2017年08月07日

勉強と部活の何故

この間、何人かから「子どもが勉強しない」旨の愚痴を聞かされる。みな私と同程度の高偏差値大学を出ているが、ガリ勉タイプではなく、どちらかと言えば「趣味人」の部類に入るだろう。つまり、さほど親にギャーギャー言われずとも必要最低限の勉強はして、そこそこの成績を収めていた者たちである。

具体的な話をすれば、ケン先生の中学・高校の場合、1学年170人前後で毎年東大に数人入る程度の緩い進学校だったが、自分で試験毎に「50位以内なら十分、それ以下なら次は頑張ろう」的な基準をつくって、親にとやかく言われることもなかった。親からすると、「もう少し頑張ればいいのに」と思っていたそうだが、私的には「頑張ればもっと上に行けるかもしれないが、最も効率の良い勉強と成績はこれ」ということで、遊び(当時からシミュレーションゲームとRPG)に重点を置いていた。文句を言われること無く、自分も安心して遊べる環境を確保するために、自分で自分を最適化させていたのである。

こうした人間からすると、そもそも勉強しない子どもに「勉強させる」のは至難のことなのかもしれない。「勉強しないで平気でいられる」理由が分からないからだ。
基本的に義務教育の勉強は「誰でもできる」ことを想定してカリキュラム等が設定されており、「頭が良い(演算力がある)」か「努力する(労働を厭わない)」のどちらかがクリアされていれば十分(出来ないわけが無い)なのだが、どちらも無いとなると親としては頭が痛いだろう。

勉強はホワイトカラー事務職の前提能力であり、勉強ができないことは、事務能力が無いに等しい。例えば、文書を読み、作成するのも、自分で計算したり、他人の計算が正しいかどうか判断するのも、全て勉強ができるかどうかで判断できる。また、事務作業や技術をマスターする過程は、勉強のそれであり、勉強ができない人間は作業方法や新技術のマスターに大きなコストがかかることを意味する。確かに、勉強は企業人としての能力の高さを保証するものではないが、事務作業能力や社会人としての最低能力を保証するものではあるのだ。
ところが、技術革新によって事務職の需要が急低下しているため、中途半端な勉強は費用対効果が減じてしまっているところに、「勉強しないと良い会社に入れない」と言えない難しさが生じている。究極的には、勉強によって担保されてきた事務作業は殆どAIにとって替わられ、生身の人間を必要とするホワイトカラー分野は非常に小さくなって行くと考えられるからだ。
従って、申し訳ないが、私も今のところ解答を持たない。

勉強に対して部活動は、超長時間労働に耐える体力と奴隷根性を養成するために学校教育で(実質的に)必修化されているが、こちらはブルーカラー肉体労働の基礎能力養成を目的としているため、肉体労働の需要が低下している今、こちらも無駄な時間と労力を費やすだけの存在になっている。
とはいえ、日本企業では、ホワイトカラー事務職でも規格外の残業や営業が強いられるため、運動部系の部活動経験者が人事に好まれるところとなっており、財界もまた学校における部活動を推奨している。
ところが、日本の部活動は人間の個性を否定し、自由な思考と自主性を奪うためのシステムであるため、会社に服従する奴隷的人間は養成できても、自分で判断して行動し、想定外の状況に自律的に対応できる人間は決して育たない。
結果、部活動が活性化すればするほど、「使えない」労働者が増える構造になっている。従来の肉体労働や事務作業の大半を機械が担うようになったため、奴隷的人間は不要になっているにもかかわらず、日本の教育システムは以前のままに置かれている。財界も官界も政界も、「自由な市民」による批判や反乱を恐れるあまり、奴隷養成システムの改革を拒んでいるわけだが、それが日本社会と市場をますます疲弊させている。

また、日本型教育システムは後期中等教育(高校)と高等教育(大学、大学院)の国際的評価が非常に低い。これは、日本の高校と大学が、中学校の奴隷教育の延長にあり、知識の詰め込みと奴隷根性の涵養に重点が置かれているためだ。

欧米の大学の場合、授業では例えば「1円を1億円にするためには何を為すべきか」みたいな課題が出され、学生は「砂漠を彷徨う金持ちに水を1億円で売る」とか「地中海を漂う難民を奴隷商に売る」みたいな意見を次々と開示、その是非や評価を学生同士で議論させ、教員はそれを統括、総評する役割を担う。ところが、日本人学生は何一つ意見を述べることができず、ニコニコしているだけなので最低の評価しか与えられない。日本の高等教育の国際評価が極めて低く、「グローバル人材」を排出できない大きな要因になっている。
事務作業より上のマネージメント能力や創造性を必要とする仕事には、こうした訓練が不可欠なのだが、日本にはその機会が無い。

例えば、今年のフランス・バカロレア哲学試験の課題を見てみよう。文系は、
主題1 知るためには観察するだけで足りるか。
主題2 権利を全て実行することは正当か。
主題3 以下のルソー『人間不平等起源論』の抜粋を説明せよ。

理系は、
主題1 権利の擁護と利益の擁護は同義か。 
主題2 人は自らの文化から自由たり得るか。
主題3 以下のフーコー『知・身体』の抜粋を説明せよ。

フランスでは、哲学は高校の一般教科で選択科目では無い。ダンテは「哲学の教えに基づき、人類を現世的な幸福へと導くものがローマ皇帝である」(帝政論)と述べているが、日本のリーダーには人類を幸福へと導く義務が規定されていないため、「いかに奴隷をただ働きさせるか」が統治論の主題になっている。
東京五輪を、9万人の無償ボランティアと3千人の無償通訳で開催しようというのは、あまりにも象徴的だ。

結論になるが、日本の教育システムは、19世紀型のブルーカラー労働と日本型の労働集約型産業に最適化してしまったため、全く21世紀型の産業に通用しなくなっている。ところが、政官財報の腐敗テトラゴンは、奴隷養成型教育システムの上にのみ成立しているため、これを改革することは自分の首を絞めることにしかならず、それは自らベルリンの壁を壊すような話になっている。
結果、日本の産業は21世紀モデルに対応した労働者も管理職も養成できないまま、沈没への一途を辿っているのである。

【追記】
演算力の高い人間というのは本当にいるもので、私の伯父などは「指導教授に言われたから」高文試験を受けて内務省に入り、扱った法律は全てそらんじることができるので、官僚の手助け無しでその場で国会答弁できた。今話題のウェルスナビの柴山会長は「高校の同級生がみな東大に行くから」東大に入り、「指導教授に言われて」三週間過去問見ただけで大蔵省に合格したという。そんな超人に対抗する術など無いのだが、99%以上の人は義務教育中に勉強や読書の習慣を身につけないと、社会で求められるスキルを習得することができなくなってしまうか、学校時代の何十倍も苦労することになるわけ、どのような形であれ(強制力を発揮してでも)、子どもに勉強させること自体の必要性が減じているとは思えない。
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2017年07月25日

君主と籠城の関係について

「リーダーは時として配下を切り捨てる冷酷さが求められる」旨のリーダーシップ論を読んで仰天。私の知る歴史にそんな原理は無かったからだ。

日本であれ欧州であれ、古来リーダーの資質は「部下を見捨てない」点に求められた。武田勝頼が父信玄よりも版図を広げながらあっという間に滅んだのは、包囲された遠江・高天神城に後詰めを出さず、あまつさえ降伏許可すら与えなかったことに起因した。
かねてより高天神城は、武田信玄が西上作戦の折りにも陥落させることができなかったこともあって、正式な後継者では無かった勝頼はその奪取に強く執着していた。だが、重臣たちは「遠すぎて補給線が維持できない」と反対するものが多かったとされる。にもかかわらず、勝頼は信玄の死の翌年(1574年、天正2年)に大軍を率いて遠江に侵攻、高天神城を落とした。この時は、籠城していた小笠原家の一族が内応して陥落したのだが、徳川家康は織田信長に救援を求め、陥落前日には三河吉田まで後詰軍が来ていた。

その翌年、長篠合戦で武田軍は大敗し、1580年(天正8年)には徳川家康は5千人を率いて高天神城を包囲した。古来、籠城は後詰めを前提として採られる作戦で、籠城単体では成立しない。家康は、城を包囲して武田方の後詰めが出てきたところを野戦で仕留めるか、勝頼が後詰めを出さなければ遠江、駿河における武田の権威を失墜させられると考えていたものと思われる。興味深いことに、信長は家康に対して「高天神城を降伏開城させるな」旨の書状を送っている。
当時、武田家は甲相同盟の破綻から北条家とも戦端を開いており、織田・徳川連合軍と野戦するリスクは冒せなかったものと推察されるが、後詰めを出さず、かといって降伏開城の許可も出さなかった結果、籠城中の城兵の大半が餓死した挙げ句、城主の岡部元信以下全員討ち死にという事態に終わった。
その結果、勝頼は「ブラック大名」の烙印を押されて、穴山、木曽、小山田などの一族重臣層からすら見捨てられ、翌81年の「武田攻め」を迎えるところとなった。戦国期にあっては、後詰めを出さなかった主君の権威は失墜し、籠城者の離反・降伏はおろか、ドミノ倒し的に他の武将の離反を誘発する恐れがあった。

逆に長篠合戦の場合、武田方(1万5千人)が奥三河の長篠城を包囲、徳川家の主力(8千人)を誘引して決戦を迫ろうとしたところ、織田家の援軍が3万人も同行しており、それに気づかなかった武田勝頼が逆に決戦を強いられてしまった形となった。この時、家康は別働隊を編成して武田方の鳶ヶ巣山砦を陥としているが、これは長篠解放のためであり、籠城する奥平家に対する配慮と設楽原に布陣した武田軍の後背を脅かす狙いがあった。

中世欧州では、王は街の統治権や徴税権を得る代償として、住民の生命と財産を守る義務を負った。そのため、街が敵軍に包囲されたときは、国王は救援の義務を負い、それが遂行できない場合は、その街に降伏開城する許可を与えることが求められた。青池保子の名作『アルカサル−王城』はその辺の事情を見事に描いている。解囲軍が届かない、間に合わないと分かっているのに、徒に死守籠城を命じる君主は「愚昧」「暴君」と評価されたのだ。但し、異教徒相手の戦争は事情が異なったようだ。

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ベラスケスの代表作『ブレダの開城』は、三十年戦争におけるスペイン軍によるオランダ・ブレダ攻囲戦の勝利を描いたものだが、スペイン軍を率いていたのは名将スピノラだった。オランダ軍は何度も解囲を試みるも、その都度撃退され、オラニエ公ヘンドリックはブレダ市に降伏開城許可を出し、スピノラは籠城兵の健闘をたたえて掠奪と捕虜虐待を禁じたとされる。これは、憎きプロテスタント相手に、カトリック側の将軍が慈悲を示したことを讃えた作品ではあったが、城と君主の関係とはそういうものだった。

根本的には、現代にあっても同じである。1942年11月にスターリングラードにいるドイツ第6軍がソ連軍の「天王星作戦」によって包囲されると、ドイツ側は12月12日に「冬の嵐作戦」を発動して解囲を試みる。だが、スターリングラード市まで40kmのところでソ連軍に阻止され、マンシュタインはヒトラーと第6軍に「雷鳴作戦」(包囲された第6軍による自力脱出)を要請するも、認められず、解囲に失敗した。さらにヒトラーは、第6軍に降伏を許さず、文字通り死守を命令するが、43年1月31日に降伏する。捕虜となったドイツ軍人は10万人に及んだ。
この際に、ヒトラーが脱出も降伏も認めなかったことは、翌44年7月のヒトラー暗殺事件の遠因となっている。また、「空中補給で第6軍を賄う」と豪語していたゲーリング空軍元帥も信頼を失った。

現代日本は例外的な環境にある。
太平洋戦争において、太平洋の島々に配された日本軍はことごとく死守、玉砕が要求され、一切の降伏が認められなかった。フィリピン(レイテ)、マリアナ(サイパンなど)、沖縄では、海上から解囲軍が送られ、それぞれ「レイテ沖海戦」「マリアナ沖海戦」「坊ノ岬沖海戦」が生起したものの、日本側は全て壊滅的打撃を受けて敗退した。
「伝統」に従えば、解囲軍が壊滅し、さらなる後詰めが出せない以上、君主は降伏許可を出すのが筋であり、名君の条件だった。ところが、昭和帝は降伏許可を出さず、最後の一兵まで戦って玉砕することを求めたため、破滅的な結果を招いた。
歴史的には、このような勝ち目の無い戦で臣下の生命を徒に使い潰す君主は「愚昧」「暴君」とされるはずなのだが、何故か日本では「御聖断によって戦争を終わらせた名君」として評価され、軍部の戦争指導と責任についても「解体された」ことでウヤムヤにされてしまった。その結果、今日に至るまで日本の学校(特に部活動)や企業では、生命や人権を軽視する(全く考慮しないと言っても良い)教育や文化がまかり通っている。
明治以降、3千万人の人口が4倍になったことと、明治体制下で全てが天皇の私物とされてしまったことが、大きく影響しているものと思われる。そして、明治体制を否定せぬまま、敗戦によって形式的にデモクラシーが導入された結果、非人道的な弊害が見えない形で温存されてしまったのだろう。

城ではないが、1979年にソ連がアフガニスタンに軍事介入したのは、「友党を見殺しにすべきではない」「アフガニスタンの混乱を放置すれば他の社会主義国も動揺する」というスースロフの意見に象徴されるように、「同志友邦の苦境を放置し、救難依頼を無視した場合、社会主義陣営の頭領としての権威が失墜する」という感覚が、共産党政治局で共有されていたことが大きい。
実際、「ベルリンの壁」崩壊前に東独でKGB要員として勤務していたプーチン氏は、「(ソ連共産党)党中央がSEDを見限って事態を放置した時に、党と国家(ソ連)を見限った」と回想している。
これらのことは、共産主義者ですら「同志・同胞を見殺しにすることは許されない」旨の倫理を持っていたことを示している。その意味でも、現代日本人だけがよほど特異な文化、社会環境に置かれていることを示唆している。
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2017年06月29日

5、6月の読書(2017)

さすがに会期末で多忙だったせいか、本を読むゆとりも無かったらしい。さっさと都議選も終えて勉強したいが、いよいよ地下潜伏の準備もした方が良いのだろうか。

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『戦史ドキュメント川中島の戦い』上下 平山優 学研M文庫(2002)
『武田氏滅亡』でいまや武田研究の第一人者になりつつある平山氏による「川中島の戦い」。だが、題に偽りありとまでは言わないが、武田氏による信濃併合の過程を追ったもので、川中島戦役は下巻の後半部にしか出てこない。上巻の前半は信虎以前の歴史を述べており、全体に冗長な割に肝心なところはアッサリしている観がある。とはいえ、『甲陽軍鑑』に頼り切ることなく、『妙法寺記』を始め様々な寺院記録などの一次資料と照らし合わせながら丹念に全容を辿っており、丁寧な仕事になっている。私が妄想している「甲越戦争」の元ネタでもある。

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『昭和動乱の真相』 安倍源基 中公文庫BIBLIO(2006)
「日本のヒムラー」と呼ばれ、公安権力で先輩たちを震え上がらせ、獄死・拷問死の山を築いたとされる安倍源基の回顧録。恐らくはアイヒマンと同質の「暗い官僚」なのだろう。だが、単なる自己弁護の回顧録に終わること無く、自らの記憶力に頼ること無く、きちんと資料や知人に裏を取りながら記述しているので、非常に質の高い回顧録となっている。最終的には「戦時体制だから」で済まされるわけだが、そうだとしても内務官僚超エリートが戦前の流れをどう見て、何を考えていたか分かる貴重な一冊と言える。

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『張作霖 爆殺への軌跡 1875-1928』 杉山祐之 白水社(2017)
既出

『ロシア革命―破局の8か月』 池田嘉郎 岩波新書(2017)
ロシア革命100周年ということで、ソ連関連本が何冊か出ているが、とりあえず話題の書を手に取ってみた。ロシア革命における二月革命から十月革命に至る過程を、主に臨時政府の視点から追っている。従来圧倒的多数だったボリシェヴィキ史観から距離を置いて、むしろ「制御不能に陥って破局に向かう8カ月」という流れになっている。とにかく記述が明確で読みやすいので、あっという間に読み終えてしまった。確かに非ボリシェヴィキ系の資料をふんだんに使っていて斬新で面白いといえば面白いのだが、あまりにもドラマティックな仕上がりになっていることや、フリーメーソンなど「それは必要な要素なのか」という点が強調されていたりと疑問もある。著者の基本的な姿勢は「エリートが教育の無い民衆のポピュリズムを制御できなくなった」というものだが、私が本ブログで1980〜81年のポーランド危機を分析した通り、あるいは今日の欧米諸国にも類似点を見つけられるが、仮に一定の教育があったとしてもエリートがポピュリズムを制御できなくなるケースはあると思われる。この点は別途論じたい気もする。新書としては十分な価値があるとは思うが、ソ連学徒としては色々議論してみたい箇所も多い。
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2017年04月27日

3、4月の読書(2017)

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『ドイツ空軍全史』 ウィリアムソン マーレイ 朝日ソノラマ(1988)
原著は1980年代、著者は米空軍出の歴史学者。第一次世界大戦の敗北によって航空戦力が全廃され、ヒトラー政権後に一から再生、二次大戦の末期までを描く通史ではあるが、全くムダが無くコンパクトにまとめられており、全体像をつかむには最適の書かもしれない。記述も至って冷静で偏りが無い。このテーマは大昔、小学生か中学生の頃にサンケイ出版の『ドイツ空軍』を読んで以来となるので、非常に刺激的だった。要は近隣諸国との短期決戦のみを想定して、地上支援に最適化し過ぎた結果、想定外の全面、長期戦争になってしまい、方針転換もままならないまま疲弊していった、ということなのだが、それでも英米ソの圧倒的な物量を前に、良くあそこまで戦えたものだ。ただ、かなりの大著を文庫にしてしまったため、注釈や参考文献、あるいは図表が削除されてしまい、非常に惜しいことになっている。朝日ソノラマが無くなった後、2000年代に学研M文庫で再版されたものの、これも絶版になっており、M文庫も廃止された今、戦史ファンとしては心細い状態が続いている。

『スターリン―赤い皇帝と廷臣たち〈下〉』 サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ 白水社(2010)
上巻は読んでいたのだが、下巻に入ったところで何らかの理由で中断し、そのままになってしまっていたので、読み終えることにした。モンテフィオーリ卿の最高傑作にして、既存のスターリン伝の中でも最高峰にあると思われるが、いかんせん上下巻で1300ページという恐ろしい大著なので(註が恐ろしく多い)、容易に手を出せないところは否めない。とはいえ、膨大な一次資料を重視すると同時に、生存者へのインタビューも丹念に行って、可能な限り「見たまま」のスターリン像を描き出しているだけに、読み手も苦労する価値があるし、実際にソ連学徒が読んでも半端ないリアル感を覚える。スターリンに限らず、重臣や親族に関する記述も充実しており、多重的に描かれている点が、認識をさらに深めてくれる。次はサーヴィス『トロツキー』に行くか、スナイダー『ブラッドランド』に行くか悩み中。

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『スターリン批判 1953〜56年』 和田春樹 作品社(2016)
御年80になられる御大の新著。500ページ近くあり、とても79歳の仕事とは思えない充実ぶり、業界では毀誉褒貶多いものの、やはり一個の巨人であろう。先生はすでに70年代にスターリン批判の分析をされていたが、90年代以降に公開された新資料や証言をふんだんに駆使して、スターリン批判に至る経緯から周辺国への影響に至るまで歴史の再構築を試みている。上に紹介した『スターリン』の最終盤からスタートする話なだけに、より納得でき、知識の上書きを進めている。和田先生の労作群なくしては本ブログも存在しないとすら言える。

『用兵思想史入門』 田村尚也 作品社(2016)
『各国陸軍の教範を読む』の田村先生の新著。古代メソポタミアから現代アメリカの「エアランド・バトル」に至る用兵思想の歴史を俯瞰する一作。ただし、孫子に代表される東洋のそれは含まれておらず、あくまでも西洋が中心。300ページ強で駆け抜けてしまっている観は否めないものの、一つ一つを切り取らずに継承されてきた思想の連続性に着目し、「なぜそうなったか」を再確認することに意義がある。ゲーマーは一読しておくべきだろう。

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『働く女子の運命』 濱口桂一郎 文春新書(2015)
少子化対策もそうだが、「女性活躍」というスローガンばかりが先行しているものの、現実には女性の社会進出は遅々として進まず、「活躍」からはほど遠いところにある。その理由を、「日本型雇用」というキーワードを用いて戦前の歴史からひもといてゆく。結局のところ「職務、ジョブ」ではなく、人格丸ごと雇用して無制限の職能や勤務(異動)を強いる、世界に類例の無い日本型雇用を女性にもそのまま適用しているのが「日本型男女平等」「(日本型)女性活躍」になってしまっている、ということらしい。労働時間規制に関心の無い労働組合も、加害者の一員ということなのだろう。やはり労働問題を根本的に解決しない限り、個々人の幸福も生産性の向上もあり得ないと再認識させられる。

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『「天皇機関説」事件』 山崎雅弘 集英社新書(2017)
既出。

『新・所得倍増論』 D・アトキンソン 東洋経済新報社(2016)
『新観光立国論』で話題のアトキンソン氏の新著。様々なデータを駆使して、国としては世界第3位のGDPを誇りながら、実は一人あたりのGDPは世界27位(購買力調整後)、一人あたりの輸出額は44位と衝撃的な数字が続出。単に人口規模が大きいため、人海戦術でごまかしているだけの話で、エリートやマスゴミが喧伝するほど優秀でも裕福でも無いことを、淡々と説明している。生産性の低さは昨今強く言われつつあるが、具体的にデータを見ると驚かされる。ただ、「ではどうすればいいの?」となると、途端に曖昧、微妙な表現ばかりで具体性が無い。まぁコンサルなので、具体策が聞きたければ自分を雇えということなのだろうが・・・・・・
posted by ケン at 12:37| Comment(0) | 学問、文学、教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月25日

山崎雅弘 「天皇機関説」事件

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『「天皇機関説」事件』 山崎雅弘 集英社新書(2017)
【目次】
第一章 政治的攻撃の標的となった美濃部達吉
1 貴族院の菊池武夫が口火を切った美濃部攻撃
2 美濃部攻撃の陰の仕掛け人・蓑田胸喜
3 美濃部達吉が述べた「一身上の弁明」
4 当代随一の憲法学者・美濃部達吉
5 国会の内外でエスカレートする「美濃部叩き」

第二章 「天皇機関説」とは何か
1 天皇機関説と天皇主権説(天皇神権説)
2 上杉慎吉と美濃部達吉の「機関説」論争
3 文部省も加わった天皇機関説の排撃運動
4 美濃部擁護の論陣を張った「帝国大学新聞」
5 昭和天皇も認めていた天皇機関説の解釈

第三章 美濃部を憎んだ軍人と右派の政治活動家
1 「陸軍パンフレット」に対する美濃部の批判
2 軍人勢力各派は「機関説問題」にどう反応したか
3 右翼団体による「機関説排撃運動」のエスカレート
4 騒動を岡田内閣打倒に利用しようとした立憲政友会
5 美濃部が『憲法撮要』に記した「統帥権」の意義

第四章 「国体明徴運動」と日本礼賛思想の隆盛
1 次第に追い詰められた岡田啓介首相
2 急激に力を持ち始めた「国体」というマジックワード
3 岡田首相の第一次国体明徴声明の発表
4 さらに激しさを増した美濃部と機関説への糾弾
5 消えかけた火を大きくした美濃部の「第二の弁明」

第五章 「天皇機関説」の排撃で失われたもの
1 窮地に立った岡田内閣と第二次国体明徴声明
2 天皇機関説事件から二・二六事件へと通じた道
3 美濃部の学説と共に排斥された、自由主義と個人主義
4 際限なく称揚される「天皇」「国体」という錦の御旗
5 実質的に機能を停止した日本の「立憲主義」

『戦前回帰』『日本会議 戦前回帰への情念』で軍事史以外の分野でも論壇デビューされた山崎雅弘氏の新著。
1935年春に起きた天皇機関説事件を概観した新書だが、本件を中心に据えた書は1970年の宮澤俊義『天皇機関説事件―史料は語る』以外に殆どなく、約50年を経て新たに光を当てている。

天皇機関説事件は、戦前期に「軍部独裁」が確立してゆく過程に生起し、明治憲法の立憲制や権力分立を否定し、形式上は天皇に権力を集約させつつ、実権は軍部を中心とするエリート官僚が掌握する結果となった。つまり、明治体制なりの分権体制から昭和の権力集中体制に移行する理論的転回の転機となった事件と言える。
1935年2月、貴族院で菊池武夫議員が美濃部達吉議員(東京帝大名誉教授)の天皇機関説を攻撃したことに始まり、「国体を否定するもの」「国賊」「学匪」などといった非難、攻撃が激化、美濃部家には続々と脅迫が届き、本人や家の周囲に不審者がつきまとうようになった。甚だしきは、文部省から「右翼テロに注意するよう」旨の警告に続いて「転向」を求める文書までが来たと言われる。
ところが、実際には美濃部説は当時の学界、官界における通説で、官僚採用のための高等試験も全てこれに基づいていた。しかも、当の貴族院では美濃部が自説を説明したところ、大きな拍手が起きて理解を得たはずだった。にもかかわらず、美濃部は不敬罪で告発され、マスゴミの攻撃にさらされ続け、ついには貴族院議員を辞任、その後右翼テロリストに銃撃されて重傷を負った。その間、政府は「国体明徴声明」を出して美濃部説を否定している。恐ろしいことに、美濃部を負傷させた銃撃犯はついに逮捕されず、同じく銃撃し命中しなかった犯人は懲役3年で済んでいる。
(中略)
昭和のテロリズムは、個々の政治家や財界人や学者を死傷させたことではなく、明治憲法に明文化されていない多元支配の構造(明治末年から大正期にかけて理論化された)を否定し、天皇による一元支配と擬装された軍部支配を実現した点に真の効果がある。同じ意味で、大正期の国際協調主義を否定し、軍国主義を促進させた点も大きい。テロルの副次的効果として、マスコミが便乗して大衆を扇動、リベラル派の知識人が沈黙し、官僚が自らこぞって国家主義・軍国主義に転向していった。また、(左翼)テロに対する警戒を理由に治安維持法などが制定されて恐怖支配が正当化された。
テロルの効用について(2014.10.2)

本件は満州事変や226事件のようなドラマティックな展開があるわけではなく、弾劾された美濃部博士もテロルに遭ったとはいえ、殺害は免れた上、当局に逮捕・収監されたわけでもないため、「悲劇のヒーロー」に祭り上げられることもなく、非常に地味な出来事にされている。だが、ソ連史で言えば、トロツキー追放やブハーリン裁判に匹敵する転機の一つであり、これを無視して戦前史は語れない。

今日的には、パックス・アメリカーナによる国際秩序が瓦解しつつある中にあって、日本の国力も低迷する一方、中国の影響力が急速に拡大、冷戦期の対立構造から脱却できない日本は、非常に大きな緊張下におかれている。国内でも貧困が蔓延し、経済格差が拡大して、社会不安が広がっている。結果、分権的なデモクラシーに対する否定的見解が広まり、自民党と霞ヶ関に権力を集中して「危機」を乗り越えようとする考え方が支持を集めつつある。つまり、戦前期とよく似た政治、国際環境の中で、似たような社会風潮が醸成されつつある。天皇機関説事件を俯瞰する意義はそこにある。

本書は、事件の時系列を正確に追いながら、様々な勢力の様々な思惑が交錯する複雑な背景にも焦点をあて、複合的に解説、事件の前後で何が変わったのか明快に説明している。
宮澤『天皇機関説事件』は、いかんせん当事者の一人(美濃部の弟子にして反逆者)である宮澤が著者であるため信頼性に欠ける上、法律家であるため資料の羅列と訓詁学的解説に終わっている。宮澤の問題は後でまた触れるが、上下二巻を読むのも一苦労な代物なので、山崎氏の新書は大きな意義がある。

ただ、新著という制約もあって、惜しい点もある。天皇機関説事件の意味するところ、経緯、人間関係、勢力図などは端的に説明されているが、「なぜ事件が起きたのか」「なぜ権力の集中が求められたのか」などの背景説明が十分とは言えず、ある程度の前提知識が無いと大局的には理解できないかもしれない。

私なりに補足しておくと、日本は第一次世界大戦で生産力を大きく拡大させたものの、同大戦の終了により需要が急低下して、大正デフレ(慢性不況)が生じる。1920年代は、国際協調路線により、英米圏の市場を利用することで破断界を免れたものの、それも1929年の大恐慌の勃発により頓挫する。国内に目を向けてみると、デフレと緊縮財政と大正軍縮によって、不景気が長期化し、軍人(退役者を含む)を中心として国民の不満が高まっていた。
世界恐慌を受けて英米が自由貿易から保護貿易・ブロック経済に転じる中、日本政府は為すすべを持たず、軍部の暴走が始まる。軍部は世界恐慌から国際緊張が高まると判断し、再度の大戦勃発を念頭に必要な軍事力を担保しつつ、独自の経済圏を確立する方策を模索する。

海軍は、「米英との手切れ」を想定して軍拡が不可欠と考える艦隊派と、「国際協調はまだ可能」と考える条約派に二分していたが、1930年のロンドン会議の時点では条約派がやや優位にあり、民政党浜口内閣と連携して軍縮条約を締結させた。これにより軍拡競争は避けられたものの、艦隊派には強い不満が残り、「統帥権干犯」問題の発端となった。
次いで、陸軍は満州事変(1931.9)を起こす。陸軍としては、米英との連携が難しい以上、単独でソ連の脅威から身を守る総力戦体制を築く必要があり、その経済的基盤として中国を支配下に置いて日本独自のブロック経済を構築しなければならないと考えた。だが、満州事変では、陸軍中央や内閣からの掣肘が入り、必ずしも関東軍(大陸進出派)側の満足する結果にはならなかった。

この二つは密接に関係していて、ロンドン軍縮条約が今で言う政治主導で締結されたのは、憲法の美濃部説(天皇機関説)に基づく権力分立論に依っていた。美濃部説は、軍の編成権は内閣にあるが、統帥権は軍部にあるというものだった。軍縮条約締結を受けて、大陸進出派は「統帥権の範囲ならオレ達で勝手にやっていいんだな」と考え計画したのが満州事変だった。
いざ満州事変を起こしてみると、美濃部の権力分立論が立ちはだかり、陸軍の思うようにはならない。海軍は海軍で、ロンドン軍縮条約の更改が1935年に行われるので、そこに焦点を合わせて艦隊派が挽回を図る。陸海軍は、ともに「次の大戦」を想定して編成権と統帥権の独占的行使が必要と考え、その攻撃の矛先を美濃部へと向けていった。

こうした軍部の思惑を利用したのが政友会だった。満州事変の対応に失敗し、軍部への統制力を発揮できなかった民政党若槻内閣が瓦解すると、政友会の犬養内閣が成立し、満州事変と軍部への協力姿勢を示した。ところが、軍部の若手が暴発して5・15事件を起こし、犬養を殺害してしまう。「政党政治家では軍を抑えられない」との重臣らの判断から、海軍出身の斎藤実、岡田啓介に組閣を命じるが、二人は民政党に近かった。これは「軍に近すぎる政友会は危険」との重臣らの認識に基づいていた。ところが、1932年2月の総選挙では、親軍派の政友会が圧勝、定数466のうち303議席を獲得していた。

議席の3分の2以上を有していたにもかかわらず、政権を担えない政友会は大きなフラストレーションを抱えていた。その任期は1936年2月までであり、政友会としてはゲーム的判断から、「解散させず、絶対多数を保ったまま政権を取る」ことを至上命題とし、具体的には民政党寄りの岡田内閣を徹底攻撃する戦術に出る。そこに降ってわいてきたのが「天皇機関説事件」だった。
事件は政党に関係ない貴族院で勃発するが、政友会は即座に美濃部批判を開始、在郷軍人会と連携して「国体明徴運動」を展開していった。最終的には、岡田内閣を倒すには至らなかったものの、これを屈服させて天皇機関説を撤回させることに成功した。
にもかかわらず、36年2月20日の総選挙では政友会は大敗し、民政党が議席の過半数を獲得してしまう。その6日後に起きたのが2・26事件で、軍部反乱の責任をとって岡田内閣は総辞職し、親軍派の外務官僚である広田弘毅が組閣、1年後の37年2月に総辞職するも、その半年後の37年7月に日華事変が勃発、全面戦争・戦時体制へと突入していった。
何のことは無い、政友会は自分の手で議会政治と政党政治を葬り去ったのだ。

最後になるが、資料集としては価値が認められる『天皇機関説事件―史料は語る』を著した宮澤俊義は、一般的には「八月革命説」をもって現行憲法の正統性を理論づけた法律家として知られるが、もともとは美濃部の教え子で、後継者と目されていた。ところが、事件が起きると学説を曲げ、天皇主権論に転向、師匠の排撃にも一役買った挙げ句、「皇孫降臨の神勅以来、天照大御神の新孫この国に君臨し給ひ、長へにわが国土および人民を統治し給ふべきことの原理が確立」(岩波『憲法略説』1942)とまで述べた。
終戦後も当初は「憲法改正の必要なし」との見解を示していたが、ある日突然(46年4月)「八月革命説」を唱えて憲法改正の必要性と新憲法の正統性を訴えた。八月革命説については「日本国憲法は欽定憲法だった!」を参照のこと。
自らの師匠を追放し、その地位に収まった挙げ句、自説を二転三転させてなお「(現行)憲法の擁護者」のスタンスをとり続けたのが宮澤だった。ほとんどフーシェ並の厚顔無恥ぶりであるが、この手の機会主義者(クズの本懐)どもが作り上げたのが戦後民主主義であることを思えば、容易に瓦解しそうなのも頷けるであろう。

【追記】
事件に際しては、検察から「起訴する」と脅されてやむなく一切の公職から身を引いた美濃部だったが、その胆力というか頑固さは凄まじいものがある。長男・亮吉(経済学者、人民戦線で弾圧、戦後都知事)の回顧によると、戦時中は吉祥寺に住んでいたが、近くに中島飛行機の工場があったため(現ICU)、頻繁に爆撃を受け、そのたびに家鳴り震動して窓ガラスが割れたが、美濃部は頑として座敷から離れようとせず、決して防空壕には入らなかったという。

posted by ケン at 12:56| Comment(2) | 学問、文学、教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月13日

修士号は論文不要だった件

【大学院、来年度から修士論文不要に 試験などで審査】
 文部科学省は26日、大学院で修士論文を作成しなくても修士号を取得できるよう省令を改正する方針を決めた。博士号取得を目指す大学院生が主な対象で、論文の代わりに専攻だけでなく関連分野も含めた幅広い知識を問う筆記試験などを課す。大学院の早い段階から専門分野に閉じこもるのを防ぎ、広い視野を持つ人材を育てる狙い。来年度から適用する。
 現在の大学院教育は、2年間の修士課程と3年間の博士課程に分かれるのが一般的。省令の大学院設置基準では修士論文を提出して審査に合格することが事実上、修士課程を修了する条件になっている。
 文科省は同基準を改正。「博士論文研究基礎力審査」と呼ぶ試験に合格すれば修士号を得られるようにする。審査は筆記と面接で、博士課程で学ぶのに必要な専門分野と関連分野の知識、研究を自力で進める力などを判定する。
 修士課程2年の春から夏に筆記、冬に面接を行うことを想定。博士課程は別の大学院に進みたい場合、入試も受ける必要がある。博士課程に進まず就職する大学院生も多いことなどから、修士論文の提出を条件とする従来方式も認める。
 修士論文を実質的に不要にするのは広い視野と能力を持った人材を育てるのが狙い。従来の修士課程は論文作成のため早い段階から特定の研究室に所属して研究テーマを絞ることが多く、博士課程を終えても産業界から「専門分野には詳しいが応用が利かず、使いにくい」と評価されてきた。
 同省は審査の導入に合わせ、修士課程の教育内容の見直しを各大学に促す。院生が分野を超えて複数の研究室で学べるようにし、専門だけでなく関連する分野の知識も身に付けさせる。将来的には5年一貫教育で博士号の取得を目指すコースを普及させたい考えだ。
 大学院設置基準の改正案については年明けにも国民から意見を募集。その結果を踏まえて来年3月までに改正したい考えだ。
(2011/10/26、日本経済新聞)

「水は低きに流れる」の典型。
5年以上前の記事になるが、自分もすっかりアカデミズムから遠ざかっていたせいか、チラとは耳にした様な気もするのだが、十分認識していなかったので掲載しておく。
現実に基準を合わせると、理想が瓦解する。考えてみれば、自分などが修士課程を修了できた時点で、いずれこうなることは避けられなかったのかもしれないが。
自分が入院した際に、最初に教わったのは、「修士課程で学術論文の読み方と書き方を覚え、博士課程で論文作成を実践する」だったが、あれは一体なんだったのか・・・・・・

確かに現実には、修士学生を水増しした結果、特に留学生の論文など「日本語として読めればまだマシ」というレベルで、そもそも学術論文の形式すら成立していない、学部の卒論レベルにすら達していない感想文水準のものが横行していた。
私が在籍したのは、一応国立の一流大学と言われるところだったので、まだマシな状況にあったが、同時期あるいは後日相談された私立大学の場合、「六大学」級ですら、日本人学生の「論文」が学術論文の形式を満たしておらず、先行研究すら十分に把握されておらず、とても読めたものでないことに驚かされた。しかも、それが平均、一般的と言われ、「終わっているな、どうしてこんな事態になったのか」と思ったものだった。
修士レベルの論文など、「先行研究が適切に追えていれば7、8割完成」と言われるくらいで、形式と手順さえ教えてやれば、「(大学院に入る頭脳があれば)誰にでもできる」と思っていたのだが、どうもそうではなかったらしい。

とはいえ、考えてみれば、私の時代でも院生と留学生が水増しされたせいで、「教授1人に院生と留学生10人」などという状態が当然のように存在していた。かつては「教授1人に博士課程1人、修正課程1〜2人」程度が普通であったのだから、単純に考えて、3分の1以下に水で薄められていると見るべきなのだろう。そうなると、教授が指導できる部分などごくわずかとなり、文字通り形式と手順だけ示して、「あとは自分でやってくれ」と言うしかなくなる。私などは、他の同期や後輩の院生の指導までさせられていたが、殆ど「新兵が新兵の教導を行う」ような話だった。
国立の一流大であれだったのだから、「他は推して知るべし」だったのだろう。

そう考えれば、「基準を現実に合わせる」として、論文審査を廃止するのは現実的な対応なのかもしれない。だが、これは「受験科目に英語があるため、志願者が陸士に流れてしまう」として「英語廃止」を主張した海軍軍人と同じ過ちを犯している。司法試験を緩和して弁護士を増やした結果がどうなったかを想像しても良い。
だが、院生と留学生の水増しは、そもそも大学側の財政事情と、文科官僚の「関東軍的発想」に起因する合成の誤謬であり、高等教育行政のパラダイムシフト(中央統制の廃止)なくしては改善不可能だろう。
色々な意味で「終わっている」のかもしれない。
posted by ケン at 12:47| Comment(0) | 学問、文学、教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月11日

1、2月の読書(2017)

ロシア革命100周年ということで、色々な本が出ているみたいだけど、まずは様子見。

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『超予測力:不確実な時代の先を読む10カ条』 フィリップ・E・ テトロック、ダン・ ガードナー 早川書房(2016)

既出

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『人質の経済学』 ロレッタ ナポリオーニ 文藝春秋社(2016)
「欧州難民問題の構図」の元ネタ。犯罪、テロと見られがちな人質誘拐を「ビジネス」「経済」の視点から解析する意欲的な一冊。少なくとも「経済学」ではないのだが、ジャーナリズムを重視しつつもセンセーショナルに傾斜することなく、中東・アフリカの貧困が誘拐や海賊をビジネスとして成立させ、欧米の対応がそれを加速させている事実を淡々と指摘してゆく。ジハーディストの資金源がどのように形成されているか、実は米欧も「一蓮托生」であることなど、非常に納得度の高い一冊に仕上がっている。特にGMT「ラビリンス−テロ戦争」のプレイヤーは必読。

『データの見えざる手: ウエアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則』 矢野和男 草思社(2014)
身体に装着して人の行動の様々なデータを恒常的に計測する「ウエアラブルセンサ」を用いて収集したビッグデータを解析することで、行動経済学や心理学などで仮説とされたものを立証してゆく。「人は効率的に時間を使えるのか」「職場の生産性を高める要素は何か」「従業員は何によって幸福を担保されるのか」など、それぞれ回答は意外であったり、陳腐だったりするわけだが、科学的データを用いて説明しているので、一定の説得力がある。だが、「科学、科学」と言われると、逆に胡散臭く聞こえてしまうところがあり、ナゾである。

『ベトナム戦争―誤算と誤解の戦場』 松岡完 中公新書(2001)
ベトナム戦争を最新の視点からシミュレートしたGMT「Fire in the Lake」を購入しようとしたところ品切れだったので、できるだけ新しい解説書を読んでおこうと思った次第。ベトナム戦争終結から40年以上経ち、日本では完全に風化が進み、特に冷戦後などに公開された新資料が膨大にあるにもかかわらず、それを用いた研究は多くない。本書はその貴重な一冊で、良いバランスでまとめられており、「おさらい」を兼ねて最良の選択と言えそう。ただ、著者は冷戦研究者のようなのだが、かなり米国寄りの視点になってしまっており、今どきスターリンを「独裁者」などと書いてしまっているのは、ソ連学徒として噴飯ものだ。

『考証 日ソ中立条約』 ボリス・スラヴィンスキー 岩波書店(1996)
グラスノスチとソ連崩壊を経て(一時的に)公開されたソ連の外交文書を駆使して書かれた、主にソ連側から見た日ソ中立条約の研究。格別な新事実や驚きがあるわけではないが、ソ連側当時者たちの生々しい発言や思考が確認できると同時に、日本側の外交担当者がいかに(バレバレの)二枚舌を駆使して条約締結と維持に努めたかが良く分かる。日ソともに1941年春期の国益を追求した結果、条約締結に至っただけの話で、ソ連側としては日米が開戦して日本が敗勢に至るまで、日本による条約破棄、極東侵攻をずっと警戒し続けていたことが実感できて興味深かった。
posted by ケン at 13:00| Comment(0) | 学問、文学、教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする