2015年12月01日

真珠湾攻撃はハナから無通告のつもりだった?

太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃は、1941年12月8日(ハワイ時間で7日)の未明に行われたが、外交的には駐ワシントン日本大使館の手続きが遅延し、米国側に手交したのは戦闘開始から1時間も遅れるところとなり、米国側から「日本軍による卑怯な騙し討ち」と非難され、「リメンバー・パールハーバー」のプロパガンダを打たせるところとなった。この点については、「米国機関による遅延工作」や「日本軍側による遅延工作」などの陰謀論じみた関係も取り沙汰されている。ただ、一般的には阿川弘之の小説『山本五十六』や各種映画に象徴されるように、事前通告(宣戦布告)に失敗したとの連絡を受けた山本五十六連合艦隊司令長官が悲痛の表情を浮かべるのが常で、「本来は戦闘開始直前に米政府に宣戦を通告するはずだった」との理解が定説になっている。ところが、最新の歴史研究は「事前に宣戦通告するつもりだった」との見解に疑問符を付けている。
まず、肝心の「帝国政府の対米通牒覚書」を見てみよう。カナはかなに直し、句読点を加えた。
帝国政府は「アメリカ」合衆国政府との間に友好的了解を遂げ、両国政府共同の努力に依り、太平洋地域に於ける平和を確保し以て、世界平和の招来に貢献せんとする真摯なる希望に促され、本年四月以来合衆国政府との間に両国国交の調整増進、並に太平洋地域の安定に関し誠意を傾倒して交渉を継続し来りたる処、過去八月に亘る交渉を通し合衆国政府の固持せる主張、並に此間合衆国及英帝国の帝国に対し執れる措置に付、茲に率直に其の所信を合衆国政府に開陳するの光栄を有す。
(中略)
思うに合衆国政府の意図は英帝国その他と苟合策動して東亜における帝国の新秩序建設による平和確立の努力を妨碍せんとするのみならず、日支両国を相闘わしめ、以て英米の利益を擁護せんとするものなることは今次交渉を通じ明瞭となりたる所なり、かくて日米国交を調整し合衆国政府と相携えて太平洋の平和を維持確立せんとする帝国政府の希望はついに失われたり、よって帝国政府はここに合衆国政府の態度に鑑み今後交渉を継続するも妥結に達するを得ずと認むるの外なき旨を合衆国政府に通告するを遺憾とするものなり。

原文は長文なのでかなりはしょったが、要は「これから貴国と戦争する」とは一言も述べておらず、対米交渉の打ち切りを伝え、「遺憾」を表明しているに過ぎないのだ。この「対米通牒」を素直に読んで、「日本は戦争するつもりだ」と思うものはいても、「これは日本による宣戦布告だ」と思うものはまずいないだろう。
1907年に成立した「開戦に関するハーグ国際条約」に、日本は同12年に加盟しているが、その第一条「宣戦」は以下のように規定している。
理由を附したる開戦宣言の形式または条件附き開戦宣言を含む最後通牒の形式を有する明瞭かつ事前の通告

日本の「対米通牒」はどう読んでも国際条約の条件を満たしておらず、日本側が「最後通牒」と強弁したところで、国際的に通用するものではなかった。
また、日本側が手交したのは「覚書」(メモランダム)という形式で、外交文書の格付けにおいて下位に位置づけられている。外交文書は、大まかに言って、

1.条約:議会の批准が必要
2.協定:批准の必要は無い
3.口上書(ノート):公式な信書
4.覚書(メモランダム):略式の文書、附帯文書など


に分類される。口上書は、例えば国として正式な条約案を提示したり、あるいは正式に抗議や事実確認、または謝意表明する場合にも使われる。これに対し、覚書は、条約の附帯文書として細部の確認事項を記載したり、あるいは一国の外交担当者が「今の段階では、わが国はこう考えている」と他国に通達する場合に使われる。

口上書の典型例としては「ハル・ノート」が挙げられるが、正式には「合衆国及日本国間協定の基礎概略」であり、その冒頭に「極秘、一時的且拘束力なし」とあるように覚書的要素もあるものの、あくまでもアメリカとして正式な意思表明として考えて良い。
覚書の典型としては、例えば1956年9月7日のダレス米国務長官による「日ソ交渉に対する米国覚書」で、
(前略)米国は、歴史上の事実を注意深く検討した結果、択捉、国後両島は(北海道の一部たる歯舞群島及び色丹島とともに)常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり、かつ、正当に日本国の主権下にあるものとして認められなければならないものであるとの結論に到達した。米国は、このことにソ連邦が同意するならば、それは極東における緊張の緩和に積極的に寄与することになるであろうと考えるものである。

とあるように、「アメリカは北方四島は日本のものだと思っているから、安直にソ連と妥結するなよな」と低強度の国家意思の表明として使われている。
つまり、日本政府が対米通牒をわざわざ口上書では無く、覚書にしたのは、最後通牒としての度合いを低く見せ、米国側に「開戦意図を悟らせないけど、ほのめかす」意図があったものと見て良い。少なくとも正式な最後通牒ならば、口上書にする必要があったのだ。
実際、米国は事前に「対米通牒」を暗号解読として内容を把握していたが、何の対応も取っていない。このことは、「アメリカは真珠湾攻撃を知っていてやらせた」という陰謀論の説明として用いられているが、現実には「現行の対米交渉の打ち切り通告」として理解、処理されただけのことだったようだ。そして、これこそが外務省の狙いだったのでは無かろうか。
外務省は、開戦通告のあり方を検討するに際して、「正式な開戦通告」「日露戦争式の自動開戦方式(最後通牒)」「独ソ戦型の無通告」などを検討し、「今次大戦では無通告型も散見される」との意見も出ていたことは、傍証として強調しておきたい。

「対米通牒」の内容について、東郷外務大臣は当初開戦通告を明確にしたものを想定していたようだが、閣議決定と昭和帝への上奏が不可欠であることがネックとなり、上奏不要の「交渉打ち切り」に書き換えた経緯があるらしい。この点についても、日本の霞ヶ関はどこまでも自分のことしか考えない体質であったことが伺われる。

さらに言えば、日本陸軍によるマレー半島上陸は真珠湾攻撃よりも1時間20分も前に開始され、英国に対しては事前無通告開戦となった。しかもこの際、日本軍第5師団はマレー国境のタイ領シンゴラに上陸して、タイ軍や同警察と交戦している。日泰軍事協定が結ばれるのは、日本軍がバンコクに進駐した後のことで、この点も完全に国際法に違反していた。
太平洋戦争の「開戦詔書」に、日清・日露戦争時にはあった「国際法を遵守する」旨の記載が無かったのは、タイ領への無通告進駐を前提とした「確信犯」であったという。徳川義寛『侍従長の遺言』には、東条首相が開戦詔書案を上奏した際に、この点に気づいた昭和帝が指摘したところ、「陛下、ひいては日本が嘘をつくことになってしまいます」と強弁し、強引に認めさせた旨が記されている。

なお、参謀本部『大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌』には、「開戦の翌日宣戦を布告す。宣戦の布告は宣戦の詔書に依り公布す」と残っている。
posted by ケン at 12:17| Comment(2) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月22日

日本人と財産権

90歳になるパリに住む大叔母が友人と話をしていて戦時中の話になり、そのフランス人が「戦時中はアパートをドイツ人に接収されて帰ってきたときには殆ど家財も残っていなかった」と語ったので、叔母も「自分の家でも金やダイヤモンドを政府に供出したし、戦後は戦後で米軍に自宅を接収された」と返したところ、「それは返還されたの?」と聞き返されたので、「日本政府のは取られっぱなしだけど、米軍は家財含めて全部返してくれた」と答えた。すると、その友人は「なぜ日本政府に返還を求めないの?受領証は無いの?」と突っ込んでくるので、叔母が「戦争中なんだからそんなものは無かったと思う」と返したところ、生暖かい目で「帝政時代だから人々には財産権も認められていなかったのね、フランス革命前と同じようなものだわ、それでもちゃんと政府に返還を求めるべきよ」と厳しく追及されて答えに窮したことがあったという。

叔母上はこの時まだ女学生だったこともあり、やや事実と異なることがある。正確には、日本政府は貴金属を無償で強制回収して回ったわけではなく、政府から委託された団体が「対価」を支払う形で「戦争協力」を呼び掛けていた。ただ、戦後の農地改革と同じで低く抑えられた公定価格による「買い取り」だったため、戦時中の物資不足とインフレによって実質的にはほぼ無償供出と同様だった。そして、現時点で確認はできないが、どうやら受領書の類いは叔母が言うとおり発行されていなかった形跡がある。発行されたとしても、誰もその価値を認めていなかったことは確かだ。少なくとも老人たちの記憶はほぼ「貴金属の供出を強制された」「断れば周囲から非国民扱いされて村八分になるのは間違いなかった」と一致している。

また、占領軍もまた日本政府が回収した貴金属を始め、民間に残された貴金属についても改めて接収を行った。こちらは無償による強制供出だったが、概ね受領証が発行されていたため、後日全てでは無いが返還されている。ただ、占領軍が接収した貴金属については「戦争に協力しなかった非国民が隠し持っていた金やダイヤモンドだけ返還されるのはおかしいだろ!」という感情論が根強く、返還法案が成立するまでに相当時間が掛かっている。

逆に戦時中に供出された貴金属は、当時の日本政府が売却するための国際市場へのアクセス権を有していなかったため、結局国庫にしまい込まれたまま占領軍に一度接収、後に返還されたものの持て余し、1960年代に「大蔵省大放出、大ダイヤモンド展」などと全国のデパートで国民に「販売」されるところとなった。戦後生まれの私などからすれば、恐ろしいほどの背任行為だと思うのだが、日本政府とはそういうものだった。
要は、ヤクザに「お前らを守ってやるけど武装する金が無い」と貴金属を供出させられた挙げ句、紛争が終わると「結局使わなかったから金払えば返してやる」と言われたような話なのだ。

もっとも、戦後確認された統計によれば、民間で回収された貴金属は、金が1637kg、銀が28万2407kg、プラチナ587kgと必ずしも多くは無かった(例えば田中貴金属が本前半期に販売したプラチナ地金は4600kgに及ぶ)。これは当時の日本人がやはり相対的に貧困だったことと、わが一族を筆頭に供出した人々が信じているほど「皆」が供出したわけではなかった可能性が想定される。その意味では、皇族や華族などがむしろ積極的に供出に協力した点で、「富の平等」を強制実施した効果があったことは否めない。

考えてみれば、1985年にゴルバチョフが初めてフランスを訪問したとき、シャンゼリゼの沿道に帝政ロシアの債券を持った老人の一団が現れて、「払い戻せ!」と大騒ぎしたことがあった。逆に革命後のロシアでは、農地や財産の供出を拒んだ農民が続出したため、ボリシェビキは暴力をもって収奪する他なかった。
果たして、政府に言われるがままに、財産も農地も供出してしまう日本人とどちらが「人間的」なのか、深刻に考えざるを得ない。同時に、現代の日本人は70年前よりも「市民権」というものを理解していると言えるのだろうか、これもかなり疑問だ。
わが一族は、明治政府に家禄と武家特権を奪われ、軍閥政府に貴金属供出と国債購入を強制され、戦後政府に農地を強制収容されるという、わずか80年間で3度も財産接収を経験している。「革命期のロシアやフランスのように殺されないで良かったな」と言われればそれまでだが、果たして人間のあり方としてそれで良いのか疑問を禁じ得ない。

近い将来、日本は再び預金封鎖や貴金属の強制供出、あるいは貧困層に対する軍役などが課される恐れが強いが、若い人々は覚悟しておいた方が良いだろう。いや、つくづく子どもをつくらないで良かったと思う。

【追記】
P1240932.jpg
国民総背番号制と預金封鎖に向けて準備中。現金と貴金属を貸金庫に預けるとか発想がフランス人的かもしれない(笑) ちなみに今年前半期に田中貴金属が販売したプラチナ地金は4600kg、2000億円以上に及ぶという。なお、戦時中に政府が民間から接収したプラチナは587kg、金が1637kgであり、戦後どれだけ裕福になったか想像される。もっとも、わが一族のように唯々諾々と政府に供出したのが実は「馬鹿正直すぎ」だったのかもしれないとは思うのだが、まぁこれもノブレス・オブリージュの一種なのだろう。もう二度と出しませんけどね!
posted by ケン at 13:44| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月15日

日本の反インテリ闘争小史

歴代総理に見る日本の脱インテリ」の続き。
世界的に見られることではあるが、日本史もまた「インテリと反インテリによる権力闘争史」という側面がある。日本で最初にインテリ層が形成されたのは奈良時代で、仏僧が知識を独占していた。当時の主だった寺院は官立で、僧侶は年間10人という定員のある国家公務員のような存在だった。少なくとも法律上は官僧以外の得度は禁じられていた。その権勢の凄まじさは、太政大臣(相当)にまでなった弓削道鏡によって象徴される。
その「南都インテリ」に嫌気がさしたのが桓武帝で、遷都に際してはわざわざ寺院の存在しない「未開の地」だった山城を選び、平安京を造設した。日本最古の「脱インテリ」と言える。その桓武帝は、南都仏教界に対抗すべく、官僧のホープだった最澄に比叡山を開かせ、私僧の天才児だった空海に高野山を開かせ、権力の分散と対抗軸の構築を図った。

そこから100〜200年を経て律令体制が爛熟し、関東開拓が進んでくると、何もしないくせに税を取り立てて懐に入れ、さらにワイロを要求する平安貴族に対する不満が高まっていった。この頃のインテリ層の中心は、仏僧から公家に移っていたが、その実権は領地を管理し、武力をもって守護する武家が有するようになっていた。しかし、地方に居住する武家は、中央の知性とは無縁で、今日のヤンキーそのものでしかなかった。
10世紀初頭に起こった「平将門の乱」や「藤原純友の乱」は、中央インテリ層による利益独占構造(律令体制)に対するアンチテーゼで、特に将門などは最大で5千もの兵を集めたものの、いずれも「田舎暴走族の暴動」に終わってしまう。当時はまだ、「ヤンキーに国政は任せられないよな」という思いが全国的に共有されていたものと想像される。
だが、さらに200年を経ると、インテリ(公家、正確にはインテリ化した平氏)とヤンキー(源氏を筆頭とした武家)のパワーバランスは逆転、治承・寿永の乱を経て、日本初のヤンキー政権が樹立される。
鎌倉政権から江戸幕府成立に至る約500年間は、長く知性不在の時代となったが(文学不足によって証明可能)、地方分権や知識階層の拡大、実学の発展が進むという意味合いもあった。

【参考】
気候変動に見る源平合戦 

江戸期に入るとインテリ統治が復活する。巨大権力を維持するためには優秀な官僚層が不可欠であり、それを担保する厚いインテリ層が必要となったためだ。
話が少し戻ってしまうが、関ヶ原戦役は豊臣政権内のインテリ層(五奉行)とヤンキー一派(福島、黒田、細川ら武闘派)の内部抗争を、徳川家康が利用して政権転覆を謀ったという側面がある。武家は元々がヤンキーであるが故に、どうしてもインテリ層に対する不満が強くなりがちで、豊臣政権も実権をヤンキーからインテリに移行しようとしていたが、その途上で秀吉が死んでしまい、頓挫した。もっとも、秀吉自身が反インテリのヤンキー丸出しだっただけに、仮に長生きしたとしてもその実現性は疑わしい。その点、家康の方が出身的にも体質的にもインテリに近く、安定した統治機構の設立者に相応しかったと考えられる。

江戸期のインテリ支配は260年続いたが、米本位制と幕藩体制が制度疲労を起こし、支配階層のインテリ層が腐敗、国際環境の圧力が切っ掛けとなって瓦解していった。この時、倒幕運動の基礎をなしたのは、薩長のヤンキーたちだった。松下村塾や薩摩勤王党のメンバーは、当時の知性水準から見て話にならないほどの無教養だったが、その彼らが藩の重鎮や藩主を支配下に置いて、皇族と公家を抱き込み、幕府と対峙していったのだ。今日のヤンキー政治家どもがこぞって「維新の志士」を推奨するのは、その反知性主義と成功体験に痺れるほどの憧れを感じるからだと考えられる。
ところが、いざ倒幕が成ってみると、ヤンキーの中でも多少の知性のあるものは皆先に死んでしまったこともあって、新たな統治機構をつくる術がなく、幕府官僚を再雇用し、外国人専門家を招聘して対処するほか無かった。さらに「こんなはずじゃ無かった」と御一新に不満を抱いたヤンキーが続々と反乱を起こし、その最大のものが西南戦争となった。10年の内乱期を経て、倒幕に貢献したヤンキーを武力で沈黙させ、明治政府は再びインテリ支配の道を歩むことになる。

明治期は「トップは叩き上げのヤンキー、手足は新インテリ」の連携で何とか凌いだものの、大正期になると維新叩き上げのヤンキーがいなくなり、明治体制下で育った新インテリ層が支配層を形成していった。すると、大日本帝国憲法(明治体制)の根源的課題が表出してくる。明治憲法下では、天皇が国家主権を独占していたが、慣例として行使しないことになっており、実際には輔弼者が主権を代行、輔弼者は天皇に責任を負うも、天皇は完全免責というのが、基本的な統治構造になっていた。しかも、その主権は細かく分割されていた。例えば立法権は貴族院と衆議院が対等な立場で並立、どちらか一方で否決されれば成立しなかった。また、総理大臣は内閣の主宰者という立場でしかなく、各国務大臣と対等で、各省に対する指揮監督権はおろか任免権すら持たなかった。故に昭和期になると、陸軍が陸軍大臣の進退を盾に次々と倒閣するという問題に繋がった。さらに、行政府には、内閣と対等な組織として枢密院が設置されており、発議こそ行えないものの、内閣の決定に拒否権を発動することは可能だった。現に明治末年から大正前期にかけて、山県有朋の影響下にあった枢密院が内閣と激しく対立している。
明治期は、叩き上げのヤンキーたちが「維新の元勲」という権威を背景に、影響力を駆使して分割された統治機構をまとめていたが、元勲がいなくなると、無責任な分割統治システムの不具合が露呈、その最悪のケースが「統帥権干犯問題」で、軍部に対する統制を失っていくことになる。
元勲不在で統治機構が並列的に存在する中で、再びインテリとヤンキーの対立が表面化する。インテリは官僚と官僚出身議員、ヤンキーは軍部と地域ボス系議員だった。大正期は対立しながらも一定のバランスがとられていたが、昭和恐慌に際してインテリ派が貧困救済に失敗すると、国民的支持が一気にヤンキーに傾き、インテリ層からも裏切りが続出、軍部独裁に至ったのである。

【参考】
大日本帝国憲法の瑕疵・上 
大日本帝国憲法の瑕疵・下 

余談になるが、E・トッド先生の指摘は示唆に富んでいる。1929年に起きた世界恐慌後の各国の選択は以下の通りだった。ドイツ=ナチス、日本=軍閥、イギリス=何もしない保守党、アメリカ=ルーズベルト、フランス=人民戦線。これが意味するところは、ドイツと日本が暴力的解決を志向したのに対して、イギリス人が政治解決を拒否して自力救済を選択、アメリカ人とフランス人は平等的解決を望んだということ。恐らく歴史上唯一の例である、企業の内部留保に対する課税はこの時のルーズベルトが行った(但し失敗した)。つまり、世界恐慌の解決者として、ドイツ人と日本人はヤンキーを、イギリス人は自力救済、フランス人とアメリカ人はインテリを選んだのである。

ヤンキーに国を任せた結果、日本とドイツの国土は灰燼に帰し、ドイツは分割占領された。日本は分割統治を免れたものの、連合国軍の占領下に置かれた。敗戦によってヤンキーの権威は失墜、インテリ派が相対的に国政の主導権を握り、軍部解体と新たな戦後統治システムを構築してゆくことになった。東京裁判でヤンキーは断罪されたものの、ヤンキーに荷担したインテリはわずかな例外を除いて復権、占領統治(民主的改革)の終了を見計らって権威主義体制の復活が試みられた。公職追放がわずか数年で終わり、鳩山内閣と岸内閣における国務大臣の公職追放経験者が6割に至ったことは、日本において権威主義とミリタリズムの克服が不十分だったことの証と言えよう。
それでも、様々な要因もあって、戦後から1980年代に至るまではインテリ支配による統治が順調になされた。だが、今度はインテリ層そのものが薄くなり、90年代の政治改革と不況対策が失敗に終わったことで、再びヤンキーの復権を許したのである。この文脈で行けば、現在文科省が進めている大学改革が、インテリを再生産させないための装置づくりであることは余りにも明白であろう。

【参考】
仮説:公職追放を考える 
posted by ケン at 12:33| Comment(2) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月07日

東条と安倍:現代に通じる中野事件の顛末

【自民、木原青年局長を更迭=「報道規制」発言の会代表】
自民党は27日、若手議員の勉強会で報道機関への圧力を求める発言が出た問題で、会の代表を務める木原稔青年局長を更迭する方針を決めた。党幹部が明らかにした。世論の批判や国会で審議中の安全保障関連法案への影響を踏まえ、厳正に処分する必要があると判断した。  この党幹部は「党が報道規制すべきだという見解を持っているとの誤解を与えた」と理由を説明。木原氏更迭で問題の早期収拾を図りたい考えだ。木原氏が代表を務める会は「文化芸術懇話会」で、安倍晋三首相に近い議員が集まる。25日の初会合では、講師に招いた作家の百田尚樹氏が「沖縄の二つの新聞はつぶさなあかん」などと発言。問題が表面化した26日、党執行部は木原氏から事情を聴取、注意していた。 
(時事通信、6月27日)

自民党内で本格的に言論統制・弾圧が議論されている。自民党側は「有志による私的な勉強会」と強弁しているが、安倍政権の強権ぶりを見てその説明を信じる者はいないだろう。私も多くはないが、自民党の議員や党員と付き合いがあるからよく分かる。平素(素面)はともかく、酒席の場で言論弾圧や左翼・組合弾圧、あるいは歴史修正主義の話題で大いに盛り上がるのは「当たり前」であり、せいぜいのところ「そうでない自民党員もいる」という程度なのだ。つまり、彼らは「プライベート=オフレコ」の場を設定することで、むしろ本音を忌憚なく述べているのであって、自民党側が説明するような「例外」「逸脱」ではあり得ない。事実、衆議院憲法審査会に参考人招致した長谷部教授が安保法制の違憲性を指摘したときは「不適切な人選」と切り捨てたのに対し、今回の百田氏の人選については不適切を指摘する声は聞かれない。要は「趣旨は分かるけど、言葉は選べよ」というのが自民党側のスタンスなのだ。発言がなされたのは酒席ではなく、自民党本部であったことを考えても、自民党が本格的に言論統制に乗り出そうとしていることが分かる。
今回の事件を見ていて思い出したのは、戦時中の中野正剛事件の顛末だった。良い機会なので記しておきたい。

中野正剛は、東京朝日新聞の記者から衆議院議員に転身した政治家で、1920年の初当選に際しては、かの「電力王」松永安左エ門と競って退けており、その弁舌の鋭さは人々を熱狂させる、日本には珍しい扇動政治家タイプだった。当初は、民政党で浜口雄幸らと軍部独走に歯止めを掛けようという政党人肌だったが、満州事変や国連脱退を経てファッショに染まり、「東方会」を結成、日独伊三国同盟や全政党の解散を主張するようになってゆく。1940年に政党解散を受けて大政翼賛会が結成されると、中野は総務役に就任する。だが、日米が開戦し、東条英機の独裁が強まってゆくと、その戦争指導に不満を抱き、翼賛会を脱会、42年の翼賛選挙に際しては非推薦で当選して「反東條」のスタンスを明らかにした。ただし、同選挙で自身は当選するも、東方会は惨敗・解散に追い込まれた。

中野はさらに「反東條」を強め、1942年10月10日の神田共立講堂で開かれた演説会では、岸信介商工大臣の後に登壇、岸が大宣伝した統制経済を全否定して喝采を浴びた。11月10日に早稲田大学大隈講堂で開かれた演説会では、演説を中止させようとした憲兵を学生が取り囲み、全学生が起立して「都の西北」を歌って中野に応じた。この時、竹下登元首相は高校生として出席しており、中野の演説を聴いて政治家を志したと言われる。
12月21日に日比谷公会堂で開かれた演説会に至っては、三十銭の入場料が徴収されたにもかかわらず、午後1時の開演に対して早朝から行列ができて、4千人の会場に対して1万人以上が参集した。これに脅威を抱いた東條首相は、一議員である中野の演説会を禁止した。
「人気者」だった中野は、今度は古巣の朝日新聞から依頼を受けて「戦時宰相論」を執筆、翌43年元旦の一面に掲載された。論文では東条の名は一切出てこず、西郷隆盛やクレマンソーの言葉を紹介しつつ、非常時宰相のモデルとして諸葛亮孔明を挙げて、「虚名を求めず、英雄を気取らず、専ら君主のために人材を推挽し、寧ろ己の盛名を厭うて、本質的に国家の全責任を担って居る」とするもので、三日前にすでに大本営報道部の検閲を通っていた。だが、元旦朝の食卓で新聞を目にした東條は、秘書官に「朝日新聞は発禁だ」と怒鳴りつけ、その場で内務省警保局長に電話して差し押さえを命じた。これを知った朝日側が抗議したところ、当の検閲官は「むろん検閲は通っている。しかし発禁になったんだ」「泣く子と地頭には勝てないんだ」と答えたという。

中野正剛はなおもめげずに重臣を抱き込んで、重臣会議の場に東条を呼んで退陣要求し、そのまま宇垣内閣を樹立するという計画を進めるが、一部の重臣が寝返り挫折、東條は本格的に弾圧を決意した。
この頃、この中野を三木武吉が諫めている。「君は相変わらず勇敢に戦っているが、もう戦局の先は見えた。敗戦は避けられない。そこで俺は友人として君に忠告したい。幕末の桂小五郎のように当分の間、女の膝をマクラに酒でも呑んで韜晦することをすすめる。でないと君は、獄死した吉田松陰の後を追う結果となる。バカバカしいじゃないか。」

まず9月6日、中野の盟友である三田村武夫議員が出版法違反の嫌疑で特高に検束される。だが三田村が容疑否認を続けたため、10月21日、中野を始め東方同志会(東方会の後継)と協力関係にあった右翼団体等に対する一斉摘発が行われた。動員された特高課員は100人以上に上り、検挙者も百数十人に至った。
だが、肝心要の中野に対する容疑は、同年2月に自宅で東方会メンバーに対して「ガダルカナルで敗退したのは陸軍と海軍の作戦不一致による」旨を述べたことが、軍刑法が禁じている「造言蜚語」に当たるというものだった。しかも、中野宅に来た刑事は令状すら携行していなかった。

この背景には、特高と検事局の相克があったという。三田村が逮捕された当初から検事局は立件に難色を示しており、思想部長の中村登音夫検事は反対を明言していた。それに対して首相の内意を受けた警視庁特高課が、内相名で「検察が検挙しないなら警視庁が独自にやる」と通告するも、検事局は黙殺した。そこで内務省は、松阪検事総長の出張中を狙って、検事次長を騙して検挙に踏み切った。
24日夕、出張を切り上げて帰京した松阪総長は官邸に呼び出されるも、一度は「個別案件で総理と協議するのは異例のことで、憲法違反の疑いがある」と拒んだものの、岩村法相と安藤内相も同席するからと再度言われたため断り切れなくなった。松阪が官邸に出向くと、案の定、東條は「戦時においては(中野の)こうした言動は利敵罪を構成するから、令状を出して起訴し、社会から葬り去るべきである」と要求してきた。松阪は、「これまで警視庁から受けた報告だけでは起訴に相当しない」「中野は容疑を否定しており、自白しない者を起訴できない」「現職の代議士を造言蜚語で検束して議会に出席させないというわけにはいかない」と拒否した。翌25日は帝国議会の招集日であり、帝国憲法下でも会期中は議員の不逮捕特権が限定的だが認められていた。
そこで東條は、議会対策の国務大臣だった大麻唯男を呼び出して、「行政検束で(中野を)留置するから議会が騒がないように手配してくれ」と頼んだところ、大麻は「行政検束で議員の議会出席を拒むことはできない。そんなことをしたら立法権の独立も何もなくなってしまう」とこれも拒否、「東條の茶坊主」とまで言われた大麻にまで諫められ、東條は窮地に立たされた。

すでに夜半を過ぎ25日に入っていたが、東條はなおも諦めずに薄田警視総監と四方東京憲兵隊長を呼び出し、「おい、警視総監、君の方で午前中に何とかならんか」と振ったところ、警視総監は「私の所は今のところ見込みありません」と断り、それを受けて四方が「総理、私の方でやりましょう」と応じた。そして朝4時半頃、中野の身柄は警視庁から憲兵隊に引き渡された。それから数時間も経ずに、中野は「自白」する。この急転直下の「自白」には裏があると見られているが、今日に至るも分かっていない。一説では、陸軍に在籍した息子(伍長)の「安全」と引き替えの「自白」だった、と言われる。
検事局では、前夜の官邸での協議を経て翌朝、「会期中は中野を釈放して、議会が終わったら非拘束で取り調べを進めよう」という方針で一致したところに憲兵隊から電話が入り、自白が伝えられ、驚愕と怒声が同時に上がったとされている。

だが、「自白」がなされてもまだ終わらなかった。憲兵隊と特高部は裁判所に勾留状を要求するが、東京地裁は、議会期中の不逮捕特権を盾に逆に中野の釈放を要求した。この時、特高などが「召集日は会期中に当たらない」とゴリ押ししてきただけに、地裁の決定に対して検事局が歓声を上げる始末だった。それでも、憲兵隊から警視庁に戻された中野は、警視庁の宿直室に軟禁され、開会日26日の朝釈放されると、警視庁の玄関前で待ち構えていた憲兵隊が中野を拘束、そのまま拉致されて、議会出席はかなわなかった。帰宅を許されたのは、開会式が終わった後の午後二時過ぎだったという。
その日の深夜、中野は代々木の自宅において日本刀で割腹した後、自ら頸動脈を切断して自刃した。遺書が一通残されたが、一連の事件については一切触れられていない。憲兵隊に引き渡されて直後の「自白」、憲兵隊に拘束されて帰宅した後、憲兵隊が監視する自宅内での自死が意味するところは、今となっては想像するしか無いが、東條首相の命令の有無にかかわらず、その強い意志を憲兵隊が忖度して実行したことによって起きたことは間違いない。

中野正剛は、東條からすれば「国賊」「利敵者」以外の何者でもなかった。だが、青山斎場で行われた葬儀には、東條の意思に反して、現職大臣や重臣(元総理)、国会議員、高級官僚を始め2万人以上の人が集まったという。
その腹いせなのか、中野の起訴を拒否し、釈放の手助けをした検事局思想部長の中村検事は、43歳という高齢ながら、10月末に赤紙が届いて召集されて南方に出征させられた。

東條の頭の中では、「中野=朝日新聞=ゾルゲ事件=スパイ」という妄想が出来上がっていたらしく、中野が何か書いたり話したりするたびにヒステリックに反応し、さらに自らの被害妄想をたくましくしていったようだ。この辺、「民主党=日教組=反日」のような妄想を信じているネトウヨや安倍一派と恐ろしく似通っているが、いまや自民党やその支持層全体に妄想が拡散しつつあるように思われる。その意味でも「第二の敗戦」が訪れるのはそう遠くなさそうだ。

【追記】
三木武吉が倒閣に奔走する中野を諫め、「君は相変わらず勇敢に戦っているが、もう戦局の先は見えた。敗戦は避けられない。そこで俺は友人として君に忠告したい。幕末の桂小五郎のように当分の間、女の膝をマクラに酒でも呑んで韜晦することをすすめる。でないと君は、獄死した吉田松陰の後を追う結果となる。バカバカしいじゃないか」という言葉が、私の頭の中をこだましている。私も近々、「膝をマクラに酒でも呑んで韜晦」しようかと思っているが、その前に資産の相当部分を金にして隠匿する必要がある。

【追記2】
NHKにわずかなりとも良心が残されているなら、この中野事件こそドラマ化して放映すべきだろう。ただし、安倍氏も自民党議員も何の暗喩なのか全く理解できないと思われるが。
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2015年06月02日

条件付きおわびはアリ?

【<首相>早くしろよヤジ 衆院特別委で謝罪「重ねておわび」】
安倍晋三首相は1日午前の衆院平和安全法制特別委員会で、5月28日の審議で野党の質問の際に「早く質問しろよ」とやじを飛ばしたことについて「重ねておわび申し上げる。真摯に対応していきたい」と改めて謝罪した。首相は28日にも「言葉が少し強かったとすればおわび申し上げたい」と陳謝したが、野党がさらなる謝罪を求めていた。
(毎日新聞、6月1日)

色々ワケが分からない。日本語教員経験者として、日本語学習者からこの状況の説明を求められたとしたら、上手く答えられる自信が無い。
というのも、第一に、委員会が審議停止したのは安倍首相の「早く質問しろよ」というヤジに原因があり、その総理大臣のヤジに対して野党は謝罪を求めていた。にもかかわらず、総理は、

「言葉が少し強かったとすればおわび申し上げたい」

と返したのだ。つまり、総理の「謝罪」対象は「言葉が少し強かった」ことであって、ヤジの内容では無いらしい。しかも、どの言葉(ワード)が「少し強かった」のか全く明らかにしていない。

そして第二に、「言葉が少し強かったとすれば」という仮定条件が付与され、後半は「申し上げたい」という願望で終わっている点である。これは、総理本人としては「言葉が少し強かった」ことは自覚していないのだが、もし仮に野党側が「少し強かった」と認識したのであれば、「あくまでも仮定だが、謝罪すべきなんだろうな」という感慨を述べているに過ぎない。
さらに言えば、「自らの非を認めて相手の許しを請う」という謝罪の一般要件も満たしていない。

これはもっと身近な例で考えた方が分かりやすいかもしれない。職場のコミュニケーション不足で生じた不具合について、突然上司が部下に対して「バカヤロー、お前なんか辞めちまえ!」と罵倒したため、問題になり、労働組合を介して当の上司に謝罪が求められた。すると、その上司は「言葉が少し強かったとすれば、おわびすべきかもしれない」と述べるのだ。これでは、一体誰が何に対して何をしているのかサッパリ分からないだろう。

どうやらこの手の謝罪対象を不明確にすることで実質的な謝罪を行わず、罪も認めない、というリスクマネージメントが最近のトレンドになっているらしい。
先に無罪判決と冤罪が確定した志布志事件に際しては、無罪の一審判決を受けた当時の鳩山邦夫法相が、

(本来有罪であるべきだが、証拠不十分で無罪となった故に)「冤罪と呼ぶべきではない」

と発言したことが問題にされ、当の鳩山法相は、

「被告の方々が不愉快な思いをされたとすれば、おわびをしなければならない」

と述べている。これも仮定条件(if)と義務(must)の一般的関係を述べているだけで、文法的には到底謝罪とは言えない。

国会でこんな横暴が許されて全国中継されれば、学校でもイジメの加害者が被害者に対して、

「仮にイジメにあわれた方がいらしたとして、もし不愉快な思いをされたとしたら、おわびされるべきでしょう」

と言うことが流行するに違いない。あるいはDV夫が妻を殴打しておいて、

「もし痛い思いをされたとすれば、おわび申し上げたいと思っております」

などと言い放つことが許されることになるだろう。

野党は権威主義と国家無謬論を見逃してはならない。謝罪はなされていないのだから。

【追記】
確かに立法府の最大の役割は立法機能であり、法案審査であるわけだが、同時に日本国憲法は国民主権を謳い、国会を「国権の最高機関」と位置づけている。これは国会こそが主権者を代表し、民意を反映させる(唯一)最高機関であることを意味するもので、予算や法案や政府方針に対して、民意を代弁する機能を立法機能と同レベルに位置づけるものと言える。故に、国会議員の役割は法案や行政に対して質問するだけでなく、主権の代行者(民意の代表)として自らの意見を開陳することも求められている。安倍総理の「早く質問しろよ」は、その主権代行者としての役割を否定するものであり、即ち氏が自国の憲法とデモクラシーの原理を理解していないことを示している。
posted by ケン at 12:28| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月30日

平山優 『長篠合戦と武田勝頼』

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『長篠合戦と武田勝頼』 平山優 吉川弘文館(2014)

「長篠の戦い」は戦国マニアにとって最も熱いトピックの一つである。それは、新たな学説が提示されて、従来の解釈が覆されているためだが、新説に対する反論もなされ議論百出しており、常に情報を更新する必要がある。先の稿でも紹介したが、通説に対する疑問は主に以下の通り。

・武田「騎馬軍団」の不在
・「勝頼無能説」への疑問
・織田「鉄砲三段打ち」の虚偽
・同「鉄砲三千丁」への疑問


従来の説では、武田方が有する「騎馬軍団」を勝頼が過信して、配下武将の反対を押し切り、織田・徳川連合軍に突撃を強行して全滅、となっている。
最近の研究では、まず騎馬軍団の存在自体が否定されており、武田軍の編成は他の諸大名とほぼ同じで、「騎馬武者の数が特別に多かった」などということもなければ、「騎馬隊の集中運用」なども存在しなかったとされている。また、武田家の領域は勝頼期に最大となっており、当時の一次資料でも勝頼を「無能」とする評価は見られず、結果論的に一方的な評価がなされているということで、武将としての再評価が進んでいる。
さらに織田勢の「鉄砲三段打ち」はほぼ江戸時代の創作という分析が確定しているが、「鉄砲三千丁か一千丁か」についてはいまだ議論が定まらない。

本書は最新の学説を踏まえた上で、改めて新説を疑い、二次資料を再精査、新たに発見された一次資料を抑えつつ、全体的に勝頼の事績と長篠合戦の意義を評価している。特に武田家のおける勝頼の立ち位置と設楽原決戦に至るまでの戦略的経緯について良く検証されており、戦場の断面ではなく当時の全体状況から「なぜ長篠合戦に至ったのか」を俯瞰している点が秀逸だ。また、敢えて昨今評価の高い新説を疑って、「信長公記」の諸々の写本や「当代記」を比較して信憑性の高いものを精査する手法や、「甲陽軍鑑」を全否定せず批判的に読み解くことで史実に近づこうとする意欲も評価される。
結果、本書はやや旧説に近いものになっており、武田騎馬隊(騎馬突撃)の存在を肯定、鉄砲は三千丁説に軍配を上げ、「三段打ち」については三段式では無いが交替式による連射システムが存在していたとする。概ね納得の行く考察であり、私の評価も更新する必要があろう。ただ、個人的には「重臣がこぞって撤退を進言したが、勝頼の個人的決断で突撃が決められた」とする「軍鑑」の記述はどうしても「後付け」のような気がしてならない。
ただ、設楽原決戦の実態については、同氏の別の著作で詳細に検証しているようなので、いずれそれも読んでみたい。

興味深いのは、織田・徳川に宣戦布告した信玄について、上杉謙信が「無謀な決断」「蜂の巣に手を突っ込むようなもの」と評している点で、事実その半年後に信玄は病没、勝頼は長篠合戦で大敗し、武田の勢力は三河と美濃から放逐され、ついには滅亡してしまった。また、武田の遺臣たちは滅亡の原因について誰も長篠の敗戦を挙げておらず、大半が「甲相同盟の破棄に伴う織徳北の半包囲体制」としていた。つまり、武田家家臣団は「織田・徳川と戦うのは仕方ないが、同時に北条とまで戦うのは無理」という評価を下していた。ところが、甲相同盟破棄の主因は、信玄による甲駿相三国同盟の破棄(今川氏真攻め)にあった。駿河を取った結果、武田家は徳川家と衝突、信玄は織田・徳川分断工作を図るも失敗し、両家を敵にしてしまった。信玄は伝説化されてしまっているが、その戦略については最新の研究で「場当たり的」とする評価もあり、再評価されるべきであろう。
posted by ケン at 22:52| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月30日

異文化を理解するということA−ボランティア精神

歴史や宗教に明るいと思っていた人が、「イスラム国に日本人が参加するなど信じられない」旨の発言をされているのを耳にし、「いや、ちょっと待ってよ!」と思った次第。どうやら「日本人が宗教に熱狂して狂気や蛮行に走った歴史は無い」という認識のようなのだが、とんでもない誤認、勘違いであり、ガッカリさせられた。そもそもオウム事件で地下鉄にサリンがまかれ、武装蜂起が計画されていたのは、ほんの20年前のことではないか。70年前には天皇を頂点とする国家神道によってアジアを統一支配するという「妄執」に国民の大半が取り憑かれていた。彼は一体何の歴史を学んでいたのだろうか。今少し古いところを見てみよう。

ボランティアの語源は、ラテン語の「voluntas」(=自由意志)にあり、意味上の原義は徴集兵に対する志願兵を指す。歴史的には、十字軍に自発的に従軍する人を指し、王家の常備軍や貴族の傭兵、あるいは修道会の騎士団とは一線を画した。つまり、宗教的動機に基づく義勇兵を意味した。
キリスト教の大きな特徴の一つは「善への希求」にある。善行をなすことは、天に徳を積むことになり、それによって最後の審判の時に天国行きか地獄行きかの判定の基準となる。善行を積み重ねることは、絶対神に対する人間の義務とされていた。
つまり、キリスト教徒にとっての善行は、相手のためではなく、第一義的には自分のため神に対する義務を遂行することにある。善行の結果は、あくまで行為の結果であって、それ自体が目的ではない。
十字軍の悲劇は、「キリスト教(会)のために行う聖地奪還」という「聖戦の遂行」が目的であって、結果として略奪や侵略になってしまったことは従軍者(ボランティア参加者)にとっては「どうでもいいこと」だったことに起因する。
従って、「ボランティアは誰かのためにするもの」と一般的には思われがちだが、原義的にはむしろ「自己実現」が基本となる。この原理が分からないと、イスラム国に参加しようとする欧米人らの精神を理解することは不可能で、「巧妙な宗教的勧誘に騙された可哀想な人たち」などという解釈になってしまう。こうした基本原理は十字軍に参戦するキリスト教も、聖戦に加わるムスリムも同じと考えて良い。

現代日本人の多くは「イスラムとも無縁だし、教育水準の高い日本人が騙されることは無い」くらいに考えているようだが、現代でも一連のオウム事件があったし、過去には現代のイスラム国とよく似た事例が見つけられる。
1570年代の石山合戦に際しては、本願寺法主である顕如上人の檄に応じて全国から門徒が参戦している。元亀元年(1570年)、織田信長から大坂・石山御坊からの退去と寺社権益の一部返上を要求された本願寺は、武力闘争を決断、織田家との戦争が始まった。顕如は信長を「仏敵」とした上で、全国に向けて檄文を発した。
信長上洛に就て、此の方迷惑せしめ候。去々年以来、難題を懸け申し付けて、随分なる扱ひ、彼の方に応じ候と雖もその詮なく、破却すべきの由、慥に告げ来り候。此の上は力及ばす。然ればこの時開山の一流退転なきの様、各身命を顧みず、忠節を抽らるべきこと有り難く候。併ら馳走頼み入り候。若し無沙汰の輩は、長く門徒たるべらず候なり。

織田軍と戦わない信者は破門という内容なだけに、いま読むと「恫喝」のような印象を受けてしまうが、当時の一向門徒にあっては、寺院の「無縁」社会(宗教的ユートピア)を踏みにじる大名権力が「悪」「仏敵」であることは明白であり、それを座して見ているような門徒はもはや信者とは言えない、という理屈はごく自然に受け入れられたものと思われる。イスラム国も自称「カリフ」による「聖戦」の檄に全世界のムスリムが呼応する形になっている。
ちなみに、浄土真宗が民衆に圧倒的な浸透力を持ったのは、必ずしも僧侶に依拠しない信者組織「講」(〜講の語源)を創設し、信者が独自に信仰を広めていったところが大きく、この辺も聖職者不在のイスラム教に似ている。

戦場は石山に限られていたわけでは無く、休戦期間もあったこともあり、実際にどれほどの門徒が集まったのかは分からないが、ピーク時には2〜3万人に達したものと思われる。近畿圏だけでなく、九州や北陸・東北からも参集したようで、まさに全国規模だった。基本的には名のある武家では無く、農民や職人層であったが、皆一族で金を集めて自弁で武装と兵糧を用意し、一族を代表する屈強な若者に持たせて参戦させたのだ。当時の火縄銃は現在の外車かそれ以上の値段だった。本願寺は装備、練度、戦術能力の全てにおいて織田軍に劣っていたが、それでも10年にわたって戦い続けたことは、まさに現代のジハーディスト民兵と被る。

わが一族にも同様の伝説がある。母方の祖母の養家(三河鈴木氏)の場合、菩提寺の求めに応じて挙兵し、主家である松平家に弓を引いた。永禄6年(1563年)の三河一向一揆である。その大義名分は、「主家に対する恩義は一代限りだが、仏の慈悲は無限(永遠)である」というものだった。血の結束を誇った三河武士団は完全に二分され、血で血を洗う凄惨な内戦に発展、一時は松平家の本城である岡崎城が一揆衆に攻め立てられる事態に陥り、後に「家康三大危機」の一つに数えられた(残る二つは三方原と伊賀越え)。最終的には和議となり、わが先祖も浄土宗に改宗して松平の軍門に降ったものの、宗教戦争とはそういうものだった。
その当時も、織田家や松平家などの大名家からすれば、一向門徒など「テロリスト」以外の何物でも無かっただろう。
わが家が150石程の高給取りだったにもかかわらず、「お目見え権」が無かったのは分家筋のせいだとは思うものの、ひょっとしたら「テロリストの末裔」だったからかもしれない。
少なくとも近畿、東海、北陸圏では、相当数の者が一向一揆に参加したはずであり、誰もが先祖にいてもおかしくないはずだが、そうした記憶は殆ど失われているようだ。

浄土真宗だけでは無い。大坂の陣や島原の乱には全国からキリシタンが参戦している。特に大坂の陣では、明石全登(ジョアン・ジョスト)が十字架の幟を立ててキリシタン部隊を率いて信教の自由を求めて戦った。これについても、徳川家からすれば明石一派などは「テロリスト」でしかなかっただろうが、我々は明石の行動を否定できるだろうか。
自分たちの先祖のことを考えれば、容易に想像できそうなものなのに、現代の日本人には決定的に想像力が欠けているような気がしてならない。

【参考】
武士の風景・番外編四「ボランティアの日本的起源」 
叡山焼き討ちが意味するもの 
根切り 越前一揆無惨 
越前一揆無惨 内部分裂 
posted by ケン at 12:59| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする