2019年09月09日

非居住地で出馬当選の問題点

【N国党新宿区議の当選無効 選管、居住実態なしと判断】
 東京都新宿区選挙管理委員会は2日、NHKから国民を守る党で4月21日投開票の同区議選に当選した松田美樹氏(32)について、公選法が定める区内での居住実態が認められないとして、当選無効を決定した。21日以内に都選管に審査を申し立てなければ正式に決まり、次点候補が当選者となる。
 区選管によると、松田氏は2018年12月21日に同区への転入届を提出。以降毎月の水道とガス使用量は0〜1立方メートルで、電気も室内の冷蔵庫の消費電力と同じ程度だった。
 松田氏は区選管の聞き取りに「寝泊まりしていた」と説明したが、ペットの世話など生活の多くが転入前の住所で行われていた。
(9月2日、共同通信)

非居住地で自治体選挙に出馬して、当選後、「実態無し」として問題になるケースは意外と多い。
勢いがあった時の民主党でも散見されたし、その後、「みんな」「維新」などでも同様のケースが、自分が覚えている限りでも複数件見られた。全体で言えば、かなり少数ではあろうが、多くの問題をはらんでいる。

地域の権益の代弁者として、地域居住者の主権を代行するために代議員が選出されるわけだが、非居住者がいきなり居住地外の自治体に来て立候補して、多数の票を得て「選出されてしまう」ということである。従来は、良くも悪くも、顔の見える候補者が地域を回って投票を依頼し、あるいは地域ボスや関係者が投票を依頼することで、自治体選挙は成り立っていた。
ところが、都市部を中心に地域と生活が必ずしも一体をなさなくなり、地域コミュニティとは無縁、あるいは縁の少ない住民が増え、むしろ地域ボス的なものへの拒否感が強まって、「顔の見えない候補」への投票が増える傾向にある。

ケン先生の場合、地域代表を選出するタイプの小選挙区制は国会議員を選出するものとしては不適当であると断じているが、さすがに自治体選挙で同じことは言えない。
確かに自民党のような地域ボスを選出するタイプの選挙戦術が弱まっていることは、ある意味では好ましいと言えるわけだが、では「地域ボスでは無い自治体議員」像となると、どうなのかというイメージがいまだ見えてこないところがある。

私の知り合いにも何人か自治体議員がいて、みな職業政治家であるわけだが、自民党議員を除くと地域ボスではなく、では誰を代表しているかと言えば、主流は居住地近隣で後援会を組織して、政党票などを上積みするといった傾向の者が多いように見受けられる。
それはもちろんそれで良い。しかし、アメリカ・ヨーロッパの場合、居住地と社会階層がほぼ一体化しており、これが支持政党に直結してきたわけだが(今日では崩れてきている)、日本の場合、社会階層と支持政党が一致しておらず、「たまたま某党から出馬した者が、たまたま選挙が上手く、当選してしまう」ケースが非常に多い。
これは、自民、KM、NK党以外の政党が自前の組織を持たず、候補者の資質(いかに上手く後援会を組織できるか、いかに上手く選挙を演出できるか)に依存していることに起因している。

その結果、ある政党が流行すると、その勢いだけで何もせずに当選してしまう者と、自前の組織で当選したがために、政党の理念や政策に全く従わない者が続出するところとなっている。
自前の組織を持たない政党は、自前で候補者を育成できないため、「カネを自前で用意して議員になりたい者」を優先的に公認し、その結果、記事のような「居住実績の無い自治体議員」が誕生することになる。

さらに言えば、自治体議員選挙の投票率も低迷しており、都市部では「40%あればマシ」という状態になっていることも、ちょっとした人気のみで当選できてしまう素地をつくっている。
もっともデモクラシーの観点から言えば、「誰でも代議員になれる」状態は非常に好ましいわけだが、その結果、丸山某や小泉某が我が物顔で議員をやっていると考えると、やはりデモクラシーの黄昏を思わざるを得ない。

まぁ結論は無く、あくまで戯れ言の独り言である。
posted by ケン at 12:00| Comment(2) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月21日

自由と民主の統治原理と抽選制議会の可能性について

最近欧州では抽選制選挙による代議員の選出が検討されている。
フランスで大統領候補になって20%近く得票したメランション氏などは、公約に国民議会選挙の一部抽選化を謳っていたほどだ。
これは文字通り、有権者の中から完全にランダムで抽選、当選した者が無条件で代議員となる制度である。
実際、マクロン大統領は政府が作成する法案の諮問する機関の一つ経済社会環境評議会の評議員の一部を市民から無作為で抽選すると述べている。
アイルランドやアイスランドでも憲法を審議するために同制度が用いられている。
歴史的には、古代ギリシアやローマでも抽選制が採用されている。

その背景にあるのはエリートとプロ政治家に対する深刻な不信である。
世界を見た場合、アメリカでトランプ氏が大統領に当選したが、「エリート中のエリート」「政治のプロ」であるクリントン氏を相手に「素人性」を強調したことが大きな原因になっている。
イギリスでは、エリートとプロ政治家がこぞってEU残留を主張したのに対し、ノン・エリートとアマ政治家がEU離脱を訴え、後者が勝っている。
ギリシアのSYRIZAやスペインのポデモスも、既存の社会民主主義政党がエリート化したことに対して、そのアンチテーゼとして「非エリート」「大衆民主主義」などを主張して大きな成果を挙げている。例えば、ポデモスはインターネットを使った全党員による投票を最高意思決定機関としており、エリートと党官僚に基盤を置く政党統治原理を否定している。
日本でも、リベラリズムに基盤を置き、「エリートによる統治」をめざす民進党の系統が嫌われ、「れいわ」や「N国」のような非エリートに票が集まりだしているし、自民党にあっても東大出官僚の大物議員は絶滅しつつある。

その原理は「誰が統治すべきなのか」に起因する。
デモクラシーは「大衆による大衆の統治」「全主権者による意思決定」を旨とする。
「自分たちの支配者は自分たちであり、自分たちのことは自分たちで決める」というもので、だからこそ直接民主主義が理想とされる。

これに対してリベラリズムは「エリートによる大衆統治」「選ばれた優等人物による意思決定」を旨とする。
リベラリズムは本来、王権や貴族のような血統支配からブルジョワジーの財産と権利を守るために生まれた統治原理であり、「王や貴族の横暴から個々人の権利と財産を守る」ことを至上とする。そのため、王や貴族に対抗できる優秀な人物を統治者・調整役として「選出」するという発想になった。これがエリート=選良である。

代議制民主主義は、直接民主主義が物理的に困難であるため、大衆の中から投票によって選出されたエリート代議員が国政を審議し、意思決定を行うという統治原理である。
ところが、1990年代以降、エリートによる統治が上手く機能しなくなり、国内の生活水準が急悪化する一方、エリート層の資産は肥大化、経済格差は拡大の一途にある。中間層の没落はグローバル化の流れの中で避けられない側面はあるのだが、ごく一部のエリートの資産だけが肥大化し、それを肯定する統治(例えば企業や富裕層に対する優遇、あるいは腐敗の放置)に対して怨嗟と憎悪が高まっている。
本来であれば、社会主義政党がこれを是正する役割を担っているわけだが、1950年代以降の戦後和解体制の中で資本と同化してしまい、その党官僚も議員もエリート化してしまった(日本の連合が象徴的)。フランス社会党などはもはや壊滅状態にあるし、ドイツ社会民主党も存続が危ぶまれている。英国労働党は左旋回でかろうじて命脈を保っているという状況だ。

代議制民主主義は「大衆が自ら選出した代議員が正しい意思決定を行う」「大衆によるチェックが働くから腐敗しない」という原理の上に成り立っているが、今の日本の国会を見れば分かるとおり、全く機能していない。
また「大衆による投票」と言っても、小選挙区制の場合、平均的には3割強の得票で選出され、残りの票は死票になっており、「民意が十分に反映されている」とは言えない状況にある。
労働側に視点に立ってみても、大企業のエリート正社員で構成される連合は何人も国会議員を当選させているが、残り9割の非エリート労働者は一人の代表者も国会に送ることができない。これはデモクラシーの原理に反している。

選挙は一見民主的に見えるが、実は「より多数の票を集めたものが総取りする」というゲーム的要素が強く、「ゲームに強い者が勝つ」「流れに乗った者が勝つ」といった要素が非常に大きい。これは「大衆による大衆の統治」とは無縁の話であり、「民主的に選出する」という概念そのものがフィクションに過ぎないと言うこともできるのだ。
丸山某や小泉某を選出する現行制度が果たして「民主的」なのか、あるいは彼らは「エリート」として機能しているのか、懐疑的に検証する必要があるのでは無いか。
であれば、むしろ無作為に選出された者を複数代議員にして政治を諮問させた方が民主的だ、となるのは自然の流れだと言える。
但し、この場合、「選良による統治」が成り立たなくなるので、それはそれで良いのかという話になる。とはいえ、官僚の劣化が著しい現在、そもそも「選良って誰?」「AIでいいんじゃね?」という議論も出てくるので、非常に難しいことになっている。

遠からず現行の統治システムは限界を迎えるので、この辺のことはかなり突き詰めていかないといけないだろう。

【参考】
ダーヴィッド・ヴァン・レイブルック 『選挙制を疑う』 法政大学出版会(2019)
posted by ケン at 12:00| Comment(3) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月05日

安倍政権が支持される理由

「何であんな権威的で腐敗も激しい安倍政権が支持されるのでしょうか?」

旨の質問を受けた。ケン先生的にはかなり「自明の理」のことだったので、特に深く考えたことはなかったかもしれない。
考えてみれば、本ブログはゴリゴリの左翼人が書いている割に、いわゆる安倍批判的なネタは非常に少ない。
そもそも自分が所属あるいはボスが所属していた民主、民進党にしても、「自民党よりはマシ」程度で、相対的に支援していただけで、支持していたとは到底言えない。まぁそれは良い。

まず言えることは、安倍批判系の人たちの批判の矛先は、「憲法に対する態度」「原発に対する態度」「自由・人権に対する態度」が主であり、社会保障や再分配については二の次な感じが見られる。
「改憲反対」「反(脱)原発」「自由・人権」は、55年体制期において旧式左翼(社会党とNK党)が主張してきたもので、常に少数派でしかなかった。現実の彼らの戦略は、「国会の3分の1を維持して改憲を阻止する」というもので、「3分の1が守れるかどうか」という程度のものだった。つまり、60年以上少数派なのだから、同じ主張を繰り返して支持が増える理由が無いのは当然だろう。
付言しておくと、NK党が「脱原発」に転じたのは1990年代のことである。
要は国民の多数派は最初からリベラリズムを政党支持の根幹に置いていないのである。

政府や政権の支持・不支持の一般的な基準は、やはり経済指標と生活水準である。
ケン理論的には、三つの指標で見ると分かりやすい。それは、

・高インフレ(物価高)
・高失業率
・低治安

で、このうちの一つだけなら政府に対する不安は高まっても、維持は可能だが、二つ成立すると急速に社会が不安定化し、三つになると危機的状況に陥る。
近代日本史を見た場合、昭和恐慌期と戦後期が「三つ」当てはまる時期だった。
昭和恐慌は、解決の目処がつかないまま、対中開戦によって暴力による資源収奪で解決しようとしたところ、破滅的結果を招いてしまった。
戦後恐慌も、今でこそ忘れ去られているが、政権は常に安定せず、デモとストライキが横行、治安は最低の状態にあったが、朝鮮戦争の勃発による朝鮮特需によって、まず失業率が一気に改善、生産力が回復すると同時に購買力も向上したため物価も安定傾向となり、社会は安定化していった。そして55年体制が成立する。社会党が不幸だったのは、連立政権を組んだのが最も不安定な朝鮮戦争前の時期だったところにある。もし朝鮮特需の時期が吉田内閣では無く片山内閣だったら、55年体制の有り様も大きく変わったのでは無かろうか。

現代で言うと、政権交代が起きて自民党が下野したのは、バブル崩壊(1993年)とリーマンショック(2009年)期で、ともに一時的に失業率が高まった時だった。それでも、2007年の失業率3.9%が、2009年の最高水準で5.5%になっただけなのだから、わずかな差で凄まじい影響が出ることが分かる。もちろん、物価と治安については大きな変化は無い。
但し、日本政府の失業率計算は全く現状を表していない。霞が関の言う「失業者」は、「無職かつ一生懸命求職活動している者」を指しているためで、バイトしながら正社員を目指しているものや、ハローワークに行かずに求職している者はカウントされない。実際には、2〜3割以上のものが失業者計算から除外されていると考えて良い。

さて、安倍政権である。安倍政権下では、少なくとも数字上は失業率は大きく改善している。野田政権期の4.4%はいまや2.4%にまで「改善」している。これが「アベノミクス」の成果なのか、単に少子高齢化の影響なのか、霞が関の統計改竄によるものなのかについては、議論の余地はあるものの、少なくとも国民の大多数は安倍政権を評価していると言えるだろう。
物価もやや上昇傾向にあるとは言え、全体的にはほぼ横ばいが保たれている。これも商品の中身を減らして価格を据え置くなど、欺瞞的なものが見られるわけだが、ここでは議論しない。
治安については、センセーショナルな事件は別にして、非常に良好な状態にある。
つまり、経済社会の運営について安倍政権に対して不満を募らせる理由は「何も無い」とすら言える状態にあるのだ。

自民党、霞が関が巧妙なのは、法人税の優遇措置や外国人奴隷制度などを上手く利用して、倒産寸前の零細企業や老朽化した大企業の延命を図ることによって生産力を維持、供給過剰状態を存続させることでデフレ(低物価)状態を実現していることにある。
また、小泉内閣などで労働市場の緩和を実現したことで、従業員の非正規率が4割以上になったが、これによって失業率の向上を阻止している。これは非正規職員の生活水準を最低賃金水準にまで落とすことになるわけだが、「失業よりはマシ」「日々の飯は食える」ということで、「安倍即斬」になるのを抑えている。
物価高と失業増を抑えられれば、治安が悪化することもないため、治安は良好を保っているが、例えば警視庁や公安調査庁は「次の時代」を見据えて、国会前のデモに参加した者の全ての顔写真を撮影してファイリングを進めている。当局による盗聴もほぼ自由化されている。だが、こうした側面が政権支持率の低下には繋がってはおらず、「自由・人権」が票にならないことを示している。

とはいえ、自民党や安倍政権が積極的に支持されていると言うことでも無い。
選挙後に行われた世論調査によると、比例区で自民党に投票した者の6割以上が「他に適当な投票がなかったから」との回答を示しており、現状維持バイアスが非常に大きいだけで、自民党・霞が関の政策が積極的に支持されている訳では無いことが分かる。
安倍政権が圧勝しても憲法改正にまで注力できないのは、「そこまでは支持してないけどな」という国民の多数派の意向が見て取れるためだと思われる。そこが、「政権取ったんだから俺の自由にやらせろ!」とやってしまった民主党鳩山政権との違いなのである。

まぁエリートなリベラル人士には理解できないかもしれないが。
posted by ケン at 12:00| Comment(0) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月31日

参院選2019に見る左派の課題

今回の参院選では、与党票はほぼ得票を減らすこと無く、野党内で票の再分配が行われた格好となった。
結果、旧民進、共産、社民の票が減り、それが「れいわ」に流れた。
また、直前の世論調査を見ても、自民党の支持率は30%強でそのまま自民党に投票されたが、野党は筆頭の立民ですら6%程度に過ぎず、「支持できる野党が無い」中で、「他に無いかられいわ」となった可能性を示している。
つまり、「有力な野党が存在しない」現状は今も変わらない。近々また世論調査が行われるだろうが、「れいわ」の支持率が急速に伸びるとは考えがたい。

「れいわ」が伸張した理由は、「安倍批判が強烈だから」というよりも「明確な経済政策」にある。
その主な主張は、

・消費税廃止
・最低賃金1500円
・奨学金「チャラ」
・公的住宅拡充
・正規公務員の増員


だ。これらは旧式左翼が言いたくても言えなかった(言わなかった)政策で、本来は左翼政党が主張すべきものだ。
「れいわ」のHPを見れば分かるが、意外なことに反原発、安保、憲法問題は下の方に記載されている。
ここがポイントなのだ。

欧米で起きている社会民主主義・リベラル政党の凋落は、本来彼らが発揮すべき再分配と階級闘争の主張を忘れ、エリート化(支配階層化、知識人化)してしまったことにある。
日本のNK党や社民党も、憲法、安全保障にはうるさいが、経済政策になると、途端に主張が弱く見える。そこが問題だった。

貧困が急速に進み、中流が没落する中、本来は社会主義的政策が求められるはずだが、その需要を満たす政党が存在しないことが、ポピュリズムにつながっている。貧困層がトランプ氏やル・ペン氏を支持する構図がそれだ。
ところが、日本では貧困層が自民党を支持しており、NKや社民を支持する貧困層は決して多くない。
野党内におけるその受け皿が、「左翼では無い」「れいわ」に流れる現象は、ギリシアやスペインのポピュリズムに近いかもしれない。

恐らく今後、左派に求められる政策はリベラリズムではない。
憲法、安保、人権、原発などの主張は再検討、ないし優先順位を下げる必要がある。
そして重要となるのは、

・消費減税(廃止)
・資産課税
・法人課税強化(税率アップではなく優遇廃止と課税強化)
・教育無償化
・公共住宅の整備(居住住宅の非課税化)
・最低賃金上げ
・非正規職員に対する社会保障強化
・公共部門へのてこ入れ
・労基法の徹底遵守(ブラック企業対策)
・部活動の全面廃止

・外国人労働者反対
・保護貿易


などだろう。移民、外国人労働者に反対するのは、賃金の低下を避けるためである。
本来、労働力不足は生産効率の上昇で対応すべきものであり、生産性の向上に応じて賃金が上がり、内国市場が発展するのが、「あるべき市場」の姿だった。
しかし、日本の場合、低賃金労働が定着、労働運動も殆ど機能しないため、賃金が上がらず、資本側は生産性を向上させる必要がなかった。
その結果、他国であればとっくに淘汰されているはずの低収益企業がゾンビ化、ブラック企業とともに存続してしまっている。
日本の経営層が無能なのは、無能であることが許される環境が存在しているためだ。その象徴が低賃金と超長時間労働であり、そうした風潮を育成しているのは学校教育であり、部活動であると言える(その上に天皇制もある)。

西側諸国で社会民主主義政党が衰退したのは、戦後和解体制の中で階級政党を脱し、国民政党化して政権まで担った「成功体験」が災いして、戦後和解体制が崩壊した後(90年代以降)も国民政党の枠組みから脱することができず、階級分化が進み、再び階級闘争が先鋭化している21世紀の政治状況の中で、労働者層や貧困層の支持が得られなくなっているためだった。
日本の場合、自民党と霞ヶ関が低賃金労働を推奨することで、低収益企業を存続させ、低失業率を維持、「大衆の大半がギリギリ貧困を自覚しない生活環境」を作り上げることで、自民党による一党優位体制が存続している。

こうした社会構造が理解できず、将来像を描けない既存の左派政党やリベラル勢力が中途半端な形で存続しているため、いつまで経っても有力な野党が誕生しないという側面もある。
その意味では、「れいわ」には、既存のリベラルや旧式左翼を淘汰する役割が求められるわけだが、現状ではそこまで推測するのは難しい。
posted by ケン at 09:35| Comment(7) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月21日

丸山某は議会から追放すべきか?

【野党6党派、丸山氏辞職勧告案を提出=自民は採決に慎重】
 立憲民主党や日本維新の会など野党6党派は17日、戦争による北方領土奪還に言及した丸山穂高衆院議員に対する辞職勧告決議案を衆院に共同提出した。
 野党は速やかな採決を目指す。これに対し、提出に加わらなかった自民党は、党内協議が必要だとして当面は採決に慎重な立場だ。公明党と週明けに対応を協議する。
 辞職勧告案を提出したのは立憲、維新のほか、国民民主、共産、社民各党と衆院会派「社会保障を立て直す国民会議」。決議案は丸山氏の言動を「論外」と厳しく批判。「国会全体の権威と品位を著しく汚した。議員の職を辞するべきだ」と記した。
 衆院議院運営委員会の野党筆頭理事を務める立憲の手塚仁雄氏は17日、自民党の菅原一秀与党筆頭理事と国会内で協議。共同提出に与党も加わるよう要請したが、決議案の表題などで折り合わず、野党が提出に踏み切った。 
(5月17日、時事通信)

何でもかんでも政争の具にしようとするのは望ましくない。
いくら野党の支持率が低位推移しているからと言って、ブーメランになりかねない手法である。

思い出されるのは、齋藤隆夫の除名事件である。
1940年3月7日の衆議院本会議では、民政党の代議士である齋藤隆夫を除名処分にする採決が行われた。
その理由は、同年2月2日の本会議で齋藤が行った、いわゆる「反軍演説」に対する懲罰であった。
今でこそ「反軍演説」などと聞くと、「どんだけ?」と思うだろうが、実際にその議事録を読んでみると、ごく普通の、当然の質問であって、反軍的内容など指摘する方が難しい。
要は、「国は支那事変をどう解決するつもりなのか」「東亜新秩序とは具体的にどんなものなのか」「世界戦争の危機に対してどう対処する所存か」「汪兆銘政権への対応は?」といった類いである。
そして、もっとも非難されたのは「中国と戦争やって、日本も何万もの兵が傷ついているってのに、戦争目的が大東亜新秩序の建設って何デスか?領土も賠償も取らないなんて、国民は納得しないッスよ!」という点だった。
さらには、実際の本会議場では普通に拍手が鳴り響き、終了後も齋藤の下に激励の手紙や電報が続々と届いたという。

にもかかわらず、齋藤の演説は「反軍的」となり、軍部批判=国家批判と判断されて、懲罰動議が出されることになった。
投票総数447票のうち、賛成296、棄権・欠席144、反対7という、圧倒的な数での除名決議となった。
なお、齋藤の所属する民政党は党議拘束をかけて賛成を強要し、反対者はたったの1人(岡崎久次郎)に過ぎなかった。
社会大衆党も同調したものの、34名中、安部党首や片山哲を含む10人が棄権することになり、うち8名を除名処分にした。浅沼稲次郎、河上丈太郎は賛成している。

つまり、戦時中は戦争指導を疑問視した者を追放し、いまは開戦を主張する者を除名しようというのである。
だが、代議制民主主義はあくまでも主権者の主権と意思を国政に反映すべく、その代理人として議員を選出するシステムであり、開戦論を主張する丸山某もまた、大阪の一部における相対多数の有権者の意思を反映しているだけに過ぎない。これを「開戦論を唱えた」と言って議会から除名するのは、大阪19区の有権者の主権を否定、阻害することになる。

これは「憲法に反した発言」も同様で、国会議員が反憲法的な意見を述べただけで除名されていては、憲法改正など秘密会でしか審議できなくなってしまう。だからこそ、立法の一員である国会議員の身分は特別に保証されているのだ。平和憲法を神聖視する者は、自由主義の原理に反している。
そこは、大臣など行政府側の人間による発言とは区別して考えるべきであろう。大臣や官僚が、憲法遵守義務を負うのは、主権者の意思を反映した議会で制定された法律を、施行者が恣意的に解釈して勝手に運用することを戒めるためである。

丸山某が大阪の民意を代弁する者としてふさわしいかどうかは、あくまでも彼の地の有権者が判断すべきことであり、他地域の主権代行者に過ぎないものが勝手に云々するのは戒めるべきである。
もっとも、逆を言えば、大阪19区の有権者の多数は「北方領土を武力で奪還すべき」と宣言したものを主権代行者として三度選出し、議会で主張させていたことを、重々承知すべきだろう。

日本では、総理大臣が防衛出動(武力行使)を発動する場合、「事前に国会の承認を得るいとまが無い場合」を除いて、事態対処法9条に基づき国会の承認を得なければならないことになっている。
仮に時の総理大臣が「北海道の一部を占領し続けているロシア軍」に対して防衛出動を命じたとしても、事前の承認が必要になる。
もし時の議会が衆参ともに過半数をもって支持するのであれば、「そこはそれ」でしかない。議会制民主主義とはそういうものだからだ。
それすらも納得できないとなれば、やはり現行憲法を厳密に解釈して非武装路線を貫くべきであろう。

【追記】
そもそも論で言えば、「択捉、国後は日本の領土である」などという話は、イギリス人が「フランスは我々の領土である」と言うのと同様(少なくとも16〜17世紀までは言われていた)、愚かにも程がある話でしか無い。だが、それが日本の有権者の一般認識であり、本当に統治形態として代議制民主主義が適切なのか疑われるところではある。
posted by ケン at 12:00| Comment(8) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月21日

議会制民主主義の黄昏

【神奈川県議選24選挙区無投票か 全体の半数、前回2倍超】
 統一地方選の県議選(3月29日告示、4月7日投開票)で、県内全48選挙区のうち最大で24選挙区が無投票になる可能性が高いことが16日、神奈川新聞社の取材で分かった。前回2015年の2倍以上に拡大し、横浜市内(全18選挙区)は最大11選挙区に上る情勢。今も出馬を模索する動きはあるが先行きは不透明で、有権者が一票を投じられない選挙区は史上最多を更新しそうだ。
 かつて旋風を巻き起こした「第三極」の失速などが一因との見方もあるが、地方議員のなり手不足の問題が都市部にも及んでいる現状が浮き彫りになった格好。3政令市を抱える神奈川で、県議会の存在意義が改めて問われそうだ。
 県議選(定数105)の立候補表明者は、16日現在で138人。横浜以外の無投票は川崎市(全7選挙区)が1選挙区、相模原市(全3選挙区)が2選挙区、一般市町村は定数1の選挙区を中心に10選挙区。このままだと有権者の審判を受けない当選者は51人(48・6%)となり、過去最多タイで11選挙区・計19人だった前回を大幅に上回りそうだ。
 告示まであと1カ月余り。相模原市南区や横須賀、平塚市などで出馬の動きが取り沙汰されているものの、擁立作業が最終盤に入っている主要政党の追加公認は限定的な見通しだ。最大会派の自民党は50人を擁立。推薦する無所属の候補予定者を含めると目標の過半数に達し、残る1人区でも検討を進める。立憲民主党は都市部を中心に26人が出馬予定で、「定数3以上の選挙区で選択肢を示す」(県連幹部)方向で調整を続けている。一方、現職8人の擁立にとどめた公明党と国民民主党が新たに公認する可能性は低そう。前回より2人多い14人を擁立する共産党は一部で上積みを検討しているが、無投票の解消にはつながらない見通しだ。前回は維新の党(当時)などから計24人が出馬した「第三極」は、軒並み低調。希望の党が2人公認したものの、日本維新の会の公認はゼロ。社民党は前回に続き擁立を見送った。
(2月17日、神奈川新聞)

地方議会における候補者不足は以前から指摘されていたが、都市近郊においてすら選挙が成り立たなくなりつつあることが判明している。
一見(よく言えば)華やかな選挙が行われている国政選挙ですら候補者不足は深刻で、自民党も旧民主党も20年ほど前から自前で候補者を擁立できなくなり、公募に頼らざるを得なくなっている。公募は確かに一定数の応募があるものの、議員としての質には疑問のあるケースが多く、公募が常態化して以降、議員の質は大きく低下していると考えられる。もっとも、議員の質的低下が公募によるものなのか、他の理由によるものなのかについては、議論の余地があるとは言えるのだが。

私が「いよいよダメかも」と思う背景には、NK党ですら候補のなり手がいないという話を聞いたことがある。
NK党は本質的に全体主義・権威主義政党であり、党内で候補者選定の議論は行われるものの、基本的には民主集中制の原理に基づいて「党の要請」に従って党員が出馬する形式になっている。従って、党の要請があった場合、急病・重病などの特別な理由が無い限り、個人的理由や事情を鑑みること無く出馬することになっていた。ところが、最近ではこの党の要請を「些細な理由」で拒否するケースが続出しているという。党幹部などからすれば些細な理由でも、個々人にとっては影響が大きすぎ、出馬によるデメリットが許容できなくなっているからだと思われる。

かつて中選挙区制が華やかし頃は、自民党でも社会党でも出馬して落選した候補者はどこぞの組織や、あるいは個人が面倒を見て、次の選挙に備えたりして、落選による損失を最小限に抑えるシステムが存在した。こうした慣習は中選挙区制の終盤頃には失われつつあったが、NK党やKM党では小選挙区制導入後も一定程度機能していた。しかし、ここに来てNK党やKM党ですら落選者に対する手当ができなくなっているという。

どの政党、組織も高齢化が進み、中年層や若年層は少子化と生活保守化が進んで、中高年では老老介護などの問題も深刻化している。
また、1990年代以降、国会、地方ともに議員の待遇を削り、政治資金規正を強化してきた結果、「議員のうまみ」が失われると同時に、収入が少ない上に継続勤務による増収もなく、しかも落選すれば無職というリスクばかりが高まって、議員になりたいものが急減している。

例えばNK党の場合、自治体議員だと毎年100〜300万円、国会議員だと500〜700万円を党に上納しなければならず、国会議員の公設秘書は党が規定する党職員の給与水準との差額分をそのまま党に「寄付」することが秘書になる条件となっているという。よほどの「主義者」でなければ、やっていられないレベルの搾取である。

一方、自民党の場合、候補者不足から公募で候補者を擁立するようになったものの、地域や地場産業との繋がりがないため、献金が集まらず、選挙になっても地縁が無いため、運動員が確保できず、「(法の抜け道を利用した)バイト」頼みになって、実入りがなく、自転車操業になっている。かつては、「有権者からの陳情(主に公共事業誘致)→行政に圧力かけて解決→献金もしくは運動員の提供を受ける」というサイクルがあったが、このサイクルも瓦解しつつあり、「野党が弱いから」勝てているケースが非常に多い。
良くも悪くも「地域ボス」が議員を担っていた時代は、人もカネも廻っていたが、これが失われて久しくなっている。
平成の自治体統廃合によって自治体と地方議員数が大きく減ったことも、自民党組織の弱体化に繋がっている。

他方で、議員に対する有権者の要求はますます高くなる上に、「監視」の目も強まって、支持者・有権者からのパワハラの類いが増えている。私の感触でも、「議員はもうやりたくない」という愚痴や相談は非常に多い。
立憲民主党も、職員募集で1500人以上集まったというが(私は募集前に内々の打診があったものの断った)、統一地方選や参院選の候補者選定は非常に難渋している。これも表舞台に立つことのリスクが共有されつつあることの一つの現れと見て良い。

また地方では都市部への人口流出が続き、非自民党が独自に政治勢力をなすだけの体力(人、カネ、資源)が失われ、高齢化もあってNK党ですら候補者が擁立できなくなっている。これは1990年代から見られた傾向だが、最近では都市の郊外地域ですら見られるようになっている。記事にある神奈川県議選の状況はまさにこれなのだ。

選挙が行われなくなると、利害関係が固着、利にあぶれた層の流出や政治離れがさらに進行、地域の疲弊がますます進行して、コミュニティそのものが成立しなくなる。
デモクラシーは、民意を最大限政治に反映させることを至上価値とする制度であるが、これは限りなく全ての市民が政治的意思を表明することが大前提となっている。しかるに、「俺のことはもういいから、俺のことは気にせずに勝手にやってくれ(俺には関わるな)」という市民が増えれば、デモクラシーが空洞化するのが道理である。
19世紀に成立した議会制民主主義あるいは国民国家は、21世紀において黄昏を迎えていると見て良いだろう。
posted by ケン at 12:00| Comment(4) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月02日

21世紀に王政復古の何故・下

(前回の続き)
話を戻そう。
リベラル・デモクラシーは、資本と労働者の双方が歩み寄ることで成立していたが、いまや資本側に歩み寄るだけの理由はない上に、利潤が低下しているため、労働者から搾取を強化することでしか利潤が維持できなくなっている。つまり、先進各国ではリベラル・デモクラシーの前提条件が瓦解しており、労働強化・搾取強化・外国人労働者の導入・非正規化の促進(社会保障の適用除外)などが進められている。ところが、労働者側は完全に分断されていることと、中間層への懐古(俺は下層じゃ無いという意識)から、資本に対抗する術を持たなくなっている。
例えば、日本の場合、労働人口の約4割が社会保障の適用外にある非正規雇用となっているが、彼らの政治的意思は政界に殆ど反映されていないため、搾取されるがままになっている。

議会制民主主義の弱点は、議会が民意を代表する権能が失われると、権力の正統性をも失ってしまい、国民統合や階級対立を抑制する機能まで失われてしまうところにある。民意を代表する議会が、官僚を中心とするエリートを制御・統率することができなくなって、エリートが完全に資本や統治者への奉仕者になってしまうからだ。
また、民族国家や国民主権の概念は、可能な限り同質な「国民」の存在が前提となるが、階級分化や社会対立が先鋭化すると、成り立たちにくくなってしまう。
現代の場合、階級や社会の細分化が進んでいるため、革命を担うだけのまとまった勢力も生じにくい環境にあり、不満と不安ばかりが沈殿してゆく。

こうした不安定な社会構造をまとめるためには自由主義や民主主義は不適当だ。自由主義は階級対立を促進するばかりの上、現代の場合、エリートが統治者(官僚)になることを忌避する傾向が強く、エリート支配そのものが成り立ちにくい。また、民主主義は社会や階級が細分化されすぎて、民意の最大化が図れず、何をどう決めても多数派が不満を持つという話になっている。

これらの要素を回避するためには、何らかの権威を有する者が、権威と暴力をもって社会全体を押さえ込み、強権的に対立を抑制、権威に基づいた統治と再分配を行うシステムが、「よりマシ」という結論に導かれる。
米欧が統治不全に陥る一方、中国やロシアが比較的安定しているのは、経済的な理由ばかりではない。例えば、中国の場合、権威主義であるが故に、徹底した腐敗撲滅運動が行われ、今では殆ど賄賂が要求されなくなっている。また、共産党が政権を握っているがために、ドグマ上表だっては労働者階級の搾取ができず、今でも平均所得以下の層には所得税が課税されていない。これに対して、日本では不正と腐敗が蔓延、政府と自民党は「いかに中間層以下に課税するか」ばかりを検討している。

今となっては中国の例は一般的とは言えないかもしれないが、「主権を放棄したい市民」「民意を代表しない議会」「階級対立抑止に関心が無いエリート」などの要素は権威主義の苗木となる。そうなると、「血筋」「神の恩寵」などの理性では理解不能な権威による、階級対立の強制的抑止を望む声が高まったとしても、何ら違和感は無いし、現に欧州を中心にそうした気運が高まりつつある。
血筋に依拠する王が統治の正統性を担うなど、近代概念の信奉者からすると悪夢でしか無いのだが、リベラル・デモクラシーに替わる統治概念が提示されない以上、その実現性は今後さらに高まって行く可能性がある。
本件は今後も考察を進めたいと思う。
posted by ケン at 00:00| Comment(6) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする