2020年03月30日

ファッショはリベラルを超えて

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(3/29、デイリースポーツ)

3月28日(土)の原宿竹下通り。外出「自粛要請」の結果。戦後の民主改革によって明治帝政の強権が否定された結果、現政府は戒厳令などの権限を有しない。時代は権力集中と権威主義へ。

リベラリズムは「自覚を持った市民が合理的に判断して最適解を導き出すから、政府による強権発動は不要」との発想に立つが、日本はおろか欧米でも理想主義でしか無かったことが判明してしまった。

労働は一定の自由を担保にして収入を得ることで購買の自由を手に入れることができる。9.11以降の西側諸国では、市民的自由を一定程度犠牲にすることで「テロからの安全」が求められた。伝統的自由主義が想定した自由の概念はバランスの維持が困難になってきていると言えよう。
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2020年03月06日

戦後秩序とリベラル・デモクラシーの終焉

民族国家とデモクラシーの終焉」の続編。
現代資本主義はますます市民間の経済格差を広げ、階級の固定化を促進している。
2018年に亡くなったイギリスの宇宙物理学者スティーブン・ホーキングは、技術革新がますます人間の雇用と所得を奪うことを危惧していた。ホ彼はは次のように述べている。
「ロボットが必要なものを全て生産するようになれば、富の分配をどうするかによって結果は大きく違ってくる」

「もしロボットが生み出す富を皆で分け合えば、全員が贅沢な暮しをできるようになる。逆に、ロボットの所有者が富の再分配に反対して政治家を動かせば、大半の人が惨めで貧しい生活を送ることになる。今のところ後者の傾向が強い。技術革新で富の不平等は拡大する一方だ」

イギリスの非営利団体オックスファムが「世界の富の99%を1%の人が所有している」との報告書を出したのは2016年のことだったが、状況は一向に改善されず、むしろ悪化する気配にある。
イギリスのBBCが行った調査によれば、英国人の78%が「富の再分配を支持する」と答えているにもかかわらず、選挙を行っても労働党は敗北し、最左派のコービン氏の支持率は必ずしも高くない。問題はここにある。

近代経済学は市場の上限を考慮しておらず、マーケットは永遠に拡大するものと考えていた節がある。
1800年代から1900年代の初頭にかけては、工業化を先に実現した欧米列強が、アジアやアフリカなどを植民地化することで資源と市場を占有し、利益を独占することができた。それが飽和状態となって、暴力によって列強間の格差を打破しようとしたのが第一次世界大戦であり、再戦を申し込んだのが第二次世界大戦だった。もちろんかなりレーニン的な世界観であるが、実は今日となってみると、むしろレーニン的世界観の方がしっくりくるようになっている。

第二次世界大戦後は、東西に分かれて冷戦構造の中で対立が続いたが、これも結局は東西陣営間での市場と資源の独占と競争に過ぎなかった。
それでも各陣営内でそれなりに近代化が進められた結果、世界はやや平準化したとも言える。
だが、西側諸国内では人件費と社会保障費が高騰し、利潤が出なくなりつつあり、経済成長は停滞しつつあった。
その状況は東側諸国も同じで、より経済成長が鈍化し、より軍事負担が大きかったソ連が先に崩壊した。
結果、西側諸国は東欧を植民地化することで、安価な労働力と広大な市場を手に入れ、一息つくことができた。

ソ連崩壊の「旨み」は他にもあった。
「社会主義」が全面的に否定され、社会保障や労働待遇の切り下げが容易となったのである。
すでに世界市場は飽和に達しており、人件費も資源価格も高騰する中で、西側諸国はこぞって労働者の非正規化(=社会保障システムからの排除と低賃金化)を進め、自国内での収奪に舵を切った。

議会制民主主義は、有権者間の平等を前提としている。そのため、制度設計上は仮に貧困層が増えた場合、貧困層が富の再分配を訴え、政治に反映させ、社会と経済の安定化に寄与するはず、と考えられていた。
ところが、現実にはそうならなかった。
例えば日本の場合、現状では年収300万円以下の労働者が2千万人以上いる上、非労働者を含めれば軽く3千万人を超えるはずだが、国政選挙でNK党や社民党が獲得しているのは合算しても600〜700万票に過ぎず、むしろ貧困層がこぞって自民党や維新に投票している節すら見える。つまり、貧困層がこぞって格差拡大に賛成してしまっているのだ。
また、本来社会主義運動の主体を担っていたはずの日本社会党の後継である社民党が護憲運動と平和運動に特化してしまったことも、非常に大きな問題提起となっている。

アメリカはさらに深刻だ。
フードスタンプ利用者が5千万人を超え、1%の富裕層が国の富の40%を保有、全世帯の40%以上がクレジット負債を抱え、その平均額は60万円以上、学生ローンの負債総額は1兆ドルを軽く超えるという。
そうした中で、かろうじて民主党のサンダース氏が健闘を続けているが、すでに老齢ということもあり、仮に民主党の大統領候補になれたとしても、トランプ氏との決戦では勝てないだろうとされている。そもそも、民主党の中における指名争いでも「頭一歩抜け出ている」程度の話で、全体的な支持を受けているわけではない。
社会保障制度の基礎部分が抜け落ちている上、経済格差が日本以上に急速に進み、貧困化が半端ない状態にあるアメリカだが、サンダース氏程度の穏健な「民主社会主義」ですら、むしろ非難の声が強く、全体としては多数の支持を得られない状況にある。

イギリスの場合、先の総選挙において労働党のコービン党首は経済格差の是正を掲げて戦ったものの、「EU離脱の是非」が争点となってしまい、殆ど無視されたまま大敗を喫して、辞任を余儀なくされている。その反動でブレア路線などに戻ってしまったら、目も当てられない事態になるだろう。
以上のことは、議会制民主主義が富の再分配を行う能力を失いつつある、あるいはすでに失っていることを示している。

市場の発展あるいは安定のためには一定の消費と流動性が不可欠となる。
ところが、経済格差の拡大によって富裕層が持つ富が一方的に拡大しているため、消費は停滞し、社会の流動性も止まりつつある。
さらに技術革新によって、20世紀後半における西側諸国の中間層が享受したホワイトカラー事務職やブルーカラー高級職の仕事が大いに失われ、中間層そのものが消えてなくなろうとしている。
他方、リベラルデモクラシーの存立基盤は「有権者間の平等性」にあるわけで、その中には経済的平等も含まれる。この平等が失われるとき、リベラルデモクラシーもまた危機を迎える。現代の場合、「票はカネで買える」が成立している。これは買収という意味ではなく、むしろ買収よりも巧妙に世論を誘導して、投票行動をコントロールする技術を上手く使いこなした陣営が勝利することを意味している。アメリカの大統領選挙を見れば一目瞭然だが、日本の選挙を見ても、誰もまともに政策論争などしていないことは分かるだろう。
議会制民主主義あるいは代議制民主主義は、

1.自立した個人が
2.複数の候補者の中から
3.公正に判断を下し
4.適切かつ最適な代表を選別(エリート)する

という前提に立っている。ところが現実の選挙は、

A.自分の立ち位置が分からない大衆
B.ロクな候補者がいない
C.判断基準がわからない
D.宣伝や見た目や気分で適当に投票

になっている。小泉某が圧倒的多数の支持を得て毎回当選し、若くして大臣にまでなっていることが、その証左といえる。

現時点では西側諸国もかろうじて市場が廻っているので、経済格差の不満が噴出していないだけで、一度ストップすれば、大変な事態になる可能性がある。
戦前のドイツの場合、最もリベラルと言われたワイマール体制が存在したが、世界恐慌の煽りを受ける中で暴力的解決を積極的に掲げたナチスに支持が集まり、あっけなくデモクラシーは崩壊した。
戦前の日本の場合、戦後の造語ではあるものの大正デモクラシーといわれる自由化が進んだ時期があったものの、昭和恐慌によって政党政治はあえなく支持を失い、軍部の政治介入がむしろ支持されていった。満州事変(1931年)にしても、226事件(1936年)、日華事変(1937年)にしても、昭和恐慌によって市民生活が極限まで悪化する中で、経済問題の暴力的解決を支持する国民の声が高まり、それに応えられるだけの政党や政治家が存在しなかったことが、日本国民を戦争支持へと駆り立てていったと見るべきだ。事実、満州事変を境に政府は積極財政に舵を切り、さらに日華事変の勃発によって軍事生産が急速に伸び始めると、国内の景気は回復、国民はますます戦争を支持していった。
このような場合、リベラル・デモクラシーはまず無力である。

残念ながら、人類の歴史は平和の期間が続くと不平等が拡大し、戦争や危機が発生すると平等が実現する傾向にある。
リベラル・デモクラシーは、平和期に平等を実現するための最適の手段と考えられたわけだが、それはソ連型社会主義と同様に失敗として終わろうとしているように見受けられる。
この辺の話については、稿を改めてまたしたい。

【参考・推奨】
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ウォルター シャイデル『暴力と不平等の人類史: 戦争・革命・崩壊・疫病 』 東洋経済新報社(2019)
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2020年02月11日

二十年一日では勝てません!

【あまりに「政権」を知らなかった民主党の反省】
 立憲民主党の鉢呂吉雄元経済産業相は毎日新聞政治プレミアに寄稿した。「我々が政権を担ったときは、あまりにも政権というものを知らなかった。理想論だけを語っても、なかなか実現はできない」と振り返った。鉢呂氏は、桜を見る会などさまざまな問題が起きているなかでも安倍内閣の支持率が安定しているのは「自民党政治に対抗する軸を示せていない我々の責任だ」と指摘。「野党が大きな塊になるため、野党各党が意見をすり合わせて大きな政策を打ち立てる必要がある」と強調した。そのうえで「我々は反省をしなければならない。国民の記憶にも旧民主党政権の後遺症が残っている」と語った。
(1月29日、毎日新聞)

旧民主党系の野党が全く鳴かず飛ばずなのは、20年前と同じことを20年前と同じメンツでやろうとし、その言葉までも20年前と同じであるからだ。
ただでさえ社会全体の活力が失われ、生活保守指向が強まって、階級没落を恐れる層がこぞって自民党に投票している中で、「帝政護持」「保守」「親米」を掲げる旧民主党が積極的に支持を受ける理由はどこにも無い。平素の支持率は5%で、選挙の時だけ一定の票が入るのは、「他に投票先が無いから」という理由でしかない。

生活保守は「何か改革して悪い結果になるくらいなら、今のままの方がマシ」という判断に基づいている。
2000年代はそれでも、小泉改革や鳩山改革への期待感から、熱狂的なブームが起きたが、どれも一時的なものに終わり、後には不信と荒廃しか残らなかった。ペレストロイカやゴルバチョフに対するロシア人の評価が酷いのと同様、「改革なんてロクなもんじゃ無い」という感想だけが残り、自公に対する消極的投票と投票放棄(投票率低下)に繋がっている。

同時に中または小の選挙区制度であるため、大政党や大規模な個人後援会を有する候補者しか立候補できないシステムになっており、政治分野への新規参入のハードルが非常に高く、現在の立民や国民の指導部に見られるように「90年代政治家のなれの果て」ばかりが今もなお野党指導部に居座っている。全国的には全く支持されていなくとも、局所的に支持されていれば選挙には勝てるためだ。
例えば、日本の選挙制度が全国一律の比例代表制であったなら、立民は5%、国民は1%の支持しか得られず、今頃跡形もなくなって、「古き者ども」は一掃されていたはずだ。しかし、選挙区制度であるが為に、その選挙区で比較優位に立てば何度でも当選し続けられるため、いつまでたっても失敗者が当選を続け、同じ主張と手法を繰り返す結果になっている。
しかも、選挙制度はその制度で当選してきたものが審議するため、根本的に制度改正が不可能なシステムになっている。

日本の議会制民主主義が機能不全に陥りつつある原因を検証し、修正しない限り、遠からず破滅的な未来を迎えることになるだろう。
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2019年12月30日

立民・枝野氏が出雲大社参拝へ

【立民・枝野氏が出雲大社参拝を検討 支持層反発懸念】
 立憲民主党の枝野幸男代表が年明けに伊勢神宮(三重県伊勢市)に加え、出雲大社(島根県出雲市)への参拝も検討していることが12日、分かった。党幹部が明らかにした。枝野氏は「保守本流」を自任しているが、安倍晋三首相に厳しく対峙(たいじ)する姿勢などから左派のイメージが強い。伊勢と出雲の双方を訪問することで、保守層の支持を広げる狙いがありそうだ。
 ただ、参拝に関しては党内や支持層から反発も予想される。今年1月も枝野氏は蓮舫副代表、福山哲郎幹事長らと伊勢神宮を訪れたが、社民党出身の阿部知子衆院議員が自身のツイッターに「枝野代表を始めとする執行部を先頭にした伊勢神宮参拝はとても残念です」と不満を書き込んだ。また、党には「支持層に背中を向ける行為です。(米軍普天間飛行場の移設先となる沖縄県名護市)辺野古に行くべきだ」など1千件以上の批判が寄せられた。立民幹部は「1年の平穏と安寧を祈念する参拝は保守政治家として自然なことだ」と話している。
(12月12日、産経新聞)

マジでどうでもいい話なのだが、これで保守票が得られると思っている立憲民主党幹部の頭が疑われる。
同時に「立憲民主党は保守政党である」とアピールしたい幹部の意思の現れでもある。

そもそも元日に行う「初詣」は明治期に成立した新伝統であり、本来は近所の氏神を詣でるのが筋だ。
このことは、つまり枝野氏もまた明治期に成立した国家神道を否定しない神秘主義者、明治帝政の信者であることを示している。
現代日本で俗に「保守」と呼ばれるものの殆どは、明治期に成立した新伝統を「伝統」と信じている連中であり、だからこそ社会の根幹を何一つ変革できず、明治帝政の悪弊もまた何ら改善されることなく、現代まで続いているのだ。

立民は自民党に対する野党として対案にはなり得ず、むしろ害悪である。
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2019年11月01日

自民党有志が皇族復帰案

【旧宮家男子の皇族復帰を可能に 自民有志の提言案】
 安定的な皇位継承に向け、自民党の保守系有志議員による「日本の尊厳と国益を護(まも)る会」(代表幹事・青山繁晴参院議員)がまとめた提言案が20日、分かった。例外なく父方に天皇がいる男系の継承を堅持し、旧宮家の男子の皇族復帰を可能とする皇室典範の改正か特例法の制定が柱。23日に正式決定後、安倍晋三首相や自民党幹部に直接手渡す方針だ。
 提言案では、女性皇族が結婚後も皇室にとどまる「女性宮家」の創設について、婚姻した民間人男性が皇族となり、男系継承の伝統が途切れる女系天皇の呼び水になりかねないことから、否定的な見解を示す。
 男系維持のため、旧宮家の男子が現在の皇族の養子か女性皇族の婿養子となるか、国民の理解に基づく立法措置後、了承の意思があれば皇族に復帰できるようにする。現在の皇位継承順位は一切変えないことも明確化する。
(10月21日、産経新聞)

当然の成り行きではあるが、現実には「皇族復帰を希望するものはいるのか」「ロクでもないヤツが皇族になったら?」「婿養子の場合、皇族女性の意思は?」などなど疑問は尽きない。
このままではほぼ断絶は避けられないだけに、弥縫策としてはやむを得ないのだろうが、現実性の点では苦しい感じだ。
この問題については、すでに十分説明しているので、再掲しておきたい。
現在の天皇家は皇家と四宮家から構成されている。この5家のうち男子がいるのは秋篠宮家だけで、それも1人のみだ。現在の皇室典範は養子を禁止すると同時に、女子が皇族以外と結婚した場合は皇室から除籍すると規定しているため、今後も男子が誕生しない場合、皇家と三宮家は遠からず絶家となる。
どうしてこういう事態になるかというのは意外と単純な話で、皇統を維持するための装置、すなわち宮家が少なすぎることと、一夫一妻制のためである。

例えば、徳川家の場合、家康の直系は4代で途絶、三代家光の4男である綱吉が五代将軍となり、さらに途絶して六代将軍には家光の3男綱重の子である家宣が就任するが、それも次の家継で断絶してしまい、家光の血統は途絶してしまう。
そこですったもんだが生じ、紀伊家の吉宗が八代将軍になるのだが、吉宗自身は紀伊家二代目である光貞の4男で、上の3人の兄が早世したため紀伊家の五代目に就いた経緯があり、それ故に兄3人に対する毒殺疑惑が囁かれていた。
この吉宗の血も孫の家治で絶え、吉宗が血統護持のために新たに創設した「御三卿」の一つである清水家の家斉が十一代将軍を継ぎ、それも孫の家定で絶え、清水家から紀伊家を継いだ家斉の子・斉順の次男である家茂が紀伊家から本家に戻る形で将軍位に就いた。
だが、その家茂も早世、水戸家から御三卿の一橋家に入っていた慶喜が将軍位を継いだ。それも「水戸家のものは将軍位に就かない」という内規があり、最後まで反対意見が強かったものの、他に選択肢が無かった結果だった。

江戸時代は最も安定した時代で、保健医学も世界的に見て相応の水準にあったはずだが、それでも一つの血統が維持できるのは三代程度でしかなかったことが分かる。また、家康は血統を維持するために御三家を創設したが、御三家筆頭の尾張家からはついぞ1人も将軍位に継ぐことは無かった。このことは、血統維持のためには、必要なタイミングに後継者を提供できるだけの数をプールしておく必要があることを示している。たとえ男子が生まれても、相続のタイミングで相続可能な状態のものが居なければ意味が無いのだ。
それに気づいた吉宗は血統をプールすることを目的に御三卿を創設するが、田安家は二代目で途絶して養子、一橋家は四代目で途絶して養子、清水家に至っては初代に実子が無くいきなり養子という有様だった。

江戸城には大奥が置かれ、将軍家でなくとも正妻以外に側室を置くことが奨励され、実行されていたにもかかわらず、これだけ男子が育たずに養子をもらうことでしか血統を維持できなかったのである。
別の例を挙げれば、戦前に総理大臣を担った近衛文麿は、公家・五摂家の筆頭というサラブレッドだったが、文麿は江戸時代から300年間を通じて初めての正妻の子による後継者であったという。今昔を問わず、正妻と子をなすことがいかに難しいかという話だろう。
さらに別の例を挙げれば、江戸期にある庄屋・名主の家が100年後にも同じ地位を保っていたケースは10〜15%程度だったという研究もあり、要は8割以上の家は100年と保てずに没落してしまっており、名家の存続がいかに困難であるかを示している。

以上の話でお分かりいただけるのではないか。
現在の皇統存続の危機は、戦後改革によって14家あった宮家のうち11家が皇籍離脱処分となったことにある。その結果、1954年の高円宮憲仁親王(2002年に逝去)の誕生から2006年の秋篠宮悠仁親王の誕生まで50年以上にわたって男子の誕生が途絶えている。冒頭にも挙げたように、皇家と四宮家のうち男子がいるのは秋篠宮家だけで、しかも1人で、養子が認められない現行法では残り四家は遠からず断絶することになる。仮に悠仁親王が皇位を継いだとしても、その存続は絶望的な状況にあると言える。
宮家が廃絶された理由は、戦後の財政難と民主化、つまり華族制度の廃止にあるが、それは強大な皇族が貴族特権を有することはデモクラシーの原理に反するという考え方に基づいている。
だが、皇統の存続を第一に考えるならば、可能な限り多くの宮家を置いて、後継者プールを大きくすることに主眼を置くべきなのだが、近代あるいはデモクラシーの原理とどうしても背反してしまう。

また、明治帝が5人の側室を有していたのに対して、より近代的な(人権感覚のある)大正帝と昭和帝は側室を置かず、その新伝統は現在の平成帝と徳仁親王にも引き継がれている。だが、大正帝から平成帝に至る連続三代に渡って本妻が男子を産むという事態こそが、歴史的に見て奇跡的な幸いとも言うべき例外であり、血統の護持という点では奇跡に期待するようなことがあってはならない。
その意味では、天皇家と宮家には側室を置くことを容認ないしは義務づけることが望ましいはずだが、一夫一妻という近代道徳がこれを阻害している。
奇妙なのは、皇室に属するものには基本的人権や主権が認められていないにもかかわらず、何故か一夫一妻制度は導入されている点だろう。どうせ裁判権も選挙権も認められていないのだから、民法についても適用除外にすれば良いだけの話ではないか。
文仁親王などは年齢的に可能性が残っているのだから、今からでも側室をあてがうことは十分に現実的な選択肢と考えられる。

つまるところ、現状の皇統危機は、変に封建制(王制)と近代原理(自由と民主主義)を両立させようとした結果、自ら選択肢を狭めてしまっていることに起因すると考えられる。その意味で、保守派が反動回帰して「皇籍復帰による新宮家の創設」を主張するのは合理的な帰結ではあるのだが、現実には自由と民主主義そのものを否定しない限り、根本的な解決には至らないのである。
(皇統存続と近代原理の無理)
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2019年10月25日

日本人のアイデンティティとは?

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いかにも現代日本を象徴する報道。
どこぞの報道機関幹部が「身内向けの連絡みたいなもの」などと擁護していたが、その擁護自体が連中のゆがんだ人権感覚とナショナリズムを象徴している。どこまでも腐った連中である。

連中は2014年にノーベル物理学賞を受賞した中村氏のことをどう報じたか。まず「日本人」と報道して、アメリカの市民権を取得し、日本国籍が剥奪されていることを知るやいなや、「米市民権保持者」なる称号に切り替えている。
2017年のノーベル文学賞受賞者であるカズオ・イシグロ氏の場合は、最初から英国籍であることがわかっていたものの、過剰に「日本生まれ」「元日本人」が強調された。
テニス選手の大坂氏の件でも同じような問題が見られる。

日本は人種差別撤廃条約に発効から25年以上経て、ようやく渋々加盟したわけだが、その実行については全く関心が無いように見られる。同条約の第一条には、
『人種差別』とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう

との規定があり、これを厳格に解釈していれば、今日のヘイト・デモやヘイト・スピーチが横行するような事態は避けられたはずだった。
同時に、同規定が市民に理解され、徹底されていれば、「ノーベル賞受賞者は外国人」のような「区別」を煽り立てる報道が「表現・報道の自由」として認められる余地はなかったはずだ。

差別禁止が表現の自由に優先すると考えられるのは、ナチスドイツや大日本帝国における優生思想を抑止するためだったわけだが、日本ではそうした二次大戦の反省としてはめられたはずのタガが完全に外れてしまっている。
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2019年09月09日

非居住地で出馬当選の問題点

【N国党新宿区議の当選無効 選管、居住実態なしと判断】
 東京都新宿区選挙管理委員会は2日、NHKから国民を守る党で4月21日投開票の同区議選に当選した松田美樹氏(32)について、公選法が定める区内での居住実態が認められないとして、当選無効を決定した。21日以内に都選管に審査を申し立てなければ正式に決まり、次点候補が当選者となる。
 区選管によると、松田氏は2018年12月21日に同区への転入届を提出。以降毎月の水道とガス使用量は0〜1立方メートルで、電気も室内の冷蔵庫の消費電力と同じ程度だった。
 松田氏は区選管の聞き取りに「寝泊まりしていた」と説明したが、ペットの世話など生活の多くが転入前の住所で行われていた。
(9月2日、共同通信)

非居住地で自治体選挙に出馬して、当選後、「実態無し」として問題になるケースは意外と多い。
勢いがあった時の民主党でも散見されたし、その後、「みんな」「維新」などでも同様のケースが、自分が覚えている限りでも複数件見られた。全体で言えば、かなり少数ではあろうが、多くの問題をはらんでいる。

地域の権益の代弁者として、地域居住者の主権を代行するために代議員が選出されるわけだが、非居住者がいきなり居住地外の自治体に来て立候補して、多数の票を得て「選出されてしまう」ということである。従来は、良くも悪くも、顔の見える候補者が地域を回って投票を依頼し、あるいは地域ボスや関係者が投票を依頼することで、自治体選挙は成り立っていた。
ところが、都市部を中心に地域と生活が必ずしも一体をなさなくなり、地域コミュニティとは無縁、あるいは縁の少ない住民が増え、むしろ地域ボス的なものへの拒否感が強まって、「顔の見えない候補」への投票が増える傾向にある。

ケン先生の場合、地域代表を選出するタイプの小選挙区制は国会議員を選出するものとしては不適当であると断じているが、さすがに自治体選挙で同じことは言えない。
確かに自民党のような地域ボスを選出するタイプの選挙戦術が弱まっていることは、ある意味では好ましいと言えるわけだが、では「地域ボスでは無い自治体議員」像となると、どうなのかというイメージがいまだ見えてこないところがある。

私の知り合いにも何人か自治体議員がいて、みな職業政治家であるわけだが、自民党議員を除くと地域ボスではなく、では誰を代表しているかと言えば、主流は居住地近隣で後援会を組織して、政党票などを上積みするといった傾向の者が多いように見受けられる。
それはもちろんそれで良い。しかし、アメリカ・ヨーロッパの場合、居住地と社会階層がほぼ一体化しており、これが支持政党に直結してきたわけだが(今日では崩れてきている)、日本の場合、社会階層と支持政党が一致しておらず、「たまたま某党から出馬した者が、たまたま選挙が上手く、当選してしまう」ケースが非常に多い。
これは、自民、KM、NK党以外の政党が自前の組織を持たず、候補者の資質(いかに上手く後援会を組織できるか、いかに上手く選挙を演出できるか)に依存していることに起因している。

その結果、ある政党が流行すると、その勢いだけで何もせずに当選してしまう者と、自前の組織で当選したがために、政党の理念や政策に全く従わない者が続出するところとなっている。
自前の組織を持たない政党は、自前で候補者を育成できないため、「カネを自前で用意して議員になりたい者」を優先的に公認し、その結果、記事のような「居住実績の無い自治体議員」が誕生することになる。

さらに言えば、自治体議員選挙の投票率も低迷しており、都市部では「40%あればマシ」という状態になっていることも、ちょっとした人気のみで当選できてしまう素地をつくっている。
もっともデモクラシーの観点から言えば、「誰でも代議員になれる」状態は非常に好ましいわけだが、その結果、丸山某や小泉某が我が物顔で議員をやっていると考えると、やはりデモクラシーの黄昏を思わざるを得ない。

まぁ結論は無く、あくまで戯れ言の独り言である。
posted by ケン at 12:00| Comment(2) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする