2016年09月10日

蓮舫氏国籍問題の諸相・補

先の稿について、歴史的経緯を補足しておきたい。

台湾は、1895年4月に締結された日清講和条約(いわゆる下関条約)によって清国から日本に割譲された。だが、締結時には日本はまだ台湾を占領下においておらず(休戦4日前に膨湖島を占領したのみ)、5月には在台漢人を中心に「台湾民主国」の建国が宣言された。これを受けて、5月末に日本軍が台湾に上陸し、「乙未戦争」が始まった。台北はすぐに陥落したものの、全島でゲリラ戦が展開され、平定は11月になった。日本軍は、7万6千人が上陸、5千人以上の死傷者を出しており、抵抗の大きさが伺われるが、日本の教科書や歴史書に書かれることは殆ど無い。

下関条約は第5条で、台湾住民に対し、2年の期限内に退去しない場合には「日本国の都合により日本国臣民とみなすことあるべし」と定め、日本政府の裁量で日本国籍の取得を認める方針を示した。ただ、これは漢人・漢族に限った話で、先住民については「化外の民ゆえに皇民として教化できた暁には臣民と認める」という方向性だった。

1896年3月には、「台湾に施行すべき法令に関する法律」が施行され、台湾における立法事項は、帝国議会等の立法をそのまま適用するのではなく、台湾総督の律令(命令)をもって施行する方式が採用された。これが「外地」の誕生となる。
同時に国勢調査が進められ、「台湾戸籍」がつくられるが、内地の戸籍との互換性がなく、婚姻や養子縁組に大きな支障があった。これが緩和されるのは、1933年のこととなる。
なお、「台湾戸籍」はあくまでも本島人を対象にしており、先住民については「蕃社台帳」に登録された。
そして、戸籍の本籍が内地にあるか外地にあるかで、同じ日本臣民の中で「内地人」と「外地人」に区別がなされた。その外地人の中でも、「本島人」と「蕃人」に分けられた。
戸籍には「本籍不動(本籍転属禁止)の原則」があり、抜け穴が無いわけではなかったものの、同じ帝国内に深い溝があったことは強調しておくべきだろう。

帝国とは複数の国家・領域や勢力・民族を支配する体制(システム)を指す。一般的には帝国というと、一民族が他民族を抑圧的に差別して支配するシステムというイメージが強いが、実情はそうではなく、むしろ単一性の高い民族国家の方が少数民族に対する抑圧が強い傾向がある。これは多民族国家を前提として国民統合を図る帝国と、一民族の自存を目的として国家共同体を存立させている民族国家との違いによるところが大きい。
大日本帝国の場合、江戸幕藩体制を統合する目的で帝国を建国し、「大和民族の統合」については一定の成果を挙げたものの、台湾や朝鮮を併合するに及び、帝国の原理を逸脱してしまった。結果、第二次世界大戦において日本は植民地からの戦時動員に難儀することになる。

1937年7月に日華事変・日中戦争が勃発すると、日本はあっという間に兵力不足に陥る。総力戦体制への移行が課題となる中で、戸籍法が施行されていない植民地からは徴兵することができなかったためだ。
台湾では、1942年4月に陸軍志願兵制度が施行され、43年9月には東条内閣が45年度より徴兵を実施することが閣議決定した。これを受けて、43年11月に兵役法が改正されて、「戸籍法又は朝鮮民事令中戸籍に関する規定の適用を受くる者」の文言が削除され、戸籍法の適用有無に関係なく兵役義務を課すことができるようになった。動員された台湾人は20万7千人に及び、戦死者は3万人だった。
なお、徴兵制の施行に伴い、1945年4月には衆議院議員選挙法が改正されて、台湾には5名の議席割り当てがなされたものの、総選挙は行われないまま終戦を迎え、同年12月には参政権も停止された。この時も、選挙人資格は「15円以上の納税」という要件が課されており、差別は解消されなかった。

1952年に日華平和条約が発効すると、発効時点で台湾戸籍に入っていたものは自動的に台湾人として扱われ、日本国籍を喪失、内地戸籍にあったものは引き続き「日本人」となされた。この際、現住所や生活基盤の場所などについては、一切の考慮がなされることなく、ただ機械的に本籍地で振り分けがなされた上、台湾人には日本国籍を留保する権利すら与えられなかった。これは、当事者の合意無くして国籍の変更を強要したことを意味し、近代国家の国際慣行(国籍選択権の担保)に反するものだった。
日本国籍を失った台湾人が、日本国籍を取得するためには、他の外国人と同様、帰化申請を行う必要があった。1950年5月に施行された新国籍法は、「日本国籍を失った者」に対して3年以上の居住によって帰化を認めるという要件緩和条項が設けられたものの、旧植民地人はこれに該当しない、というのが政府・法務省の見解だった。
当時、少なくない数の反国民党(反重慶政府)系の台湾人が、「国民党政府に引き渡されるとなると、我々の生命の保証はないから、何とか日本国籍にしてくれ」と日本政府に泣きついたものの、極めて冷淡に拒否されたという。

本稿において重要なのは、蓮舫氏の父君が旧帝国臣民で、日本国籍保持者だった点である。自国の過失により、敗戦という事態を招き、あまつさえ忠義を尽くした植民地臣民に対して日本国籍選択の権利すら与えずに、他国に放逐したという自覚を持たずに、台湾との重国籍を批判するのは、あまりにも無責任ではなかろうか。
帝国を肯定・否定するにかかわらず、我々は、大日本帝国の負債を背負っているのである。

【参考】
『戸籍と国籍の近現代史−民族・血統・日本人』 遠藤正敬 明石書店(2013)
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2016年09月01日

ノリで戦争を選ぶ日本人

先の記事「日露開戦の代償」を書くにあたって、かなり新資料を読み込んだが、あらためて驚かされたのは、当時の日本人の相当数が「いまロシアと戦争しないと大変なことになる」という集団ヒステリーに陥り、それを少壮官僚や若手政治家が利用して、内治派の元老や国際協調派の明治帝を押し切ってしまった事実だった。
それは、司馬史観が言う「明治人たちは優秀だったのに、昭和に入ると別人になってしまった」という設定自体が虚構、あるいは司馬らが「信じたかった」ものだったことを示している。

ここで敢えて説明し直すと、もともと日露開戦前、日本政府は「朝鮮半島の独占的権利を確立し、ロシアに認めさせる」ことを政治目標とし、この点については元老を中心とした内治派も、少壮官僚や若手政治家を中心とした外征派もほぼ一致していた。ただ、手段として、内治派は「あくまでも対露交渉がメイン」としたのに対し、外征派は「軍事同盟などの国際圧力を駆使し、武力行使も辞さず」というスタンスだったことが大きく異なっていた。
ところが、日英同盟が成立し、日露交渉が難航すると、いつしか「極東におけるロシアの脅威を全面的に排除する」という方向で話が進んでしまい、国内世論もどんどんヒートアップして「戦争するなら今でしょ」「やらないとか言うヤツは国賊」という流れになり、外征派としても「振り上げた拳は下ろせない」形になってしまった。
そして、ほぼほぼ成立していた日露交渉を「聞かなかった」ことにして、日本は対露宣戦布告して開戦と同時に奇襲攻撃を行った。その代償は、9万人の死者、80年にわたる借金の返済、そして身の丈に合わない軍事大国への道だった。
私が強調したいのは、政治目的を達成するために軍事力を駆使する本来の姿と異なり、当時の日本人は武力行使そのものを目的としてしまったことであり、この点、明治人も昭和人も実は大差なかったのではないか、ということである。

昨年には「日清戦争の「勝利」を検証する」を著した。
日清戦争は政策担当者の主観的には外交交渉の敗北を軍事的勝利をもって上書きすることを目的とし、政治的には朝鮮半島から清国の影響力を排除して日本の単独的影響力を確立することを目的として始められた戦争だった。
結果的に日本は軍事的勝利を収めて清国を屈服させ、客観的にも主観的にも勝利を収めた。ところが、本来の戦争目的である「朝鮮の独立(独占的支配権の前提)」については、朝鮮を清帝国圏から脱しせしめたものの親露国にしてしまい、今度はロシアの影響力を排除するために(より難敵である)ロシアと戦争する必要が生じてしまった。
朝鮮が親露国になった直接的原因は三国干渉にあるが、これは日本が清国をめぐる暗黙の国際合意に配慮せず、また他の列強の後援(了解)を得ずに清に過大な要求を行った結果、生起したものだった。
その三国干渉が切っ掛けとなって列強の対清侵略が進み、清帝室の威信は低下、財政的にも破綻して瓦解、日本は交渉相手を失うが、同時にこれを奇貨として大陸進出を図って行くことになる。日本の帝国主義的欲求を刺激したのは、日清戦争における過大な勝利と要求だった。
つまり、日清戦争も軍事的には勝利したものの、本来の政治目的は達成できず、むしろいたずらに清、ロシア、韓国の警戒心と疑心を煽る結果に終わった。やはり、「政治目的を達成するための武力」という原則は貫かれていない。日清戦争においても、同じく国論が沸騰し、元老以外の殆どで開戦論が主張されている。

一昨年には、「文民統制と和平交渉」で日華事変初頭における盧溝橋事件と南京進撃の意思決定を検証した。
この頃になると、そもそも政治目的が不明で、私も色々読み込んだが、近衛首相を始めとする政府要人が「日本の国益として何を目指していたのか」すらよく分からなくなっている。結果、日本政府は要求水準をいたずらに上げて和平交渉を自らブチ壊す一方、国民世論はマスゴミを中心に「暴支膺懲」でヒートアップし、対中武力行使を全面的に支持した。ここでも、武力行使そのものが目的と化してしまい、「武力によって獲得すべき政治目的」が分からなくなってしまっている。
敢えて昔との違いを言えば、日清戦争が「政治的失敗を武力で挽回」、日露戦争が「政治目的はあったけど、武力行使でより多くの成果が達成できそうだったし、今さらやらないとは言えないからやってみた」のに対し、日華事変は「ちょうど良いときに火が付いたので、やれそうだからやってみた」という程度でしかない。確かに症状としては、後世になるほど悪化しているものの、マキャベリズム的な思考からすると、どれも「政治家が愚劣で何も考えていないから、安易な武力行使に走った」と評価せざるを得ない。当然のことながら、これが日米戦になるともっと酷くなる。
要は、いずれの戦争もおよそ合理的判断に欠けているのだ。

他方、本ブログではソ連の武力行使に際する意思決定も検証している。「ソ連のアフガニスタン介入における意思決定過程」では、ソ連共産党指導部が「ソ連人300人殺害」という大事件が起きながらも自制を働かせ、参謀本部や外務省がそれぞれ専門的な理由から反対する中、最終的には長い議論を経て「アフガニスタンの同志からの要請は断れない」「同国に親米政権が樹立すれば弱い腹部がさらされる」「これまでの投資が無駄になる」などの理由から軍事介入を決断している。
最終的には失敗し、国際社会からも「悪」と断じられたものの、そこには少なからぬ合理的判断(明確な政治目的)と十分な議論が存在した。

プラハの春−ソ連の対応と誤算」では、チェコスロヴァキアへの軍事介入を決断したブレジネフ執行部の意思決定を検証した。経済改革と保守派の追放に始まったチェコスロヴァキアの改革が共産党による統制を失い、党内の分裂も相まって制御不能に陥り、共産党体制の瓦解とソ連・東欧ブロックからの離脱が真剣に危惧されたことから介入の決定がなされた。その介入についても、ソ連側はチェコスロヴァキア側に対して再三にわたって警告を発し、ワルシャワ条約機構(WTO)加盟国の首脳会談を複数回行い(ドレスデン、ワルシャワ、ブラチスラヴァ)、調整に調整を重ねたものの、チェコスロヴァキア側の対応に全く変化が無かったため、軍事介入の決断を下している。
この場合も、明確な政治目的が存在し、「他に手段が無い」ことが確認された上で武力行使が決断されており、善悪は別にして十分な合理性が認められる。

一般的には「ロシア人は何を考えているか分からない」と言われるが、それは内側がブラックボックス化しているため思考や意思決定が分かりづらいだけで、実はかなり理性的な議論と判断がなされている。
むしろ日露開戦時にロシア人が驚愕したように、歴史的には日本人の方が「ここで武力行使するの?」という局面で全面行使に踏み切るケースが多く、しかもそこには明確な政治目的が介在せず、意思決定過程も曖昧であるため、合理的判断が介在する余地を狭めてしまっている。
その意味で、現行憲法の第9条が全面的に武力行使を禁じているのは、「我々日本人は、何も考えないで戦争したがるから(しかも反省しないし)、最初から禁止しておこう」という措置と捉えることも可能なのだ。

【追記】
日清戦争に見られる「政治外交的失敗を軍事力で覆す」という手法は、現代でも見られる。アメリカによるアフガニスタン侵攻は、自国が養成した対ソ戦ゲリラや国際テロリストが、自らの手を離れ、さらに噛みついてきたために起こしたものだった。また、同じくアメリカによるイラク侵攻も、湾岸戦争の未処理と中東政策の失敗を軍事力によって糊塗するために行われた面がある。だが、いずれの武力行使も、軍事的には成功したものの、本来の政治目的は達成できず、むしろ米国に対する怨嗟を拡大させて、中東からの撤退を加速させる方向に働いている。
posted by ケン at 12:54| Comment(2) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月20日

日露開戦の代償−開戦経緯を再検証する・下

の続き)
日本側の好条件にもかかわらず、ロシア側の回答は著しく遅延した。極東問題の優先順位の低さや意思決定の複雑さと、皇帝ニコライ二世の憂鬱(趣味の狩猟への逃避と皇妃の病気)が重なり、その回答は12月11日になってしまう。ここでロシア側は、「満州は日本の利益の範囲外」とする条項を削除し、日本側に譲歩した。ただ、「韓国への日本の軍事的援助」を拒否し、「韓国の北3分の1の中立化」と「朝鮮半島の戦略目的での使用禁止」は残したものの、問題となるのはこの3点程度に絞られていた。
だが、日本側はロシア側の遅延を「開戦準備のための時間稼ぎ」と解釈、国民世論や議会はますます開戦に向けてヒートアップし、軍部も「開戦するなら今すぐ」という空気に支配されてしまった。開戦派に鞍替えした『万朝報』を退社した幸徳秋水と堺利彦が、『平民新聞』を発行したのは、11月15日のことである。その第一号の特集は、「非戦論演説会」だった。

日本側は12月16日、首相官邸に元老と閣僚が集まって、ロシア側の第二次回答を検討。山県は満韓交換論で最後の交渉を行うべきだと主張したのに対し、桂首相と小村外相は、「朝鮮問題で日本側要求が受け入れられぬ時は開戦」旨の主張、「開戦ありき」だった。だが、最終的には同23日に、満韓交換論を主とする第三回提案を送付、翌1904年1月6日にロシア側の回答を得るも、「韓国北部中立」「半島の戦略目的での使用禁止」は削除されなかった。
この間、ロシア駐日公使のローゼンは、本国に日本が開戦準備を本格化させ、韓国への出兵を企図していることをペテルブルクに打電している。だが、ロシア側では「日本による韓国占領」を企図したものと認識され、「すぐさま日露開戦を意味するものではない」とする見方が大勢を占めていた。そして、「日本が韓国を占領するなら、それはそれ(やらせておけ)」という冷めた見方が強かった。この辺のロシア人の感覚は、「ロシア帰り」でないとなかなか理解しづらいかもしれない。

日本では開戦論が沸騰し、開戦準備が進む中、04年1月16日に、韓国全土を日本の勢力圏とし、中立地帯の設定を除外する第4回提案をロシア側に提示した。ここで、ロシア側はようやく全面譲歩し、中立地帯の設定を除外した上、韓国の軍事利用を認めない条件で日本の勢力圏化を完全に認めるという、日本側に拒否する理由の無い内容のものとなったが、この回答がローゼン駐日公使の下に届いたのは2月7日のことだった。その前々日には、明治帝から開戦の大命が下され、翌6日には同行使に国交断絶が伝えられていた。日本海軍による旅順口奇襲が行われたのは、2月8日である。
なお、成立寸前にあった日露交渉の内容は、1901年12月に伊藤博文が、独自にヴィッテ蔵相とラムズドルフ外相と交渉してほぼ合意に達しながらも、日英同盟交渉を進める外務省に止められてしまったものと、ほぼ同じものだった。

一年半以上にわたる戦争を経て締結されたポーツマス条約の要点は以下の通り。
1.日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。
2.日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
3.ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する。
4.ロシアは東清鉄道の内、旅順−長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
5.ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。
6.ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。

このうち1と2は開戦前の日露交渉で合意されていたものであり、実のところ日本が戦争で得たのは、3〜6の部分に過ぎなかった。その代償は、9万人近くの戦死者と3万人近い病死者、15万人以上の負傷者であり、税収が2億円のところに19億円の戦費(うち8億円が外債)というものだった。
この戦費について、外債引き受けを担当した高橋是清は、事前に政府に受けたレクチャーで「継戦期間を一年として4億5千万円」と説明されている。1904年の日本のGNPは30億円でしかなかった。
この外債の内実は惨憺たるものだった。
最も規模の大きかった英国債を例に挙げると、一回目と二回目の公債は利率6%で、発行価格が額面の約90%の上、関税収入を担保に入れるという代物だった。
最初から割引して発行していることを考えれば、実効利率は7〜7.5%といったところだった。
三回目と四回目の公債は、若干マシになって、利率は4.5%になったものの、発行価格は相変わらず額面の約90%の上、タバコの専売収入を担保に入れていた。
他方、ロシアの対仏公債は、利率5%、発行価格は額面の99%、担保無しというもので、この差こそが、まさに当時の国際的評価を表していた。
そして恐ろしいことに、日本国が、日露戦争に際して発行した公債の返還を終えたのは、なんと1986年のことだった!
日露戦争のツケ

さらに終戦後、日本は韓国を併合するが、その経営が赤字続きで、1932年の一般会計予算が15億円のところに7千万円も交付金を出して補填しなければならなかった。
一方、ロシアでは革命が勃発、第一次革命は鎮静させたもの、帝政の終焉を早めたことは間違いなく、ソ連というより強大な脅威を作り出す遠因になった。そして、韓国や樺太などを防衛するためとして、シベリア出兵や満州事変が起こされ、「ソ連の脅威」に備えるため陸軍の際限なき軍拡が進み、日本の重工業や民政発展に深刻な打撃を与えた。

日露協商は、むしろ成立しない要素の方が少なかったにもかかわらず、タフな交渉を捨て、安易な武力行使に走った結果、日露両国にとって不幸な歴史の原因をつくってしまった。王道では無く、覇道スタンスを採るとしても、当面を満韓交換論=日露協商でやり過ごしておけば、遠からずロシアは第一次世界大戦に巻き込まれて窮地に陥ったのであり、満州進出はそれからでも十分だったはずだ。
我々は「明治の栄光」などという観念を捨て、改めて謙虚に歴史を検証すべきなのである。

【参考】
『日露戦争 起源と開戦』 和田春樹 岩波書店(2009)
『日露戦争研究の新視点』 日露戦争研究会編 成文社(2005)
「日露戦争−開戦にいたるロシアの動き」 和田春樹 ロシア研究78号(2006)
「日露戦争と日本外交」 伊藤之雄 防衛省防衛研究(2004)
「日英同盟締結後における日露の外交方針」 千葉功 日本歴史581号(1996)
「ロシア帝国と日露戦争への道−1903年から開戦前夜を中心に」 加納格 法政大学文学部紀要53号(2006)
「政治指導者の国際秩序観と対外政策−条約改正、日清戦争、日露協商」 佐々木雄一 国家学会雑誌127巻(2014)
「日露戦争観の過去と現在」 千葉功 新しい歴史学のために288号(2016)
日露戦争のツケ」 
朝鮮統治のツケ」 
「日清戦争の「勝利」を検証する」 
ソ連のアフガニスタン介入における意思決定過程

【追記】
映画『二百三高地』は、『仁義なき戦い』の笠原和夫が脚本を担当、「明治天皇が遠く戦地の乃木を思う場面なんかよりも、豆腐屋とか幇間とかやくざみたいな連中が戦場に送られてどうなってこうなって」という方針でつくられた。だが、ラストで乃木が明治帝の前で報告する場面は、当初史実に基づき、帝が冷淡に報告を聞き置く形にしたところ、東映の岡田社長に「お前、それじゃあ客がはいらへんぞ。報告する乃木も、報告を聞く明治天皇も皇后も滂沱と盛大に泣かしてくれや」と言われて、書き直されたという。「歴史」はこうやってつくられてゆく。

【追記2】
なお、明治帝は、日清戦争に引き続き、日露開戦に際しても常に慎重派であり続けた。開戦直前の1904年1月5日に米フィリピン総督タフトに接見した際には、「朕に於ては今日迄も其局を平和に解決致したくと努め居り、尚ほ其方針を以て時局を結了せんことを覚悟し居れり」と述べている。また、廟議で開戦が決せられた2月4日には、内廷に帰った際、「今回の戦は朕が志にあらず」と誰に対してでも無く独り言のようにつぶやいたとされる。さらに、その日の夜は一睡もできず、戦争中も食事も睡眠もままならない日が続き、命を縮めてしまったのは周囲の目からも明らかだった。戦争末期に樺太作戦が上程された際も、「列強の介入を招くのではないか」と慎重姿勢を見せ、すぐには裁可しなかった。両戦争に際して、元老を含む政治家たちよりも天皇の方が大局観を有していたというのは、何とも皮肉な話である。

【追記3】
開戦時の「露国に対する宣戦の詔勅」には以下の一文があるので付記しておく。
帝国の重を韓国の保全に置くや一日の故に非す。是れ両国累世の関係に因るのみならす韓国の存亡は実に帝国安危の繋る所たれはなり。然るに露国は其の清国との明約及列国に対する累次の宣言に拘はらす依然満洲に占拠し益々其の地歩を鞏固にして終に之を併呑せむとす。若し満洲にして露国の領有に帰せん乎韓国の保全は支持するに由なく極東の平和亦素より望むへからす。故に朕は此の機に際し切に妥協に由て時局を解決し以て平和を恒久に維持せむことを期し有司をして露国に提議し半歳の久しきに亙りて屡次折衝を重ねしめたるも露国は一も交譲の精神を以て之を迎へす。

現代語訳:日本帝国が韓国の保全を重視してきたのは、昨日今日の話ではない。わが国と韓国は何世代にもわたって関わりをもっていたというだけでなく、韓国の存亡は日本帝国の安全保障に直接関係するからでもある。ところが、ロシアは、清国と締結した条約や諸外国に対して何度も行ってきた宣言に反して、いまだに満州を占拠しており、満州におけるロシアの権力を着実に強化し、最終的にはこの土地を領有しようとしている。仮に満州がロシア領になってしまえば、わが国が韓国の保全を支援したとしても意味がなくなるばかりか、東アジアにおける平和はそもそも期待できなくなってしまう。従って、朕はこうした事態に際して、何とか妥協しながら時勢のなりゆきを解決し、平和を末永く維持したいとの決意から、臣下を遣わしてロシアと協議させ、半年の間くりかえし交渉を重ねてきた。ところが、ロシアの交渉の態度には譲り合いの精神は全くなかった。
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2016年08月19日

日露開戦の代償−開戦経緯を再検証する・中

の続き)
ここで一旦、ロシア側に視点を移したい。ロシアの極東政策は、もともと優先度が低く、基本的な安全保障上の優先順位は、第1にヨーロッパ・バルカン半島、第2にトルコ・アフガニスタンで、第3にシベリア・沿海地方の防衛で、満州への進出はその下にあり、韓国となるとはるかに下の方になってしまう。さらに、国内の情勢不穏により、ロシア国内の治安維持やポーランドなどでの反乱に備える必要があり、その深刻度は日に日に高まっていた。結果、中国・極東方面へ進出は常に4番目以下の扱いだった。この傾向は、日露が開戦するまで変わらない。実際、財政難もあって、東清鉄道やシベリア鉄道の建設は遅れに遅れていた。
それでも、1896年には李鴻章に巨額のワイロを送って露清密約を結び、清に満州利権を認めさせる。だが、これは日本の大陸進出を危惧する清が、ロシアに協同戦線を求めた側面もあり、一概には「南進政策」とは言えないものがあった。

現代のウクライナ紛争にも見て取れるように、歴史的に強国の侵略を受け続けているロシアは、第三者からすると過剰な防衛意識を持っており、常に自国領土と他国勢力圏の間に緩衝地帯を設けようとする意図が強い。現代のロシア人が「NATOの脅威に備えて緩衝地帯を設ける」と考えているものが、欧米人からすると、「ロシアの侵略」と捉えられ広く信じられている。当時の満州も、ロシア人的には「シベリア・沿海地方の弱い腹部を守るための緩衝地帯」だったわけだが、日本人的には「ロシアの伝統的な南進政策」と写ってしまった。

話を戻す。次いで、三国干渉の見返りとして、1897年に旅順、大連の租借が決まるが、これは当時のムラヴィヨフ外相が推進したことで、ヴィッテ蔵相は財政上の理由から反対だった。租借が決まると、南満州鉄道の建設が始まり、ますます朝鮮半島に手を出す余裕がなくなり、「西=ローゼン協定」で朝鮮の日本利権を認めた。だが、その一方で、ムラ気のあるロシア版大陸浪人とも言える、皇帝の寵臣であるベゾブラーゾフが暗躍し、北部朝鮮に調査団を派遣したり、開発会社を立ち上げたりして、日本側の疑惑を深めてしまった。
1900年の北清事変では、建設途上の東清鉄道に被害が出たこともあり、清に満州の保障占領を認めさせたが(第二次露清密約)、日本を始めとする諸外国の疑惑を深めた。
1902年1月に日英同盟が成立すると、ロシアは外交的に追い詰められ、満州駐留軍の維持費が重いこともあって、同年4月には清と満州還付条約を締結、半年毎に三度にわたる撤兵が取り決められた。だが、満州からの撤兵は、旅順・大連の孤立を意味することになり、日本の朝鮮進出への脅威と相まって、ロシアの外交的地位を難しいものにしていった。
総体的には、ロシアは財政的裏付けもないまま、遼東半島や満州に手を出して、自ら望まない極東の不安定化と外交的孤立を招いてしまったと言える。
なお、外務省が進めた日英同盟と併行して、伊藤は一元老として個別に自身のルートを辿ってヴィッテらと日露交渉を進め、ほぼ満韓交換論の線で合意しかけていたが、外務省や桂総理らから掣肘が入り、中止させられている。

日英同盟が成立すると、今度は日本側が強気に出る。同盟条約には「清韓両国の独立・領土保全」が謳われており、ロシア側に満州からの撤兵を強く要求するようになり、ロシア側の満州利権すら認めなくなってしまう。これは、伊藤・井上ら内治派が進めてきた「満韓交換論」を否定し、「朝鮮は日本のものだが、満州は中立(ロシアのものではない)」という要求になった。
だが、ロシア側からすれば、満州問題は露清間の問題であって、日本が口出しすべき話ではなく、「日本がイギリスと結託して満州進出を狙っている証左だ」という疑惑を生んでしまった。現実には、日本には京釜鉄道や京義鉄道などを敷設する資金の捻出にも汲々としている有様で、とても満州に経済利権を求める余裕は無かった。

満州還付条約に従って、ロシアは1902年10月の第一次撤兵は行ったものの、その後満州撤兵に伴う清との補償交渉が難航した他、ロシア宮廷内の外交方針の対立もあって、1903年4月の第二次撤兵の履行を見送ってしまう。
これを日本側は、「ロシアの南進政策」「韓国進出の基盤強化」と見なし、「対露開戦やむなし」の声が強まり、軍部は作戦と動員の準備が本格化させていった。軍部では、「ロシアがシベリア鉄道や満州のインフラ整備を進めた場合、日露が開戦した際、日本軍は戦力的に勝てなくなる」との見解が大勢を占め、早期開戦論が高まった。

こうした中、日本では内治派の筆頭である伊藤博文が、徐々に支持・統制力を弱め、枢密院議長に追いやられ、政友会総裁も辞任させられてしまう。外征派が主導権を取り、03年8月に日露交渉が再開するも、その要求は、@日本の韓国権益の独占、A朝鮮鉄道の満州南部への延線、B満州におけるロシア利権の限定、といったもので、従来の交渉内容から大きく逸脱した、恐ろしく強硬なものだった。もともと交渉を決めた6月23日の会議では、「ロシアと交渉して日本の朝鮮支配を認めさせる。認めなければ、戦争して認めさせる」という大方針を確認したはずだったが、日英同盟を背景に政府内では強硬意見が幅を利かせていった。

なお、時期が前後するが、同03年6月に日本を訪れたクロポトキン陸相の訪日メモには、「この時期の極東における私たちの活動の基礎におく必要があるのは、日本との平和維持である。それは韓国問題よりも重要である」とある。クロポトキンは、近代化を進める日本を目の当たりにして、「いずれ清の利権をめぐって列強と衝突する日が来る」と喝破していたが、自国がその当時者になることは避けなければならないと考えていた。ただ、彼の方法論は「韓国の中立化」にあり、当時の日本政府が飲めるものではなかった。

また、ロシア皇帝ニコライ2世は、個人的にはヨーロッパや中東方面の外交が行き詰まる中で、東方への進出には常に積極的なスタンスをとっていたが、政策全体の中での優先度は低かったようで、積極的な関与は見受けられない。この時期の彼の関心はむしろプライベートに偏っていた。
一般的には「ツァーリ」とか「スターリン」と聞くと、「万能の独裁者」と見る傾向が強いが、その認識は事実と大きく異なる。たとえスターリンといえど、常に自我を押し通せたワケでは無いことは、いくらでも例証を挙げることが可能だからだ。皇帝や共産党書記長の権限を過大評価しないことは、ロシア・ソ連学徒にとって重要な戒めの一つである。

9月にはロシア駐日海軍武官から、「日本が朝鮮出兵を準備中」との報告が入り、8月の強硬な要求とともに、ロシア政府内は「ヤポンスキーはマジでやる気だ!」と大騒ぎになった。だが、そこはロシア人で、「弱気を見せると相手はつけあがる」との認識から、10月には強硬な回答を示してしまう。@満州は日露交渉の範囲外、A韓国には日本の政治的指導権だけ認める、B韓国の北3分の1は中立地帯とする、というもので、日本の強硬姿勢がロシアの強硬態度を誘発してしまった格好だった。
他方、日本では、ロシアが沿海地方と黒龍地方に38個大隊(3〜4万人)の増強をしたとの情報が入り、「ロシアは対日戦争を準備中」との認識が広がっていった。もともと同地方には、8〜10万人の兵力が駐留していたが、日英同盟を受けて対日緊張が増した以上、ロシア側としては「当然の対応」だったものの、日本人はそうはとらなかった。
1903年9月にクロポトキン陸軍大臣が上程した資料を見ると、日本は戦時に最大100万人の兵力が動員可能で、比較的短期間に30〜35万人を韓国・満州に派遣できると考えていた。当時の日本は13個師団で、平時の兵力は15万人ほどだったが、予備役を動員することで50万人まで召集することは計算済みだった。実際の戦争では、高齢の後備兵まで動員され、奉天会戦には25万人が参加、最終的な動員数は100万人以上に達したことを考えれば、ロシア軍部の予測はあながち外していなかったことが分かる。そして、ロシア側の動員可能な兵力が200万人強で、最大の敵であるドイツ・オーストリアが同数近い兵力を有している以上、国内の不穏も抱えた状態で、極東に大規模な増員を行うことは全く現実的ではなく、まして戦争など「あり得ない」選択肢だった。
最新の研究では、これまで「主戦派の首魁」と見なされてきたベゾブラーゾフですら、「極東の兵力均衡を図ることで戦争を回避すべきだ」と主張していたことが分かっている。03年8月に交わされたクロポトキン・ベゾブラーゾフ論争を見ても、「いかに日本の侵略から沿海地方と満州利権を守るか」という視点で方法論の違いから意見が対立しているだけで、その上どちらも悲観的観測を争っているような状態で、韓国への進出など論外だったことが分かる。
(この辺の感覚は、VG社「Pax Britanica」をプレイしたことがあれば、かなり理解できると思う。)

話を日露交渉に戻す。日本の強硬な要求を受けて、ロシア側は対清交渉を急ぎ、9月には清側に要求していた満州撤兵7カ条条件を取り下げつつ、撤兵期限の延期を求めるが、清に拒否され、交渉が頓挫してしまう。
他方、日本政府は10月末に条件を軟化させた第二次提案(修正案)を行う。日本は、満州南部に対する利権要求を取り下げ、自国の韓国への関与を軍事と民政部門に限定、満韓国境に両側50kmにわたる中立地帯を設定するというもので、ロシア側の要求を相当程度認めるものだった。日本の外征派も、必ずしも戦争を望んでいたわけではなかったことが分かる。
だが、この頃には日本国内の世論はすでに開戦に向けてヒートアップしつつあった。10月下旬の『東京朝日新聞』の社説を見ると、「百選、百勝の成算、我国にあること疑ひなし」
(10/23)、「無期的に此痛苦を忍ぶは、有期的に戦争の痛苦を忍ぶに如かず」(10/24)、「帝国自身に和乎戦乎を決するの時機既に熟したり」(10/28)とばかりに、早期開戦を連呼している。
こうした状況下にあって、露清交渉のもつれから、駐満ロシア軍が奉天を再占領するという事件が起き、日本側の不信感をさらに煽ってしまった。逆に韓国では、11月に入って、ロシアの外交官や軍人が日本人居留民に襲撃される事件が相次ぎ、露日間の国民感情は悪化の一途を辿った。
(以下、続く
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2016年08月18日

日露開戦の代償−開戦経緯を再検証する・上

先日ある戦史概説本を読んでいたところ、新著であるにもかかわらず、日露開戦の経緯について「ロシア側で主戦論が台頭し、伊藤博文も外交工作を断念、日英同盟の成立が後押しする形で宣戦布告がなされた」旨の説明がなされていた。典型的な「司馬史観」であり、Wikipediaを始め、日露開戦経緯はほぼ定説化し信じられている。ただ、先に付言しておくと、司馬が『坂の上の雲』を書いた当時は、ロシア側資料が大きく制限されていたこともあって、歴史学の定説でもあり、司馬一人の責を問うつもりは無い。

だが、1990年代以降、ロシア側の文書が公開されたことで、日露戦争の研究も大いに進展があり、特にロシア側の外交、軍事的対応について、従来説の多くが否定されている。例えば象徴的な例を挙げると、『坂の上の雲』でも紹介されている、日露開戦前のロシア内相プレーヴェによる「国内の革命的状況を阻止するために、ちょっとした対外的勝利を得る必要がある」との発言は、最新の研究では、敗戦後に開戦責任を押しつけるために政敵が流したデマだったことが判明しているが(元ネタはウィッテの回顧録)、日本はおろかロシアですらいまだに史実のように扱われている。史実的には、むしろプレーヴェは「もし開戦したら国内の治安に責任は持てない」くらいのことを言っていたようだ。マリー・アントワネットの「パンが無ければケーキを食べればいいのに」はさすがにデマと認識されつつあるが、歴史でも現行の政界でも、一度確立してしまったデマを払拭するのは、恐ろしく難しく、歴史にはまだまだ「史実化されたデマ」が山ほどあると思われる。

結論から先に言えば、「ロシアにおける主戦論の台頭」自体が、開戦当時の日本側の妄想であり、ロシア側は強硬な外交条件を提示したことはあっても、日本と戦争してまで極東利権を守るつもりは全く無く、そもそも優先順位的に極東問題はかなり下の方にあった。そして、日露協商は何度も成立寸前まで至っており、開戦直前にはロシアは日本側条件をほぼ丸呑みすることを伝えていたにもかかわらず、その通達が日本側に届いたのは開戦直後になってしまった(邪魔された感触はある)。日本側は、日英同盟が成立したことで逆に外交的態度を硬化させ、ロシアへの不信感が「戦争準備している」との妄想を膨らませ、主戦派の煽動もあって「一刻も早く開戦する必要がある」との焦燥感に自我を失ってしまった観がある。「優先度の低い極東問題は後回し」というロシア人と、「ここが生死の分かれ目」と思い込み目の血走った日本人の認識差が、日露開戦を引き起こしてしまった、というのが私を始めとする、ロシア学徒の大まかな共通認識になっているが、殆ど広まっていない。
面倒なのは、研究者(日本史、ロシア史、軍事史)が互いにいがみ合っているような状態にあり、細かい部分について「どの辺の線引きが妥当なのか」について、私も確固たる認識を持てずにいる点にある。
とはいえ、司馬史観を放置しておくことは、誤った歴史認識を拡散させて、日露関係の毒にしかならないため、とにかく可能な範囲で払拭していくべきだと考え、本稿の執筆に至った。

日露が開戦したのは1904年2月だが、1900年前後における日本側の政策担当者の対外認識を整理しよう。主に二つの派があり、一つは伊藤博文や井上馨に代表される元老や財界を中心とした日露協商・列強協調路線で、内政改革と国力充実を優先し、大陸進出は「国際環境を見ながら」とするもの、いわば「内治派」である。特に伊藤は、日本に対外戦争を行う余力が無いことを良く知っていた上、列強同士の戦争が他を利する上に当時者を没落させるものに終わる可能性が高いという認識を有していた。二つ目の派は、維新第二世代から少壮官僚を中心とし、「大陸進出が遅れれば、他国に進出可能な地域が奪われる」という帝国主義の意識が強く、内政より外征を優先する「外征派」である。桂太郎や小村寿太郎に代表されるが、外務省や軍部の少壮官僚からも支持されていた。この点、実は昭和初期と大差なく、「明治人は昭和人と違って優秀かつ現実的だった」とする司馬史観は、見直されるべきだろう。ちなみに、山県有朋は当初、前者に属していたが、後に後者に鞍替えしている。

日露戦争の遠因について、従来説は日清戦争後の三国干渉により遼東半島が清国に返還された後、一部(旅順と大連)がロシアに貸し出されたことに始まるとされている。確かに一面では正しい。
下関条約で得た3億1千万円と遼東半島還付によって得られた4500万円のうち3億円が軍備拡張に費やされ、陸軍は7個師団が13個師団になり、海軍は「六六艦隊計画」を発動した。当時の松方正義蔵相は過大な軍拡に反対、「産業育成を同時に行わなければ軍備の維持は不可能」な旨を説いたが、鼻息の荒い軍部と議会によって辞任に追い込まれてしまった。日清戦争前の租税収入が約6700万円、開戦後の大増税によって1億2千万円になったものの、全く身の丈に合わない軍備だったことは間違いない。
この軍拡を推し進めた結果、対露開戦が既定路線となり、議会では藩閥・吏党・民党が軍拡(ミリタリズムの推進)で一致、日露協商路線を破棄して日英同盟に突き進んでいったことは、昭和期の軍縮条約破棄から対米開戦への流れの中で海軍の反対が中途半端に終わって日独伊三国同盟を許してしまった経緯を彷彿とさせる。
日清戦争の「勝利」を検証する

だが、同時に元老たちは、当時の日本にロシアと戦う実力が無いことは百も承知で、現実路線として、「山県=ロバノフ協定」(1896、朝鮮独立の確認)、「西=ローゼン協定」(1898、満韓交換論の基礎)などが採用された。特に、「西=ローゼン協定」で、ロシアが日本の韓国利権を完全に認め、軍事顧問と財政顧問を韓国から退去させていることは、強調されてしかるべきだろう。
この前の1895年には、日本の公使が主導して、日本軍守備隊や領事館警備隊が韓国宮廷を襲撃、親露派の閔妃を暗殺するという事件が起き、その反動で韓国内の親日派が一掃され、親露路線への傾斜を深めていただけに、むしろ日本側の大失策とロシア側の配慮が見て取れる。この時点でロシアが朝鮮半島を影響下に置くことは可能だったからだ。
なお、この閔妃暗殺事件(乙未事件)も、定説では「現場(三浦公使)の暴走」とされているが、日本政府や軍部の関与が取り沙汰されており、その手法はやはり昭和軍閥の源流をなしていると言える。

日露協調路線が一転するのは、義和団の乱(北清事変)である。乱自体は、1900年8月に列強連合軍が北京を占領して収束に向かうが、ロシアは自国の権益である東清鉄道に大きな被害を出したことで、その保護を名目に満州に大軍を派遣して占領下に置いた。この補償と撤兵をめぐる露清交渉は、他の列強が清の味方をしたことで難航、ロシアの満州占領は翌年以降も続き長期化してしまう。
日本側は、これを「ロシアの南進政策の一環」と決めつけ、「ロシアとの協商は不可能、朝鮮がロシアに取られる前に行動する必要がある」とする上記の外征派が勢力を強め、日英同盟に邁進していった。一方、元老を中心とする内治派は、日露協商の継続を模索するが、少壮官僚などからの妨害を受けることが多くなった。
(以下、続く
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2016年07月19日

関白秀次の切腹

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『関白秀次の切腹』 矢部健太郎 KADOKAWA(2016)

ちょっと前まで司馬遼の「殺生関白」が基本イメージだっただけに、今回の大河ドラマの秀次象はかなり改善されている。だが、それでも「気弱でお人好しなだけの坊ちゃん」になってしまっているのが惜しい。

史実的には、近江八幡の城下町は戦国期で唯一、上下水道が整備され、関東征討に際しては小田原城の公文書や金沢文庫を掠奪から守っている。また、小田原攻めの前哨戦となった伊豆山中城は、総大将として強襲を選択し、半日で陥落させた。北条氏降伏後の「奥州仕置」も名目上の責任者だったかもしれないが、無難にやり遂げている。
一般的には、十代で参戦した小牧・長久手戦の失敗だけを取り上げて無能者扱いされているが、現実には16歳あるいは12歳の若造が指揮するわけではなく、その責任は参謀・寄騎の責任に帰せられるべきだ。この一件をもって「凡庸」「無能」とするのは公正とは言えない。少なくとも、これ以外に大きな失策はしておらず、むしろ困難な任務を無難にこなしている観がある。朝鮮出兵にも反対だったようで、その辺から秀吉との軋轢が生まれたようだ。

近江八幡では、近代に至るまで「名君」と評価され、当時のキリスト宣教師たちは「太閤と違って、温厚な人柄で万人から愛された」と記しており、切腹に際しては多数の殉死者も出している。その遺臣は、石田三成に召し抱えられ、関ヶ原戦では最後まで奮戦した(これも従来説では真っ先に逃亡したことにされている)。舞兵庫(前野忠康)などはその典型だろう。
権力は常に自らを正当化するために政敵を貶め、自身を美化すべく、歴史を改竄するのだ。

本書は、秀次切腹(事件)にまつわる様々な説を、一次資料を中心に再点検して検証している。従来説の殆どが江戸期に書かれた二次資料を基にしているため、豊臣秀吉や江戸幕府の意向が強く反映され、「殺生関白」のイメージが形成されたのだろう。果たして、秀吉は最初から秀次を殺すつもりだったのか、一族処刑の背景にあったものは何だったのか。歴史検証の限界はあるものの、十分に説得力のある検証で通説を否定している。
改めて「通説を疑う」ことの重要性を認識させられる一冊である。
posted by ケン at 12:44| Comment(2) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月30日

料亭小松、全焼す

【横須賀の老舗料亭「小松」で火災 東郷平八郎ゆかりの品所有】
 16日午後5時10分ごろ、神奈川県横須賀市米が浜通2丁目の料亭「小松」から火が出ていると、通行人の男性が119番した。市消防局によると、木造2階建て約1320平方メートルがほぼ全焼。隣のマンションに住む70代女性が煙を吸って軽傷を負い、病院に運ばれた。横須賀市や市史によると、1885年創業で、多くの海軍軍人が利用。東郷平八郎や山本五十六らの書や遺品を所有していた。横須賀署によると、16日は定休日で客はいなかった。出火原因を調べている。消火活動を見守っていた近所のマンション管理業の女性(70)は「まさか火事になるとは思わなかった」と話した。
(5月17日、東京新聞)

横須賀の「小松」が全焼。伯父上とも関係の深かった場所なだけに、一度は見学に行かねばと思っていたものの、ついに見に行くことかなわず、「後悔先に立たず」になってしまった。
数年前に、大磯の吉田邸が焼失していることを考えると、歴史的建造物を狙った放火の疑いもある。

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せめて伯父上の写真をアップしたい。昭和10年(1935年)7月、「比叡」艦長退任時の送別会にて。両隣は、老若二人の女将、ちなみに老女将は嘉永生まれ(ペリー来航前)で、この時86歳、すでに隠居されていたはずだが、伯父上のために出てきてくれたようだ。ちなみに、海軍内では「ゴッド」と呼ばれていたらしい。
写真の状態はあまり良くなく残念。

料亭の名「小松」は、女将が小松宮から「自分の名をやる」と言われて改名したことに発する。
伯父上は、軍内の派閥抗争(条約派と艦隊派)に敗れて、予備役編入を待つばかりだったところ、敵方だった伏見宮の口添えによって、「比叡」の艦長に補され、後に横鎮参謀長になっている。

この頃、伯父上は比叡艦長として乗組士官に対し、「右翼の会合・集会への参加を禁ず」命令を下し、「艦長横暴!」との非難にさらされたそうだが、とても80年前の話には思えなくなってきている。

堅物として知られる伯父上だが、「小松」との関係は大事にしたようだ。その縁で、後にトラック島に支店を出すように要請し、トラック島が米艦隊の空襲を受けて焼失した時は、かなりショックを受けたようだ。戦後は戦後で、米兵向けのサービスを提供するにあたり、従業員に対する英語指導を依頼されて、教材を自作したという。仮にも元大将に従業員の英語指導を頼む方も凄いと思うが、そういう関係と時代だったのだろう。
posted by ケン at 12:34| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする