2019年11月01日

自民党有志が皇族復帰案

【旧宮家男子の皇族復帰を可能に 自民有志の提言案】
 安定的な皇位継承に向け、自民党の保守系有志議員による「日本の尊厳と国益を護(まも)る会」(代表幹事・青山繁晴参院議員)がまとめた提言案が20日、分かった。例外なく父方に天皇がいる男系の継承を堅持し、旧宮家の男子の皇族復帰を可能とする皇室典範の改正か特例法の制定が柱。23日に正式決定後、安倍晋三首相や自民党幹部に直接手渡す方針だ。
 提言案では、女性皇族が結婚後も皇室にとどまる「女性宮家」の創設について、婚姻した民間人男性が皇族となり、男系継承の伝統が途切れる女系天皇の呼び水になりかねないことから、否定的な見解を示す。
 男系維持のため、旧宮家の男子が現在の皇族の養子か女性皇族の婿養子となるか、国民の理解に基づく立法措置後、了承の意思があれば皇族に復帰できるようにする。現在の皇位継承順位は一切変えないことも明確化する。
(10月21日、産経新聞)

当然の成り行きではあるが、現実には「皇族復帰を希望するものはいるのか」「ロクでもないヤツが皇族になったら?」「婿養子の場合、皇族女性の意思は?」などなど疑問は尽きない。
このままではほぼ断絶は避けられないだけに、弥縫策としてはやむを得ないのだろうが、現実性の点では苦しい感じだ。
この問題については、すでに十分説明しているので、再掲しておきたい。
現在の天皇家は皇家と四宮家から構成されている。この5家のうち男子がいるのは秋篠宮家だけで、それも1人のみだ。現在の皇室典範は養子を禁止すると同時に、女子が皇族以外と結婚した場合は皇室から除籍すると規定しているため、今後も男子が誕生しない場合、皇家と三宮家は遠からず絶家となる。
どうしてこういう事態になるかというのは意外と単純な話で、皇統を維持するための装置、すなわち宮家が少なすぎることと、一夫一妻制のためである。

例えば、徳川家の場合、家康の直系は4代で途絶、三代家光の4男である綱吉が五代将軍となり、さらに途絶して六代将軍には家光の3男綱重の子である家宣が就任するが、それも次の家継で断絶してしまい、家光の血統は途絶してしまう。
そこですったもんだが生じ、紀伊家の吉宗が八代将軍になるのだが、吉宗自身は紀伊家二代目である光貞の4男で、上の3人の兄が早世したため紀伊家の五代目に就いた経緯があり、それ故に兄3人に対する毒殺疑惑が囁かれていた。
この吉宗の血も孫の家治で絶え、吉宗が血統護持のために新たに創設した「御三卿」の一つである清水家の家斉が十一代将軍を継ぎ、それも孫の家定で絶え、清水家から紀伊家を継いだ家斉の子・斉順の次男である家茂が紀伊家から本家に戻る形で将軍位に就いた。
だが、その家茂も早世、水戸家から御三卿の一橋家に入っていた慶喜が将軍位を継いだ。それも「水戸家のものは将軍位に就かない」という内規があり、最後まで反対意見が強かったものの、他に選択肢が無かった結果だった。

江戸時代は最も安定した時代で、保健医学も世界的に見て相応の水準にあったはずだが、それでも一つの血統が維持できるのは三代程度でしかなかったことが分かる。また、家康は血統を維持するために御三家を創設したが、御三家筆頭の尾張家からはついぞ1人も将軍位に継ぐことは無かった。このことは、血統維持のためには、必要なタイミングに後継者を提供できるだけの数をプールしておく必要があることを示している。たとえ男子が生まれても、相続のタイミングで相続可能な状態のものが居なければ意味が無いのだ。
それに気づいた吉宗は血統をプールすることを目的に御三卿を創設するが、田安家は二代目で途絶して養子、一橋家は四代目で途絶して養子、清水家に至っては初代に実子が無くいきなり養子という有様だった。

江戸城には大奥が置かれ、将軍家でなくとも正妻以外に側室を置くことが奨励され、実行されていたにもかかわらず、これだけ男子が育たずに養子をもらうことでしか血統を維持できなかったのである。
別の例を挙げれば、戦前に総理大臣を担った近衛文麿は、公家・五摂家の筆頭というサラブレッドだったが、文麿は江戸時代から300年間を通じて初めての正妻の子による後継者であったという。今昔を問わず、正妻と子をなすことがいかに難しいかという話だろう。
さらに別の例を挙げれば、江戸期にある庄屋・名主の家が100年後にも同じ地位を保っていたケースは10〜15%程度だったという研究もあり、要は8割以上の家は100年と保てずに没落してしまっており、名家の存続がいかに困難であるかを示している。

以上の話でお分かりいただけるのではないか。
現在の皇統存続の危機は、戦後改革によって14家あった宮家のうち11家が皇籍離脱処分となったことにある。その結果、1954年の高円宮憲仁親王(2002年に逝去)の誕生から2006年の秋篠宮悠仁親王の誕生まで50年以上にわたって男子の誕生が途絶えている。冒頭にも挙げたように、皇家と四宮家のうち男子がいるのは秋篠宮家だけで、しかも1人で、養子が認められない現行法では残り四家は遠からず断絶することになる。仮に悠仁親王が皇位を継いだとしても、その存続は絶望的な状況にあると言える。
宮家が廃絶された理由は、戦後の財政難と民主化、つまり華族制度の廃止にあるが、それは強大な皇族が貴族特権を有することはデモクラシーの原理に反するという考え方に基づいている。
だが、皇統の存続を第一に考えるならば、可能な限り多くの宮家を置いて、後継者プールを大きくすることに主眼を置くべきなのだが、近代あるいはデモクラシーの原理とどうしても背反してしまう。

また、明治帝が5人の側室を有していたのに対して、より近代的な(人権感覚のある)大正帝と昭和帝は側室を置かず、その新伝統は現在の平成帝と徳仁親王にも引き継がれている。だが、大正帝から平成帝に至る連続三代に渡って本妻が男子を産むという事態こそが、歴史的に見て奇跡的な幸いとも言うべき例外であり、血統の護持という点では奇跡に期待するようなことがあってはならない。
その意味では、天皇家と宮家には側室を置くことを容認ないしは義務づけることが望ましいはずだが、一夫一妻という近代道徳がこれを阻害している。
奇妙なのは、皇室に属するものには基本的人権や主権が認められていないにもかかわらず、何故か一夫一妻制度は導入されている点だろう。どうせ裁判権も選挙権も認められていないのだから、民法についても適用除外にすれば良いだけの話ではないか。
文仁親王などは年齢的に可能性が残っているのだから、今からでも側室をあてがうことは十分に現実的な選択肢と考えられる。

つまるところ、現状の皇統危機は、変に封建制(王制)と近代原理(自由と民主主義)を両立させようとした結果、自ら選択肢を狭めてしまっていることに起因すると考えられる。その意味で、保守派が反動回帰して「皇籍復帰による新宮家の創設」を主張するのは合理的な帰結ではあるのだが、現実には自由と民主主義そのものを否定しない限り、根本的な解決には至らないのである。
(皇統存続と近代原理の無理)
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2019年10月25日

日本人のアイデンティティとは?

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いかにも現代日本を象徴する報道。
どこぞの報道機関幹部が「身内向けの連絡みたいなもの」などと擁護していたが、その擁護自体が連中のゆがんだ人権感覚とナショナリズムを象徴している。どこまでも腐った連中である。

連中は2014年にノーベル物理学賞を受賞した中村氏のことをどう報じたか。まず「日本人」と報道して、アメリカの市民権を取得し、日本国籍が剥奪されていることを知るやいなや、「米市民権保持者」なる称号に切り替えている。
2017年のノーベル文学賞受賞者であるカズオ・イシグロ氏の場合は、最初から英国籍であることがわかっていたものの、過剰に「日本生まれ」「元日本人」が強調された。
テニス選手の大坂氏の件でも同じような問題が見られる。

日本は人種差別撤廃条約に発効から25年以上経て、ようやく渋々加盟したわけだが、その実行については全く関心が無いように見られる。同条約の第一条には、
『人種差別』とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう

との規定があり、これを厳格に解釈していれば、今日のヘイト・デモやヘイト・スピーチが横行するような事態は避けられたはずだった。
同時に、同規定が市民に理解され、徹底されていれば、「ノーベル賞受賞者は外国人」のような「区別」を煽り立てる報道が「表現・報道の自由」として認められる余地はなかったはずだ。

差別禁止が表現の自由に優先すると考えられるのは、ナチスドイツや大日本帝国における優生思想を抑止するためだったわけだが、日本ではそうした二次大戦の反省としてはめられたはずのタガが完全に外れてしまっている。
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2019年09月09日

非居住地で出馬当選の問題点

【N国党新宿区議の当選無効 選管、居住実態なしと判断】
 東京都新宿区選挙管理委員会は2日、NHKから国民を守る党で4月21日投開票の同区議選に当選した松田美樹氏(32)について、公選法が定める区内での居住実態が認められないとして、当選無効を決定した。21日以内に都選管に審査を申し立てなければ正式に決まり、次点候補が当選者となる。
 区選管によると、松田氏は2018年12月21日に同区への転入届を提出。以降毎月の水道とガス使用量は0〜1立方メートルで、電気も室内の冷蔵庫の消費電力と同じ程度だった。
 松田氏は区選管の聞き取りに「寝泊まりしていた」と説明したが、ペットの世話など生活の多くが転入前の住所で行われていた。
(9月2日、共同通信)

非居住地で自治体選挙に出馬して、当選後、「実態無し」として問題になるケースは意外と多い。
勢いがあった時の民主党でも散見されたし、その後、「みんな」「維新」などでも同様のケースが、自分が覚えている限りでも複数件見られた。全体で言えば、かなり少数ではあろうが、多くの問題をはらんでいる。

地域の権益の代弁者として、地域居住者の主権を代行するために代議員が選出されるわけだが、非居住者がいきなり居住地外の自治体に来て立候補して、多数の票を得て「選出されてしまう」ということである。従来は、良くも悪くも、顔の見える候補者が地域を回って投票を依頼し、あるいは地域ボスや関係者が投票を依頼することで、自治体選挙は成り立っていた。
ところが、都市部を中心に地域と生活が必ずしも一体をなさなくなり、地域コミュニティとは無縁、あるいは縁の少ない住民が増え、むしろ地域ボス的なものへの拒否感が強まって、「顔の見えない候補」への投票が増える傾向にある。

ケン先生の場合、地域代表を選出するタイプの小選挙区制は国会議員を選出するものとしては不適当であると断じているが、さすがに自治体選挙で同じことは言えない。
確かに自民党のような地域ボスを選出するタイプの選挙戦術が弱まっていることは、ある意味では好ましいと言えるわけだが、では「地域ボスでは無い自治体議員」像となると、どうなのかというイメージがいまだ見えてこないところがある。

私の知り合いにも何人か自治体議員がいて、みな職業政治家であるわけだが、自民党議員を除くと地域ボスではなく、では誰を代表しているかと言えば、主流は居住地近隣で後援会を組織して、政党票などを上積みするといった傾向の者が多いように見受けられる。
それはもちろんそれで良い。しかし、アメリカ・ヨーロッパの場合、居住地と社会階層がほぼ一体化しており、これが支持政党に直結してきたわけだが(今日では崩れてきている)、日本の場合、社会階層と支持政党が一致しておらず、「たまたま某党から出馬した者が、たまたま選挙が上手く、当選してしまう」ケースが非常に多い。
これは、自民、KM、NK党以外の政党が自前の組織を持たず、候補者の資質(いかに上手く後援会を組織できるか、いかに上手く選挙を演出できるか)に依存していることに起因している。

その結果、ある政党が流行すると、その勢いだけで何もせずに当選してしまう者と、自前の組織で当選したがために、政党の理念や政策に全く従わない者が続出するところとなっている。
自前の組織を持たない政党は、自前で候補者を育成できないため、「カネを自前で用意して議員になりたい者」を優先的に公認し、その結果、記事のような「居住実績の無い自治体議員」が誕生することになる。

さらに言えば、自治体議員選挙の投票率も低迷しており、都市部では「40%あればマシ」という状態になっていることも、ちょっとした人気のみで当選できてしまう素地をつくっている。
もっともデモクラシーの観点から言えば、「誰でも代議員になれる」状態は非常に好ましいわけだが、その結果、丸山某や小泉某が我が物顔で議員をやっていると考えると、やはりデモクラシーの黄昏を思わざるを得ない。

まぁ結論は無く、あくまで戯れ言の独り言である。
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2019年08月21日

自由と民主の統治原理と抽選制議会の可能性について

最近欧州では抽選制選挙による代議員の選出が検討されている。
フランスで大統領候補になって20%近く得票したメランション氏などは、公約に国民議会選挙の一部抽選化を謳っていたほどだ。
これは文字通り、有権者の中から完全にランダムで抽選、当選した者が無条件で代議員となる制度である。
実際、マクロン大統領は政府が作成する法案の諮問する機関の一つ経済社会環境評議会の評議員の一部を市民から無作為で抽選すると述べている。
アイルランドやアイスランドでも憲法を審議するために同制度が用いられている。
歴史的には、古代ギリシアやローマでも抽選制が採用されている。

その背景にあるのはエリートとプロ政治家に対する深刻な不信である。
世界を見た場合、アメリカでトランプ氏が大統領に当選したが、「エリート中のエリート」「政治のプロ」であるクリントン氏を相手に「素人性」を強調したことが大きな原因になっている。
イギリスでは、エリートとプロ政治家がこぞってEU残留を主張したのに対し、ノン・エリートとアマ政治家がEU離脱を訴え、後者が勝っている。
ギリシアのSYRIZAやスペインのポデモスも、既存の社会民主主義政党がエリート化したことに対して、そのアンチテーゼとして「非エリート」「大衆民主主義」などを主張して大きな成果を挙げている。例えば、ポデモスはインターネットを使った全党員による投票を最高意思決定機関としており、エリートと党官僚に基盤を置く政党統治原理を否定している。
日本でも、リベラリズムに基盤を置き、「エリートによる統治」をめざす民進党の系統が嫌われ、「れいわ」や「N国」のような非エリートに票が集まりだしているし、自民党にあっても東大出官僚の大物議員は絶滅しつつある。

その原理は「誰が統治すべきなのか」に起因する。
デモクラシーは「大衆による大衆の統治」「全主権者による意思決定」を旨とする。
「自分たちの支配者は自分たちであり、自分たちのことは自分たちで決める」というもので、だからこそ直接民主主義が理想とされる。

これに対してリベラリズムは「エリートによる大衆統治」「選ばれた優等人物による意思決定」を旨とする。
リベラリズムは本来、王権や貴族のような血統支配からブルジョワジーの財産と権利を守るために生まれた統治原理であり、「王や貴族の横暴から個々人の権利と財産を守る」ことを至上とする。そのため、王や貴族に対抗できる優秀な人物を統治者・調整役として「選出」するという発想になった。これがエリート=選良である。

代議制民主主義は、直接民主主義が物理的に困難であるため、大衆の中から投票によって選出されたエリート代議員が国政を審議し、意思決定を行うという統治原理である。
ところが、1990年代以降、エリートによる統治が上手く機能しなくなり、国内の生活水準が急悪化する一方、エリート層の資産は肥大化、経済格差は拡大の一途にある。中間層の没落はグローバル化の流れの中で避けられない側面はあるのだが、ごく一部のエリートの資産だけが肥大化し、それを肯定する統治(例えば企業や富裕層に対する優遇、あるいは腐敗の放置)に対して怨嗟と憎悪が高まっている。
本来であれば、社会主義政党がこれを是正する役割を担っているわけだが、1950年代以降の戦後和解体制の中で資本と同化してしまい、その党官僚も議員もエリート化してしまった(日本の連合が象徴的)。フランス社会党などはもはや壊滅状態にあるし、ドイツ社会民主党も存続が危ぶまれている。英国労働党は左旋回でかろうじて命脈を保っているという状況だ。

代議制民主主義は「大衆が自ら選出した代議員が正しい意思決定を行う」「大衆によるチェックが働くから腐敗しない」という原理の上に成り立っているが、今の日本の国会を見れば分かるとおり、全く機能していない。
また「大衆による投票」と言っても、小選挙区制の場合、平均的には3割強の得票で選出され、残りの票は死票になっており、「民意が十分に反映されている」とは言えない状況にある。
労働側に視点に立ってみても、大企業のエリート正社員で構成される連合は何人も国会議員を当選させているが、残り9割の非エリート労働者は一人の代表者も国会に送ることができない。これはデモクラシーの原理に反している。

選挙は一見民主的に見えるが、実は「より多数の票を集めたものが総取りする」というゲーム的要素が強く、「ゲームに強い者が勝つ」「流れに乗った者が勝つ」といった要素が非常に大きい。これは「大衆による大衆の統治」とは無縁の話であり、「民主的に選出する」という概念そのものがフィクションに過ぎないと言うこともできるのだ。
丸山某や小泉某を選出する現行制度が果たして「民主的」なのか、あるいは彼らは「エリート」として機能しているのか、懐疑的に検証する必要があるのでは無いか。
であれば、むしろ無作為に選出された者を複数代議員にして政治を諮問させた方が民主的だ、となるのは自然の流れだと言える。
但し、この場合、「選良による統治」が成り立たなくなるので、それはそれで良いのかという話になる。とはいえ、官僚の劣化が著しい現在、そもそも「選良って誰?」「AIでいいんじゃね?」という議論も出てくるので、非常に難しいことになっている。

遠からず現行の統治システムは限界を迎えるので、この辺のことはかなり突き詰めていかないといけないだろう。

【参考】
ダーヴィッド・ヴァン・レイブルック 『選挙制を疑う』 法政大学出版会(2019)
posted by ケン at 12:00| Comment(3) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月05日

安倍政権が支持される理由

「何であんな権威的で腐敗も激しい安倍政権が支持されるのでしょうか?」

旨の質問を受けた。ケン先生的にはかなり「自明の理」のことだったので、特に深く考えたことはなかったかもしれない。
考えてみれば、本ブログはゴリゴリの左翼人が書いている割に、いわゆる安倍批判的なネタは非常に少ない。
そもそも自分が所属あるいはボスが所属していた民主、民進党にしても、「自民党よりはマシ」程度で、相対的に支援していただけで、支持していたとは到底言えない。まぁそれは良い。

まず言えることは、安倍批判系の人たちの批判の矛先は、「憲法に対する態度」「原発に対する態度」「自由・人権に対する態度」が主であり、社会保障や再分配については二の次な感じが見られる。
「改憲反対」「反(脱)原発」「自由・人権」は、55年体制期において旧式左翼(社会党とNK党)が主張してきたもので、常に少数派でしかなかった。現実の彼らの戦略は、「国会の3分の1を維持して改憲を阻止する」というもので、「3分の1が守れるかどうか」という程度のものだった。つまり、60年以上少数派なのだから、同じ主張を繰り返して支持が増える理由が無いのは当然だろう。
付言しておくと、NK党が「脱原発」に転じたのは1990年代のことである。
要は国民の多数派は最初からリベラリズムを政党支持の根幹に置いていないのである。

政府や政権の支持・不支持の一般的な基準は、やはり経済指標と生活水準である。
ケン理論的には、三つの指標で見ると分かりやすい。それは、

・高インフレ(物価高)
・高失業率
・低治安

で、このうちの一つだけなら政府に対する不安は高まっても、維持は可能だが、二つ成立すると急速に社会が不安定化し、三つになると危機的状況に陥る。
近代日本史を見た場合、昭和恐慌期と戦後期が「三つ」当てはまる時期だった。
昭和恐慌は、解決の目処がつかないまま、対中開戦によって暴力による資源収奪で解決しようとしたところ、破滅的結果を招いてしまった。
戦後恐慌も、今でこそ忘れ去られているが、政権は常に安定せず、デモとストライキが横行、治安は最低の状態にあったが、朝鮮戦争の勃発による朝鮮特需によって、まず失業率が一気に改善、生産力が回復すると同時に購買力も向上したため物価も安定傾向となり、社会は安定化していった。そして55年体制が成立する。社会党が不幸だったのは、連立政権を組んだのが最も不安定な朝鮮戦争前の時期だったところにある。もし朝鮮特需の時期が吉田内閣では無く片山内閣だったら、55年体制の有り様も大きく変わったのでは無かろうか。

現代で言うと、政権交代が起きて自民党が下野したのは、バブル崩壊(1993年)とリーマンショック(2009年)期で、ともに一時的に失業率が高まった時だった。それでも、2007年の失業率3.9%が、2009年の最高水準で5.5%になっただけなのだから、わずかな差で凄まじい影響が出ることが分かる。もちろん、物価と治安については大きな変化は無い。
但し、日本政府の失業率計算は全く現状を表していない。霞が関の言う「失業者」は、「無職かつ一生懸命求職活動している者」を指しているためで、バイトしながら正社員を目指しているものや、ハローワークに行かずに求職している者はカウントされない。実際には、2〜3割以上のものが失業者計算から除外されていると考えて良い。

さて、安倍政権である。安倍政権下では、少なくとも数字上は失業率は大きく改善している。野田政権期の4.4%はいまや2.4%にまで「改善」している。これが「アベノミクス」の成果なのか、単に少子高齢化の影響なのか、霞が関の統計改竄によるものなのかについては、議論の余地はあるものの、少なくとも国民の大多数は安倍政権を評価していると言えるだろう。
物価もやや上昇傾向にあるとは言え、全体的にはほぼ横ばいが保たれている。これも商品の中身を減らして価格を据え置くなど、欺瞞的なものが見られるわけだが、ここでは議論しない。
治安については、センセーショナルな事件は別にして、非常に良好な状態にある。
つまり、経済社会の運営について安倍政権に対して不満を募らせる理由は「何も無い」とすら言える状態にあるのだ。

自民党、霞が関が巧妙なのは、法人税の優遇措置や外国人奴隷制度などを上手く利用して、倒産寸前の零細企業や老朽化した大企業の延命を図ることによって生産力を維持、供給過剰状態を存続させることでデフレ(低物価)状態を実現していることにある。
また、小泉内閣などで労働市場の緩和を実現したことで、従業員の非正規率が4割以上になったが、これによって失業率の向上を阻止している。これは非正規職員の生活水準を最低賃金水準にまで落とすことになるわけだが、「失業よりはマシ」「日々の飯は食える」ということで、「安倍即斬」になるのを抑えている。
物価高と失業増を抑えられれば、治安が悪化することもないため、治安は良好を保っているが、例えば警視庁や公安調査庁は「次の時代」を見据えて、国会前のデモに参加した者の全ての顔写真を撮影してファイリングを進めている。当局による盗聴もほぼ自由化されている。だが、こうした側面が政権支持率の低下には繋がってはおらず、「自由・人権」が票にならないことを示している。

とはいえ、自民党や安倍政権が積極的に支持されていると言うことでも無い。
選挙後に行われた世論調査によると、比例区で自民党に投票した者の6割以上が「他に適当な投票がなかったから」との回答を示しており、現状維持バイアスが非常に大きいだけで、自民党・霞が関の政策が積極的に支持されている訳では無いことが分かる。
安倍政権が圧勝しても憲法改正にまで注力できないのは、「そこまでは支持してないけどな」という国民の多数派の意向が見て取れるためだと思われる。そこが、「政権取ったんだから俺の自由にやらせろ!」とやってしまった民主党鳩山政権との違いなのである。

まぁエリートなリベラル人士には理解できないかもしれないが。
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2019年07月31日

参院選2019に見る左派の課題

今回の参院選では、与党票はほぼ得票を減らすこと無く、野党内で票の再分配が行われた格好となった。
結果、旧民進、共産、社民の票が減り、それが「れいわ」に流れた。
また、直前の世論調査を見ても、自民党の支持率は30%強でそのまま自民党に投票されたが、野党は筆頭の立民ですら6%程度に過ぎず、「支持できる野党が無い」中で、「他に無いかられいわ」となった可能性を示している。
つまり、「有力な野党が存在しない」現状は今も変わらない。近々また世論調査が行われるだろうが、「れいわ」の支持率が急速に伸びるとは考えがたい。

「れいわ」が伸張した理由は、「安倍批判が強烈だから」というよりも「明確な経済政策」にある。
その主な主張は、

・消費税廃止
・最低賃金1500円
・奨学金「チャラ」
・公的住宅拡充
・正規公務員の増員


だ。これらは旧式左翼が言いたくても言えなかった(言わなかった)政策で、本来は左翼政党が主張すべきものだ。
「れいわ」のHPを見れば分かるが、意外なことに反原発、安保、憲法問題は下の方に記載されている。
ここがポイントなのだ。

欧米で起きている社会民主主義・リベラル政党の凋落は、本来彼らが発揮すべき再分配と階級闘争の主張を忘れ、エリート化(支配階層化、知識人化)してしまったことにある。
日本のNK党や社民党も、憲法、安全保障にはうるさいが、経済政策になると、途端に主張が弱く見える。そこが問題だった。

貧困が急速に進み、中流が没落する中、本来は社会主義的政策が求められるはずだが、その需要を満たす政党が存在しないことが、ポピュリズムにつながっている。貧困層がトランプ氏やル・ペン氏を支持する構図がそれだ。
ところが、日本では貧困層が自民党を支持しており、NKや社民を支持する貧困層は決して多くない。
野党内におけるその受け皿が、「左翼では無い」「れいわ」に流れる現象は、ギリシアやスペインのポピュリズムに近いかもしれない。

恐らく今後、左派に求められる政策はリベラリズムではない。
憲法、安保、人権、原発などの主張は再検討、ないし優先順位を下げる必要がある。
そして重要となるのは、

・消費減税(廃止)
・資産課税
・法人課税強化(税率アップではなく優遇廃止と課税強化)
・教育無償化
・公共住宅の整備(居住住宅の非課税化)
・最低賃金上げ
・非正規職員に対する社会保障強化
・公共部門へのてこ入れ
・労基法の徹底遵守(ブラック企業対策)
・部活動の全面廃止

・外国人労働者反対
・保護貿易


などだろう。移民、外国人労働者に反対するのは、賃金の低下を避けるためである。
本来、労働力不足は生産効率の上昇で対応すべきものであり、生産性の向上に応じて賃金が上がり、内国市場が発展するのが、「あるべき市場」の姿だった。
しかし、日本の場合、低賃金労働が定着、労働運動も殆ど機能しないため、賃金が上がらず、資本側は生産性を向上させる必要がなかった。
その結果、他国であればとっくに淘汰されているはずの低収益企業がゾンビ化、ブラック企業とともに存続してしまっている。
日本の経営層が無能なのは、無能であることが許される環境が存在しているためだ。その象徴が低賃金と超長時間労働であり、そうした風潮を育成しているのは学校教育であり、部活動であると言える(その上に天皇制もある)。

西側諸国で社会民主主義政党が衰退したのは、戦後和解体制の中で階級政党を脱し、国民政党化して政権まで担った「成功体験」が災いして、戦後和解体制が崩壊した後(90年代以降)も国民政党の枠組みから脱することができず、階級分化が進み、再び階級闘争が先鋭化している21世紀の政治状況の中で、労働者層や貧困層の支持が得られなくなっているためだった。
日本の場合、自民党と霞ヶ関が低賃金労働を推奨することで、低収益企業を存続させ、低失業率を維持、「大衆の大半がギリギリ貧困を自覚しない生活環境」を作り上げることで、自民党による一党優位体制が存続している。

こうした社会構造が理解できず、将来像を描けない既存の左派政党やリベラル勢力が中途半端な形で存続しているため、いつまで経っても有力な野党が誕生しないという側面もある。
その意味では、「れいわ」には、既存のリベラルや旧式左翼を淘汰する役割が求められるわけだが、現状ではそこまで推測するのは難しい。
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2019年05月21日

丸山某は議会から追放すべきか?

【野党6党派、丸山氏辞職勧告案を提出=自民は採決に慎重】
 立憲民主党や日本維新の会など野党6党派は17日、戦争による北方領土奪還に言及した丸山穂高衆院議員に対する辞職勧告決議案を衆院に共同提出した。
 野党は速やかな採決を目指す。これに対し、提出に加わらなかった自民党は、党内協議が必要だとして当面は採決に慎重な立場だ。公明党と週明けに対応を協議する。
 辞職勧告案を提出したのは立憲、維新のほか、国民民主、共産、社民各党と衆院会派「社会保障を立て直す国民会議」。決議案は丸山氏の言動を「論外」と厳しく批判。「国会全体の権威と品位を著しく汚した。議員の職を辞するべきだ」と記した。
 衆院議院運営委員会の野党筆頭理事を務める立憲の手塚仁雄氏は17日、自民党の菅原一秀与党筆頭理事と国会内で協議。共同提出に与党も加わるよう要請したが、決議案の表題などで折り合わず、野党が提出に踏み切った。 
(5月17日、時事通信)

何でもかんでも政争の具にしようとするのは望ましくない。
いくら野党の支持率が低位推移しているからと言って、ブーメランになりかねない手法である。

思い出されるのは、齋藤隆夫の除名事件である。
1940年3月7日の衆議院本会議では、民政党の代議士である齋藤隆夫を除名処分にする採決が行われた。
その理由は、同年2月2日の本会議で齋藤が行った、いわゆる「反軍演説」に対する懲罰であった。
今でこそ「反軍演説」などと聞くと、「どんだけ?」と思うだろうが、実際にその議事録を読んでみると、ごく普通の、当然の質問であって、反軍的内容など指摘する方が難しい。
要は、「国は支那事変をどう解決するつもりなのか」「東亜新秩序とは具体的にどんなものなのか」「世界戦争の危機に対してどう対処する所存か」「汪兆銘政権への対応は?」といった類いである。
そして、もっとも非難されたのは「中国と戦争やって、日本も何万もの兵が傷ついているってのに、戦争目的が大東亜新秩序の建設って何デスか?領土も賠償も取らないなんて、国民は納得しないッスよ!」という点だった。
さらには、実際の本会議場では普通に拍手が鳴り響き、終了後も齋藤の下に激励の手紙や電報が続々と届いたという。

にもかかわらず、齋藤の演説は「反軍的」となり、軍部批判=国家批判と判断されて、懲罰動議が出されることになった。
投票総数447票のうち、賛成296、棄権・欠席144、反対7という、圧倒的な数での除名決議となった。
なお、齋藤の所属する民政党は党議拘束をかけて賛成を強要し、反対者はたったの1人(岡崎久次郎)に過ぎなかった。
社会大衆党も同調したものの、34名中、安部党首や片山哲を含む10人が棄権することになり、うち8名を除名処分にした。浅沼稲次郎、河上丈太郎は賛成している。

つまり、戦時中は戦争指導を疑問視した者を追放し、いまは開戦を主張する者を除名しようというのである。
だが、代議制民主主義はあくまでも主権者の主権と意思を国政に反映すべく、その代理人として議員を選出するシステムであり、開戦論を主張する丸山某もまた、大阪の一部における相対多数の有権者の意思を反映しているだけに過ぎない。これを「開戦論を唱えた」と言って議会から除名するのは、大阪19区の有権者の主権を否定、阻害することになる。

これは「憲法に反した発言」も同様で、国会議員が反憲法的な意見を述べただけで除名されていては、憲法改正など秘密会でしか審議できなくなってしまう。だからこそ、立法の一員である国会議員の身分は特別に保証されているのだ。平和憲法を神聖視する者は、自由主義の原理に反している。
そこは、大臣など行政府側の人間による発言とは区別して考えるべきであろう。大臣や官僚が、憲法遵守義務を負うのは、主権者の意思を反映した議会で制定された法律を、施行者が恣意的に解釈して勝手に運用することを戒めるためである。

丸山某が大阪の民意を代弁する者としてふさわしいかどうかは、あくまでも彼の地の有権者が判断すべきことであり、他地域の主権代行者に過ぎないものが勝手に云々するのは戒めるべきである。
もっとも、逆を言えば、大阪19区の有権者の多数は「北方領土を武力で奪還すべき」と宣言したものを主権代行者として三度選出し、議会で主張させていたことを、重々承知すべきだろう。

日本では、総理大臣が防衛出動(武力行使)を発動する場合、「事前に国会の承認を得るいとまが無い場合」を除いて、事態対処法9条に基づき国会の承認を得なければならないことになっている。
仮に時の総理大臣が「北海道の一部を占領し続けているロシア軍」に対して防衛出動を命じたとしても、事前の承認が必要になる。
もし時の議会が衆参ともに過半数をもって支持するのであれば、「そこはそれ」でしかない。議会制民主主義とはそういうものだからだ。
それすらも納得できないとなれば、やはり現行憲法を厳密に解釈して非武装路線を貫くべきであろう。

【追記】
そもそも論で言えば、「択捉、国後は日本の領土である」などという話は、イギリス人が「フランスは我々の領土である」と言うのと同様(少なくとも16〜17世紀までは言われていた)、愚かにも程がある話でしか無い。だが、それが日本の有権者の一般認識であり、本当に統治形態として代議制民主主義が適切なのか疑われるところではある。
posted by ケン at 12:00| Comment(8) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする