2018年04月26日

「米内を斬れ!」の遠景を望む・下

前回の続き
日中戦争についてはもう二点ある。
あらゆる休戦工作が頓挫して日華事変が泥沼化する1938年末、海軍は重慶爆撃を提案する。これは、当時最先端の理論だったジュリオ・ドゥーエの戦略爆撃論に基づいたもので、都市に対する無差別爆撃によって首都住民をはじめとする国民の抗戦意思を挫く考え方だった。当時は「理論倒れ」と見る向きも強かったが、日本海軍が1935年に採用した九六式陸上攻撃機(中攻)の存在が実現可能にしていた。例えば、同作戦を主導した伯父上は、「われわれは海軍航空隊による重慶を初めとする中国奥地戦略要点の攻撃に重点を置いており、その成否は、当面する支那事変解決の鍵であると確信している。この作戦は、日露戦争における日本海海戦にも匹敵するものであるとの認識のもとに、全力投球している」と述べている。
この重慶爆撃についても、陸軍は軍事的効果と外交的影響の両面から否定的で、遠藤三郎らの強い反対もあって途中から参加を拒否したほどだった。実際、重慶爆撃はむしろ国民政府に対する支持を強めただけでなく、連合軍による日本本土に対する無差別爆撃や原爆使用を正当化するネタにされてしまった。

もう一つは海南島上陸である。1939年2月、日本海軍は海南島に奇襲上陸を行い、以後6半年にわたって、海軍管理の軍政下に置いた。海南島は、南シナ海を隔ててフィリピン・ルソン島を1000キロ以内に収め、東の対岸は仏領インドシナという戦略的重要地点にあった。1000キロ以内というのは、上記の九六式中攻や零戦の攻撃範囲内であることを意味する。また、連合国による援蒋ルート(ハノイとビルマ)を遮断するためにも航空機の作戦距離内に飛行場をつくる必要があった。
それだけに、対米英戦を想定していた海軍軍令部はかねてより海南島攻略と基地設置を要望していたが、戦線拡大や米英仏への刺激を懸念した陸軍の反対もあって、先送りになっていた。これも当時の米内海相(平沼内閣)がゴーを出す形で、海軍が単独(陸軍的には勝手に)で作戦を強行するに至っている。海軍陸戦隊による治安戦(ゲリラ討伐)と慰安婦や奴隷化を強要した占領政策は、今日に至るまで日中間のトゲとなっている。
この海軍による海南島占領と、それに伴う39年3月の新南群島(南沙諸島)領有化宣言(高雄市編入)は、陸軍が危惧した通り連合国を硬化させ、米英仏による抗議を初め、米国では対日経済制裁論が高まって、くず鉄の事実上禁輸が実現した。そして、日本側は逆に「毒食らわば皿まで」とばかりに自ら南進論を規定してしまった。

これらの全てを海軍の責任に帰して、「日中戦争は海軍の陰謀だった」とするのは乱暴すぎるとは思うのだが、少なくとも阿南大臣のいまわの際に「米内を斬れ!」と言わせるには十分の状況証拠があったとは言えるだろう。
日中戦争以外にも二点ばかり「陸軍の怨恨」の根を紹介しておきたい。

一つはガダルカナルである。1942年8月のガダルカナル上陸は、米豪遮断作戦の一環として行われた。これは、元もと海軍側が要望した豪州上陸作戦に対して、陸軍が「日中戦争やってて、ビルマにも行かないとなのに、どこにそんな戦力あるの!」と逆ギレした結果、妥協の産物として「じゃあフィジーでいいよ(米豪分断作戦)」となった経緯から生まれたものだった。実際には、軍令部員も参謀本部員もガダルカナルがどこにあるかも知らず、イギリス製の地図で位置を確認するところから始まったとされる。この時も陸海の事前協議が不十分で、陸軍内には「海軍が勝手に上陸して飛行場を作ったのに、何で陸軍が守らないとならないんだ!」と叫ぶ者が少なくなかったという。
そして、陸軍側は、(一応は)継続的な補給について懸念を示したものの、海軍側は制海権と制空権を保証してきたため、「ノモンハンの生き残りでミッドウェーで使い潰す予定だった一木支隊ならまぁ良いか」と差し出したところ、上陸から数日で全滅してしまう。その後、陸軍は戦力を逐次投入する形で最終的には3万6千人を送るが、2万2千人以上を戦病死(大半は餓死と病死)させて撤退するところとなった。
陸軍的には、「海軍が当初の戦略通り、漸減作戦を実施した上で、マリアナで米海軍と一大決戦を行っていれば、ソロモンやニューギニアの悲劇は回避できた」という思いが強いのだ。

二つは、1944年10月のレイテ島である。フィリピン防衛については、もともと陸軍はルソン島を要塞化して米陸軍を引きずり込んでドロドロの持久戦を行う予定で、「(レイテを含む)その他の島は海軍が担当」と協定まで結んでいた。
だが、同時期に生起した台湾沖航空戦で海軍が過大な戦果(95%ウソ)を発表した結果、天皇を含めて「早期決戦を!」と国論が沸騰、敗北続きの参謀本部は抗しきれずに、現地軍(第14方面軍)の強い反対を押し切って、「レイテ決戦」に舵を切った。この際、昭和帝は「海軍が捷一号作戦を発動して、米太平洋艦隊に決戦を挑むというのに、陸軍はルソンに籠もるのか(何もしないのか)」旨を仰せられたという話もある。
これに対し、14方面軍の山下司令官は、台湾航空戦の戦果発表に懐疑的で、「制空権が無いままレイテ島に兵員、物資を送るのは殆ど不可能」と意見具申したものの、寺内南方総軍司令官が「元帥命令」を発してレイテ決戦を強要した。
なお、海軍は発表した台湾沖航空戦の戦果の大半が「誤認」であったことを確認した後も隠蔽し続け、10月20日に行われた陸海軍合同作戦会議においても陸軍に伝えないまま、「ルソンからレイテへ」が決定された。

結果、レイテ海戦では連合艦隊が壊滅、陸戦では米側上陸兵力20万人に対して戦死3500、日本陸軍が投入した兵力は8万4千人に対して戦病死7万9千人(軍司令官、師団長級も4人戦死)という歴史的大敗を喫した。
このレイテ決戦のためにルソン島から抽出した戦力を補うため、台湾の第十師団がルソンに、沖縄の第九師団が台湾に引き抜かれ、翌45年4月からの沖縄戦で兵力不足に陥るところとなった。

ガダルカナルとレイテの二カ所だけでも、「海軍の横暴」で陸軍兵士が十万人以上死んでいることが分かる。陸軍の作戦指導は大いに疑問だが、陸海軍の連携の酷さは想像を絶するものがあったのだ。
その海軍の代表者である米内が、したり顔で陸軍の責任と早期終戦を唱えていたのだから、阿南でなくとも少し視野の広いものなら「海軍にだけは言われたくない」と思うのは当然だったと言えよう。
同様に、今もって一般的には「海軍善玉論」が幅をきかせているが、相当懐疑的に検証し直す必要がある。
なお、昭和帝は戦後、
「陸軍、海軍、山下皆意見が違ふ。斯様な訳で山下も思切つて兵力を注ぎこめず、いやいや戦つてゐたし、又海軍は無謀に艦隊を出し、非科学的に戦をして失敗した。」

と回顧しているが(寺崎英成『昭和天皇独白録』)、まるで他人事である。

【参考】
『海軍の日中戦争 アジア太平洋戦争への自滅のシナリオ』 笠原十九司 平凡社(2015)
「日中戦争の拡大と海軍」 手嶋泰伸 『年報・日本現代史』第22号所収(2017)
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2018年04月25日

「米内を斬れ!」の遠景を望む・上

終戦時の陸軍大臣だった阿南惟幾は、自決前に義弟の竹下正彦中佐と杯を交わしたが、その際に「米内を斬れ!」と口走ったとされる。その真意については、実際に耳にした者たちも解釈に戸惑ったようで、今日に至るまで定説はない。実際のところ、阿南は相当に酩酊していたようで、どこまでが本意だったのかは今では分かりようもない。最も一般的なところでは、「和平論の首魁で、陸軍を責め立てた米内に対する個人的感情」という解釈があるが、和平論者という点では東郷外相の方がより急進的だったはずだし、「聖断」に持ち込んだ鈴木総理の策士ぶりも槍玉に挙げて良さそうなものだ。

だが、最新の研究を踏まえてより広い視野で見た場合、異なるものが見えてくる。その最大の問題は、日中戦争の開戦責任である。
日中戦争の開戦責任は、1937年7月に盧溝橋事件で国府軍と戦端を開いた陸軍(特に牟田口)と、関東軍・朝鮮軍の支援派兵を決めた近衛内閣に帰せられるのが、まず一般的な解釈と言える(中国側の挑発もあるが)。
例えば、当時、参謀本部戦争指導課長だった河辺虎四郎の回顧に依れば、事件の第一報を受けて柴山兼四郎軍務課長(陸軍省)が「厄介なことが起こったな」と言ってきたのに対して、武藤章作戦課長(参謀本部)は「愉快なことが起こったね」と言っていたという。陸軍の中は慎重派と積極派に完全に二分されていた。
また、7月11日の夜、近衛首相は政界、財界、マスコミの重鎮を官邸に集め、挙国一致・国論統一に向けた協力を呼びかけるが、「官邸はお祭り騒ぎのように賑わって」(石射『外交官の一生』)という有様で、やる気満々だったことが分かる。ところが、この近衛は翌8月に訪ねてきた池田純久中佐に対して、「池田君とうとうやつたね。支那事変は軍の若い人たちの陰謀だ」と言ったというから、全く他人事で無責任だった(『陸軍葬送委員長』)。その池田は、戦争を決めたのは貴方ですよと返して、近衛を黙らせている。

だが、盧溝橋事件自体は、1937年7月17日に停戦協定が成立、その後も小規模の衝突を繰り返しつつ、「船津工作」による和平交渉が進められていた。それを潰したのは、海軍による第二次上海事変だった。
詳細は笠原十九司先生の『海軍の日中戦争』(平凡社)を読んでいただきたい(陰謀論に傾きすぎだが)。当時、日本海軍はロンドン条約の失効を経て大建造体制に入っていたが、対米戦の備えとして航空戦備の充実が課題となっていた。しかし、海軍予算は全て新艦建造に回されており、航空予算を確保するためには、小規模の戦争が起こることが望ましかった。仮に日中戦争が生起した場合、陸軍による対ソ戦を回避できると同時に、海軍は自らの艦艇の消耗を防ぎつつ、海軍航空隊の実験と練度向上を図ることが可能と考えられた。
結果、海軍は「大山事件」を利用して(自作自演の疑いがある)、上海で武力衝突を起こし、海軍陸戦隊を勝手に上陸させた上で、陸軍に救援を求めた。陸軍的には全く乗り気ではなかったのだが、当時上海には数万人からの在留邦人がいたこともあって、放置することはできず、二個師団からの上海派遣軍を編成、派兵したものの、上海を重要視した国民党軍は最大戦力を動員して対抗したため、戦力が不足、日本側も大動員したことや日中両軍が空爆を始めたこともあって、全面戦争に発展、船津工作も破綻した。

「上海居留民の保護」を名目に上陸したはずの上海派遣軍が、中国軍と全面交戦するところとなり、長期に渡る対峙状態に業を煮やした司令部が杭州湾上陸作戦を敢行したところ、「裏崩れ」によって中国軍は敗走したものの、今度は日本軍による追撃戦が始まってしまい、戦線拡大が止められなくなった。そして、停戦・休戦交渉が不調のまま南京攻略を行い、虐殺事件が生じたことで、ますます休戦する機会を失っていった。

上海事変後、海軍は大々的に渡洋爆撃を開始、9月に入ると漢口、広東、南昌へと爆撃対象を拡大させ、さらに中国沿岸の海上封鎖を宣言した。北京周辺と上海をめぐる地域紛争は中国全土における全面戦争へと発展していった。
首都の南京進撃が俎上に上がった際も、現地軍は繰り返し南京攻略の許可を参謀本部に求めるが、多田駿次長はこれを握り潰し、国民党政府のメンツが立つ形で講和に導く方針を有していた(トラウトマン工作)。11月24日には、大本営御前会議が開かれるも、近衛首相も米内海相も広田外相も多田の主張に耳を傾けず、12月1日には大陸命第八号を発して南京攻略を命じている。
さらに南京陥落後の翌38年1月15日午前には、大本営政府連絡会議が開かれ、陸軍の多田参謀次長と海軍の古賀軍令部次長が国力の限界から長期戦を戦うことの困難さを説明し、中国側との和平交渉の継続を主張した。ところが、近衛首相「速やかに和平交渉を打ち切り」、広田外相「支那側の応酬ぶりは和平解決に誠意なきこと明瞭」、杉山陸相「蒋介石を相手にせず、屈服するまで戦うべき」、米内海相「統帥部が外務大臣を信用しないのは政府不信任」などと声を揃えて反論され、立ち消えに終わり、近衛総理の「爾後国民党政府を対手とせず」声明に繋がった。
以下、続く
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2018年04月04日

上海敵前上陸

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三好捷三 『上海敵前上陸』 図書出版社(1979)

他にあまり類を見ない、第二次上海事変に出征した下士官による戦場回顧録。
輸送船では切り干し大根のみ、上陸後は6日間補給無し、手渡された手榴弾と缶詰は日露戦争の残り物。上陸して10日後には、本人以外の分隊員は戦死傷などで全滅。伍長なのに一時は中隊長に(200人からの中隊が20人)。80日後、南京に向かって進撃する頃には、67kgあった体重が43kgになって野戦病院に収容、数ヶ月後、帰国除隊。

戦記物は小学生の頃から40年にわたって読み続けているが、日中戦争ネタは最近読み始めたばかりで、まだまだ気づかされることが多い。
日本軍の兵站軽視は十分に認識していたつもりだったが、日華事変勃発当初からロクに機能していなかったというのは驚かされる。筆者は、自分が直接戦闘を避けていたこともあるが、「次にいつ補給が来るか分からない」ことから弾薬を節約、要は小銃を撃たないように心がけ、上陸前に渡された200発の銃弾のうち、倒れて収容されるまでの80日間で使ったのは、わずか70発だったという。西南戦争の方がよほど撃っていただろう。

また、日本軍では白米を渡されて各自で自炊しなければならないため、上海戦のように2カ月間対峙が続くような状態に陥った場合、水を確保するためや炊事の火によって身を危険にさらすことになる。そのため、汚れた小川や池の水で、下手すると生米を水に漬けただけで食することになり、あっという間に赤痢が蔓延、コレラ、チフス、結核などの二次感染を引き起こし、戦う前に戦力を失ってしまう傾向があった。以下、参考。

日本軍歩兵は作戦時に20日分の食糧を携行するが、1日の白米配給量は6合(900グラム)であり、20日分で18kgになったという。これに対してドイツ軍歩兵は5食分を携行しただけだった。当時の日本人男性の標準体格が身長160cm強で体重60kg弱であったことを考えても、行軍時の負担は想像を絶するものがある。これは日本軍の兵站システムが脆弱であったことに起因する。一般的には近代的軍隊における戦闘部隊と兵站機能の割合は3対7から4対6であると言われ、赤軍はこれが5対5であったために1944年以降の対独反攻が何度も中断することになった。だが、日本軍に至っては、5対5以下の6対4に近いとされ、圧倒的に兵站機能が軽視された(現代の米軍は2対8に近づいているらしい)。日本軍の歩兵中隊の場合、戦闘員173名に対して後方支援要員はわずか7名に過ぎなかった。他方、ドイツ軍の1944年型歩兵中隊が、戦闘員115名に対して後方支援要員を53名も有していたことは、当時の日本軍人には想像もつかなかったに違いない。
しかも、日本軍で配給されたのは、現代的なレーションではなく、白米が直に支給され、兵士各自が自炊しなければならなかったため、戦場では炊飯時の煙が敵の砲爆撃を誘うことになり、水に漬けただけの米を食べざるを得ないなど極めて劣悪な環境におかれた。「勤務中に食事する時間など無いはずだ」という某ブラック社長の発言は旧軍の伝統を継承していると言える。また、日本軍には中隊レベルに靴や軍服を修理する機能が無く、靴や軍服の破損を直せずに裸足のままの兵が多数おり、劣悪な衛生環境が強いられ、破傷風や風土病に対して極めて脆弱だった。隊内で靴の盗難や強奪が頻発したことも良く知られている。大本営の拙劣な作戦指導も相まって、日本軍は戦没者の6割を占める140万人を餓死・戦病死させた。
野戦教範に見る日本のブラック性について


しかし、兵站の不備で大苦戦したにもかかわらず、杭州湾上陸という戦術的奇策によって中国軍を敗走、大勝した結果、この問題は全く顧みられることなく、終戦まで放置されるところとなった。なお、ゲーム的な表現を使うと、1937年7月に始まった日華事変・日中戦争は、1939年に入ると支那派遣軍の半分以上が補給不足となり、攻勢を中止、長期持久態勢に移行せざるを得なかった。
もともと、「上海居留民の保護」を名目に上陸したはずの上海派遣軍が、中国軍と全面交戦するところとなり、長期に渡る対峙状態に業を煮やした司令部が杭州湾上陸作戦を敢行したところ、「裏崩れ」によって中国軍は敗走したものの、今度は日本軍による追撃戦が始まってしまい、戦線拡大が止められなくなった側面もある。そして、停戦・休戦交渉が不調のまま南京攻略を行い、虐殺事件が生じたことで、ますます休戦する機会を失っていった。

著者は、九大出の民間エリートだったが、徴兵検査で「甲」と判定されてしまう。徴兵を回避するために、一年志願制度を利用して幹部候補過程に進むが、どうしても軍隊の権威主義になじめず、反抗的態度を繰り返し、将校認定されずに下士官に止められている。この辺りの事情が、いかにも大正リベラリズムと昭和ミリタリズムの相克を象徴しており、非常に興味深い。昭和一桁期は、まだまだ「軍隊何するものぞ」の空気が残っていたことが分かる。
ケン先生の祖父は大正一桁生まれだったが、大正リベラルの洗礼に浴したため、かなり現代人に近いリベラル感覚を持っていたが、その下の世代になると、初中等教育が軍国主義に染められてしまい、感覚的に別物の存在になっているようだ。
手元に置いておきたい一冊である

【追記】
マニアックなところでは、著者の部隊が「西住戦車隊」に窮地を救われるシーンがあり、分かる人は「軍神キターッ!」となるかもしれない。
posted by ケン at 12:27| Comment(2) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月17日

アメリカが支援したソ連の対日参戦

【ソ連の北方四島占領、米が援助 極秘に艦船貸与し訓練も】
 1945年8、9月に行われた旧ソ連軍による北方四島占領作戦に、米国が艦船10隻を貸与していたことを、根室振興局が米国とロシアの専門家による研究成果などを突き合わせ、明らかにした。米国はソ連の対日参戦に備え、大量の艦船の提供だけでなく、ソ連兵の訓練も行っており、米国の強力な軍事援助が四島占領の背景にあったことが浮かび上がった。
 振興局の調査結果によると、樺太南部の返還と千島列島の引き渡しと引き換えに、ソ連の対日参戦が決まった45年2月のヤルタ会談の直後、ともに連合国だった米ソは「プロジェクト・フラ」と呼ばれる合同の極秘作戦をスタートさせた。
 米国は45年5〜9月に掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、護衛艦28隻など計145隻の艦船をソ連に無償貸与。4〜8月にはソ連兵約1万2千人を米アラスカ州コールドベイの基地に集め、艦船やレーダーの習熟訓練を行った。コールドベイには常時1500人の米軍スタッフが詰め、ソ連兵の指導に当たったという。
(12月30日、北海道新聞より抜粋)

これは非常に貴重な発掘。是非とも全容を知りたい。
もともと当時のソ連にオホーツク海や日本海で作戦行動を行う能力は殆ど無く、上陸用舟艇もロクになかったようだ。陸伝いに南下できる樺太はともかく、千島列島を島毎に占領してゆく術は持っていなかった。
史実でも、日本陸軍の戦車第11連隊が駐屯していた占守島の上陸戦では、ソ連側は日本側の1.5倍からの損害を出している。

逆にアメリカ側としては、対日参戦を確実にするために上陸戦のノウハウを提供すると同時に、ソ連側が「やり過ぎ」て北海道に上陸したりしないように、「適度」な援助に止める必要があったと推察される。
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2017年09月13日

総力戦体制とは何だったのか・下

前回の続き)
ここで冒頭の伯父上の話に戻るが、総力戦体制の掛け声に比して、政治指導者や軍幹部が「総力戦の何たるか」を理解していたかと言えば、相当に心許ない。先の野砲の他に、いくつか象徴的な例を挙げておきたい。

例えば、日本の航空機開発は、性能第一主義で、それも極端な攻撃力偏重で生産性は殆ど考慮されなかった。
最も有名な零戦の場合、戦闘機の空気抵抗を少なくするために、鉄板を接合するために打ち付けられたリベットの頭を一つずつ削る作業を行っていたが、これは熟練工が1機ずつ相当な時間をかけて行う必要があり、恐ろしく効率の悪いものだった。
また、被弾面を小さくし、生産資材を減らすために、航空機自体のサイズの極小化が図られたが、これにより同時に投入できる労働者の数が少なくなった他、組み立てなどに際しての些少なズレも許されなくなり、生産管理(質の維持)が難しくなった。
エンジンについても、軽量化と極小化が図られ、そして低オクタン燃料を前提としたノッキング防止性能を持つ「水メタノール噴射法」が1939年に開発、搭載されるようになったが、非常に複雑な構造を持ち、膨大な生産時間を要するところとなった。
こうしたことが積み重なった結果、戦争中に海軍が失った約2万7100機のうち、戦闘による喪失は1万350機だったのに対し、戦闘外の自然消耗は1万6750機と全体の61.8%に及ぶに至った。つまり、欧米の標準的な発想では、零戦は兵器というよりも工芸品に近いもので、量産することを想定した設計とは言えなかった。

そして、問題の本質は、基礎工業力の低さにあった。日本製のエンジンは、同時期の他国主力戦闘機のそれに比して10〜20%も出力が低かった。例えば零戦二一型のエンジン栄一二型は940馬力だったのに対し、英国のハリケーンMk1が1030馬力、Mk2で1280馬力、半世代前(戦間期)のソ連製イリューシン−16ですら1100馬力、零戦二一型と同世代のミグ−3は1350馬力あった。エンジン出力の低さを補った上で、他国機以上の攻撃力(旋回性能、重武装、航続距離)を追求した結果、極めて特殊な、つまり生産コストの高い機体整形となり、同時に機体重量を極限まで減らすために防弾装備、通信機、救命装置などを撤去するところとなっている。
また、当時の日本は石油精製技術も低かったため、高オクタン価の航空燃料を独自で精製できず、アメリカから輸入していたが、日米関係の悪化によって困難になり、上記の特殊な技術を搭載したエンジンを開発した。結果、量産も品質管理も難しくなり、熟練労働者の召集も相まって、カタログスペックからほど遠い低品質の機体を作り続けるに終わった。

もう一つは、大量生産制に移行できなかった点である。上記のような特殊技術満載の機体が量産を拒んだこともあるが、そもそも日本には自動車産業を始めとする、大量生産のための技術的蓄積が無かった。
大量生産の要諦は、部品と作業工程を規格化し、熟練労働者の必要や作業労働者の数を最小限に止めるところにある。ところが日本では、日米開戦の直前まで工場内請負制度に基づいて一機ずつ熟練労働者の手作業でつくられていた。しかも、同じ陸軍や海軍内の戦闘機や爆撃機でも殆ど互換性がなく、戦場で故障すると現地の整備兵が手作業で部品を改造するなどして誤魔化すほかなかった。アメリカ戦略爆撃調査団の報告では、ある時期の日本海軍の航空機の作戦有効率は20%だったとしているが、これは生産された機体の5機のうち1機しか実戦で使えなかったことを意味する(USは80%)。
日米開戦後ですら、ベルトコンベアー式のような大量生産への移行は遅々として進まず、例えば三菱を見た場合、1944年末までに組立工程のベルトコンベアー化を実現させたのは、全国17工場のうち2箇所に過ぎなかった。

人的資源の面でも大きな問題があった。第二次世界大戦ではどの国でも軍隊指揮官=将校が問題となったが、特に日本とドイツでは顕著だった。例えば、日本陸軍の兵科将校の数は1939年の6万7千人が1945年には25万人に膨れあがったが、兵員数もまた124万人から600万人を超えるに至った。つまり、将校一人に対する下士官兵の数は、約17人から25人へと増加している。同時期のアメリカが12人から8人へとむしろ減少させていることは非常に対称的だろう。また、将校全体に占める現役将校の割合は、39年の36%から45年の19%へと低下している。
なお、ソヴィエト赤軍を見た場合、大粛清前の陸軍の将校数は約40万人、うち4万人以上が粛清されたと見られ、1939年段階では38万人程だった。それでも独ソ戦が始まると、あっという間に士官が不足、最終的には全国に100カ所以上の士官学校が設置され、年間3万人以上の養成体制が組まれた。これに対し、日本の陸士は1944年2月入学の60期生でも1824人に過ぎなかった。

現実には、日華事変の緒戦から「士官不足」が指摘されていた。1937年7月の盧溝橋事件に端を発する日華事変は全面戦争となり、38年中には保有する 34 個師団のうち24 個師団が中国戦線に配備され、その動員兵力は23万人、事変発生からの累計だと73万人に達し、日本本土(内地)には1個師団しかいないという状況に陥った。これらの多くは、予備役兵で賄われたが(常設師団で42%、特設師団だと後備兵が66%)、特に小隊長、中隊長クラスの指揮官が圧倒的に不足した。現役士官の不足は予備役士官によって充当するわけだが、とにかく定数を満たすために根こそぎ応召した結果、特設師団の中隊長の中には58 歳の老人がおり、小隊長の殆どは大正期の 1 年志願兵(中卒以上等の学歴を持つ者は費用自弁で志願すると3年現役のところ1年で許され、試験に合格すると予備士官になれた制度、1928年廃止)出身だった。そのため、現地の大隊長や連隊長からは「せめて大隊の 4 人の中隊長のうち 1 人、12 人の小隊長のうちの 1 人くらいは、現役を回してくれ」などという悲痛な訴えが相次いだ。
『華中作戦―最前線下級指揮官の見た泥沼の中国戦線』を著した佐々木春隆は、士官学校、歩兵学校を出た後、1943年に華中戦線の特設師団に中隊長として赴任するが、小隊長は歯科医出身の予備士官、見習い少尉、ベテラン曹長の三人で、使い物になったのは曹長の予備小隊長だけだったが、いかんせん下士官は下士官なので扱いが難しかった旨を回顧している。

これは、もともと少数精鋭主義を謳っていた日本の軍事思想にも原因が求められるが、大正期の山梨・宇垣軍縮などで士官学校の定数が激減されたことも影響している。例えば、陸軍士官学校の卒業人数を見ると、1919年で489人いたものが、1928年には225人、1932年でも315人、1936年でかろうじて388人という有様だった。例えば、1938年段階で中国戦線に張り付いている陸軍23万人で考えた場合、将校と下士官兵の理想割合を1:15と想定すると、1万5千人からの士官が必要になる計算だが、陸士の育成ペースでは40年もかかる計算で、まるで現実的で無かったことが分かる。
この「非現実性」の穴を埋めたのは、一年志願兵制度に替わる幹部候補生制度(甲種)で、日華事変勃発までは年間4千名が採用されたものの、修業期間は10カ月で任期は一年、満了後は予備役に入り民間に戻るというもので、軍事技術者として十分な水準を満たせるものではなかった。
結果、1939年1月時点で陸軍兵科将校の少、中尉の約7割が一年志願兵、幹部候補生出身の応召となり、終戦時には兵科将校25万人のうち20万人以上が幹部候補生となった。なお、水木先生の『総員玉砕せよ!』を読むと、主人公のいる大隊で現役士官は大隊長一人だけのように思われ、非常に興味深い。

上記のようにただでさえ貴重な兵科将校も、「捕虜厳禁」「退却禁止」「自決強要」「玉砕」「特攻」「交替、休養なし」などの要素によって、戦局の悪化に伴って加速度的に消耗を促進させていった。この点でも、日本の戦争指導が戦力の刷り潰しを前提とし、長期戦や総力戦を想定したものでは無かったことが指摘できる。
なお、1945年4月に大本営が各軍に配布した「国土決戦教令」は、決戦時に軍部隊の後退を禁止するだけでなく、傷病者を後送することも禁じている。

同じく総力戦体制の構築を目指したドイツやソ連と比較する余裕は無かったが、あの世で伯父上に尋ねるまでもなく、当時の政治指導者や軍幹部が「総力戦とは何か」を理解していたとは思えない。様々な資料を読めば読むほど、「御先祖方は一体何がしたかったのか」と疑問が増えるばかりである。

【参考】
『近代日本軍事力の研究』 山田朗 校倉書房(2015)
『第二次世界大戦の起源』 A・J・P・テイラー 講談社学術文庫(2011)
『未完のファシズム』 片山杜秀 新潮選書(2012)
『井上成美』 井上成美伝記刊行会(1982)
『ノモンハンとインパール』 辻密男 旺史社(2000)
『華中作戦―最前線下級指揮官の見た泥沼の中国戦線』 佐々木春隆 光人社(2007)
「日本軍の人的戦力整備について―昭和初期の予備役制度を中心として」 長野耕治、植松孝司、石丸安蔵 防衛研究所紀要第 17 巻第 2 号(2015)

【追記】
1943年の日本陸軍二等兵の給与は6円だったが、銃後の家族の生活保障として「留守宅給与」が給付された。だが、それは応召前の給与の3分の1でしかなかった。例えば、当時の小学校教員の平均給与60円で計算した場合、支給額は20円でこれを本人と留守宅でほぼ折半された。実際には他にも手当がつくので、家族が受け取るのは20円程度だったものの、夫が召集された家族は困窮するのが普通だった。ちなみに当時の公定米価は10kgで3円36銭である。これに対し、ドイツの場合、この留守宅給与に相当する所得補償が、応召前職の給与の85%もあり、さらに児童手当などもあったため、銃後の夫人は「亭主元気で留守が良い」状態にあったという。ちなみに米英は45~50%だった模様。この辺にも日本とドイツの総力戦に対する考え方の違いが良く表れている。
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2017年09月12日

総力戦体制とは何だったのか・上

1941年7月に海軍省が「対米開戦を辞せず」を決定した際(そして南部仏印進駐)、航空本部長だった伯父は「こんな航空戦備で対米戦などできるわけがない」「長期戦をどう戦うつもりなんだ」と大臣に噛みついたという。資料を読んでいると、子孫としては、「伯父上おやめください」と背中に飛びつきたくなるほど真に迫っている。

先の「航空人事から見た日本の戦争運営について」で書いたように、日米開戦時の日本海軍の常用航空機定数は3019機で、運用に必要な搭乗員は3445名だったが、海軍所属の搭乗員は全3615名に過ぎなかった。このうち勤務2年以上の熟練搭乗者は49.5%だった。だが、42年末までに2300人からの搭乗員が失われ、熟練搭乗員の割合は22%にまで落ち込んだ。開戦時の米海軍と海兵隊が保有していたのは約4千機、同6千人だった。独ソ開戦前のソ連に至っては、航空機1万2千機に対し、2万人からの搭乗員を用意していた。
つまり、日本海軍は「緒戦で負けたら再起不能」という軍備しか用意しておらず、それで米英と戦争を始めてしまったことになる。伯父上がキレるのは当然だったが、当の海軍幹部たちは「アメリカと戦争することを前提に国家財政が傾くほどの予算をもぎ取ってきたのに、戦争できませんとは言えない」というのが本音だった。

実際、国家財政に占める軍事費の割合は、満州事変直前の1930年で28.5%、日華事変前の36年で47.6%、全面戦争突入後は38年で77%、41年で75.7%となっていた。
にもかかわらず、中国戦線では事変勃発から1年半後の1939年には前線部隊の約半数が補給不足に陥り、「攻勢不可」と認識された。

『ノモンハンとインパール』の著者で両戦役に砲兵として参戦した辻密男は、ノモンハン事件に際し、満州のハイラルから馬匹で200kmの距離を1週間かけて改造三八式野砲を運び、実戦では何の役にも立たなかった旨述懐している。
この1907年に制式化された改造三八式野砲は敗戦まで現役だったわけだが、次世代式の九〇式野砲は(1930年)は生産数200門、最新式となった九五式野砲は320門でしかなかった。この他に九一式十糎榴弾砲があり、こちらは生産数1200。なお、日本の歩兵師団の砲定数は36門で(75mmが24門、105mmが12門)、重火力師団(四単位編成)で48門だった。
制式野砲だった九〇式がわずか200門しか生産されなかったのは、必ずしも工業力のせいではなく、重量の問題から「馬匹牽引できない」「でも牽引車も無い」という理由だった。そのため馬匹牽引可能な軽量の九五式が開発されたものの、性能的には「改造三八式よりはマシ」というレベルに低下してしまった。

これに対し、ソ連の1939年式УСВ(76mm野砲)は約1万門、42年式ЗИС−3(同)に至っては10万門以上が生産されている。狙撃兵師団の野砲定数は、時期によって内容が異なるが122mmや152mm砲を含めて60門が基本だった(例えば76mmが16門、122mmが32門、152mmが12門)。
炸薬量を考えれば、赤軍の火力は日本軍の優に2倍以上あったわけだが、当時の日本陸軍は「日本の一個師団はソ連の二個ないし三個師に相当する」と豪語していた。一体どのような計算をすれば、そのような結論が出るのか、あの世で御先祖(一人は重砲兵学校長、一人は関東軍情報将校)に聞く必要がある。
ドイツ軍が「ラッチュ=バム」と呼んだことで日本のヲタクにも知られるZIS-3野砲は、発射速度で日本軍の九〇式の2倍(最大25発/分)を誇った。だが、その開発理由は前モデルのUSVが「生産コストが高く、納期が遅い」というもので、コストと納期を3分の2に縮めた上に、性能も向上させている(現代の中東・アフリカ紛争では現役、グルジア紛争やウクライナ内戦で使用されたという話もある)。

ここで「総力戦体制とは何か」を考えてみたい。
第一次世界大戦は、各国の軍事技術者や政治指導者の予想に反し、大規模かつ長期化を余儀なくされ、国家の工業力と経済力をフル稼働させて軍事生産すると同時に、国民大衆を肉体的にも精神的にも戦争に駆り立てる必要が生じた。また、政治社会的には、戦争の長期化と被害拡大に伴い、前線部隊の士気低下と国民大衆の不満増大が問題となり、厭戦気分や反戦運動・サボタージュへの対処が大きな課題となった。
戦争自体は、ロシアとドイツの軍事的敗北に起因する革命によって終了するが、共産主義ソ連の成立と、ヴェストファーレン(ウェストファリア)条約以降の慣例(領土権、主権と内政の不干渉)を無視したヴェルサイユ条約の締結、さらに植民地体制の動揺(民族解放運動の激化)と世界恐慌によって、「軍事力による国際秩序の再編は不可避」という認識が、特にドイツ、イタリア、日本において共有されていった。
ソ連はソ連で「資本主義帝国による、干渉戦争に次ぐ侵略は必ず行われる」という認識を有していた。具体的にスターリンは「米英の支援を受けた日波同盟が東西から挟撃してくる」と予想し、早急なる戦時体制の確立を目指して、重工業化、軍部粛清、大軍拡に踏み切ることになる。

「次なる世界戦争」もまた、一次大戦以上の超規模かつ長期化が予想されたため、総力戦に向けた継戦能力と軍事生産能力の向上と大規模動員を可能とする国家体制の構築が求められた。これが「総力戦体制」となる。
英米仏に比して経済的、産業的基盤の弱い日独伊は、国際的影響力や経済力の脆弱性を軍事的優越によって補正し、あるいは覆そうという意図を持って、市民的自由を制限しつつ、広範な国家動員体制を築いて、重工業化と産業基盤の強化を目指した。

日本の場合、「日満支」のブロック経済化を実現し、自給自足体制を確立、軍需工業の拡充を目指し、その主敵は米英ソであった。石原莞爾は、1920年代半ばには次大戦の決戦戦力が航空機になることを予測、1937年には開戦までに生産数にして年1万2千機が必要と指摘したが、それは前年実績の10倍の数だった。だが、現実には日米開戦の41年でも5千機を達成するのが関の山だった。しかも、実際に開戦したのは、米ソではなく、「差し当たっては武力衝突を回避すべき」中国が相手だった。

もっとも、仮に中国との全面戦争を回避したとしても、当時すでに経済力で1位と2位にあった米ソを相手に、海軍は世界最大の艦隊を持つアメリカ、陸軍は世界最大の兵力を有するソ連と対手とするという想定自体「あり得ない」ものだった。1936年6月に改定された「帝国国防方針、帝国国防に要する兵力、帝国軍の用兵綱領」は、仮想敵を「米国、露国を目標とし、併せて支那、英国」としたが、何度見ても正気の沙汰と思えない。この点もあの世で伯父上に問い糾したいところだ。

GNPを見ると、日華事変が始まる1937年で、米8334億ドル、ソ連3980億ドルに対し、日本は1587億ドルに過ぎない。
特に日本が1936年1月にロンドン海軍軍縮条約を脱退し、自ら建艦競争を激化させたことで、直接的な軍事力整備(象徴的なところでは戦艦大和)に巨額の予算が掛かるようになり、基礎工業力(潜在的戦争遂行能力)のベースアップに割く予算と資源が少なくなり、刹那的になっていった。
そして、1937年に日華事変が勃発すると、直接軍事費(戦争経費)が膨大となり、諸外国からの借款や投資が滞るところとなって、資金調達が困難となり、国内や植民地からの収奪を強化するほかなくなったのである。同時に、軍事産業を支える熟練労働力を次々と戦時召集してしまい、大量生産技術が未整備の中、生産兵器のクオリティも低下する一途となった。
つまり、帝国日本は「世界最終戦争」(石原)に備えて総力戦体制を確立しようと試みたが、始めたばかりのところで自分から「世界戦争」を始めてしまったのだ。
以下、続く
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2017年08月16日

航空人事から見た日本の戦争運営について

1941年7月に海軍省が「対米開戦を辞せず」を決定した際(そして南部仏印進駐)、航空本部長だった伯父は「こんな航空戦備で対米戦などできるわけがない」「長期戦をどう戦うつもりなんだ」と噛みついたという。
工業力や資源、資金などの対米格差については、いくらでも知る機会があるが、今日は現代ではあまり顧みられない組織人員の面から考えてみたい。

開戦時の日本海軍の常用航空機定数は3019機で、運用に必要な搭乗員は3445名だったが、海軍所属の搭乗員は全3615名に過ぎなかった。このうち勤務2年以上の熟練搭乗者は49.5%だった。だが、42年末までに2300人からの搭乗員が失われ、熟練搭乗員の割合は22%にまで落ち込んだ。開戦時の米海軍と海兵隊が保有していたのは約4千機、同6千人だった。職場で一人でも有休を取ったらもう組織が回らないという日本型組織の体質は昔から同じだったのだ。

42年8月に始まるガダルカナル航空戦を見た場合、日本軍は892機、搭乗員1881名を失ったが、米軍が失ったのは621機、同420人だった。開戦当初の搭乗員数と比較した場合、日本が半分を失ったのに対して、米国は7%に過ぎなかった。
他の海戦も同様で、例えば一般的に「引き分け」と認識されている珊瑚海海戦を見た場合、日本海軍は航空機100機、搭乗員104名を失ったのに対して、米海軍が失ったのは同128機、35名だった。
同じく日本では一般的に「痛み分け」と解釈されている南太平洋海戦(1942年10月26日)を見た場合、確かに物理的には両軍ともに空母1隻撃沈、同1隻中破なのだが、空母搭乗員の損失は日本128名に対して、米39名だった。

日本の航空機は防弾性能や通信装備を犠牲にすることで、攻撃力や運動性能において米軍に対し優位に立ち、超エリート教育で練度においてもアメリカにひけを取らない水準に達したが(全体の練度において日本軍が米軍に優位に立っていたというデータは無い)、これは「一度限りの会戦であれば負けない」という話であって、戦争が長期化すればするほど優位性を失うものだった。事実はより過酷で、日本軍は開戦から一年でアメリカに対する優位を失っていた。

開戦前、日本の搭乗員教育は、教官1人に生徒1人という超エリート教育だったが、アメリカでは教官1人に6〜8人は当たり前だった。これには国民教育水準の背景があって、米国では当時すでに若者が普通に自動車運転免許を持っていたが、日本では運転免許など現在の航空機免許レベルの特殊技能だったため、搭乗員候補の基礎があまりにも違った。
これは搭乗員養成にかける予算にも顕著に表れている。日本海軍の航空関係予算に占める搭乗員養成費の割合は、1938年で0.08%、1940年で0.21%、1941年で0.16%と常に超低位で推移していた。ここにも「社員にカネを掛けるなんてタダのバカ」という日本型経営の決定的脆弱性が見られよう。

なお、ソ連では1937年に「全ソグライダー協会」が設立され、コムソモール員を中心に参加が奨励され、同時に「パイロット15万人計画」が策定された。戦時中、中学生のゴルバチョフがトラクターを運転していたことを考えても、兵舎に入るので初めて汽車に乗ったという若者が少なくなかった日本とは、機械文明の裾野が違いすぎたのである。

興味深いのは、アメリカが士官搭乗主義で9割士官、1割下士官だったのに対し、日本は真逆で1割士官、9割下士官だったことで、この辺にも「飛行機を飛ばせれば十分」と考えていた日本人の思考法を見て取れる。
また、元々日本は「総力戦を戦い抜き生き残って大帝国をつくる」ことを目的にファッショ体制(社会統制によるミリタリズムの最適化)を選択したはずだが、現実には中世ばりの「一回戦って負けたら終わり」という軍備しかつくれなかった。この辺は改めて別稿にて検討したいが、果たして伯父上を除く御先祖方が「総力戦とは何か」をきちんと理解していたのか、あの世で問い詰める必要がある。

【参考】
『近代日本軍事力の研究』 山田朗 校倉書房(2015)
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