2016年09月09日

マルキシズムは今も有効か

たまたま同席した政治関係者の飲み会で、「マルキシズムは現代でも有効なイデオロギーたり得るか」という話が上がった。私は同席していただけなのだが、「ソ連帰り」や「左翼」であることを知っている人がおり、「どう思います?」と話を振られてしまった。私は、自分の政治的スタンスを誇示するつもりはないが、隠すつもりもないので、そのまま思うところを述べてみた。

マルキシズムというのは、要は資本主義が発展・爛熟すると、資本の集中が進むと同時に労働者に対する搾取が激化する。だが、ブルジョワ民主主義は資本に奉仕する一方、労働者は搾取され疎外されているという自覚が無いため、富の独占と貧困はさらに加速してゆく。労働者が、資本家の奴隷状態から解放されて真の自由を得るためには、自らが権力を奪取し、その資本と生産手段を社会的に共有する必要がある。その先に初めて、階級対立の無い、自由で自立した人々が協同して生活する社会が成立しうる、という考え方である。

現状の欧米や日本を考えれば、まさにマルクスの主張が正しかった、あるいは正しいと思われる状況が現出していることが分かる。少し長くなるが、過去ログを引用したい。
「格差」を見る場合、個人的には所得よりも保有資産を重視すべきだと考えている。例えば、貯蓄ゼロ世帯の割合を見た場合、2000年には12.4%だったものが、2014年には38.9%へと3倍以上に増えている。ところが、2014年「家計の金融行動に関する世論調査」見ると、2人以上世帯の平均貯蓄額は1182万円と前年比81万円増で過去最高を記録している。これも、金融資産を保有している世帯だけに限ると、中央値は500万円で前年と変わらない数値になっている。
さらに続けると、金融資産を保有している世帯において、金融資産残高が1年前と比較して「増えた」と回答した割合は41.3%、逆に「減少した」と回答した割合は24.5%となっている。これはアベノミクスによる株高による影響が大きいと考えられるが、老後・将来不安に起因する貯蓄衝動の高さも影響している。

他の指標も見てみよう。家計環境が厳しい家庭の小中学生に、学用品や給食代などを援助する「就学援助制度」の支給対象者の割合は、2000年には8.8%だったものが、2012年には15.6%へと増えている。この数字は大阪市に限ると28%にも達しており、子どもがいる家庭の4分の1以上が文具を買えず、給食費も満足に払えない状態にあることを示している。

もっと分かりやすい数字として生活保護受給世帯数がある。2000年に75万世帯だったものが、昨2014年末には161万世帯へと激増している。政府などの説明では、高齢化の進展に伴う無収入高齢層の増加が主要因とされることが多いが、就学援助受給世帯数の増加を考えれば、貧困化が高齢層に限った話でないことは明らかだ。
また現実には、生活保護の捕捉率(生活保護水準以下の人に対して実際に受給している人の割合)は、25%前後と言われている(もっと低い数字もある)。これはつまるところ1千万人近い人が生活保護受給ライン以下の生活を余儀なくされ、700万人近い人が「生活保護受給水準以下の収入しかないけど生活保護を受けないで我慢している」ことを意味する。
米国ではフードスタンプの受給者が5千万人を超したと言われるが、日本もその一方後ろを歩んでいるに過ぎないと言えるだろう。
統計の罠と日本の貧困

20世紀中盤にマルキシズムが影響力を失った大きな原因は、「戦後和解体制」の成立から説明できる。そして、東側ブロックの瓦解と中国の開発独裁化により、資本家が労働者に配慮する必要がなくなり、その本来の姿を露呈し始めている。
戦後和解体制とは、共産主義の脅威に対抗すべく、西側で成立した資本家層と労働者層の協同的体制を指し、資本主義と自由経済を容認しつつ、再分配と社会保障制度の充実を図ることで、労働者層の体制参加(取り込み)を進めるものを指す。これにより、いわゆる「分厚い中間層」が誕生し、消費が拡大することで市場経済が活性化するという経済成長の好サイクルができると同時に、政治的安定が確立した。日本において、社会党の伸張が止まったのは、岸内閣が国民年金と健康保険を創設し、社会党の「やりたいこと」を先に実現してしまったことが大きい。

ところが、ソ連・東欧ブロックが崩壊したことで、戦後和解体制はその意義を失ってしまう。東側陣営の「社会主義」に対抗すべく、労働者層の取り込みを図ってきたが、その政治的意義が失われ、配慮する必要がなくなった。
また、時期を前後して、社会保障の財政負担が急激に増し、慢性的な赤字に悩まされるところとなった。「民主的な選挙」で選ばれる政治エリートは、選挙に勝つために社会保障費の削減を主張できないため、財政赤字は肥大化する一途にある。
さらに経済のグローバル化によって、国内産業の多くが賃金の安い海外に移転、海外市場との低賃金競争が始まって、国内の失業ないしは低賃金が蔓延していった。
結果、戦後和解体制は、政治的意義を失い、財政的に継続困難となり、基盤となる国内産業や労働待遇が切り崩されることで、崩壊しつつある。欧州における「極右」勢力や、アメリカにおける「ポピュリズム」の伸張は、その表れと言える。
日本の場合は、自ら戦後和解体制を築き上げた自民党が、自ら「改革」と称して同体制を解体、国民が意味も理解せずに支持するという形になっている。

他方で、戦後和解体制は、旧植民地・第三世界から資源や労働力を不当に安く買い叩き、高い付加価値を付けて売りつけることで膨大な利潤を得ることによって成立していた。だが、中間国が工業化を遂げ、経済発展したことで、労働賃金や資源価格が相対的に上昇していった。同時に資金供給が常に過剰となり、利息が低下を続け、いまやマイナス金利すら当たり前となっている。そのため、先進国では利潤を上げ続けるためには、国内で労働力や資本を収奪するほかなくなっている。
日本でも、この20年間、実質賃金は低下し続け、非正規雇用の割合は10%から40%に激増、家計貯蓄率に至っては10%以上あったものがマイナスになってしまっている。これは、大衆の多くが借金しないと生活できない状態を示しているが、大学で学ぶ学生の5割が有償の奨学金を得ていることに象徴されよう。
日本社会の将来を占う

現状、日本には年収300万円以下の労働者が2千万人以上いる上、非労働者を含めれば軽く3千万人を超えるはずだが、国政選挙でNK党と社民党が獲得しているのは合算しても600〜700万票に過ぎず、むしろ貧困層がこぞって自民党や維新に投票している節すら見える。
これは主にレーニンが主張した理論になるが、「労働者は自ら階級意識を自覚し得ないため、階級意識と革命理論で武装した前衛党が、大衆を啓蒙し善導してゆく必要がある」ことを裏付けている。
ところが、実際には既存の共産党は自前の労働組合などの既得権益の代表者となってしまっているため、新たに発生した非正規労働者層(本来のプロレタリアート)の支持を獲得できず、むしろ彼らを「既得権益の打破」を主張する「右翼改革党」に追いやってしまっている。フランスの国民戦線、アメリカのトランプ氏、日本の「維新」などがこれに当たる。
同時に「戦後和解体制」を主導した欧州の社会民主主義政党が、大きく勢力を減退させているのも同じ理由から説明できる。

【参考】 ねじれまくるフランス−エリートの退廃

結論を言うと、マルキシズムは「歴史的必然性」などの部分で大いに疑問は残るものの、「資本の集中による大衆の貧困と疎外の拡大」の点で十二分に有効であり、むしろ社会民主主義こそが財政赤字が常態化して階級分化が激化する中で有効な施策を打ち出せなくなりつつある。だが、既存の共産党も、現状の労働者階級の苦難に対して有効な施策も方針も打ち出せておらず、階級意識の啓蒙にも失敗している。つまり、マルキシズムは現在も有効だが、必ずしも共産党がそれを体現しているわけではない、ということである。
また、「階級融和による労働者の漸進的待遇改善」を旨とする社会民主主義は、前提となる階級融和が瓦解し、ゼロ金利に伴って資本による労働搾取が容赦なくなる中、支持を漸減させつつある。労働者階級が徹底的に分断され孤立を深めてゆく中、「労使協調」「階級融和」を主張する社会民主主義者の声は、今後さらに説得力、浸透力を失ってゆくものと推察される。この点でも、社会民主主義からマルキシズムへと左翼内の軸足が移ってゆく可能性は十分にある。私自身、社会民主主義を奉じているのは、「時間の問題かもしれない」と考えているくらいだ。
posted by ケン at 12:59| Comment(0) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月15日

生前退位問題の難しさについて

【典範改正の是非焦点に=生前退位に慎重論も―政府】
 天皇陛下が生前退位の意向を示されたことを受け、政府内では今後、皇室制度を定めた皇室典範改正の是非が焦点となりそうだ。現行制度には、天皇の退位に関する規定がないためだが、改正には慎重論も多いという。政府は、国民的な議論の高まりなどを見極めつつ、丁寧に対応する考えだ。皇室典範は、皇位継承について「天皇が崩じたときは、皇嗣(こうし)が、直ちに即位する」などと規定しているが、退位に関する規定はない。政府関係者は13日、「生前退位というのは現行制度に規定されていない。皇室典範の改正が必要になる」と指摘した。実際に皇室典範を改正する場合は、通常の法改正と同様に、政府が改正案を作成し、国会で審議することになる。陛下の意向を踏まえ、政府は既に、内閣官房を中心に水面下で検討に着手。同時に、公務の負担軽減の在り方についても研究し、安倍晋三首相に報告されているという。
 制度改正をめぐっては、他にも検討すべき課題が多い。内閣法制局OBは「退位後の役割や尊称、時期などを議論する必要がある。元号も変わることになる」などと説明。「国民世論がどう動いていくかが重要だろう」とも語った。一方、別の政府関係者は「皇位の安定性という観点から、改正の是非は慎重に検討しないといけない」と指摘している。皇室典範には、天皇が「身体の重患」などで公務を続けられない場合、「摂政を置く」としており、この仕組みを活用すれば改正は不要との見方を示した。 
(7月13日、時事通信)

近年では、ローマ教皇やオランダ女王が退位しており、帝の年齢と健康を考えれば、在位していること自体が人道的問題とすら言える状況にある。高齢化が著しい現代にあっては、高確率で発生する問題であり、人道的には当然だ。

とはいえ、明治憲法の制定時に生前退位について規定しなかったのにはワケがある。生前退位を許すと、皇位継承問題が拡大するリスクが高いためだ。1つは、本人の意向で「もう辞めた」と自主的に退位してしまう可能性、2つめは第三者が介在して本人の意思に反して退位を強要される可能性である。

前者は、「王冠を賭けた恋」で知られるエドワード8世のケース(在位324日)が象徴的だが、平安期の後白河帝のように退位後も34年に渡って「院政」を敷いたケースもあり、自主的退位でも様々なケースが想定される。

後者のケースは山ほどあるが、今日においても孝明帝の死には暗殺の容疑がつきまとうし、昭和期にあってすら、第二次世界大戦末期には昭和帝を退位させて、傀儡帝を擁立して「聖戦貫徹」を実現しようという謀略があったことに象徴されるように、政治目的の陰謀に利用される恐れがある。

その一方で、戦後のGHQ改革によって皇族が大幅に縮小された結果、「血筋のプール」が極小になってしまった。
現在の天皇家は皇家と四宮家から構成されている。この5家のうち男子がいるのは秋篠宮家だけで、それも1人のみだ。現在の皇室典範は養子を禁止すると同時に、女子が皇族以外と結婚した場合は皇室から除籍すると規定しているため、今後も男子が誕生しない場合、皇家と三宮家は遠からず絶家となる。
生前退位が認められるとしても、皇室そのものの存続が危うくなっていることに変わりは無い。
現在の皇統存続の危機は、戦後改革によって14家あった宮家のうち11家が皇籍離脱処分となったことにある。その結果、1954年の高円宮憲仁親王(2002年に逝去)の誕生から2006年の秋篠宮悠仁親王の誕生まで50年以上にわたって男子の誕生が途絶えている。冒頭にも挙げたように、皇家と四宮家のうち男子がいるのは秋篠宮家だけで、しかも1人で、養子が認められない現行法では残り四家は遠からず断絶することになる。仮に悠仁親王が皇位を継いだとしても、その存続は絶望的な状況にあると言える。
宮家が廃絶された理由は、戦後の財政難と民主化、つまり華族制度の廃止にあるが、それは強大な皇族が貴族特権を有することはデモクラシーの原理に反するという考え方に基づいている。
だが、皇統の存続を第一に考えるならば、可能な限り多くの宮家を置いて、後継者プールを大きくすることに主眼を置くべきなのだが、近代あるいはデモクラシーの原理とどうしても背反してしまう。
皇統存続と近代原理の無理) 

今上帝が生前退位を求める背景については、様々な憶測が流れているが、その1つは、

「安倍政権が皇室典範を改定して、悠仁親王への将来的継承を理由に、極右思想の持ち主である文仁親王への皇位継承を図るのではないか、という危惧」

にあるという。さすがにこれは、陰謀論の一歩手前くらいの話だとは思うのだが、今上帝と徳仁親王がそれくらいの危機感を抱いてもおかしくないとは思われる。
現実的には、実際の健康上の問題と、昭和帝崩御の際の「自粛騒動」と東京五輪等の開催を考えて、混乱を最小限にしたいということなのだろうと推察される。

また、本件を宮内庁が必死になって否定しているということは、以前より帝が意思表示されていたのを、ずっと無視し続けていたため、同情した同庁の職員が漏洩した可能性が高い。これも「天皇の言うことを聞かない右翼」の流れであり、日本における天皇制の本質を示している。

【参考】
皇統存続と近代原理の無理 
皇族も立憲体制に危機感?‐備忘録的に 
皇室の政治利用に向けた大きな一歩 
天皇の言うことを聞かない右翼 
posted by ケン at 13:00| Comment(2) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月04日

参院選が盛り上がらないワケ

子どもが進学するし、親が要介護になってお金が足りない、近隣の治安も悪くなってきたしなどと言っている割に、「アベさんが給料増やしてくれるから大丈夫」とか「学生ローン借りるから大丈夫」とか言っている人を信用できますか、というのが今回の選挙のキモだのはず。
だが、実際にはみんな「増税先送りされたから、もうどうでもいいや」と思っているようで、選挙も全然盛り上がっていない。

最大の要因は、やはり安倍総理が先手を打って「増税先送り」を宣言し、これに同調するマスゴミはその意味するところ(アベノミクスの失敗と財政破綻の先送り)を説明せず、国民の多くが「よっしゃ、よっしゃ」となってしまっていることにあるだろう。
増税先送りの財源について、政権側は「税収の増収分で賄える」と説明したのに対し、民進党は「(赤字)国債で賄う」と返している。だが、税収増は好景気の証明でもあるはずなのに、不景気を理由に増税を先送りにするという説明は、論理が破綻しているにもかかわらず、マスゴミはそこを追及しない。自民党の主張は、まさに「朝三暮四」そのものだが、諸手を挙げて歓迎する国民があって成立している。
もっとも、一方の民進党も「若年層対策を重視」などと言っている割に、国債を発行して後世にツケを回そうとしており、どちらも不誠実極まりない。
そして、自民党は巧妙に争点を設定せず、マスゴミも選挙の争点には触れないため、何を問う選挙なのか、有権者の間に全く広まっていない。私も何度か電話掛けに従事したが、「あぁ選挙やっているんですね」くらいの反応が非常に多く、「これは厳しいな」と感じている。

安倍政権と自民党が「国民に政治に関心を持たせない」戦略を採って、成果を挙げているのに対し、投票率を上げないと勝ち目の無い野党側は宣伝に失敗している。「民共合作」の影響もあって、民進党が「改憲反対」「反戦平和」を自らの争点にしてしまった結果、大衆の関心と遊離してしまっているところが大きい。どの世論調査を見ても、有権者の関心が最も高いのは、「景気対策」「雇用」「福祉」であり、憲法や安全保障、あるいはエネルギー政策は五指にすら入らない。
私はかねてより、「党の主張は労働政策と貧困対策を主軸にせよ!」と訴えてきたが、故あってのことだった。民主党が、2007年と09年の選挙に大勝したのは、「コンクリートから人へ」「農村・地域社会重視」が、自公政権への対抗軸として認められたからだった。

・若年層対策は労働政策で 

年寄りや「意識高い」系の人々は、ついつい「自由と民主主義を守れ」という主張に走ってしまいがちだが、政治的エリートが陥りやすい陥穽である。現行の憲法と民主主義体制が、貧困を蔓延させたまま放置して、中間層の没落と低所得層の拡大を促進しているにもかかわらず、「自由と民主主義を守れ」と唱えてみたところで、ロシア革命時の立憲君主派(カデット)くらいの扱いしかされないのは当然だろう。
自国の歴史を見ても、昭和前期の社会主義政党間の競争は、反戦平和を唱えた日本無産党ではなく、軍拡と労働福祉政策を唱えた社会大衆党の勝利に終わっている。
今の日本を見た場合、自民党と霞ヶ関は、自由経済を維持しつつ、民主主義を否定して権威主義化することで、社会保障を切り捨てて危機を乗り越えようという選択肢を示している(明言しないところがタチが悪い)。これに対して野党は、「自由と民主主義を守れ!」で合同・協力を図ろうとしているわけだが、これは米国のヒラリー氏やソ連共産党保守派の主張と同じ文脈のものでしかなく、現状の諸課題への対応策にはなり得ない。一定の既得権益層には訴求力があるとしても、既得権益から外れた貧困層には「エリートのボヤキ」程度にしか聞こえないだろう。こうした状況は、歴史的に見た場合、昭和期の社会主義政党の中で「反戦平和」を訴えた日本無産党が支持を得ず、「広義国防」を訴えた社会大衆党が競争に勝ったケースが傍証となる。
そう考えると、民主主義の破棄を進める自民党・霞ヶ関への対案は、「自由と民主主義を守れ」ではなく、「自由経済・自由貿易の否定」から「統制経済の部分的導入による社会保障制度の維持」という主張になることがイメージされる。だが、貧困が急速に進んだ場合、デモクラシーそのものが支持されず、機能不全に陥る可能性が高く、その場合、国家社会主義路線の復活を考慮する必要がある。私も5年後や10年後には、国家社会主義者に変身しているかもしれない。かつての浅沼先輩のように(爆)
自由民主主義の終焉

現時点で「戦争反対」と言ってみたところで、実際に戦場に行くのは志願した自衛官でしかなく、「自分が徴兵されて戦場に送られる」という危機感は殆ど共有されていない。仮に徴兵制が敷かれていたとしても、例えば日華事変が始まった時点での徴兵率(徴兵検査を受けて召集される人の割合)は20%に満たず、現実には昭和前期の人ですら「自分が戦場に送られる」危機感は薄かったという。この感覚が、1937年の総選挙の結果、日無党の敗北に繋がったことは言うまでも無い。
確かに、今後はいわゆる「経済徴兵」の傾向が強まって、貧困層の自衛隊入隊が加速する可能性は否めないものの、それですら少なくとも形式上は「志願」であり、「戦争に行かない自由」は担保され続けるだろう。しかも、経済徴兵される貧困層からすれば、「戦争反対」の主張は、「オレの唯一の機会をも奪うのか」という反発を覚えるに違いなく、エリートが「良かれ」と思う主張が、必ずしも彼らと共有できるとは限らない。
貧困と侵略の関係は現代にも適用できる。現在の日本で排外主義やタカ派的主張が増えている背景には、1990年代から増え続け、2000年代に顕在化した貧困や中間層の没落といった要素がある。不安定な非正規雇用は全雇用者の38%を超え、その平均年収は170万円に満たない。テクノロジーの進化はますます正規雇用や常勤職を不要にする。市場の要求に従う限り、「低賃金の時限雇用」の需要は一定数維持されるかもしれないが、常勤の正規雇用の需要は今後低下の一途を辿ると見られる。不安定な非正規雇用層の増加は、国内需要の低下に直結する。日本は所得再分配機能が小さく、教育費の私費負担が大きいことから、今後貧困層の再生産と少子化を加速させてゆく公算が高い。政府や政権党としても、国内の不満を国外に向けようとするだろう。実際、現在の安倍政権が対中、対韓強硬外交に走って、一部から熱烈な支持を受けているが、その傾向が加速されてゆく可能性を考慮しておく必要がある。
現状で貧困層が拡大しているにもかかわらず、不満が爆発して国内テロや侵略主義が蔓延しないのは、団塊世代が若年の貧困層を支えていることと、デフレによって生活費が比較的安価に抑えられていたためだが、団塊世代の高齢化と円安による物価上昇によってその効果は遠からず解消されると見て良い。その時に、貧困層の不満を吸収すべき左派勢力が脆弱な日本は、急速に右傾化、侵略国家化してゆく可能性が高い。
貧困と侵略−熱狂へ向かう日本

私の主張は党内あるいは左派内で完全に孤立しているが、どちらが正しいかは選挙の結果が明らかにしてくれるであろう。
なお、志願制・経済徴兵に伴うデモクラシーの危機については別途論じたい。
posted by ケン at 12:21| Comment(5) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月22日

自由民主主義の終焉

現状、私の周囲には「リベラル派の結集を」とか「デモクラシーを守れ」的な主張をする人が多いわけだが、果たしてリベラリズムとデモクラシーは我々が直面する経済的課題を解決するのか、という根源的疑問がある。貧困が加速している背景には、自由経済と自由貿易があるわけで、同時に貧困層の増大がデモクラシーへの不信を強めている。にもかかわらず、「自由と民主主義を守れ」と主張してみたところで、支持が広がらないのは当然なのではないか。
例えば、ロバート・スキデルスキー師は、「二十世紀の経験は、経済的繁栄はリベラルな民主主義に依存しないが、リベラルな民主主義は、経済的繁栄が欠けている場合、危機に陥る、ということを示している」と述べておられる。米欧日で起きているのは、まさにこれなのだろうと考えられる。

デモクラシーは主権者間の平等に、権力の正統性を置いているが、経済格差が深刻化し、平等性が侵害されている今日、その正統性が揺らいでいると見て良い。
近代国家の命題は、例外なく工業化(経済成長)にあり、それは権威主義国家であれ、民主主義国家であれ同じだった。だが、いざ工業化が実現すると、国家は命題を失うと同時に権力の正統性が危機を迎えた。この危機に際し、西側は消費社会とグローバル化で乗り越えるが、ソ連・東欧ブロックは産業構造のシフトに失敗、権威主義国家の権力源泉である権威そのものが国民の信頼を失って瓦解していった。
他方、西側は産業構造のシフトに成功したものの、今度はグローバル化と激しい自由競争にさらされる中で、経済格差と貧困が進行、民主主義国家の権力源泉である平等性を喪失しつつある。そして、平等性の喪失に対して、現行の政党や議会がほぼ無力であることが、デモクラシーへの不信となり、権威主義や排外主義への支持の源泉となっている。

基本的には、市場を自由化すれば自由化するほど、グローバル化すればグローバル化するほど、市場内の競争が激化すると同時に、比較劣位にある産業が危機にさらされやすくなって、生活者の経済基盤が不安定になる構図になっている。だが、西側を支配するエリート層は、自由経済の恩恵を受けることが最も大きい層であるがために、これを是正するインセンティブが全く無い。
具体的には、日本の政党のTPPに対する態度を考えれば分かりやすい。自由貿易を促進するTPPは、確実に貧困と経済格差を大きく拡大させる。自民党は、TPPに反対することで貧困層の支持を得て政権奪回を果たしたが、その主張をあっけなく翻して推進役に回ってしまった。一方、民主党はといえば、鳩山政権は一切触れることが無かったにもかかわらず、官僚統制下にあった菅政権が成立すると、途端にTPP推進を打ち出した。そして、今日でも色々野党として文句はつけているが、「TPP推進」のスタンス自体は撤回していない。結果、日本の国会議員の9割以上が「TPP賛成」になっているが、この状況を生み出したのが「議会制民主主義」であるだけに、デモクラシーに対する不信は今後ますます加速して行くものと見られる。

少し視点を変えてみよう。ソ連・東欧ブロックが崩壊したのは、統制経済と権威主義を同時に二つとも破棄・転換しようとして制御不能に陥ったことが大きい。これに対して、中国とベトナムは統制経済のみ放棄することで危機を乗り越えた。今のロシアでゴルバチョフ氏の評価が恐ろしいほど低いのは、ここにも一因がある。そして、今度は、西側ブロックが、自由経済と民主主義の二つを同時に維持するのが困難な状況に陥っていると考えられる。
米国大統領選挙を見た場合、自由経済と民主主義という従来路線の筆頭にヒラリー氏がいて、そのアンチテーゼとして、自由経済に否定的なサンダース氏と、共和党側にデモクラシーに否定的なトランプ氏がいる構図で、対立軸と選択肢がある。ヒラリー氏が苦戦している背景には、「従来の自由民主主義路線では、現状の諸課題は何も解決できないのでは?」という不信があるからだろう。言うなれば、ヒラリー氏の主張は、1985年のソ連で「ペレストロイカなど必要ない」という共産党保守派のそれなのだ。

今の日本を見た場合、自民党と霞ヶ関は、自由経済を維持しつつ、民主主義を否定して権威主義化することで、社会保障を切り捨てて危機を乗り越えようという選択肢を示している(明言しないところがタチが悪い)。これに対して野党は、「自由と民主主義を守れ!」で合同・協力を図ろうとしているわけだが、これは米国のヒラリー氏やソ連共産党保守派の主張と同じ文脈のものでしかなく、現状の諸課題への対応策にはなり得ない。一定の既得権益層には訴求力があるとしても、既得権益から外れた貧困層には「エリートのボヤキ」程度にしか聞こえないだろう。こうした状況は、歴史的に見た場合、昭和期の社会主義政党の中で「反戦平和」を訴えた日本無産党が支持を得ず、「広義国防」を訴えた社会大衆党が競争に勝ったケースが傍証となる。

現代の広義国防派? 

そう考えると、民主主義の破棄を進める自民党・霞ヶ関への対案は、「自由と民主主義を守れ」ではなく、「自由経済・自由貿易の否定」から「統制経済の部分的導入による社会保障制度の維持」という主張になることがイメージされる。だが、貧困が急速に進んだ場合、デモクラシーそのものが支持されず、機能不全に陥る可能性が高く、その場合、国家社会主義路線の復活を考慮する必要がある。私も5年後や10年後には、国家社会主義者に変身しているかもしれない。かつての浅沼先輩のように(爆)

なお、以上はあくまでも思考実験の段階に過ぎず、是非とも同志諸兄と良く検討して、理論武装を進めたいので、ご協力のほどお願い申し上げます。
posted by ケン at 12:17| Comment(0) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月28日

右翼のヤバさと中道の難しさについて

55年体制下で自民党が半世紀にわたる一党優位体制を築き上げたのは、野党である社会党の政策を先取りして、特に社会保障制度を充実させたことが大きかった。「別に社会党である必要は無いよね?」というのが戦後有権者の多数派であり続けた。その社会党は、ついぞ自民党に代わる、かつ有権者の多数派から支持されるアイデンティティを打ち出せないまま、冷戦構造の崩壊とともに解党した。また、自民党の支持基盤は、持続的な経済成長の中で、中間団体を通じた所得分配にあったが、バブル崩壊を経て経済成長がストップし、財政赤字が恒久化して従来の分配構造の維持が難しくなった。
国旗国歌法が成立したのは1999年で、何をかを象徴していた。
1990年代の大きなメルクマールは、いわゆる「バブル崩壊」と「政治改革の失敗」だった。バブル崩壊とそれに伴う銀行救済のための財政出動により財政赤字が急増、同時に少子高齢化の急進により保険財政も急速に悪化する。
ロバート・スキデルスキー師は、「二十世紀の経験は、経済的繁栄はリベラルな民主主義に依存しないが、リベラルな民主主義は、経済的繁栄が欠けている場合、危機に陥る、ということを示している」と述べられている。戦後民主主義を支え、一党支配の正統性を担保してきた高度成長がストップし、デモクラシーを危機に導いていった。
そして、政治改革の失敗により、戦後から80年代まで日本政治を牽引したエリート支配に終止符が打たれ、小選挙区制の導入に伴い、ヤンキー(反知性主義)が優位に立っていった。
国と保守派が君が代を強制するワケ・下

緩い分配構造に基づく「寛容なる保守」(ソフト路線)が難しくなり、かつ左翼の脅威が薄れた自民党は急速に右傾化、「断固たる権威主義」(ハード路線)へと傾いていった。その極めつけが第一次安倍政権だったが、経済を軽視した急速な右派政策は国民の支持を得られず失敗、民主党に政権交代する切っ掛けをつくってしまった。第二次安倍政権は、この失敗を反省して、少なくとも数字上は「経済的繁栄」を築くことで、権威主義路線への支持を広げている。

また、日本には年収300万円以下の貧困層が2500万人もいるにもかかわらず、その票が左翼政党に殆ど反映されないことも(共社で500〜600万票)、自民党の右傾化を助長している。これが仮に社会民主義政党(日本の社民党では無い)が単独で、あるいは共社で常に1千万票以上獲得していれば、自民党は中間票に気を遣わざるを得なかったはずだ。実際、1971年の参院選全国区を見た場合、自民党1775万票に対して社共が1170万票、社会党瓦解直前の92年の選挙(比例区)でも、自民党1500万票に対して社共で1150万票とかなり健闘していた。だが、2013年の参院選比例区は、自民党1846万票に対して共社で640万票になってしまい、第二・第三保守党と言える民主・維新が計1348万票を獲得している。

実は、右傾化が進んだ自民党に対して、今度は民主党が「寛容なる保守」と「なんちゃって左翼」の合同体と呼べる「小沢・鳩山路線」を掲げて政権奪取に成功する。だが、様々な理由からわずか半年で瓦解し、菅・野田路線に転向した。菅・野田路線は、TPP、消費増税、法人減税、集団的自衛権など、むしろ自民党の政策を先取りするものだった。当時の執行部は、右派票の取り込みを目論んだわけだが、現実には「いや、それなら自民党でいいじゃん」となって2012年の選挙で安倍・自民党に圧勝を許すところとなった。
その自民党は「右に寄りかかってきた」菅・野田路線への対抗上、「さらに右」を目指すところとなり、「寛容なる保守」の後継者である谷垣氏を総裁から引きずり下ろして、「ハード路線」の安倍氏を据え、権威主義体制をもって選挙に臨んでいる。この点で言うと、「後世の歴史家視点」ではあるが、民主党の菅・野田路線が自民党を「さらに右」へと追いやり、権威主義の復活に寄与してしまったと言える。

【参考】慚愧に堪えず(2010.11.12) 

安倍・自民党が吉田路線を否定して岸路線を突き進んだ結果、権威主義的体質も強化され、それとともに歴史修正主義が強まって、戦前・戦中の帝政や戦争を美化する傾向が強まっている。経済成長と社会保障によって支配の正統性を担保してきた自民党は、この2つの旗印を失いつつあり、新たな統治根拠として国家主義・権威主義に切り替えているためだ。岸信介は、少なくとも社会保障を推進したが、安倍氏は財政上の理由からこれを切り捨てざるを得ない状態にあり、その不満を愛国主義と対外戦争によって緩和・解消する方向で進めている。日本の貧困化(階層化)が進み、社会保障が切り下げられ、国民の不満が高まれば高まるほど、さらに「愛国教育」と国旗国歌の強制が進んでいく構図だ。
具体的には、対中脅威論と対テロ戦争参加を掲げ、「戦時体制」を理由に市民の自由と人権を制限、その不満を戦争と国家主義への熱狂によって解消するという構想だろう。戦前史を見た場合、1930年代に吹き荒れたテロルの嵐は、1937年の日華事変発生とともにピタリと止まり、同時に合法社会主義者、自由主義者、反戦運動家への弾圧が進められた。

安倍・自民党やその支持層の恐ろしいところは、戦前の帝政・権威主義・ミリタリズムを肯定し、その侵略性、暴力性、違法性を否定する同じ口で、現在の民主主義を否定し、暴力行使の拡大を唱えている点にある。喩えるなら、婦女暴行と連続殺人を犯した重大犯が、恩赦で出獄してきたところ、自らの犯罪性を否定、「正当防衛」などと言い張って、またぞろ拳銃やら日本刀を見せびらかしながら歩いているようなものだろう。この場合、仮に護身用ナイフの携帯が許されるとしても、それは過去の犯罪に対する深い反省が前提となるはずであり、自らの犯罪性を裁判官のせいにしているものが勝手に武装して歩いていれば、近隣住民が怯えるのは当然のことだ。
戦後の日本は、天皇制を始めとする権威主義を一部温存する代償として軍備を放棄したはずだが、いつの間にか再軍備だけ果たして、今度は不徹底に終わった民主化の殻を脱ぎ捨てて権威主義体制へと向かいつつある。
日本を占領支配したGHQは、日本の軍閥勢力を過剰評価していたことと、民主化が十分に進む前に米ソ対立が先鋭化したことがあって、急速に天皇制を中心とする権威主義の一部温存を容認、現行憲法の成立と公職追放の早期解除に進んでいった。東西対立の中で、日本を西側陣営の一員として迎え、極東の防波堤となすことは、アメリカにとって急務だった。また、最も大きい賠償請求権を有していたと考えられる中国は、国民党と共産党が激しい内戦を戦っており、国民党としては内戦を有利に戦うためにも米国の戦略に応じて、「軍部悪玉論」に賛同、「日本国民は無罪」として賠償請求権を放棄した。
(中略)
「軍部は悪くない、オレたちも悪くない」「帝政は戦後民主主義よりも優れている」「悪いことしてないんだから賠償なんかしない」「再軍備して海外派兵もビシビシやるぜ」「中国人は騒ぎすぎ」「ロシア人は領土よこせ」「韓国人は黙ってろ」などという主張が、本当に国際社会に通用すると思っているのだろうか。
周りの人間が全員狂ってしまうと、人は「ひょっとして狂っているのは自分の方なのではないか」と考え出す傾向にあるというが、今の日本はまさにそこに近づきつつあるのだろう。
分かりやすい歴史解釈のために:日本の戦後処理について

私個人は、「日米安保を肯定する限り、集団的自衛権も安保法制も完全に否定することは出来ない(でもやめて、東アジアの集団安全保障体制を模索した方が良い)」という立場に立っている。しかし、現在の自民党と右派が突き進んでいるのは、戦前の「(ナチス・ドイツの)バスに乗り遅れるな」と同じ過ちとしか思えない。
posted by ケン at 11:50| Comment(4) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月22日

民進党はおおさかにも勝てない?

【大学まで教育無償化…おおさか維新が憲法改正案】
 おおさか維新の会が検討している憲法改正草案の原案が15日、分かった。教育機会の均等を図るため幼児期から大学まで教育費を無償とすることや、道州制の創設を柱とする「地域主権」の規定などが盛り込まれた。16日の党憲法プロジェクトチームで議論した上で、26日の党大会で最終決定する。参院選公約の目玉として打ち出し、独自色をアピールしたい考えだ。同党は、〈1〉教育の無償化〈2〉統治機構改革〈3〉憲法裁判所の設置――の3本柱に絞って草案作りを進めている。9条や憲法改正手続きを定めた96条については検討を見送った。教育の無償化は、橋下徹法律政策顧問の肝いりで、大学進学の門戸を広げるだけでなく、待機児童の解消も狙う。現憲法の「義務教育を無償とする」(26条)との規定を「幼児期から高等教育に至るまで無償」と修正した。「経済的理由で教育を受ける機会を奪われない」との文言も加えた。
(3月16日、読売新聞)

「民進党」は野党としても「おおさか」に負けるかもしれない。「おおさか」は右翼で、トンデモ議員が多いかもしれないが、「教育無償化」や「保育士給与増額」など大衆の現実的ニーズに即した政策を次々と打ちだしている。これに対して、民主党は「与党崩れ」が激しく、09年マニフェストの「失敗」に対して必要以上にナイーブになっているため、多少でも実現可能性に疑問があるような政策は決して打ち出そうとしない。
結果、予算委員会で山尾議員が安倍総理をやり込めるような「ポイント稼ぎ」はしているものの、選挙に堪えうるような(有権者の支持が得られるような)政策は、殆ど打ち出せないでいる。

同じような傾向は、欧米でもよく見られる。欧州の既存の中道左派政党が現実政治に傾斜した結果、貧困化が進む大衆の支持は右翼や民族主義政党に流れている。米国の大統領予備選でトランプ氏やサンダース氏が健闘しているのも、既存の政治家が大衆的ニーズを満たせなくなっていることの表れであろう。

・フランスにおける既存政党の難しさについて

民主党・民進党も、現実政治を意識すればするほど、自民党(実態は霞ヶ関)の政策に似通って、第二自民党化してしまうだけに、いざ選挙という時に「自公の対抗軸」として認められず、NK党と「おおさか」に流れる可能性が高い。具体的には、参院比例票で、NK党600万票、民進党500万票、「おおさか」400万票くらいがイメージされる。その場合、民進党はさっそく分裂騒ぎが起きるだろう。

先日読んだ新聞記事で、数百万円の奨学金返済を抱えた女性が結婚することになり、男性の両親に会いに行ったところ、後に男性の両親は「借金のある女性」との結婚に反対していたことが分かり、どうしたものかという人生相談を読んだ。
これは非常に普遍的な問題で、いまや大学生の半分以上が有償の奨学金を借りて、借金を背負ったまま社会に出て、その何割かは非正規やブラック企業に勤めている。奨学金の返済もままならないまま、結婚や子育てなどできるはずもなく、引いてはますます少子化が進むことになる。つまり、教育費の高さと、労働環境や子育て環境の悪さは非常に密接に関連しているのであって、この構造が貧困化を進めていると言える。
こうした若年層の不安や不満を斟酌せずに、「現実政治」を唱えてみたところで、「じゃあ自民党でいいじゃん」と言われるだけなのは火を見るより明らかだ。その意味でも、民進党に野党としての役割が果たせるのか、甚だ疑問であろう。
posted by ケン at 12:27| Comment(6) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月08日

放送の自由と規制のあり方について

【高市総務相「色々な意見あるなあ」 停波発言の批判声明】
 高市早苗総務相による放送局への「停波」発言をめぐり、田原総一朗氏らジャーナリストが批判声明を出したことについて、高市氏は1日の衆院総務委員会で「色々な意見があるのだなあと感じさせて頂いた」と感想を述べた。民主党の小川淳也氏に「受け止め」を問われ、答えた。
一方、高市氏は政治的な公平性を欠く放送を繰り返したと判断した際、放送法4条違反を理由に放送局に電波停止を命じる可能性について「法律に規定されたものは誠実に執行するのが内閣の役割だ」と改めて主張。「憲法の条文には内閣の職務として法律を誠実に執行するとの規定がある」とした上で、「ここは法治国家。法律に規定されたものは放送法や電波法に限らず、必要があれば誠実に執行するのが内閣の役割だ」と述べた。
放送法4条違反を理由にした「停波」について言及した高市早苗総務相に公開質問状を送った日本民間放送労働組合連合会(民放労連)は1日、高市氏からの回答を公開した。高市氏は国会答弁を引用、4条は法規範性を有し、憲法との関係においても問題ないといった考えを改めて示した。民放労連は「国会答弁のおうむ返しで回答になっていない」と抗議、再回答を求めている。
(3月1日、朝日新聞)

この件について、野党の批判がやや苦しいことはすでに述べている。民主党政権期にも当時の平岡大臣が同様の答弁を行っており、自民党からの「反撃」に利用されてしまった。民主党議員が何と言おうと、政府としての公式見解である以上は、方針や解釈を転換しない限り、同じ答弁にしかならず、それを「アベ政権はケシカラン」と繰り返したところで、不毛な論争にしかならない。
ただ、歴史を俯瞰すると、現在の政府見解は比較的最近のものであることが分かる。1950年1月24日の衆議院電気通信委員会において、網島電波監理長官が放送法の主旨を行っている。
放送番組につきましては、第一条に、放送による表現の自由を根本原則として掲げまして、政府は放送番組に対する検閲、監督等は一切行わないのでございます。

これは、倫理規範を想定してのものと考えるのが妥当であり、だからこそ行政法学者の間でも放送法4条1項を倫理規定とするものが通説になっていた。ところが、1993年12月15日の参議院予算委員会において、テレ朝の椿事件(同報道局長が民放連で放送法違反発言を行った疑獄)を受けて、放送法の公正原則について質問されたのに対し、当時の神崎武法郵政大臣は、
政治的公平等の要件を定めておりますけれども、私どもはこれらについては単なる倫理規定であるとは考えておりません。

と答弁した。放送法制定は1950年で、少なくともその後40年以上、放送法4条1項は倫理規定であるとの合意があったと見られ、実際に放送法違反に基づく行政指導や処分は一切行われなかった。これが解釈変更と見なされるのは、以降、放送事業者に対する行政指導が行われるようになり、特に2004年から09年に渡って飛躍的に増えている。

他方、憲法第21条は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」「二:検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」としている。これは表現の自由は、その内容にかかわらず全て保障されることを意味するはずだが、実際には他者の人権や公共福祉との兼ね合いがあり、必ずしも「全て」保障されるわけではない。ヘイト・スピーチなどがこれに当たる。
とすると、政府の放送法4条の現行解釈では、表現内容について、行政府が問題にして行政処分を科すことを認めることになり、それは表現の自由を真っ向から否定することになって、憲法に違反している。政府はこれを「憲法違反には当たらない」と主張しているが、どう見ても「強弁」でしかなく、論理的に破綻している。
であればこそ、放送法4条1項は倫理規定であって、放送事業者には努力義務を課すということで、放送法制定から40年間は、放送法と憲法の間の矛盾を解消してきたはずだった。
関連して興味深いことに、自民党憲法改正草案の21条の部分には、
前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。

という条項が追加されている。今の政府の解釈は、自民党の改憲案を前倒しして適用するものであり、解釈改憲であるという見方も可能なのだ。

もう一つの問題として、プリント・メディア(印刷媒体)には課されていない「公正原則」が、放送事業者にのみ課されているのは何故か、という問題がある。これは従来、「競争が少なく、国民に与える影響が大きい電波媒体は、特別な規制(公正担保)が必要である」という「電波希少性原則」から説明されてきた。
ところが、地上波以外に、衛生放送やケーブルテレビのみならず、インターネットがテレビ放送と同様の情報伝達を可能にしている現状で、果たして「電波稀少原則」が成り立つのかという話になっている。現行では、ケーブルテレビやインターネット放送にも放送法4条1項は適用されているわけだが、ケーブルテレビに放送法が適用されて、「電波法」に基づく行政処分が科される可能性があるという時点で疑問満載なのだ。
また、インターネット放送にも放送法が適用されて行政処分が科される可能性があるとなると、放送事業者によるインターネット放送は規制(監督)を受ける一方で、個人によるインターネット放送は規制を受けないというダブルスタンダードが生じることになる。

政府が主張する「電波希少性」は、メディアの多様化ですでに立法根拠を失っており、むしろ行政権の肥大化と拡大解釈の温床にしかなっていない。現にアメリカでは29年前の1987年に放送の公正原則を廃止している。また、放送法の公正原則が適用されていないプリント・メディアにおいて、基本的に公正原則が保たれていることも、放送事業者にのみ同原則を課すことの不合理性が指摘される。
結果、放送法を改正して4条1項そのものを撤廃するか(米国式)、同条の解釈を1993年以前の倫理規定に戻す(欧州式)、のどちらかの選択肢しかあり得ないと思われる。

さらにもう一つ問題があり、これが最大の争点かもしれない。日本における放送規制・監督の仕組みは、欧米諸国に比して非常に独特で、それは放送事業と電波使用の許認可権を持つ総務大臣が、自ら直接、言論機関である放送事業者を監督するという仕組みになっていることだ。これは、言論の国家からの自由という点で、著しく憲法理念に反している。
例えば、ドイツでは、民間放送の番組編成を国家が直接監督することは憲法違反と考えられている。アメリカやイギリスでは、放送の規制監督は、合議制の独立行政機関が担っている。実は、日本でも放送法と電波法が成立した1950年には、米国の独立規制監督機関である「連邦通信委員会」を参考にした「電波監理委員会」が設置されたが、わずか2年後の52年には廃止されて、その監督権限は郵政大臣に移行し、今日に至っている。どうやら、サンフランシスコ講和条約(1951年)後の「逆コース」の中で、当時の郵政官僚が将来的に報道統制を行うための「因子」を潜り込ませていたと考えられる。
それはともかく、許認可権を有する圧倒的に強い立場にあり、同時に政党の一員という政治的中立性が担保されない者が、言論機関の監督規制を担うという現行制度は、本質的にリベラリズムとデモクラシーの原則に反している。喩えるなら、会社の社長が監査役を兼ねるような話で、「あり得ない」のは当然だろう。

こうして改めて見直してみると、高市大臣の発言を抜き出して攻撃するのは、やはり本質から外れてしまっている。根源的には、「放送事業者による自主規制」の建前を掲げながら、許認可権を持つ政府が、自ら監督権も行使するという、「そもそも自主規制なんて不可能」な制度設計にあるのであって、野党はこの点をこそ追及し、より民主的かつ自由が担保される仕組みを提案すべきである。
posted by ケン at 12:59| Comment(0) | 憲法、政治思想、理念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする