2017年09月13日

総力戦体制とは何だったのか・下

前回の続き)
ここで冒頭の伯父上の話に戻るが、総力戦体制の掛け声に比して、政治指導者や軍幹部が「総力戦の何たるか」を理解していたかと言えば、相当に心許ない。先の野砲の他に、いくつか象徴的な例を挙げておきたい。

例えば、日本の航空機開発は、性能第一主義で、それも極端な攻撃力偏重で生産性は殆ど考慮されなかった。
最も有名な零戦の場合、戦闘機の空気抵抗を少なくするために、鉄板を接合するために打ち付けられたリベットの頭を一つずつ削る作業を行っていたが、これは熟練工が1機ずつ相当な時間をかけて行う必要があり、恐ろしく効率の悪いものだった。
また、被弾面を小さくし、生産資材を減らすために、航空機自体のサイズの極小化が図られたが、これにより同時に投入できる労働者の数が少なくなった他、組み立てなどに際しての些少なズレも許されなくなり、生産管理(質の維持)が難しくなった。
エンジンについても、軽量化と極小化が図られ、そして低オクタン燃料を前提としたノッキング防止性能を持つ「水メタノール噴射法」が1939年に開発、搭載されるようになったが、非常に複雑な構造を持ち、膨大な生産時間を要するところとなった。
こうしたことが積み重なった結果、戦争中に海軍が失った約2万7100機のうち、戦闘による喪失は1万350機だったのに対し、戦闘外の自然消耗は1万6750機と全体の61.8%に及ぶに至った。つまり、欧米の標準的な発想では、零戦は兵器というよりも工芸品に近いもので、量産することを想定した設計とは言えなかった。

そして、問題の本質は、基礎工業力の低さにあった。日本製のエンジンは、同時期の他国主力戦闘機のそれに比して10〜20%も出力が低かった。例えば零戦二一型のエンジン栄一二型は940馬力だったのに対し、英国のハリケーンMk1が1030馬力、Mk2で1280馬力、半世代前(戦間期)のソ連製イリューシン−16ですら1100馬力、零戦二一型と同世代のミグ−3は1350馬力あった。エンジン出力の低さを補った上で、他国機以上の攻撃力(旋回性能、重武装、航続距離)を追求した結果、極めて特殊な、つまり生産コストの高い機体整形となり、同時に機体重量を極限まで減らすために防弾装備、通信機、救命装置などを撤去するところとなっている。
また、当時の日本は石油精製技術も低かったため、高オクタン価の航空燃料を独自で精製できず、アメリカから輸入していたが、日米関係の悪化によって困難になり、上記の特殊な技術を搭載したエンジンを開発した。結果、量産も品質管理も難しくなり、熟練労働者の召集も相まって、カタログスペックからほど遠い低品質の機体を作り続けるに終わった。

もう一つは、大量生産制に移行できなかった点である。上記のような特殊技術満載の機体が量産を拒んだこともあるが、そもそも日本には自動車産業を始めとする、大量生産のための技術的蓄積が無かった。
大量生産の要諦は、部品と作業工程を規格化し、熟練労働者の必要や作業労働者の数を最小限に止めるところにある。ところが日本では、日米開戦の直前まで工場内請負制度に基づいて一機ずつ熟練労働者の手作業でつくられていた。しかも、同じ陸軍や海軍内の戦闘機や爆撃機でも殆ど互換性がなく、戦場で故障すると現地の整備兵が手作業で部品を改造するなどして誤魔化すほかなかった。アメリカ戦略爆撃調査団の報告では、ある時期の日本海軍の航空機の作戦有効率は20%だったとしているが、これは生産された機体の5機のうち1機しか実戦で使えなかったことを意味する(USは80%)。
日米開戦後ですら、ベルトコンベアー式のような大量生産への移行は遅々として進まず、例えば三菱を見た場合、1944年末までに組立工程のベルトコンベアー化を実現させたのは、全国17工場のうち2箇所に過ぎなかった。

人的資源の面でも大きな問題があった。第二次世界大戦ではどの国でも軍隊指揮官=将校が問題となったが、特に日本とドイツでは顕著だった。例えば、日本陸軍の兵科将校の数は1939年の6万7千人が1945年には25万人に膨れあがったが、兵員数もまた124万人から600万人を超えるに至った。つまり、将校一人に対する下士官兵の数は、約17人から25人へと増加している。同時期のアメリカが12人から8人へとむしろ減少させていることは非常に対称的だろう。また、将校全体に占める現役将校の割合は、39年の36%から45年の19%へと低下している。
なお、ソヴィエト赤軍を見た場合、大粛清前の陸軍の将校数は約40万人、うち4万人以上が粛清されたと見られ、1939年段階では38万人程だった。それでも独ソ戦が始まると、あっという間に士官が不足、最終的には全国に100カ所以上の士官学校が設置され、年間3万人以上の養成体制が組まれた。これに対し、日本の陸士は1944年2月入学の60期生でも1824人に過ぎなかった。

現実には、日華事変の緒戦から「士官不足」が指摘されていた。1937年7月の盧溝橋事件に端を発する日華事変は全面戦争となり、38年中には保有する 34 個師団のうち24 個師団が中国戦線に配備され、その動員兵力は23万人、事変発生からの累計だと73万人に達し、日本本土(内地)には1個師団しかいないという状況に陥った。これらの多くは、予備役兵で賄われたが(常設師団で42%、特設師団だと後備兵が66%)、特に小隊長、中隊長クラスの指揮官が圧倒的に不足した。現役士官の不足は予備役士官によって充当するわけだが、とにかく定数を満たすために根こそぎ応召した結果、特設師団の中隊長の中には58 歳の老人がおり、小隊長の殆どは大正期の 1 年志願兵(中卒以上等の学歴を持つ者は費用自弁で志願すると3年現役のところ1年で許され、試験に合格すると予備士官になれた制度、1928年廃止)出身だった。そのため、現地の大隊長や連隊長からは「せめて大隊の 4 人の中隊長のうち 1 人、12 人の小隊長のうちの 1 人くらいは、現役を回してくれ」などという悲痛な訴えが相次いだ。
『華中作戦―最前線下級指揮官の見た泥沼の中国戦線』を著した佐々木春隆は、士官学校、歩兵学校を出た後、1943年に華中戦線の特設師団に中隊長として赴任するが、小隊長は歯科医出身の予備士官、見習い少尉、ベテラン曹長の三人で、使い物になったのは曹長の予備小隊長だけだったが、いかんせん下士官は下士官なので扱いが難しかった旨を回顧している。

これは、もともと少数精鋭主義を謳っていた日本の軍事思想にも原因が求められるが、大正期の山梨・宇垣軍縮などで士官学校の定数が激減されたことも影響している。例えば、陸軍士官学校の卒業人数を見ると、1919年で489人いたものが、1928年には225人、1932年でも315人、1936年でかろうじて388人という有様だった。例えば、1938年段階で中国戦線に張り付いている陸軍23万人で考えた場合、将校と下士官兵の理想割合を1:15と想定すると、1万5千人からの士官が必要になる計算だが、陸士の育成ペースでは40年もかかる計算で、まるで現実的で無かったことが分かる。
この「非現実性」の穴を埋めたのは、一年志願兵制度に替わる幹部候補生制度(甲種)で、日華事変勃発までは年間4千名が採用されたものの、修業期間は10カ月で任期は一年、満了後は予備役に入り民間に戻るというもので、軍事技術者として十分な水準を満たせるものではなかった。
結果、1939年1月時点で陸軍兵科将校の少、中尉の約7割が一年志願兵、幹部候補生出身の応召となり、終戦時には兵科将校25万人のうち20万人以上が幹部候補生となった。なお、水木先生の『総員玉砕せよ!』を読むと、主人公のいる大隊で現役士官は大隊長一人だけのように思われ、非常に興味深い。

上記のようにただでさえ貴重な兵科将校も、「捕虜厳禁」「退却禁止」「自決強要」「玉砕」「特攻」「交替、休養なし」などの要素によって、戦局の悪化に伴って加速度的に消耗を促進させていった。この点でも、日本の戦争指導が戦力の刷り潰しを前提とし、長期戦や総力戦を想定したものでは無かったことが指摘できる。
なお、1945年4月に大本営が各軍に配布した「国土決戦教令」は、決戦時に軍部隊の後退を禁止するだけでなく、傷病者を後送することも禁じている。

同じく総力戦体制の構築を目指したドイツやソ連と比較する余裕は無かったが、あの世で伯父上に尋ねるまでもなく、当時の政治指導者や軍幹部が「総力戦とは何か」を理解していたとは思えない。様々な資料を読めば読むほど、「御先祖方は一体何がしたかったのか」と疑問が増えるばかりである。

【参考】
『近代日本軍事力の研究』 山田朗 校倉書房(2015)
『第二次世界大戦の起源』 A・J・P・テイラー 講談社学術文庫(2011)
『未完のファシズム』 片山杜秀 新潮選書(2012)
『井上成美』 井上成美伝記刊行会(1982)
『ノモンハンとインパール』 辻密男 旺史社(2000)
『華中作戦―最前線下級指揮官の見た泥沼の中国戦線』 佐々木春隆 光人社(2007)
「日本軍の人的戦力整備について―昭和初期の予備役制度を中心として」 長野耕治、植松孝司、石丸安蔵 防衛研究所紀要第 17 巻第 2 号(2015)

【追記】
1943年の日本陸軍二等兵の給与は6円だったが、銃後の家族の生活保障として「留守宅給与」が給付された。だが、それは応召前の給与の3分の1でしかなかった。例えば、当時の小学校教員の平均給与60円で計算した場合、支給額は20円でこれを本人と留守宅でほぼ折半された。実際には他にも手当がつくので、家族が受け取るのは20円程度だったものの、夫が召集された家族は困窮するのが普通だった。ちなみに当時の公定米価は10kgで3円36銭である。これに対し、ドイツの場合、この留守宅給与に相当する所得補償が、応召前職の給与の85%もあり、さらに児童手当などもあったため、銃後の夫人は「亭主元気で留守が良い」状態にあったという。ちなみに米英は45~50%だった模様。この辺にも日本とドイツの総力戦に対する考え方の違いが良く表れている。
posted by ケン at 00:00| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月12日

総力戦体制とは何だったのか・上

1941年7月に海軍省が「対米開戦を辞せず」を決定した際(そして南部仏印進駐)、航空本部長だった伯父は「こんな航空戦備で対米戦などできるわけがない」「長期戦をどう戦うつもりなんだ」と大臣に噛みついたという。資料を読んでいると、子孫としては、「伯父上おやめください」と背中に飛びつきたくなるほど真に迫っている。

先の「航空人事から見た日本の戦争運営について」で書いたように、日米開戦時の日本海軍の常用航空機定数は3019機で、運用に必要な搭乗員は3445名だったが、海軍所属の搭乗員は全3615名に過ぎなかった。このうち勤務2年以上の熟練搭乗者は49.5%だった。だが、42年末までに2300人からの搭乗員が失われ、熟練搭乗員の割合は22%にまで落ち込んだ。開戦時の米海軍と海兵隊が保有していたのは約4千機、同6千人だった。独ソ開戦前のソ連に至っては、航空機1万2千機に対し、2万人からの搭乗員を用意していた。
つまり、日本海軍は「緒戦で負けたら再起不能」という軍備しか用意しておらず、それで米英と戦争を始めてしまったことになる。伯父上がキレるのは当然だったが、当の海軍幹部たちは「アメリカと戦争することを前提に国家財政が傾くほどの予算をもぎ取ってきたのに、戦争できませんとは言えない」というのが本音だった。

実際、国家財政に占める軍事費の割合は、満州事変直前の1930年で28.5%、日華事変前の36年で47.6%、全面戦争突入後は38年で77%、41年で75.7%となっていた。
にもかかわらず、中国戦線では事変勃発から1年半後の1939年には前線部隊の約半数が補給不足に陥り、「攻勢不可」と認識された。

『ノモンハンとインパール』の著者で両戦役に砲兵として参戦した辻密男は、ノモンハン事件に際し、満州のハイラルから馬匹で200kmの距離を1週間かけて改造三八式野砲を運び、実戦では何の役にも立たなかった旨述懐している。
この1907年に制式化された改造三八式野砲は敗戦まで現役だったわけだが、次世代式の九〇式野砲は(1930年)は生産数200門、最新式となった九五式野砲は320門でしかなかった。この他に九一式十糎榴弾砲があり、こちらは生産数1200。なお、日本の歩兵師団の砲定数は36門で(75mmが24門、105mmが12門)、重火力師団(四単位編成)で48門だった。
制式野砲だった九〇式がわずか200門しか生産されなかったのは、必ずしも工業力のせいではなく、重量の問題から「馬匹牽引できない」「でも牽引車も無い」という理由だった。そのため馬匹牽引可能な軽量の九五式が開発されたものの、性能的には「改造三八式よりはマシ」というレベルに低下してしまった。

これに対し、ソ連の1939年式УСВ(76mm野砲)は約1万門、42年式ЗИС−3(同)に至っては10万門以上が生産されている。狙撃兵師団の野砲定数は、時期によって内容が異なるが122mmや152mm砲を含めて60門が基本だった(例えば76mmが16門、122mmが32門、152mmが12門)。
炸薬量を考えれば、赤軍の火力は日本軍の優に2倍以上あったわけだが、当時の日本陸軍は「日本の一個師団はソ連の二個ないし三個師に相当する」と豪語していた。一体どのような計算をすれば、そのような結論が出るのか、あの世で御先祖(一人は重砲兵学校長、一人は関東軍情報将校)に聞く必要がある。
ドイツ軍が「ラッチュ=バム」と呼んだことで日本のヲタクにも知られるZIS-3野砲は、発射速度で日本軍の九〇式の2倍(最大25発/分)を誇った。だが、その開発理由は前モデルのUSVが「生産コストが高く、納期が遅い」というもので、コストと納期を3分の2に縮めた上に、性能も向上させている(現代の中東・アフリカ紛争では現役、グルジア紛争やウクライナ内戦で使用されたという話もある)。

ここで「総力戦体制とは何か」を考えてみたい。
第一次世界大戦は、各国の軍事技術者や政治指導者の予想に反し、大規模かつ長期化を余儀なくされ、国家の工業力と経済力をフル稼働させて軍事生産すると同時に、国民大衆を肉体的にも精神的にも戦争に駆り立てる必要が生じた。また、政治社会的には、戦争の長期化と被害拡大に伴い、前線部隊の士気低下と国民大衆の不満増大が問題となり、厭戦気分や反戦運動・サボタージュへの対処が大きな課題となった。
戦争自体は、ロシアとドイツの軍事的敗北に起因する革命によって終了するが、共産主義ソ連の成立と、ヴェストファーレン(ウェストファリア)条約以降の慣例(領土権、主権と内政の不干渉)を無視したヴェルサイユ条約の締結、さらに植民地体制の動揺(民族解放運動の激化)と世界恐慌によって、「軍事力による国際秩序の再編は不可避」という認識が、特にドイツ、イタリア、日本において共有されていった。
ソ連はソ連で「資本主義帝国による、干渉戦争に次ぐ侵略は必ず行われる」という認識を有していた。具体的にスターリンは「米英の支援を受けた日波同盟が東西から挟撃してくる」と予想し、早急なる戦時体制の確立を目指して、重工業化、軍部粛清、大軍拡に踏み切ることになる。

「次なる世界戦争」もまた、一次大戦以上の超規模かつ長期化が予想されたため、総力戦に向けた継戦能力と軍事生産能力の向上と大規模動員を可能とする国家体制の構築が求められた。これが「総力戦体制」となる。
英米仏に比して経済的、産業的基盤の弱い日独伊は、国際的影響力や経済力の脆弱性を軍事的優越によって補正し、あるいは覆そうという意図を持って、市民的自由を制限しつつ、広範な国家動員体制を築いて、重工業化と産業基盤の強化を目指した。

日本の場合、「日満支」のブロック経済化を実現し、自給自足体制を確立、軍需工業の拡充を目指し、その主敵は米英ソであった。石原莞爾は、1920年代半ばには次大戦の決戦戦力が航空機になることを予測、1937年には開戦までに生産数にして年1万2千機が必要と指摘したが、それは前年実績の10倍の数だった。だが、現実には日米開戦の41年でも5千機を達成するのが関の山だった。しかも、実際に開戦したのは、米ソではなく、「差し当たっては武力衝突を回避すべき」中国が相手だった。

もっとも、仮に中国との全面戦争を回避したとしても、当時すでに経済力で1位と2位にあった米ソを相手に、海軍は世界最大の艦隊を持つアメリカ、陸軍は世界最大の兵力を有するソ連と対手とするという想定自体「あり得ない」ものだった。1936年6月に改定された「帝国国防方針、帝国国防に要する兵力、帝国軍の用兵綱領」は、仮想敵を「米国、露国を目標とし、併せて支那、英国」としたが、何度見ても正気の沙汰と思えない。この点もあの世で伯父上に問い糾したいところだ。

GNPを見ると、日華事変が始まる1937年で、米8334億ドル、ソ連3980億ドルに対し、日本は1587億ドルに過ぎない。
特に日本が1936年1月にロンドン海軍軍縮条約を脱退し、自ら建艦競争を激化させたことで、直接的な軍事力整備(象徴的なところでは戦艦大和)に巨額の予算が掛かるようになり、基礎工業力(潜在的戦争遂行能力)のベースアップに割く予算と資源が少なくなり、刹那的になっていった。
そして、1937年に日華事変が勃発すると、直接軍事費(戦争経費)が膨大となり、諸外国からの借款や投資が滞るところとなって、資金調達が困難となり、国内や植民地からの収奪を強化するほかなくなったのである。同時に、軍事産業を支える熟練労働力を次々と戦時召集してしまい、大量生産技術が未整備の中、生産兵器のクオリティも低下する一途となった。
つまり、帝国日本は「世界最終戦争」(石原)に備えて総力戦体制を確立しようと試みたが、始めたばかりのところで自分から「世界戦争」を始めてしまったのだ。
以下、続く
posted by ケン at 12:55| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月16日

航空人事から見た日本の戦争運営について

1941年7月に海軍省が「対米開戦を辞せず」を決定した際(そして南部仏印進駐)、航空本部長だった伯父は「こんな航空戦備で対米戦などできるわけがない」「長期戦をどう戦うつもりなんだ」と噛みついたという。
工業力や資源、資金などの対米格差については、いくらでも知る機会があるが、今日は現代ではあまり顧みられない組織人員の面から考えてみたい。

開戦時の日本海軍の常用航空機定数は3019機で、運用に必要な搭乗員は3445名だったが、海軍所属の搭乗員は全3615名に過ぎなかった。このうち勤務2年以上の熟練搭乗者は49.5%だった。だが、42年末までに2300人からの搭乗員が失われ、熟練搭乗員の割合は22%にまで落ち込んだ。開戦時の米海軍と海兵隊が保有していたのは約4千機、同6千人だった。職場で一人でも有休を取ったらもう組織が回らないという日本型組織の体質は昔から同じだったのだ。

42年8月に始まるガダルカナル航空戦を見た場合、日本軍は892機、搭乗員1881名を失ったが、米軍が失ったのは621機、同420人だった。開戦当初の搭乗員数と比較した場合、日本が半分を失ったのに対して、米国は7%に過ぎなかった。
他の海戦も同様で、例えば一般的に「引き分け」と認識されている珊瑚海海戦を見た場合、日本海軍は航空機100機、搭乗員104名を失ったのに対して、米海軍が失ったのは同128機、35名だった。
同じく日本では一般的に「痛み分け」と解釈されている南太平洋海戦(1942年10月26日)を見た場合、確かに物理的には両軍ともに空母1隻撃沈、同1隻中破なのだが、空母搭乗員の損失は日本128名に対して、米39名だった。

日本の航空機は防弾性能や通信装備を犠牲にすることで、攻撃力や運動性能において米軍に対し優位に立ち、超エリート教育で練度においてもアメリカにひけを取らない水準に達したが(全体の練度において日本軍が米軍に優位に立っていたというデータは無い)、これは「一度限りの会戦であれば負けない」という話であって、戦争が長期化すればするほど優位性を失うものだった。事実はより過酷で、日本軍は開戦から一年でアメリカに対する優位を失っていた。

開戦前、日本の搭乗員教育は、教官1人に生徒1人という超エリート教育だったが、アメリカでは教官1人に6〜8人は当たり前だった。これには国民教育水準の背景があって、米国では当時すでに若者が普通に自動車運転免許を持っていたが、日本では運転免許など現在の航空機免許レベルの特殊技能だったため、搭乗員候補の基礎があまりにも違った。
これは搭乗員養成にかける予算にも顕著に表れている。日本海軍の航空関係予算に占める搭乗員養成費の割合は、1938年で0.08%、1940年で0.21%、1941年で0.16%と常に超低位で推移していた。ここにも「社員にカネを掛けるなんてタダのバカ」という日本型経営の決定的脆弱性が見られよう。

なお、ソ連では1937年に「全ソグライダー協会」が設立され、コムソモール員を中心に参加が奨励され、同時に「パイロット15万人計画」が策定された。戦時中、中学生のゴルバチョフがトラクターを運転していたことを考えても、兵舎に入るので初めて汽車に乗ったという若者が少なくなかった日本とは、機械文明の裾野が違いすぎたのである。

興味深いのは、アメリカが士官搭乗主義で9割士官、1割下士官だったのに対し、日本は真逆で1割士官、9割下士官だったことで、この辺にも「飛行機を飛ばせれば十分」と考えていた日本人の思考法を見て取れる。
また、元々日本は「総力戦を戦い抜き生き残って大帝国をつくる」ことを目的にファッショ体制(社会統制によるミリタリズムの最適化)を選択したはずだが、現実には中世ばりの「一回戦って負けたら終わり」という軍備しかつくれなかった。この辺は改めて別稿にて検討したいが、果たして伯父上を除く御先祖方が「総力戦とは何か」をきちんと理解していたのか、あの世で問い詰める必要がある。

【参考】
『近代日本軍事力の研究』 山田朗 校倉書房(2015)
posted by ケン at 12:31| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月08日

満蒙開拓団に合掌

満蒙開拓団.jpg
『満蒙開拓団―虚妄の「日満一体」』 加藤聖文 岩波現代全書(2017)

意外とあるようで無い、満蒙開拓団の歴史。昭和恐慌などによる農村の疲弊にはじまり、満州事変を経て開拓団の編成と派遣が国策化されるが、関東軍による屯田兵、現地召集兵確保の意向などによって歪められ、日中戦争の勃発によって景気が回復、若年労働力が不足し、いつしか官僚的な対応が強まって、「志願者対象」としながらも強制移住に近いものになってゆく。現代の学校部活動や「ボランティア」にも通じるものがある。恐ろしいほどの無責任体質がそれだ。

満蒙開拓団はどれも悲惨な結末を迎えるのだが、中でも酷いと思ったのは東京からの開拓団だった。戦況の悪化で生活が立ちゆかなくなったり、空襲で被災した東京市民で疎開のあても無かった人たちが、農業技術も無いのに、政府の勧めに従って満州に渡るが、一年あるいは一年半もたたずにソ連侵攻を迎えている。

例えば「興安東京荏原郷開拓団」(第十三次)の場合、戦況の悪化によって物資が不足し、営業が成り立たなくなった東京の武蔵小山商店街(当時は荏原区、現品川区)の商業組合員によって編成された。その職種は154に及んだが、農業経験者は皆無だった。東京郊外の研修施設で形ばかりの農業研修を行った後、1944年4月5日に新潟を出港して朝鮮半島の羅津に上陸、汽車を乗り継いで1週間後にソ蒙満国境の興安省に到着、入植した。
翌45年8月9日、ソ連赤軍がソ満国境を越えて侵攻を開始するが、避難を開始したのは12日になってしまう。当時、若年労働者が現地応召によって不在だったため、小学生まで動員して野菜の収穫、搬出をしていたためだった。結果、在籍者1142名のうち日本本土に帰還したのはわずか53名、他に25名が中国に残留した。生還率は5%を下回っている。

東京農大関係者を主体とした常磐松開拓団(渋谷)の場合、1945年6月26日に東京を発ち、日本海で触雷して輸送船は沈没、命からがら元山に上陸、満州の牡丹江駅に着いたのは8月8日深夜だった(9日未明とも)。赤軍が国境を越える数時間前のことだった。なお、大東亜省が「満州開拓民ノ送出ハ原則トシテ一時之ヲ中止ス」を決定したのは、同年7月2日のことだった。

ソ連軍が開拓村を攻撃したことで被害者が激増するわけだが、当時のソ連側の認識は「武装入植者による軍事拠点」だった。事実、関東軍は兵力供給源の確保と軍事拠点の設置を目的に、ソ満国境への入植を奨励するが、日本政府は全くそれに触れずに募集、応募者も自分たちが民兵代わりであるという認識は全く無かったことが悲劇を生んだ。しかも関東軍は国境近くの開拓団にも緊急召集を掛けてしまったため、肝心な時に壮年男性がおらず、避難が遅れ、匪賊や現地住民の攻撃にも対処できず、各地で集団自決が相次いだ。関東軍は、南満への避難計画を策定していたが、日本政府が許可しなかったことも被害を助長させた。その理由は「現地住民が動揺して何が起こるか分からない」というものだった。福島原発事故時の政府対応を思い出させる。
もっとも、樺太やポーランド、ドイツにおけるソ連軍の所行を見る限り、仮に「武装民兵」と認識していなくても、変わらずに開拓村を軍事攻撃した可能性は否めない。

最終的に敗戦時に満州に滞在していた日本人は、都市部等で155万人、開拓団関係者は27万人だったが、死亡者は全体で24万5千人に及び、うち約8万人が開拓団関係者だった。開拓団民は全住民中の17%だったが、死亡者では3割を占めている。これらの数字はいまだに正確な数字が把握されていないが、これは終戦時の文書焼却によるものというよりは、そもそも精密な行政文書が存在していなかったことに起因しているという。やはり満州移民は棄民政策だったのだ。

もともと本土内の労働力過剰や食糧難から始まった移民政策だったが、敗戦によって600万人からの海外(旧帝国領や植民地を含む)在住邦人が帰国したことと、1945年の大凶作や各種流通途絶によって飢餓が広まった。戦後のGHQ改革によって農地改革が行われたり、旧皇族領や国有地の払い下げが進められ、帰還した移民にも一定の分配がなされたものの、定着したのは概数で3割に満たなかったものとみられる。土地再分配の恩恵にあずかれなかったものは、悪名高きドミニカ移民を始めとする南米に再移民していった。幸運にも定着できた帰還移民たちも、例えば三里塚(成田空港)、六カ所(核燃サイクル施設)、上九一色(オウム事件)、飯舘・浪江(福島原発事故)などに象徴されるように、戦後政治の負の側面を一身に受けて悲劇の舞台となるところが少なくなかったのである。
posted by ケン at 12:14| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月11日

長州人から見た明治維新150周年

来2018年の「明治維新150周年」に向けて政府が記念事業を計画している。
政府、国家官僚からすれば、第二次世界大戦の敗戦に伴う休戦条約締結の条件として民主化、戦後和解体制の構築を余儀なくされただけの話であり、戦前の明治体制こそが「自分たちの本来の姿」であるという思いが強い。
そもそも日本の場合、国家官僚になるためにデモクラシーやリベラリズムの原理を問われることが無いため、国家主義者や全体主義者による蚕食を許してしまっている。かのドイツですら、軍内に国家主義に浸食を許し、反乱が企図されていたことが発覚する事態になっており、日本でも「テロ」の恐れよりも、行政機関や自衛隊における極右勢力の伸張の方が深刻かもしれない。
明治帝政を称揚する明治維新150周年事業は、自分たちの意に添わずに施行されたデモクラシーと戦後和解体制を払拭する象徴的イベントとしての意味を持つ。

だが、長州人や山口県人から見た明治維新は全く別の風景があり、これが理解できないと、安倍政権が明治維新150周年に前のめりになる理由も一面的な理解に止まってしまう。

2015年に放映された大河ドラマ『花燃ゆ』は、安倍政権と長州人脈の強い要望を受けてNHKが制作した作品で、松下村塾をめぐる人々の半生を描いた。だが、下関戦争における外国船砲撃の対象が米国船からフランス船に改変されたり、吉田松陰による老中暗殺計画の経緯が改ざんされたりと、様々な歴史改ざんが行われたことで悪評が立った。そもそも内容云々よりも、演出や演技の拙さから「学芸会レベル」と酷評され、歴史ドラマとしての評価は皆無に等しかった。あれはあれでNHKの制作現場レベルでのサボタージュだったかもしれないのだが。
それでも、当のNHKに圧力を掛けた長州人たちにはそれなりに評判良かったらしいのだが、本音レベルで長州人たちにとってあれで良かったのかについては、大いに疑問だ。
『花燃ゆ』は別格としても、幕末を描く映画、ドラマは必ず「激動の歴史」を描こうとするわけだが、そのどれもが陰惨な、血塗られた側面を正面から描いていないからだ。幕末を史実に忠実に描くなら、『ヒトラー最後の12日間』や岡本版『日本のいちばん長い日』のような集団狂気が再現されねばならない。

注目したいのは、「維新の殉死者」である。勤王運動(テロリズム)から明治維新(暴力革命)に至る過程で、吉田松陰(刑死)、久坂玄瑞(禁門の変で自害)、高杉晋作(長州戦争後に病没)ら勤王倒幕運動の主要人物が続々と死亡したことは知られているが、長州全体を見ても相当数が落命している。
幕末の長州の人口は約79万人。このうち、禁門の変、下関戦争、第一次長州戦争、長州内戦(元治内乱)、第二次長州戦争(四境戦争)、戊辰戦争という「革命戦争」に動員されたのは7500人から8千人。その内訳は、2千人が上級士族、3千人強が下級士族(足軽、中間、陪臣など)、2500人強が町人、農民等(いわゆる諸隊)だった。79万人は、現在の福井県や浜松市の人口に相当する。
そして、一連の戦争の中で戦死(扱いも含む)したのは1500人以上で、戦病死を含めるとさらに増えるものと思われる。仮に戦死率を20%としよう。近代戦争の始まるとされる日露戦争でも、90万人の動員に対して戦死・戦病死者は8万9千人で約10%だったことを考えれば、戦死率20%は想像を絶する損害であることが分かる。つまり、長州で維新運動に従事し、五体満足で帰ってきた者の方が少なかったというレベルにあった。
さらに、この他に維新後の「脱退騒動」(諸隊反乱)と「萩の乱」(士族反乱)で、戦死者100人、刑死者250人を出している。

比較対象を考えてみよう。長州とともに「御一新」をなした薩摩の場合、動員可能兵力最低3万7500人を誇りながら、戊辰戦争に出征したのは最大1万人で、戦死者は約500人。禁門の変や薩英戦争などの戦死者を足しても540人程度だった。戦死率は5%強である。つまり、薩摩藩の場合、藩士でも戊申戦役に動員された者の方が少なく、まして戦死者は稀だった。
これに対して、西南戦争で西郷軍が動員したのは日向を含めて2万6千人、戦死者は4千人近くに達し、薩摩人にとっては西南戦争の方が強烈なイメージを持つのが普通なのだ。

戦死、戦病死だけでなく、刑死、凶死(テロ)の多さも長州における維新運動の特徴だった。個別の事例を見てみよう。
「日本のヒムラー」と呼ばれ、内務省で治安畑を歩んだ安倍源基(鈴木内閣で内相)の場合、伯父3人(当時21、18、16歳)が戊申戦役に出征し、うち2人が戦死、生還した末弟も維新直後に病没、末妹が婿をとって安倍家(大野毛利家家老)を継いでいる。

長州藩の革新官僚(家老)として知られる周布政之助の場合、勤王派を支援したこともあって禁門の変、第一次長州戦争後の政変中に自害。長男の藤吾は第二次長州戦争で戦死、次男の公平が家を継いだ。

日露戦争時の満州軍総参謀長を務めた児玉源太郎の場合、幼少期に勤王派の実父(徳山藩士)が藩内の権力闘争に敗れて閉門蟄居にあい、憤死。姉の婚家である児玉家(同)に引き取られるが、義兄にして養父の次郎彦は佐幕派藩士のテロによって凶死(惨殺)、源太郎13歳の時だった。児玉家は家禄を召し上げられ貧窮に苦しむ中、戊辰戦争が勃発、源太郎は16歳で召集され、献効隊の一員として出征、箱館で初陣を果たした。

元勲の一人となった井上馨の場合、世嗣の小姓を務めるほどの家柄に生まれながら勤王派に参加、英国公使館焼き討ち(実行)や外国公使殺害計画(頓挫)などのテロ活動に従事した。第一次長州戦争の混乱の最中、佐幕派(俗論党)の一団に襲撃され、医者が「息をしているのが不思議」と言うほどの重傷を負った(縫合6箇所、50針)。テロリストの中には、井上の顔見知りの友人もいたという。

つまり、長州藩の場合、身分に関係なく全ての武家が何らかの形で維新に参加し、大半の家で何らかの形で犠牲者を出していたと言える。こうした長州人の「御先祖が血を流して為した革命」という意識が理解できないと、彼らの「明治維新150周年」に対する執念も理解できないかもしれない。
posted by ケン at 12:30| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月12日

第一次世界大戦が日本にもたらしたもの

ボスが憲法記念日に出す声明文の原稿をチェックしていたところ、「日本の(が参戦した)4つの戦争」という表現を見つけ、ダメ出しをした。単純に第一次世界大戦が抜け落ちていたのだが、一般的には見落としがちなのかもしれない。学校の日本史でもあまり重要視されないため、よほど自主的に近代史を学び直さない限り、能動的な知識にならないのかもしれない。
確かに、日清・日露戦争や日中あるいは太平洋戦争のような主役での参戦ではなかったものの、日中戦争、特に太平洋戦争の主たる原因は、一次大戦の結果生じたものと考えるべきだからだ。

日本が一次大戦に参戦したのは、ドイツの東洋艦隊に対する抑え役が欲しいイギリスが、日英同盟に基づいて日本に参戦要請したことに起因している。
日本はまずドイツ東洋艦隊の根拠地である青島と膠州湾を攻略、占領するが、後に中国の袁世凱政権に対して「対華二十一箇条要求」を行い、ドイツの中国利権の委譲を始め、新規利権を含めて様々な特殊利権を、軍事力を背景に求めた。袁政権がこれに屈すると(「汚い取引」の側面もあるが)、五四運動や中国内戦の原因に転化(点火?)していった。三次にわたる山東出兵の原因にもなっている。
これ以降、日本の対中利権が既得権益化し、そのさらなる拡大を求めて帝国主義的進出(侵略)を加速化させてゆく。上海事変、山東出兵、張作霖爆殺、満州事変は全てその延長線上にある。
また、日本の中国進出が、特に自由貿易(門戸開放)を掲げるアメリカの態度を硬化させ、日米対立の遠因になってゆく。

さらに、戦勝によって日本は南洋諸島の委任統治を継承するが、財政や資本の裏付けの無いまま広大な領地・領海を獲得し、その維持負担が重荷となる。それだけならまだ良いが、アメリカは植民地たるフィリピンやグアムなどの連絡線を日本によって遮られる形となり、いわばその生命線を握られるところとなった。ひとたび関係が悪化すると、そのリスクは際限なく上昇するわけだが、逆に日本は対米関係の悪化を想定して軍拡に走らざるを得なくなり、どう見てもマイナス要素の方が大きかった。

実際、アメリカは一次大戦後、日本を大きなリスクと考えるようになり、まず「四カ国条約」を提唱して日英同盟を解消させ、中国との関係を強化し、対日包囲網を想定しての外交を進めた。これに対して、日本は国際連盟の常任理事国にはなったものの、日英同盟を失い、日露協商も反故にされ、日中関係は悪化の一途、日米は常時緊張状態という外交的孤立に追い込まれていった。この孤立が顕在化した時、日本は日独伊三国同盟に活路を見いだし、第二次世界大戦に突入してゆくことになる。

そして、ロシアで革命が勃発すると、火事場泥棒的にシベリアに傀儡政権を打ち立てるべく、宣戦布告無しで内戦に武力介入、これが「シベリア出兵」となる。日本軍は7万3千人を出兵し、白軍(反革命軍)などと連携して4年にわたる内戦に参加、ロシア側は住民含めて40万人とも言われる被害を出した。これが切っ掛けとなり、ソ連は日本を極東地域最大の脅威と見なし、二次大戦末期の満州侵攻に繋がっていった。

一次大戦の経緯を無視して、二次大戦の原因だけ見ると、どうしても陰謀論に傾いてしまうので、真摯に学び、慎重に検討する必要がある。

【追記】
一つの事象にのみ囚われると全体を見失いやすい。例えば、ソ連のアフガニスタン介入にしてもチェコスロヴァキア介入にしても、事象だけ見ると「悪の帝国がまた・・・・・・」という話になりがちだが、原因と結果を丹念に追えば、全く異なるものが見えてくる。また、日露戦争の原因のように、従来の研究が日本側の視点に偏っていた結果、かなり客観性を欠いてしまうケースもある。いずれも本ブログの記事を参照して欲しい。

・ソ連のアフガニスタン介入における意思決定過程 
・「プラハの春」とカーダールの苦悩 
・「プラハの春」−ソ連の対応と誤算 
・日露開戦の代償−開戦経緯を再検証する 
posted by ケン at 12:52| Comment(2) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月27日

忖度と斟酌の違いを考える

森友疑獄に絡んで「忖度と斟酌は何が違うのか」という質問を受けたので考えてみたい。まず辞書的に言うならば、忖度は「他人の気持ちを推し量る」で、斟酌は「相手の事情を考慮に入れる」になる。今少し踏み込むと、忖度は「明確な要求や主張があったわけではないが、特定の誰かの気持ちや希望を推量する」であり、斟酌は「要求や主張の有無に関係なく、何らかの行動を起こす上で、特定の誰かの希望や気持ちを考慮する」という感じだろうか。
用例を見てみよう。まず忖度から。
先生の博士問題のごときも、これを「奇を衒う」として非難するのは、あまりに自己の卑しい心事をもって他を忖度し過ぎると思う。先生は博士制度が世間的にもまた学界のためにも非常に多くの弊害を伴なう事実に対して怒りを感じた。
和辻哲郎「夏目先生の記憶」

山へ遊行するにも此かくの如き有様であるから、登山になれた我々の感情によつて、祖先達の山の感情を忖度することはできない。
坂口安吾「日本の山と文学」

一体防衛庁の予算というのも少しでたらめですね。債務負担行為が非常に多くなったり、繰り越し明許に全部使ってみたりして、それは、実につかまえにくいアメリカの気持ちを忖度して、その上に立った予算だからなんです。
1963.12.4 衆議院予算委員会 淡谷悠蔵議員(日本社会党、のり子の叔父)の質問

次に斟酌。

私は、年少の友に対して、年齢の事などちっとも斟酌せずに交際して来た。年少の故に、その友人をいたわるとか、可愛がるとかいう事は私には出来なかった。
太宰治「散華」

なおこの土地に住んでいる人の中にも、永く住んでいる人、きわめて短い人、勤勉であった人、勤勉であることのできなかった人等の差別があるわけですが、それらを多少斟酌しんしゃくして、この際私からお礼をするつもりでいます。
有島武郎「小作人への告別」

在監者には、朝、昼、夕三回とも、米麦をたしか四・六の割合で、一回ごとに八百カロリー、計二千四百カロリーですから、国民の最低のカロリーはまあ保有しておると思うのです。ところがこれに関連して、三十四条を見ますと、「在監者ニハ具体質、健康、年齢、作業等ヲ斟酌シテ必要ナル糧食及ヒ飲料ヲ給ス」こういうふうに明記してあるのですが、実際こういうふうに、体質とか、健康状態等々によって斟酌して、量を斟酌をして、そういう配慮を実際なされておるのですか。
1960.2.18 参議院内閣委員会 伊藤顕道議員(日本社会党)の質問

学術研究であれば、膨大な使用例を精査する必要があるが、そこはブログという媒体であることを斟酌していただきたい。
つまり、忖度も斟酌も、「他者の背景、事情、気持ちを考慮する、そして可能であれば行動に反映させる」という意味があるのだが、斟酌の場合は背景事情や気持ちが明示されていることが多いのに対し、忖度は明示されていない背景事情や気持ちを推量することに重点が置かれている。
また、文学表現の場合、忖度は必ずしも行動には結びつかず、単に推量に止まることもあり得るが、政治上で使用する場合は推量と行動が直結しているケースが多いようだ。推量するだけでは、政治上の要請に応じられないからだろう。

森友疑獄に際して、斟酌では無く忖度が使用されるのは、便宜供与を求める森友学園や、仲介者となったであろう総理夫人などが具体的な要求をせず、「願望」や「問い合わせ」を行政側に伝え、行政側は慣例に従って政治的要求に従って政治的配慮から行政の裁量権を行使したことに基づいている。

蛇足になるが、忖度は日本の伝統芸ではない。例えば、スターリン体制下の大粛清などは「忖度」が超大規模で行われた結果起きた大惨事だった。そもそも発端となるキーロフ暗殺からして、スターリンの命令では無く、スターリンの感情を「忖度」した治安機関などが勝手に実行した可能性が高い。そして、その後起きた大量粛清も、一々スターリンが具体的に指示したわけではなく、スターリンの恐怖、願望、妄想を忖度した治安当局(エジョフあるいはベリヤ)が粛清リストをつくり、実行していったのである。現代ロシアで起こっている反体制派などに対する暗殺も、プーチン大統領らの意向を忖度して行われている可能性が高い。スターリンにしても、プーチン氏にしても、容易に自らの意思を明らかにしない人物なのだ。但し、チトー暗殺を始め、明確に指示を出した例も散見される。
例えば、スターリンが「フルシチョフ同志の御母堂は確かポーランド人だったな」と言っただけで粛清対象になりかねなかったので、フルシチョフは顔を真っ赤にして全身汗だらけになって全力で否定しなければならなかった。

日本に戻せば、今国会で審議される共謀罪の恐ろしいところは、権力者の意向を忖度した警察が、明確な犯罪容疑や捜査目的も無く、あらゆる市民を監視下、捜査対象にすることを可能にするシステムであることにある。
もちろん、現在でも大手メディアを見れば一目瞭然で、官邸が具体的な情報統制を行わずとも、メディア側が勝手に忖度して政権に不利な情報は隠蔽する態勢になっているので、せいぜいのところ「ファッショにまた一歩」でしかないのだが。
posted by ケン at 12:09| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする