2015年02月19日

僧侶と政治

ルイス・フロイスはその著書で安国寺恵瓊のような「外交僧」に触れて次のように述べている。
我々の間では、どのような場合でも修道僧が王侯や領主の伝令となって行くことは無い。日本の殿は僧侶を伝令として、また戦争の武略として使っている。
『ヨーロッパ文化と日本文化』

これは、日本の戦国武将たちが自陣に僧侶を置き、時として現場交渉や外交交渉に使っていたことを指す。中には本願寺顕如や筒井順慶のような大名化したものもいれば、太原雪斎や安国寺恵瓊、あるいは南光坊天海のような大名の顧問を担ったものもいるので、「戦闘僧伽」と言っても非常にバラエティに富んでいた。そもそも戦国大名からして、例えば徳川家康は「厭離穢土欣求浄土」という宗教色丸出しの旗印を掲げていた。
一般的には、中世にあっては洋の東西を問わず「聖職者=知識人」であったがために、軍事行動に僧侶が同行するのは、これも洋の東西を問わず常識だったはずだ。そもそも中世というのは、戦国武将だろうが、欧州貴族だろうが、ロクに文字も書けないものがいくらでもいる時代で、例えばロシアのピョートル大帝(すでに近世だが)ですら酷い悪筆で、その命令書のスペルは間違いだらけだった。故に敵に文書1つ出すにしても、僧侶に代筆してもらう必要があった。また、当時の医療も基本的に僧侶の独占技術で、軍医の役割も果たしていた(ただし内科のみで外科は卑職扱いだったようだ)。従軍僧として、士気を鼓舞し、戦死者を弔うのは当然だ。そして、共通語としての日本語が確立しておらず、地方語が強い当時にあって、高いコミュニケーション能力と文章作成能力、そして幅広い人脈を有する僧侶は地域をまたぐ交渉に不可欠の存在だった。さらに言えば、僧侶は使者として派遣されたときに比較的殺害されにくかった(縁起が悪い)ことも理由として想像される。

繰り返しになるが、従軍僧の価値と役割は日本だろうが、欧州だろうが同じはずで、ヨーロッパ貴族の軍隊に聖職者が同行していないはずはないのだが、フロイスの意図するところは今となっては分からない。単に「聖職者を使い走りにするとはケシカラン」くらいの意味だった可能性も否めないが・・・・・・

実際、ヨーロッパの政治外交は聖職者を外しては語れない。例えば同時代のドイツ三十年戦争を見た場合、フランスのリシュリューとマザランの両宰相は枢機卿で、特にリシュリューは自身がカトリックの枢機卿ながら、プロテスタント諸侯に対する支援でフランスの国論をまとめ上げ、「外交における政教分離」の原則を確立した。故に『三銃士』では悪者にされてしまうワケだが。
また、スペインのインファンテ卿(フェルナンド・デ・アウストリア)は、王弟(フェリペ3世の実子)ながら出家して枢機卿を担っていたが、厄介払いのようにスペイン領ネーデルラントに派遣され、少ない兵と資金に悩まされながらもオランダ市民軍を圧倒し続けた。三十年戦争期の名将の一人である。
三十年戦争より少し前になるが、イングランドのヘンリー8世の宰相を務めたウルジーも枢機卿であったし、時代はずっと下るがフランス革命・ナポレオン期に重要な役割を果たしたシェイエスとタレーランも聖職者だった。
逆に日本では、太原雪斎も南光坊天海も大名家の正式な役職に就いていたことを示す資料はなく、どうやら「あくまでも顧問・相談役」という立場だったようだ。また、最新の研究によれば、安国寺恵瓊が領地を有する戦国大名であったかについては微妙だという。

東西同じだが、出家先で出世するためにはやはり貴族の後援や血筋の良さが必要で、寺や教会・修道院で学ぶためにも一定の資金が必要であったことから、やはり貴族の子弟が圧倒的に有利だった。
義務教育が普及し、政教分離が進んで、寺院や教会の影響力が低下すると、僧侶の社会的地位も低下していった。今日では、ヨーロッパでは(イタリアやスペインですら)キリスト教が政治に与える影響は極限まで低下している一方、日本ではセクト系宗教が支援するKM党や神道系の政治団体であるN本会議などが大きな影響力を保持している。その意味では、日本の近代化はいまだ途上にあると言えるのかもしれない。

【参考】
叡山焼き討ちが意味するもの 
posted by ケン at 12:05| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月15日

強襲は下の下なり

古来城攻めは「和睦(降伏開城)が上策、内応が中策、強襲は下策」と言われてきた。日露戦争の開戦当初、児玉総参謀長が「旅順は攻めないで包囲封鎖するに止める」と言ったのは武士として当然のことだった。児玉は戊辰戦争で初陣を果たし、西南戦争では熊本鎮台の参謀として籠城戦に参加しており、当時「日本最強」と考えられた薩軍が熊本城を落とせずに戦機を逸したことを自覚していた。
東照大権現様は、城攻めの愚かしさを十分承知していたため、生涯の内数えるほどしか強襲を選択していない。大坂戦役の時も、自らが愚劣な選択をしていることを自覚していたようだ。
ところが、現代にあっては武士道を称賛する者ほど「和睦はあり得ない」「強襲あるのみ」といった主張をしている。どうにもわが一族の家伝とは大きな隔たりがあるようだ。
posted by ケン at 20:03| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月14日

杉工作の証拠発掘

【旧日本軍の偽札用紙見つかる 民間巻き込んだ製造裏付け】
 静岡市の製紙工場で、孫文などのすかしが入った特殊な用紙が見つかった。明治大学の研究者が確認し、旧陸軍登戸研究所の発注で中華民国の紙幣を偽造するために作った用紙と判断した。戦前に特殊兵器を開発していた同研究所では偽札も作っていたという証言があり、民間企業を巻き込んで偽札が製造されていた実態が浮かび上がった。
 明治大学平和教育登戸研究所資料館(川崎市多摩区)が昨年7月、「巴川(ともえがわ)製紙所」(本社・東京)の静岡市駿河区にある工場で確認。約30センチ四方279枚がつづられていた。資料館によると、用紙には中華民国建国の父・孫文の横顔のすかしがあり、絹の繊維がすき込まれていた。当時の中華民国で広く流通していた5円札の特徴だった。北京の歴史的建造物「天壇」のすかしが入った紙もつづられており、これも当時の別の5円札の特徴という。すかしの出来や絹の繊維の密度などを点検した形跡もあった。記されていた文字から、用紙は1940年8月〜41年7月に作られたと資料館はみている。偽札作りの責任者だった将校は、戦後に出した本で「偽札作りは39年に始まり、40億円分作った」と記していた。
(朝日新聞、1月6日)

朝日新聞がこの手のニュースを載せなくなるのは時間の問題であろう。
正式名「対支経済謀略実施計画」、通称「杉工作」と呼ばれる謀略戦の証拠だ。偽札の実物(変な言い方だが)は、上記の明治大学平和教育登戸研究所資料館にあり、私も一度は見に行かねばと思っていたのだが、最近はすっかり忘れていた。
本記事の価値は、陸軍の登戸研究所だけでなく民間にも偽札の製作の一端が委託されていたことを明らかにした点にある。

日華事変・日中戦争当時、中国大陸では国民政府の通貨である「法幣」と、共産党が支配地域で使用した「辺区券」、そして日本軍が発行した軍票、日本の傀儡政権(汪兆銘政権)が発行した「聯合準備銀行券」、さらに各地の軍閥が独自通貨を発行していたため、中世並みの多通貨併用状態にあった。だが、実際には法幣の信頼度が最も高く、流通していた。戦役が長期化し、泥沼化した戦局を打開する手段の一つとして陸軍が考え出したのが、「偽造貨幣を流通させることで国民党政府に対する信頼を貶める」という謀略だった。
1939年に偽札の製作が開始されたものの当初は失敗の連続だったという。法幣は、英銀行家の指導により、英米の専門の印刷会社で当時の最高度の技術でつくられたものになっており、日本の既存の技術では精度の粗いものしかできなかった。そのため、ドイツから専門の印刷機を導入するなどして1940年夏にようやく完成させた。当時者の回顧によれば、自国の内閣印刷局から技術を盗み取ったこともあるという。また、印刷したての新券を使用済みらしく擬装するために、登戸研究所近辺の女子高生が採用されていた。

偽札の流通は、上海にある「松機関」が担当、上海マフィアと連携して流通に努めた。特に1941年12月に日本軍が連合軍に宣戦布告して英領香港を占領した際、英国製の高度な印刷機を押収、偽札の精度がさらに上がり、国民党の関係者にすら判別がつかないものとなって、流通に拍車がかかった。その総額は40億円とも言われるが、日華事変が勃発した1937年の軍事費が33億円であることを考えれば、その巨額ぶりが分かるだろう。
日本側は、軍票と聯銀券と偽札を利用して法幣の回収に努めるが、重慶政府は英米からの借款で対応した。戦争の長期化と国民党政府の腐敗、そして重慶政府が法幣を際限なく刷り続けた結果、インフレが激化していった。1937年に総発行額14億元だった法幣が、45年の終戦時には5569億元になっていた。
結果的には、陸軍の偽札はスーパーインフレの大海の中に埋もれてしまった格好になるが、その後の国共内戦で国民党政府が共産党軍に敗北する一因にはなったのかもしれない。

これも右派が言う「聖戦」の一側面である。

【参考】
『陸軍贋幣作戦―計画・実行者が明かす日中戦秘話』 山本憲蔵 現代史出版界(1984)
posted by ケン at 12:08| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月11日

仮説:公職追放を考える

安倍一派を始めとする右派の反動政策と戦後デモクラシー否定の動きが加速する一方で、同じ二次大戦の敗戦国であるドイツやイタリアでは「ファッショ復活」などという話は聞いたことがない。また、日本では左翼政党が壊滅寸前に追い込まれているのに対して、独伊では政権党を担えるだけの左翼政党が健在である。その要因は数多く挙げられるのだろうが、一つには戦後の「公職追放」が日本では非常に中途半端に終わり、戦争責任追及や「脱ファッショ・脱ミリタリズム」が不十分だったことがあるのではないかというのが私の仮説だ。

日本における公職追放は、まず1945年10月にまず警察・特高関係者6千人、次いで教職員7千人に対して、GHQから日本政府に対して追放の指示がなされた。これは、東久邇内閣が共産党員を始めとする政治犯の釈放や特高警察の廃止に否定的で、民主化政策に対しても非協力的であったことに対して、GHQが指揮権を発動したような形だった。その影響で東久邇内閣が瓦解し、より協力的な幣原内閣が成立するものの、これも民主的選挙を経て成立した内閣ではなく、戦前型の超然内閣であったため、GHQの憂慮するところだった。
結果、占領軍の監視下で厳密な民主的選挙を行い、軍国主義者や国家主義者を排除した議会、次いで議会で選出された内閣をつくらなければならない、という判断に傾いていった。そこでGS(民政局)とCIS(諜報部)を中心に粛清計画が練られ、翌46年1月4日の追放指令となった。これは、全く協力の意思を見せない日本政府に対して、GHQ指令という形を取らざるを得なかった結果だった。
例えば、日本政府内部で国会議員の追放対象者を検討したところ、該当者はわずか9名(衆議院定数466)という回答になり、GHQ側を大いに失望させている。そのため「大政翼賛会推薦」という基準を新たに提示、それでようやく現行議会(帝国議会衆議院)の8割を網羅することになって、GHQを納得させている。だが、その新基準は今度は、鳩山一郎や西尾末広といった非推薦の軍国主義的議員や、翼賛選挙に立候補しなかった浅沼稲二郎のようなものを粛清対象から外してしまうという新たな問題を生じさせ、こうした連鎖が公職追放の公正性や適正性を蝕んでいった。

A.戦争犯罪人
B.陸海軍の職業軍人
C.超国家主義団体等の有力分子
D.大政翼賛会等の政治団体の有力指導者
E.海外の金融機関や開発組織の役員
F.満州・台湾・朝鮮等の占領地の行政長官
G.その他の軍国主義者・超国家主義者


この基準に従って、「公職審査委員会」が設置され、戦後初の民主的選挙の立候補資格について審査がなされた。例えば、民政党の流れを汲む進歩党では結党時274人のうち資格審査を通ったのはわずか14人に過ぎず、社会党ですら17人のうち10人しか通過しなかった。それでもGHQ側は不満で、「当選後でもGHQが再審査することがある」という声明を出すほどだった。

1946年4月10日、戦後初の衆議院選挙が行われ、日本史上初めて女性の参政権が行使された。だが、全464議席のうち、自由党140、進歩党94、社会党93という具合で保守政党が過半数を占め、GHQを失望させた。この選挙で鳩山一郎・自由党総裁が「反共戦線」の構築を掲げ、それが国民的支持を受けたことも、GHQのリベラル派からすると「ファッショ」にしか見えなかった。結果、組閣を進めていた鳩山に対して、GHQが直接「公職追放指令」を下す事態に発展、吉田茂内閣が成立するも、公職追放のダブルスタンダードの問題が顕在化した。

興味深いのは、当時一部のGHQの内情に通じる者以外、大多数が「大政翼賛会非推薦で、リベラリストの鳩山氏が追放されるわけが無い」「鳩山氏が追放されるなら皆追放対象だ」くらいに考えていたことだ。だが、現実の鳩山は、例えば1930年の統帥権干犯問題では軍縮を主張する濱口内閣を攻撃、さらに濱口辞任後に成立した若槻内閣を軍部と共謀して倒閣を図り、満州事変に際しても軍部に同調して若槻内閣の「弱腰」を非難している。また、滝川事件に際しては、文部大臣として辞職を拒否する滝川を大臣権限で休職処分にしている。鳩山は少なくとも本人の意識の上では自由主義者だったかもしれないが、現実の政治行動としてミリタリズムに積極的に協力し、戦前期の限られた自由と議会政治をも葬り去る一因をなしたことは疑いようがない。「東条内閣打倒の一役を担った」という肯定的評価もあるが、それは戦況が不利になったことを受けて、軍閥に対する協力から手を引いたとみるべきだ。実際、昭和17年の翼賛選挙演説集には「今日の大東亜戦争は、元を正せば私が立案者なのである」という鳩山の演説内容が記載されており、これが公職追放の決定打となっている。もっと単純に考えれば、単に尻の軽い機会主義者だったということかもしれない。
GHQは鳩山を軍国主義者と断定し、後世の視点から見ても妥当と判断されるが、当時の少なくない日本人が「不当」と判断していたことは、軍国主義や全体主義に対する理解や自覚が不十分だったことの表れと見て良い。

ミリタリズムに積極的に加担した鳩山や国家社会主義者である岸信介らは、サンフランシスコ講和条約の締結とそれに伴う占領解除を前後して、公職追放からも解除、多くが政界に復帰した。その結果、鳩山〜岸内閣では閣僚のうち6割以上が元戦犯ないし公職追放経験者という有様になった。今日の安倍一派は「戦後レジームの打破」などというが、何のことはない、少なくとも政界の中枢は占領解除・再独立とともに「戦前レジーム」にほぼ復帰していたのである。ただ、鳩山・岸が目指した戦前体制への反動回帰という試みは、社会党を中心とした国会の「3分の1」の壁に阻まれ、憲法改正を断念せざるを得なかった。このことは、GHQと日本側のリベラル派が反動を危惧して改憲規定を厳格(衆参各院で3分の2以上の賛成)にしたことが功を奏したことを示している。なお、社会党が作成した憲法草案が改憲規定を「2分の1」としていたことは、彼らの反動に対する警戒心が弱かったことと同時に、左派による「社会主義的改憲」の余地を残す狙いがあったことを伺わせる。

ドイツの場合も、占領解除後、特に西ドイツを中心に「脱ナチ」の行き過ぎによる社会的混乱が指摘され、同じく追放解除がなされたものの、日本とは異なり重罪人は解除指定から外された。この際、やはり保守派が「全員解除」を主張したのに対して、左派やキリスト者を中心に「限定解除」が論戦を張り、後者が勝利している。ところが、日本の場合、社会党内に多くの公職追放者を抱えていたこともあって、「全員解除」で集約されてしまい、論戦にすらならなかった。つまり、共産党を除いて、戦争犯罪や軍国化の政治責任の追及といったものが低調に終わり、占領解除とともに水を流してしまった結果、権威主義やミリタリズムの根を大きいまま残してしまった、というのが私の仮説である。
ただ、池田内閣以降の高度成長によって日本人が経済的繁栄を謳歌し、貧困を忘れたか目をつむった結果、権威主義の禍根・萌芽が残っていることを忘れてしまったのではなかろうか。
posted by ケン at 20:21| Comment(4) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月28日

大伯父の肖像:スーパーエリートの系譜

自民党のタカ派として鳴らした大伯父が、実は東京帝大の河合栄治郎教授の門下生だったことが分かり、驚愕しつつ、その軌跡を調べ直すことにした。
この大伯父は父方の祖母の兄に当たるが、明治38年(1905)に二松学舎の漢学教授の四男に生まれた。その母は共立女子職業学校を出ており、家庭教育は厳格そのものだったようだが、祖母は東京女子医専に入って女医になっているのだから、保守本流の良妻賢母路線とは一線を画していたものと思われる。
府立四中(戸山)から旧制一高に進み、昭和4年(1929)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、大学院に進み、河合栄治郎ゼミで社会政策を専攻した。しかし、河合先生に「高文を受けて官界に進んでみてはどうか」と言われ、高等文官試験を受け合格、大学院を中退して内務省に入った。「(教授に言われなければ)そのまま大学で教授になっていただろう」と。推察するに、大伯父の頭の回転の速さと要領の良さを見た河合教授は「研究者よりも官僚向き」と考えたのかもしれないし、自分の教え子を内務省の送り込むチャンスと捉えたのかもしれない。実際、総理秘書官、県知事、調査局長を歴任するのだから、河合先生の慧眼は超人的としか言いようがない。だが、それから8年を経て政府の弾圧を受けて大学を追放され、憤死してしまうことを思えば、全く世の中諸行無常だ。
なお、一高〜東大の同期には、福田赳夫、前尾繁三郎、遠藤三郎らがおり、特に福田とは一高の寮で部屋が隣だったとかで仲が良く、秩父方面に二人で山登りに行って共に遭難しかけたこともあったという。

補足しておくと、河合栄治郎は戦前期を代表する自由主義経済学者で、フェビアン協会流の社会政策を専門としており、近代経済学ともマルクス主義とも異なる潮流にあった。河合が英国から帰朝して社会政策講座を持ったのは昭和初年のことなので、時代の最先端を行っていた。恐らく進取の気性に富む若者に大人気だっただろう。同ゼミには大河内一男(労働組合研究の泰斗)もいたはずなので、河合教授は大河内を研究の後継にして、伯父上を実践者として内務省に送り込むつもりだったのかもしれない。
また、当時の内務省は万能官庁で、地方自治や治安部門はおろか、現在の厚生労働省や国土交通省などの機能も有していたので、河合教授の教えを実践するとなると、内務省に入るほか無かった。

ところが、伯父は専門畑とは全く異なる公安畑を歩むことになってしまう。最初は山梨県属だったようだが、次はいきなり静岡県で特高刑事をやらされている。そして、入省からわずか4年で山口県警務課長(警視?、総務課に相当)に栄転しているのだから、キャリアとは言え恐ろしい出世スピードである。さらに長野県警務課長を経て、昭和12年(1937)に出来たてホヤホヤの「内閣情報部」に出向している。同部は戦時を前提に国内の情報統制、情報収集、対外情報発信を統合する目的で内閣に置かれたもので後の情報局に相当する。いかに伯父の能力が買われていたか想像されるが、どのような能力が評価されたのかまでは分からない。
昭和14年(1939)には内務省警保局経済保安課の事務官として経済統制と食糧統制に従事、昭和17年(1942)には海軍の南方政務部に出向、インドネシアやセレベス島も回っている。
昭和18年(1943)8月には内地に転任、静岡県警察部長となっている。入省から13年、38歳だから、スーパーエリートの典型と言えようが、恐ろしいスピードである。県警部長は、今日でいう県警本部長だが、戦前の警察はまさに権力そのものであり、その権威は現代人には想像しがたいだろう。
だが、一年半後の昭和20年(1945)4月には鈴木貫太郎内閣の成立に伴い、総理秘書官に抜擢されるが、海軍の希望と推薦があったというのだから、あるいは海軍と内務省で陸軍の暴走(本土決戦)を抑え、終戦に備えるための人事だったと推察される。

終戦を経て鈴木内閣が総辞職した後、警視庁警務部長に転任。警視総監、副総監に次ぐナンバー3である。この時、GHQの意向もあって、庁内の反対を抑えて日本初の婦人警官を導入している。婦人警官の制服は、三越からデザイナーを呼んでデザインを任せ、記者クラブで「披露式」を行うなど、明治官僚とは思えない斬新さを見せている。
翌21年(1946)11月には、前知事の急逝を受けて官選最後の高知県知事となるが、同年12月に南海大地震が起きて、戦災と震災のダブルパンチという難業となるも敏腕を振るい、その手腕が吉田茂の目にとまることになる。
翌22年(1947)4月には初の知事公選が行われるが、その手腕を評価する現地の自由党が本人の承諾を得ず勝手に立候補届を出してしまう。しかし、伯父は「官選知事の横すべりは初の民主選挙を冒涜する」として固辞している。
その後、本省に戻り、調査局長として特高の解体、自治体警察への転換、廃娼などの監督に当たっている。
昭和23年(1948)10月に第二次吉田内閣が成立すると首席秘書官として迎えられ、吉田の求めに応じて政界に転じ、翌年の24回総選挙で衆議院議員に転じた。この時、県警部長を務めた静岡から出馬することになったのだから、当時の警察がいかに権力そのものだったか分かるだろう。

こうして俯瞰すると、治安畑を歩む強面の内務官僚という側面と、婦人警官の導入や廃娼の推進、都市計画の促進など河合門下生らしい側面の二つが見えてくる。特に後者の面は、岸信介や和田博雄らの国家社会主義系革新官僚とは明らかに毛色が異なる自由主義的傾向が見て取れる。
考えてみれば、プーチンもレニングラード大学きっての民主・リベラル派であるサプチャック教授の門下生だったのだから、意外と「そういうもの」なのかもしれない。

静岡県護国神社には伯父上の銅像があるらしいので、近々行ってみようと思う。
posted by ケン at 13:40| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月08日

日清戦争の「勝利」を検証する・下

前回の続き)
では、講和条約と戦後処理を経て、清と朝鮮をめぐる国際情勢はどうなっただろうか。
まず日本が下関条約で領土割譲を要求、実現させた結果、いわゆる「三国干渉」が生じた。これは日本が遼東半島、台湾、澎湖諸島などの割譲を受けたことに端を発する。当時、北京条約以降、列強各国は植民地獲得競争の激化と中国のナショナリズムの激化を警戒する意味から清国に対して領土割譲は要求しない暗黙のルールがあったのだが、新興国の日本がこれを破った上に、列強の干渉を生んだ。その結果、日本は遼東半島を返還、替わってロシアが租借して旅順要塞を完成させて艦隊を配備してしまった。さらに1897年にはドイツが膠州湾を、同99年にはフランスが広州、イギリスが威海衛と九龍を占領、租借し、これが「義和団の乱(北清事変)」を招いて清帝国の瓦解を早めている。

この三国干渉の影響は朝鮮にも波及する。戦争中から日本軍は朝鮮国内で農民運動や抗日運動に対して過酷な弾圧を加え、韓国における研究ではその犠牲者は3万人以上に上るとしている。反日感情が高まっていた上に未熟な統治が日本に対する評価を下げていたところに三国干渉が生起したため、ロシアの後ろ盾を得た閔妃が政権のイニシアチブを握り、その反作用として1895年10月8日、日本側は乙未事件を起こして閔妃を暗殺するものの、最終的には親露派政権が確立して親日派は追放されてしまう。
朝鮮に親露派政権ができたことを受けて、日本側では「ロシアに(本来オレたちの)朝鮮が侵略されつつある」といった「ロシア脅威論」が生起し、日露戦争の直接的な要因になる。これも伊藤博文らが「満韓交換論」をもって日露交渉を進めていたところ、1902年に日英同盟が成立したことを受けて一気に日露開戦に傾いていった。「後世の歴史家」の視点からは「満韓交換論で何が不満だったんだ?」と疑問を抱いてしまうが、当時の主流派は「朝鮮も満州もオレのもの」という欲深を「ロシア脅威論」で擬装しており、今日では「ロシアの脅威に立ち上がった日本」という伝説(司馬史観)だけが残ってしまっている。

清では、朝鮮半島の喪失を受けて、新たに発生した日本の脅威から満州(清帝室の故郷)を守るためにロシアへの接近を強め、1896年に露清密約(李=ロバノフ協定)を締結、ロシアは満州における東清鉄道の敷設権と軍の駐留権、戦時の港湾使用権などを獲得した。今日で言う、対日集団安全保障の一環だった。この後、1900年に義和団の乱が生起して、第二次露清密約が結ばれ、さらにロシアの満州権益が拡大、これも日本側に対露開戦を決断させる要因となった。

日本国内では、三国干渉を受けて遼東半島を返還した政府に対して激烈な反発が起き、議会と国民世論を鎮めるためにも軍拡を約束せざるを得なくなった。その結果、下関条約で得た3億1千万円と遼東半島還付によって得られた4500万円のうち3億円が軍備拡張に費やされ、陸軍は7個師団が13個師団になり、海軍は「六六艦隊計画」を発動した。当時の松方正義蔵相は過大な軍拡に反対、「産業育成を同時に行わなければ軍備の維持は不可能」な旨を説いたが、鼻息の荒い軍部と議会によって辞任に追い込まれてしまった。日清戦争前の租税収入が約6700万円、開戦後の大増税によって1億2千万円になったものの、全く身の丈に合わない軍備だったことは間違いない。
この軍拡を推し進めた結果、対露開戦が既定路線となり、議会では藩閥・吏党・民党が軍拡(ミリタリズムの推進)で一致、日露協商路線を破棄して日英同盟に突き進んでいったことは、昭和期の軍縮条約破棄から対米開戦への流れの中で海軍の反対が中途半端に終わって日独伊三国同盟を許してしまった経緯を彷彿とさせる。今日で言えば、対中脅威論から軍拡を推し進めた結果、日中開戦論が沸騰して「対中戦を想定して獲得した予算で自衛隊を整備しながら、今さら戦争できませんとは言えない」という感じだろうか。

問題の三国干渉についても、本来は「朝鮮の独立(独占的支配権の前提として)」を求めて戦争を始めた日本が、本来の目的外である領土割譲を要求したために生起したものだった。さらに言えば、当時の政策担当者たちは、領土要求が列強の干渉を呼ぶことを予想していながら、イギリスやアメリカの外交的支援を得ることに失敗、干渉が起きてからも英米の支援を求めるがすげなく断られ、国際的に孤立し返還を余儀なくされている。
また、下関条約で過大な要求が実現した結果、上記のように清国とロシアの接近を許しただけでなく、清国そのものの衰退を加速してしまった。これは結果論かもしれないが、日本側が「武士道精神=勝者の寛大」を発揮せずに欲深な要求を突きつけた結果、清もロシアも朝鮮も敵に追いやってしまったのである。そもそも台湾は戦争中に上陸すらしておらず、日本が当初掲げた戦争目的とも全く無縁だった。あるいは、日本国内のナショナリズムの高揚(爆発)を考慮すれば、戦後処理とシヴィリアンコントロールの難しさを強調すべきかもしれない。

話を整理しよう。確かに日本は軍事的勝利を収めて清国を屈服させ、客観的にも主観的にも勝利を収めた。ところが、本来の戦争目的である「朝鮮の独立(独占的支配権の前提)」については、朝鮮を清帝国圏から脱しせしめたものの親露国にしてしまい、今度はロシアの影響力を排除するために(より難敵である)ロシアと戦争する必要が生じてしまった。
朝鮮が親露国になった直接的原因は三国干渉にあるが、これは日本が清国をめぐる暗黙の国際合意に配慮せず、また他の列強の後援(了解)を得ずに清に過大な要求を行った結果、生起したものだった。
その三国干渉が切っ掛けとなって列強の対清侵略が進み、清帝室の威信は低下、財政的にも破綻して瓦解、日本は交渉相手を失うが、同時にこれを奇貨として大陸進出を図って行くことになる。日本の帝国主義的欲求を刺激したのは、日清戦争における過大な勝利と要求だったと言えるのではないか。

また、日本国民としては対露戦役に備えるために戦時増税が常態化してしまい、日露戦争においてさらに増税が課されることになるが、これら増税の圧倒的大部分が軍備に費やされ、日本の産業育成が非常に遅れ、重工業への移行が進まないまま、一次大戦と二次大戦を迎えてしまった。また、日本人の意識としては「列強に負けるな」「大陸進出は悲願」「ロシアを倒せ」といった肥大化した自我ばかりが育ってしまい、それはよく言えばナショナリズムや国民意識だったかもしれないが、結果的にはそれが日露戦争から第二次世界大戦の敗北に至る戦争と侵略の連鎖を招いたのである。古老たちは沈黙しているが、大陸進出を推進したのは軍部の独断ではなく、広範な国民的支持があったのだ。
そして、宣戦詔書の末尾で「速に平和を永遠に克復し、以って帝国の光栄を全くせむことを期す」とした明治帝の願いはついぞ実現すること叶わなかった。

日清戦争は軍事的には勝利したかもしれないが、外交的には敗北の連続であり、新たな脅威と危機を招いた上に、国民生活を逼迫させて産業発展を遅らせ、かつ批判を許さないミリタリズム(軍国主義)の風潮を形成してしまった点で、政治的には従来の評価を根本的に見直す必要があるのではなかろうか。
是非とも古老やご先祖たちの意見を伺いたいところである。

【参考】
『日清戦争−近代日本初の対外戦争の実態』 大谷正 中公新書(2014)
『近代日本の形成と日清戦争』 檜山幸夫 雄山閣出版(2001)
『日清戦争と東アジア世界の変容』 東アジア近代史学会 ゆまに書房(1997)
「日清戦争終結に向けた日本外交と国際関係−開戦から三国干渉成立に至る日本とイギリス」 古結諒子 『史學雑誌』120号(2011)

日露戦争のツケ
朝鮮統治のツケ

【追記】
キリスト者の名誉のために内村鑑三を擁護しておきたい。当初こそ日清戦争を「正戦」「義戦」と支持した内村だが、戦争の内実と戦後処理の過酷さを知って改心した。1897年には「猛省」を発表、下関条約は平和条約ではなかったとしつつ、「あの恥ずべき条約の結果、まだこれから起こるべき幾多の破滅的な事件を予想するに、予言者の目を必要としない」(現代語訳)との見解を述べている。後日、日露開戦に反対して萬朝報を辞し、キリスト者の中で孤立して行くことになる。

【追記2】
古い日清戦争研究は特に日本外交と国際関係について陸奥宗光の回顧録(『蹇蹇録』)に負うところが大きく、相当に主観的な自己評価がそのまま歴史評価に結びついていたが、近年ではこれを批判的に読み解くとともに海外の研究や資料と照らし合わせることで、陸奥の回顧録の信頼性に大きく疑問符が付けられるとともに再評価が進んでいる。特に三国干渉の経緯や国際的影響についてはまだ再検討の余地があるようだ。
また、清側は早い段階(94年11月)から「朝鮮の独立」と「賠償金」の2点での講和を検討し始め、列強も大筋では合意していたようだが、日本側は戦果の拡大を希望して交渉を回避、列強も各国の思惑から最終的な合意に至らなかったため、休戦交渉は先延ばしにされた。その結果、日本軍は鴨緑江を渡り、遼東半島を占領、満州南部を占領、山海関に迫り、山東半島にも上陸した。言うなれば、日本は賭場で勝ちまくって胴元に凄い目で睨まれていたにもかかわらず、調子に乗って勝ち続けた結果、帰る段になって「おいこら、勝ち逃げするんか」とクレームを付けられたような感じだった。
posted by ケン at 12:19| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月07日

日清戦争の「勝利」を検証する・上

「ノルマンディ上陸作戦70周年」はそれなりの話題を博しているが、日本人的には「日清戦争開戦120周年」の方に関心を持つべきかもしれない。だが、日露戦争に比して日清戦争は様々な理由から今ひとつ一般の関心が低いように思われる。かく言う私も尖閣諸島の領有権問題や沖縄の独立問題が浮上した関係でようやく学び直し始めたばかりだ。
私の関心は戦争の過程や作戦内容よりも、開戦経緯や戦後処理あるいは戦時財政にある。本ブログでは、日露戦争における戦時財政について検証しているが、政府が戦争や財政の内実を隠蔽した結果、「欧州列強の大国であるロシアに圧勝した」というイメージが国民に流布し、現代では司馬遼太郎の小説などによって同様のイメージが定着してしまっている。
日清戦争については日露戦争ほど関心が高くないため、一般書籍は多くないものの、日中共同研究を含めた学術研究は進んでいる。しかし、圧倒的多数の歴史観は従来のままにあると思われるので、私自身も検証途上ながら少しずつ考えていきたい。

一般的に、軍事学において、戦争の勝敗を考える根拠は3つの要因から成り立っている。

@ 客観的要因:占領した土地、敵味方の損害など(具体的、数値化できるもの)
A 主観的要因:当事者がどう考えているか(達成感とか敗北感といったもの)
B 目標到達水準:作戦目標をどの程度達成したか


この3つの要因がすべて達成されていれば、まず無条件勝利と言える。
2つの達成にとどまる場合は、留保がつき、完全な勝利とは言えなくなる。
1つしか達成していない場合は、客観的には勝利したとは言い難くなる。
以前、ノモンハン事件に関するソ連側の機密文書が公開されてソ連側の損害が日本と同レベルだったことが判明した際、日本の歴史修正主義者たちがこぞって「日本はノモンハンで負けたわけではなかった」と喧伝したことがあったが、これは上記の客観的要因の一部を誇張しただけのもので、「ソ連側勝利」という歴史的評価を覆せるようなものではなかった。

これを日清戦争に当てはめた場合、客観的要因と主観的要因は、軍事的に日本が圧勝して朝鮮半島から清軍を排除した上で領土割譲と賠償金を含む講和条約を締結したのだから、「清国敗北、日本勝利」として間違いないだろう。問題は3番目の「目標到達水準」であるが、従来の歴史評価はここが弱かった印象があり、それ故に「完全勝利」のイメージが定着している観がある。
そこでまず日清戦争開戦に際しての宣戦詔書を見てみよう。カナはかなに振り替えて読み下し文にした。
朝鮮は、帝国が其の始啓誘して、列国の伍伴に就かしめたる独立の一国たり。
而して清国は、毎に自ら朝鮮を以って属邦と称し、陰に陽に其の内政に干渉し、其の内乱あるに於て、口を属邦の拯難に籍き、兵を朝鮮に出したり。
朕は、明治十五年の条約に依り、兵を出して変に備えしめ、更に朝鮮をして禍乱を永遠に免れ、治安を将来に保たしめ、以って東洋全局の平和を維持せんと欲し、先ず清国に告ぐるに、協同事に従わんことを以ってしたるに、清国は翻て、種々の辞ネを設け、之を拒みたり。

これは一部分だが、要は「本来独立国であるはずの朝鮮を、清国は属国と称して内政干渉し、日本の対朝協力を妨害、日本側の数々の提案も拒否し、朝鮮に大軍を送るに及んだため、宣戦布告に至った」というものだった。もちろんこれは日本側の一方的な主張に過ぎず、現実には朝鮮は清帝国ブロックを形成する一国であって純然たる独立国たり得なかったわけだが、本稿の主題はそこにはない。ただ、もう一言付け加えるなら、日本は宣戦詔書で「朝鮮の独立」を求めながら、開戦に先立って朝鮮に対して行ったことは、軍事力によって内政改革を強要するという完全な内政干渉だった。
宣戦詔書を読めば分かるが、朝鮮半島における清の影響力を排除して日本の影響力(栄光)を確立することに主眼が置かれ、むしろそれ以外のことには触れていない。実際、日本側は当初(開戦前)、清国側に朝鮮半島について現代に言う共同統治を申し入れたわけだが、外交交渉の中で浮上してきた天津条約案は当時(甲午農民戦争)の軍事・政治バランスを反映して清国側に有利な内容のものだった。
それに危機感を覚えた日本側は半島の軍事バランスを修正するために混成第9旅団を派兵する。この際、伊藤博文総理は平時編制の2千人程度を想定していたが、陸軍の川上操六参謀次長は戦時編制の8千人にして送ってしまう。派兵を決した伊藤にしても、不平等条約改正問題で非難にさらされる中で衆議院解散を控えて、「人気取り」あるいは「タカ派を抑える」という判断が働いていた。ところが、いざ派兵してみると、朝野のマスコミ、輿論が沸騰、さらに衆議院でも開戦論が圧倒的多数を占めるに至り、閣内でも大山陸相と陸奥外相が開戦を迫って伊藤は決断を余儀なくされた。

つまり、日清戦争は政策担当者の主観的には外交交渉の敗北を軍事的勝利をもって上書きすることを目的とし、政治的には朝鮮半島から清国の影響力を排除して日本の単独的影響力を確立することを目的として始められた戦争だった。実際、開戦に先だって日本軍が行ったのは朝鮮王宮の制圧と、李王家の確保だった。
ただし、大衆的には全く異なる文脈で受け止められており、キリスト者の内村鑑三ですら「日支那の衝突は避べからずと、而して二者衝突して日本の勝利は人類全体の利益にして世界進歩の必要なり」(1894年7月27日、国民新聞)という具合に「近代国家と封建国家による文明戦争」と捉えていた。この解釈は今日の「対テロ戦争」に繋がる系譜と言える。

余談になるが、日清戦争の開戦時、宣戦詔書公布の後に土方久元宮内相が伊勢神宮および先帝稜に派遣する勅使の人選について明治帝に相談したところ、帝は同戦争について「朕もとより不本意なり、閣臣等戦争のやむべからざるを奏するにより、これを許したるのみ、これを神宮および先帝稜に奉告するは朕甚だ苦わしむ」と言うので、土方が慌てて諫めたところ、お前の顔など見たくないと怒られ退出させられたという。
明治帝は今日に言う平和主義者ではなかったが、「朝鮮に軍を出しても清と戦争になることはあり得ない」と無責任な説明がなされ、その後ロクに経過報告もされないまま事後的に開戦の報告がなされて宣戦詔書の公布が求められたのだから、ブチ切れるのは当然だった。この辺りの官僚や政治家の態度(利用主義)は昭和から平成に至るまで変わらない。
以下続く
posted by ケン at 11:37| Comment(0) | 日本語、日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする