2017年08月04日

議員年金は復活すべき

【自治体負担、200億円増も 自民の地方議員年金復活案】
 自民党のプロジェクトチーム(PT)は、2011年に廃止された地方議員の年金制度に代わり、議員が自治体と保険料を折半する形で厚生年金に加入できる法案の概要をまとめた。地方議員のなり手不足解消を図るという。25日の全国都道府県議会議長会総会でも実現を求める決議を可決。地ならしは進むが、自治体負担が200億円増えるとも試算されており、年金「復活」には批判もある。
かつての地方議員年金制度は議員が納める掛け金と自治体負担で運営され、「在職12年以上」という短期で受給資格を得られることが「特権的」とも批判されて廃止された。現在は、専業の地方議員は国民年金しか加入できない。自民PTは今回、地方公務員共済組合法と厚生年金保険法を改正し、地方議員を首長や職員と同様に自治体に「使用される者」とみなして、厚生年金に加入できる案をつくった。
(7月25日、朝日新聞)

老後不安を抱えた議員が腐敗と蓄財に走る現状とリスク、議員候補の質的劣化を考えれば、議会制度を維持するために必要な措置と考える。事業者負担分を自治体が負担するのか、本人が負担するのかという大きなハードルはあるものの、個人的には自治体負担で良いのでは無いかと思う。「平成の大合併」により、自治体も地方議員の数も6割程度まで減らされている上、議員報酬もカットされている自治体が多い。
また、厚生年金に加入することで、民間企業時代の経歴が加算されるようになれば、「在職12年以上」という特権問題も解消されるだろう。

逆に議員年金が廃止され、議員報酬もカットしすぎた結果、立候補者は金満事業主と「一発逆転」狙いの無産者ばかりになって、議員の質的劣化が凄まじいことになっている。もっとも、税収が上向きだった時代には、議員の質はさほど問われないが、デフレ&税収減となると、議員の能力が要求されるところとなり、問題が顕在化している面があるのは確かだ。

上記記事とは無関係だが、地方議員の任期も検討されて良いだろう。詳細は参照記事を読んでもらいたいが、例えば議員の任期を撤廃し、有権者に一票ずつ「解散権」を付与するシステムはどうだろうか。有権者はいつでも解散権を投じることができ、それが5割とか6割に達した瞬間に議会は自動解散、選挙になるという仕組みである。辞職や死亡によって欠員ができた時は、特別加算する仕組みを設けても良い。

自治体議会も同様で、大した問題も無いのに4年ごとに定期的に選挙が行われるため、有権者の関心が低くなり、固有の支持層を持つ政党が実力以上の議席を有することになる。任期を不定期にしておけば、自治政治に不満を持つ者たちがこぞって「解散権の行使」を求めて運動するため、議会と有権者に緊張が走る構図になる。自治体の選挙も10年に1度とかになれば、もっと投票率が上がるだろう。個人的には「4年に一度の選挙で投票率40%」よりも「10年に1度の選挙で投票率60%」の方がデモクラシーの原理に適っていると考える。

いずれにせよ、現状を放置すれば、ますます議会の信用は地に落ち、遠からずデモクラシーの危機を迎えるだろう。

【参考】
解散権を改革する 
posted by ケン at 13:00| Comment(0) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月29日

大義を失った民進党に学ぶ新党に必要なもの

この間の数々の失態を経て民進党は瓦解しつつある。東京都議選の結果は、民進党が自民党の対抗軸や批判勢力として認められなかった証と言える。党内では、小池新党とポピュリズム(マスコミの煽動)に原因を見る向きが強いが、果たしてそうなのか。左派の視点から検討したい。

第一に、旧民主党は資本を代表する自民党の対抗軸として、勤労者を代表した社会党と民社党が主な母体となって誕生した。もちろん先にあるのは労働界の再編によって生まれた連合である。だが、階級意識の低い日本では、階級政党は成立しがたいため、「国民の生活が第一」などの標語によって代替された。
ところが、90年代以降の激変によって大企業正社員と中小企業社員や非正規社員との格差が拡大、労働者階級が分断され、上位層労働者を代表する連合は勢力を急激に弱め、資本との妥協によって存続を図ることを余儀なくされている。
その象徴が、今回の労働基本法改正への賛意表明で、これによって裁量労働制の大幅導入と労働時間規制の撤廃にナショナルセンターが「賛成」するという事態になった(後日再検討に転換)。これは、いかなる理由があれど、労働組合が労働者の権利を守れなくなったことを意味する。結果、その連合を最大の支援団体とする民進党もまた、「勤労者代表」としての正統性を失っている。

対案としては、まず「勤労者代表」の正統性を高く掲げる必要がある。具体的には、「週35時間労働制」「労働総時間規制の導入」「労基署の大幅増員と権限強化」「男女平等を尊重しない企業に対する罰金と刑事罰」「労基法に違反した企業の公表と公共調達禁止」「祝日減と有給休暇の増加と取得義務化」「公務員の労働三権法制化」などが考えられる。
民進党は「連合の支援を受けている」がために、こうした労働者の権利を守る主張ができないという陥穽に陥っている。

第二に、民主党は小沢・鳩山路線に転換するまでは、「財政規律」(小さな政府)と「規制緩和」(市場原理主義)を二枚看板に掲げていた。小沢・鳩山路線はこれを否定し、「ムダ撲滅」を掲げつつも、積極財政に舵を切ろうとしたが、鳩山氏の自爆と財務省の支援を受けた菅・野田氏のクーデターによって元に戻ってしまった。
緊縮財政は消費を萎縮させ、国内市場を縮小再生産する一方、規制緩和は弁護士、タクシー、派遣労働者などを見れば分かるとおり、業界に屍の山を築いている。現在の安倍政権は、中途半端な緊縮財政を年金の株式投入で誤魔化すという手法を採ったものの、成果は上がっていない。また、規制緩和は政権中枢の私腹を肥やす(パトロネージ)ばかりになっている。
これに対し、民進党は財政規律も規制緩和も「もっと進めろ、但し公平に」というスタンスを採っている。せっかく「もり・かけ」問題で追及しても、「規制緩和自体は良いが、やり方が拙い」という攻め方になってしまい、傍目には政権にいちゃもん付けているだけにしか見えない。

自民党は、小泉首相期に新自由主義を導入したため、民主党は対立軸の意味を失って低迷した。その後、小沢・鳩山路線で「積極財政」「権益保護」に舵を切ろうとしたものの失敗し、元の木阿弥になり、今日に至っている。つまり、「財政規律」「規制緩和」は民進党の専売特許ではない上に、労働者・大衆の利益に反するエリートの主張であるため、自民党の対立軸にはなり得ない。
民進党は共謀罪に反対すると同時に、「警察官を2割増やします」「老朽化した警察署を建て替えます」と言うべきだったのだ。

第三に、権威主義的な自民党と国家主義を標榜する安倍政権に対し、民進党はあくまでも自由主義と民主主義を掲げなければならなかった。ところが、民進党の党内には党員の意見を反映するシステムが皆無である上、代表の権限が極めて大きい権威主義的組織を誇っている。また、本来、多様性の象徴として重国籍者や身分差別を受ける社会的弱者の権利を守るべき立場にあった蓮舫代表は、自らの代表位を守るために、出自を否定して「日本人宣言」を行い、自らの戸籍を開示してしまった。これは、民進党が自由、人権、市民的権利といったものを守るべき立場を自ら否定してしまったことを意味する。

ソ連を始めとする東側陣営は、「プロレタリア独裁」を権力の正統性に掲げていたが、その彼らがストライキを弾圧し、労働者の権利を否定した瞬間に、その正統性は失墜し、崩壊が始まったのである。
自らの依って立つべきところを知らないものは、自らを滅ぼすのみである。
posted by ケン at 20:00| Comment(2) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月12日

道徳的正統性をも失った民進党

【蓮舫氏が戸籍開示へ 惨敗民進、執行部批判相次ぎ…】
 民進党内で蓮舫執行部に批判が相次ぎました。東京都議会議員選挙の大敗を受けて民進党は、11日から所属議員のヒアリングを始めました。出席者からは「選挙は結果責任を負うべきだ」「『解党的出直し』がなければ、本当に解党しなければならない」といった厳しい意見が出ました。蓮舫代表の二重国籍問題についても「最大の障害だ」との意見が出ていて、蓮舫代表は今後、戸籍を開示する考えを示したということです。ヒアリングは18日まで続き、今月中に結果を取りまとめる方針です。単なるガス抜きで終わらせるのかどうか、蓮舫執行部の対応が問われます。
(7月11日、テレビ朝日)

色々な面で「終わってる」観がハンパ無い。「外国人の活用を」と言ってる横で外国人差別や人身売買が横行。リベラリズムを謳い、差別的な戸籍制度の改正・廃止を志向してきたはずの民進党が内側から戸籍公開を求める事態に。差別を目的としたセンシティブ情報の公開を強要した時点で、自由主義の道徳的正統性を否定していることに気づいていない愚かさがある。

彼女の場合、戸籍謄本(抄本)を3度提出して選挙に立候補しており、少なくとも政府・総務省側が咎めていない時点で、国籍資格について何の問題も無いことが証明されている。また、戸籍を公開したところで、台湾籍を離脱した証明にはならず、根本的な解決にはならない。つまり、公開を求める方は差別目的、公開する方は解決にならないという点でも、最低の危機対応になっている。蓮舫氏は、批判に対して過剰に反応すること無く、淡々と戸籍は公開すべきでは無い旨を説明し、非公開を宣言、返す刀で戸籍開示を要求することの非人道性を非難すれば十分だった。

いかなる理由であれ、戸籍開示が強要され公開せざるを得ない状況が存在すること自体、自由社会に対する脅威である。これを認めてしまえば、他の帰化(国籍取得)や被差別部落の疑いのある者に対する戸籍開示も容認される事態を招きかねず、ただでさえ深刻な民族的、社会的差別がさらに悪化する恐れがある。例えば、Tツローなどは即座に危機に陥るだろう。

そもそも、社会統制と政治利用を目的に、国民個々人の社会的、民族的なセンシティブ情報を国家が独占的に管理したのが戸籍制度であったことを思えば、戸籍を開示すること自体、戸籍法の主旨に反するものと言える。
これに対し、リベラリズムは、王権による統制に対して個人の権利の確立を求める思想で、個々人の財産と権利を守ることを政府の役割とした。すべての個人は自己決定権があり、自己の意志を実現する権利を有していると考えることから、社会全体でこれを実現するためには国家などによる統制や介入も必要だとするのが本来のリベラリズムである。

少なくとも旧民主党は、中央集権的かつ権威主義的な明治帝政に肯定的な自民党と霞ヶ関に対峙する存在として、曖昧ながらも分権的かつ自由主義的な政治理念をもって非常に緩い形で結党したはずだった。戸籍制度は中央集権と権威主義の象徴であり、権力の源泉であることから、これを骨抜きにするか廃止することは、民主党の党是であったはずだ。
ナショナルセンター連合の支援を受けながらも、全く社会主義的ではなく労働者にも優しくなかったものの、少なくとも「反権威主義」「自由主義的」ということで、「自民党よりはマシ」というのが、民主党支持層の大まかな評価だったと思われる。ところが、今回の件で民進党が自民党と同様の、あるいはより機会主義的でタチの悪い差別的議員が大多数を占めていることが明らかになってしまった(今のところ蓮舫氏を擁護する議員はヨシフくらいしかいない)。
民進党は自らの唯一の立ち位置をも自分で踏みつぶしてしまったのである。

【追記】
なお、蓮舫氏の代表としての資格については、私は最初から疑義を呈している。
能力的には、レンホーはおよそ野党第一党の党首が務まるような器ではない。自意識過剰の自信家で、人の意見を聞かず、同時に大所帯をまとめられるような手腕も人望も無いからだ。その点は、まだ失敗も含めて経験を積んでいるマエハラの方がマシ
(またハズレしかないガチャ−民進党代表選挙、2016.8.3)

全てに対して恐ろしく冷酷で、人倫を欠き、その点を恬として恥じない精神である。
(レンホーは党代表に相応しいか?、2016.8.26)

本来ならレンホー氏は立候補を辞退すべきだった。先に虚偽答弁あるいは違法状態の責を認めて辞退しておけば、次の機会もあったかもしれないが、彼女はここで強行突破を試みた。都知事をフイにして代表選への出馬にこぎつけたのに、それを放棄することなどできないのだろう。「コンコルドの誤謬」である。
(民進党代表選は頓死状態、2016.9.14)

【参考】
蓮舫氏国籍問題の諸相 
蓮舫氏国籍問題の諸相・補
posted by ケン at 12:47| Comment(4) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月24日

帝権のあり方について

【<陛下>退位議論に「ショック」 宮内庁幹部「生き方否定」】
 天皇陛下の退位を巡る政府の有識者会議で、昨年11月のヒアリングの際に保守系の専門家から「天皇は祈っているだけでよい」などの意見が出たことに、陛下が「ヒアリングで批判をされたことがショックだった」との強い不満を漏らされていたことが明らかになった。陛下の考えは宮内庁側の関係者を通じて首相官邸に伝えられた。
陛下は、有識者会議の議論が一代限りで退位を実現する方向で進んでいたことについて「一代限りでは自分のわがままと思われるのでよくない。制度化でなければならない」と語り、制度化を実現するよう求めた。「自分の意志が曲げられるとは思っていなかった」とも話していて、政府方針に不満を示したという。
 宮内庁関係者は「陛下はやるせない気持ちになっていた。陛下のやってこられた活動を知らないのか」と話す。ヒアリングでは、安倍晋三首相の意向を反映して対象に選ばれた平川祐弘東京大名誉教授や渡部昇一上智大名誉教授(故人)ら保守系の専門家が、「天皇家は続くことと祈ることに意味がある。それ以上を天皇の役割と考えるのはいかがなものか」などと発言。被災地訪問などの公務を縮小して負担を軽減し、宮中祭祀(さいし)だけを続ければ退位する必要はないとの主張を展開した。陛下と個人的にも親しい関係者は「陛下に対して失礼だ」と話す。
 陛下の公務は、象徴天皇制を続けていくために不可欠な国民の理解と共感を得るため、皇后さまとともに試行錯誤しながら「全身全霊」(昨年8月のおことば)で作り上げたものだ。保守系の主張は陛下の公務を不可欠ではないと位置づけた。陛下の生き方を「全否定する内容」(宮内庁幹部)だったため、陛下は強い不満を感じたとみられる。
 宮内庁幹部は陛下の不満を当然だとしたうえで、「陛下は抽象的に祈っているのではない。一人一人の国民と向き合っていることが、国民の安寧と平穏を祈ることの血肉となっている。この作業がなければ空虚な祈りでしかない」と説明する。
 陛下が、昨年8月に退位の意向がにじむおことばを表明したのは、憲法に規定された象徴天皇の意味を深く考え抜いた結果だ。被災地訪問など日々の公務と祈りによって、国民の理解と共感を新たにし続けなければ、天皇であり続けることはできないという強い思いがある。
(5月21日、毎日新聞)

自分は明確な共和主義者なので、帝国や君主のあり方などどうでも良いのだが、ネタとしては取り上げておきたい。まずは帝権に対する古今東西の考え方のおさらいから。
「国を治むるは、樹を栽うるがごとし。本根揺かざれば枝葉茂栄す。君よく清浄ならば、百姓なんぞ安楽ならざるを得んや」(貞観政要)

中国の場合、古来「表では徳治主義、裏では法治主義」が帝権統治の原則だった。君主は人民に対して道徳と礼儀の範を示し、官僚は法律で統治するという考え方である。儒教は徳治主義を旨とするが、現実の統治は徳だけではなせず、法家思想が密教として連綿と受け継がれてきた。
基本的には日本の君主論や帝権論もこの考え方を継承している。
「哲学の教えに基づき、人類を現世的な幸福へと導くものがローマ皇帝である」(ダンテ「帝政論」)

欧州の場合、古来宗教的権威の象徴であるローマ教皇と世俗的権威の象徴であるローマ皇帝の二元代表制を基本とし、ローマ帝国が崩壊した後も、王と教会による二元統治を行っていた。従って、キリスト教会は道徳と倫理の範を示し、王は暴力と法をもって統治するという考え方だったが、そこには常に「愚昧なる人民を善導し、幸福へと導く」という使命感があった。
余談になるが、ルネサンス期におけるカトリックとプロテスタントの対立は、帝権に対する考え方にも及んだ。カトリック側は「教義と教会を守護する帝権」を求めたのに対し、プロテスタント側は「強い帝権によって教会改革を行う」ことを求めた。それが最も苛烈な形になって現出したのが「ドイツ三十年戦争」だった。

欧州の帝権論は、王権神授説に基づいて神から教会を通じて統治の正統なる権利が与えられているが、同時にその使命と責任も明確であり、「人民を善導し、幸福へと導く」使命が果たせない場合は、少なくとも神に対して責任を負わなければならなかった。そして、その使命を果たせず、責任を取ることを拒否した王の末路が、チャールズ1世やルイ16世のそれだった。

これに対し、現代日本では、
「国民と共に歩み、国民に寄り添う」(今上帝)

「祈っているだけでいい」(日本政府)

という2つの帝権論がせめぎ合っている。現代日本の原型は、明治帝政に求められるが、中世から江戸期までの天皇は宗教的権威としてすらごく一部からしか認知されていないような存在で、世俗的権威や実力は皆無だった。だが、封建制度である幕藩体制から近代的国家に生まれ変わるためには、何らかの国民統合の装置が不可欠となり、天皇家が利用されるところとなった。
大政奉還した徳川幕府を暴力によって打ち倒した薩長両藩は、日本全土を支配する正統な権利を有しておらず、統治権は宗教的権威と一体化させて天皇に持たせる他なかった。だが、現実の統治は天皇にはやらせないことにしたため、不具合が生じた。
立法府も行政府も権限が弱い上に分割されており、到底強権を発動させられるような制度にはなっていなかった。
憲法の条文上、これらは協賛や輔弼という立場でしかなく、天皇が大権をもって親政を行うような仕組みになっていたが、現実の3人の帝は誰も専制権を発動しなかった。
聖上は君臨するのみで、下は不安定な分権構造というのが、明治体制の実態だった。
それでも、憲法の解釈上は、美濃部達吉の「天皇機関説」が採られてきたが、これは今風に言えば「解釈改憲」でしかなく、条文を厳密に解釈すれば、上杉慎吉の「天皇主権説」にしかなりようがなかった。

にもかかわらず、日露戦争前後までは一定の政治的主導権(リーダーシップ)が発揮されたのは、憲法にも法律にも規定されていない「元老」が絶大な政治的影響力を有していたためだった。
伊藤博文や山県有朋などの「明治維新の元勲」たちが、巨大な政治的影響力を駆使して、分権化された諸機関や軍を統制し、天皇大権を陰から行使することで(実際には専制権を行使しないまま)、国家を運営していたのである。
しかし、これはあくまで超法規的なシステムであり、元老が死んでしまうと、専制的な明治憲法と分裂的な統治機構だけが残ってしまう。特に軍は、統制する主体がなく、ノーチェックの暴力装置になってしまった。暴走するのは時間の問題だったのだろう。
それは維新の元勲や明治憲法の制定者たちの意図したところではなかったかもしれないが、もはや自分たちではシステムの不具合を修正することも出来なくなっていたのだ。
大日本帝国憲法の瑕疵

明治憲法は1条にて天皇に統治権を認めつつ、3条で無答責(免責)を保障する一方、閣僚は天皇の行政権を補佐しつつ、天皇に対してのみ責任を負うことを規定していた。この意味するところは、「天皇は君臨すれども統治せず、権利を代行する者は実質責任を負わなくて良い」というものだった。権力者にとってこれほど都合の良い憲法は無いだろう。

現代に話を戻そう。経済的繁栄と再分配に裏付けられた戦後和解体制が瓦解しつつある中で、天皇制による国民統合力も低下しつつあり、恐らくその危機意識を強く有しているのが平成帝で、だからこそ「国民と共に歩み、国民に寄り添う」スタンスを強く打ち出しているものと思われる。もちろん父である昭和帝に対する批判や意見もあるだろう。

自民党や霞ヶ関官僚がこうした平成帝のスタンスを面白く思わないのは、彼らが国内に「敵」をつくり対立を煽ることで、暴力支配を正当化して治安体制を強化し、貧困と不平等に対する不満を抑制しようという方針を持っているためだ。同時に、自民党と官僚には、一切責任を負う必要が無いことが規定されていた明治憲法に対する強い郷愁がある。これが天皇を元首にするという自民党の改憲案の根幹になっている。

「神輿は軽くてパーが良い」(小沢一郎)

【追記】
退位特例法は、人道上の問題を除外した場合、原則的には「上皇をつくり役割を拡大する」という意味で帝室と帝権を拡張させるものと理解している。
posted by ケン at 12:35| Comment(0) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月16日

平等の価値について〜または社会主義者である理由

同僚との飲み会で、「貧困対策はなぜ必要なのか(不要では?)」という議論になり、意外なほど新自由主義的思考から「市場を活性化させれば良いのであって、貧困対策を併行して行う余裕はないのではないか」的な意見に賛同するものが多く、改めて「ミンチンはダメだ」と思った次第。しかし、問題提起そのものは重要だ。

ミンチンもそうだが、自民党はもっと酷い。戦中・戦後(団塊)世代が引退して少数になり、貧困対策や社会保障制度などの社会政策を軽視する層が急増、「国防や新産業の育成こそが最重要課題であり、社会政策を犠牲にするのはやむを得ない(当然だ)」という意見の持ち主が相当数を占めるようになっている。戦争前後の貧困を知らない世代が多数を占めたことで、貧困の恐ろしさや社会的影響が理解・想像できなくなっているのだろう。

先にも述べたことだが、太平洋戦争が終わって占領政策を策定するにあたって、アメリカでは「何が日本人を侵略に駆り立てたか」という議論が交わされた。そこでまとめられた大まかな見解は、「戦前の日本では、労働者の団結が認められておらず、政府と財閥が一体となって労働者を弾圧、ダンピングを行った結果、国内市場の成長が抑止されると同時に、労働者の低賃金と不安定雇用が常態化したため、国内需要も伸びず、海外に市場を求める侵略に大衆的支持が寄せられた」というものだった。

GHQの見解以外に、日清・日露戦争を経て過剰な常備軍を持ったことや、朝鮮半島の植民地経営が大赤字・投資過剰だったことが、日本の国家財政を圧迫、インフラや社会保障を整備する余裕をなくしてしまった問題がある。また、台湾と朝鮮を植民地化した結果、そこで収穫された低価格の米が「国内産」として無関税で流通するところとなり、日本本土の米価は著しく低下、農村を荒廃させたことも大きい。

具体例で見てみよう。1928年(昭和3年)の帝国日本の歳出は約15億円で、このうち4億円が軍事費だった。28年というのは昭和恐慌前で、張作霖が爆殺された年だが、二次大戦前の平時最終年と言える。にもかかわらず、予算の26%以上が軍事費で占められていた。また、植民地である朝鮮の経営も赤字続きで、5千万円からの交付金を出して補填していた。つまり、軍事費と植民地経営が国家財政を圧迫、社会政策を行う余裕を持たせなかった。大正軍縮を経た後でもこの状態だったのだから、後は推して知るべしだろう。ちなみに、この10年後に日華事変が始まるのだが、税収13億円のところに55億円の予算を組んでおり、「始まる前から終わってる」観がハンパ無いので、こちらの記事を参照して欲しい。

・戦艦大和をめぐる日本人の財政感覚

身の丈に合わない軍備と植民地を抱えた日本は、大衆から収奪することでしか財政を賄えず、また華族制度と制限選挙による議会に基づいた帝政では社会政策を主張するものを権力に寄せ付けなかった。昭和前期の二大政党のうち政友会は地主層に依拠し、民政党は新興資本家層の支持を受けていたが、どちらも社会政策や労働政策には無関心で、特に民政党は冷淡だった。普通選挙法による総選挙が初めて行われたのは1928年、労働者層に依拠する社会大衆党が議席を得たのは1936年のことで、すでに遅かった。

1929年の世界恐慌を受けて、日本では翌30年から昭和恐慌が吹き荒れる。主要輸出品だった鉄鋼の価格は暴落し、生糸に至っては恐慌前の半分になってしまった。運の悪いことに、前年が豊作で朝鮮と台湾から米が大量に流入していたこともあり、米価も6割まで低下した。その結果、小作料を払えない小作人が大量に発生した上、都市部で失業した労働者の帰農が相次ぎ、農村で飢餓が発生、餓死者が続出して、女子の身売りが社会問題化した。そして、濱口雄幸首相や井上準之助蔵相に対するテロリズムを始め、後の2・26事件でも決起理由に「農村の疲弊と財閥の横暴」が掲げられた。
現代では、当時の農村などの貧困は想像するのも難しい。だが、例えば1930年代に至っても、軍隊に入るので初めて汽車に乗ったとか、初めて靴を履いたとか、毎日白米が食べられるなどという話がありふれていた。これに対し、二次大戦期の米軍人の回顧録を読むと、「父親に兵舎までマイカーで送ってもらった」とか「軍隊の飯は不味いと聞いていてそれだけが嫌だった」みたいな話に溢れている。

確かに貧困そのものは社会をひっくり返す要因には必ずしもならない。だが、貧困は社会に対する不満を増大させ、体制への不信を強め、著しく治安を悪化させる。この治安の悪化に対し、当局は暴力をもって応じるしかない。何故なら社会政策を進めるためには、貴族や資本家層に課税強化するか軍備を縮小して財源をつくる必要があるが、帝国権力が軍、貴族、財閥に依拠している以上、それは不可能な話であり、暴力によって不満を抑え込むほか無いからだ。今審議されている「共謀罪」もこの考え方に沿っている。
ところが、貧困層を放置するということは、国内の消費が増えないと同時に労働生産性が上がらない(教育を受けられない)ことを意味する。結果、いつまで経っても国民は貧しいまま税収は上がらず、税収が上がらないため増税を課す、さらに貧困と不満が増大するという負のスパイラルに陥ってゆく。
そして、権力に富が集中するため、腐敗が加速、急速に統治能力を失ってゆく。統治能力が低下するため、暴力行使のハードルも下がるというスパイラルに陥る。

そんな中で起きたのが満州事変(31年9月)で、それまでは殆ど報じられることの無かった満州情勢が一気に脚光を浴び、マスコミによる煽動・宣伝もあって国内世論は軍部支持一色となり、抑制的だった若槻内閣の対応を「弱腰」と非難するようになっていった。この当時の空気感は、現代の日本とも通じるものがある。

・右傾化は一線を越えたのか? 
・リットン報告書をめぐる日本の報道について

濱口、若槻の両民政党政権の後には、政友会の犬養内閣が誕生する。高橋蔵相は、積極財政を進めるが、同時に満州事変を肯定、軍拡を進めたため、昭和恐慌は脱しても軍備負担や植民地負担は重くなる一方だった。
1937年7月に盧溝橋事件が勃発、上海事変が起きて、日華事変が本格化すると、日本の国論は全面戦争支持で沸騰、「休戦とかあり得ない」という話になり、南京進撃と虐殺事件、さらに近衛内閣による「爾後国民党政府を対手とせず」声明に繋がっていった。

・文民統制と和平交渉 

日華事変も満州事変も、確かに「軍部の暴走」という側面が強かったが、そのいずれも国民世論の圧倒的支持という前提があり、その背景には「国内の貧困(不景気)を暴力と侵略によって解決しよう」という意識があった。
例えば、桑島節郎『華北戦記』(朝日文庫)の冒頭、桑島らは中国戦線から帰ってきた地元の先輩のところに行って、「掠奪も強姦もやりたい放題でサイコーだ」旨の話を聞き、「よっしゃ!俺もやるぜ!」とやる気満々になっている。
満二十歳の徴兵検査を受ける年頃の若者たちは、これら帰還兵から、戦地での話をよく聞かされていた。それは「中国人を斬り殺した」とか「女を強姦した」といったたぐいの自慢話が多く、これを聞いた若者たちは「戦争というのはおもしろそうだな」「俺も早く戦争にいってみたいな」などと思うようになっていた。

親軍路線を進めた社会大衆党の浅沼稲二郎は、1940年6月に「欧米追随外交を清算し、日英.日米交渉を即座に中止すること。仏印経由の援蒋ルートを遮断し、実力をもって仏印当局の不誠実な敵性を放棄せしむるの保障を確保すること」と北部仏印進駐を政府に要請している。当時、社会大衆党の主流は、軍拡と積極財政によって社会政策を実現するという方針を採っていた。


・浅沼稲次郎は何を訴えたか?
 

話を総合すると、貧困を放置すると、下部構造では消費が低迷して成長が止まる。貧困層は不満と体制不信を増大させ、いかなる形あれ(対内的にも対外的にも)で暴力的解決を希望するようになる。
上部構造は、権力と富を集中させ、急速に腐敗、統治能力が低下し、社会不安を抑制するために武断支配と恐怖政治を行い、国内不満を海外に向けようと考えるようになる。

そして、戦後は連合国の要求と戦前の反省から、軍備と植民地を放棄、農地改革を行い、財閥を解体、労働基本権を認め、社会政策を導入していった。戦後日本の繁栄は、人口増加もあるが、過剰な軍事負担を止め、社会政策に回したことで、「分厚い中間層」が形成され、消費が活性化、景気の好循環が生まれ、税収も伸び、それをインフラ整備と社会政策に投じ、富の再生産と分配が上手く機能したことによって生まれている。

貧困放置は「ダメ、ゼッタイ」なのだ。
posted by ケン at 12:19| Comment(0) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月09日

首相の解散権を制限したイギリス

【英首相、解散決断 経済堅調、高支持率背景に 「保守党圧勝」の可能性大】
英下院(定数650)は19日、メイ首相が欧州連合(EU)との離脱交渉を前に表明した前倒し総選挙の実施に向けた動議を、全議席の3分の2(434)を大きく上回る賛成522で可決した。総選挙は、高い支持率を維持する与党・保守党が圧勝するとの見方が有力。メイ氏は政権基盤を固め、「EU完全離脱」方針への反対論を封じ込めたい考えだ。
 採決では議席330の保守党と、229の最大野党・労働党の大部分が賛成に回った。反対は13で残りは棄権したとみられる。これにより5月3日解散、6月8日総選挙が決まった。メイ氏の報道官は19日、EUとの離脱交渉は総選挙後に開始すると表明した。
 英国では2011年の議会期固定法で総選挙は5年に1度と定められているが、動議可決で前倒しも可能としている。英スカイニューズによると、総選挙に賛成は68%で、反対の26%を大きく上回っていた。
 政治空白を懸念して解散総選挙を否定してきたメイ氏が方針を急転換したのは、議会の分裂が政治の安定を脅かしていると判断したためだ。その背景には、経済が堅調なことによる高い支持率がある。
 「(EU離脱を決めた)国民投票後に経済危機の予想があったが、経済成長率はあらゆる見通しを上回った」。メイ氏は総選挙を表明した18日、好調な経済が議会解散の決断につながったことを示唆した。英経済は昨年の国民投票以降も個人消費が堅調で、16年の国内総生産(GDP)成長率は1・8%と高い伸びを記録している。
 英BBC放送によると、保守党の支持率は43%で、強硬左派のコービン党首への批判が強い労働党の25%に大きな差をつけている。
 保守党政権への反発が強いスコットランドや北アイルランドで議席を増やせなくても、EU離脱派が多数のイングランドで保守党が圧勝する可能性が高いとも指摘される。メイ氏は大幅に議席を増やして「EU完全離脱」への交渉基盤固めをもくろむ。
(4月20日、産経新聞)

英国では2011年に「会期固定法」が制定され、5年毎に5月に総選挙が行われることが決められた。同時に首相の解散権が制限され、内閣不信任案の可決時と下院の3分の2以上の賛成で自主解散が決議された時のみ行使できることになった。それまでは、首相の助言により国王が議会を解散させる慣例だった(国王大権、慣習法)。

21世紀にもなってなお国王大権を議会で廃止する英国を、我々はどう評価すべきか。それまでの一般的な解釈は、「解散権は国王大権であって、首相が個人的理由などで議会や民意を無視して恣意的に行使(助言)することは許されない」というものだった。その意味で、従来の解散権は慣習とモラルに支えられていたが、大陸的な成文法に移行したとも言える。

こうした英国モデルを形式的に模倣した戦後日本では、解散権は憲法第7条の
「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。」
「三 衆議院を解散すること。」

に根拠を持つ。ところが、同第4条に
「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」

と規定されていることから、「首相の衆議院解散の決定を布告する」ことが天皇の権能という解釈が一般化している。その結果、慣習やモラルの基盤を持たない日本では、「解散権は首相唯一人に帰属する」という理解が一般化し、首相の一存で衆議院を解散できることになっている。
特に最近では、小泉氏の「郵政解散」、野田氏の「自爆解散」、安倍氏の「増税延期解散」など、必ずしも議会や民意に沿わずに、首相の政局的判断から解散権を行使するケースが蔓延している。

イギリスの場合、慣習とモラルに支えられているという前提がありながらも、「政権党に有利すぎる」「首相個人が恣意的に行使する恐れは否めない」などの否定的見解が政権党を含む大勢を占めたことを示している。
これはゲームで考えれば当然で、自分が有利なときに戦闘ダイスを振れる方が一方的に有利なのは言うまでも無い。野田氏のように、自分が最も不利なときにダイスを振るような愚かなプレイヤーの方が稀なのだ。

一般的には選挙が多いと、民意が反映されやすい反面、政治が不安定になりやすく、無関心層が増加しやすい問題がある。他方、選挙が少ないと政治的には安定しやすく、選挙時には有権者の関心が高まりやすいが、民意の反映度は低下する。
日本の衆議院の現状を見る限り、4年の任期がありながら、実際には3年毎に選挙が行われ、議員は常に次の選挙のことばかり考え、秘書ですら3年毎の失業危機ばかり気にしているのだから、ロクな人材が集まらないのは当然だろう。まして、自民党が50年以上にわたって培ってきた政官業報の腐敗テトラゴンが圧倒的な強度を誇る中で、議会解散権が自民党総裁に帰属しているという状況は、外見的には民主国家だが、内実は開発途上の独裁国家レベルにあると言える。

やはり英国モデルを導入した以上は、解散権改革についてもイギリスに追随するのが妥当では無かろうか。
posted by ケン at 12:31| Comment(0) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月14日

戦後日本の不安定な立脚点

【幼稚園での教育勅語教材「規定なし」 政府答弁書】
 政府は7日の閣議で、幼稚園などで教育勅語を教材として用いることの是非について「学校教育法の規定に基づき、文部科学相が定める幼稚園教育要領において規定は存在しない」とする答弁書を決定した。答弁書は「学校教育法などの法令に違反するか否かについては、個別具体的な状況に即して判断されるべきものだ」と指摘した。民進党の逢坂誠二衆院議員の質問主意書に答えた。
(3月7日、産経新聞)

あまりにも象徴的な話。仮にドイツの幼稚園で、ナチスの党歌や忠誠宣誓が行われたとしたら、全土を揺るがす大問題となって、すぐさま禁止措置あるいは休園命令が下されるだろう。ところが、日本では同様のことが行われても、「個別具体的な状況に即して判断されるべきもの」として黙認される。

これは、ドイツがナチズムを否定し、「戦う民主主義」を採用、デモクラシーやリベラリズムを否定する勢力や動きに対しては能動的に対処し、これを排除するというスタンスに立っているのに対し、日本は全く異なるスタンスであることに起因している。

本土決戦により休戦交渉すべき政府そのものが消失してしまったドイツと異なり、本土決戦を行わなかった日本は政府を残したまま降伏した。日本政府は連合軍司令部(GHQ)の従属下に置かれ、民主的政体への移行が進められた。GHQの指導があったとはいえ、体制転換の主体はあくまでも帝国政府だった。憲法も、帝国憲法を修正したものを昭和帝が臣民に下賜する形で公布された。
46年11月3日の日本国憲法公布に際する昭和天皇の上諭(布告文)。

「朕は、日本國民の總意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、樞密顧問の諮詢及び帝國憲法第七十三條による帝國議會の議決を經た帝國憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。」

「上諭」とは、君主から臣下に下される言葉であり、この言葉こそが正に日本国憲法が欽定憲法(君主から臣下に与えられる憲法)であったことを示している。
だが、実際に日本国憲法が施行されるのは翌47年5月3日からのことであり、それまでは明治憲法が有効であるため、形式上・手続き上は明治憲法に則るしか無かった。
だが、その結果、「国民主権」(主権在民)を謳いながら、「君主から国民が賜る」という歪な形になってしまった。
日本国憲法は欽定憲法だった!

憲法については、GHQの指導や敗戦直後の保守・反動勢力の沈黙もあって、一応は自由と民主主義に基づくものとなった。教育勅語も新憲法にそぐわないとして廃止された。しかし、天皇制や国家神道の基幹部は温存され、秘密警察も形を変えて存続した。帝政、権威主義、軍国主義、植民地主義などの要素は、特に否定されること無く、まして断罪されることなく、ただ「無かったこと」にされた。ここが「自由と民主主義を否定する要素は断固否定する」というドイツとの大きな違いとなる。その後の民主化の過程の中で、朝鮮戦争が勃発し、東西冷戦構造が確立、アメリカの対日政策も「民主化」から「冷戦の最前線基地」へとシフトしていった。本来、天皇制をはじめとする権威主義体制を一部温存する代償として放棄された軍事権も、戦後10年も経たずに部分的に回復された(1954年に自衛隊発足)。
西ドイツがナチスとの決別を大前提として再軍備を果たしたのに対し、日本では天皇制を温存したまま自衛隊が創設されたため、帝国軍・皇軍との違いが非常に不明確なままになっている。特に近年、自衛隊が叙勲対象者の拡大や高官に対する天皇認証を要求していることからも、自衛隊内でデモクラシーを否定し、権威主義へ回帰する傾向が強まっていることが分かる。
日本再軍備の条件

言うなれば、戦後日本は権威主義や軍国主義を表面的に取り払っただけで、その根っこの部分を巧妙に温存してきた。高度成長に支えられ、米帝の保護あつかったことから、誰も過去の暗部に触れようとはしなかった。その結果、今日になって再び芽吹いている。一方、政府は政府で、「敗戦の結果、講和条件として民主化しただけ」というスタンスから、権威主義体制への揺り戻しを問題視する立場には無い。冒頭記事の政府答弁の理由である。そして、根源的には天皇制を解体しない限り、解決できないのである。
posted by ケン at 12:37| Comment(0) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする