2014年09月08日

日清戦争の「勝利」を検証する・下

前回の続き)
では、講和条約と戦後処理を経て、清と朝鮮をめぐる国際情勢はどうなっただろうか。
まず日本が下関条約で領土割譲を要求、実現させた結果、いわゆる「三国干渉」が生じた。これは日本が遼東半島、台湾、澎湖諸島などの割譲を受けたことに端を発する。当時、北京条約以降、列強各国は植民地獲得競争の激化と中国のナショナリズムの激化を警戒する意味から清国に対して領土割譲は要求しない暗黙のルールがあったのだが、新興国の日本がこれを破った上に、列強の干渉を生んだ。その結果、日本は遼東半島を返還、替わってロシアが租借して旅順要塞を完成させて艦隊を配備してしまった。さらに1897年にはドイツが膠州湾を、同99年にはフランスが広州、イギリスが威海衛と九龍を占領、租借し、これが「義和団の乱(北清事変)」を招いて清帝国の瓦解を早めている。

この三国干渉の影響は朝鮮にも波及する。戦争中から日本軍は朝鮮国内で農民運動や抗日運動に対して過酷な弾圧を加え、韓国における研究ではその犠牲者は3万人以上に上るとしている。反日感情が高まっていた上に未熟な統治が日本に対する評価を下げていたところに三国干渉が生起したため、ロシアの後ろ盾を得た閔妃が政権のイニシアチブを握り、その反作用として1895年10月8日、日本側は乙未事件を起こして閔妃を暗殺するものの、最終的には親露派政権が確立して親日派は追放されてしまう。
朝鮮に親露派政権ができたことを受けて、日本側では「ロシアに(本来オレたちの)朝鮮が侵略されつつある」といった「ロシア脅威論」が生起し、日露戦争の直接的な要因になる。これも伊藤博文らが「満韓交換論」をもって日露交渉を進めていたところ、1902年に日英同盟が成立したことを受けて一気に日露開戦に傾いていった。「後世の歴史家」の視点からは「満韓交換論で何が不満だったんだ?」と疑問を抱いてしまうが、当時の主流派は「朝鮮も満州もオレのもの」という欲深を「ロシア脅威論」で擬装しており、今日では「ロシアの脅威に立ち上がった日本」という伝説(司馬史観)だけが残ってしまっている。

清では、朝鮮半島の喪失を受けて、新たに発生した日本の脅威から満州(清帝室の故郷)を守るためにロシアへの接近を強め、1896年に露清密約(李=ロバノフ協定)を締結、ロシアは満州における東清鉄道の敷設権と軍の駐留権、戦時の港湾使用権などを獲得した。今日で言う、対日集団安全保障の一環だった。この後、1900年に義和団の乱が生起して、第二次露清密約が結ばれ、さらにロシアの満州権益が拡大、これも日本側に対露開戦を決断させる要因となった。

日本国内では、三国干渉を受けて遼東半島を返還した政府に対して激烈な反発が起き、議会と国民世論を鎮めるためにも軍拡を約束せざるを得なくなった。その結果、下関条約で得た3億1千万円と遼東半島還付によって得られた4500万円のうち3億円が軍備拡張に費やされ、陸軍は7個師団が13個師団になり、海軍は「六六艦隊計画」を発動した。当時の松方正義蔵相は過大な軍拡に反対、「産業育成を同時に行わなければ軍備の維持は不可能」な旨を説いたが、鼻息の荒い軍部と議会によって辞任に追い込まれてしまった。日清戦争前の租税収入が約6700万円、開戦後の大増税によって1億2千万円になったものの、全く身の丈に合わない軍備だったことは間違いない。
この軍拡を推し進めた結果、対露開戦が既定路線となり、議会では藩閥・吏党・民党が軍拡(ミリタリズムの推進)で一致、日露協商路線を破棄して日英同盟に突き進んでいったことは、昭和期の軍縮条約破棄から対米開戦への流れの中で海軍の反対が中途半端に終わって日独伊三国同盟を許してしまった経緯を彷彿とさせる。今日で言えば、対中脅威論から軍拡を推し進めた結果、日中開戦論が沸騰して「対中戦を想定して獲得した予算で自衛隊を整備しながら、今さら戦争できませんとは言えない」という感じだろうか。

問題の三国干渉についても、本来は「朝鮮の独立(独占的支配権の前提として)」を求めて戦争を始めた日本が、本来の目的外である領土割譲を要求したために生起したものだった。さらに言えば、当時の政策担当者たちは、領土要求が列強の干渉を呼ぶことを予想していながら、イギリスやアメリカの外交的支援を得ることに失敗、干渉が起きてからも英米の支援を求めるがすげなく断られ、国際的に孤立し返還を余儀なくされている。
また、下関条約で過大な要求が実現した結果、上記のように清国とロシアの接近を許しただけでなく、清国そのものの衰退を加速してしまった。これは結果論かもしれないが、日本側が「武士道精神=勝者の寛大」を発揮せずに欲深な要求を突きつけた結果、清もロシアも朝鮮も敵に追いやってしまったのである。そもそも台湾は戦争中に上陸すらしておらず、日本が当初掲げた戦争目的とも全く無縁だった。あるいは、日本国内のナショナリズムの高揚(爆発)を考慮すれば、戦後処理とシヴィリアンコントロールの難しさを強調すべきかもしれない。

話を整理しよう。確かに日本は軍事的勝利を収めて清国を屈服させ、客観的にも主観的にも勝利を収めた。ところが、本来の戦争目的である「朝鮮の独立(独占的支配権の前提)」については、朝鮮を清帝国圏から脱しせしめたものの親露国にしてしまい、今度はロシアの影響力を排除するために(より難敵である)ロシアと戦争する必要が生じてしまった。
朝鮮が親露国になった直接的原因は三国干渉にあるが、これは日本が清国をめぐる暗黙の国際合意に配慮せず、また他の列強の後援(了解)を得ずに清に過大な要求を行った結果、生起したものだった。
その三国干渉が切っ掛けとなって列強の対清侵略が進み、清帝室の威信は低下、財政的にも破綻して瓦解、日本は交渉相手を失うが、同時にこれを奇貨として大陸進出を図って行くことになる。日本の帝国主義的欲求を刺激したのは、日清戦争における過大な勝利と要求だったと言えるのではないか。

また、日本国民としては対露戦役に備えるために戦時増税が常態化してしまい、日露戦争においてさらに増税が課されることになるが、これら増税の圧倒的大部分が軍備に費やされ、日本の産業育成が非常に遅れ、重工業への移行が進まないまま、一次大戦と二次大戦を迎えてしまった。また、日本人の意識としては「列強に負けるな」「大陸進出は悲願」「ロシアを倒せ」といった肥大化した自我ばかりが育ってしまい、それはよく言えばナショナリズムや国民意識だったかもしれないが、結果的にはそれが日露戦争から第二次世界大戦の敗北に至る戦争と侵略の連鎖を招いたのである。古老たちは沈黙しているが、大陸進出を推進したのは軍部の独断ではなく、広範な国民的支持があったのだ。
そして、宣戦詔書の末尾で「速に平和を永遠に克復し、以って帝国の光栄を全くせむことを期す」とした明治帝の願いはついぞ実現すること叶わなかった。

日清戦争は軍事的には勝利したかもしれないが、外交的には敗北の連続であり、新たな脅威と危機を招いた上に、国民生活を逼迫させて産業発展を遅らせ、かつ批判を許さないミリタリズム(軍国主義)の風潮を形成してしまった点で、政治的には従来の評価を根本的に見直す必要があるのではなかろうか。
是非とも古老やご先祖たちの意見を伺いたいところである。

【参考】
『日清戦争−近代日本初の対外戦争の実態』 大谷正 中公新書(2014)
『近代日本の形成と日清戦争』 檜山幸夫 雄山閣出版(2001)
『日清戦争と東アジア世界の変容』 東アジア近代史学会 ゆまに書房(1997)
「日清戦争終結に向けた日本外交と国際関係−開戦から三国干渉成立に至る日本とイギリス」 古結諒子 『史學雑誌』120号(2011)

日露戦争のツケ
朝鮮統治のツケ

【追記】
キリスト者の名誉のために内村鑑三を擁護しておきたい。当初こそ日清戦争を「正戦」「義戦」と支持した内村だが、戦争の内実と戦後処理の過酷さを知って改心した。1897年には「猛省」を発表、下関条約は平和条約ではなかったとしつつ、「あの恥ずべき条約の結果、まだこれから起こるべき幾多の破滅的な事件を予想するに、予言者の目を必要としない」(現代語訳)との見解を述べている。後日、日露開戦に反対して萬朝報を辞し、キリスト者の中で孤立して行くことになる。

【追記2】
古い日清戦争研究は特に日本外交と国際関係について陸奥宗光の回顧録(『蹇蹇録』)に負うところが大きく、相当に主観的な自己評価がそのまま歴史評価に結びついていたが、近年ではこれを批判的に読み解くとともに海外の研究や資料と照らし合わせることで、陸奥の回顧録の信頼性に大きく疑問符が付けられるとともに再評価が進んでいる。特に三国干渉の経緯や国際的影響についてはまだ再検討の余地があるようだ。
また、清側は早い段階(94年11月)から「朝鮮の独立」と「賠償金」の2点での講和を検討し始め、列強も大筋では合意していたようだが、日本側は戦果の拡大を希望して交渉を回避、列強も各国の思惑から最終的な合意に至らなかったため、休戦交渉は先延ばしにされた。その結果、日本軍は鴨緑江を渡り、遼東半島を占領、満州南部を占領、山海関に迫り、山東半島にも上陸した。言うなれば、日本は賭場で勝ちまくって胴元に凄い目で睨まれていたにもかかわらず、調子に乗って勝ち続けた結果、帰る段になって「おいこら、勝ち逃げするんか」とクレームを付けられたような感じだった。
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2014年09月07日

日清戦争の「勝利」を検証する・上

「ノルマンディ上陸作戦70周年」はそれなりの話題を博しているが、日本人的には「日清戦争開戦120周年」の方に関心を持つべきかもしれない。だが、日露戦争に比して日清戦争は様々な理由から今ひとつ一般の関心が低いように思われる。かく言う私も尖閣諸島の領有権問題や沖縄の独立問題が浮上した関係でようやく学び直し始めたばかりだ。
私の関心は戦争の過程や作戦内容よりも、開戦経緯や戦後処理あるいは戦時財政にある。本ブログでは、日露戦争における戦時財政について検証しているが、政府が戦争や財政の内実を隠蔽した結果、「欧州列強の大国であるロシアに圧勝した」というイメージが国民に流布し、現代では司馬遼太郎の小説などによって同様のイメージが定着してしまっている。
日清戦争については日露戦争ほど関心が高くないため、一般書籍は多くないものの、日中共同研究を含めた学術研究は進んでいる。しかし、圧倒的多数の歴史観は従来のままにあると思われるので、私自身も検証途上ながら少しずつ考えていきたい。

一般的に、軍事学において、戦争の勝敗を考える根拠は3つの要因から成り立っている。

@ 客観的要因:占領した土地、敵味方の損害など(具体的、数値化できるもの)
A 主観的要因:当事者がどう考えているか(達成感とか敗北感といったもの)
B 目標到達水準:作戦目標をどの程度達成したか


この3つの要因がすべて達成されていれば、まず無条件勝利と言える。
2つの達成にとどまる場合は、留保がつき、完全な勝利とは言えなくなる。
1つしか達成していない場合は、客観的には勝利したとは言い難くなる。
以前、ノモンハン事件に関するソ連側の機密文書が公開されてソ連側の損害が日本と同レベルだったことが判明した際、日本の歴史修正主義者たちがこぞって「日本はノモンハンで負けたわけではなかった」と喧伝したことがあったが、これは上記の客観的要因の一部を誇張しただけのもので、「ソ連側勝利」という歴史的評価を覆せるようなものではなかった。

これを日清戦争に当てはめた場合、客観的要因と主観的要因は、軍事的に日本が圧勝して朝鮮半島から清軍を排除した上で領土割譲と賠償金を含む講和条約を締結したのだから、「清国敗北、日本勝利」として間違いないだろう。問題は3番目の「目標到達水準」であるが、従来の歴史評価はここが弱かった印象があり、それ故に「完全勝利」のイメージが定着している観がある。
そこでまず日清戦争開戦に際しての宣戦詔書を見てみよう。カナはかなに振り替えて読み下し文にした。
朝鮮は、帝国が其の始啓誘して、列国の伍伴に就かしめたる独立の一国たり。
而して清国は、毎に自ら朝鮮を以って属邦と称し、陰に陽に其の内政に干渉し、其の内乱あるに於て、口を属邦の拯難に籍き、兵を朝鮮に出したり。
朕は、明治十五年の条約に依り、兵を出して変に備えしめ、更に朝鮮をして禍乱を永遠に免れ、治安を将来に保たしめ、以って東洋全局の平和を維持せんと欲し、先ず清国に告ぐるに、協同事に従わんことを以ってしたるに、清国は翻て、種々の辞ネを設け、之を拒みたり。

これは一部分だが、要は「本来独立国であるはずの朝鮮を、清国は属国と称して内政干渉し、日本の対朝協力を妨害、日本側の数々の提案も拒否し、朝鮮に大軍を送るに及んだため、宣戦布告に至った」というものだった。もちろんこれは日本側の一方的な主張に過ぎず、現実には朝鮮は清帝国ブロックを形成する一国であって純然たる独立国たり得なかったわけだが、本稿の主題はそこにはない。ただ、もう一言付け加えるなら、日本は宣戦詔書で「朝鮮の独立」を求めながら、開戦に先立って朝鮮に対して行ったことは、軍事力によって内政改革を強要するという完全な内政干渉だった。
宣戦詔書を読めば分かるが、朝鮮半島における清の影響力を排除して日本の影響力(栄光)を確立することに主眼が置かれ、むしろそれ以外のことには触れていない。実際、日本側は当初(開戦前)、清国側に朝鮮半島について現代に言う共同統治を申し入れたわけだが、外交交渉の中で浮上してきた天津条約案は当時(甲午農民戦争)の軍事・政治バランスを反映して清国側に有利な内容のものだった。
それに危機感を覚えた日本側は半島の軍事バランスを修正するために混成第9旅団を派兵する。この際、伊藤博文総理は平時編制の2千人程度を想定していたが、陸軍の川上操六参謀次長は戦時編制の8千人にして送ってしまう。派兵を決した伊藤にしても、不平等条約改正問題で非難にさらされる中で衆議院解散を控えて、「人気取り」あるいは「タカ派を抑える」という判断が働いていた。ところが、いざ派兵してみると、朝野のマスコミ、輿論が沸騰、さらに衆議院でも開戦論が圧倒的多数を占めるに至り、閣内でも大山陸相と陸奥外相が開戦を迫って伊藤は決断を余儀なくされた。

つまり、日清戦争は政策担当者の主観的には外交交渉の敗北を軍事的勝利をもって上書きすることを目的とし、政治的には朝鮮半島から清国の影響力を排除して日本の単独的影響力を確立することを目的として始められた戦争だった。実際、開戦に先だって日本軍が行ったのは朝鮮王宮の制圧と、李王家の確保だった。
ただし、大衆的には全く異なる文脈で受け止められており、キリスト者の内村鑑三ですら「日支那の衝突は避べからずと、而して二者衝突して日本の勝利は人類全体の利益にして世界進歩の必要なり」(1894年7月27日、国民新聞)という具合に「近代国家と封建国家による文明戦争」と捉えていた。この解釈は今日の「対テロ戦争」に繋がる系譜と言える。

余談になるが、日清戦争の開戦時、宣戦詔書公布の後に土方久元宮内相が伊勢神宮および先帝稜に派遣する勅使の人選について明治帝に相談したところ、帝は同戦争について「朕もとより不本意なり、閣臣等戦争のやむべからざるを奏するにより、これを許したるのみ、これを神宮および先帝稜に奉告するは朕甚だ苦わしむ」と言うので、土方が慌てて諫めたところ、お前の顔など見たくないと怒られ退出させられたという。
明治帝は今日に言う平和主義者ではなかったが、「朝鮮に軍を出しても清と戦争になることはあり得ない」と無責任な説明がなされ、その後ロクに経過報告もされないまま事後的に開戦の報告がなされて宣戦詔書の公布が求められたのだから、ブチ切れるのは当然だった。この辺りの官僚や政治家の態度(利用主義)は昭和から平成に至るまで変わらない。
以下続く
posted by ケン at 11:37| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月08日

誤訳に始まった暴動

1つの誤訳が全国的な暴動に発展することがある。
日本における徴兵令は法律としては1889年に施行されたが、その前段として1872年(明治5年)に徴兵告諭が出され、翌73年に太政官布告(現在の政令に近い)として徴兵令が施行された。
これは江戸期の武士の特権としての軍役を廃して、近代的な国民軍として常備軍を編成することを目的としたが、階級制度や封建制の廃止(四民平等と廃藩置県)と連動していた。もちろん廃藩置県は華族制度の創設もあって中途半端に終わったことは言うまでも無い。が、ここでは本題では無い。
1872年の徴兵告諭(通達)には、
人たるもの固より心力を尽し国に報せらる可らず。西人之を称して血税と云ふ。其生血を以て国に報するの謂なり。

という一文があり、これが国民大衆に大きな衝撃を与えた。
戊辰戦争期に薩長軍が掲げた「貢租半減」のマニフェストはすでに反故にされ、逆に外国借款の返還と近代統一国家の創設という二大事を抱えた明治政府は江戸期よりもはるかに重税を課していた。さらに政府は物納から金納への転換(地租改正)を準備しており、全国的に不穏な情勢が続いていた。
そこに「血税」である。
「生血を以て国に報する」の一文が「人身御供として出されたものは血を抜き取られて横浜の外国人に売られてしまう」「外人が飲んでいる葡萄酒なるは、その実、人の生き血であり、金のない政府がその仲介しようとしているに違いない」といった曲解や誤解に繋がり、それを新聞が面白おかしく報じて全国的に拡散させてしまった結果、血税一揆=反徴兵暴動が起きてしまった。これは、実際に徴兵されものが「毎日白米が食えるし、農作業よりもずっと楽だ」と証言することで、ようやく鎮静していった。

ところが、この「血税」はフランス語の” Impôt du sang”の直訳で、本来の意味は単に「軍役」に過ぎなかった。例えば、
Les nobles ne payaient pas de taxes, mais payaient l'impôt du sang.
かつて貴族は税としての金納が免除されていた代わりに、軍役が課されていた。

という意味で使われるもので、仏語の”sang”(英語のblood)を「血」と直訳したことによって誤解が生じてしまった。これは現代の大臣やNHK会長がよく言う「誤解(お前、勝手に曲解しやがって)」とは異なり、本来の意味での誤解(誤った理解)である。

だが、反徴兵暴動は収まっても、日本語的には誤った理解は訂正されず、逆に解釈の変転を経て「汗水垂らして血涙流して納付した税金」との意味で定着して今日に至っている。仏人的にはいい面の皮だろうが、誰も気づいていないのでよしするべきかもしれない(笑)
現在のTPPにも少し共通するところがあるような気がする。
posted by ケン at 12:08| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月10日

戦前、戦中における文書廃棄を考える

第二次世界大戦の終結時に軍を始め、国や自治体の各機関で公文書の大々的な廃棄、焼却が行われたことは、最近ようやく事実として認識されつつある。そうは言っても、その実態はいまだ検証途上にあり、実物が廃棄処分されてしまっていることもあって、現代における検証には限界があることも確かで、この分野の研究は「遅々として進んでいる」程度のものらしい。本ブログでも終戦時の文書廃棄には何度か触れているので、少し整理しておきたい。

よく言われるのは終戦時の文書廃棄で、確かに1945年8月14日に軍部や政府が通達を発して大々的な文書廃棄が行われているのだが、実情は今少し複雑で、かつ終戦時に限ったものではなかったようだ。

元々、明治維新によって同政府と地方自治制度が発足して明治体制下で公文書が量産されていったが、明治・大正期の省庁や地方の役場は木造が多く、規模も小さかったため、大正末頃にはどこも保管容量に限界が来ていた。
そうしたところに1923年(大正12年)、関東大震災が発生し、東京や周辺部では役場が倒壊して公文書が失われるところが続出した。震災復興に伴い、東京に限らず全国の省庁や役場が耐震構造の大型の建物へと建て替えが進むが、この際に予算上の制約もあって古い公文書の「整理」がなされ、一定量が廃棄されている。この当時、保管や廃棄の基準も必ずしも明確ではなく、自治体や担当者によって対応がまちまちだったようだ。

1937年の日華事変勃発に伴い、公文書の量がさらに増えてゆく。そして、41年の太平洋戦争勃発とその戦局悪化に伴い、文書管理能力が低下しただけでなく、資源供出の観点からも公文書の廃棄&再利用が進められることとなった。
特に1943年以降、国内の金属が払底、一般家庭を含む非戦闘部署から金属類の強制供出が行われ、役場や図書館からも鉄製書架が軍用に供されていった。かといって木材資源も十分なわけではなく、すぐに木製書架に代替するような状況にはなかった。人員的にも総動員が続いており、文書管理部門の人員も払底していたと考えられる。そこに軍や中央政府から、紙資源を節約して供出するよう要請があり、必要度や資料性が低いと判断された文書から古紙として再生業者に流されていった。この「必要度や資料性」も今日のように研究者を含めた第三者機関が判断するものではなかったため、動員名簿のような今日的には貴重極まりない資料まで廃棄されてしまった。こうした結果、例えば、愛知県が1943年までに廃棄した公文書は2万6千冊に上るという。

この流れは1944年2月25日に閣議決定された「決戦非常措置要綱」において、「保有物資ノ積極的活用」として明文化された。同27日の軍需省の通達には「永久保存文書ハ必要最小限ニ止メ、従来ノ保存期間ハ極力縮減スルコト」とあり、続く28日の次官会議では「官庁ノ文書ニ徹底的ニ再検討ヲ加ヘ真ニ必要ナルモノ以外ハ総テ之ヲ廃棄スルコト」を始めとする徹底的な文書廃棄が決められ、地方行政機関に通達、これを受けて県や市町村でもさらに大々的な廃棄処分が進められた。
さらに44年も終盤になると、米軍機による本土空襲が始まり、45年に入ると疎開が始まり、さらに人員が枯渇して「可燃物は徹底的に整理」といった方針が定められた。愛知県の場合、終戦前の7月にも9500冊からの公文書を古紙再生業者に売却している。また、大分では同7月16日に県庁が米軍機の空襲による直撃弾を受けて半壊している(どの程度の文書が失われたかは未だ不明)。

そして終戦を迎える。8月14日、鈴木内閣は「軍其ノ他ノ保有スル軍需用保有物資資材ノ緊急処分ノ件」を閣議決定、
陸海軍ハ速カニ国民生活安定ノ為メニ寄与シ民心ヲ把握シ以テ積極的ニ軍民離間ノ間隙ヲ防止スル為メ軍保有資材及物資等ニ付隠密裡ニ緊急処分方措置ス。尚ホ陸海軍以外ノ政府所管物資等ニ付テモ右ニ準ズ。

というものだった。これに基づいて、陸軍は15日付の参謀総長名で「陸軍秘密文書類焼却ニ関スル件」が通達され、内務省からも同様の通達があったと見られる。18日には各道府県から市町村に「機密重要書類焼却ノ件」なる通達が下り、各種機密書類、物動関係書類、統計資料を中心に大々的な廃棄が命じられている。なお、この通達では通達本文も焼却するよう命じており、良心あるものが秘匿した通達文書が長野県などに残ったため、今日の我々も確認できている。これにより、陸軍省や海軍省を始め、各政府機関、県庁や市町村役場の前で徹底的な焼却処分が行われ、その火と煙は優に一週間は止まなかったという。

愛知県の場合、それまでにすでに県が保有する公文書の大半を処分していたが、8月18日からさらに残っていたわずかな文書の廃棄(売却?)が進められた。今日、愛知県公文書館が所蔵する明治以降の戦前期の県関係公文書は、権利関係を証明するものわずか350冊に過ぎないという。
京都府の場合、1万2千冊近くの文書が残ったが、それでも終戦から戦後にかけて3千冊以上が廃棄されたと見られている。
これでは慰安婦や強制動員関連の文書などまともに残っているはずがない。

以上から分かるのは、各行政機関が必ずしも最初から「不都合な事実」を隠蔽するために公文書を廃棄したのではなく、戦時動員の過程で歴史的文書が「物資」として動員されていったこと、殆どの役人は業務の一環として命令に従っただけということだ。
重要なのは、公文書の歴史的価値を共有し、適切な公文書管理法を制定し、それを遵守するようチェックするシステムを構築することだが、それは敗戦から70年を経た今もなお未整備の課題として残っている。

【参考】
「失われた記録―戦時下の公文書廃棄」 加藤聖文 国文学研究資料館紀要1号所収(2005)
「大分県公文書館だより」第8号(2001)
posted by ケン at 12:44| Comment(1) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月26日

集団自決は日本軍がいたから起きた?

1945年3月から6月にかけて生起した沖縄戦では、住民による集団自決が頻発した。主な事例を時系列で挙げてみると、座間味島(3月26日、177人)、慶留間島(同、53人)、渡嘉敷島(3月28日、329人)、読谷チビチリガマ(4月2日、83人)などがあり、自決による死者の総数は1000人以上になるとされており、そのうちの相当数が小学生以下の子どもだったという。
多くの場合、軍から予め渡されたり、地元の防衛隊員(陸軍防衛召集規則に基づいて召集された正規民兵)によって持ち込まれた手榴弾を使ったり、あるいは家にある鎌、鉈、包丁を用いて家族間で互いに殺し合うといったものだった。岡本喜八の名作『沖縄決戦』でもリアルに再現されている。

この問題については、長いこと「軍の関与」「軍命令の有無」が議論されており、教科書の検定でも「日本軍による住民虐殺」を含めて常に問題になっている。
私の解釈、認識では、住民に自決を強要するような軍命令は存在しないと思われるが、「全軍玉砕」の大方針(これも正式な軍方針ではない)に従って、「軍は貴様らを守る余裕はないから勝手にしろ、俺たちは玉砕するけどな」と住民に言い渡し、皇民化教育・軍国教育が行き届いていた住民は「捕虜にならないよう」自決を選んだ、というのが大まかなところだ。民間人保護に関する国際条約や慣習について全く教わらず、中国戦線の陰惨さや米兵の残虐性に関するデマが強調されていたことも、大きく影響した。
しかし、個別の証言では、軍人が「米軍が来る前にこれで死ね」と手榴弾を渡したり、集まった住民の前で「全員玉砕」を散々訓示して去って行った例が報告されており、個別的には実質的に自決を強要していたケースも少なくなかったようだ。
「自決を強要する命令文書は存在しない」という主張にしても、沖縄の戦火の苛烈さや機密文書の廃棄が命令されていた背景を考えれば、軍の命令文書が残っていない可能性など十二分にある。これに類似する主張は他にも少なくないが、戦争末期から終戦時にかけて機密文書の廃棄が大々的に行われており、戦争犯罪の可能性を残す文書はことごとく廃棄されているため、「証拠文書が無いのだからそんなことはあり得ない」という論法は成り立たない。

実際に集団自決が起きたのは、軍部隊が駐屯していた島嶼と沖縄本島中南部が殆どで、逃げ場のない島と本島のガマ(石灰洞穴)で起こっている。
第30軍の当初の構想では中南部の住民は予め軍を配置しない北部に避難させて米軍に保護させることになっていたが、輸送力の欠如、行政の不十分な協力、教育宣伝に基づく住民の対米恐怖に基づく避難拒否があって、ごく一部のみしか実現しなかった。
特に島部の場合、軍部隊の有無が住民の行動に大きく影響したようだ。象徴的なところでは、渡嘉敷島の東にある前島の場合、軍からの要請に対して、国民学校の分校長が島民については自らが責任を持つと約束、部隊の駐屯を拒否、米軍が上陸すると島民を率いて投降した。浜比嘉島や平安座島には島民兵による警防団こそあったものの、正規軍は駐屯していなかったため、英語を話せる移民帰りの島民が主導して米軍に投降した。
慶良間列島の北に位置する粟国島では、島の長老が集まって玉砕派と投降派に分かれて激論が交わされたが、最終的には米艦砲による犠牲者を出したのみで終わった。会議で堂々と降伏を主張できたのは、その場に正規軍人がいなかったことが大きいと見られる。

逆に慶良間列島の渡嘉敷島の場合、陸軍の海上挺身隊が駐屯しており、米軍上陸前から「米兵の残虐性」についての悪宣伝が広まっており、軍人や一部住民がそこここで「米軍上陸の折は軍民一丸となって玉砕する」との訓示や演説がなされていた。さらに上陸直前には組織的に島民が集められて手榴弾等が配布された。この問題では、「住民自決の隊長命令は無かった」「住民に手榴弾は渡していない、防衛隊員に渡しただけ」との反論があり、一定の信憑性があるのだが、どれも口頭証言のみであり、真実を確かめる術は限られている。
隣の座間味島では、島民の代表者が軍に自決用の手榴弾を要請し、部隊長は拒否するも、別ルートで手榴弾が配布されて集団自決に至っている。

ここで重要なのは、軍の正式な命令の有無や、軍が自決用手榴弾を住民に直接配布したことの是非ではなく、日本軍の駐屯が有形無形のうちに住民に対して「軍民ともに玉砕=集団自決」への圧力を掛け、全般的には「米軍に対する恐怖」が増幅され、幹部層では「皇国に対する忠誠」を示そうという空気が強まり、投降という選択肢を自主的に放棄させられたということである。日本軍部隊が存在する場合、島の幹部は軍に対するポーズとして「総玉砕」を示す必要にかられ、「投降しよう」という意見を述べる機会を失っていたと考えられる。実際に「投降」を主張したものは、「スパイ」のレッテルが貼られて猛烈な非難が浴びせられたケースが多かったらしい。
30人からの海軍通信隊が駐屯していた久米島のケースでは、集団自決こそ起きなかったものの、米軍の降伏勧告状を持ってきた住民を殺害したことを皮切りに「スパイ容疑」で続々と住民を殺戮、後には潜伏してゲリラ戦を行いながら、島民にゲリラ戦への参加を呼び掛け、拒否するものは処刑すると脅しつつ、「敵性住民」の殺害を続けた。その被害者は20人以上に上った(久米島事件)。この件は戦犯にも指名されず、刑事裁判にも至らないまま今日に至っている。

沖縄戦における集団自決の問題において、軍命令の有無などは大きな問題ではない。わずか66年前に日本に武力併合された沖縄において、軍は国民を守らず、守られなかった沖縄県人は国家理念上降伏することが許されないまま、率先して「軍民共死」を実現せざるを得なかった。軍=国家の監視が届かないところでのみ投降=生存が可能だった。問われているのは、国家のあり方であり、国民との関係である。
戦前の日本軍は憲法・法律の上で国軍あるいは国民軍として規定されておらず、自ら「皇軍」を名乗り、天皇の私設軍(プライベート・アーミー)であることを誇示していた。そして、戦争末期には「国体(天皇制)護持」を絶対条件として掲げて敗北必至の戦争を継続し、国民の犠牲を顧みることは無かった。「誰のための軍隊だったのか」「誰のための戦争だったのか」という総括なくしては、何を語るも無意味なのだ。
教科書検定の強化によって、「集団自決」そのものが教科書から姿を消しそうな勢いであり、下手すれば逆に美化されたファンタジーが掲載されるかもしれないくらいになっている。

そして、この問題は現代にも繋がっている。福島原発事故に際して、政府は放射能拡散予測を開示しぶった挙句、米軍にのみ提供して福島県民の被曝を放置した。炉心融解が起こっても、政府はその情報を「住民パニックを避けるため」と称して隠蔽し、避難命令を出すのは1カ月後、過酷事故を認めるのは2カ月後でしかなかった。
過労死に際して会社が「残業は命令したものではない(従業員が勝手に残業しただけ)」と弁解するのは常のことであり、生徒の自殺に際して学校が「いじめの事実は確認されない」と説明するのも毎度のことだ。
この国は、どこまでも「御上」が重く、人民の命は軽い。日本のブラック性はどうやったら改善できるのだろうか。我々の課題は余りにも大きい。
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2014年02月21日

独裁と懲罰召集

靖国問題が議論される際に右翼が良く言うのは、「東条英機(A級戦犯)とヒトラーは違う」ということだが、その根拠は「東条は大量虐殺を指示していない」程度の話で、殆ど「レーニンはスターリンと違う」と同レベルの比較でしかない。とはいえ、全権委任法をもってワイマール憲法を停止して総統(大統領と首相の権限を統合)に就任したヒトラーと、曲がりなりにも大日本帝国憲法下の総理大臣(閣僚の調整代表者)に過ぎなかった東条とでは、おのずから権限の大きさが違うことも確かだ。それはそうなのだが、だからと言って東条が民主的代表だったわけではなく、総理としても相当に逸脱して権力を濫用している。それを裏付ける一つが「懲罰召集」だ。

その最も有名な例が「竹槍事件」である。1944年2月23日の毎日新聞で、「勝利か滅亡か 戦局はここまで来た」「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」と国の資源不足と戦争の形勢不利を記してしまった新名丈夫記者は、東条総理の怒りを買い、記事掲載の8日後には37歳で陸軍に召集され、歩兵第12連隊(丸亀)の重機関銃中隊に入営させられた。日本の重機は徒歩で運搬するもので、兵卒一人あたりの装備が50kgを超えるという歩兵の中でも最も過酷な役割を担っていた。当時の37歳は現在の40代後半にも相当するだろう。幸いにして新名は従軍記者として知られており、陸軍内にも支持者がいたこともあって3カ月で召集解除され、即座に海軍の報道班員に指名されることで難を逃れた。しかし、「指名召集」の誹りを回避するために、陸軍が新名とともに招集した同世代の約250人は硫黄島に送られて全滅、一人残らず戦死した。
この事件があるだけに、私なんぞいつ安倍政権によって強制召集されて尖閣や中国戦線に送られて殺されてしまうか分かったものではない。

もう一人は我々の大先輩に当たる松前重義先生である。逓信省の通信技術者にしてエリート革新官僚だった松前先生は、日米開戦を経て戦局が悪化する中で戦勢の非を悟り、日米の工業生産力を分析したデータを作成して報告したところ、「倒閣運動に加担した」と見なされ、東条内閣が総辞職する4日前、1944年7月18日に最後っ屁のような形で二等兵として赤紙召集されてしまう。この時松前先生は42歳であるばかりか(召集上限45歳)、勅任官の逓信省工務局長(軍の将官に相当)という地位にあり、東条はわざわざ天皇に直接裁可を得た上、ハガキではなく電報によって召集した。しかも、当時米海軍の潜水艦が猛威を振るっていた東シナ海を通って南方に送られたが、熊本港を出た時に16隻いた輸送船の殆どが撃沈され九死に一生を得てフィリピンにたどり着いた。それも乗艦が故障して艦列を離れたがために助かったという幸運(悪運?)によるものだった。ただその後は、現地部隊の好意で総司令部付きにされたおかげで前線には行かずに済んだようだ。

検事ですら例外ではなかった。東方会を率いて東条内閣と対峙した中野正剛代議士は、倒閣運動に加担した疑いで1943年10月21日に検挙される。ところが、この件を担当した中村登音夫検事は、容疑不十分として同月25日には中野を釈放してしまう。もともと容疑自体、中野が「日本は必ず戦争に負ける」と述べた(らしい)という風説のみに基づいており、大物議員を拘束するには無理があった。にもかかわらず、中野は釈放後に憲兵に自宅軟禁され、自殺を強要され、その中野を釈放した中村検事のところには43歳という高齢にもかかわらず赤紙が届き、二等兵として南方に出征させられた。

国会議員も同様だった。1943年10月22日に小山田義孝衆議院議員が応召されたのを切っ掛けとして、「反東条」と見なされた45歳以下の代議士は次々と召集されていった(小山田の場合は軍籍があったので予備役招集の少尉扱い)。私が調べた限り、13人の衆議院議員が招集され、軍籍を持たないものは二等兵として入営し、うち3人が戦死している。「言うことを聞かないと、招集して南方送りにするぞ!」という脅しが若い国会議員たちをどれだけ萎縮させたかは想像に難くない。日本以外の国で、現職の国会議員が軍に召集されて戦地に送られたケースが存在したかについては、良く分からない。

近衛文麿首相の長男・文隆も懲罰召集だった。上海の大学で講師を務めていた近衛文隆は独自の判断で国民党政府との和解交渉を画策するも、憲兵に拘束、強制帰国させられ、1940年2月に召集(24歳)、満州に送られてしまう(重砲兵第3連隊)。近衛は京大で河上肇に師事しており、「アカ」として当局にマークされていた。ただし、当時は米内内閣であり、東条の差し金ではない。近衛の場合は、幸運にも幹部候補試験の受験を認められて少尉に任官している。だが、1945年8月のソ連による満州侵攻を受けて赤軍の捕虜となり、シベリア等に10年以上抑留されるも、帰国することかなわず抑留死した。文隆の妻は貞明皇后の姪であったことを考えても、戦時中というのはある意味では公平だったと言える。

似たような例としては、伯爵・摂津有馬家の嫡男だった有馬頼義がいる。父親は農相で母親は皇族北白川家の出身という超サラブレッドだ。有馬の場合、創作活動が問題とされて早稲田高校を放校になったところを召集されて満州に送られるも、不良貴族として幹部候補試験の受験も許されずに一兵卒として過ごした。女郎屋に入り浸る上官のために軍備品や食糧の「徴発」までやらされていたという。その体験が活かされる形で「兵隊やくざ」シリーズを世に残した。

京都帝大経済学部の松井清先生の場合も、東条個人による懲罰召集ではなかったが、悲惨極まりない運命をたどった。当時、京大は滝川事件に象徴されるように「アカの巣窟」と見なされていた。松井先生の父君は黒田藩士出身の京都帝大総長で、アカデミー界のサラブレッドだったが、人民戦線事件が醒めやらぬ1938年9月に26歳で召集され(当時常勤講師)、歩兵第24連隊(福岡)に入営、満州で治安任務に従事するが、「アカ」の疑いがかけられて幹部候補試験の受験が許されず兵卒のまま過ごし、40年4月に召集解除されて一度は帰国する。しかし、42年2月に再招集されたところ、今度は悪名高い歩兵第124連隊に配属、南方に送られてガダルカナルとインパールという二大地獄に投げ込まれてしまった。一つだけでも生還は奇跡的なのに、二つを生き延びたのは神の恩寵があったとしか言いようがない。インパール作戦の時は軍曹だったらしいので、下士官には昇進できたようだ。戦後はビルマの英軍捕虜収容所に抑留され、復員したのは47年5月のことだった。
先生の船かは分からないが、同連隊の復員船が宇品港に着いた際、日焼けして真っ黒になった九州男児たちが眼をギラつかせて降りてきたのを見た米軍監理官が、「このものたちは恐ろしく人相が悪くて気持ち悪いが、どこか違う民族なのか?」と問うたところ、通訳の日本兵が「こいつらは九州民族といって、日本一獰猛で危険極まりない連中であります」と答えたものだから、名札と名簿を照らし合わせて一人ずつ上陸を許可していたのを止めて、即座に全員の上陸が許されたという逸話が残っている。
京都帝大の経済学者という類稀な頭脳を一歩兵として出征させてしまう辺りも、日本社会における人材登用の硬直性というか、ブラック性を象徴している。

自分に反対するものを個人的に指名して戦地に送っていた時点で、東条には十分に独裁者の資格があったと言えるし、東京裁判の是非を問うまでもなく非人道的な指導者であったことは間違いない。戦時中の日本は、到底「誇れるような国」たりえなかったのである。
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2014年01月31日

リットン報告書をめぐる日本の報道について・下

前回の続き)
中国の提訴を受けて、国連としても常任理事国たる日本を追い詰めるのは得策ではないとの判断から、日本側の要請を受ける形でリットン調査団の派遣が決まる。「自国の立場を説明すれば必ず理解される(はずだ)」という日本のスタンスは80年前も同じで、当初は同調査団に対する期待はすこぶる高かった。
「柔和な中に威厳ある紳士像‐リットン卿の人物像」 東京朝日(1932年2月24日)

「リットン調査団をしてなほこの誤認と邪推とを除くことを得ないとすれば、日本は東洋の恒久平和のために最早その信念に従って動くほかない」 東京朝日(1932年8月26日)

満州を武力制圧、軍事支配しつつも、日本は「東洋の恒久平和」を掲げていた。リットン調査団は満州に渡航する前に東京と上海、南京などに寄るが、東京では提灯行列ばりの大歓迎がなされたという。
だが、国論の沸騰を背景に、内田康哉外相は満州視察の帰り際に再来日したリットン卿に対して、日本側の行動が国際諸条約に違背していないことを強調した上で満州国を承認する政府方針を高圧的に伝え、調査団長の心証を悪化させている(7月14日)。なお、この滞在期間中には、陸軍によるリットン卿暗殺計画もあったとされる。
「満蒙の事件というものは、我が帝国にとってはいわゆる自衛権の発動に基づくものであります。(中略)この間題のためにはいわゆる挙国一致、国を焦土にしても、この主張を徹することにおいては、一歩も譲らないという決心を持っておると言わねばならぬ」
(1932年8月25日の衆議院本会議における内田外相の演説)

国際社会における日本の評判は非常に悪化していたにもかかわらず、日本は調査団の報告書を待たずに1932年9月15日、日満議定書と秘密付属協定を締結、正式に満州国を承認してしまった。これは、血盟団事件や5・15事件のような国内における右からの圧力の他に、「リットン調査団の報告書が出てから承認したのでは、国際社会との対立が決定的になってしまう」との判断からなされたものだったが、いずれにしても自国の都合(主観的な国益)のみを考えた結果だった。
その前の7月6日の『東京朝日』には、「有田外務次官 非常識極まる失言 重大責任問題起こる」との大見出しで、有田八郎次官がリンドレー英国大使に「日本政府はリットン報告が連盟に提出されざる以前に、満州国を承認する意思なし」と語ったとして、次官の発言を糾弾していた。どうやら発言の真偽はあやふやなようだが、この辺りの空気感も鳩山発言などと照らし合わせると、恐ろしく似通っていることが想像されよう。

10月2日にリットン報告書が公表される。それは、満州事変における日本の自衛権発動を認めず、満州国も承認しないというものだったが、一方で原状復帰ではなく、満州を日本を始めとする国際社会の共同管理下に置いた上で、排日運動を取り締まり、日本側の諸権益を認め、拡充することまで容認していた。今日の我々が読んでも、「御先祖方はこのどこが不満だったのきゃ?」と言いたくなるほどのものである。にもかかわらず、翌日の新聞各社は、
『東京朝日』――「錯覚、曲弁、認識不足―発表された調査団報告書」
『大阪朝日』――「認識不足と矛盾のみ」
『東京日日』『大阪毎日』――「夢を説く報告書―誇大妄想も甚し」

という大見出しで、「依然たる認識不足」「全編随所に日本の容認し得ざる記述」「徹頭徹尾偏見にもとづく」などの具合で非難轟々の有り様となった。
11月には国連で報告書の審議が開始されるが、松岡洋右代表の強硬姿勢をマスコミが英雄視して報道し、世論も同調、国際連盟脱退運動がヒートアップしていった。翌33年に入ると、2月にはリットン報告が採択されて、日本は国連を脱退、関東軍は熱河省と河北省に対する侵攻を開始した。
1920年代には各種軍縮条約を率先して締結し、国際協調路線が高い評価を受けて、国際連盟の常任理事国として確固たる地位を築きつつあったにもかかわらず、満州事変から1年半も経ないうちに脱退、自ら国際的孤立を招いてしまったのである。

この当時と現代の日本政府やマスコミの主張に共通するのは、「自分は絶対に正しい」「相手は認識不足で誤解している」「きちんと説明すれば理解してもらえるはずだ」という徹底的な自己本位にある。そこには相手の主張に耳を傾けて相対化し、相手がどのような理解と解釈をしているのか客観的に判断し、相手と自分の意見を照らし合わせて合意点を探るという、コミュニケーションの双方向性を追求する意思が感じられない。
安倍政権における靖国問題の対応だけでなく、民主党政権における在沖米軍基地問題や尖閣問題でも、こうした傾向が顕著に見られるが、近い将来、より深刻な事態を招くことになりそうだ。

1932年11月号の『新聞及新聞記者』において、本間雅晴陸軍新聞班長は満州事変をめぐる一連の報道について「全国民は言論機関の仲介により完全に政府を諒解し、特に軍部の誠意と努力とに対しては満幅の理解を持つに至った」と報道機関に感謝の意を表しているが、我々はまさに「いつか来た道」を辿っているのである。
posted by ケン at 12:44| Comment(2) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする