2015年06月02日

条件付きおわびはアリ?

【<首相>早くしろよヤジ 衆院特別委で謝罪「重ねておわび」】
安倍晋三首相は1日午前の衆院平和安全法制特別委員会で、5月28日の審議で野党の質問の際に「早く質問しろよ」とやじを飛ばしたことについて「重ねておわび申し上げる。真摯に対応していきたい」と改めて謝罪した。首相は28日にも「言葉が少し強かったとすればおわび申し上げたい」と陳謝したが、野党がさらなる謝罪を求めていた。
(毎日新聞、6月1日)

色々ワケが分からない。日本語教員経験者として、日本語学習者からこの状況の説明を求められたとしたら、上手く答えられる自信が無い。
というのも、第一に、委員会が審議停止したのは安倍首相の「早く質問しろよ」というヤジに原因があり、その総理大臣のヤジに対して野党は謝罪を求めていた。にもかかわらず、総理は、

「言葉が少し強かったとすればおわび申し上げたい」

と返したのだ。つまり、総理の「謝罪」対象は「言葉が少し強かった」ことであって、ヤジの内容では無いらしい。しかも、どの言葉(ワード)が「少し強かった」のか全く明らかにしていない。

そして第二に、「言葉が少し強かったとすれば」という仮定条件が付与され、後半は「申し上げたい」という願望で終わっている点である。これは、総理本人としては「言葉が少し強かった」ことは自覚していないのだが、もし仮に野党側が「少し強かった」と認識したのであれば、「あくまでも仮定だが、謝罪すべきなんだろうな」という感慨を述べているに過ぎない。
さらに言えば、「自らの非を認めて相手の許しを請う」という謝罪の一般要件も満たしていない。

これはもっと身近な例で考えた方が分かりやすいかもしれない。職場のコミュニケーション不足で生じた不具合について、突然上司が部下に対して「バカヤロー、お前なんか辞めちまえ!」と罵倒したため、問題になり、労働組合を介して当の上司に謝罪が求められた。すると、その上司は「言葉が少し強かったとすれば、おわびすべきかもしれない」と述べるのだ。これでは、一体誰が何に対して何をしているのかサッパリ分からないだろう。

どうやらこの手の謝罪対象を不明確にすることで実質的な謝罪を行わず、罪も認めない、というリスクマネージメントが最近のトレンドになっているらしい。
先に無罪判決と冤罪が確定した志布志事件に際しては、無罪の一審判決を受けた当時の鳩山邦夫法相が、

(本来有罪であるべきだが、証拠不十分で無罪となった故に)「冤罪と呼ぶべきではない」

と発言したことが問題にされ、当の鳩山法相は、

「被告の方々が不愉快な思いをされたとすれば、おわびをしなければならない」

と述べている。これも仮定条件(if)と義務(must)の一般的関係を述べているだけで、文法的には到底謝罪とは言えない。

国会でこんな横暴が許されて全国中継されれば、学校でもイジメの加害者が被害者に対して、

「仮にイジメにあわれた方がいらしたとして、もし不愉快な思いをされたとしたら、おわびされるべきでしょう」

と言うことが流行するに違いない。あるいはDV夫が妻を殴打しておいて、

「もし痛い思いをされたとすれば、おわび申し上げたいと思っております」

などと言い放つことが許されることになるだろう。

野党は権威主義と国家無謬論を見逃してはならない。謝罪はなされていないのだから。

【追記】
確かに立法府の最大の役割は立法機能であり、法案審査であるわけだが、同時に日本国憲法は国民主権を謳い、国会を「国権の最高機関」と位置づけている。これは国会こそが主権者を代表し、民意を反映させる(唯一)最高機関であることを意味するもので、予算や法案や政府方針に対して、民意を代弁する機能を立法機能と同レベルに位置づけるものと言える。故に、国会議員の役割は法案や行政に対して質問するだけでなく、主権の代行者(民意の代表)として自らの意見を開陳することも求められている。安倍総理の「早く質問しろよ」は、その主権代行者としての役割を否定するものであり、即ち氏が自国の憲法とデモクラシーの原理を理解していないことを示している。
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2015年05月30日

平山優 『長篠合戦と武田勝頼』

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『長篠合戦と武田勝頼』 平山優 吉川弘文館(2014)

「長篠の戦い」は戦国マニアにとって最も熱いトピックの一つである。それは、新たな学説が提示されて、従来の解釈が覆されているためだが、新説に対する反論もなされ議論百出しており、常に情報を更新する必要がある。先の稿でも紹介したが、通説に対する疑問は主に以下の通り。

・武田「騎馬軍団」の不在
・「勝頼無能説」への疑問
・織田「鉄砲三段打ち」の虚偽
・同「鉄砲三千丁」への疑問


従来の説では、武田方が有する「騎馬軍団」を勝頼が過信して、配下武将の反対を押し切り、織田・徳川連合軍に突撃を強行して全滅、となっている。
最近の研究では、まず騎馬軍団の存在自体が否定されており、武田軍の編成は他の諸大名とほぼ同じで、「騎馬武者の数が特別に多かった」などということもなければ、「騎馬隊の集中運用」なども存在しなかったとされている。また、武田家の領域は勝頼期に最大となっており、当時の一次資料でも勝頼を「無能」とする評価は見られず、結果論的に一方的な評価がなされているということで、武将としての再評価が進んでいる。
さらに織田勢の「鉄砲三段打ち」はほぼ江戸時代の創作という分析が確定しているが、「鉄砲三千丁か一千丁か」についてはいまだ議論が定まらない。

本書は最新の学説を踏まえた上で、改めて新説を疑い、二次資料を再精査、新たに発見された一次資料を抑えつつ、全体的に勝頼の事績と長篠合戦の意義を評価している。特に武田家のおける勝頼の立ち位置と設楽原決戦に至るまでの戦略的経緯について良く検証されており、戦場の断面ではなく当時の全体状況から「なぜ長篠合戦に至ったのか」を俯瞰している点が秀逸だ。また、敢えて昨今評価の高い新説を疑って、「信長公記」の諸々の写本や「当代記」を比較して信憑性の高いものを精査する手法や、「甲陽軍鑑」を全否定せず批判的に読み解くことで史実に近づこうとする意欲も評価される。
結果、本書はやや旧説に近いものになっており、武田騎馬隊(騎馬突撃)の存在を肯定、鉄砲は三千丁説に軍配を上げ、「三段打ち」については三段式では無いが交替式による連射システムが存在していたとする。概ね納得の行く考察であり、私の評価も更新する必要があろう。ただ、個人的には「重臣がこぞって撤退を進言したが、勝頼の個人的決断で突撃が決められた」とする「軍鑑」の記述はどうしても「後付け」のような気がしてならない。
ただ、設楽原決戦の実態については、同氏の別の著作で詳細に検証しているようなので、いずれそれも読んでみたい。

興味深いのは、織田・徳川に宣戦布告した信玄について、上杉謙信が「無謀な決断」「蜂の巣に手を突っ込むようなもの」と評している点で、事実その半年後に信玄は病没、勝頼は長篠合戦で大敗し、武田の勢力は三河と美濃から放逐され、ついには滅亡してしまった。また、武田の遺臣たちは滅亡の原因について誰も長篠の敗戦を挙げておらず、大半が「甲相同盟の破棄に伴う織徳北の半包囲体制」としていた。つまり、武田家家臣団は「織田・徳川と戦うのは仕方ないが、同時に北条とまで戦うのは無理」という評価を下していた。ところが、甲相同盟破棄の主因は、信玄による甲駿相三国同盟の破棄(今川氏真攻め)にあった。駿河を取った結果、武田家は徳川家と衝突、信玄は織田・徳川分断工作を図るも失敗し、両家を敵にしてしまった。信玄は伝説化されてしまっているが、その戦略については最新の研究で「場当たり的」とする評価もあり、再評価されるべきであろう。
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2015年03月30日

異文化を理解するということA−ボランティア精神

歴史や宗教に明るいと思っていた人が、「イスラム国に日本人が参加するなど信じられない」旨の発言をされているのを耳にし、「いや、ちょっと待ってよ!」と思った次第。どうやら「日本人が宗教に熱狂して狂気や蛮行に走った歴史は無い」という認識のようなのだが、とんでもない誤認、勘違いであり、ガッカリさせられた。そもそもオウム事件で地下鉄にサリンがまかれ、武装蜂起が計画されていたのは、ほんの20年前のことではないか。70年前には天皇を頂点とする国家神道によってアジアを統一支配するという「妄執」に国民の大半が取り憑かれていた。彼は一体何の歴史を学んでいたのだろうか。今少し古いところを見てみよう。

ボランティアの語源は、ラテン語の「voluntas」(=自由意志)にあり、意味上の原義は徴集兵に対する志願兵を指す。歴史的には、十字軍に自発的に従軍する人を指し、王家の常備軍や貴族の傭兵、あるいは修道会の騎士団とは一線を画した。つまり、宗教的動機に基づく義勇兵を意味した。
キリスト教の大きな特徴の一つは「善への希求」にある。善行をなすことは、天に徳を積むことになり、それによって最後の審判の時に天国行きか地獄行きかの判定の基準となる。善行を積み重ねることは、絶対神に対する人間の義務とされていた。
つまり、キリスト教徒にとっての善行は、相手のためではなく、第一義的には自分のため神に対する義務を遂行することにある。善行の結果は、あくまで行為の結果であって、それ自体が目的ではない。
十字軍の悲劇は、「キリスト教(会)のために行う聖地奪還」という「聖戦の遂行」が目的であって、結果として略奪や侵略になってしまったことは従軍者(ボランティア参加者)にとっては「どうでもいいこと」だったことに起因する。
従って、「ボランティアは誰かのためにするもの」と一般的には思われがちだが、原義的にはむしろ「自己実現」が基本となる。この原理が分からないと、イスラム国に参加しようとする欧米人らの精神を理解することは不可能で、「巧妙な宗教的勧誘に騙された可哀想な人たち」などという解釈になってしまう。こうした基本原理は十字軍に参戦するキリスト教も、聖戦に加わるムスリムも同じと考えて良い。

現代日本人の多くは「イスラムとも無縁だし、教育水準の高い日本人が騙されることは無い」くらいに考えているようだが、現代でも一連のオウム事件があったし、過去には現代のイスラム国とよく似た事例が見つけられる。
1570年代の石山合戦に際しては、本願寺法主である顕如上人の檄に応じて全国から門徒が参戦している。元亀元年(1570年)、織田信長から大坂・石山御坊からの退去と寺社権益の一部返上を要求された本願寺は、武力闘争を決断、織田家との戦争が始まった。顕如は信長を「仏敵」とした上で、全国に向けて檄文を発した。
信長上洛に就て、此の方迷惑せしめ候。去々年以来、難題を懸け申し付けて、随分なる扱ひ、彼の方に応じ候と雖もその詮なく、破却すべきの由、慥に告げ来り候。此の上は力及ばす。然ればこの時開山の一流退転なきの様、各身命を顧みず、忠節を抽らるべきこと有り難く候。併ら馳走頼み入り候。若し無沙汰の輩は、長く門徒たるべらず候なり。

織田軍と戦わない信者は破門という内容なだけに、いま読むと「恫喝」のような印象を受けてしまうが、当時の一向門徒にあっては、寺院の「無縁」社会(宗教的ユートピア)を踏みにじる大名権力が「悪」「仏敵」であることは明白であり、それを座して見ているような門徒はもはや信者とは言えない、という理屈はごく自然に受け入れられたものと思われる。イスラム国も自称「カリフ」による「聖戦」の檄に全世界のムスリムが呼応する形になっている。
ちなみに、浄土真宗が民衆に圧倒的な浸透力を持ったのは、必ずしも僧侶に依拠しない信者組織「講」(〜講の語源)を創設し、信者が独自に信仰を広めていったところが大きく、この辺も聖職者不在のイスラム教に似ている。

戦場は石山に限られていたわけでは無く、休戦期間もあったこともあり、実際にどれほどの門徒が集まったのかは分からないが、ピーク時には2〜3万人に達したものと思われる。近畿圏だけでなく、九州や北陸・東北からも参集したようで、まさに全国規模だった。基本的には名のある武家では無く、農民や職人層であったが、皆一族で金を集めて自弁で武装と兵糧を用意し、一族を代表する屈強な若者に持たせて参戦させたのだ。当時の火縄銃は現在の外車かそれ以上の値段だった。本願寺は装備、練度、戦術能力の全てにおいて織田軍に劣っていたが、それでも10年にわたって戦い続けたことは、まさに現代のジハーディスト民兵と被る。

わが一族にも同様の伝説がある。母方の祖母の養家(三河鈴木氏)の場合、菩提寺の求めに応じて挙兵し、主家である松平家に弓を引いた。永禄6年(1563年)の三河一向一揆である。その大義名分は、「主家に対する恩義は一代限りだが、仏の慈悲は無限(永遠)である」というものだった。血の結束を誇った三河武士団は完全に二分され、血で血を洗う凄惨な内戦に発展、一時は松平家の本城である岡崎城が一揆衆に攻め立てられる事態に陥り、後に「家康三大危機」の一つに数えられた(残る二つは三方原と伊賀越え)。最終的には和議となり、わが先祖も浄土宗に改宗して松平の軍門に降ったものの、宗教戦争とはそういうものだった。
その当時も、織田家や松平家などの大名家からすれば、一向門徒など「テロリスト」以外の何物でも無かっただろう。
わが家が150石程の高給取りだったにもかかわらず、「お目見え権」が無かったのは分家筋のせいだとは思うものの、ひょっとしたら「テロリストの末裔」だったからかもしれない。
少なくとも近畿、東海、北陸圏では、相当数の者が一向一揆に参加したはずであり、誰もが先祖にいてもおかしくないはずだが、そうした記憶は殆ど失われているようだ。

浄土真宗だけでは無い。大坂の陣や島原の乱には全国からキリシタンが参戦している。特に大坂の陣では、明石全登(ジョアン・ジョスト)が十字架の幟を立ててキリシタン部隊を率いて信教の自由を求めて戦った。これについても、徳川家からすれば明石一派などは「テロリスト」でしかなかっただろうが、我々は明石の行動を否定できるだろうか。
自分たちの先祖のことを考えれば、容易に想像できそうなものなのに、現代の日本人には決定的に想像力が欠けているような気がしてならない。

【参考】
武士の風景・番外編四「ボランティアの日本的起源」 
叡山焼き討ちが意味するもの 
根切り 越前一揆無惨 
越前一揆無惨 内部分裂 
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2015年03月24日

異文化を理解するということ@−70年前の日本

自分の中でもまだ整理できていないのだが、つらつらと考えを述べたい。
イスラム国における蛮行や残虐行為をことさら強調する報道が多い。ロシアや中国に関する報道も同じで、西側の価値観で一方的に断罪する視点で書かれているものが大半を占めている。その原因には、自ら取材すること無く、米英系通信社の配信記事を訳して流用しているだけの記者が多いという問題がある。その一方で、根底には異文化や異なる価値観に対する理解と、自らの価値観を相対化させる能力に欠けるという問題があるようだ。

かつてソ連が存在した時代にも、西側的価値観からソ連を一方的に断罪し、「共産国との交渉など不可能」旨の言説がまかり通っていたが、当時は少数ながらもソ連に対してシンパシーを抱く勢力があり、これを評価する意見も存在した。もちろん、それらはマイナーな存在で、非難されることも多かったが、今日のように言説そのものまでは封じられなかった。ところが今日では、イスラム国やロシア(プーチン氏)のスタンスや考え方を解説しようとしただけで、「テロリストを擁護するのか」「わが国の国益に反する」などと発言そのものを封じようとする風潮が強まっている。これでは、どちらがテロリストなのか分からないし、「国益」という場合の「国」は何を指しているのか分からない。少なくとも自由と民主主義ではないだろう。

また、イスラムやアジアを侮蔑する風潮が強まると同時に、「日本はこんなに素晴らしい」「世界から尊敬される日本」式の自国礼賛が拡散しつつある。民族優越主義は人種・民族差別に直結すると同時に、優生思想と親和的だ。
戦前の日本は、「天皇の下に統合された優良種たる日本人が、アジアの劣等民族を管理・指導することで、初めて恒久平和が実現される」との思想に基づいて十五年戦争を主導した。その際のスローガンが「八紘一宇」だった。第二次近衛内閣が閣議決定した「基本国策要綱」には、
皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ

とあるが、現実には満州や中国に建設されたのは日本の傀儡国家であり、その実権は日本人の顧問が独占、「民族自立」や「植民地解放」とは程遠いものだった。自民党タカ派を代表する中曽根康弘ですら、1983年1月29日の参議院本会議において「不沈空母」発言を咎められ、
世界から孤立するということぐらい日本に危険なことはない。これは日本国民のあるいは政治家の意識の中で自分の国ばかり考えている、そういう独善性というものが背景にないだろうか。(中略)戦争前は八紘一宇ということで、日本は日本独自の地位を占めようという独善性を持った、日本だけが例外の国になり得ると思った、それが失敗のもとであった。

と弁解している。盧溝橋事件から上海事変を経て日華事変が勃発する際に、日本の世論を占めたのは、「暴支膺懲」つまり「暴虐なる支那を懲らしめろ!」であり、陸軍内では「中国軍は弱い。日本の一個連隊は向こうの十一個師団に相当する。二、三個師団送ってガツンと一発食らわせれば、蒋介石は頭を下げるだろう」などということがまことしやかに話されていた。さらに対米戦が始まる頃には、「鬼畜米英」がスローガンとなり、「アメリカ人は贅沢に慣れ、享楽的で軟弱な連中だから、一発ガツンとやってやれば、戦争なんてすぐに嫌になるに違いない」と言われた。ネトウヨの中国に対する言説と酷似している。

こうした風潮を憂いたのが岩波茂雄だった。彼は、日華事変の根底にあるのが日本人の対中侮蔑と優越思想であることを喝破し、これを啓蒙して客観的な中国像の確立を目指して発刊されたのが「岩波新書」だった。その第一シリーズは、1938年11月のクリスティー『奉天三十年』と津田左右吉『支那思想と日本』に始まった。日華事変勃発の翌年である。だが、奉天を訳した矢内原忠雄も津田左右吉も後に軍部の圧力で東大を追われている。
現実には、岩波の希望とは逆に支那蔑視や米英嫌悪が加速、さらに戦意高揚のため「蛮性の解放」が称揚された。1942年に徴兵検査を受けて陸軍に召集され、華北戦線に赴いた桑島節郎は回顧する。
満二十歳の徴兵検査を受ける年頃の若者たちは、これら帰還兵から、戦地での話をよく聞かされていた。それは「中国人を斬り殺した」とか「女を強姦した」といったたぐいの自慢話が多く、これを聞いた若者たちは「戦争というのはおもしろそうだな」「俺も早く戦争にいってみたいな」などと思うようになっていた。
桑島節郎『華北戦記』

時期は前後するが、当時の新聞も見てみよう。
右手に軍刀、左手に数珠「是皆一切空也!」と爆笑 部下兵士に戒名を与えて奮戦した住職部隊長 『福島民報』(1937.11.14)

百人斬り「超記録」−向井106 105野田 両少尉さらに延長戦 『東京日日新聞』(1937.12.13)

袈裟懸け・唐竹割り−突っ伏せ−唸れる銘刀の凄み 三百七十四人を斬った 戦場の花形・鬼少尉 薩摩男子の誇り 今度は陸の荒鷲群へ その途次に郷里へ凱旋 『鹿児島新聞』(1938.3.21)

一番目の記事のケースは、従軍僧ではなく、寺の住職が士官の中隊長となって従軍し、軍刀で軍民を殺戮したものだが、それが「郷土の英雄」として称賛されている。もちろん釈迦の教えでは、人に限らず殺生は禁じられており、それどころか魚肉を口にすることも禁忌だ。二番目のケースは、上海から南京に至る進撃途上で互いを良く知る二人の士官が殺戮競争を始めた「百人斬り」で、今日では歴史修正主義者たちから「記者のねつ造」との批判を浴びているが、最高裁判決で事実認定されている。その真相がどうであれ、少なくとも日本国内でかような報道がなされ、読者国民が熱狂し、女性がこぞってファンレターを書いた事実があることは間違いない。
また、東京日日新聞の浅海一男記者の回想によれば、丹陽にある歩兵学校を日本軍が制圧し、校庭に足を踏み入れたところ、国府軍の制服を着た首無しの死体が数十も放置されていたという。状況から考えて、捕虜の首を斬って回ったものと見て良い。イスラム国のジハーディストが行っている斬首は、70〜80年前の日本人も普通に行っていた。
さらに言えば、中国では伝統的に「霊魂は骨に宿る」と考えられており、斬首によって頭部が分断されることは即ち輪廻が断ち切られ、子孫の世代に人として再生することができなくなることを意味した。その意味で、昭和の軍人による斬首行為は当時の中国人にとって、現代の我々が見るジハーディストによる斬首よりもはるかに「残虐」だったのだ。

中国戦線における日本軍の蛮行の数々(住民殺害、捕虜の拷問と殺戮、住居放火、強姦、生物・化学兵器の使用)を知れば、我々の祖父母の代には現代のイスラム国をはるかに上回る質・量の蛮行がなされていたことが分かるはずだ。少なくとも、それを認識した上で、その蛮行を非難すべきだろう。自らの悪行を棚に上げて他者を非難するのは慎まねばならない。
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2015年03月15日

華北戦記 中国であったほんとうの戦争

『華北戦記 中国であったほんとうの戦争』 桑島節郎 朝日文庫(1997)

スレッジ『ペリリュー・沖縄戦記』があまりにも名著過ぎて戦場回顧録に対する評価基準がすっかり高くなってしまったのだが、本作は日本の戦場回顧録の中では最高水準の一つに挙げられそうだ。そもそも日中戦争の従軍記録は市販されているものではあまり多くなく、客観的に書かれているものはさらに少ない。特に後方のゲリラ戦(治安戦)は、日本軍による掠奪や強姦は当然のことであり、それどころか化学兵器(毒ガス)や生物兵器(コレラ、ペスト)まで普通に使われていただけに、色々な意味で証言が少なくなっている。かと言って、戦争犯罪の側面を強調すれば、従軍記録としての客観性が失われてしまう。

本書は昭和17年に召集されて、衛生兵として終戦まで山東省を中心に八路軍と戦った筆者の回顧録だが、隊内の雰囲気や人間関係、戦場の実相、犯罪行為などのバランスが良くとれており、非常に信頼性の高い一冊になっている。筆者はどうやら高等教育を受けていないようで、さらに兵卒の出身であるが、向学心が高く本書の執筆に際しては当時の軍事情勢を市井で可能な範囲で綿密に調べ上げており、単なる従軍記録に終わっていないところも高く評価できる。
ふつう八路軍の跳梁する中をトラックで連絡に来るには、少なくとも二個小隊の兵力が必要であった。

日中戦争八年間で治安が最もよかった時期といわれている昭和17年でさえも、山東半島における未治安区(敵支配地域)は85%に達していた。二年後の昭和19年にはこの比率は95%にもなる。

おいおい、現代のイラクやアフガニスタンと全く同じじゃねぇか。何で先人の知見が生かされないかなぁ・・・・・・なお、1938年半ばで山東省90余県のうち日本側が県庁を派遣できたのは20余県のみで、残りは中国側(主に共産党)が支配しており、日本側は手出しできなかった。
中国戦線帰りの日本軍人の多くが「オレたちは負けていない(海軍が勝手に負けただけだ)」式の回顧をしているが、要は中国側がゲリラ戦を行って旧来式の主力決戦を回避しただけのことだった。しかも、本書を読む限り、1944年後半以降は八路軍も積極的に攻勢に出ており、岡本喜八『血と砂』の演出が過剰で無かったことを示している。

捕虜殺害はごく当然のことで、捕虜を対象にした新兵による「刺殺訓練」がどこの部隊でも行われ、誰も疑問にすら思わなかったようだ。本書ではあまり出てこないが、士官が日本刀を使って住民や捕虜を斬首することもままあった(本書では陸士上がりの士官が非常に少ないためだろう)。
ゲリラ討伐や巡回で村に入れば掠奪、強姦、さらに放火して敵の利用を防ぐと共に自らの犯罪行為の証拠隠滅を図るが、これらは軍紀の弛緩に起因するものではなく、軍指導部の方針に基づくものだったことがよく分かる。もっとも、多くの場合、日本軍の行動は工作員や住民協力者によって敵に筒抜けで、中国側の「空室清野」作戦により、日本軍が来襲した村は「スッカラカン」だったらしい。「ジェネレーション・ウォー」でも描写があったが、捕虜や住民に地雷原の上を歩かせることもままあったようだ。今日の我々は、イスラム国のジハーディストを「残虐極まりない」などと言うが、何のことはない自分たちの祖父たちは彼ら以上に「残虐」だったのだ。
満二十歳の徴兵検査を受ける年頃の若者たちは、これら帰還兵から、戦地での話をよく聞かされていた。それは「中国人を斬り殺した」とか「女を強姦した」といったたぐいの自慢話が多く、これを聞いた若者たちは「戦争というのはおもしろそうだな」「俺も早く戦争にいってみたいな」などと思うようになっていた。

なお、日中戦争における山東省住民の死傷者は376万6千人に及び、そのうち死者は89万5千人を記録している。この数字だけ見ても、日本人が他国のことに口を挟むのは慎重を期すべきだろう。

また、日中戦争後半は陸士出の正規士官が不足し、幹部候補生と予備役再招集で補っていた現実が深刻に描かれており、興味深い。中隊(士官の配置定員5)に1人も陸士上がりがいないことなどごく普通のことだったようだ。
著者は衛生兵だったが、普通に歩哨に立ち、戦闘にも参加しており、一般歩兵と同じ任務を負わされた上に衛生活動もさせられ大変だった旨を告白している。歴史修正主義者たちは何かにつけて「○○兵が〜〜なことをするわけがない。任務外だ」などと反論するのが常になっているが、全く実態を表していないことが分かる。

80年までに我々の祖父たちが非対称戦争(=現代の対テロ戦争)に従事していたことを認識するためにも、本書はもっと広く読まれるべきであり、強く薦めたい一冊である。本書が絶版になっていること自体、歴史修正主義に荷担しているようなものだろう。

【参考】
NHK戦争証言アーカイブス「毒ガス兵器を壕に投入」
NHK戦争証言アーカイブス「捕虜に行われた拷問」
posted by ケン at 09:15| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月19日

僧侶と政治

ルイス・フロイスはその著書で安国寺恵瓊のような「外交僧」に触れて次のように述べている。
我々の間では、どのような場合でも修道僧が王侯や領主の伝令となって行くことは無い。日本の殿は僧侶を伝令として、また戦争の武略として使っている。
『ヨーロッパ文化と日本文化』

これは、日本の戦国武将たちが自陣に僧侶を置き、時として現場交渉や外交交渉に使っていたことを指す。中には本願寺顕如や筒井順慶のような大名化したものもいれば、太原雪斎や安国寺恵瓊、あるいは南光坊天海のような大名の顧問を担ったものもいるので、「戦闘僧伽」と言っても非常にバラエティに富んでいた。そもそも戦国大名からして、例えば徳川家康は「厭離穢土欣求浄土」という宗教色丸出しの旗印を掲げていた。
一般的には、中世にあっては洋の東西を問わず「聖職者=知識人」であったがために、軍事行動に僧侶が同行するのは、これも洋の東西を問わず常識だったはずだ。そもそも中世というのは、戦国武将だろうが、欧州貴族だろうが、ロクに文字も書けないものがいくらでもいる時代で、例えばロシアのピョートル大帝(すでに近世だが)ですら酷い悪筆で、その命令書のスペルは間違いだらけだった。故に敵に文書1つ出すにしても、僧侶に代筆してもらう必要があった。また、当時の医療も基本的に僧侶の独占技術で、軍医の役割も果たしていた(ただし内科のみで外科は卑職扱いだったようだ)。従軍僧として、士気を鼓舞し、戦死者を弔うのは当然だ。そして、共通語としての日本語が確立しておらず、地方語が強い当時にあって、高いコミュニケーション能力と文章作成能力、そして幅広い人脈を有する僧侶は地域をまたぐ交渉に不可欠の存在だった。さらに言えば、僧侶は使者として派遣されたときに比較的殺害されにくかった(縁起が悪い)ことも理由として想像される。

繰り返しになるが、従軍僧の価値と役割は日本だろうが、欧州だろうが同じはずで、ヨーロッパ貴族の軍隊に聖職者が同行していないはずはないのだが、フロイスの意図するところは今となっては分からない。単に「聖職者を使い走りにするとはケシカラン」くらいの意味だった可能性も否めないが・・・・・・

実際、ヨーロッパの政治外交は聖職者を外しては語れない。例えば同時代のドイツ三十年戦争を見た場合、フランスのリシュリューとマザランの両宰相は枢機卿で、特にリシュリューは自身がカトリックの枢機卿ながら、プロテスタント諸侯に対する支援でフランスの国論をまとめ上げ、「外交における政教分離」の原則を確立した。故に『三銃士』では悪者にされてしまうワケだが。
また、スペインのインファンテ卿(フェルナンド・デ・アウストリア)は、王弟(フェリペ3世の実子)ながら出家して枢機卿を担っていたが、厄介払いのようにスペイン領ネーデルラントに派遣され、少ない兵と資金に悩まされながらもオランダ市民軍を圧倒し続けた。三十年戦争期の名将の一人である。
三十年戦争より少し前になるが、イングランドのヘンリー8世の宰相を務めたウルジーも枢機卿であったし、時代はずっと下るがフランス革命・ナポレオン期に重要な役割を果たしたシェイエスとタレーランも聖職者だった。
逆に日本では、太原雪斎も南光坊天海も大名家の正式な役職に就いていたことを示す資料はなく、どうやら「あくまでも顧問・相談役」という立場だったようだ。また、最新の研究によれば、安国寺恵瓊が領地を有する戦国大名であったかについては微妙だという。

東西同じだが、出家先で出世するためにはやはり貴族の後援や血筋の良さが必要で、寺や教会・修道院で学ぶためにも一定の資金が必要であったことから、やはり貴族の子弟が圧倒的に有利だった。
義務教育が普及し、政教分離が進んで、寺院や教会の影響力が低下すると、僧侶の社会的地位も低下していった。今日では、ヨーロッパでは(イタリアやスペインですら)キリスト教が政治に与える影響は極限まで低下している一方、日本ではセクト系宗教が支援するKM党や神道系の政治団体であるN本会議などが大きな影響力を保持している。その意味では、日本の近代化はいまだ途上にあると言えるのかもしれない。

【参考】
叡山焼き討ちが意味するもの 
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2015年02月15日

強襲は下の下なり

古来城攻めは「和睦(降伏開城)が上策、内応が中策、強襲は下策」と言われてきた。日露戦争の開戦当初、児玉総参謀長が「旅順は攻めないで包囲封鎖するに止める」と言ったのは武士として当然のことだった。児玉は戊辰戦争で初陣を果たし、西南戦争では熊本鎮台の参謀として籠城戦に参加しており、当時「日本最強」と考えられた薩軍が熊本城を落とせずに戦機を逸したことを自覚していた。
東照大権現様は、城攻めの愚かしさを十分承知していたため、生涯の内数えるほどしか強襲を選択していない。大坂戦役の時も、自らが愚劣な選択をしていることを自覚していたようだ。
ところが、現代にあっては武士道を称賛する者ほど「和睦はあり得ない」「強襲あるのみ」といった主張をしている。どうにもわが一族の家伝とは大きな隔たりがあるようだ。
posted by ケン at 20:03| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする