2017年03月24日

江戸武士の収入を考える

母上から「わが先祖の収入は今の価値にすると、どの程度だったのか?」との下問がなされ、奉答したので、補足しつつ、ここに記しておきたい。「西南戦争の原因を考える」の補足でもある。

幕府御家人だったわが家の正確な石高は分からないが、どうやら百石超の御家人だったらしく、仮に120石とする。幕府の御家人は基本的に「出世」はしないものの(固定役職)、勤務実績に応じて200石程度までは加増された模様。これはあくまでも生産高なので、これに税金「四公六民」が加算され、年貢収入は80石となる。一石は米150kgなので計1万2千kgとなる。もっとも、これは「大名家の模範」たらんとした幕府のみの例外で、他の諸藩では「五公五民」や「六公四民」が一般的だった。
無役だとこれが全収入になるが、わが家は四谷見附の与力役を拝領しており、その役料は150俵と仮定する。一俵は米60kgなので、計9千kg。家禄と合わせると、21トン、4トントラック5台分という量になる。
現代では米10kgで5千円程度だが、これは暴落気味。とはいえ江戸期も時代を経るにつれて米価が低下しているので、一概には言えないが、仮に1万円で計算すると、2100万円となる。自分が考えていたよりも、はるかに裕福だったように思える。
現実には「搗減り」(米を搗くなどの食用処理した際に生じる目減り)などの要素を加味する必要がある様だが、ここでは省略する。

だが、現実には100石超級の家には「槍持1人、中間1人」の常備軍役が課されており、その人件費を含めての家禄である上、下女・下働きの給与も必要だった。また、役料は経費の意味もあり、これで10人以上の家族と家来を養い、職務上の経費も賄う必要があった。そう考えると、当時の人件費は非常に安かったことを考えても、「裕福」とまでは言えない気もする。
ちなみに、江戸後期の中間の給料(年給)は3〜5両、下女の給料は2〜4両。計算し直すが、家禄と役料を合わせた実収入は140石で、このうち60石程度が日常生活で消費され、残りを売却して現金化する。1石1両で換算すると、80両が与力家の「手取り」となり、ここから給金が支払われる。給金の合計を20両とすると、段々苦しくなってくる。

ただ、伝え聞くところでは、地代収入や運上金などもあったようだ。これは家禄とは別に家で所有する土地や権利などから得られる現金収入で、これがそれなりの金額になったようだ。わが家の場合、内藤町あたりに家を構え、中野に相応の土地を有して小作等に貸していたと見られる。
さらに江戸期には「付け届け」が「文化」として横行しており、役職によっては馬鹿にならない額になった。町奉行所などの場合、家禄+役料以上の収入にもなったと言われる。わが家の場合、見附与力という、現代で言うところの「税関課長」に相当するものであるため、やはり相当な額の付け届けがあったと考えられる。
完全に推測でしかないが、上記の「手取り」分と同等額=80両の「その他収入」があると考えると、家人への給金を支払った上で140両が手元に残ることになる。1両は、現代の価値に直すと10〜15万円に相当するので、私が最初に抱いた「裕福」水準に戻ってくる。

なお、幕臣の場合、旗本は婚姻に幕閣の許可が必要だったが、御家人はさほどうるさくなかったようで、わが家の場合、江戸期最後の当主は本郷の米問屋の娘を、前当主は福生の町医者の娘をもらっている。戦略的に町人との通婚を進めることで、殖財と人的ネットワークの構築に努めていたものと見られる。故に、私も人から結婚相談を受けたときは、「フローよりもストックを重視しろ、貧乏人とは絶対に結婚するな」とアドバイスしてきた。
その甲斐があってか、わが家は、御一新でも落剥することなく、敗戦をも乗り越え、私の学費まで余裕があった。
江戸期最後の当主(高祖父)は、どうやら新設の東京市にも出仕していたようだが、息子(曾祖父)を新設の早稲田大学(東京専門学校)に入れ、日本銀行に就職させている。こうした柔軟な思考と適応能力も、わが一族の「家風」なのかもしれない。

以下は補足になる。わが一族が裕福だったのは、幕臣である上に「おいしい役職」にあったためで、同じ家格の武士がみなこうだったとはとても言えない。
一般的には、江戸中期以降、幕府を始め、どの藩も財政危機に陥り、大半の藩で「家禄の借り上げ」が行われた。これは実質的な「賃金切り下げ」で、家禄の3分の1から半分が藩政府に召し上げられた。
例えば、同じ120石の与力家で考えた場合、実支給額60石、「五公五民」で手取り30石になってしまい、役料がない限り、中間や下女はおろか家族を食わせることにも苦労する状態にあったことを示している。

また、時代小説に良く出てくる「30俵二人扶持」の場合、30俵+日1.5kgの米で約2350kg、年235万円となり、現代のアルバイト並みの給与だったことが分かる。
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2017年02月09日

西南戦争の原因を考える・下

前回の続き)
そこで、薩摩に視点を転じたい。同じ幕藩体制下の大藩ながら、薩摩は他藩と大きく事情が異なる。その最たるものは、武士階級の人口であり、それに伴う動員力だった。明治初年における鹿児島藩の人口は72万人で、長州と同水準にあった。ところが、動員可能な人数は、嘉永5年(1852年)で、城下士4500人、郷士2万3千人、陪臣1万人、計3万7500人と、長州藩の何と5倍もの動員力を誇っていた。しかも、この数字は「当主」の数に過ぎず、兄弟や子を戦時動員するなら5万人を超えるまで可能だった。当時も「薩摩の実兵力は5万とも10万とも言う」と話されたそうだが、あながち誇張ではなかった。
鳥羽伏見戦における幕府軍の兵力が1万人強、後詰めで大坂城に駐留していたのが2万人超であったことを考えても、薩摩の「戦争マシーン」ぶりがよく分かるだろう。九州南部に引き込んで戦うなら、島津は徳川に負けないだけの兵力を、江戸期を通じて保有していたのである。ちなみに会津戦争において、会津藩は白虎隊に象徴される総動員を行ったが、それでも4千人に満たなかった。

維新後、鹿児島で申請された士卒の数は34万人に及び、総人口に対する割合は45%にも及んだ。全国平均が6%前後であったことを考えれば、壮絶な数であり、この数の士卒を維持するため、薩摩・大隅はもちろんのこと奄美などの植民地では言語を絶する収奪が行われた。西南戦争に際し、農民層がこぞって新政府軍に協力したのは、このためだった。

ところが、戊辰戦争に際し、鹿児島藩が動員して出征させたのはわずか8千人で、多く見積もっても1万人に過ぎなかった。持てる兵力の殆ど全てを倒幕戦(革命戦)に投入した長州に対し、薩摩は先鋒程度の兵力を投入したに過ぎず、兵力の過半を後方で温存させていた。これは、西郷・大久保らが、「幕府が全面戦争を決断した場合」を想定して兵力を温存していた可能性もあるが、基本的には「革命の推進者」として長州、土佐とのバランスを考慮して、自藩が突出して悪目立ちしないよう配慮した上での戦力供出だった。例えば、薩摩が2万人も出してしまうと、長州5千、土佐3千と比べて突出してしまい、「幕府が倒れた後、薩摩が権力を独り占めするのではないか」とあらぬ疑いが掛けられてしまう恐れが強かった。この感覚は、マルチプレイ・ゲームのプレイヤーなら想像に難くないだろう。
さらに、戊辰戦争における薩摩の戦死者は500人超に満たず、禁門の変や薩英戦争の死者を足しても600人に遠く届かなかった。つまり、長州が全身をボロボロにして御一新を迎えたのに対し、薩摩は「もう一戦でも二戦でもできるぜ!」くらいの余力を残していた。

そこで当然ながら、長州の脱隊騒動と同じ状態が生起する。戊辰戦役に出征したか否かにかかわらず、御一新で武士が失職するのは変わらない。薩摩の場合、約3千人が御親兵として維新政府に供出され雇用が守られた。ところが、これはほぼほぼ城下士に限られており、郷士や陪臣は置き去りにされた。そのため、治安維持の必要もあって、大久保・川路が主導して東京警視庁を発足させ、郷士階級を中心に警察官への採用が進められた。とはいえ、警察官を鹿児島県人に限定させるわけにもいかず、正確な数字は分からないが、薩摩からの採用は当初2千人、その後さらに1千人ほど増員されたものの、3千人程度だった。結果、雇用された警察官の半分以上が薩摩の士卒出身者となり、他藩出身者からは強い不満が上がった。また、明治初頭の「東京」では、意思疎通のできない警察官が多すぎて「通訳」が不可欠だったと伝えられている。「おい、こら!」はその名残である。だが、それでも3万人以上の郷士や陪臣は、御一新の恩恵を何ら賜ることなく、「秩禄処分」「徴兵令」を迎えることになる。

付言すると、明治期は「藩閥政治」と批判されることが多いが、地方行政官は意外と能力主義に基づいて公正に採用、配置されていたところがあった。例えば山口県令、県知事は戦前期に1人も長州出身者がいなかった。これに対して、明治初頭の薩摩の場合、県知事も県庁役人も殆どが鹿児島県人で占められ、「独立王国」と陰口を叩かれると同時に、長州人は「薩摩の連中は御一新の意味を全く理解していない」と批判した。長州人は腐敗した側面もあるが、意外と「革命」に忠実だったのである。

まず「秩禄処分」は、明治6年末(1873年)、廃藩置県に伴い家禄を返上した士族に対し、数年分の禄高を半分は現金、もう半分は「秩禄公債」で支給することになった。言うなれば、武士の退職金、失業手当である。ところが、明治初頭は不換紙幣である太政官札を始めとする政府紙幣と国立銀行券が併存して大量発行されていたことや、秩禄処分、殖産産業などのために大量に公債が発行されたことが相まって、高インフレ状態にあった。そのため、現金は間もなく価値を失い、公債の利息もすぐに微々たるものになってしまった。そもそも郷士や足軽は家禄が低いため、禄高に基づく査定はごく低いものでしかなく、「単に武士でなくなった(=定収入を失った)だけ」になってしまった。最多層の下級武士が拝受した公債の金利は、日割りにすると当時の最底辺労働者の賃金の半分以下だった言われる。
歴史学で言うところの「封建的特権の有償廃止」であるが、明治政府の財政事情は十分な補償を許さなかった。明治初年における政府歳出に占める家禄支給額の割合は30%を超えており、封建特権を放置したまま近代化などできるワケもなかったのだ。

話はやや前後するが、徴兵令は明治6年始めに施行される。これは士族特権だった武力行使権を廃止して中央政府に一括集中することを意味したが、士卒階級からすれば「町人に権限を奪われた」形となった。同時に、士族に家禄を支給する根拠が失われた。
徴兵制の導入については、西郷隆盛を筆頭に主に薩摩閥から強い反対意見が出され、彼らは自然と士族が中心となる志願兵制を主張した。だが、最終的には「武士の軍隊では近代戦は戦えず、国民軍が不可欠」という長州閥の意見が大勢を占め、徴兵制の導入が決められた。最終的には「皇軍」なる怪しげなもの(天皇の私軍)になってしまうものの、明治初頭のこの段階では「四民平等の国民軍」が志向され、そのため武士は武権を失い、武権に伴って設定された家禄を失うことになった。
明治9年の廃刀令は、士族に唯一残された個人武装権をも剥奪されるというもので、現実には象徴的なものであったが、精神的打撃は大きかった。

「征韓論」に象徴される「明治六年政変」は、まさにこの時期に起きた。征韓論の説明は省略するが、長州閥と薩摩・大久保派を除く薩摩、土佐、肥前閥がこぞってこの時期に外征を主張した背景には、どの藩でも抱えていた士族の失業問題を解消、抑制するために、徴兵制が軌道に乗る前に大規模な外征を行って大動員を果たしたい、という狙いがあった(どこまで自覚的だったかは不明だが)。この辺の背景は、根源的には豊臣秀吉の朝鮮出兵とよく似ている。
ところが、紆余曲折があり、多数派だった征韓派は敗れ、西郷(薩摩)、板垣、後藤(土佐)、江藤、副島(肥前)の5人の参議が辞職した。これに伴い、薩土を主とする官吏、軍人600人ほどが同調、下野するが、うち軍人は400人超と見られる。
同時代を扱った小説では、「征韓派が一斉に下野して大混乱に陥った」などと書かれているが、当時の近衛兵(御親兵)1万人のうち、薩摩兵が4千、土佐兵が2千程度だったことを考えると、薩摩・土佐兵のうち征韓派に同調したのは10分の1にも満たなかったことが分かる。やはり、小説は小説であり、注意して読む必要がある。
この明治六年政変で征韓派が下野したのは、明治6年10月のことであり、その12月に上記の「秩禄処分」が開始されたのだから、士族からすれば「どこまでも救いが無い」と考えてもおかしくなかった。

秩禄処分は、激変緩和措置として当初は「家禄の自主返上者」のみを対象にしていたが、上記の通り補償が不十分だったため、一向に返上は進まず、業を煮やした明治政府は、明治9年(1876年)、秩禄処分を全士族への強制適用を決定した。
熊本・神風連の乱が同年10月、西南戦争が翌明治10年1〜2月に始まったことを考えれば、「封建的特権の廃止」こそが、士族反乱の最大の原因だったと考えるのが合理的だろう。
下野した西郷らは、鹿児島で「私学校」をつくり、士族子弟の教育を担うことで暴発を止めようとした、と今日では美談のように語られるが、その生徒数は700人程度で、原則的には城下士に限定されていた。つまり、「上京できず就職できなかった城下士」のみを対象にしていたのであり、郷士や陪臣などはここでも放置されていた。もっとも私学校は、鹿児島県下に支部をつくって郷士の組織化に努めていたようだが、実態はよく分からない。全体で見ると異なる風景も見えるかもしれない。

西南戦争で西郷軍が動員したのは鹿児島県人2万3千人だった(日向を含めると2.6万人)。鹿児島の武家当主3万7千人に対し、上京・就職できたのは7、8千人程度に過ぎず、鹿児島県庁に就職できた士族層を考慮しても、御一新で家禄を失い、失業した士族層が、倒幕戦のために準備された武器を持って反乱に立ち上がったと見るのが最も自然なのではなかろうか。仔細に見ると、私学校党が1万3千人、徴募兵が1万人となっている。つまり、「上京就職できなかった城下士とその子弟」が中核を担い、鹿児島近郊の郷士(麓郷士)を動員して初期兵力の1万3千人をなしたと見て良い。意外と外城郷士や陪臣層には不参加だったものが多く、それらは徴募という形で強制徴召集せざるを得なかったのだろう(初期動員時にも志願強要があった模様)。戦後の口述書や上申書の類いを見ると、意外と「場の空気で志願せざるを得なかった」とか「私学校党の区長に強要されて」などの供述が多いことが分かる。
鹿児島は単に武士が多すぎたのである。

【追記】
西南戦争における薩軍の戦死者は、薩摩大隅で3,263人、日向で650人だった。戊辰戦争の500人に比して、あまりにも大きいツケを支払わされたと言えよう。

【追記2】
最終的な薩摩武士の動向を大ざっぱに推計すると、西郷軍参加者が3万人(後方配置含む)、政府側についたものが1万人強、逃亡または動員拒否者が1〜2万人と考えられる。詳細は既存の郷土史研究を精査する必要があるので、良い資料をご存じの方がいらしたら是非とも紹介いただきたい。
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2017年02月08日

西南戦争の原因を考える・上

西南戦争の原因についてネットで論争しているのを見かけ刺激を受けたので、一説ぶってみることにした。
西南戦争の原因については、いまもって定説が無い。それは首謀者とされる西郷隆盛が戦争(反乱)目的について何一つ語らなかったためだった。結果、様々な仮説が立てられているが、仮説のままになっている。主なものを挙げると、「征韓論に敗れたため(安保政策の相違)」「欧化政策への不満」「士族特権廃止への不満」などがある。
このうち征韓論については、外征策が否定されたことが、果たして3万人もの人が武装蜂起する理由になるかと言うと、当時の空気感を考えても疑問を禁じ得ない。欧化政策については、反乱参加者の中に留学帰りのものもおり、3万人が武装蜂起する根拠としては弱い。士族特権の廃止は、最も合理的な理由ではあるものの、現実の西郷軍は同じく明治政府に不満を持つ他藩士からの協力申し出に恐ろしく冷淡だった。但し、最終的には7千人からの非薩人が参加している。

大きな社会現象を1つの原因の特定するのはあまり意味が無い。例えば、「第二次世界大戦は何故起きたのか」を考えた場合、その原因をヒトラー一人に負わせることは、むしろ事の本質を見失わせるだけにしかならない。
だが、そうは言っても、いくつかの原因を挙げて影響の大きさを論じることには意義があると考える。

そして、西南戦争を含む明治初頭の士族反乱について、必ず考慮すべき要素がある。それは「失業」だ。
まず、士族反乱の先鋒となったのは、長州諸隊の反乱だった。戊辰戦争は、明治2年(1869年)5月に北海道・箱館を拠点とする榎本武揚らの旧幕軍が降伏したことで終結する。同年7月には版籍奉還がなされるが、同11月、長州藩は財政再建を理由に長州軍(諸隊)5千人余のうち3千人をいきなり解雇、残る2千人余を「御親兵」として朝廷(新政府)に差し出して自らを武装解除してしまった。
これは「御一新・王政復古(中央集権)により諸藩が独自の軍を持つ必要は無くなった」という解釈の下、維新を推進した長州藩が他に範を示そうとして行う意図もあった。当時としては、革命思想の先端を行ったものだったが、解雇された者としては「維新を担って、幕軍を打ち倒したのはオレたちじゃねぇか!」という怒りを覚えるのは当然だった。しかも、拙いことに、解雇に際しては一時金もまともに支払われず、雇用継続の御親兵には士族階級が上から優先配置されたため、下級藩士や町人階層から「騙された!四民平等などウソだった!」という声が上がった。
結果、11月末には解雇に反対する不満分子が千人以上集まり、翌明治3年1月には蜂起、山口藩議事館(県庁)を包囲、藩兵を撃退、排除する事態に陥った(脱隊騒動)。1月末までには、農民一揆も加わって2千人を超える軍勢となり、新政府幹部の顔を青ざめさせた。そこで、2月には長州閥のリーダーである木戸孝允が自ら兵を率いて鎮圧に向かい、激戦の上、平定している。
現代の教科書等では、7年後に起きる「萩の乱」の方が大きく扱われているが、同乱の参加者は2〜300人でしかなく、政府が受けた衝撃は奇兵隊反乱の方がはるかに大きかった。

ここで戊辰戦争期の人口動態と動員力を考えてみたい。長州藩の場合、支藩を含めると、明治初年の人口が79万人で、うち士族2万人、卒族(足軽階級等)が2万3千人で、士卒の割合は5.4%とほぼ全国平均にあった。この数字は家族を含めるので、このうち戦時動員可能なのは7〜8分の1程度、実数にして6千人弱でしかない。長州戦争や馬関(下関)戦争に際し、高杉晋作が平民の志願兵で「奇兵隊」を結成したのは、兵力不足を補うためだった。ちなみに、小説等では八面六臂の活躍をする奇兵隊・諸隊だが、その実数は定数で1500人、実数で2千人超であり、世間の評価は過大と言える。
戊辰戦争における長州藩兵の死者は約500人、他に禁門の変、下関戦争、長州戦争等の死者が約千人なので(禁門の変だけで半分)、明治初年における長州藩兵が「5千人余」というのはごく現実的な数字なのだが、このうち士族は2千人前後と考えられるので、士族のみを御親兵にして雇用を守り、残りの足軽、中間、陪臣(家臣の家来)、平民を問答無用で解雇したのが、「脱隊騒動」の本質だった。
第一次世界大戦以降、戦死者の数が急増するので感覚が麻痺してしまっているところがあるが、民兵を含めて7500人の兵のうち1500人の死者を出した(戦死率20%)長州は、まさに「革命の推進者」だった。
鳥羽伏見の戦いが勃発して、長州藩執行部が倒幕戦を決心した際、実質上の軍最高司令官だった大村益次郎(村田蔵六)は、「この現状で幕府と戦争などできるわけがない。少なくともあと数年は必要だ」と(キャラに似合わず)叫んだとされる。
ちなみに、農民出身の大村に藩軍指揮を任せていた一点だけでも、長州藩は時代の革命者だったと言える。
以下続く
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2016年11月26日

恐父の大魔王と鬼いちゃん

秩父宮の回顧によると、子どもの頃、毎年3度祖父である明治帝の下に伺候したが、恐怖のあまり全身が硬直し、下を向いて立っているのがやっとだったという。しかも、明治帝はウムとかデアルカとしか言わないため、結局祖父がどんな顔でどんな風に話すのか知らずに終わった。それが、東宮御所に帰ると、父である嘉仁親王はひっきりなしにしゃべりまくり、食事が終わると母の節子妃がピアノを弾いて、侍従や女官もまざって一緒に合唱するという有様で、同じ家の出来事とは思えなかったらしい。

わが家も似たところがあり、ただし祖父がめっぽう優しく温厚な人で、対して父が恐怖の大魔王状態にあった。私は家の中では、いつも「いかに父と顔を合わせないようにするか」ばかり考え、父に呼ばれると全身硬直させて前に出たものだった。父が早世して私が思ったのは、「これで自由になった」だった。中学生の時の話である。
ただ、今から思えば、自らの寿命を悟った父が私の将来を案じ、ことさら厳しくしたという側面はあったかもしれない。『四月は君の嘘』の有馬家に通じるものがあった。

優しかった祖父も、その父(曾祖父)は厳格で気難しく、暴力を振るったり、無用に厳しいことを言うわけではないが、恐くていつも逃げて回っていたという。
貴族の家というのは、そういう傾向があるのかもしれないが、おかげで私は「父親業とか死んでもムリ」と思ったまま今日に至っている。

「戦国三大悪謀家」(斎藤道三、松永久秀、宇喜多直家だが、毛利元就が加わることもある)の一人として知られる宇喜多直家の弟忠家は、生涯兄に付き従い、時に領内整備を指揮し、時に総大将を務めた。直家の死後も長命したが、後年「兄はそれは恐ろしい人で、必要とあらば親だろうが子だろうが殺すことに何の躊躇も覚えませんでした。私などは、兄に召されるとそのつど死を覚悟し、上下の下に鎖帷子を着込んで御前に出たもので、生きた心地がしませんでした」旨を述懐している。出家号を「安心」としたことも、色々なことを想像させる。

「家族の絆」とかマジで軽々しく言わないで欲しい。
posted by ケン at 12:00| Comment(2) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月10日

蓮舫氏国籍問題の諸相・補

先の稿について、歴史的経緯を補足しておきたい。

台湾は、1895年4月に締結された日清講和条約(いわゆる下関条約)によって清国から日本に割譲された。だが、締結時には日本はまだ台湾を占領下においておらず(休戦4日前に膨湖島を占領したのみ)、5月には在台漢人を中心に「台湾民主国」の建国が宣言された。これを受けて、5月末に日本軍が台湾に上陸し、「乙未戦争」が始まった。台北はすぐに陥落したものの、全島でゲリラ戦が展開され、平定は11月になった。日本軍は、7万6千人が上陸、5千人以上の死傷者を出しており、抵抗の大きさが伺われるが、日本の教科書や歴史書に書かれることは殆ど無い。

下関条約は第5条で、台湾住民に対し、2年の期限内に退去しない場合には「日本国の都合により日本国臣民とみなすことあるべし」と定め、日本政府の裁量で日本国籍の取得を認める方針を示した。ただ、これは漢人・漢族に限った話で、先住民については「化外の民ゆえに皇民として教化できた暁には臣民と認める」という方向性だった。

1896年3月には、「台湾に施行すべき法令に関する法律」が施行され、台湾における立法事項は、帝国議会等の立法をそのまま適用するのではなく、台湾総督の律令(命令)をもって施行する方式が採用された。これが「外地」の誕生となる。
同時に国勢調査が進められ、「台湾戸籍」がつくられるが、内地の戸籍との互換性がなく、婚姻や養子縁組に大きな支障があった。これが緩和されるのは、1933年のこととなる。
なお、「台湾戸籍」はあくまでも本島人を対象にしており、先住民については「蕃社台帳」に登録された。
そして、戸籍の本籍が内地にあるか外地にあるかで、同じ日本臣民の中で「内地人」と「外地人」に区別がなされた。その外地人の中でも、「本島人」と「蕃人」に分けられた。
戸籍には「本籍不動(本籍転属禁止)の原則」があり、抜け穴が無いわけではなかったものの、同じ帝国内に深い溝があったことは強調しておくべきだろう。

帝国とは複数の国家・領域や勢力・民族を支配する体制(システム)を指す。一般的には帝国というと、一民族が他民族を抑圧的に差別して支配するシステムというイメージが強いが、実情はそうではなく、むしろ単一性の高い民族国家の方が少数民族に対する抑圧が強い傾向がある。これは多民族国家を前提として国民統合を図る帝国と、一民族の自存を目的として国家共同体を存立させている民族国家との違いによるところが大きい。
大日本帝国の場合、江戸幕藩体制を統合する目的で帝国を建国し、「大和民族の統合」については一定の成果を挙げたものの、台湾や朝鮮を併合するに及び、帝国の原理を逸脱してしまった。結果、第二次世界大戦において日本は植民地からの戦時動員に難儀することになる。

1937年7月に日華事変・日中戦争が勃発すると、日本はあっという間に兵力不足に陥る。総力戦体制への移行が課題となる中で、戸籍法が施行されていない植民地からは徴兵することができなかったためだ。
台湾では、1942年4月に陸軍志願兵制度が施行され、43年9月には東条内閣が45年度より徴兵を実施することが閣議決定した。これを受けて、43年11月に兵役法が改正されて、「戸籍法又は朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受くる者」の文言が削除され、戸籍法の適用有無に関係なく兵役義務を課すことができるようになった。動員された台湾人は20万7千人に及び、戦死者は3万人だった。
なお、徴兵制の施行に伴い、1945年4月には衆議院議員選挙法が改正されて、台湾には5名の議席割り当てがなされたものの、総選挙は行われないまま終戦を迎え、同年12月には参政権も停止された。この時も、選挙人資格は「15円以上の納税」という要件が課されており、差別は解消されなかった。

1952年に日華平和条約が発効すると、発効時点で台湾戸籍に入っていたものは自動的に台湾人として扱われ、日本国籍を喪失、内地戸籍にあったものは引き続き「日本人」となされた。この際、現住所や生活基盤の場所などについては、一切の考慮がなされることなく、ただ機械的に本籍地で振り分けがなされた上、台湾人には日本国籍を留保する権利すら与えられなかった。これは、当事者の合意無くして国籍の変更を強要したことを意味し、近代国家の国際慣行(国籍選択権の担保)に反するものだった。
日本国籍を失った台湾人が、日本国籍を取得するためには、他の外国人と同様、帰化申請を行う必要があった。1950年5月に施行された新国籍法は、「日本国籍を失った者」に対して3年以上の居住によって帰化を認めるという要件緩和条項が設けられたものの、旧植民地人はこれに該当しない、というのが政府・法務省の見解だった。
当時、少なくない数の反国民党(反重慶政府)系の台湾人が、「国民党政府に引き渡されるとなると、我々の生命の保証はないから、何とか日本国籍にしてくれ」と日本政府に泣きついたものの、極めて冷淡に拒否されたという。

本稿において重要なのは、蓮舫氏の父君が旧帝国臣民で、日本国籍保持者だった点である。自国の過失により、敗戦という事態を招き、あまつさえ忠義を尽くした植民地臣民に対して日本国籍選択の権利すら与えずに、他国に放逐したという自覚を持たずに、台湾との重国籍を批判するのは、あまりにも無責任ではなかろうか。
帝国を肯定・否定するにかかわらず、我々は、大日本帝国の負債を背負っているのである。

【参考】
『戸籍と国籍の近現代史−民族・血統・日本人』 遠藤正敬 明石書店(2013)
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2016年09月01日

ノリで戦争を選ぶ日本人

先の記事「日露開戦の代償」を書くにあたって、かなり新資料を読み込んだが、あらためて驚かされたのは、当時の日本人の相当数が「いまロシアと戦争しないと大変なことになる」という集団ヒステリーに陥り、それを少壮官僚や若手政治家が利用して、内治派の元老や国際協調派の明治帝を押し切ってしまった事実だった。
それは、司馬史観が言う「明治人たちは優秀だったのに、昭和に入ると別人になってしまった」という設定自体が虚構、あるいは司馬らが「信じたかった」ものだったことを示している。

ここで敢えて説明し直すと、もともと日露開戦前、日本政府は「朝鮮半島の独占的権利を確立し、ロシアに認めさせる」ことを政治目標とし、この点については元老を中心とした内治派も、少壮官僚や若手政治家を中心とした外征派もほぼ一致していた。ただ、手段として、内治派は「あくまでも対露交渉がメイン」としたのに対し、外征派は「軍事同盟などの国際圧力を駆使し、武力行使も辞さず」というスタンスだったことが大きく異なっていた。
ところが、日英同盟が成立し、日露交渉が難航すると、いつしか「極東におけるロシアの脅威を全面的に排除する」という方向で話が進んでしまい、国内世論もどんどんヒートアップして「戦争するなら今でしょ」「やらないとか言うヤツは国賊」という流れになり、外征派としても「振り上げた拳は下ろせない」形になってしまった。
そして、ほぼほぼ成立していた日露交渉を「聞かなかった」ことにして、日本は対露宣戦布告して開戦と同時に奇襲攻撃を行った。その代償は、9万人の死者、80年にわたる借金の返済、そして身の丈に合わない軍事大国への道だった。
私が強調したいのは、政治目的を達成するために軍事力を駆使する本来の姿と異なり、当時の日本人は武力行使そのものを目的としてしまったことであり、この点、明治人も昭和人も実は大差なかったのではないか、ということである。

昨年には「日清戦争の「勝利」を検証する」を著した。
日清戦争は政策担当者の主観的には外交交渉の敗北を軍事的勝利をもって上書きすることを目的とし、政治的には朝鮮半島から清国の影響力を排除して日本の単独的影響力を確立することを目的として始められた戦争だった。
結果的に日本は軍事的勝利を収めて清国を屈服させ、客観的にも主観的にも勝利を収めた。ところが、本来の戦争目的である「朝鮮の独立(独占的支配権の前提)」については、朝鮮を清帝国圏から脱しせしめたものの親露国にしてしまい、今度はロシアの影響力を排除するために(より難敵である)ロシアと戦争する必要が生じてしまった。
朝鮮が親露国になった直接的原因は三国干渉にあるが、これは日本が清国をめぐる暗黙の国際合意に配慮せず、また他の列強の後援(了解)を得ずに清に過大な要求を行った結果、生起したものだった。
その三国干渉が切っ掛けとなって列強の対清侵略が進み、清帝室の威信は低下、財政的にも破綻して瓦解、日本は交渉相手を失うが、同時にこれを奇貨として大陸進出を図って行くことになる。日本の帝国主義的欲求を刺激したのは、日清戦争における過大な勝利と要求だった。
つまり、日清戦争も軍事的には勝利したものの、本来の政治目的は達成できず、むしろいたずらに清、ロシア、韓国の警戒心と疑心を煽る結果に終わった。やはり、「政治目的を達成するための武力」という原則は貫かれていない。日清戦争においても、同じく国論が沸騰し、元老以外の殆どで開戦論が主張されている。

一昨年には、「文民統制と和平交渉」で日華事変初頭における盧溝橋事件と南京進撃の意思決定を検証した。
この頃になると、そもそも政治目的が不明で、私も色々読み込んだが、近衛首相を始めとする政府要人が「日本の国益として何を目指していたのか」すらよく分からなくなっている。結果、日本政府は要求水準をいたずらに上げて和平交渉を自らブチ壊す一方、国民世論はマスゴミを中心に「暴支膺懲」でヒートアップし、対中武力行使を全面的に支持した。ここでも、武力行使そのものが目的と化してしまい、「武力によって獲得すべき政治目的」が分からなくなってしまっている。
敢えて昔との違いを言えば、日清戦争が「政治的失敗を武力で挽回」、日露戦争が「政治目的はあったけど、武力行使でより多くの成果が達成できそうだったし、今さらやらないとは言えないからやってみた」のに対し、日華事変は「ちょうど良いときに火が付いたので、やれそうだからやってみた」という程度でしかない。確かに症状としては、後世になるほど悪化しているものの、マキャベリズム的な思考からすると、どれも「政治家が愚劣で何も考えていないから、安易な武力行使に走った」と評価せざるを得ない。当然のことながら、これが日米戦になるともっと酷くなる。
要は、いずれの戦争もおよそ合理的判断に欠けているのだ。

他方、本ブログではソ連の武力行使に際する意思決定も検証している。「ソ連のアフガニスタン介入における意思決定過程」では、ソ連共産党指導部が「ソ連人300人殺害」という大事件が起きながらも自制を働かせ、参謀本部や外務省がそれぞれ専門的な理由から反対する中、最終的には長い議論を経て「アフガニスタンの同志からの要請は断れない」「同国に親米政権が樹立すれば弱い腹部がさらされる」「これまでの投資が無駄になる」などの理由から軍事介入を決断している。
最終的には失敗し、国際社会からも「悪」と断じられたものの、そこには少なからぬ合理的判断(明確な政治目的)と十分な議論が存在した。

プラハの春−ソ連の対応と誤算」では、チェコスロヴァキアへの軍事介入を決断したブレジネフ執行部の意思決定を検証した。経済改革と保守派の追放に始まったチェコスロヴァキアの改革が共産党による統制を失い、党内の分裂も相まって制御不能に陥り、共産党体制の瓦解とソ連・東欧ブロックからの離脱が真剣に危惧されたことから介入の決定がなされた。その介入についても、ソ連側はチェコスロヴァキア側に対して再三にわたって警告を発し、ワルシャワ条約機構(WTO)加盟国の首脳会談を複数回行い(ドレスデン、ワルシャワ、ブラチスラヴァ)、調整に調整を重ねたものの、チェコスロヴァキア側の対応に全く変化が無かったため、軍事介入の決断を下している。
この場合も、明確な政治目的が存在し、「他に手段が無い」ことが確認された上で武力行使が決断されており、善悪は別にして十分な合理性が認められる。

一般的には「ロシア人は何を考えているか分からない」と言われるが、それは内側がブラックボックス化しているため思考や意思決定が分かりづらいだけで、実はかなり理性的な議論と判断がなされている。
むしろ日露開戦時にロシア人が驚愕したように、歴史的には日本人の方が「ここで武力行使するの?」という局面で全面行使に踏み切るケースが多く、しかもそこには明確な政治目的が介在せず、意思決定過程も曖昧であるため、合理的判断が介在する余地を狭めてしまっている。
その意味で、現行憲法の第9条が全面的に武力行使を禁じているのは、「我々日本人は、何も考えないで戦争したがるから(しかも反省しないし)、最初から禁止しておこう」という措置と捉えることも可能なのだ。

【追記】
日清戦争に見られる「政治外交的失敗を軍事力で覆す」という手法は、現代でも見られる。アメリカによるアフガニスタン侵攻は、自国が養成した対ソ戦ゲリラや国際テロリストが、自らの手を離れ、さらに噛みついてきたために起こしたものだった。また、同じくアメリカによるイラク侵攻も、湾岸戦争の未処理と中東政策の失敗を軍事力によって糊塗するために行われた面がある。だが、いずれの武力行使も、軍事的には成功したものの、本来の政治目的は達成できず、むしろ米国に対する怨嗟を拡大させて、中東からの撤退を加速させる方向に働いている。
posted by ケン at 12:54| Comment(2) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月20日

日露開戦の代償−開戦経緯を再検証する・下

の続き)
日本側の好条件にもかかわらず、ロシア側の回答は著しく遅延した。極東問題の優先順位の低さや意思決定の複雑さと、皇帝ニコライ二世の憂鬱(趣味の狩猟への逃避と皇妃の病気)が重なり、その回答は12月11日になってしまう。ここでロシア側は、「満州は日本の利益の範囲外」とする条項を削除し、日本側に譲歩した。ただ、「韓国への日本の軍事的援助」を拒否し、「韓国の北3分の1の中立化」と「朝鮮半島の戦略目的での使用禁止」は残したものの、問題となるのはこの3点程度に絞られていた。
だが、日本側はロシア側の遅延を「開戦準備のための時間稼ぎ」と解釈、国民世論や議会はますます開戦に向けてヒートアップし、軍部も「開戦するなら今すぐ」という空気に支配されてしまった。開戦派に鞍替えした『万朝報』を退社した幸徳秋水と堺利彦が、『平民新聞』を発行したのは、11月15日のことである。その第一号の特集は、「非戦論演説会」だった。

日本側は12月16日、首相官邸に元老と閣僚が集まって、ロシア側の第二次回答を検討。山県は満韓交換論で最後の交渉を行うべきだと主張したのに対し、桂首相と小村外相は、「朝鮮問題で日本側要求が受け入れられぬ時は開戦」旨の主張、「開戦ありき」だった。だが、最終的には同23日に、満韓交換論を主とする第三回提案を送付、翌1904年1月6日にロシア側の回答を得るも、「韓国北部中立」「半島の戦略目的での使用禁止」は削除されなかった。
この間、ロシア駐日公使のローゼンは、本国に日本が開戦準備を本格化させ、韓国への出兵を企図していることをペテルブルクに打電している。だが、ロシア側では「日本による韓国占領」を企図したものと認識され、「すぐさま日露開戦を意味するものではない」とする見方が大勢を占めていた。そして、「日本が韓国を占領するなら、それはそれ(やらせておけ)」という冷めた見方が強かった。この辺のロシア人の感覚は、「ロシア帰り」でないとなかなか理解しづらいかもしれない。

日本では開戦論が沸騰し、開戦準備が進む中、04年1月16日に、韓国全土を日本の勢力圏とし、中立地帯の設定を除外する第4回提案をロシア側に提示した。ここで、ロシア側はようやく全面譲歩し、中立地帯の設定を除外した上、韓国の軍事利用を認めない条件で日本の勢力圏化を完全に認めるという、日本側に拒否する理由の無い内容のものとなったが、この回答がローゼン駐日公使の下に届いたのは2月7日のことだった。その前々日には、明治帝から開戦の大命が下され、翌6日には同行使に国交断絶が伝えられていた。日本海軍による旅順口奇襲が行われたのは、2月8日である。
なお、成立寸前にあった日露交渉の内容は、1901年12月に伊藤博文が、独自にヴィッテ蔵相とラムズドルフ外相と交渉してほぼ合意に達しながらも、日英同盟交渉を進める外務省に止められてしまったものと、ほぼ同じものだった。

一年半以上にわたる戦争を経て締結されたポーツマス条約の要点は以下の通り。
1.日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。
2.日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
3.ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する。
4.ロシアは東清鉄道の内、旅順−長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
5.ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。
6.ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。

このうち1と2は開戦前の日露交渉で合意されていたものであり、実のところ日本が戦争で得たのは、3〜6の部分に過ぎなかった。その代償は、9万人近くの戦死者と3万人近い病死者、15万人以上の負傷者であり、税収が2億円のところに19億円の戦費(うち8億円が外債)というものだった。
この戦費について、外債引き受けを担当した高橋是清は、事前に政府に受けたレクチャーで「継戦期間を一年として4億5千万円」と説明されている。1904年の日本のGNPは30億円でしかなかった。
この外債の内実は惨憺たるものだった。
最も規模の大きかった英国債を例に挙げると、一回目と二回目の公債は利率6%で、発行価格が額面の約90%の上、関税収入を担保に入れるという代物だった。
最初から割引して発行していることを考えれば、実効利率は7〜7.5%といったところだった。
三回目と四回目の公債は、若干マシになって、利率は4.5%になったものの、発行価格は相変わらず額面の約90%の上、タバコの専売収入を担保に入れていた。
他方、ロシアの対仏公債は、利率5%、発行価格は額面の99%、担保無しというもので、この差こそが、まさに当時の国際的評価を表していた。
そして恐ろしいことに、日本国が、日露戦争に際して発行した公債の返還を終えたのは、なんと1986年のことだった!
日露戦争のツケ

さらに終戦後、日本は韓国を併合するが、その経営が赤字続きで、1932年の一般会計予算が15億円のところに7千万円も交付金を出して補填しなければならなかった。
一方、ロシアでは革命が勃発、第一次革命は鎮静させたもの、帝政の終焉を早めたことは間違いなく、ソ連というより強大な脅威を作り出す遠因になった。そして、韓国や樺太などを防衛するためとして、シベリア出兵や満州事変が起こされ、「ソ連の脅威」に備えるため陸軍の際限なき軍拡が進み、日本の重工業や民政発展に深刻な打撃を与えた。

日露協商は、むしろ成立しない要素の方が少なかったにもかかわらず、タフな交渉を捨て、安易な武力行使に走った結果、日露両国にとって不幸な歴史の原因をつくってしまった。王道では無く、覇道スタンスを採るとしても、当面を満韓交換論=日露協商でやり過ごしておけば、遠からずロシアは第一次世界大戦に巻き込まれて窮地に陥ったのであり、満州進出はそれからでも十分だったはずだ。
我々は「明治の栄光」などという観念を捨て、改めて謙虚に歴史を検証すべきなのである。

【参考】
『日露戦争 起源と開戦』 和田春樹 岩波書店(2009)
『日露戦争研究の新視点』 日露戦争研究会編 成文社(2005)
「日露戦争−開戦にいたるロシアの動き」 和田春樹 ロシア研究78号(2006)
「日露戦争と日本外交」 伊藤之雄 防衛省防衛研究(2004)
「日英同盟締結後における日露の外交方針」 千葉功 日本歴史581号(1996)
「ロシア帝国と日露戦争への道−1903年から開戦前夜を中心に」 加納格 法政大学文学部紀要53号(2006)
「政治指導者の国際秩序観と対外政策−条約改正、日清戦争、日露協商」 佐々木雄一 国家学会雑誌127巻(2014)
「日露戦争観の過去と現在」 千葉功 新しい歴史学のために288号(2016)
日露戦争のツケ」 
朝鮮統治のツケ」 
「日清戦争の「勝利」を検証する」 
ソ連のアフガニスタン介入における意思決定過程

【追記】
映画『二百三高地』は、『仁義なき戦い』の笠原和夫が脚本を担当、「明治天皇が遠く戦地の乃木を思う場面なんかよりも、豆腐屋とか幇間とかやくざみたいな連中が戦場に送られてどうなってこうなって」という方針でつくられた。だが、ラストで乃木が明治帝の前で報告する場面は、当初史実に基づき、帝が冷淡に報告を聞き置く形にしたところ、東映の岡田社長に「お前、それじゃあ客がはいらへんぞ。報告する乃木も、報告を聞く明治天皇も皇后も滂沱と盛大に泣かしてくれや」と言われて、書き直されたという。「歴史」はこうやってつくられてゆく。

【追記2】
なお、明治帝は、日清戦争に引き続き、日露開戦に際しても常に慎重派であり続けた。開戦直前の1904年1月5日に米フィリピン総督タフトに接見した際には、「朕に於ては今日迄も其局を平和に解決致したくと努め居り、尚ほ其方針を以て時局を結了せんことを覚悟し居れり」と述べている。また、廟議で開戦が決せられた2月4日には、内廷に帰った際、「今回の戦は朕が志にあらず」と誰に対してでも無く独り言のようにつぶやいたとされる。さらに、その日の夜は一睡もできず、戦争中も食事も睡眠もままならない日が続き、命を縮めてしまったのは周囲の目からも明らかだった。戦争末期に樺太作戦が上程された際も、「列強の介入を招くのではないか」と慎重姿勢を見せ、すぐには裁可しなかった。両戦争に際して、元老を含む政治家たちよりも天皇の方が大局観を有していたというのは、何とも皮肉な話である。

【追記3】
開戦時の「露国に対する宣戦の詔勅」には以下の一文があるので付記しておく。
帝国の重を韓国の保全に置くや一日の故に非す。是れ両国累世の関係に因るのみならす韓国の存亡は実に帝国安危の繋る所たれはなり。然るに露国は其の清国との明約及列国に対する累次の宣言に拘はらす依然満洲に占拠し益々其の地歩を鞏固にして終に之を併呑せむとす。若し満洲にして露国の領有に帰せん乎韓国の保全は支持するに由なく極東の平和亦素より望むへからす。故に朕は此の機に際し切に妥協に由て時局を解決し以て平和を恒久に維持せむことを期し有司をして露国に提議し半歳の久しきに亙りて屡次折衝を重ねしめたるも露国は一も交譲の精神を以て之を迎へす。

現代語訳:日本帝国が韓国の保全を重視してきたのは、昨日今日の話ではない。わが国と韓国は何世代にもわたって関わりをもっていたというだけでなく、韓国の存亡は日本帝国の安全保障に直接関係するからでもある。ところが、ロシアは、清国と締結した条約や諸外国に対して何度も行ってきた宣言に反して、いまだに満州を占拠しており、満州におけるロシアの権力を着実に強化し、最終的にはこの土地を領有しようとしている。仮に満州がロシア領になってしまえば、わが国が韓国の保全を支援したとしても意味がなくなるばかりか、東アジアにおける平和はそもそも期待できなくなってしまう。従って、朕はこうした事態に際して、何とか妥協しながら時勢のなりゆきを解決し、平和を末永く維持したいとの決意から、臣下を遣わしてロシアと協議させ、半年の間くりかえし交渉を重ねてきた。ところが、ロシアの交渉の態度には譲り合いの精神は全くなかった。
posted by ケン at 12:00| Comment(4) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする