2015年03月24日

異文化を理解するということ@−70年前の日本

自分の中でもまだ整理できていないのだが、つらつらと考えを述べたい。
イスラム国における蛮行や残虐行為をことさら強調する報道が多い。ロシアや中国に関する報道も同じで、西側の価値観で一方的に断罪する視点で書かれているものが大半を占めている。その原因には、自ら取材すること無く、米英系通信社の配信記事を訳して流用しているだけの記者が多いという問題がある。その一方で、根底には異文化や異なる価値観に対する理解と、自らの価値観を相対化させる能力に欠けるという問題があるようだ。

かつてソ連が存在した時代にも、西側的価値観からソ連を一方的に断罪し、「共産国との交渉など不可能」旨の言説がまかり通っていたが、当時は少数ながらもソ連に対してシンパシーを抱く勢力があり、これを評価する意見も存在した。もちろん、それらはマイナーな存在で、非難されることも多かったが、今日のように言説そのものまでは封じられなかった。ところが今日では、イスラム国やロシア(プーチン氏)のスタンスや考え方を解説しようとしただけで、「テロリストを擁護するのか」「わが国の国益に反する」などと発言そのものを封じようとする風潮が強まっている。これでは、どちらがテロリストなのか分からないし、「国益」という場合の「国」は何を指しているのか分からない。少なくとも自由と民主主義ではないだろう。

また、イスラムやアジアを侮蔑する風潮が強まると同時に、「日本はこんなに素晴らしい」「世界から尊敬される日本」式の自国礼賛が拡散しつつある。民族優越主義は人種・民族差別に直結すると同時に、優生思想と親和的だ。
戦前の日本は、「天皇の下に統合された優良種たる日本人が、アジアの劣等民族を管理・指導することで、初めて恒久平和が実現される」との思想に基づいて十五年戦争を主導した。その際のスローガンが「八紘一宇」だった。第二次近衛内閣が閣議決定した「基本国策要綱」には、
皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ

とあるが、現実には満州や中国に建設されたのは日本の傀儡国家であり、その実権は日本人の顧問が独占、「民族自立」や「植民地解放」とは程遠いものだった。自民党タカ派を代表する中曽根康弘ですら、1983年1月29日の参議院本会議において「不沈空母」発言を咎められ、
世界から孤立するということぐらい日本に危険なことはない。これは日本国民のあるいは政治家の意識の中で自分の国ばかり考えている、そういう独善性というものが背景にないだろうか。(中略)戦争前は八紘一宇ということで、日本は日本独自の地位を占めようという独善性を持った、日本だけが例外の国になり得ると思った、それが失敗のもとであった。

と弁解している。盧溝橋事件から上海事変を経て日華事変が勃発する際に、日本の世論を占めたのは、「暴支膺懲」つまり「暴虐なる支那を懲らしめろ!」であり、陸軍内では「中国軍は弱い。日本の一個連隊は向こうの十一個師団に相当する。二、三個師団送ってガツンと一発食らわせれば、蒋介石は頭を下げるだろう」などということがまことしやかに話されていた。さらに対米戦が始まる頃には、「鬼畜米英」がスローガンとなり、「アメリカ人は贅沢に慣れ、享楽的で軟弱な連中だから、一発ガツンとやってやれば、戦争なんてすぐに嫌になるに違いない」と言われた。ネトウヨの中国に対する言説と酷似している。

こうした風潮を憂いたのが岩波茂雄だった。彼は、日華事変の根底にあるのが日本人の対中侮蔑と優越思想であることを喝破し、これを啓蒙して客観的な中国像の確立を目指して発刊されたのが「岩波新書」だった。その第一シリーズは、1938年11月のクリスティー『奉天三十年』と津田左右吉『支那思想と日本』に始まった。日華事変勃発の翌年である。だが、奉天を訳した矢内原忠雄も津田左右吉も後に軍部の圧力で東大を追われている。
現実には、岩波の希望とは逆に支那蔑視や米英嫌悪が加速、さらに戦意高揚のため「蛮性の解放」が称揚された。1942年に徴兵検査を受けて陸軍に召集され、華北戦線に赴いた桑島節郎は回顧する。
満二十歳の徴兵検査を受ける年頃の若者たちは、これら帰還兵から、戦地での話をよく聞かされていた。それは「中国人を斬り殺した」とか「女を強姦した」といったたぐいの自慢話が多く、これを聞いた若者たちは「戦争というのはおもしろそうだな」「俺も早く戦争にいってみたいな」などと思うようになっていた。
桑島節郎『華北戦記』

時期は前後するが、当時の新聞も見てみよう。
右手に軍刀、左手に数珠「是皆一切空也!」と爆笑 部下兵士に戒名を与えて奮戦した住職部隊長 『福島民報』(1937.11.14)

百人斬り「超記録」−向井106 105野田 両少尉さらに延長戦 『東京日日新聞』(1937.12.13)

袈裟懸け・唐竹割り−突っ伏せ−唸れる銘刀の凄み 三百七十四人を斬った 戦場の花形・鬼少尉 薩摩男子の誇り 今度は陸の荒鷲群へ その途次に郷里へ凱旋 『鹿児島新聞』(1938.3.21)

一番目の記事のケースは、従軍僧ではなく、寺の住職が士官の中隊長となって従軍し、軍刀で軍民を殺戮したものだが、それが「郷土の英雄」として称賛されている。もちろん釈迦の教えでは、人に限らず殺生は禁じられており、それどころか魚肉を口にすることも禁忌だ。二番目のケースは、上海から南京に至る進撃途上で互いを良く知る二人の士官が殺戮競争を始めた「百人斬り」で、今日では歴史修正主義者たちから「記者のねつ造」との批判を浴びているが、最高裁判決で事実認定されている。その真相がどうであれ、少なくとも日本国内でかような報道がなされ、読者国民が熱狂し、女性がこぞってファンレターを書いた事実があることは間違いない。
また、東京日日新聞の浅海一男記者の回想によれば、丹陽にある歩兵学校を日本軍が制圧し、校庭に足を踏み入れたところ、国府軍の制服を着た首無しの死体が数十も放置されていたという。状況から考えて、捕虜の首を斬って回ったものと見て良い。イスラム国のジハーディストが行っている斬首は、70〜80年前の日本人も普通に行っていた。
さらに言えば、中国では伝統的に「霊魂は骨に宿る」と考えられており、斬首によって頭部が分断されることは即ち輪廻が断ち切られ、子孫の世代に人として再生することができなくなることを意味した。その意味で、昭和の軍人による斬首行為は当時の中国人にとって、現代の我々が見るジハーディストによる斬首よりもはるかに「残虐」だったのだ。

中国戦線における日本軍の蛮行の数々(住民殺害、捕虜の拷問と殺戮、住居放火、強姦、生物・化学兵器の使用)を知れば、我々の祖父母の代には現代のイスラム国をはるかに上回る質・量の蛮行がなされていたことが分かるはずだ。少なくとも、それを認識した上で、その蛮行を非難すべきだろう。自らの悪行を棚に上げて他者を非難するのは慎まねばならない。
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2015年03月15日

華北戦記 中国であったほんとうの戦争

『華北戦記 中国であったほんとうの戦争』 桑島節郎 朝日文庫(1997)

スレッジ『ペリリュー・沖縄戦記』があまりにも名著過ぎて戦場回顧録に対する評価基準がすっかり高くなってしまったのだが、本作は日本の戦場回顧録の中では最高水準の一つに挙げられそうだ。そもそも日中戦争の従軍記録は市販されているものではあまり多くなく、客観的に書かれているものはさらに少ない。特に後方のゲリラ戦(治安戦)は、日本軍による掠奪や強姦は当然のことであり、それどころか化学兵器(毒ガス)や生物兵器(コレラ、ペスト)まで普通に使われていただけに、色々な意味で証言が少なくなっている。かと言って、戦争犯罪の側面を強調すれば、従軍記録としての客観性が失われてしまう。

本書は昭和17年に召集されて、衛生兵として終戦まで山東省を中心に八路軍と戦った筆者の回顧録だが、隊内の雰囲気や人間関係、戦場の実相、犯罪行為などのバランスが良くとれており、非常に信頼性の高い一冊になっている。筆者はどうやら高等教育を受けていないようで、さらに兵卒の出身であるが、向学心が高く本書の執筆に際しては当時の軍事情勢を市井で可能な範囲で綿密に調べ上げており、単なる従軍記録に終わっていないところも高く評価できる。
ふつう八路軍の跳梁する中をトラックで連絡に来るには、少なくとも二個小隊の兵力が必要であった。

日中戦争八年間で治安が最もよかった時期といわれている昭和17年でさえも、山東半島における未治安区(敵支配地域)は85%に達していた。二年後の昭和19年にはこの比率は95%にもなる。

おいおい、現代のイラクやアフガニスタンと全く同じじゃねぇか。何で先人の知見が生かされないかなぁ・・・・・・なお、1938年半ばで山東省90余県のうち日本側が県庁を派遣できたのは20余県のみで、残りは中国側(主に共産党)が支配しており、日本側は手出しできなかった。
中国戦線帰りの日本軍人の多くが「オレたちは負けていない(海軍が勝手に負けただけだ)」式の回顧をしているが、要は中国側がゲリラ戦を行って旧来式の主力決戦を回避しただけのことだった。しかも、本書を読む限り、1944年後半以降は八路軍も積極的に攻勢に出ており、岡本喜八『血と砂』の演出が過剰で無かったことを示している。

捕虜殺害はごく当然のことで、捕虜を対象にした新兵による「刺殺訓練」がどこの部隊でも行われ、誰も疑問にすら思わなかったようだ。本書ではあまり出てこないが、士官が日本刀を使って住民や捕虜を斬首することもままあった(本書では陸士上がりの士官が非常に少ないためだろう)。
ゲリラ討伐や巡回で村に入れば掠奪、強姦、さらに放火して敵の利用を防ぐと共に自らの犯罪行為の証拠隠滅を図るが、これらは軍紀の弛緩に起因するものではなく、軍指導部の方針に基づくものだったことがよく分かる。もっとも、多くの場合、日本軍の行動は工作員や住民協力者によって敵に筒抜けで、中国側の「空室清野」作戦により、日本軍が来襲した村は「スッカラカン」だったらしい。「ジェネレーション・ウォー」でも描写があったが、捕虜や住民に地雷原の上を歩かせることもままあったようだ。今日の我々は、イスラム国のジハーディストを「残虐極まりない」などと言うが、何のことはない自分たちの祖父たちは彼ら以上に「残虐」だったのだ。
満二十歳の徴兵検査を受ける年頃の若者たちは、これら帰還兵から、戦地での話をよく聞かされていた。それは「中国人を斬り殺した」とか「女を強姦した」といったたぐいの自慢話が多く、これを聞いた若者たちは「戦争というのはおもしろそうだな」「俺も早く戦争にいってみたいな」などと思うようになっていた。

なお、日中戦争における山東省住民の死傷者は376万6千人に及び、そのうち死者は89万5千人を記録している。この数字だけ見ても、日本人が他国のことに口を挟むのは慎重を期すべきだろう。

また、日中戦争後半は陸士出の正規士官が不足し、幹部候補生と予備役再招集で補っていた現実が深刻に描かれており、興味深い。中隊(士官の配置定員5)に1人も陸士上がりがいないことなどごく普通のことだったようだ。
著者は衛生兵だったが、普通に歩哨に立ち、戦闘にも参加しており、一般歩兵と同じ任務を負わされた上に衛生活動もさせられ大変だった旨を告白している。歴史修正主義者たちは何かにつけて「○○兵が〜〜なことをするわけがない。任務外だ」などと反論するのが常になっているが、全く実態を表していないことが分かる。

80年までに我々の祖父たちが非対称戦争(=現代の対テロ戦争)に従事していたことを認識するためにも、本書はもっと広く読まれるべきであり、強く薦めたい一冊である。本書が絶版になっていること自体、歴史修正主義に荷担しているようなものだろう。

【参考】
NHK戦争証言アーカイブス「毒ガス兵器を壕に投入」
NHK戦争証言アーカイブス「捕虜に行われた拷問」
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2015年02月19日

僧侶と政治

ルイス・フロイスはその著書で安国寺恵瓊のような「外交僧」に触れて次のように述べている。
我々の間では、どのような場合でも修道僧が王侯や領主の伝令となって行くことは無い。日本の殿は僧侶を伝令として、また戦争の武略として使っている。
『ヨーロッパ文化と日本文化』

これは、日本の戦国武将たちが自陣に僧侶を置き、時として現場交渉や外交交渉に使っていたことを指す。中には本願寺顕如や筒井順慶のような大名化したものもいれば、太原雪斎や安国寺恵瓊、あるいは南光坊天海のような大名の顧問を担ったものもいるので、「戦闘僧伽」と言っても非常にバラエティに富んでいた。そもそも戦国大名からして、例えば徳川家康は「厭離穢土欣求浄土」という宗教色丸出しの旗印を掲げていた。
一般的には、中世にあっては洋の東西を問わず「聖職者=知識人」であったがために、軍事行動に僧侶が同行するのは、これも洋の東西を問わず常識だったはずだ。そもそも中世というのは、戦国武将だろうが、欧州貴族だろうが、ロクに文字も書けないものがいくらでもいる時代で、例えばロシアのピョートル大帝(すでに近世だが)ですら酷い悪筆で、その命令書のスペルは間違いだらけだった。故に敵に文書1つ出すにしても、僧侶に代筆してもらう必要があった。また、当時の医療も基本的に僧侶の独占技術で、軍医の役割も果たしていた(ただし内科のみで外科は卑職扱いだったようだ)。従軍僧として、士気を鼓舞し、戦死者を弔うのは当然だ。そして、共通語としての日本語が確立しておらず、地方語が強い当時にあって、高いコミュニケーション能力と文章作成能力、そして幅広い人脈を有する僧侶は地域をまたぐ交渉に不可欠の存在だった。さらに言えば、僧侶は使者として派遣されたときに比較的殺害されにくかった(縁起が悪い)ことも理由として想像される。

繰り返しになるが、従軍僧の価値と役割は日本だろうが、欧州だろうが同じはずで、ヨーロッパ貴族の軍隊に聖職者が同行していないはずはないのだが、フロイスの意図するところは今となっては分からない。単に「聖職者を使い走りにするとはケシカラン」くらいの意味だった可能性も否めないが・・・・・・

実際、ヨーロッパの政治外交は聖職者を外しては語れない。例えば同時代のドイツ三十年戦争を見た場合、フランスのリシュリューとマザランの両宰相は枢機卿で、特にリシュリューは自身がカトリックの枢機卿ながら、プロテスタント諸侯に対する支援でフランスの国論をまとめ上げ、「外交における政教分離」の原則を確立した。故に『三銃士』では悪者にされてしまうワケだが。
また、スペインのインファンテ卿(フェルナンド・デ・アウストリア)は、王弟(フェリペ3世の実子)ながら出家して枢機卿を担っていたが、厄介払いのようにスペイン領ネーデルラントに派遣され、少ない兵と資金に悩まされながらもオランダ市民軍を圧倒し続けた。三十年戦争期の名将の一人である。
三十年戦争より少し前になるが、イングランドのヘンリー8世の宰相を務めたウルジーも枢機卿であったし、時代はずっと下るがフランス革命・ナポレオン期に重要な役割を果たしたシェイエスとタレーランも聖職者だった。
逆に日本では、太原雪斎も南光坊天海も大名家の正式な役職に就いていたことを示す資料はなく、どうやら「あくまでも顧問・相談役」という立場だったようだ。また、最新の研究によれば、安国寺恵瓊が領地を有する戦国大名であったかについては微妙だという。

東西同じだが、出家先で出世するためにはやはり貴族の後援や血筋の良さが必要で、寺や教会・修道院で学ぶためにも一定の資金が必要であったことから、やはり貴族の子弟が圧倒的に有利だった。
義務教育が普及し、政教分離が進んで、寺院や教会の影響力が低下すると、僧侶の社会的地位も低下していった。今日では、ヨーロッパでは(イタリアやスペインですら)キリスト教が政治に与える影響は極限まで低下している一方、日本ではセクト系宗教が支援するKM党や神道系の政治団体であるN本会議などが大きな影響力を保持している。その意味では、日本の近代化はいまだ途上にあると言えるのかもしれない。

【参考】
叡山焼き討ちが意味するもの 
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2015年02月15日

強襲は下の下なり

古来城攻めは「和睦(降伏開城)が上策、内応が中策、強襲は下策」と言われてきた。日露戦争の開戦当初、児玉総参謀長が「旅順は攻めないで包囲封鎖するに止める」と言ったのは武士として当然のことだった。児玉は戊辰戦争で初陣を果たし、西南戦争では熊本鎮台の参謀として籠城戦に参加しており、当時「日本最強」と考えられた薩軍が熊本城を落とせずに戦機を逸したことを自覚していた。
東照大権現様は、城攻めの愚かしさを十分承知していたため、生涯の内数えるほどしか強襲を選択していない。大坂戦役の時も、自らが愚劣な選択をしていることを自覚していたようだ。
ところが、現代にあっては武士道を称賛する者ほど「和睦はあり得ない」「強襲あるのみ」といった主張をしている。どうにもわが一族の家伝とは大きな隔たりがあるようだ。
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2015年01月14日

杉工作の証拠発掘

【旧日本軍の偽札用紙見つかる 民間巻き込んだ製造裏付け】
 静岡市の製紙工場で、孫文などのすかしが入った特殊な用紙が見つかった。明治大学の研究者が確認し、旧陸軍登戸研究所の発注で中華民国の紙幣を偽造するために作った用紙と判断した。戦前に特殊兵器を開発していた同研究所では偽札も作っていたという証言があり、民間企業を巻き込んで偽札が製造されていた実態が浮かび上がった。
 明治大学平和教育登戸研究所資料館(川崎市多摩区)が昨年7月、「巴川(ともえがわ)製紙所」(本社・東京)の静岡市駿河区にある工場で確認。約30センチ四方279枚がつづられていた。資料館によると、用紙には中華民国建国の父・孫文の横顔のすかしがあり、絹の繊維がすき込まれていた。当時の中華民国で広く流通していた5円札の特徴だった。北京の歴史的建造物「天壇」のすかしが入った紙もつづられており、これも当時の別の5円札の特徴という。すかしの出来や絹の繊維の密度などを点検した形跡もあった。記されていた文字から、用紙は1940年8月〜41年7月に作られたと資料館はみている。偽札作りの責任者だった将校は、戦後に出した本で「偽札作りは39年に始まり、40億円分作った」と記していた。
(朝日新聞、1月6日)

朝日新聞がこの手のニュースを載せなくなるのは時間の問題であろう。
正式名「対支経済謀略実施計画」、通称「杉工作」と呼ばれる謀略戦の証拠だ。偽札の実物(変な言い方だが)は、上記の明治大学平和教育登戸研究所資料館にあり、私も一度は見に行かねばと思っていたのだが、最近はすっかり忘れていた。
本記事の価値は、陸軍の登戸研究所だけでなく民間にも偽札の製作の一端が委託されていたことを明らかにした点にある。

日華事変・日中戦争当時、中国大陸では国民政府の通貨である「法幣」と、共産党が支配地域で使用した「辺区券」、そして日本軍が発行した軍票、日本の傀儡政権(汪兆銘政権)が発行した「聯合準備銀行券」、さらに各地の軍閥が独自通貨を発行していたため、中世並みの多通貨併用状態にあった。だが、実際には法幣の信頼度が最も高く、流通していた。戦役が長期化し、泥沼化した戦局を打開する手段の一つとして陸軍が考え出したのが、「偽造貨幣を流通させることで国民党政府に対する信頼を貶める」という謀略だった。
1939年に偽札の製作が開始されたものの当初は失敗の連続だったという。法幣は、英銀行家の指導により、英米の専門の印刷会社で当時の最高度の技術でつくられたものになっており、日本の既存の技術では精度の粗いものしかできなかった。そのため、ドイツから専門の印刷機を導入するなどして1940年夏にようやく完成させた。当時者の回顧によれば、自国の内閣印刷局から技術を盗み取ったこともあるという。また、印刷したての新券を使用済みらしく擬装するために、登戸研究所近辺の女子高生が採用されていた。

偽札の流通は、上海にある「松機関」が担当、上海マフィアと連携して流通に努めた。特に1941年12月に日本軍が連合軍に宣戦布告して英領香港を占領した際、英国製の高度な印刷機を押収、偽札の精度がさらに上がり、国民党の関係者にすら判別がつかないものとなって、流通に拍車がかかった。その総額は40億円とも言われるが、日華事変が勃発した1937年の軍事費が33億円であることを考えれば、その巨額ぶりが分かるだろう。
日本側は、軍票と聯銀券と偽札を利用して法幣の回収に努めるが、重慶政府は英米からの借款で対応した。戦争の長期化と国民党政府の腐敗、そして重慶政府が法幣を際限なく刷り続けた結果、インフレが激化していった。1937年に総発行額14億元だった法幣が、45年の終戦時には5569億元になっていた。
結果的には、陸軍の偽札はスーパーインフレの大海の中に埋もれてしまった格好になるが、その後の国共内戦で国民党政府が共産党軍に敗北する一因にはなったのかもしれない。

これも右派が言う「聖戦」の一側面である。

【参考】
『陸軍贋幣作戦―計画・実行者が明かす日中戦秘話』 山本憲蔵 現代史出版界(1984)
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2014年12月11日

仮説:公職追放を考える

安倍一派を始めとする右派の反動政策と戦後デモクラシー否定の動きが加速する一方で、同じ二次大戦の敗戦国であるドイツやイタリアでは「ファッショ復活」などという話は聞いたことがない。また、日本では左翼政党が壊滅寸前に追い込まれているのに対して、独伊では政権党を担えるだけの左翼政党が健在である。その要因は数多く挙げられるのだろうが、一つには戦後の「公職追放」が日本では非常に中途半端に終わり、戦争責任追及や「脱ファッショ・脱ミリタリズム」が不十分だったことがあるのではないかというのが私の仮説だ。

日本における公職追放は、まず1945年10月にまず警察・特高関係者6千人、次いで教職員7千人に対して、GHQから日本政府に対して追放の指示がなされた。これは、東久邇内閣が共産党員を始めとする政治犯の釈放や特高警察の廃止に否定的で、民主化政策に対しても非協力的であったことに対して、GHQが指揮権を発動したような形だった。その影響で東久邇内閣が瓦解し、より協力的な幣原内閣が成立するものの、これも民主的選挙を経て成立した内閣ではなく、戦前型の超然内閣であったため、GHQの憂慮するところだった。
結果、占領軍の監視下で厳密な民主的選挙を行い、軍国主義者や国家主義者を排除した議会、次いで議会で選出された内閣をつくらなければならない、という判断に傾いていった。そこでGS(民政局)とCIS(諜報部)を中心に粛清計画が練られ、翌46年1月4日の追放指令となった。これは、全く協力の意思を見せない日本政府に対して、GHQ指令という形を取らざるを得なかった結果だった。
例えば、日本政府内部で国会議員の追放対象者を検討したところ、該当者はわずか9名(衆議院定数466)という回答になり、GHQ側を大いに失望させている。そのため「大政翼賛会推薦」という基準を新たに提示、それでようやく現行議会(帝国議会衆議院)の8割を網羅することになって、GHQを納得させている。だが、その新基準は今度は、鳩山一郎や西尾末広といった非推薦の軍国主義的議員や、翼賛選挙に立候補しなかった浅沼稲二郎のようなものを粛清対象から外してしまうという新たな問題を生じさせ、こうした連鎖が公職追放の公正性や適正性を蝕んでいった。

A.戦争犯罪人
B.陸海軍の職業軍人
C.超国家主義団体等の有力分子
D.大政翼賛会等の政治団体の有力指導者
E.海外の金融機関や開発組織の役員
F.満州・台湾・朝鮮等の占領地の行政長官
G.その他の軍国主義者・超国家主義者


この基準に従って、「公職審査委員会」が設置され、戦後初の民主的選挙の立候補資格について審査がなされた。例えば、民政党の流れを汲む進歩党では結党時274人のうち資格審査を通ったのはわずか14人に過ぎず、社会党ですら17人のうち10人しか通過しなかった。それでもGHQ側は不満で、「当選後でもGHQが再審査することがある」という声明を出すほどだった。

1946年4月10日、戦後初の衆議院選挙が行われ、日本史上初めて女性の参政権が行使された。だが、全464議席のうち、自由党140、進歩党94、社会党93という具合で保守政党が過半数を占め、GHQを失望させた。この選挙で鳩山一郎・自由党総裁が「反共戦線」の構築を掲げ、それが国民的支持を受けたことも、GHQのリベラル派からすると「ファッショ」にしか見えなかった。結果、組閣を進めていた鳩山に対して、GHQが直接「公職追放指令」を下す事態に発展、吉田茂内閣が成立するも、公職追放のダブルスタンダードの問題が顕在化した。

興味深いのは、当時一部のGHQの内情に通じる者以外、大多数が「大政翼賛会非推薦で、リベラリストの鳩山氏が追放されるわけが無い」「鳩山氏が追放されるなら皆追放対象だ」くらいに考えていたことだ。だが、現実の鳩山は、例えば1930年の統帥権干犯問題では軍縮を主張する濱口内閣を攻撃、さらに濱口辞任後に成立した若槻内閣を軍部と共謀して倒閣を図り、満州事変に際しても軍部に同調して若槻内閣の「弱腰」を非難している。また、滝川事件に際しては、文部大臣として辞職を拒否する滝川を大臣権限で休職処分にしている。鳩山は少なくとも本人の意識の上では自由主義者だったかもしれないが、現実の政治行動としてミリタリズムに積極的に協力し、戦前期の限られた自由と議会政治をも葬り去る一因をなしたことは疑いようがない。「東条内閣打倒の一役を担った」という肯定的評価もあるが、それは戦況が不利になったことを受けて、軍閥に対する協力から手を引いたとみるべきだ。実際、昭和17年の翼賛選挙演説集には「今日の大東亜戦争は、元を正せば私が立案者なのである」という鳩山の演説内容が記載されており、これが公職追放の決定打となっている。もっと単純に考えれば、単に尻の軽い機会主義者だったということかもしれない。
GHQは鳩山を軍国主義者と断定し、後世の視点から見ても妥当と判断されるが、当時の少なくない日本人が「不当」と判断していたことは、軍国主義や全体主義に対する理解や自覚が不十分だったことの表れと見て良い。

ミリタリズムに積極的に加担した鳩山や国家社会主義者である岸信介らは、サンフランシスコ講和条約の締結とそれに伴う占領解除を前後して、公職追放からも解除、多くが政界に復帰した。その結果、鳩山〜岸内閣では閣僚のうち6割以上が元戦犯ないし公職追放経験者という有様になった。今日の安倍一派は「戦後レジームの打破」などというが、何のことはない、少なくとも政界の中枢は占領解除・再独立とともに「戦前レジーム」にほぼ復帰していたのである。ただ、鳩山・岸が目指した戦前体制への反動回帰という試みは、社会党を中心とした国会の「3分の1」の壁に阻まれ、憲法改正を断念せざるを得なかった。このことは、GHQと日本側のリベラル派が反動を危惧して改憲規定を厳格(衆参各院で3分の2以上の賛成)にしたことが功を奏したことを示している。なお、社会党が作成した憲法草案が改憲規定を「2分の1」としていたことは、彼らの反動に対する警戒心が弱かったことと同時に、左派による「社会主義的改憲」の余地を残す狙いがあったことを伺わせる。

ドイツの場合も、占領解除後、特に西ドイツを中心に「脱ナチ」の行き過ぎによる社会的混乱が指摘され、同じく追放解除がなされたものの、日本とは異なり重罪人は解除指定から外された。この際、やはり保守派が「全員解除」を主張したのに対して、左派やキリスト者を中心に「限定解除」が論戦を張り、後者が勝利している。ところが、日本の場合、社会党内に多くの公職追放者を抱えていたこともあって、「全員解除」で集約されてしまい、論戦にすらならなかった。つまり、共産党を除いて、戦争犯罪や軍国化の政治責任の追及といったものが低調に終わり、占領解除とともに水を流してしまった結果、権威主義やミリタリズムの根を大きいまま残してしまった、というのが私の仮説である。
ただ、池田内閣以降の高度成長によって日本人が経済的繁栄を謳歌し、貧困を忘れたか目をつむった結果、権威主義の禍根・萌芽が残っていることを忘れてしまったのではなかろうか。
posted by ケン at 20:21| Comment(4) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月28日

大伯父の肖像:スーパーエリートの系譜

自民党のタカ派として鳴らした大伯父が、実は東京帝大の河合栄治郎教授の門下生だったことが分かり、驚愕しつつ、その軌跡を調べ直すことにした。
この大伯父は父方の祖母の兄に当たるが、明治38年(1905)に二松学舎の漢学教授の四男に生まれた。その母は共立女子職業学校を出ており、家庭教育は厳格そのものだったようだが、祖母は東京女子医専に入って女医になっているのだから、保守本流の良妻賢母路線とは一線を画していたものと思われる。
府立四中(戸山)から旧制一高に進み、昭和4年(1929)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、大学院に進み、河合栄治郎ゼミで社会政策を専攻した。しかし、河合先生に「高文を受けて官界に進んでみてはどうか」と言われ、高等文官試験を受け合格、大学院を中退して内務省に入った。「(教授に言われなければ)そのまま大学で教授になっていただろう」と。推察するに、大伯父の頭の回転の速さと要領の良さを見た河合教授は「研究者よりも官僚向き」と考えたのかもしれないし、自分の教え子を内務省の送り込むチャンスと捉えたのかもしれない。実際、総理秘書官、県知事、調査局長を歴任するのだから、河合先生の慧眼は超人的としか言いようがない。だが、それから8年を経て政府の弾圧を受けて大学を追放され、憤死してしまうことを思えば、全く世の中諸行無常だ。
なお、一高〜東大の同期には、福田赳夫、前尾繁三郎、遠藤三郎らがおり、特に福田とは一高の寮で部屋が隣だったとかで仲が良く、秩父方面に二人で山登りに行って共に遭難しかけたこともあったという。

補足しておくと、河合栄治郎は戦前期を代表する自由主義経済学者で、フェビアン協会流の社会政策を専門としており、近代経済学ともマルクス主義とも異なる潮流にあった。河合が英国から帰朝して社会政策講座を持ったのは昭和初年のことなので、時代の最先端を行っていた。恐らく進取の気性に富む若者に大人気だっただろう。同ゼミには大河内一男(労働組合研究の泰斗)もいたはずなので、河合教授は大河内を研究の後継にして、伯父上を実践者として内務省に送り込むつもりだったのかもしれない。
また、当時の内務省は万能官庁で、地方自治や治安部門はおろか、現在の厚生労働省や国土交通省などの機能も有していたので、河合教授の教えを実践するとなると、内務省に入るほか無かった。

ところが、伯父は専門畑とは全く異なる公安畑を歩むことになってしまう。最初は山梨県属だったようだが、次はいきなり静岡県で特高刑事をやらされている。そして、入省からわずか4年で山口県警務課長(警視?、総務課に相当)に栄転しているのだから、キャリアとは言え恐ろしい出世スピードである。さらに長野県警務課長を経て、昭和12年(1937)に出来たてホヤホヤの「内閣情報部」に出向している。同部は戦時を前提に国内の情報統制、情報収集、対外情報発信を統合する目的で内閣に置かれたもので後の情報局に相当する。いかに伯父の能力が買われていたか想像されるが、どのような能力が評価されたのかまでは分からない。
昭和14年(1939)には内務省警保局経済保安課の事務官として経済統制と食糧統制に従事、昭和17年(1942)には海軍の南方政務部に出向、インドネシアやセレベス島も回っている。
昭和18年(1943)8月には内地に転任、静岡県警察部長となっている。入省から13年、38歳だから、スーパーエリートの典型と言えようが、恐ろしいスピードである。県警部長は、今日でいう県警本部長だが、戦前の警察はまさに権力そのものであり、その権威は現代人には想像しがたいだろう。
だが、一年半後の昭和20年(1945)4月には鈴木貫太郎内閣の成立に伴い、総理秘書官に抜擢されるが、海軍の希望と推薦があったというのだから、あるいは海軍と内務省で陸軍の暴走(本土決戦)を抑え、終戦に備えるための人事だったと推察される。

終戦を経て鈴木内閣が総辞職した後、警視庁警務部長に転任。警視総監、副総監に次ぐナンバー3である。この時、GHQの意向もあって、庁内の反対を抑えて日本初の婦人警官を導入している。婦人警官の制服は、三越からデザイナーを呼んでデザインを任せ、記者クラブで「披露式」を行うなど、明治官僚とは思えない斬新さを見せている。
翌21年(1946)11月には、前知事の急逝を受けて官選最後の高知県知事となるが、同年12月に南海大地震が起きて、戦災と震災のダブルパンチという難業となるも敏腕を振るい、その手腕が吉田茂の目にとまることになる。
翌22年(1947)4月には初の知事公選が行われるが、その手腕を評価する現地の自由党が本人の承諾を得ず勝手に立候補届を出してしまう。しかし、伯父は「官選知事の横すべりは初の民主選挙を冒涜する」として固辞している。
その後、本省に戻り、調査局長として特高の解体、自治体警察への転換、廃娼などの監督に当たっている。
昭和23年(1948)10月に第二次吉田内閣が成立すると首席秘書官として迎えられ、吉田の求めに応じて政界に転じ、翌年の24回総選挙で衆議院議員に転じた。この時、県警部長を務めた静岡から出馬することになったのだから、当時の警察がいかに権力そのものだったか分かるだろう。

こうして俯瞰すると、治安畑を歩む強面の内務官僚という側面と、婦人警官の導入や廃娼の推進、都市計画の促進など河合門下生らしい側面の二つが見えてくる。特に後者の面は、岸信介や和田博雄らの国家社会主義系革新官僚とは明らかに毛色が異なる自由主義的傾向が見て取れる。
考えてみれば、プーチンもレニングラード大学きっての民主・リベラル派であるサプチャック教授の門下生だったのだから、意外と「そういうもの」なのかもしれない。

静岡県護国神社には伯父上の銅像があるらしいので、近々行ってみようと思う。
posted by ケン at 13:40| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする