2020年08月22日

「解散の通知をしたので、議会は存在しない」

【千代田区 「議会は存在しない」 解散通知の区長、特別委出席を拒否】
 千代田区の石川雅己区長が28日に解散の通知を提出した区議会で29日、新型コロナウイルス対策の補正予算案を審議する予算特別委員会が開かれたが、石川区長は出席せず空転状態が続いた。区議会側は石川区長が家族と購入したマンションの取引をめぐる百条委員会での証言が虚偽だとして石川区長の刑事告発を議決しており、解散通知を無効と主張。区選挙管理委員会が解散通知の効力を調べる。
 午前から行われた予算特別委員会では、石川区長をはじめ、区議会事務局以外の職員は欠席。委員会の委員長らが区長室を訪れ、出席や審議に必要な資料の提出を申し入れたが、石川区長は「解散の通知をしたので、議会は存在しない」と主張し、委員会の参加を拒否した。
 地方自治法は自治体の長による解散を「議会が不信任の議決をしたとき」と規定。区議会側は刑事告発の議決は不信任とは異なるとして、解散の効力を否定している。区議会側が「総務省に確認して解散通知は無効だ」と主張していることについて、石川区長は「私は総務省のように考えることはできない。私の判断で行った」と強気の姿勢を示した。議員からは「あなたが法律なのか」「区民をどう思っているのか」と反発の声が上がった。
 区議会は石川区長が区内のマンション購入をめぐって事業者から優遇措置を受けた可能性があるとして百条委員会で調査した際、虚偽答弁や証言拒否などをしたとして、27日に刑事告発を決定。区長側は事実上の不信任とみなし、対抗措置として28日に解散を通知していた。
 29日夕から行われた百条委員会には、マンションを共同購入した石川区長の次男が証人喚問に出席。マンションの購入経緯などについて「覚えていない」などと答えた。
(7月30日、産経新聞)

石川区長「解散の通知をしたので、議会は存在しない」
安倍総理もいかがですか?

議会を一方的に停止した首長の運命は過酷となることが多い。歴史的に有名なのは、チャールズ一世(清教徒革命)とニコライ二世(ロシア革命)がそれだ。
明治帝政ですら、「大東亜戦争」が始まっても議会を停止することは無かった。そして、議会を存続させたことが、昭和帝と明治帝政の存続を決めた遠因にもなっている。仮に昭和帝や軍部が国会を停止していたら、GHQと連合国が天皇制の存続を認めることは無かっただろう。

戦後帝政下の日本の場合、総理が下院の解散権を有しているが、下院が解散となった場合でも、解散規定の無い参議院が存在し、憲法には「参議院の緊急集会」が規定されている(日本国憲法第54条2項但書・3項)。ところが同項は、「内閣は、国に緊急の必要があるときは、参議院の緊急集会を求めることができる」と書いてあるのみなので、総理が求めなければ開会されない。

千代田区長の専制行為は改めて議会の意味を考えさせてくれる。
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2020年08月14日

皇室のSNS利用の是非

【両陛下、コロナ下の活動模索 SNS活用促す識者も 代替わり2年目で課題】
 新型コロナウイルスの影響で人との面会が大きく制限される中、代替わりから2年目を迎えた天皇、皇后両陛下が活動の在り方を模索される日々が続いている。
 最近は皇居以外への外出がなく、「四大行幸啓」と呼ばれる恒例の地方訪問も今年は全て取りやめに。お住まいの赤坂御所に専門家らを招いて話を聞き、宮内庁ホームページ(HP)に発言内容を掲載する異例の対応を取っている。識者からは、外国王室を参考にインターネット交流サイト(SNS)の活用を促す声も上がる。
 「平成の終焉」などの著作がある放送大の原武史教授(日本政治思想史)は「現上皇が象徴の務めとして挙げた宮中祭祀(さいし)と行幸のうち、前者はちゃんとやっているが、後者は全くできていない」と述べ、象徴天皇制のスタイルが平成とは大きく変わったと話す。
 その上で、御所で専門家らの説明を聞く際、両陛下が横並びで座っている姿が公開されたことを挙げ、「天皇が主で皇后が従という感じがせず、全く対等に見える。あえてそうした写真や映像を出したところに意図を感じる」と指摘。「もし今後、新型コロナに関するビデオメッセージを出し、その際に2人が並んで出てくるようなことがあれば、平成との違いがますますはっきりするだろう」との見方を示す。
 世界の王室に詳しい関東学院大の君塚直隆教授(英国政治外交史)は、英エリザベス女王をはじめ各国の王室が新型コロナについてテレビ演説などで国民に直接語り掛けているのに対し、日本の皇室にそうした動きがないことを危惧する。「政府はどこも自国ファーストかもしれないが、王室は地球環境など世界規模の問題を扱える。新型コロナなどはまさに皇室の出番だ」と語る。
 「各国の王室は広報スタッフが毎日のようにSNSで写真や動画を更新しており、非常に好意的に受け止められている。宮内庁HPにメッセージを載せるだけでは十分伝わらない」。人に直接会わずにメッセージを送れるSNSの活用こそ、コロナ禍の今の状況にふさわしいと訴えている。 
(7月27日、時事通信)

君塚氏は君主主義者なので割り引いて考えるとしても、皇室が活動できない現状は「国民統合の象徴」としての存在意義が問われる危機でもある。「国民統合の象徴」の現実性はともかくとしても、本来、君主は危機時こそ露出を増やし、臣下の士気を鼓舞してこそ、存在の重みを増すからだ。

例えば、大坂の陣において豊臣秀頼は一度も出陣すること無く敗北、病をおして出陣した徳川家茂は出先の大坂城で死去したことで第二次長州征伐は実質敗北に終わった。これに対し、徳川家康は57歳で関ヶ原の最前線に立ち、さらに72歳で大坂の陣に赴き、前線で指揮を執って真田隊に蹂躙されている。しかし、本陣を蹂躙されても、最後に勝ったのは家康だった。
天皇家でも、例えば明治帝は日清戦争に際して大本営を広島において、自ら広島に赴いている。国外にこそ出ていないものの、君主のあり方としては「あるべき」姿であると言える。もっとも、ロシアのニコライ二世のように政務を放って前線に出て、自ら指揮を執って御家を滅ぼしてしまった例もあるので、やり方は慎重を期すべきではあるが。

天皇制における象徴の意味は、明治期には260諸藩・諸侯と四民の平等的統合の象徴であった。華族制度が設立されたことで限定的になった上、その後の帝国主義政策で琉球武力併合、アイヌ弾圧、台湾や朝鮮等の割譲と併合などを経て、多民族国家となったことで「民族統合の象徴」とならなければならかったが、これには失敗し、ただ日本民族の優越性を訴えて諸民族を弾圧するための道具になってしまった。
その反省を踏まえて、戦後、帝政を存続させるために軍隊を解体し、さらに天皇は「日本国民統合の象徴」として諸外国や他国には一切権威を適用しない旨が定められた。
ただ、「国民統合の象徴」が何を意味するのか、何をもって「統合の象徴」とするのかについては、どこにも記載されていないため、そこは試行錯誤せざるを得ず、あまり国民間に共有されていないが、戦後帝政の最大の課題となった。
この点、上皇と今上帝は特に意識しているようで、国民に寄り添う姿を可能な限り見せることで戦後型の「統合の象徴」を追求してきたが、今回のコロナ渦でそれが困難になっている。

確かに欧州などの王家では、SNSを駆使して王家のイメージ向上に努めているが、これは一歩間違えれば諸刃の剣で、イングランド王家などは成功していると言えるのか疑わしい状態にある。
多くの芸能人がSNSで炎上し、攻撃され、自殺者が続出する中で、王家や皇家だけがその例外となるとは思えない。
日本の場合、宮内庁などが厳密に管理することになるのだろうが、役所に管理されたSNSでは国民の興味を引くことはないだろう。

「このまま何も見せないのはマズい」

ということなのだろうが、安易なSNSの採用は自らの墓穴を掘ることになる恐れがある。
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2020年08月07日

投票の義務化の是非

【選挙の投票義務化を 自民・石破氏】
 自民党の石破茂元幹事長は27日、大阪市内で講演し、国政選挙での投票率低下を念頭に、「民主主義が機能する条件は、可能な限り多数が参加することだ。投票は義務にすべきだ」と語った。石破氏は「一部のイデオロギー、特定の利害を共有する人たちは投票に行く。民主主義の名を借りてそういう人たちが好きなようにやる」と指摘。「(票を)入れたい政党、候補者がいないなら白票を入れてほしい。民主主義はそれほど厳しいものだ」と述べた。 
(7月27日、時事通信)

国民に新たな義務を課す場合、憲法を改正するのが原則。憲法第十五条に「選挙人の自由な意思によって行う投票」(第三項)とあることも改正対象となる。現行憲法の考え方は、「投票行動の是非は個人の意思と自覚に基づくもので、何者かに強制されるべきものではない」というものだろう。そもそも公教育において、政治教育や活動がほぼ禁止されている中で、投票だけ義務化することは多くの不自然さを覚える。

デモクラシーとは共同体の参加者全員による意思決定を旨とする政治体制であり、直接民主制が物理的に不可能だから、代議制民主主義という「選抜民主制」が施行されている。「選抜されたエリートによる統治」は、本来的にはリベラリズムの発想で、デモクラシーの原理にはそぐわない。そのため、「大衆の中から選挙にて選抜する」という折衷案が採られている。
つまり、共同体の自覚を持たないものに、法的に投票を強制しても、原理的には意味は無い。

歴史的には参政権は徴兵制度と一対のものであり、共同体の防衛義務の対価という意味もあった。
第一次世界大戦後に女性参政権が拡大したのは、総力戦の中で女性の動員が進んだことが大きい。
少なくとも歴史的には、軍隊の中で共同体意識が培養されることで、デモクラシーの基礎が築かれていた。
1990年代のフランスにおいて、社会党と共産党が徴兵制の廃止に反対したのは、「傭兵軍は国民を守らない」ことに加え、「徴兵制はデモクラシーの基礎である」という考え方に基づいていた。
明治帝政ですら、建国当初は徴兵令を「四民平等実現のため」と位置づけていたくらいだ。

日本の場合、封建支配と帝政支配が続き、敗戦によって人民に主権が付与されただけで、根源的に主権者としての意識が育っていない。
納税も多くは源泉徴収制度を利用しているため、納税者意識も低い。
こうした背景を考えずに、法律によって投票を義務化しようという主張は、あまりにも無意味であろう。
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2020年07月30日

身勝手で安直な合流協議

【立国合流急ぐ枝野氏 党内の突き上げに焦りも 鈍い玉木氏にしびれ】
 立憲民主党の枝野幸男代表が国民民主党との合流を焦っている。枝野氏は新型コロナウイルス対策や東京都知事選で存在感を発揮できず、党内から次期衆院選を見据えた動きを加速するよう求める声が出ていた。旧民主党勢力の糾合をテコに“野党の盟主”として求心力回復を狙うが、仮に合流がうまくいっても険しい道が待ち受けている。
 「15日に福山哲郎幹事長から国民側に申し上げたことに答えてもらっていない。答えをいただいた上で検討したい」
 枝野氏は18日、横浜市で記者団の質問に答え、国民に対し、合流条件を逆提案する前に立民の提案内容に回答するよう求めた。立民は15日に両党が解党して新党を立ち上げた上で新党名を「立憲民主党」、略称を「民主党」にすることなどを提案したが、国民の玉木雄一郎代表は党名を民主的な手続きで決めるよう主張している。
 国民に合流を提案した翌日の16日夜、枝野氏は都内で党の若手議員らと会食した。自らが立ち上げた「立憲民主党」の党名維持にこだわる枝野氏はその場でも「党名は絶対に譲らない」と繰り返した。「早々に決着をつける」とも語り、玉木氏が持ち掛けてくる条件闘争に応じない考えもにじませたという。
 昨年末からの国民との合流協議では条件が折り合わず、1月に頓挫した。だが、立民の若手・中堅からは現状のままでは与党だけでなく、日本維新の会やれいわ新選組にも対抗できないとして協議を再開すべきだとの機運が高まっていた。合流に再びかじを切った枝野氏の心境ついて、国民中堅は「立民の政党支持率も頭打ちで焦っているのだろう」と推測する。
 一方、今回の合流協議で新党への参加が見込まれる野田佳彦前首相ら旧民主党政権の重鎮も水面下で動きを活発化させている。野田氏を慕う勢力は今も両党内におり、新党結成後の代表選で野田氏を担ぐ案も浮上する。立民の最大グループを率いる赤松広隆衆院副議長も執行部への不満を募らせており、「枝野1強」と言われた党内基盤は揺らいでいる。
(7月18日、産経新聞)

解散・総選挙が近くなるも、支持率の低迷(下手すると維新よりも下)が続く中、産業報国会(自称連合)の強い要求と保身の論理から合流協議が進められている。ただ、付言しておくと、立憲左派(赤松派)は原則論に従って合流に反対の立場をとっている。
しかし、産業報国会や保身が優先されるあまり、「合流ありき」で話が進んでおり、そこには有権者への配慮や政策協議は何も無い。

中国が強大化し、米国の影響力が低下する中で、憲法と安全保障の政策的優先順位が相対的に高まっている。
冷戦期なら、日米安保と自衛隊に賛否を唱えるだけで良かったが(お手前のようなものだった)、現在の日本はアメリカと中国という二大強国に挟まれた状態となり、いわばポーランドやフィンランドのような地勢的条件に陥っている。しかも、日本はアメリカの傀儡国家として始まり、いまも準保護国のような状態にありながら、アメリカの影響力やコミットメントは日々低下しつつあり、アメリカの財政状況を考えれば、「いつ見捨てられてもおかしくない」条件下にある。これに対し、中国は2030〜35年頃までは経済成長と勢力増大していくと考えられ、日本はその矢面に立たされている。

現行の昭和帝政の方針は「何でもやるから米軍に残ってもらう」との方針で、アメリカの国際戦略を積極的に支援し、軍事力も提供する代わりに在日米軍の規模を維持しようとしている。ただこの点、帝政内でも合意は不十分で、外務省はアメリカに対しさらなる軍事貢献を求めているが、防衛省はやや消極的で、意外と安倍政権は海外派兵は最小限度に止めたいとの意向を持っている。

日本の選択肢は(何度も本ブログで述べているが)、「1.対米従属の維持」「2.親中路線への転換」「3.独自路線」となる。現状は1なのだが、それすらもトランプ政権から「思いやり予算」の倍増や防衛費の倍増を求められている。3の独自路線は、聞こえは良いが、米中露の三大軍事大国に挟まれる中で、独自路線を歩む場合、明治帝政と同レベルの軍事水準が求められるだろう。具体的には、現状の三倍の軍事費でも足りるかどうかという話になる上、核武装も検討せねばならず、ハードルは最も高く、現実的ではない。
ケン先生的には、イデオロギーを無視すれば、2の親中路線が将来的には現実的で、問題は「どれだけ従属せずに独立性を担保できるか」が課題となる。同時に、中国に従属しないで済むだけの軍事力を検討する必要がある。
いずれにしても、安全保障上の大きな岐路に立たされている中で、政策の曖昧さは大きな弱点となる。

民主党政権の総括も必要だ。
「東アジア共同体」をめざした鳩山政権と、米海兵隊の辺野古基地移転を沖縄県知事に要求し、秘密保護法と集団的自衛権行使解禁を準備した菅・野田政権の当事者がいまの両党を指導しているにもかかわらず、その総括はいまもなされていない。これでは、「日曜討論」などで安保問題を議論した場合、自民党に鎧袖一触で終わるだろう。

興味深いのはリベラル派の主張で、対米自立を唱える割に、中露に対しては拒否の姿勢を示しており、にもかかわらず日本の軍事的独立については、一切否定的で、軍事力を持たずに米中露から等距離を保とうということらしいのだが、およそ実現可能とは思えない。

これに関連して憲法改正も必要となる。
現行憲法は、帝政の存続の条件として武力の放棄を謳っており、故に戦争放棄と戦力不保持を記している。
その軍事的空白は、当初は国連軍(連合国軍)が埋める予定だったが、国連軍は結成されず、サンフランシスコ講和条約締結に伴い、アメリカ軍が駐留して、その役を務めることになったのだが、同時にその補助部隊として自衛隊が創設され、一義的には自衛隊が日本防衛にあたることとなった。本来なら、この時点で憲法改正が必要であり、岸信介などが主張したのだが、実現しなかった。
その後、解釈改憲を繰り返し、今では全世界に自衛隊を派遣して軍事力を行使することを可能とし、規模的には世界第七位程度の軍事力を有する軍事大国となっているが、体面上は「防衛用の実力組織・実務組織であって、戦力ではない」とされている。そして、今度は対外先制ミサイル攻撃まで「解禁」しようしている。
憲法による抑制が効かない状態で、解釈改憲でルールをねじ曲げてゆく手法は、問題が起きたときに隠蔽は虚偽で押し通すほかなくなり、「法の支配」の瓦解に繋がる。いまもかなりその気が強くなっている。

また、現行憲法は戦争を否定しているため、当然ながら国防の義務は誰にも課されていない。
結果、自衛隊法が以下のように規定しているだけとなっている。
第三条 自衛隊は、我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対し我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする。

これに対し、防衛大臣は防衛省の行政統括官でしかなく、自衛隊の最高指揮官は内閣総理大臣となっているものの、実は内閣総理大臣には国防の義務は課されていない。
欧州などの憲法では、憲法に市民の国防義務を明記している場合が少なくなく、大統領制を導入している国では、大統領が国軍最高指揮官として国防の責務を担う代わりに、その責任は国民に対してなされる関係が明記されている。つまり、市民は国防の義務が課されるが、その最高責任は大統領や議会が担い、市民に対する責務を持つという契約関係が成立している。
こうした社会契約が日本の現行憲法には存在せず、そもそも想定していないため、仮に戦争が発生しても、日本国民は国防の義務を有さず、総理大臣は最高指揮官ではあるが、失敗しても責任を問われることは無く、自衛隊は法律上の実務として国防にあたるだけで、しかも国民を守る義務は無い、という恐ろしい状態にある。
不安定な国際情勢下にあって、米中露に挟まれた日本であるからこそ、憲法問題を議論する必要がある。

日本再軍備の条件
天皇の戦争責任とは何か

さらに歳出の四割を国債に依拠し、社会保障費が毎年2兆円も肥大化する中で、財政問題は不可避の課題となっている。

またぞろ安直な消費減税

これらの重要課題を放置したまま(増税派と減税派が)合流しても、またぞろ内部対立から破綻するだけだろう。そもそも「希望の党」ができた時に、「排除した方」と「排除された方」が、わずか3年で「手打ち」にすることについて、どう有権者に説明するのか。合流協議を進める前に、大義を掲げない時点で、不信感しか無い。
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2020年07月14日

自由民主主義の賞味期限切れ

【東京都知事選 前回は8割超が供託金没収…「挑戦者」後絶たない理由】
 5日投開票の東京都知事選には過去最多の22人が立候補したが、その多くが大きな政党や組織の後ろ盾を持たない候補者だった。前回の都知事選では8割以上の候補者が一定以上の票を得られずに高額な供託金を没収されるなど、厳しい戦いを余儀なくされることも多い。なぜ「挑戦者」は後を絶たないのか。
 「公約を必ず達成する。そして都民の幸せを阻害する既得権益を断ち切る」
 こう訴えた男性候補は、新橋駅前でのごみ拾いの活動を通じて知り合った50人以上のボランティア関係者らに支えられ、選挙戦を戦った。
 供託金の一部もごみ拾い活動の関係者からの寄付を受けたといい、「『主要』としてメディアに取り上げられないことは想定していたが、奇跡を信じて当選を諦めるわけにはいかない」と強調する。主要5候補ばかりに光が当たりがちだが、都知事選ではそれぞれの候補者が独自の戦いを繰り広げた。
 別の男性候補は、政見放送で自身の主張を力説。公職選挙法の規定に抵触するとして音声を一部削除された箇所もあった。しかし、その奇抜さなどが会員制交流サイト(SNS)で話題となり、ツイッターの検索目印「#(ハッシュタグ)」を付けた自身の名前が、インターネット上で拡散した。一方で、選挙公報に記載がないなど、有権者へアピールする場を活用しない候補者もいた。
 都知事選に立候補するには供託金300万円が必要で、有効投票総数の10分の1を下回ると没収される。21人が立候補した平成28年の前回都知事選の総得票数は約655万票。実に18人が没収ライン(約65万票)に届かず、供託金を没収された。大きな組織を持たない候補者にとって、都知事選の没収ラインはかなりハードルが高いといえるが、なぜ挑戦するのか。
 選挙コンサルティング「ジャッグジャパン」社長の大浜崎卓真氏は「首都・東京の首長選ということで注目度が高く、政治的な思想や信条を広く訴えられる場でもある」と指摘する。その上で「奇抜さは、主要とされる候補者に対抗するための選挙戦略ともいえる。全員が何かしらの政策を述べており、有権者は全員の政策を横並びで見比べるべきだ」とした。
 ブランド・経営コンサルティングなどを行う「ワーク・アット」代表理事の上木原弘修氏は「注目度の高い都知事選で自分の考えを述べれば、一定層から共感を得ることができ、人脈が広がるといった効果も期待できるだろう」と分析。さらに若者の政治への関心や投票率の低さが問題となっている点に触れ、「さまざまな候補者が出るのは非常に良いことだ。若者が政治に関心を持ち、新しい風が吹くのではないか」と期待した。
(7月5日、産経新聞)

デモクラシー的には候補者がたくさん出ること自体は良いと思うが、人気投票化したことで、「政策競争によって優秀な人材を選抜する」というリベラリズムの側面が完全に失われていることが問題。

卑俗な表現をすれば、「どうせ小池には勝てないから、いいや」と冷静な判断ができるものほど政治参加を忌避してしまうわけで(残りはますますお祭りに走る)、こうしたことが全国的あるいは国政にまで広がっている。
市区長選の場合は、小規模であるほど人気投票にはなりにくいため、本来の「エリート選抜」機能がまだ働いていると考えられる。

だからこそ、私が主張する東京三分割が実現すれば、少なくとも多摩地域にはよりマシな知事が誕生する可能性が出てくると愚考する次第。多摩県知事が「五輪誘致」など考えないだろうし(「多摩五輪」も魅力的だが)、もう少し基地問題にも関与する気になるだろう。

封建社会が貴族支配で保たれていたのは、人口の90%以上が労働集約型の第一次産業に従事しており、統治の質や教育度の高さがさほど要求されなかったためだが、大衆に教育を施すインフラを整備するほどの資本、資源、技術が足りなかったので、貴族階級に集中することで統治者と知識人の養成をかろうじて実現していたという側面もある。

これが近代社会になると、労働集約産業の比率が低下して、知的労働の割合が高まり、統治の質や教育度の高さを各国で競うような状況になり、貴族支配では秩序が維持できなくなる。工業化社会では、大量の管理職が必要となり、国家や軍隊の規模が大きくなると同時に管理職と知識階級の需要も急増するが、貴族社会では量的にも質的にもこの需要を満たすことはできなかった。
第一次世界大戦で、貴族制度を濃厚に残す国家が一掃されたり、あるいは日本で戊辰政変が起こって士族特権が廃止されたのは、根源的には同じ理由からだった。

封建社会と貴族制度に替わる統治形態として模索されたのが「国民国家」であり、その主流となったデモクラシーは大衆の政治参加を、リベラリズムは選挙による政治エリートの選抜を提起し、これが融合する形で西側の自由主義社会の統治形態が整備されていった。
この国民国家モデルに対抗するものとして提起されたのが、ソ連の共産党独裁モデル、あるいは開発独裁モデルであり、共産党独裁の場合、原理的には全市民に門戸が開かれた唯一の政党に大衆が参加、その中で選抜されたエリートが国を統治するというものだった。この統治形態は、ソ連崩壊で失敗したかに見えたが、中国共産党やベトナム共産党に引き継がれ、現在もなお効力を失ってはいない。

1990年代にはフクヤマ『歴史の終わり』で自由民主主義の完全勝利が宣言されたものの、2000年以降、グローバル化と資本主義の高度化が進んだことで、大衆が政治参加の欲求を低下させる一方で、経済格差に対する不満を強め、他方では「選挙によるエリート選抜」の機能が急速に低下している。
恐らく歴史的には、代議制民主主義を大幅にアップデートするか、これに替わる新たな統治形態が求められていると思われるが、それが何かいまだわからないところが苦しいのだろう。
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2020年06月16日

曹洞宗が差別戒名墓石移設へ

【「差別戒名」墓石全て移設 145カ寺40年かけ 曹洞宗】
 「差別戒名」が刻まれた墓石を檀家の墓地から三界萬霊供養塔に移設する「改正」作業を進めてきた曹洞宗はこのほど、全国145カ寺にあった全ての「差別戒名」墓石の移設を完了させた。今年3月、最後の1カ寺となっていた埼玉県の寺院で追善法要を営み、あらゆる差別の撤廃と人権の確立の実現に向け、さらなる精進を誓った。
 宗務庁は全国寺院へのアンケートや現地調査などを実施し、全国253カ寺に差別戒名が記された墓石(145カ寺)と過去帳(218カ寺)があることを把握した。
(6月5日、中外日報)

曹洞宗はセンシティブな問題と真摯に向き合っていると思う。

ケン先生は東京に生まれ育ったので、あまり意識したことはなかったが、奈良の議員の秘書をやって、部落問題の根の深さと闇を垣間見ることができて、目が見開かれた思いだった。
確かに目に見える部分での部落差別は減少していると思われるが、地方、特に関西以西では、差別対策として講じられた様々な施策が利権化してしまい、むしろその差別構造下でしか生きられない層を作り出してしまっているところがある。こうした施策を「歴史的使命は終わった」とするのは簡単であり、確かに合理的にはそれが正しいわけだが、現実にはそれに依拠(寄生)して生活している人びとも少なくなく、何が「人道的」であるのかを見極めるのは非常に難しい。
大阪の「維新」は、硬直化した利権構造を破壊して、利権構造の再構築をめざしている側面があり、だからこそ広範な支持を得ていると考えられる。

政治的には非常に難しい問題であるだけに、宗教面からのこうした取り組みは非常に重要であると言える。
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2020年06月13日

SNSで選挙自体がクソゲーに

【フェイスブック、国営メディアにラベル表示 広告禁止へ】
 米交流サイト(SNS)大手フェイスブック(Facebook)は4日、国営の報道機関など国家の影響下にあるメディアにラベルを表示する措置を始めた。また、11月の米大統領選挙までにこうしたメディアによる広告の掲載を禁止する方針も表明した。同社サイバーセキュリティー対策部門の責任者ナサニエル・グライシャー氏が公式ブログで行った発表によると、今回の措置は同社が昨年10月に発表した計画に沿ったもの。グライシャー氏は「ユーザーは、自分が読んでいるニュースが政府の影響下にある可能性のあるメディアのものかどうかを知るべきだ」と述べた。
 同社は今後、国営メディアが掲出する広告にも同様の表示を始め、11月の大統領選までにこうした広告の掲載を完全に禁じるとも発表。グライシャー氏は「公の議論の場に外国からのさまざまな影響が及ぶのを防ぐための追加策」と説明している。同社が定義する国営メディアには、編集方針に政府の影響が及ぶ機関や、政府が出資するメディアが含まれる。フェイスブックは、2016年米大統領選への外国の干渉を防ぐ対策を怠ったと批判されているほか、ドナルド・トランプ大統領らによる誤情報や扇動的なコメントの投稿への対応をめぐる論争の渦中にある。
(6月5日、AFP=時事)

「編集方針に政府の影響が及ぶ機関」−日本の大手報道機関は全て該当。NHKは確実にラベル対象だ。

SNS各社の苦悩は理解するが、自国の大統領や首相が情報操作の源となっている以上、「ネズミ取りを置きました(ゴキブリやダニは放置)」にしかならない。そもそも現代の選挙では、より「情報を上手にコントロールして、有権者に良い印象を植え付けた」方が勝利する「ゲーム」になってしまっている。
例えば、2008年の米大統領選は「オバマ対マケイン」、2016年は「トランプ対クリントン」の対決だが、リベラル・デモクラシーが想定している「エリート間での自由かつ公正な政策競争」によって選抜されたのかどうか、容易に答えられよう。
逆に、日本の地方に行けば、「自民党候補対NK党候補」という選択肢になっているところが少なくない。大阪ではこれが「自民、維新、NK」となるだけで、ソ連末期の国営百貨店のような、「買いたい物が何も無い」マーケットになってしまっている。
自由主義社会は、市場競争であれ、選挙であれ、「自由かつ公正な競争」が前提となっており、その前提を担保するために政府や政治が存在する。しかし、その競争は十分な競争者と選択肢が存在して初めて成立しうるものであって、そもそも選択肢が無ければ成立しようが無い。

そこにSNSが登場することで、ゲームの方向性がさらに変化し、ただでさえ人気投票の嫌いがあった選挙が、より「情報を上手にコントロールして、有権者に良い印象を植え付けた」方が勝利するゲームになってしまった。
その選挙は規模が大きくなればなるほど、大手広告会社が介入し、デザイナーやコンサルタントが優秀な方が勝つ確率が上がるため、「より多くのコストを情報戦に費やして、良いダイス目を出した方が勝ち」みたいなゲームと化している。

こうした傾向は有権者からすると、リテラシーの難易度が上がりすぎて、ますます「印象で選ぶほか無い」という話になっている。
行動経済学も証明しているが、大半の人間は、選択肢が多すぎたり、複雑すぎたりすると、「考えて選択する」行為そのものを放棄してしまうからだ。
要するに、SNSの導入によって「無理ゲー」「クソゲー」になってしまったのが、現代の自由民主主義社会なのだ。それだけに、「SNSをちょっと改革しました」程度では「焼け石に水」もいいところで、下手すれば、むしろ状況を悪化させるかもしれない。
posted by ケン at 12:00| Comment(0) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする