り連合国を硬化させ、米英仏による抗議を初め、米国では対日経済制裁論が高まって、くず鉄の事実上禁輸が実現した。そして、日本側は逆に「毒食らわば皿まで」とばかりに自ら南進論を規定してしまった。

これらの全てを海軍の責任に帰して、「日中戦争は海軍の陰謀だった」とするのは乱暴すぎるとは思うのだが、少なくとも阿南大臣のいまわの際に「米内を斬れ!」と言わせるには十分の状況証拠があったとは言えるだろう。
日中戦争以外にも二点ばかり「陸軍の怨恨」の根を紹介しておきたい。

一つはガダルカナルである。1942年8月のガダルカナル上陸は、米豪遮断作戦の一環として行われた。これは、元もと海軍側が要望した豪州上陸作戦に対して、陸軍が「日中戦争やってて、ビルマにも行かないとなのに、どこにそんな戦力あるの!」と逆ギレした結果、妥協の産物として「じゃあフィジーでいいよ(米豪分断作戦)」となった経緯から生まれたものだった。実際には、軍令部員も参謀本部員もガダルカナルがどこにあるかも知らず、イギリス製の地図で位置を確認するところから始まったとされる。この時も陸海の事前協議が不十分で、陸軍内には「海軍が勝手に上陸して飛行場を作ったのに、何で陸軍が守らないとならないんだ!」と叫ぶ者が少なくなかったという。
そして、陸軍側は、(一応は)継続的な補給について懸念を示したものの、海軍側は制海権と制空権を保証してきたため、「ノモンハンの生き残りでミッドウェーで使い潰す予定だった一木支隊ならまぁ良いか」と差し出したところ、上陸から数日で全滅してしまう。その後、陸軍は戦力を逐次投入する形で最終的には3万6千人を送るが、2万2千人以上を戦病死(大半は餓死と病死)させて撤退するところとなった。
陸軍的には、「海軍が当初の戦略通り、漸減作戦を実施した上で、マリアナで米海軍と一大決戦を行っていれば、ソロモンやニューギニアの悲劇は回避できた」という思いが強いのだ。

二つは、1944年10月のレイテ島である。フィリピン防衛については、もともと陸軍はルソン島を要塞化して米陸軍を引きずり込んでドロドロの持久戦を行う予定で、「(レイテを含む)その他の島は海軍が担当」と協定まで結んでいた。
だが、同時期に生起した台湾沖航空戦で海軍が過大な戦果(95%ウソ)を発表した結果、天皇を含めて「早期決戦を!」と国論が沸騰、敗北続きの参謀本部は抗しきれずに、現地軍(第14方面軍)の強い反対を押し切って、「レイテ決戦」に舵を切った。この際、昭和帝は「海軍が捷一号作戦を発動して、米太平洋艦隊に決戦を挑むというのに、陸軍はルソンに籠もるのか(何もしないのか)」旨を仰せられたという話もある。
これに対し、14方面軍の山下司令官は、台湾航空戦の戦果発表に懐疑的で、「制空権が無いままレイテ島に兵員、物資を送るのは殆ど不可能」と意見具申したものの、寺内南方総軍司令官が「元帥命令」を発してレイテ決戦を強要した。
なお、海軍は発表した台湾沖航空戦の戦果の大半が「誤認」であったことを確認した後も隠蔽し続け、10月20日に行われた陸海軍合同作戦会議においても陸軍に伝えないまま、「ルソンからレイテへ」が決定された。

結果、レイテ海戦では連合艦隊が壊滅、陸戦では米側上陸兵力20万人に対して戦死3500、日本陸軍が投入した兵力は8万4千人に対して戦病死7万9千人(軍司令官、師団長級も4人戦死)という歴史的大敗を喫した。
このレイテ決戦のためにルソン島から抽出した戦力を補うため、台湾の第十師団がルソンに、沖縄の第九師団が台湾に引き抜かれ、翌45年4月からの沖縄戦で兵力不足に陥るところとなった。

ガダルカナルとレイテの二カ所だけでも、「海軍の横暴」で陸軍兵士が十万人以上死んでいることが分かる。陸軍の作戦指導は大いに疑問だが、陸海軍の連携の酷さは想像を絶するものがあったのだ。
その海軍の代表者である米内が、したり顔で陸軍の責任と早期終戦を唱えていたのだから、阿南でなくとも少し視野の広いものなら「海軍にだけは言われたくない」と思うのは当然だったと言えよう。
同様に、今もって一般的には「海軍善玉論」が幅をきかせているが、相当懐疑的に検証し直す必要がある。
なお、昭和帝は戦後、
「陸軍、海軍、山下皆意見が違ふ。斯様な訳で山下も思切つて兵力を注ぎこめず、いやいや戦つてゐたし、又海軍は無謀に艦隊を出し、非科学的に戦をして失敗した。」

と回顧しているが(寺崎英成『昭和天皇独白録』)、まるで他人事である。

【参考】
『海軍の日中戦争 アジア太平洋戦争への自滅のシナリオ』 笠原十九司 平凡社(2015)
「日中戦争の拡大と海軍」 手嶋泰伸 『年報・日本現代史』第22号所収(2017)
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2018年04月25日

「米内を斬れ!」の遠景を望む・上

終戦時の陸軍大臣だった阿南惟幾は、自決前に義弟の竹下正彦中佐と杯を交わしたが、その際に「米内を斬れ!」と口走ったとされる。その真意については、実際に耳にした者たちも解釈に戸惑ったようで、今日に至るまで定説はない。実際のところ、阿南は相当に酩酊していたようで、どこまでが本意だったのかは今では分かりようもない。最も一般的なところでは、「和平論の首魁で、陸軍を責め立てた米内に対する個人的感情」という解釈があるが、和平論者という点では東郷外相の方がより急進的だったはずだし、「聖断」に持ち込んだ鈴木総理の策士ぶりも槍玉に挙げて良さそうなものだ。

だが、最新の研究を踏まえてより広い視野で見た場合、異なるものが見えてくる。その最大の問題は、日中戦争の開戦責任である。
日中戦争の開戦責任は、1937年7月に盧溝橋事件で国府軍と戦端を開いた陸軍(特に牟田口)と、関東軍・朝鮮軍の支援派兵を決めた近衛内閣に帰せられるのが、まず一般的な解釈と言える(中国側の挑発もあるが)。
例えば、当時、参謀本部戦争指導課長だった河辺虎四郎の回顧に依れば、事件の第一報を受けて柴山兼四郎軍務課長(陸軍省)が「厄介なことが起こったな」と言ってきたのに対して、武藤章作戦課長(参謀本部)は「愉快なことが起こったね」と言っていたという。陸軍の中は慎重派と積極派に完全に二分されていた。
また、7月11日の夜、近衛首相は政界、財界、マスコミの重鎮を官邸に集め、挙国一致・国論統一に向けた協力を呼びかけるが、「官邸はお祭り騒ぎのように賑わって」(石射『外交官の一生』)という有様で、やる気満々だったことが分かる。ところが、この近衛は翌8月に訪ねてきた池田純久中佐に対して、「池田君とうとうやつたね。支那事変は軍の若い人たちの陰謀だ」と言ったというから、全く他人事で無責任だった(『陸軍葬送委員長』)。その池田は、戦争を決めたのは貴方ですよと返して、近衛を黙らせている。

だが、盧溝橋事件自体は、1937年7月17日に停戦協定が成立、その後も小規模の衝突を繰り返しつつ、「船津工作」による和平交渉が進められていた。それを潰したのは、海軍による第二次上海事変だった。
詳細は笠原十九司先生の『海軍の日中戦争』(平凡社)を読んでいただきたい(陰謀論に傾きすぎだが)。当時、日本海軍はロンドン条約の失効を経て大建造体制に入っていたが、対米戦の備えとして航空戦備の充実が課題となっていた。しかし、海軍予算は全て新艦建造に回されており、航空予算を確保するためには、小規模の戦争が起こることが望ましかった。仮に日中戦争が生起した場合、陸軍による対ソ戦を回避できると同時に、海軍は自らの艦艇の消耗を防ぎつつ、海軍航空隊の実験と練度向上を図ることが可能と考えられた。
結果、海軍は「大山事件」を利用して(自作自演の疑いがある)、上海で武力衝突を起こし、海軍陸戦隊を勝手に上陸させた上で、陸軍に救援を求めた。陸軍的には全く乗り気ではなかったのだが、当時上海には数万人からの在留邦人がいたこともあって、放置することはできず、二個師団からの上海派遣軍を編成、派兵したものの、上海を重要視した国民党軍は最大戦力を動員して対抗したため、戦力が不足、日本側も大動員したことや日中両軍が空爆を始めたこともあって、全面戦争に発展、船津工作も破綻した。

「上海居留民の保護」を名目に上陸したはずの上海派遣軍が、中国軍と全面交戦するところとなり、長期に渡る対峙状態に業を煮やした司令部が杭州湾上陸作戦を敢行したところ、「裏崩れ」によって中国軍は敗走したものの、今度は日本軍による追撃戦が始まってしまい、戦線拡大が止められなくなった。そして、停戦・休戦交渉が不調のまま南京攻略を行い、虐殺事件が生じたことで、ますます休戦する機会を失っていった。

上海事変後、海軍は大々的に渡洋爆撃を開始、9月に入ると漢口、広東、南昌へと爆撃対象を拡大させ、さらに中国沿岸の海上封鎖を宣言した。北京周辺と上海をめぐる地域紛争は中国全土における全面戦争へと発展していった。
首都の南京進撃が俎上に上がった際も、現地軍は繰り返し南京攻略の許可を参謀本部に求めるが、多田駿次長はこれを握り潰し、国民党政府のメンツが立つ形で講和に導く方針を有していた(トラウトマン工作)。11月24日には、大本営御前会議が開かれるも、近衛首相も米内海相も広田外相も多田の主張に耳を傾けず、12月1日には大陸命第八号を発して南京攻略を命じている。
さらに南京陥落後の翌38年1月15日午前には、大本営政府連絡会議が開かれ、陸軍の多田参謀次長と海軍の古賀軍令部次長が国力の限界から長期戦を戦うことの困難さを説明し、中国側との和平交渉の継続を主張した。ところが、近衛首相「速やかに和平交渉を打ち切り」、広田外相「支那側の応酬ぶりは和平解決に誠意なきこと明瞭」、杉山陸相「蒋介石を相手にせず、屈服するまで戦うべき」、米内海相「統帥部が外務大臣を信用しないのは政府不信任」などと声を揃えて反論され、立ち消えに終わり、近衛総理の「爾後国民党政府を対手とせず」声明に繋がった。
以下、続く
posted by ケン at 12:39| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする