2017年07月11日

長州人から見た明治維新150周年

来2018年の「明治維新150周年」に向けて政府が記念事業を計画している。
政府、国家官僚からすれば、第二次世界大戦の敗戦に伴う休戦条約締結の条件として民主化、戦後和解体制の構築を余儀なくされただけの話であり、戦前の明治体制こそが「自分たちの本来の姿」であるという思いが強い。
そもそも日本の場合、国家官僚になるためにデモクラシーやリベラリズムの原理を問われることが無いため、国家主義者や全体主義者による蚕食を許してしまっている。かのドイツですら、軍内に国家主義に浸食を許し、反乱が企図されていたことが発覚する事態になっており、日本でも「テロ」の恐れよりも、行政機関や自衛隊における極右勢力の伸張の方が深刻かもしれない。
明治帝政を称揚する明治維新150周年事業は、自分たちの意に添わずに施行されたデモクラシーと戦後和解体制を払拭する象徴的イベントとしての意味を持つ。

だが、長州人や山口県人から見た明治維新は全く別の風景があり、これが理解できないと、安倍政権が明治維新150周年に前のめりになる理由も一面的な理解に止まってしまう。

2015年に放映された大河ドラマ『花燃ゆ』は、安倍政権と長州人脈の強い要望を受けてNHKが制作した作品で、松下村塾をめぐる人々の半生を描いた。だが、下関戦争における外国船砲撃の対象が米国船からフランス船に改変されたり、吉田松陰による老中暗殺計画の経緯が改ざんされたりと、様々な歴史改ざんが行われたことで悪評が立った。そもそも内容云々よりも、演出や演技の拙さから「学芸会レベル」と酷評され、歴史ドラマとしての評価は皆無に等しかった。あれはあれでNHKの制作現場レベルでのサボタージュだったかもしれないのだが。
それでも、当のNHKに圧力を掛けた長州人たちにはそれなりに評判良かったらしいのだが、本音レベルで長州人たちにとってあれで良かったのかについては、大いに疑問だ。
『花燃ゆ』は別格としても、幕末を描く映画、ドラマは必ず「激動の歴史」を描こうとするわけだが、そのどれもが陰惨な、血塗られた側面を正面から描いていないからだ。幕末を史実に忠実に描くなら、『ヒトラー最後の12日間』や岡本版『日本のいちばん長い日』のような集団狂気が再現されねばならない。

注目したいのは、「維新の殉死者」である。勤王運動(テロリズム)から明治維新(暴力革命)に至る過程で、吉田松陰(刑死)、久坂玄瑞(禁門の変で自害)、高杉晋作(長州戦争後に病没)ら勤王倒幕運動の主要人物が続々と死亡したことは知られているが、長州全体を見ても相当数が落命している。
幕末の長州の人口は約79万人。このうち、禁門の変、下関戦争、第一次長州戦争、長州内戦(元治内乱)、第二次長州戦争(四境戦争)、戊辰戦争という「革命戦争」に動員されたのは7500人から8千人。その内訳は、2千人が上級士族、3千人強が下級士族(足軽、中間、陪臣など)、2500人強が町人、農民等(いわゆる諸隊)だった。79万人は、現在の福井県や浜松市の人口に相当する。
そして、一連の戦争の中で戦死(扱いも含む)したのは1500人以上で、戦病死を含めるとさらに増えるものと思われる。仮に戦死率を20%としよう。近代戦争の始まるとされる日露戦争でも、90万人の動員に対して戦死・戦病死者は8万9千人で約10%だったことを考えれば、戦死率20%は想像を絶する損害であることが分かる。つまり、長州で維新運動に従事し、五体満足で帰ってきた者の方が少なかったというレベルにあった。
さらに、この他に維新後の「脱退騒動」(諸隊反乱)と「萩の乱」(士族反乱)で、戦死者100人、刑死者250人を出している。

比較対象を考えてみよう。長州とともに「御一新」をなした薩摩の場合、動員可能兵力最低3万7500人を誇りながら、戊辰戦争に出征したのは最大1万人で、戦死者は約500人。禁門の変や薩英戦争などの戦死者を足しても540人程度だった。戦死率は5%強である。つまり、薩摩藩の場合、藩士でも戊申戦役に動員された者の方が少なく、まして戦死者は稀だった。
これに対して、西南戦争で西郷軍が動員したのは日向を含めて2万6千人、戦死者は4千人近くに達し、薩摩人にとっては西南戦争の方が強烈なイメージを持つのが普通なのだ。

戦死、戦病死だけでなく、刑死、凶死(テロ)の多さも長州における維新運動の特徴だった。個別の事例を見てみよう。
「日本のヒムラー」と呼ばれ、内務省で治安畑を歩んだ安倍源基(鈴木内閣で内相)の場合、伯父3人(当時21、18、16歳)が戊申戦役に出征し、うち2人が戦死、生還した末弟も維新直後に病没、末妹が婿をとって安倍家(大野毛利家家老)を継いでいる。

長州藩の革新官僚(家老)として知られる周布政之助の場合、勤王派を支援したこともあって禁門の変、第一次長州戦争後の政変中に自害。長男の藤吾は第二次長州戦争で戦死、次男の公平が家を継いだ。

日露戦争時の満州軍総参謀長を務めた児玉源太郎の場合、幼少期に勤王派の実父(徳山藩士)が藩内の権力闘争に敗れて閉門蟄居にあい、憤死。姉の婚家である児玉家(同)に引き取られるが、義兄にして養父の次郎彦は佐幕派藩士のテロによって凶死(惨殺)、源太郎13歳の時だった。児玉家は家禄を召し上げられ貧窮に苦しむ中、戊辰戦争が勃発、源太郎は16歳で召集され、献効隊の一員として出征、箱館で初陣を果たした。

元勲の一人となった井上馨の場合、世嗣の小姓を務めるほどの家柄に生まれながら勤王派に参加、英国公使館焼き討ち(実行)や外国公使殺害計画(頓挫)などのテロ活動に従事した。第一次長州戦争の混乱の最中、佐幕派(俗論党)の一団に襲撃され、医者が「息をしているのが不思議」と言うほどの重傷を負った(縫合6箇所、50針)。テロリストの中には、井上の顔見知りの友人もいたという。

つまり、長州藩の場合、身分に関係なく全ての武家が何らかの形で維新に参加し、大半の家で何らかの形で犠牲者を出していたと言える。こうした長州人の「御先祖が血を流して為した革命」という意識が理解できないと、彼らの「明治維新150周年」に対する執念も理解できないかもしれない。
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2017年05月12日

第一次世界大戦が日本にもたらしたもの

ボスが憲法記念日に出す声明文の原稿をチェックしていたところ、「日本の(が参戦した)4つの戦争」という表現を見つけ、ダメ出しをした。単純に第一次世界大戦が抜け落ちていたのだが、一般的には見落としがちなのかもしれない。学校の日本史でもあまり重要視されないため、よほど自主的に近代史を学び直さない限り、能動的な知識にならないのかもしれない。
確かに、日清・日露戦争や日中あるいは太平洋戦争のような主役での参戦ではなかったものの、日中戦争、特に太平洋戦争の主たる原因は、一次大戦の結果生じたものと考えるべきだからだ。

日本が一次大戦に参戦したのは、ドイツの東洋艦隊に対する抑え役が欲しいイギリスが、日英同盟に基づいて日本に参戦要請したことに起因している。
日本はまずドイツ東洋艦隊の根拠地である青島と膠州湾を攻略、占領するが、後に中国の袁世凱政権に対して「対華二十一箇条要求」を行い、ドイツの中国利権の委譲を始め、新規利権を含めて様々な特殊利権を、軍事力を背景に求めた。袁政権がこれに屈すると(「汚い取引」の側面もあるが)、五四運動や中国内戦の原因に転化(点火?)していった。三次にわたる山東出兵の原因にもなっている。
これ以降、日本の対中利権が既得権益化し、そのさらなる拡大を求めて帝国主義的進出(侵略)を加速化させてゆく。上海事変、山東出兵、張作霖爆殺、満州事変は全てその延長線上にある。
また、日本の中国進出が、特に自由貿易(門戸開放)を掲げるアメリカの態度を硬化させ、日米対立の遠因になってゆく。

さらに、戦勝によって日本は南洋諸島の委任統治を継承するが、財政や資本の裏付けの無いまま広大な領地・領海を獲得し、その維持負担が重荷となる。それだけならまだ良いが、アメリカは植民地たるフィリピンやグアムなどの連絡線を日本によって遮られる形となり、いわばその生命線を握られるところとなった。ひとたび関係が悪化すると、そのリスクは際限なく上昇するわけだが、逆に日本は対米関係の悪化を想定して軍拡に走らざるを得なくなり、どう見てもマイナス要素の方が大きかった。

実際、アメリカは一次大戦後、日本を大きなリスクと考えるようになり、まず「四カ国条約」を提唱して日英同盟を解消させ、中国との関係を強化し、対日包囲網を想定しての外交を進めた。これに対して、日本は国際連盟の常任理事国にはなったものの、日英同盟を失い、日露協商も反故にされ、日中関係は悪化の一途、日米は常時緊張状態という外交的孤立に追い込まれていった。この孤立が顕在化した時、日本は日独伊三国同盟に活路を見いだし、第二次世界大戦に突入してゆくことになる。

そして、ロシアで革命が勃発すると、火事場泥棒的にシベリアに傀儡政権を打ち立てるべく、宣戦布告無しで内戦に武力介入、これが「シベリア出兵」となる。日本軍は7万3千人を出兵し、白軍(反革命軍)などと連携して4年にわたる内戦に参加、ロシア側は住民含めて40万人とも言われる被害を出した。これが切っ掛けとなり、ソ連は日本を極東地域最大の脅威と見なし、二次大戦末期の満州侵攻に繋がっていった。

一次大戦の経緯を無視して、二次大戦の原因だけ見ると、どうしても陰謀論に傾いてしまうので、真摯に学び、慎重に検討する必要がある。

【追記】
一つの事象にのみ囚われると全体を見失いやすい。例えば、ソ連のアフガニスタン介入にしてもチェコスロヴァキア介入にしても、事象だけ見ると「悪の帝国がまた・・・・・・」という話になりがちだが、原因と結果を丹念に追えば、全く異なるものが見えてくる。また、日露戦争の原因のように、従来の研究が日本側の視点に偏っていた結果、かなり客観性を欠いてしまうケースもある。いずれも本ブログの記事を参照して欲しい。

・ソ連のアフガニスタン介入における意思決定過程 
・「プラハの春」とカーダールの苦悩 
・「プラハの春」−ソ連の対応と誤算 
・日露開戦の代償−開戦経緯を再検証する 
posted by ケン at 12:52| Comment(2) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月27日

忖度と斟酌の違いを考える

森友疑獄に絡んで「忖度と斟酌は何が違うのか」という質問を受けたので考えてみたい。まず辞書的に言うならば、忖度は「他人の気持ちを推し量る」で、斟酌は「相手の事情を考慮に入れる」になる。今少し踏み込むと、忖度は「明確な要求や主張があったわけではないが、特定の誰かの気持ちや希望を推量する」であり、斟酌は「要求や主張の有無に関係なく、何らかの行動を起こす上で、特定の誰かの希望や気持ちを考慮する」という感じだろうか。
用例を見てみよう。まず忖度から。
先生の博士問題のごときも、これを「奇を衒う」として非難するのは、あまりに自己の卑しい心事をもって他を忖度し過ぎると思う。先生は博士制度が世間的にもまた学界のためにも非常に多くの弊害を伴なう事実に対して怒りを感じた。
和辻哲郎「夏目先生の記憶」

山へ遊行するにも此かくの如き有様であるから、登山になれた我々の感情によつて、祖先達の山の感情を忖度することはできない。
坂口安吾「日本の山と文学」

一体防衛庁の予算というのも少しでたらめですね。債務負担行為が非常に多くなったり、繰り越し明許に全部使ってみたりして、それは、実につかまえにくいアメリカの気持ちを忖度して、その上に立った予算だからなんです。
1963.12.4 衆議院予算委員会 淡谷悠蔵議員(日本社会党、のり子の叔父)の質問

次に斟酌。

私は、年少の友に対して、年齢の事などちっとも斟酌せずに交際して来た。年少の故に、その友人をいたわるとか、可愛がるとかいう事は私には出来なかった。
太宰治「散華」

なおこの土地に住んでいる人の中にも、永く住んでいる人、きわめて短い人、勤勉であった人、勤勉であることのできなかった人等の差別があるわけですが、それらを多少斟酌しんしゃくして、この際私からお礼をするつもりでいます。
有島武郎「小作人への告別」

在監者には、朝、昼、夕三回とも、米麦をたしか四・六の割合で、一回ごとに八百カロリー、計二千四百カロリーですから、国民の最低のカロリーはまあ保有しておると思うのです。ところがこれに関連して、三十四条を見ますと、「在監者ニハ具体質、健康、年齢、作業等ヲ斟酌シテ必要ナル糧食及ヒ飲料ヲ給ス」こういうふうに明記してあるのですが、実際こういうふうに、体質とか、健康状態等々によって斟酌して、量を斟酌をして、そういう配慮を実際なされておるのですか。
1960.2.18 参議院内閣委員会 伊藤顕道議員(日本社会党)の質問

学術研究であれば、膨大な使用例を精査する必要があるが、そこはブログという媒体であることを斟酌していただきたい。
つまり、忖度も斟酌も、「他者の背景、事情、気持ちを考慮する、そして可能であれば行動に反映させる」という意味があるのだが、斟酌の場合は背景事情や気持ちが明示されていることが多いのに対し、忖度は明示されていない背景事情や気持ちを推量することに重点が置かれている。
また、文学表現の場合、忖度は必ずしも行動には結びつかず、単に推量に止まることもあり得るが、政治上で使用する場合は推量と行動が直結しているケースが多いようだ。推量するだけでは、政治上の要請に応じられないからだろう。

森友疑獄に際して、斟酌では無く忖度が使用されるのは、便宜供与を求める森友学園や、仲介者となったであろう総理夫人などが具体的な要求をせず、「願望」や「問い合わせ」を行政側に伝え、行政側は慣例に従って政治的要求に従って政治的配慮から行政の裁量権を行使したことに基づいている。

蛇足になるが、忖度は日本の伝統芸ではない。例えば、スターリン体制下の大粛清などは「忖度」が超大規模で行われた結果起きた大惨事だった。そもそも発端となるキーロフ暗殺からして、スターリンの命令では無く、スターリンの感情を「忖度」した治安機関などが勝手に実行した可能性が高い。そして、その後起きた大量粛清も、一々スターリンが具体的に指示したわけではなく、スターリンの恐怖、願望、妄想を忖度した治安当局(エジョフあるいはベリヤ)が粛清リストをつくり、実行していったのである。現代ロシアで起こっている反体制派などに対する暗殺も、プーチン大統領らの意向を忖度して行われている可能性が高い。スターリンにしても、プーチン氏にしても、容易に自らの意思を明らかにしない人物なのだ。但し、チトー暗殺を始め、明確に指示を出した例も散見される。
例えば、スターリンが「フルシチョフ同志の御母堂は確かポーランド人だったな」と言っただけで粛清対象になりかねなかったので、フルシチョフは顔を真っ赤にして全身汗だらけになって全力で否定しなければならなかった。

日本に戻せば、今国会で審議される共謀罪の恐ろしいところは、権力者の意向を忖度した警察が、明確な犯罪容疑や捜査目的も無く、あらゆる市民を監視下、捜査対象にすることを可能にするシステムであることにある。
もちろん、現在でも大手メディアを見れば一目瞭然で、官邸が具体的な情報統制を行わずとも、メディア側が勝手に忖度して政権に不利な情報は隠蔽する態勢になっているので、せいぜいのところ「ファッショにまた一歩」でしかないのだが。
posted by ケン at 12:09| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月24日

江戸武士の収入を考える

母上から「わが先祖の収入は今の価値にすると、どの程度だったのか?」との下問がなされ、奉答したので、補足しつつ、ここに記しておきたい。「西南戦争の原因を考える」の補足でもある。

幕府御家人だったわが家の正確な石高は分からないが、どうやら百石超の御家人だったらしく、仮に120石とする。幕府の御家人は基本的に「出世」はしないものの(固定役職)、勤務実績に応じて200石程度までは加増された模様。これはあくまでも生産高なので、これに税金「四公六民」が加算され、年貢収入は80石となる。一石は米150kgなので計1万2千kgとなる。もっとも、これは「大名家の模範」たらんとした幕府のみの例外で、他の諸藩では「五公五民」や「六公四民」が一般的だった。
無役だとこれが全収入になるが、わが家は四谷見附の与力役を拝領しており、その役料は150俵と仮定する。一俵は米60kgなので、計9千kg。家禄と合わせると、21トン、4トントラック5台分という量になる。
現代では米10kgで5千円程度だが、これは暴落気味。とはいえ江戸期も時代を経るにつれて米価が低下しているので、一概には言えないが、仮に1万円で計算すると、2100万円となる。自分が考えていたよりも、はるかに裕福だったように思える。
現実には「搗減り」(米を搗くなどの食用処理した際に生じる目減り)などの要素を加味する必要がある様だが、ここでは省略する。

だが、現実には100石超級の家には「槍持1人、中間1人」の常備軍役が課されており、その人件費を含めての家禄である上、下女・下働きの給与も必要だった。また、役料は経費の意味もあり、これで10人以上の家族と家来を養い、職務上の経費も賄う必要があった。そう考えると、当時の人件費は非常に安かったことを考えても、「裕福」とまでは言えない気もする。
ちなみに、江戸後期の中間の給料(年給)は3〜5両、下女の給料は2〜4両。計算し直すが、家禄と役料を合わせた実収入は140石で、このうち60石程度が日常生活で消費され、残りを売却して現金化する。1石1両で換算すると、80両が与力家の「手取り」となり、ここから給金が支払われる。給金の合計を20両とすると、段々苦しくなってくる。

ただ、伝え聞くところでは、地代収入や運上金などもあったようだ。これは家禄とは別に家で所有する土地や権利などから得られる現金収入で、これがそれなりの金額になったようだ。わが家の場合、内藤町あたりに家を構え、中野に相応の土地を有して小作等に貸していたと見られる。
さらに江戸期には「付け届け」が「文化」として横行しており、役職によっては馬鹿にならない額になった。町奉行所などの場合、家禄+役料以上の収入にもなったと言われる。わが家の場合、見附与力という、現代で言うところの「税関課長」に相当するものであるため、やはり相当な額の付け届けがあったと考えられる。
完全に推測でしかないが、上記の「手取り」分と同等額=80両の「その他収入」があると考えると、家人への給金を支払った上で140両が手元に残ることになる。1両は、現代の価値に直すと10〜15万円に相当するので、私が最初に抱いた「裕福」水準に戻ってくる。

なお、幕臣の場合、旗本は婚姻に幕閣の許可が必要だったが、御家人はさほどうるさくなかったようで、わが家の場合、江戸期最後の当主は本郷の米問屋の娘を、前当主は福生の町医者の娘をもらっている。戦略的に町人との通婚を進めることで、殖財と人的ネットワークの構築に努めていたものと見られる。故に、私も人から結婚相談を受けたときは、「フローよりもストックを重視しろ、貧乏人とは絶対に結婚するな」とアドバイスしてきた。
その甲斐があってか、わが家は、御一新でも落剥することなく、敗戦をも乗り越え、私の学費まで余裕があった。
江戸期最後の当主(高祖父)は、どうやら新設の東京市にも出仕していたようだが、息子(曾祖父)を新設の早稲田大学(東京専門学校)に入れ、日本銀行に就職させている。こうした柔軟な思考と適応能力も、わが一族の「家風」なのかもしれない。

以下は補足になる。わが一族が裕福だったのは、幕臣である上に「おいしい役職」にあったためで、同じ家格の武士がみなこうだったとはとても言えない。
一般的には、江戸中期以降、幕府を始め、どの藩も財政危機に陥り、大半の藩で「家禄の借り上げ」が行われた。これは実質的な「賃金切り下げ」で、家禄の3分の1から半分が藩政府に召し上げられた。
例えば、同じ120石の与力家で考えた場合、実支給額60石、「五公五民」で手取り30石になってしまい、役料がない限り、中間や下女はおろか家族を食わせることにも苦労する状態にあったことを示している。

また、時代小説に良く出てくる「30俵二人扶持」の場合、30俵+日1.5kgの米で約2350kg、年235万円となり、現代のアルバイト並みの給与だったことが分かる。
posted by ケン at 12:25| Comment(3) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月09日

西南戦争の原因を考える・下

前回の続き)
そこで、薩摩に視点を転じたい。同じ幕藩体制下の大藩ながら、薩摩は他藩と大きく事情が異なる。その最たるものは、武士階級の人口であり、それに伴う動員力だった。明治初年における鹿児島藩の人口は72万人で、長州と同水準にあった。ところが、動員可能な人数は、嘉永5年(1852年)で、城下士4500人、郷士2万3千人、陪臣1万人、計3万7500人と、長州藩の何と5倍もの動員力を誇っていた。しかも、この数字は「当主」の数に過ぎず、兄弟や子を戦時動員するなら5万人を超えるまで可能だった。当時も「薩摩の実兵力は5万とも10万とも言う」と話されたそうだが、あながち誇張ではなかった。
鳥羽伏見戦における幕府軍の兵力が1万人強、後詰めで大坂城に駐留していたのが2万人超であったことを考えても、薩摩の「戦争マシーン」ぶりがよく分かるだろう。九州南部に引き込んで戦うなら、島津は徳川に負けないだけの兵力を、江戸期を通じて保有していたのである。ちなみに会津戦争において、会津藩は白虎隊に象徴される総動員を行ったが、それでも4千人に満たなかった。

維新後、鹿児島で申請された士卒の数は34万人に及び、総人口に対する割合は45%にも及んだ。全国平均が6%前後であったことを考えれば、壮絶な数であり、この数の士卒を維持するため、薩摩・大隅はもちろんのこと奄美などの植民地では言語を絶する収奪が行われた。西南戦争に際し、農民層がこぞって新政府軍に協力したのは、このためだった。

ところが、戊辰戦争に際し、鹿児島藩が動員して出征させたのはわずか8千人で、多く見積もっても1万人に過ぎなかった。持てる兵力の殆ど全てを倒幕戦(革命戦)に投入した長州に対し、薩摩は先鋒程度の兵力を投入したに過ぎず、兵力の過半を後方で温存させていた。これは、西郷・大久保らが、「幕府が全面戦争を決断した場合」を想定して兵力を温存していた可能性もあるが、基本的には「革命の推進者」として長州、土佐とのバランスを考慮して、自藩が突出して悪目立ちしないよう配慮した上での戦力供出だった。例えば、薩摩が2万人も出してしまうと、長州5千、土佐3千と比べて突出してしまい、「幕府が倒れた後、薩摩が権力を独り占めするのではないか」とあらぬ疑いが掛けられてしまう恐れが強かった。この感覚は、マルチプレイ・ゲームのプレイヤーなら想像に難くないだろう。
さらに、戊辰戦争における薩摩の戦死者は500人超に満たず、禁門の変や薩英戦争の死者を足しても600人に遠く届かなかった。つまり、長州が全身をボロボロにして御一新を迎えたのに対し、薩摩は「もう一戦でも二戦でもできるぜ!」くらいの余力を残していた。

そこで当然ながら、長州の脱隊騒動と同じ状態が生起する。戊辰戦役に出征したか否かにかかわらず、御一新で武士が失職するのは変わらない。薩摩の場合、約3千人が御親兵として維新政府に供出され雇用が守られた。ところが、これはほぼほぼ城下士に限られており、郷士や陪臣は置き去りにされた。そのため、治安維持の必要もあって、大久保・川路が主導して東京警視庁を発足させ、郷士階級を中心に警察官への採用が進められた。とはいえ、警察官を鹿児島県人に限定させるわけにもいかず、正確な数字は分からないが、薩摩からの採用は当初2千人、その後さらに1千人ほど増員されたものの、3千人程度だった。結果、雇用された警察官の半分以上が薩摩の士卒出身者となり、他藩出身者からは強い不満が上がった。また、明治初頭の「東京」では、意思疎通のできない警察官が多すぎて「通訳」が不可欠だったと伝えられている。「おい、こら!」はその名残である。だが、それでも3万人以上の郷士や陪臣は、御一新の恩恵を何ら賜ることなく、「秩禄処分」「徴兵令」を迎えることになる。

付言すると、明治期は「藩閥政治」と批判されることが多いが、地方行政官は意外と能力主義に基づいて公正に採用、配置されていたところがあった。例えば山口県令、県知事は戦前期に1人も長州出身者がいなかった。これに対して、明治初頭の薩摩の場合、県知事も県庁役人も殆どが鹿児島県人で占められ、「独立王国」と陰口を叩かれると同時に、長州人は「薩摩の連中は御一新の意味を全く理解していない」と批判した。長州人は腐敗した側面もあるが、意外と「革命」に忠実だったのである。

まず「秩禄処分」は、明治6年末(1873年)、廃藩置県に伴い家禄を返上した士族に対し、数年分の禄高を半分は現金、もう半分は「秩禄公債」で支給することになった。言うなれば、武士の退職金、失業手当である。ところが、明治初頭は不換紙幣である太政官札を始めとする政府紙幣と国立銀行券が併存して大量発行されていたことや、秩禄処分、殖産産業などのために大量に公債が発行されたことが相まって、高インフレ状態にあった。そのため、現金は間もなく価値を失い、公債の利息もすぐに微々たるものになってしまった。そもそも郷士や足軽は家禄が低いため、禄高に基づく査定はごく低いものでしかなく、「単に武士でなくなった(=定収入を失った)だけ」になってしまった。最多層の下級武士が拝受した公債の金利は、日割りにすると当時の最底辺労働者の賃金の半分以下だった言われる。
歴史学で言うところの「封建的特権の有償廃止」であるが、明治政府の財政事情は十分な補償を許さなかった。明治初年における政府歳出に占める家禄支給額の割合は30%を超えており、封建特権を放置したまま近代化などできるワケもなかったのだ。

話はやや前後するが、徴兵令は明治6年始めに施行される。これは士族特権だった武力行使権を廃止して中央政府に一括集中することを意味したが、士卒階級からすれば「町人に権限を奪われた」形となった。同時に、士族に家禄を支給する根拠が失われた。
徴兵制の導入については、西郷隆盛を筆頭に主に薩摩閥から強い反対意見が出され、彼らは自然と士族が中心となる志願兵制を主張した。だが、最終的には「武士の軍隊では近代戦は戦えず、国民軍が不可欠」という長州閥の意見が大勢を占め、徴兵制の導入が決められた。最終的には「皇軍」なる怪しげなもの(天皇の私軍)になってしまうものの、明治初頭のこの段階では「四民平等の国民軍」が志向され、そのため武士は武権を失い、武権に伴って設定された家禄を失うことになった。
明治9年の廃刀令は、士族に唯一残された個人武装権をも剥奪されるというもので、現実には象徴的なものであったが、精神的打撃は大きかった。

「征韓論」に象徴される「明治六年政変」は、まさにこの時期に起きた。征韓論の説明は省略するが、長州閥と薩摩・大久保派を除く薩摩、土佐、肥前閥がこぞってこの時期に外征を主張した背景には、どの藩でも抱えていた士族の失業問題を解消、抑制するために、徴兵制が軌道に乗る前に大規模な外征を行って大動員を果たしたい、という狙いがあった(どこまで自覚的だったかは不明だが)。この辺の背景は、根源的には豊臣秀吉の朝鮮出兵とよく似ている。
ところが、紆余曲折があり、多数派だった征韓派は敗れ、西郷(薩摩)、板垣、後藤(土佐)、江藤、副島(肥前)の5人の参議が辞職した。これに伴い、薩土を主とする官吏、軍人600人ほどが同調、下野するが、うち軍人は400人超と見られる。
同時代を扱った小説では、「征韓派が一斉に下野して大混乱に陥った」などと書かれているが、当時の近衛兵(御親兵)1万人のうち、薩摩兵が4千、土佐兵が2千程度だったことを考えると、薩摩・土佐兵のうち征韓派に同調したのは10分の1にも満たなかったことが分かる。やはり、小説は小説であり、注意して読む必要がある。
この明治六年政変で征韓派が下野したのは、明治6年10月のことであり、その12月に上記の「秩禄処分」が開始されたのだから、士族からすれば「どこまでも救いが無い」と考えてもおかしくなかった。

秩禄処分は、激変緩和措置として当初は「家禄の自主返上者」のみを対象にしていたが、上記の通り補償が不十分だったため、一向に返上は進まず、業を煮やした明治政府は、明治9年(1876年)、秩禄処分を全士族への強制適用を決定した。
熊本・神風連の乱が同年10月、西南戦争が翌明治10年1〜2月に始まったことを考えれば、「封建的特権の廃止」こそが、士族反乱の最大の原因だったと考えるのが合理的だろう。
下野した西郷らは、鹿児島で「私学校」をつくり、士族子弟の教育を担うことで暴発を止めようとした、と今日では美談のように語られるが、その生徒数は700人程度で、原則的には城下士に限定されていた。つまり、「上京できず就職できなかった城下士」のみを対象にしていたのであり、郷士や陪臣などはここでも放置されていた。もっとも私学校は、鹿児島県下に支部をつくって郷士の組織化に努めていたようだが、実態はよく分からない。全体で見ると異なる風景も見えるかもしれない。

西南戦争で西郷軍が動員したのは鹿児島県人2万3千人だった(日向を含めると2.6万人)。鹿児島の武家当主3万7千人に対し、上京・就職できたのは7、8千人程度に過ぎず、鹿児島県庁に就職できた士族層を考慮しても、御一新で家禄を失い、失業した士族層が、倒幕戦のために準備された武器を持って反乱に立ち上がったと見るのが最も自然なのではなかろうか。仔細に見ると、私学校党が1万3千人、徴募兵が1万人となっている。つまり、「上京就職できなかった城下士とその子弟」が中核を担い、鹿児島近郊の郷士(麓郷士)を動員して初期兵力の1万3千人をなしたと見て良い。意外と外城郷士や陪臣層には不参加だったものが多く、それらは徴募という形で強制徴召集せざるを得なかったのだろう(初期動員時にも志願強要があった模様)。戦後の口述書や上申書の類いを見ると、意外と「場の空気で志願せざるを得なかった」とか「私学校党の区長に強要されて」などの供述が多いことが分かる。
鹿児島は単に武士が多すぎたのである。

【追記】
西南戦争における薩軍の戦死者は、薩摩大隅で3,263人、日向で650人だった。戊辰戦争の500人に比して、あまりにも大きいツケを支払わされたと言えよう。

【追記2】
最終的な薩摩武士の動向を大ざっぱに推計すると、西郷軍参加者が3万人(後方配置含む)、政府側についたものが1万人強、逃亡または動員拒否者が1〜2万人と考えられる。詳細は既存の郷土史研究を精査する必要があるので、良い資料をご存じの方がいらしたら是非とも紹介いただきたい。
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2017年02月08日

西南戦争の原因を考える・上

西南戦争の原因についてネットで論争しているのを見かけ刺激を受けたので、一説ぶってみることにした。
西南戦争の原因については、いまもって定説が無い。それは首謀者とされる西郷隆盛が戦争(反乱)目的について何一つ語らなかったためだった。結果、様々な仮説が立てられているが、仮説のままになっている。主なものを挙げると、「征韓論に敗れたため(安保政策の相違)」「欧化政策への不満」「士族特権廃止への不満」などがある。
このうち征韓論については、外征策が否定されたことが、果たして3万人もの人が武装蜂起する理由になるかと言うと、当時の空気感を考えても疑問を禁じ得ない。欧化政策については、反乱参加者の中に留学帰りのものもおり、3万人が武装蜂起する根拠としては弱い。士族特権の廃止は、最も合理的な理由ではあるものの、現実の西郷軍は同じく明治政府に不満を持つ他藩士からの協力申し出に恐ろしく冷淡だった。但し、最終的には7千人からの非薩人が参加している。

大きな社会現象を1つの原因の特定するのはあまり意味が無い。例えば、「第二次世界大戦は何故起きたのか」を考えた場合、その原因をヒトラー一人に負わせることは、むしろ事の本質を見失わせるだけにしかならない。
だが、そうは言っても、いくつかの原因を挙げて影響の大きさを論じることには意義があると考える。

そして、西南戦争を含む明治初頭の士族反乱について、必ず考慮すべき要素がある。それは「失業」だ。
まず、士族反乱の先鋒となったのは、長州諸隊の反乱だった。戊辰戦争は、明治2年(1869年)5月に北海道・箱館を拠点とする榎本武揚らの旧幕軍が降伏したことで終結する。同年7月には版籍奉還がなされるが、同11月、長州藩は財政再建を理由に長州軍(諸隊)5千人余のうち3千人をいきなり解雇、残る2千人余を「御親兵」として朝廷(新政府)に差し出して自らを武装解除してしまった。
これは「御一新・王政復古(中央集権)により諸藩が独自の軍を持つ必要は無くなった」という解釈の下、維新を推進した長州藩が他に範を示そうとして行う意図もあった。当時としては、革命思想の先端を行ったものだったが、解雇された者としては「維新を担って、幕軍を打ち倒したのはオレたちじゃねぇか!」という怒りを覚えるのは当然だった。しかも、拙いことに、解雇に際しては一時金もまともに支払われず、雇用継続の御親兵には士族階級が上から優先配置されたため、下級藩士や町人階層から「騙された!四民平等などウソだった!」という声が上がった。
結果、11月末には解雇に反対する不満分子が千人以上集まり、翌明治3年1月には蜂起、山口藩議事館(県庁)を包囲、藩兵を撃退、排除する事態に陥った(脱隊騒動)。1月末までには、農民一揆も加わって2千人を超える軍勢となり、新政府幹部の顔を青ざめさせた。そこで、2月には長州閥のリーダーである木戸孝允が自ら兵を率いて鎮圧に向かい、激戦の上、平定している。
現代の教科書等では、7年後に起きる「萩の乱」の方が大きく扱われているが、同乱の参加者は2〜300人でしかなく、政府が受けた衝撃は奇兵隊反乱の方がはるかに大きかった。

ここで戊辰戦争期の人口動態と動員力を考えてみたい。長州藩の場合、支藩を含めると、明治初年の人口が79万人で、うち士族2万人、卒族(足軽階級等)が2万3千人で、士卒の割合は5.4%とほぼ全国平均にあった。この数字は家族を含めるので、このうち戦時動員可能なのは7〜8分の1程度、実数にして6千人弱でしかない。長州戦争や馬関(下関)戦争に際し、高杉晋作が平民の志願兵で「奇兵隊」を結成したのは、兵力不足を補うためだった。ちなみに、小説等では八面六臂の活躍をする奇兵隊・諸隊だが、その実数は定数で1500人、実数で2千人超であり、世間の評価は過大と言える。
戊辰戦争における長州藩兵の死者は約500人、他に禁門の変、下関戦争、長州戦争等の死者が約千人なので(禁門の変だけで半分)、明治初年における長州藩兵が「5千人余」というのはごく現実的な数字なのだが、このうち士族は2千人前後と考えられるので、士族のみを御親兵にして雇用を守り、残りの足軽、中間、陪臣(家臣の家来)、平民を問答無用で解雇したのが、「脱隊騒動」の本質だった。
第一次世界大戦以降、戦死者の数が急増するので感覚が麻痺してしまっているところがあるが、民兵を含めて7500人の兵のうち1500人の死者を出した(戦死率20%)長州は、まさに「革命の推進者」だった。
鳥羽伏見の戦いが勃発して、長州藩執行部が倒幕戦を決心した際、実質上の軍最高司令官だった大村益次郎(村田蔵六)は、「この現状で幕府と戦争などできるわけがない。少なくともあと数年は必要だ」と(キャラに似合わず)叫んだとされる。
ちなみに、農民出身の大村に藩軍指揮を任せていた一点だけでも、長州藩は時代の革命者だったと言える。
以下続く
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2016年11月26日

恐父の大魔王と鬼いちゃん

秩父宮の回顧によると、子どもの頃、毎年3度祖父である明治帝の下に伺候したが、恐怖のあまり全身が硬直し、下を向いて立っているのがやっとだったという。しかも、明治帝はウムとかデアルカとしか言わないため、結局祖父がどんな顔でどんな風に話すのか知らずに終わった。それが、東宮御所に帰ると、父である嘉仁親王はひっきりなしにしゃべりまくり、食事が終わると母の節子妃がピアノを弾いて、侍従や女官もまざって一緒に合唱するという有様で、同じ家の出来事とは思えなかったらしい。

わが家も似たところがあり、ただし祖父がめっぽう優しく温厚な人で、対して父が恐怖の大魔王状態にあった。私は家の中では、いつも「いかに父と顔を合わせないようにするか」ばかり考え、父に呼ばれると全身硬直させて前に出たものだった。父が早世して私が思ったのは、「これで自由になった」だった。中学生の時の話である。
ただ、今から思えば、自らの寿命を悟った父が私の将来を案じ、ことさら厳しくしたという側面はあったかもしれない。『四月は君の嘘』の有馬家に通じるものがあった。

優しかった祖父も、その父(曾祖父)は厳格で気難しく、暴力を振るったり、無用に厳しいことを言うわけではないが、恐くていつも逃げて回っていたという。
貴族の家というのは、そういう傾向があるのかもしれないが、おかげで私は「父親業とか死んでもムリ」と思ったまま今日に至っている。

「戦国三大悪謀家」(斎藤道三、松永久秀、宇喜多直家だが、毛利元就が加わることもある)の一人として知られる宇喜多直家の弟忠家は、生涯兄に付き従い、時に領内整備を指揮し、時に総大将を務めた。直家の死後も長命したが、後年「兄はそれは恐ろしい人で、必要とあらば親だろうが子だろうが殺すことに何の躊躇も覚えませんでした。私などは、兄に召されるとそのつど死を覚悟し、上下の下に鎖帷子を着込んで御前に出たもので、生きた心地がしませんでした」旨を述懐している。出家号を「安心」としたことも、色々なことを想像させる。

「家族の絆」とかマジで軽々しく言わないで欲しい。
posted by ケン at 12:00| Comment(2) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする