2016年07月19日

関白秀次の切腹

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『関白秀次の切腹』 矢部健太郎 KADOKAWA(2016)

ちょっと前まで司馬遼の「殺生関白」が基本イメージだっただけに、今回の大河ドラマの秀次象はかなり改善されている。だが、それでも「気弱でお人好しなだけの坊ちゃん」になってしまっているのが惜しい。

史実的には、近江八幡の城下町は戦国期で唯一、上下水道が整備され、関東征討に際しては小田原城の公文書や金沢文庫を掠奪から守っている。また、小田原攻めの前哨戦となった伊豆山中城は、総大将として強襲を選択し、半日で陥落させた。北条氏降伏後の「奥州仕置」も名目上の責任者だったかもしれないが、無難にやり遂げている。
一般的には、十代で参戦した小牧・長久手戦の失敗だけを取り上げて無能者扱いされているが、現実には16歳あるいは12歳の若造が指揮するわけではなく、その責任は参謀・寄騎の責任に帰せられるべきだ。この一件をもって「凡庸」「無能」とするのは公正とは言えない。少なくとも、これ以外に大きな失策はしておらず、むしろ困難な任務を無難にこなしている観がある。朝鮮出兵にも反対だったようで、その辺から秀吉との軋轢が生まれたようだ。

近江八幡では、近代に至るまで「名君」と評価され、当時のキリスト宣教師たちは「太閤と違って、温厚な人柄で万人から愛された」と記しており、切腹に際しては多数の殉死者も出している。その遺臣は、石田三成に召し抱えられ、関ヶ原戦では最後まで奮戦した(これも従来説では真っ先に逃亡したことにされている)。舞兵庫(前野忠康)などはその典型だろう。
権力は常に自らを正当化するために政敵を貶め、自身を美化すべく、歴史を改竄するのだ。

本書は、秀次切腹(事件)にまつわる様々な説を、一次資料を中心に再点検して検証している。従来説の殆どが江戸期に書かれた二次資料を基にしているため、豊臣秀吉や江戸幕府の意向が強く反映され、「殺生関白」のイメージが形成されたのだろう。果たして、秀吉は最初から秀次を殺すつもりだったのか、一族処刑の背景にあったものは何だったのか。歴史検証の限界はあるものの、十分に説得力のある検証で通説を否定している。
改めて「通説を疑う」ことの重要性を認識させられる一冊である。
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2016年05月30日

料亭小松、全焼す

【横須賀の老舗料亭「小松」で火災 東郷平八郎ゆかりの品所有】
 16日午後5時10分ごろ、神奈川県横須賀市米が浜通2丁目の料亭「小松」から火が出ていると、通行人の男性が119番した。市消防局によると、木造2階建て約1320平方メートルがほぼ全焼。隣のマンションに住む70代女性が煙を吸って軽傷を負い、病院に運ばれた。横須賀市や市史によると、1885年創業で、多くの海軍軍人が利用。東郷平八郎や山本五十六らの書や遺品を所有していた。横須賀署によると、16日は定休日で客はいなかった。出火原因を調べている。消火活動を見守っていた近所のマンション管理業の女性(70)は「まさか火事になるとは思わなかった」と話した。
(5月17日、東京新聞)

横須賀の「小松」が全焼。伯父上とも関係の深かった場所なだけに、一度は見学に行かねばと思っていたものの、ついに見に行くことかなわず、「後悔先に立たず」になってしまった。
数年前に、大磯の吉田邸が焼失していることを考えると、歴史的建造物を狙った放火の疑いもある。

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せめて伯父上の写真をアップしたい。昭和10年(1935年)7月、「比叡」艦長退任時の送別会にて。両隣は、老若二人の女将、ちなみに老女将は嘉永生まれ(ペリー来航前)で、この時86歳、すでに隠居されていたはずだが、伯父上のために出てきてくれたようだ。ちなみに、海軍内では「ゴッド」と呼ばれていたらしい。
写真の状態はあまり良くなく残念。

料亭の名「小松」は、女将が小松宮から「自分の名をやる」と言われて改名したことに発する。
伯父上は、軍内の派閥抗争(条約派と艦隊派)に敗れて、予備役編入を待つばかりだったところ、敵方だった伏見宮の口添えによって、「比叡」の艦長に補され、後に横鎮参謀長になっている。

この頃、伯父上は比叡艦長として乗組士官に対し、「右翼の会合・集会への参加を禁ず」命令を下し、「艦長横暴!」との非難にさらされたそうだが、とても80年前の話には思えなくなってきている。

堅物として知られる伯父上だが、「小松」との関係は大事にしたようだ。その縁で、後にトラック島に支店を出すように要請し、トラック島が米艦隊の空襲を受けて焼失した時は、かなりショックを受けたようだ。戦後は戦後で、米兵向けのサービスを提供するにあたり、従業員に対する英語指導を依頼されて、教材を自作したという。仮にも元大将に従業員の英語指導を頼む方も凄いと思うが、そういう関係と時代だったのだろう。
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2016年02月27日

兜と鉢金は大事デス

いまTVで放映されている「灰と幻想のグリムガル」で、仲間の戦士のために皆がお金を出し合って兜を買うシーンを見て、なるほどと思った次第。
確かに自分たちでTRPGをしていて、パーティーで相談して戦士系キャラの装甲を強化すべく、優先的に良い鎧を買うことはままあるが、そこで兜を買おうという話にはならないからだ。だが、実戦では兜は非常に重要な防備であるのは間違いない。

もともと兜は「弓矢よけ」の意味合いが強い。遠距離射撃の弓矢はかなり良い角度で入らない限り、兜を貫通することは無い。それは金属製で無くとも、かなり期待できることのようで、木製や革製の兜もたくさん存在する。だが、兜を被っていなければ、どのような形で矢が当たろうと、頭に大ケガをすることになるだけに、どのようなレベルのものであれ、兜は必須装備だった。

また、白兵戦においても兜は有効だった。古代の戦争は集団戦がメインであっただけに、隊形が密集しており、回避行動が難しく、同時に盾も装備していたので、頭部が狙われがちだった。個別の白兵戦でも、頭部は他の肉体の部位に比して動きの少ない部分であるだけに、攻撃側からすると狙いやすかった。それは、現代の剣道やフェンシングでも面を付けることからも明白だろう。
頭は、ちょっとした衝撃を受けただけで失神したり、意識混濁したりするので、その点でも防御力を上げて戦闘不能リスクを軽減する必要があった。

それでも、銃の普及に伴って兜文化は一端廃れた。だが、例えば幕末にあっても、京の池田屋を襲撃した新選組隊士はみな鉢金や鎖頭巾を装備していたことは良く知られている。テレビの時代劇でも、例えば「鬼平犯科帳」では盗賊逮捕に向かう改方は、みな籠手と鉢金を装備し、長谷川平蔵は鎧頭巾を被っていたりする。
現代人からすると、鉢金は「鉢巻きの延長?見た目重視?」に思えるが、現実には実利そのものだったようだ。
池田屋事変において、藤堂平助は汗で鉢金がずり落ちたところを浪士に斬りかかられたものの、刃が鉢金に当たったため、額をケガしただけで助かっている。日野にある土方歳三資料館には、本人が使用した鉢金が展示されているが、少なくとも7、8箇所の刀傷が認められる。近所の土方先輩の家にも鉢金が伝わっていて、私も見せて頂いたことがある。
さすがに近代では重くて視野が狭まり、耳が遠くなる兜は被らなかったものの、鉢金はまだまだ有効だったのだ。
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2015年12月01日

真珠湾攻撃はハナから無通告のつもりだった?

太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃は、1941年12月8日(ハワイ時間で7日)の未明に行われたが、外交的には駐ワシントン日本大使館の手続きが遅延し、米国側に手交したのは戦闘開始から1時間も遅れるところとなり、米国側から「日本軍による卑怯な騙し討ち」と非難され、「リメンバー・パールハーバー」のプロパガンダを打たせるところとなった。この点については、「米国機関による遅延工作」や「日本軍側による遅延工作」などの陰謀論じみた関係も取り沙汰されている。ただ、一般的には阿川弘之の小説『山本五十六』や各種映画に象徴されるように、事前通告(宣戦布告)に失敗したとの連絡を受けた山本五十六連合艦隊司令長官が悲痛の表情を浮かべるのが常で、「本来は戦闘開始直前に米政府に宣戦を通告するはずだった」との理解が定説になっている。ところが、最新の歴史研究は「事前に宣戦通告するつもりだった」との見解に疑問符を付けている。
まず、肝心の「帝国政府の対米通牒覚書」を見てみよう。カナはかなに直し、句読点を加えた。
帝国政府は「アメリカ」合衆国政府との間に友好的了解を遂げ、両国政府共同の努力に依り、太平洋地域に於ける平和を確保し以て、世界平和の招来に貢献せんとする真摯なる希望に促され、本年四月以来合衆国政府との間に両国国交の調整増進、並に太平洋地域の安定に関し誠意を傾倒して交渉を継続し来りたる処、過去八月に亘る交渉を通し合衆国政府の固持せる主張、並に此間合衆国及英帝国の帝国に対し執れる措置に付、茲に率直に其の所信を合衆国政府に開陳するの光栄を有す。
(中略)
思うに合衆国政府の意図は英帝国その他と苟合策動して東亜における帝国の新秩序建設による平和確立の努力を妨碍せんとするのみならず、日支両国を相闘わしめ、以て英米の利益を擁護せんとするものなることは今次交渉を通じ明瞭となりたる所なり、かくて日米国交を調整し合衆国政府と相携えて太平洋の平和を維持確立せんとする帝国政府の希望はついに失われたり、よって帝国政府はここに合衆国政府の態度に鑑み今後交渉を継続するも妥結に達するを得ずと認むるの外なき旨を合衆国政府に通告するを遺憾とするものなり。

原文は長文なのでかなりはしょったが、要は「これから貴国と戦争する」とは一言も述べておらず、対米交渉の打ち切りを伝え、「遺憾」を表明しているに過ぎないのだ。この「対米通牒」を素直に読んで、「日本は戦争するつもりだ」と思うものはいても、「これは日本による宣戦布告だ」と思うものはまずいないだろう。
1907年に成立した「開戦に関するハーグ国際条約」に、日本は同12年に加盟しているが、その第一条「宣戦」は以下のように規定している。
理由を附したる開戦宣言の形式または条件附き開戦宣言を含む最後通牒の形式を有する明瞭かつ事前の通告

日本の「対米通牒」はどう読んでも国際条約の条件を満たしておらず、日本側が「最後通牒」と強弁したところで、国際的に通用するものではなかった。
また、日本側が手交したのは「覚書」(メモランダム)という形式で、外交文書の格付けにおいて下位に位置づけられている。外交文書は、大まかに言って、

1.条約:議会の批准が必要
2.協定:批准の必要は無い
3.口上書(ノート):公式な信書
4.覚書(メモランダム):略式の文書、附帯文書など


に分類される。口上書は、例えば国として正式な条約案を提示したり、あるいは正式に抗議や事実確認、または謝意表明する場合にも使われる。これに対し、覚書は、条約の附帯文書として細部の確認事項を記載したり、あるいは一国の外交担当者が「今の段階では、わが国はこう考えている」と他国に通達する場合に使われる。

口上書の典型例としては「ハル・ノート」が挙げられるが、正式には「合衆国及日本国間協定の基礎概略」であり、その冒頭に「極秘、一時的且拘束力なし」とあるように覚書的要素もあるものの、あくまでもアメリカとして正式な意思表明として考えて良い。
覚書の典型としては、例えば1956年9月7日のダレス米国務長官による「日ソ交渉に対する米国覚書」で、
(前略)米国は、歴史上の事実を注意深く検討した結果、択捉、国後両島は(北海道の一部たる歯舞群島及び色丹島とともに)常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり、かつ、正当に日本国の主権下にあるものとして認められなければならないものであるとの結論に到達した。米国は、このことにソ連邦が同意するならば、それは極東における緊張の緩和に積極的に寄与することになるであろうと考えるものである。

とあるように、「アメリカは北方四島は日本のものだと思っているから、安直にソ連と妥結するなよな」と低強度の国家意思の表明として使われている。
つまり、日本政府が対米通牒をわざわざ口上書では無く、覚書にしたのは、最後通牒としての度合いを低く見せ、米国側に「開戦意図を悟らせないけど、ほのめかす」意図があったものと見て良い。少なくとも正式な最後通牒ならば、口上書にする必要があったのだ。
実際、米国は事前に「対米通牒」を暗号解読として内容を把握していたが、何の対応も取っていない。このことは、「アメリカは真珠湾攻撃を知っていてやらせた」という陰謀論の説明として用いられているが、現実には「現行の対米交渉の打ち切り通告」として理解、処理されただけのことだったようだ。そして、これこそが外務省の狙いだったのでは無かろうか。
外務省は、開戦通告のあり方を検討するに際して、「正式な開戦通告」「日露戦争式の自動開戦方式(最後通牒)」「独ソ戦型の無通告」などを検討し、「今次大戦では無通告型も散見される」との意見も出ていたことは、傍証として強調しておきたい。

「対米通牒」の内容について、東郷外務大臣は当初開戦通告を明確にしたものを想定していたようだが、閣議決定と昭和帝への上奏が不可欠であることがネックとなり、上奏不要の「交渉打ち切り」に書き換えた経緯があるらしい。この点についても、日本の霞ヶ関はどこまでも自分のことしか考えない体質であったことが伺われる。

さらに言えば、日本陸軍によるマレー半島上陸は真珠湾攻撃よりも1時間20分も前に開始され、英国に対しては事前無通告開戦となった。しかもこの際、日本軍第5師団はマレー国境のタイ領シンゴラに上陸して、タイ軍や同警察と交戦している。日泰軍事協定が結ばれるのは、日本軍がバンコクに進駐した後のことで、この点も完全に国際法に違反していた。
太平洋戦争の「開戦詔書」に、日清・日露戦争時にはあった「国際法を遵守する」旨の記載が無かったのは、タイ領への無通告進駐を前提とした「確信犯」であったという。徳川義寛『侍従長の遺言』には、東条首相が開戦詔書案を上奏した際に、この点に気づいた昭和帝が指摘したところ、「陛下、ひいては日本が嘘をつくことになってしまいます」と強弁し、強引に認めさせた旨が記されている。

なお、参謀本部『大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌』には、「開戦の翌日宣戦を布告す。宣戦の布告は宣戦の詔書に依り公布す」と残っている。
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2015年07月22日

日本人と財産権

90歳になるパリに住む大叔母が友人と話をしていて戦時中の話になり、そのフランス人が「戦時中はアパートをドイツ人に接収されて帰ってきたときには殆ど家財も残っていなかった」と語ったので、叔母も「自分の家でも金やダイヤモンドを政府に供出したし、戦後は戦後で米軍に自宅を接収された」と返したところ、「それは返還されたの?」と聞き返されたので、「日本政府のは取られっぱなしだけど、米軍は家財含めて全部返してくれた」と答えた。すると、その友人は「なぜ日本政府に返還を求めないの?受領証は無いの?」と突っ込んでくるので、叔母が「戦争中なんだからそんなものは無かったと思う」と返したところ、生暖かい目で「帝政時代だから人々には財産権も認められていなかったのね、フランス革命前と同じようなものだわ、それでもちゃんと政府に返還を求めるべきよ」と厳しく追及されて答えに窮したことがあったという。

叔母上はこの時まだ女学生だったこともあり、やや事実と異なることがある。正確には、日本政府は貴金属を無償で強制回収して回ったわけではなく、政府から委託された団体が「対価」を支払う形で「戦争協力」を呼び掛けていた。ただ、戦後の農地改革と同じで低く抑えられた公定価格による「買い取り」だったため、戦時中の物資不足とインフレによって実質的にはほぼ無償供出と同様だった。そして、現時点で確認はできないが、どうやら受領書の類いは叔母が言うとおり発行されていなかった形跡がある。発行されたとしても、誰もその価値を認めていなかったことは確かだ。少なくとも老人たちの記憶はほぼ「貴金属の供出を強制された」「断れば周囲から非国民扱いされて村八分になるのは間違いなかった」と一致している。

また、占領軍もまた日本政府が回収した貴金属を始め、民間に残された貴金属についても改めて接収を行った。こちらは無償による強制供出だったが、概ね受領証が発行されていたため、後日全てでは無いが返還されている。ただ、占領軍が接収した貴金属については「戦争に協力しなかった非国民が隠し持っていた金やダイヤモンドだけ返還されるのはおかしいだろ!」という感情論が根強く、返還法案が成立するまでに相当時間が掛かっている。

逆に戦時中に供出された貴金属は、当時の日本政府が売却するための国際市場へのアクセス権を有していなかったため、結局国庫にしまい込まれたまま占領軍に一度接収、後に返還されたものの持て余し、1960年代に「大蔵省大放出、大ダイヤモンド展」などと全国のデパートで国民に「販売」されるところとなった。戦後生まれの私などからすれば、恐ろしいほどの背任行為だと思うのだが、日本政府とはそういうものだった。
要は、ヤクザに「お前らを守ってやるけど武装する金が無い」と貴金属を供出させられた挙げ句、紛争が終わると「結局使わなかったから金払えば返してやる」と言われたような話なのだ。

もっとも、戦後確認された統計によれば、民間で回収された貴金属は、金が1637kg、銀が28万2407kg、プラチナ587kgと必ずしも多くは無かった(例えば田中貴金属が本前半期に販売したプラチナ地金は4600kgに及ぶ)。これは当時の日本人がやはり相対的に貧困だったことと、わが一族を筆頭に供出した人々が信じているほど「皆」が供出したわけではなかった可能性が想定される。その意味では、皇族や華族などがむしろ積極的に供出に協力した点で、「富の平等」を強制実施した効果があったことは否めない。

考えてみれば、1985年にゴルバチョフが初めてフランスを訪問したとき、シャンゼリゼの沿道に帝政ロシアの債券を持った老人の一団が現れて、「払い戻せ!」と大騒ぎしたことがあった。逆に革命後のロシアでは、農地や財産の供出を拒んだ農民が続出したため、ボリシェビキは暴力をもって収奪する他なかった。
果たして、政府に言われるがままに、財産も農地も供出してしまう日本人とどちらが「人間的」なのか、深刻に考えざるを得ない。同時に、現代の日本人は70年前よりも「市民権」というものを理解していると言えるのだろうか、これもかなり疑問だ。
わが一族は、明治政府に家禄と武家特権を奪われ、軍閥政府に貴金属供出と国債購入を強制され、戦後政府に農地を強制収容されるという、わずか80年間で3度も財産接収を経験している。「革命期のロシアやフランスのように殺されないで良かったな」と言われればそれまでだが、果たして人間のあり方としてそれで良いのか疑問を禁じ得ない。

近い将来、日本は再び預金封鎖や貴金属の強制供出、あるいは貧困層に対する軍役などが課される恐れが強いが、若い人々は覚悟しておいた方が良いだろう。いや、つくづく子どもをつくらないで良かったと思う。

【追記】
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国民総背番号制と預金封鎖に向けて準備中。現金と貴金属を貸金庫に預けるとか発想がフランス人的かもしれない(笑) ちなみに今年前半期に田中貴金属が販売したプラチナ地金は4600kg、2000億円以上に及ぶという。なお、戦時中に政府が民間から接収したプラチナは587kg、金が1637kgであり、戦後どれだけ裕福になったか想像される。もっとも、わが一族のように唯々諾々と政府に供出したのが実は「馬鹿正直すぎ」だったのかもしれないとは思うのだが、まぁこれもノブレス・オブリージュの一種なのだろう。もう二度と出しませんけどね!
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2015年07月15日

日本の反インテリ闘争小史

歴代総理に見る日本の脱インテリ」の続き。
世界的に見られることではあるが、日本史もまた「インテリと反インテリによる権力闘争史」という側面がある。日本で最初にインテリ層が形成されたのは奈良時代で、仏僧が知識を独占していた。当時の主だった寺院は官立で、僧侶は年間10人という定員のある国家公務員のような存在だった。少なくとも法律上は官僧以外の得度は禁じられていた。その権勢の凄まじさは、太政大臣(相当)にまでなった弓削道鏡によって象徴される。
その「南都インテリ」に嫌気がさしたのが桓武帝で、遷都に際してはわざわざ寺院の存在しない「未開の地」だった山城を選び、平安京を造設した。日本最古の「脱インテリ」と言える。その桓武帝は、南都仏教界に対抗すべく、官僧のホープだった最澄に比叡山を開かせ、私僧の天才児だった空海に高野山を開かせ、権力の分散と対抗軸の構築を図った。

そこから100〜200年を経て律令体制が爛熟し、関東開拓が進んでくると、何もしないくせに税を取り立てて懐に入れ、さらにワイロを要求する平安貴族に対する不満が高まっていった。この頃のインテリ層の中心は、仏僧から公家に移っていたが、その実権は領地を管理し、武力をもって守護する武家が有するようになっていた。しかし、地方に居住する武家は、中央の知性とは無縁で、今日のヤンキーそのものでしかなかった。
10世紀初頭に起こった「平将門の乱」や「藤原純友の乱」は、中央インテリ層による利益独占構造(律令体制)に対するアンチテーゼで、特に将門などは最大で5千もの兵を集めたものの、いずれも「田舎暴走族の暴動」に終わってしまう。当時はまだ、「ヤンキーに国政は任せられないよな」という思いが全国的に共有されていたものと想像される。
だが、さらに200年を経ると、インテリ(公家、正確にはインテリ化した平氏)とヤンキー(源氏を筆頭とした武家)のパワーバランスは逆転、治承・寿永の乱を経て、日本初のヤンキー政権が樹立される。
鎌倉政権から江戸幕府成立に至る約500年間は、長く知性不在の時代となったが(文学不足によって証明可能)、地方分権や知識階層の拡大、実学の発展が進むという意味合いもあった。

【参考】
気候変動に見る源平合戦 

江戸期に入るとインテリ統治が復活する。巨大権力を維持するためには優秀な官僚層が不可欠であり、それを担保する厚いインテリ層が必要となったためだ。
話が少し戻ってしまうが、関ヶ原戦役は豊臣政権内のインテリ層(五奉行)とヤンキー一派(福島、黒田、細川ら武闘派)の内部抗争を、徳川家康が利用して政権転覆を謀ったという側面がある。武家は元々がヤンキーであるが故に、どうしてもインテリ層に対する不満が強くなりがちで、豊臣政権も実権をヤンキーからインテリに移行しようとしていたが、その途上で秀吉が死んでしまい、頓挫した。もっとも、秀吉自身が反インテリのヤンキー丸出しだっただけに、仮に長生きしたとしてもその実現性は疑わしい。その点、家康の方が出身的にも体質的にもインテリに近く、安定した統治機構の設立者に相応しかったと考えられる。

江戸期のインテリ支配は260年続いたが、米本位制と幕藩体制が制度疲労を起こし、支配階層のインテリ層が腐敗、国際環境の圧力が切っ掛けとなって瓦解していった。この時、倒幕運動の基礎をなしたのは、薩長のヤンキーたちだった。松下村塾や薩摩勤王党のメンバーは、当時の知性水準から見て話にならないほどの無教養だったが、その彼らが藩の重鎮や藩主を支配下に置いて、皇族と公家を抱き込み、幕府と対峙していったのだ。今日のヤンキー政治家どもがこぞって「維新の志士」を推奨するのは、その反知性主義と成功体験に痺れるほどの憧れを感じるからだと考えられる。
ところが、いざ倒幕が成ってみると、ヤンキーの中でも多少の知性のあるものは皆先に死んでしまったこともあって、新たな統治機構をつくる術がなく、幕府官僚を再雇用し、外国人専門家を招聘して対処するほか無かった。さらに「こんなはずじゃ無かった」と御一新に不満を抱いたヤンキーが続々と反乱を起こし、その最大のものが西南戦争となった。10年の内乱期を経て、倒幕に貢献したヤンキーを武力で沈黙させ、明治政府は再びインテリ支配の道を歩むことになる。

明治期は「トップは叩き上げのヤンキー、手足は新インテリ」の連携で何とか凌いだものの、大正期になると維新叩き上げのヤンキーがいなくなり、明治体制下で育った新インテリ層が支配層を形成していった。すると、大日本帝国憲法(明治体制)の根源的課題が表出してくる。明治憲法下では、天皇が国家主権を独占していたが、慣例として行使しないことになっており、実際には輔弼者が主権を代行、輔弼者は天皇に責任を負うも、天皇は完全免責というのが、基本的な統治構造になっていた。しかも、その主権は細かく分割されていた。例えば立法権は貴族院と衆議院が対等な立場で並立、どちらか一方で否決されれば成立しなかった。また、総理大臣は内閣の主宰者という立場でしかなく、各国務大臣と対等で、各省に対する指揮監督権はおろか任免権すら持たなかった。故に昭和期になると、陸軍が陸軍大臣の進退を盾に次々と倒閣するという問題に繋がった。さらに、行政府には、内閣と対等な組織として枢密院が設置されており、発議こそ行えないものの、内閣の決定に拒否権を発動することは可能だった。現に明治末年から大正前期にかけて、山県有朋の影響下にあった枢密院が内閣と激しく対立している。
明治期は、叩き上げのヤンキーたちが「維新の元勲」という権威を背景に、影響力を駆使して分割された統治機構をまとめていたが、元勲がいなくなると、無責任な分割統治システムの不具合が露呈、その最悪のケースが「統帥権干犯問題」で、軍部に対する統制を失っていくことになる。
元勲不在で統治機構が並列的に存在する中で、再びインテリとヤンキーの対立が表面化する。インテリは官僚と官僚出身議員、ヤンキーは軍部と地域ボス系議員だった。大正期は対立しながらも一定のバランスがとられていたが、昭和恐慌に際してインテリ派が貧困救済に失敗すると、国民的支持が一気にヤンキーに傾き、インテリ層からも裏切りが続出、軍部独裁に至ったのである。

【参考】
大日本帝国憲法の瑕疵・上 
大日本帝国憲法の瑕疵・下 

余談になるが、E・トッド先生の指摘は示唆に富んでいる。1929年に起きた世界恐慌後の各国の選択は以下の通りだった。ドイツ=ナチス、日本=軍閥、イギリス=何もしない保守党、アメリカ=ルーズベルト、フランス=人民戦線。これが意味するところは、ドイツと日本が暴力的解決を志向したのに対して、イギリス人が政治解決を拒否して自力救済を選択、アメリカ人とフランス人は平等的解決を望んだということ。恐らく歴史上唯一の例である、企業の内部留保に対する課税はこの時のルーズベルトが行った(但し失敗した)。つまり、世界恐慌の解決者として、ドイツ人と日本人はヤンキーを、イギリス人は自力救済、フランス人とアメリカ人はインテリを選んだのである。

ヤンキーに国を任せた結果、日本とドイツの国土は灰燼に帰し、ドイツは分割占領された。日本は分割統治を免れたものの、連合国軍の占領下に置かれた。敗戦によってヤンキーの権威は失墜、インテリ派が相対的に国政の主導権を握り、軍部解体と新たな戦後統治システムを構築してゆくことになった。東京裁判でヤンキーは断罪されたものの、ヤンキーに荷担したインテリはわずかな例外を除いて復権、占領統治(民主的改革)の終了を見計らって権威主義体制の復活が試みられた。公職追放がわずか数年で終わり、鳩山内閣と岸内閣における国務大臣の公職追放経験者が6割に至ったことは、日本において権威主義とミリタリズムの克服が不十分だったことの証と言えよう。
それでも、様々な要因もあって、戦後から1980年代に至るまではインテリ支配による統治が順調になされた。だが、今度はインテリ層そのものが薄くなり、90年代の政治改革と不況対策が失敗に終わったことで、再びヤンキーの復権を許したのである。この文脈で行けば、現在文科省が進めている大学改革が、インテリを再生産させないための装置づくりであることは余りにも明白であろう。

【参考】
仮説:公職追放を考える 
posted by ケン at 12:33| Comment(2) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月07日

東条と安倍:現代に通じる中野事件の顛末

【自民、木原青年局長を更迭=「報道規制」発言の会代表】
自民党は27日、若手議員の勉強会で報道機関への圧力を求める発言が出た問題で、会の代表を務める木原稔青年局長を更迭する方針を決めた。党幹部が明らかにした。世論の批判や国会で審議中の安全保障関連法案への影響を踏まえ、厳正に処分する必要があると判断した。  この党幹部は「党が報道規制すべきだという見解を持っているとの誤解を与えた」と理由を説明。木原氏更迭で問題の早期収拾を図りたい考えだ。木原氏が代表を務める会は「文化芸術懇話会」で、安倍晋三首相に近い議員が集まる。25日の初会合では、講師に招いた作家の百田尚樹氏が「沖縄の二つの新聞はつぶさなあかん」などと発言。問題が表面化した26日、党執行部は木原氏から事情を聴取、注意していた。 
(時事通信、6月27日)

自民党内で本格的に言論統制・弾圧が議論されている。自民党側は「有志による私的な勉強会」と強弁しているが、安倍政権の強権ぶりを見てその説明を信じる者はいないだろう。私も多くはないが、自民党の議員や党員と付き合いがあるからよく分かる。平素(素面)はともかく、酒席の場で言論弾圧や左翼・組合弾圧、あるいは歴史修正主義の話題で大いに盛り上がるのは「当たり前」であり、せいぜいのところ「そうでない自民党員もいる」という程度なのだ。つまり、彼らは「プライベート=オフレコ」の場を設定することで、むしろ本音を忌憚なく述べているのであって、自民党側が説明するような「例外」「逸脱」ではあり得ない。事実、衆議院憲法審査会に参考人招致した長谷部教授が安保法制の違憲性を指摘したときは「不適切な人選」と切り捨てたのに対し、今回の百田氏の人選については不適切を指摘する声は聞かれない。要は「趣旨は分かるけど、言葉は選べよ」というのが自民党側のスタンスなのだ。発言がなされたのは酒席ではなく、自民党本部であったことを考えても、自民党が本格的に言論統制に乗り出そうとしていることが分かる。
今回の事件を見ていて思い出したのは、戦時中の中野正剛事件の顛末だった。良い機会なので記しておきたい。

中野正剛は、東京朝日新聞の記者から衆議院議員に転身した政治家で、1920年の初当選に際しては、かの「電力王」松永安左エ門と競って退けており、その弁舌の鋭さは人々を熱狂させる、日本には珍しい扇動政治家タイプだった。当初は、民政党で浜口雄幸らと軍部独走に歯止めを掛けようという政党人肌だったが、満州事変や国連脱退を経てファッショに染まり、「東方会」を結成、日独伊三国同盟や全政党の解散を主張するようになってゆく。1940年に政党解散を受けて大政翼賛会が結成されると、中野は総務役に就任する。だが、日米が開戦し、東条英機の独裁が強まってゆくと、その戦争指導に不満を抱き、翼賛会を脱会、42年の翼賛選挙に際しては非推薦で当選して「反東條」のスタンスを明らかにした。ただし、同選挙で自身は当選するも、東方会は惨敗・解散に追い込まれた。

中野はさらに「反東條」を強め、1942年10月10日の神田共立講堂で開かれた演説会では、岸信介商工大臣の後に登壇、岸が大宣伝した統制経済を全否定して喝采を浴びた。11月10日に早稲田大学大隈講堂で開かれた演説会では、演説を中止させようとした憲兵を学生が取り囲み、全学生が起立して「都の西北」を歌って中野に応じた。この時、竹下登元首相は高校生として出席しており、中野の演説を聴いて政治家を志したと言われる。
12月21日に日比谷公会堂で開かれた演説会に至っては、三十銭の入場料が徴収されたにもかかわらず、午後1時の開演に対して早朝から行列ができて、4千人の会場に対して1万人以上が参集した。これに脅威を抱いた東條首相は、一議員である中野の演説会を禁止した。
「人気者」だった中野は、今度は古巣の朝日新聞から依頼を受けて「戦時宰相論」を執筆、翌43年元旦の一面に掲載された。論文では東条の名は一切出てこず、西郷隆盛やクレマンソーの言葉を紹介しつつ、非常時宰相のモデルとして諸葛亮孔明を挙げて、「虚名を求めず、英雄を気取らず、専ら君主のために人材を推挽し、寧ろ己の盛名を厭うて、本質的に国家の全責任を担って居る」とするもので、三日前にすでに大本営報道部の検閲を通っていた。だが、元旦朝の食卓で新聞を目にした東條は、秘書官に「朝日新聞は発禁だ」と怒鳴りつけ、その場で内務省警保局長に電話して差し押さえを命じた。これを知った朝日側が抗議したところ、当の検閲官は「むろん検閲は通っている。しかし発禁になったんだ」「泣く子と地頭には勝てないんだ」と答えたという。

中野正剛はなおもめげずに重臣を抱き込んで、重臣会議の場に東条を呼んで退陣要求し、そのまま宇垣内閣を樹立するという計画を進めるが、一部の重臣が寝返り挫折、東條は本格的に弾圧を決意した。
この頃、この中野を三木武吉が諫めている。「君は相変わらず勇敢に戦っているが、もう戦局の先は見えた。敗戦は避けられない。そこで俺は友人として君に忠告したい。幕末の桂小五郎のように当分の間、女の膝をマクラに酒でも呑んで韜晦することをすすめる。でないと君は、獄死した吉田松陰の後を追う結果となる。バカバカしいじゃないか。」

まず9月6日、中野の盟友である三田村武夫議員が出版法違反の嫌疑で特高に検束される。だが三田村が容疑否認を続けたため、10月21日、中野を始め東方同志会(東方会の後継)と協力関係にあった右翼団体等に対する一斉摘発が行われた。動員された特高課員は100人以上に上り、検挙者も百数十人に至った。
だが、肝心要の中野に対する容疑は、同年2月に自宅で東方会メンバーに対して「ガダルカナルで敗退したのは陸軍と海軍の作戦不一致による」旨を述べたことが、軍刑法が禁じている「造言蜚語」に当たるというものだった。しかも、中野宅に来た刑事は令状すら携行していなかった。

この背景には、特高と検事局の相克があったという。三田村が逮捕された当初から検事局は立件に難色を示しており、思想部長の中村登音夫検事は反対を明言していた。それに対して首相の内意を受けた警視庁特高課が、内相名で「検察が検挙しないなら警視庁が独自にやる」と通告するも、検事局は黙殺した。そこで内務省は、松阪検事総長の出張中を狙って、検事次長を騙して検挙に踏み切った。
24日夕、出張を切り上げて帰京した松阪総長は官邸に呼び出されるも、一度は「個別案件で総理と協議するのは異例のことで、憲法違反の疑いがある」と拒んだものの、岩村法相と安藤内相も同席するからと再度言われたため断り切れなくなった。松阪が官邸に出向くと、案の定、東條は「戦時においては(中野の)こうした言動は利敵罪を構成するから、令状を出して起訴し、社会から葬り去るべきである」と要求してきた。松阪は、「これまで警視庁から受けた報告だけでは起訴に相当しない」「中野は容疑を否定しており、自白しない者を起訴できない」「現職の代議士を造言蜚語で検束して議会に出席させないというわけにはいかない」と拒否した。翌25日は帝国議会の招集日であり、帝国憲法下でも会期中は議員の不逮捕特権が限定的だが認められていた。
そこで東條は、議会対策の国務大臣だった大麻唯男を呼び出して、「行政検束で(中野を)留置するから議会が騒がないように手配してくれ」と頼んだところ、大麻は「行政検束で議員の議会出席を拒むことはできない。そんなことをしたら立法権の独立も何もなくなってしまう」とこれも拒否、「東條の茶坊主」とまで言われた大麻にまで諫められ、東條は窮地に立たされた。

すでに夜半を過ぎ25日に入っていたが、東條はなおも諦めずに薄田警視総監と四方東京憲兵隊長を呼び出し、「おい、警視総監、君の方で午前中に何とかならんか」と振ったところ、警視総監は「私の所は今のところ見込みありません」と断り、それを受けて四方が「総理、私の方でやりましょう」と応じた。そして朝4時半頃、中野の身柄は警視庁から憲兵隊に引き渡された。それから数時間も経ずに、中野は「自白」する。この急転直下の「自白」には裏があると見られているが、今日に至るも分かっていない。一説では、陸軍に在籍した息子(伍長)の「安全」と引き替えの「自白」だった、と言われる。
検事局では、前夜の官邸での協議を経て翌朝、「会期中は中野を釈放して、議会が終わったら非拘束で取り調べを進めよう」という方針で一致したところに憲兵隊から電話が入り、自白が伝えられ、驚愕と怒声が同時に上がったとされている。

だが、「自白」がなされてもまだ終わらなかった。憲兵隊と特高部は裁判所に勾留状を要求するが、東京地裁は、議会期中の不逮捕特権を盾に逆に中野の釈放を要求した。この時、特高などが「召集日は会期中に当たらない」とゴリ押ししてきただけに、地裁の決定に対して検事局が歓声を上げる始末だった。それでも、憲兵隊から警視庁に戻された中野は、警視庁の宿直室に軟禁され、開会日26日の朝釈放されると、警視庁の玄関前で待ち構えていた憲兵隊が中野を拘束、そのまま拉致されて、議会出席はかなわなかった。帰宅を許されたのは、開会式が終わった後の午後二時過ぎだったという。
その日の深夜、中野は代々木の自宅において日本刀で割腹した後、自ら頸動脈を切断して自刃した。遺書が一通残されたが、一連の事件については一切触れられていない。憲兵隊に引き渡されて直後の「自白」、憲兵隊に拘束されて帰宅した後、憲兵隊が監視する自宅内での自死が意味するところは、今となっては想像するしか無いが、東條首相の命令の有無にかかわらず、その強い意志を憲兵隊が忖度して実行したことによって起きたことは間違いない。

中野正剛は、東條からすれば「国賊」「利敵者」以外の何者でもなかった。だが、青山斎場で行われた葬儀には、東條の意思に反して、現職大臣や重臣(元総理)、国会議員、高級官僚を始め2万人以上の人が集まったという。
その腹いせなのか、中野の起訴を拒否し、釈放の手助けをした検事局思想部長の中村検事は、43歳という高齢ながら、10月末に赤紙が届いて召集されて南方に出征させられた。

東條の頭の中では、「中野=朝日新聞=ゾルゲ事件=スパイ」という妄想が出来上がっていたらしく、中野が何か書いたり話したりするたびにヒステリックに反応し、さらに自らの被害妄想をたくましくしていったようだ。この辺、「民主党=日教組=反日」のような妄想を信じているネトウヨや安倍一派と恐ろしく似通っているが、いまや自民党やその支持層全体に妄想が拡散しつつあるように思われる。その意味でも「第二の敗戦」が訪れるのはそう遠くなさそうだ。

【追記】
三木武吉が倒閣に奔走する中野を諫め、「君は相変わらず勇敢に戦っているが、もう戦局の先は見えた。敗戦は避けられない。そこで俺は友人として君に忠告したい。幕末の桂小五郎のように当分の間、女の膝をマクラに酒でも呑んで韜晦することをすすめる。でないと君は、獄死した吉田松陰の後を追う結果となる。バカバカしいじゃないか」という言葉が、私の頭の中をこだましている。私も近々、「膝をマクラに酒でも呑んで韜晦」しようかと思っているが、その前に資産の相当部分を金にして隠匿する必要がある。

【追記2】
NHKにわずかなりとも良心が残されているなら、この中野事件こそドラマ化して放映すべきだろう。ただし、安倍氏も自民党議員も何の暗喩なのか全く理解できないと思われるが。
posted by ケン at 12:23| Comment(2) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする