2015年06月15日

人文学部廃止は現代の焚書坑儒か

【その学部、本当に必要? 全国立大に見直し通知、文科省】
 文部科学省は8日、全86の国立大学に、既存の学部などを見直すよう通知した。主に文学部や社会学部など人文社会系の学部と大学院について、社会に必要とされる人材を育てられていなければ、廃止や分野の転換の検討を求めた。国立大に投入される税金を、ニーズがある分野に集中させるのが狙いだ。
 国立大には、法人化された2004年度以降、6年ごとに「中期目標」を作って文科省に提出する義務がある。6月末が16年度からの目標案の提出期限で、大学の認可を受けるには、目標が通知の趣旨に沿っている必要がある。
 通知は「特に教員養成系や人文社会科学系学部・大学院は、組織の廃止や社会的要請の高い分野に転換する」ことを求めた。例えば、人文社会系の卒業生の多くがサラリーマンになるという実績を踏まえ、大学は地元で必要とされている職種を把握。需要にあった人材を育てる学部に転換するなどといった想定だ。
(朝日新聞、6月8日)

焚書坑儒は、秦の始皇帝が郡県制を始めとする改革に反対する儒者に対する弾圧に端を発したもので、後に規模が拡大して反体制派に対する大粛清となった。粛清が激化すると、弾圧対象は人から思想そのものに移り、国庫にある書物はおろか、人民が所有する書物まで供出させられて焼き払われた。その際、国に奉仕する医学、農学、卜占の関係書のみは例外とされ、焚書を免れた(挟書律)。ナチス・ドイツも「ドイツのためにならない」書物の排除を進めた。

これらに共通するのは、国家が「役に立つもの」と「役に立たないもの」を選別、後者を徹底的に排除する点で、要は批判勢力を根絶やしにするのが狙いなのだ。
すでに国立大学の中枢は、文科省の天下り官僚が主導権を握って改革を進めており、教授会などの権限はほぼ無効化されている。そのため、今では文科省が通知を出せば、いかなる内容のものでも殆ど抵抗なく全て実施される見込みだ。教授会という抵抗拠点こそ潰したものの、抵抗者そのものはまだ残っているため(かなりの数の教員がすでに辞めている)、最終的な排除を試みるつもりなのだろう。治安維持法で共産党を禁止しただけでは足りなく、全ての党員やシンパまで刈り尽くそうとした戦前と酷似している。

国立大学に人文社会学部を置かず、理工系と医学部のみを認めるというのは、国家(日本政府)が人文社会科学系統の学問に価値を認めず、国家と産業に奉仕する学問のみ存在を許すという価値観を抱いていることを示している。人文社会科学の本質は「現存するものを疑う」ことにあり、権力者からすれば自らの存在を否定しかねない学問であるため、常に緊張関係にあった。故に、学問の自由と大学の自治は、もともと権力の介入を想定してのものだった。現に戦前の滝川事件や天皇機関説事件などで国家権力が介入、リベラルアーツが弾圧されたため、ポツダム宣言を履行する形で現行憲法第23条の「学問の自由」が成立している。その意味では、日本は高等教育政策でも「戦後レジームの打破」が進んでいると言えよう。

「国立大学だけで私立大学には人文社会が残るから問題ない」という意見はあるだろう。だが、学費や(特に地方の)アクセスの良さという点で、国立大学の優位性は免れず、今後リベラルアーツを学びたい者は私立大学に行くしかなくなるというのは望ましくない。また、国立大学(のみ)から人文社会系の教員や教員候補(博士課程)が排除され、私立大学に丸投げされるというのは、学問のバランスを大いに欠くものと言える。公立大学の存在意義をもう一度問い直すべきだ。

国立大学が職業学校に転化するくらいならば、そもそも国立大学を廃止して全て私立大学にして、国家介入を完全に排する方がまだマシだろう。
いや、つくづくこんな時代に自分や自分の子どもが生まれないで良かったと思う。

【追記】
あ、私大も私学助成金をもらっているからやっぱり政府の支配下に入らざるを得ないのか。私大の入学式に日章旗が掲げられて「君が代」(天皇賛歌)が斉唱される日は意外とすぐそこまで来ているのかもしれない。
posted by ケン at 12:30| Comment(5) | 学問、文学、教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月05日

5月の読書記録(2015)

計画を出す前に月が終わってしまった(笑)ので、記録ということで。
連休中はしっかり休め、鍼療養も終わって、肉体的にも精神的にも平常運転に戻った感じ。暑さが本格化する前に難易度高めの本を読んでおくことが今後の課題か。

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『長篠合戦と武田勝頼』 平山優 吉川弘文館(2014)
既出。お薦め。

『新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い』 白峰旬 宮帯出版社(2014)
関ヶ原戦役は、知名度の割に本格的な研究が少なく、既存のイメージが支配している。有名過ぎることが逆に研究者を忌避させているのかもしれない。だが、現代の我々がイメージする関ヶ原像は、すべて江戸中期以降に書かれた軍記物などを参考にしており、同じくそれに基づいて記された明治陸軍の研究によって定説化してしまった。本書は実際に戦役に参加した者や同時代人が記した文書を重視、比較することで、史実の再発見を試みている。特に参戦者たちの報告や回顧では、開戦とほぼ同時に小早川勢が寝返って、正午くらいには石田陣営が敗走していたことになっており、世に知られる「問鉄砲」が江戸中期以降の創作であったことはほぼ間違いないとしている。また、どうやら島津勢も最初から戦闘に参加していたようで、世に言う「敵中突破」は戦闘中の判断だったらしい。部隊の初期配置についても、定説は微妙に間違っているところがあるようだ。今後はゲームにも訂正が求められるかもしれない。そして、当時の一次文書にはどちらも相手を「敵」としており、特に自らの正統性を誇示するような表現はなされておらず、徳川史観の支配力の強さが際立っている。ただ、全体的には分量が少なく、いくつかの論点が強調されているのみなので、マニア以外にはお薦めできない。

『多数決を疑う−社会的選択理論とは何か』 坂井豊貴 岩波新書(2015)
「一人一票の多数決で決めているから民主的」というのは硬直化した形式主義である。例えば12人の小さな理事会で理事長選が行われ、3人が立候補したとする。投票の結果、A5票、B4票、C3票となり、Aが当選した。確かに形式的には問題ないが、それとBやCの支持者が納得するかは別問題だからだ。民主主義の形式ばかりが重視され、担い手の制度に対する信頼や当事者意識が低下しているのが、現代日本の姿では無いか。本書は、意思決定と民意集約のあり方を検証し、多様な仕組みとその原理について解説する。一部統計学の知識が無いと厳しいものがあるが、問題提起としては私が常々疑問に思っていたことを明快に説明してくれたので、非常に役立っている。

『ゴルバチョフが語る 冷戦終結の真実と21世紀の危機』 山内聡彦 NHK出版新書(2015)
番組を見ていないので最終的な評価は下せないものの、現在のウクライナ問題やNATO問題も絡んでいるだけに、当事者たちの「証言」はやや恣意的、あるいは誘導的なものがあり、この分野を研究している者からすると「ご都合主義的」な印象を受ける。これなら素直にゴルバチョフ回顧録を読んだ方が、当時の当時者の思いや考えが伝わる。
posted by ケン at 12:25| Comment(2) | 学問、文学、教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月16日

3、4月の読書計画(2015)

2月に少し盛りすぎたことと、やや気力が低下していたこともあり、積み残しがあるため、今月は控えめにしたいと思うが、4月には統一自治体選挙で地元に寄騎することになりそうなので、今のうちに可能な限り読み進めておきたい。

『イスラム戦争 中東崩壊と欧米の敗北』 内藤正典 集英社(2015)
昨今のイスラム国を中心とする中東紛争の深層を、特にイスラムの視点と論理を交えながら明快に説明してくれる好著。人質事件を経て同様の解説本が山のように発刊されているものの、その大半はやはり米欧視点からの解説であり、19世紀の植民地主義の発想の域を出ない。だが、本書は米欧の近代主義と中東のイスラム主義(原理主義ではない)を相対化し、近代主義を絶対視すること無く、問題の本質を浮かび上がらせている。近代の論理(進歩主義と資本主義)を絶対視する視点からは、「遅れた文明を教化するためには侵略は正当化される」という結論しか出てこないことを、我々は認識しなければならない。

『華北戦記 中国であったほんとうの戦争』 桑島節郎 朝日文庫(1997)
既出

『経済政策で人は死ぬか? 公衆衛生学から見た不況対策』 デヴィッド・スタックラー、サンジェイ・バス 草思社(2014)
公衆衛生の視点から緊縮財政が市民の健康にどのような影響を与えるかを検証する。特にソ連崩壊後のロシアについては、私自身が同時期に滞在していただけに、身につまされる思いだ。同時期に体制転換したポーランド、チェコ、ハンガリーなどでは「ショック療法」が採用されず、緩やかに改革が進められた結果、少なくとも平均寿命がガタ落ちするようなことは無かった。借金が1千兆円を超え、国家予算が税収の2倍に達する日本は全く人ごとではない。

『21世紀の貨幣論』 フェリックス・マーティン 東洋経済新報社(2014)
貨幣論の視点から世界史を見直しつつ、貨幣に対する価値観の変遷と揺らぎを考察する。だが、その本質は現代の正統派経済学への懐疑と言える。貨幣論好きの私にはたまらない一冊だが、少し話が大きすぎる気もする。ただ、私も米ドル、豪ドル、金などを運用しており、現代資本主義の落日における「マネー」に対する考え方が揺らいでいることを実感している。

『毛沢東の朝鮮戦争―中国が鴨緑江を渡るまで』 朱建栄 岩波現代文庫(2004)
先年、中国で(ダブル)スパイ容疑で検束された朱建栄先生の代表作。朝鮮戦争に参戦する中国共産党内部の意志決定過程を検証する。国共内戦で疲弊した国内を抱え、軍部が猛反対、ソ連が協力を拒否する中で、毛沢東が介入の意志を貫徹して行く過程を緻密に描いている。なぜか内部資料がふんだんに使われ、周恩来秘書や参謀本部の情報将校などの生き残りに対するインタビューも充実しており、「共産党体制下で良くここまで調べられるな」というのが率直な感想。私は中国の専門家では無いが、いつか他の研究も見て、ブログの記事にしたいと思っている。
posted by ケン at 12:51| Comment(2) | 学問、文学、教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月06日

2月の読書計画(2015)

仕事と原稿でなかなか多忙で休日に真面目な本を読む精神的余裕がないのだが、まぁこの程度は読んでおきたい。けど、どうにも気が乗らないというか・・・・・・

『日本軍の治安戦 日中戦争の実相』 笠原十九司 岩波書店(2010)
華北を中心に実施された対ゲリラ戦は、二次大戦における最も陰惨な戦場の1つだったと考えられるが、現代日本では殆ど知られることなく、教わることも無い。それどころか、日本で研究に従事する人も殆どおらず、著者は「中共の手先」扱いされる始末。しかし、治安戦の実態を知らないと中国における「反日」の根っこの部分が理解できない。南京事件だけでは日中戦争を知るには不十分すぎるのだ。

『特高警察』 荻野富士夫 岩波書店(2012)
特高も戦前日本の最暗部ということで学術研究が進んでおらず、数少ない概説書になっているが、最新の研究成果を簡潔にまとめており、新書一冊で概要を把握できるのは嬉しい。伯父に特高刑事を持つ身としても正面から向き合う必要がある。

『「特高」経験者として伝えたいこと』 井形正寿 新日本出版社(2011)
就職した会社への不満と兵役を逃れたい気持ちから大阪県警を受験し、警察官になったはいいものの、文学部卒ということで思想警察である特高に配属されてしまった著者の回顧録。今の警察と同じで、「業績」を上げるために体制・戦争批判へと誘導するような行為が横行していたことが赤裸々に書かれている。NK党の出版社であることを差し引いても一読に値する。

『食糧の帝国 食物が決定づけた文明の勃興と崩壊』 エヴァン・D・G・フレイザー他 太田出版(2013)
文明が余剰食糧の質・量とともに発展し、その衰退が水不足と土壌劣化に起因した歴史を概観する。化学肥料には限界があり、農地の代替地も殆ど無い現状を憂うと共に、代替案を提示する興味深い一冊。

『戦国の交渉人』 渡邊大門 歴史新書 洋泉社(2011)
最近再評価されつつある安国寺恵瓊の評伝。備中高松城で清水宗治に自害を強要したとするエピソードは後世の軍記物にしかなく、当時の資料を見る限り疑問が多いといった最新の研究成果が反映されており、公正な視点で有能な外交僧としての恵瓊が描かれている。想像以上のタフネゴシエーターで、羽柴・毛利戦争の和睦には1年半もかけ、羽柴陣営の5カ国割譲要求を半分近くまで減じるなどの成果を挙げている。
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2015年01月21日

1月の読書(2015)

年末年始に風邪を引き、その後は代表選挙で忙しくしていたので、とりあえず薄めの本ばかりになっているが、次に何を読むかはまだ決まっていない。しばらくは以前読もうとして読めていないものに取り組むことになりそう。

『ヒトラー演説−熱狂の真実』 高田博行 中公新書(2014)
ヒトラーの演説を計量言語分析を中心に解析し、その演説内容と手法の変遷とナチスの盛衰の関係を探る良書。歴史学者とは異なる視点からの分析はなかなか斬新。一般的にはヒトラーの演説がドイツ国民を熱狂させて侵略と排外主義を激化させていったイメージが先行してしまうが、常に熱狂させていたわけではなく、ラジオを駆使して全国民に強制的に聞かせる頃にはかなり飽きられていたことが分かる。親衛隊保安部が演説に対する大衆の反応を報告しているが、これがなかなか率直で面白い。当時ヒトラーは「独裁」を「より高次の民主主義」、「戦争準備」を「平和の確保」、非武装地帯への進駐を「将来の平和のための駐屯」などと言い換えており、この辺のレトリックは現代の安倍総理にも通じるので、ますます興味深い。

『国家と秘密 隠される文書』 久保亨・瀬畑源 集英社新書(2014)
我々の勉強会のテキスト。著者のブログは一昨年の国会で秘密保護法の質問をつくる時に参考にさせてもらったことがある。200ページに満たない分量が玉に瑕ではあるが、日本の公文書管理のあまりにものレベルの低さを理解するには十分だろう。要は官僚はやる気ないし、国会議員は重要性を理解していないということか。

『スターリニズムの経験 市民の手紙・日記・回想録から』 松井康浩 岩波現代全書(2014)
スターリン体制下におけるソヴィエト市民の手紙や日記を検証、市民が何を考えて、何に価値の重きを置いて行動していたかを探る。身近に大テロルに遭遇したかどうかでかなり感じ方が異なるようだし、フルシチョフ以降は西側で信じられているほど不自由では無かったことが分かる。分量のせいだろうが、解説部分の方が多くて、実際の日記の紹介が少ないところが惜しい。

『陸軍贋幣作戦―計画・実行者が明かす日中戦秘話』 山本憲蔵 徳間書店(1984)
先に紹介した「杉工作」における偽札製造の責任者の回顧録。今日であれば歴史修正主義の対象にされそうだが、陸軍の暗黒面を冷静に回顧している貴重な一冊。製造責任者の視点であるため、頒布・流通部分の記述が薄いのは惜しいが、回顧録だから致し方ないか。

『努力不要論』 中野信子 フォレスト出版(2014)
脳科学者が「頑張ればきっと報われる」定理の虚構を暴く。要は才能や能力のあるものが効率的にスキルアップするからこそ効果があるのであって、努力自体が成功を担保するわけではないが、世の中は一つのケースを拡大適用する成功本で溢れているという話。ま、そりゃそうだわな、という感じ。

『クルスク大戦車戦−独ソ機甲部隊の史上最大の激突』 山崎雅弘 光人社NF文庫(2014)
既出
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2014年12月26日

年末年始向けにお薦め本(2014)

新聞を見ていると「今年一年のお薦め本」みたいな特集が組まれているので、私もチャレンジしてみようと思う。一昨年末に読んだものも入ってしまうが、そこは許されたい。

【一般書籍】
『サンフランシスコ平和条約の盲点 アジア太平洋地域の冷戦と「戦後未解決の諸問題」』 原貴美恵 渓水社(2012)
現代日本が抱える領土・国境の諸問題の起源をサンフランシスコ講和条約に求め、冷戦をめぐる諸国間対立の中で戦後処理が歪められた経緯を明らかにする。連合国各国の公文書から講和条約の草案を当たり、原因と過程を追究している。こういう研究は日本ではできず、やはり欧米の公文書館に頼らざるを得ない点でも、日本のデモクラシーや自由の程度がうかがわれる。中でも同条約の策定過程で当初は島嶼を含む領土の線引きが明確になされていたものが、冷戦の本格化に伴って米国の意図によって領土帰属の不明確化がなされ、敢えて共産諸国との紛争原因が残された経緯は非常に重要。戦後の領土問題を扱う時の基礎文献の一つと考えて良い。

『日中戦争への道 満蒙華北問題と衝突への分岐点』 大杉一雄 講談社学術文庫(2007)
満州国の成立から日華事変・日中戦争に至る経緯を再検証する。代々木史観や右派史観に対して批判的であり、軍部の一部による華北侵略の意図を肯定しつつ、軍中央や政府要人が制御に失敗し、マスコミや世論も戦争・侵略熱に煽られ、中国蔑視に突き進む過程を明らかにしている。それでもいくつかの地点で日中和解や日米英の宥和を実現する機会があったと指摘、石橋湛山の戦略眼とともに考えさせられる。このテーマはどうしてもイデオロギーに左右されがちなだけに、納得できるものが少なかったが、現時点で最も信頼できる一冊と言えよう。

『内務省対占領軍』 草柳大蔵 朝日文庫(1987)
右派系ジャーナリストによるノンフィクションと言える作品で、GHQ支配に否定的なスタンスから書かれている。基本的には「GHQの横暴な占領政策に対して内務省が国家の自立と名誉を守るために如何に頑張ったか」というトーンではあるのだが、内容も背景知識も充実しており、批判的に読みながらもすこぶる面白い。充実した取材を反映して、当事者たちの心の叫びのようなものが良く伝わってくるので、研究書では分からない当時の雰囲気を知るには最適な一冊と言える。

『日清戦争 近代日本初の対外戦争の実像』 大谷正 中公新書(2014)
ネット上ではネトウヨによって酷い評価が付されてしまい、気の毒なことになっているが、立派な専門家による最新の通史である。日露戦争に比して日清戦争は研究の数も少なく、通史に至っては非常に古いものか、学術的なものしかなく、最新の研究を反映した手軽な通史の出版が待たれていた。本書は特に開戦に至るまでの清と日本の対朝鮮政策について十分なページを割いて、日本で流布されてきた公式通史や俗説を批判的に検証しており、これが右翼どもの逆鱗に触れているらしい。同様に少し前に刊行されている原田氏による通史も酷評されているが、近現代史を再検証する環境が徐々に厳しくなってきていることを示唆している。日露戦争については従来信じられてきた「日本はロシアの侵略行為に対してやむにやまれず立ち上がった」という伝説に少しずつ疑問符が付けられるようになっているが、日清戦争についてはいまだ無関心の域を出ていない。
参照日清戦争の「勝利」を検証する 

『最悪の戦場に奇蹟はなかった―ガダルカナル、インパール戦記』 高崎伝 光人社NF文庫(2007)
スレッジの『ペリリュー・沖縄戦記』を化学実験の精緻報告とすれば、本書は大衆演劇的な軍隊小説のノリ。表題の通り、ガダルカナルとインパールという15年戦争の中でも二大双璧と言える地獄の両方に投げ込まれ、文字通り万死に一生を得て生還する話なのだが、文章は軽妙洒脱で「兵隊やくざ」的な語り口なので、勝手に想像していた陰惨極まりないというイメージは無く、その点ではいささか拍子抜けさせられた。クドカンが一兵卒として軍に入って回顧録を書いたらこんな感じかもしれないというノリと文才。学歴こそないかもしれないが、500ページ近い大著を一気に読ませるものがある。
生き残ったにはワケがあって、戦闘シーンはわずかで、大半が敗走と飢餓との闘いで、戦記物というよりも「戦場サバイバルもの」という印象を受けた。そのサバイバルも食糧をいかにして「調達」するかという話が殆どで、後方での療養中や捕虜収容所での話でも食べ物の話が非常に多いが、これは生還者たちの正直な実感なのだろうし、生存欲求の根幹が強いことが生存確率を高めるのではなかろうか。著者は部隊における調達(かっぱらい?)名人を自認しているが、本書を読むと軍隊において最も重宝されるのは戦闘能力ではなく、物資調達能力であることが良く分かる。

【マンガ、ラノベ】
『遙か凍土のカナン』 芝村裕吏 星海社 既刊4巻

『ガンパレード・マーチ』『マージナル・オペレーション』の芝村氏の新作。
物語は日露戦争から始まる。主人公は、秋山好古配下の日本騎兵として黒溝台の戦いでロシア騎兵と死闘を演じるが、負傷して帰国する。戦後、物足りなさを感じる日常を過ごしているところに、ロシア帝室からの叙勲の知らせが届くと同時に、全く身に覚えの無い金髪の美少女が現れる。そして、内務省からは「女に協力して極東にコサック国家を建設せよ」との密令が下るのだった・・・・・・
軍事に限らず、歴史や民俗についても最新の知見が反映されており、中央アジアやロシアの描写についても納得度の高いものになっている。萌え要素も十分で残り3巻も非常に楽しみだ。

『ヴィンランド・サガ』 幸村誠 講談社(既刊15巻)
幸村誠氏の『ヴィンランド・サガ』は現代に蘇ったリアル・ヴァイキングの話である。
11世紀初めのヨーロッパを舞台とするが、その範囲は広く、アイスランド、フェロー諸島、イングランド、ウェールズ、ユトランド半島、スカンジナヴィア半島といった具合で、世界地図で確認しないとついて行けないほどだ。実際にはヴァイキングの活動範囲は地中海から黒海を経て、カスピ海にまで至っており、キエフ大公国を創設、十字軍にまで参戦しているのだから、ヨーロッパ外にまで及んでいた。また、最新の歴史学では欧州人で初めて北米大陸に渡ったのもヴァイキングとされつつある。
本作は、アイスランドの半漁半牧の家に生まれた子どもがある切っ掛けを経てヴァイキングの戦奴となってイングランドを暴れ回り、次いで戦奴から農奴として売られてデンマークで開墾に従事する話で、今はさらに新天地に向かおうというところまで来ている。
その描写は『ベルセルク』を思わせるリアルな残虐さがあると同時に、『忍者武芸帖』や『カムイ伝』に通じる重厚なストーリーがある。戦奴編と農奴編では全く違うマンガのように見えて、根底にある中世の暴力性と新奇性は共通しており、全体の整合性に違和感は無い。また、歴史研究の成果が反映されているため、キリスト教の扱い、奴隷の扱い、農業と掠奪の描き方など、納得度の高い作品に仕上がっている。
王侯貴族の視点から見た俯瞰図ではなく、一奴隷から見た断片図でしかないにもかかわらず、サーガと呼ぶに相応しい壮大さがあり、見事としか言いようがない。ただ、残虐表現が苦手な人には厳しいかもしれないところが難点と言える。

『GROUNDLESS-隻眼の狙撃兵-』 影待蛍太 双葉社(既刊3巻)
元はWEB漫画で画は「それなり」なのだが、内容はなかなかにシビアで軍事考証もしっかりなされており、読み応えがある。夫を殺害され、商家を滅ぼされた妻が復讐すべく、自警団に入って狙撃兵となる話。やや冗長で説明が多い気はするが、孤立した空間における武力と食糧の価値、民兵と職業軍の違い、アウトレンジから一方的に撃たれる恐怖感など良く描かれており、先の展開が楽しみ。
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2014年11月27日

忠義とロイヤリティA補

「犬の忠義」を全兵士、全国民に強要し、一切生命を顧みなかったのが十五年戦争期の戦争指導部だった。玉砕命令を受けて生き残った兵士は「不名誉者」として扱われ、自死か再玉砕を強要された。一族から敵の捕虜を出した家は「国賊」として村八分にされ、家族まで徹底的に差別された。兵と国民に死を強要する一方で、肝心の指導部からは敵前逃亡や捕虜(逮捕)が続出した。
こうした「伝統」は今日まで受け継がれ、無制限(かつ残業代ゼロ)の「サービス残業」が横行、これを拒否する者は経営者や上司から侮蔑されたり、解雇されたりするも、それが許容される社会になっている。挙げ句の果てには、労災申請や内部告発を行うと社会的に排撃される風潮すらある。
ところが日本には、こうした権威主義、非合理主義とは一線を画す系譜もまた存在した。陸軍中野学校である。

私の伯父は、陸軍幼年学校から士官学校に進み、ロシア語を専攻していたこともあって、どこかの時点で中野学校への入校を命じられた。中野学校は日華事変勃発に伴い、謀略戦・情報戦のエキスパートを養成するために設立された機関で、後には対米本土決戦を視野にゲリラ戦の要員育成も担った。ルバング島で遊撃戦を指揮し、終戦を経てなお30年近くにわたって潜伏し続けた小野田寛郎は、最も有名な卒業生だろう。
中野学校は「スパイ養成校」として一般教養、外国語から情報戦や謀略術まで教えていたが、その特色はむしろ「戦時下にもかかわらず自由な校風」にあった。図書室には当時すでに禁書であったマルクス主義や民主主義の本が並び、大学風のゼミでは天皇制の是非まで議論されたほどだった。その目的は「世界のどこにあっても諜報者として働ける頭脳と柔軟性」を育成することにあった。逆を言えば、陸軍の首脳部は、自分が行っている軍人教育が世界に通じない硬直した精神を育てていることに対して自覚的だったことになる。伯父も戦時下にあって、陸軍軍人でありながら背広に長髪という出で立ちで「出勤」していたので、家人も「一体何をしにどこに行っているのか?」と思っていたという。
中野学校では、「生きて虜囚の辱を受けず」という軍のモットーは否定され、「たとえ国賊の汚名を着ても、どんな生き恥をさらしてでも生き延びよ。できる限り生きて任務を遂行するのが中野魂」と教えていた。たとえ捕虜になっても、情報収集、偽情報の流布、収容所の反乱煽動など、できることは山ほどあり、どのような状況下にあっても生き残ることが最優先であるとされた。
学校の雰囲気は『Dの魔王』を参照されたい。

こうした校風ゆえに、入校者にはちゃきちゃきの陸軍軍人は少なく、大卒や高専卒が9割近くを占めたという。それだけに幼年学校から士官学校を出ている伯父は異端中の異端だったに違いない。
中野学校を出た伯父は、戦争末期に関東軍参謀二課(情報部)に配属された。私がこれまで聞いたところでは、関東軍主力が通化を目指して退却した後も新京に残って、機密文書廃棄や残務処理をした後、単身満州平原と朝鮮半島を徒歩で踏破して本土に帰還したということになっていて、それだけでも伝説だったのだが、真実はもっと「事実は小説よりも奇なり」だった。
実際の伯父は、新京を出た後、朝鮮商人に身をやつしながら、ソ連軍の戦線をすり抜けて後方に出た後、ひたすら東に向かって歩き、ウスリー川を渡ってウラジオストクに出て、どんな手段を使ってか日本行きの船に乗り込んで、そのまま帰ってきてしまったという。従って、他の復員兵よりもよほど早い、9月中頃には東京に戻っていて、「あれ?満州にいたんじゃないですか?」と亡霊でも見たかのように言われたとのこと。
確かに合理的に考えれば、ロシア語ができるのだから、南下するソ連軍をスルーして戦線の後方に出てしまった方が安全なことは間違いない。だが、実際にその決断が出来るかと言われれば、99.9%の人は南下を選ぶだろう。
さらに言えば、シベリア抑留の観点からしても、満州でソ連軍に捕捉されていたら抑留されていただろうが、「民間人」としてソ連領内に入ってしまったが故に、逆に日本への帰国船に乗り込むことができたのだ。

中野学校の教えの通り、「生き残って帰る」ことを優先させた伯父は、戦後国会図書館の職員として対ソ諜報に従事、国会議員団が訪ソする際には通訳を務めた。「必ず生きて祖国に献身する」という中野学校の精神を最期まで守ったのだ。
面白いことに、幼年学校上がりのゴリゴリの陸軍軍人だったにもかかわらず、60年代の学生運動に参加した父が逮捕されて警察署に保証人として迎えに行った際にも、非難がましいことは一切言わなかったという。これも「中野魂」の一つの表れかもしれない。

中野学校の精神が軍全体を占めていたら、特攻や玉砕が行われることはなかったと想像されるだけに、極めてマイナーな一セクションに留まってしまったことは返す返すも惜しい限りだ。そして、中野学校の近代合理主義は忘れ去られ、権威主義と非合理主義が戦後社会の主流を占め続け、現代もなお日本人を苦しめ続けている。中野学校は今も「伝説」に過ぎないと言えよう。

【追記】
伯父上がもう15年生きていてくれれば、話を聞いて小説&映画にしたのだが、あまりにも惜しすぎる。
posted by ケン at 12:52| Comment(0) | 学問、文学、教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする