2015年08月12日

8月の読書計画(2015)

完全に夏バテ・モードの上、国会会期中でお盆休みも2日だけなので、どこまで読めるかは分からないけれど。

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『コマンド・カルチャー 米独将校教育の比較文化史』イエルク・ムート 中央公論新社(2015)参謀本部の歴史を語るものはあまたあれど、士官教育の全容を記したものは意外と少ない。しかも、米独の士官学校を比較しているので、非常に興味深い。我々はつい、「敗北したドイツと勝利したアメリカ」という視点から先入観を抱いてしまうが、実態はかなり異なるようだ。ドイツの将校教育を模しつつも、民主国家で成立した米士官学校が、非常に硬直的で閉鎖的な教育に終始したのに対し、保守的で権威主義なはずのドイツの士官学校が実践的で一定の自由が保障されていたという。

『ロシア革命と日本人』 菊池昌典 筑摩書房(1973)
当時の日本人がロシア革命をいかに評価し、それに続くシベリア出兵についてどのような議論を交わしたのか、を検証した貴重な一冊。シベリア出兵に際して政府は正当性の証明に難儀するが、結局のところ「人道的出兵」「日英同盟の義務」「東洋平和の護持」という説明をなした。昨今の海外派兵をめぐる議論と非常に論点がかぶっており、興味深い。

『シベリア出兵従軍記』 高島米吉 無明舎出版(2004)
「日刊山形」の従軍記者が書き残した記事や手記、スケッチを子孫がまとめたもの。シベリア出兵の当時者の一次資料は殆ど出版されておらず、貴重な一冊と言える。

『GHQの検閲・諜報・宣伝工作』 山本武利 岩波現代全書(2013)
連合軍による占領直後から内務省に替わって行われたGHQ検閲の実態に迫る。日本では、占領解除直前に大量の証拠が廃棄されたものの、米国立公文書館に残された資料から検閲組織と構造を探っている。また、緒方竹虎や永井荷風などの日本人がどのように関わっていったかも明らかにしている。分量的にはやや物足りないものの、「民主化支援」から「赤狩り」に至る経緯から、反米宣伝の取り締まりと親米宣伝の推進まで、興味は尽きない。占領期研究には欠かせない視点の1つ。

『坂口安吾 百歳の異端児』 出口裕弘 新潮社(2006)
先日亡くなられた出口先生の安吾論。積ん読状態だったので、この機にちゃんと読んでおこう。
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2015年06月25日

6、7月の読書計画(2015)

安保法制や労働法制などで仕事が立て込んでおり、週末にじっくり読書する余裕はないのだが、少しずつでも読んでおかないと反知性主義の大波に呑まれてしまうような危機感を覚えている。

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『シビリアンの戦争−デモクラシーが攻撃的になるとき』 三浦瑠麗 岩波書店(2012)
先に防衛省設置法が改正されて、同省のいわゆる背広組(事務官僚)と制服組(自衛官)の対等性が明記されたことを受けて、旧式左翼から「文民統制の弱体化」なる批判が聞かれる。私はこの反対論に対して異論を唱えているが、同時にソ連によるアフガニスタン介入日華事変における南京進撃を例に挙げて文民統制の限界を述べている。本書は、イスラエル、イギリス、アメリカにおける、職業軍人の反対や慎重論を文民政治家が押し切って開始した例を検証、文民統制が決して万能では無いこと、デモクラシーにはデモクラシーの好戦性があることを立証している。三浦先生とは問題意識を共有しているようだ。勉強会のテキストにも推奨したい一冊。

『検証 長篠合戦』 平山優 吉川弘文館(2014)
先に紹介した『長篠合戦と武田勝頼』の続編で、設楽原決戦の実相について「鉄砲隊」「騎馬軍団」「軍編成のあり方」「野戦築城の実情」などの観点から、最新の研究を踏まえて再検証している。本書でも特に「甲陽軍鑑」を批判的に読み解くことで、新説の全否定論から脱却して従来説に近い分析に仕上がっているが、様々な複数の資料を比較検討することで納得度の高いものになっている。

『第一次世界大戦開戦原因の再検討』 小野塚知二・編 岩波書店(2014)
一次大戦の開戦起源について、従来の定説だった「帝国主義の相克」論に批判的検証を加えつつ、最新の研究成果を紹介、自由貿易と保護貿易、ナショナリズム、市民の戦争熱といった要素を挙げている。

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『クリミア戦争』 オーランド・ファイジズ 白水社(2015)
クリミア戦争については知らないことが多いので、黒海沿岸部がきな臭い今日、一度ちゃんと勉強しておこうかと。かなりの分量なので時間が掛かりそう。実はこのクリミア戦争も、イギリスの軍部が開戦に反対していたのを、保守党が選挙対策のために利用して開戦に持ち込んだり、ロシアが英仏の要求を受け入れて軍を引いたにもかかわらず、英仏が要求水準を引き上げたため戦争が長期化したなど、現代に通じる課題を多く秘めていることが分かる。

『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる 日本人への警告』 エマニュエル・トッド 文春新書(2015)
トッド氏の翻訳物は読みづらいので忌避しているのだが、本書はインタビューを文字化したものなので簡単に読める。要はEUとはドイツによる新たなる帝国支配であり、ドイツが欧州諸国を従えてロシアと相克を演じているという読み方がなされている。つい「ドイツ嫌いのフランス人のやっかみ」と思ってしまいそうになるが、「なるほど」と思うところもあり、欧州を見る視点の1つとしては抑えておきたいところ。まぁ単一通貨を導入した時点で経済大国が主導権を握るのは避けられないということか。

『新聞 資本と経営の昭和史 朝日新聞筆政・緒方竹虎の苦悩』 今西光男 朝日選書(2007)
経営面から見た朝日新聞の戦前史という感じ。同社の元記者が著者なだけに「身内びいき」を感じるところもあるが、基本的には新聞経営(経営者)と報道の自由(編集部)が常に葛藤を繰り返し、結局のところ経営側の論理が優先されて戦争・軍部支持に傾いていく過程が描かれている。満州事変の直前まで軍縮を推奨していたはずの朝日新聞が、事変を経て軍部支持に転換していく様は圧巻。特に同事変の後に開かれた部長会議で、「朝日新聞は軍部のシリを押すのか」「事変で英米を刺激し、引いては世界戦争に拡大するのではないか」「このまま軍部の独走を許すようなことをすると、日本の破滅をみるようになりはしないか」などの意見が出ていたことは、「80年前から何の進歩も無いじゃねぇか!」と思わせるに十分だ。

『イラク米軍脱走兵、真実の告白』 ジョシュア・キー 合同出版(2008)
本書は、イラク戦争における米軍脱走兵の貴重な報告である。オクラホマの貧困家庭に育ち、家族を養うために入隊を決意する。その際、陸軍のリクルーターは「戦闘任務が無い」という理由で工兵部隊を勧めるので、それに従って入隊したところ、配属されたのは最も過酷な任務を負う戦闘工兵中隊だった。イラクでは、ファルージャ戦にも参加、地雷を撤去したり敵の陣地を破壊するのでは無く、ひたすら一般市民の住居を破壊し、容赦なき家宅捜査を行い、住民を連行する任務に就き、信じていた正義とあまりにもかけ離れた残虐な任務にやがて精神が蝕まれてゆく。一時帰国した際に、離隊できないか弁護士に相談するも、「イラクに戻るか、牢屋に入るかしかない」と言われ、家族を連れてカナダに亡命することにした。
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2015年06月17日

大学にイデオロギーを強制する安倍政権

【国立大に国旗・国歌実施求める=「自主判断」強調―下村文科相】
 下村博文文部科学相は16日、東京都内で開かれた国立大学長会議で「国旗と国歌の取り扱いを適切に判断してほしい」と述べ、各大学の入学式や卒業式で国旗掲揚と国歌斉唱を行うよう要請した。国立大に対する国歌斉唱などの要請は初めて。下村氏は要請後、記者団に「法律制定から15年たち、国民意識も変わっていることを踏まえ、時代に応じた判断をお願いした」と説明。「最終的には各大学の判断で、大学の自治などには抵触しない。圧力や介入ではない」と強調した。各学長は会議後、「あくまで伝統を踏まえ判断する」「強制的との捉え方もできる。国の姿勢ではなく国際的にどうあるべきか議論する」などと反応。琉球大の大城肇学長は「これまで一度も実施していない。学内にはいろんな意見があり、難しい問題だ」と困惑気味に話した。 
(時事通信、6月16日)

ますますファッショ色を強めている安倍政権はついに大学に国旗掲揚と国歌斉唱を強制するに至った。大臣は「最終的には各大学の判断」などと言っているが、これはヤクザや金貸しが無理な要求を提示して「これはただのお願いで、決断するのはあくまでも貴方ですよ」と念押しするのと同じ構図である。国立大学が運営資金を国に依存する以上、その力関係は圧倒的に国側に有利であり、そもそも対等な関係に無い以上、一般的な「お願い」は成立し得ず、大学側からすれば「国のお願い」は国家要求に等しいからだ。だからこそ、金融業などの場合、出資法や消費者契約法などによって金を貸す側と借りる側の関係性を規制している。これに相当するのが憲法第23条の「学問の自由」だった。
日本国憲法第23条:学問の自由は、これを保障する。

実は、国際的に見た場合、憲法で学問の自由を保障している国は非常に珍しいという。それは少なくとも自由主義諸国では「当たり前すぎる」ことで明記するのも憚られる(恥ずかしい)ためなのだ。
「学問の自由」とは、本質的には、個人による真理の探究に対して国家が干渉してきた時に、これを拒否できる権利であり、憲法上は国家による学問(の場)に対する干渉禁止を意味する。
ところが、日本で初めて制定された(天皇から下賜された)帝国憲法にはこの規定が存在しなかったため、滝川事件(内乱罪や姦通罪に対する疑義提唱)、美濃部事件(天皇機関説)、矢内原事件(ミリタリズム批判)、河合栄治郎事件(フッァショ批判)などのたびに軍部や文部省の介入を許し、そのたびに教授や学生が大学を追われ、ゼミが廃止されることでその分野の研究はストップした。
実のところ、これらの戦前の事件について、国家が直接的に介入したのはせいぜいのところ滝川事件くらいのもので、残りは今回の下村大臣の「要請」レベルすら確認できるかどうかというものなのだ。つまり、右傾化あるいは軍国化した社会風潮への同調圧力から大学側が「国家による直接介入を避けるため」自主的に問題となった教員を追放していたのが実情だった(ようだ)。言い換えれば、大学側は問題化した同僚教員を自主的に追放することで、形式的に「大学の自治」を守っていたわけだが、それは結果として自らの思想や研究の自由を自分で奪っていたのだった。
なお、憲法23条が謳う「学問の自由」の英訳は「Academic freedom」であり、「何者からも拘束されない大学・研究(者)の自由」を意味する。

一連の戦前の事件から得られる教訓は、形式的に「大学の自治」が保たれても、内部者が国家の意思を汲んで自由の阻害に走ったのでは全く意味が無い、ということだった。教授会の権限が大きいのは、巨大権力に対抗するためでもあったわけだが、この間「大学改革」と称して教授会の権限が大幅に縮小されて、文科省からの天下りが経営陣に加わって「コミッサール」の役割を果たすに至り、外部権力に対抗できる勢力が失われた。そのため、国家から「要請」があった場合、それを拒否できるだけの権限が大学側にはすでに存在せず、助成金をちらつかされると、「国の要請に応えるが、あくまでも自主的に選択する形を採る」ことになる。これでは、美濃部、矢内原、河合らを追放した戦前の大学と何も変わらない。
本来であれば、「大学の自治」と「教員の身分保障と研究内容の保障」は不可分のものであるはずが、すでに「Academic freedom」の原則が崩壊していることが分かるだろう。これも安倍一派が主張する「戦後レジームの打破」の一環と言える。

確かに政府・自民党側は「今回大臣が求めたのは国旗掲揚と国歌斉唱であって、学問の自由とは関係ない」という批判をしてくるだろう。だが、1999年に国旗国歌法が審議された折、「強制するものではない」「教育現場で義務化するつもりはない」旨の答弁や談話が繰り返されたにもかかわらず、それから15年を経て全国の学校で強制されるようになり、今度は国立大学に至っている。今回の政府側の主張は、「税金が投入されている国立大学で国旗が掲揚され国歌が斉唱されるのは当然」というものだが、であるならば私学助成を受けている私立大学に対してもいずれ同じことが求められるはずである。そして、国旗と国歌を強制し、人文学部の廃止を強要する政府が、なぜ今後研究内容にまで踏み込まないと保障できるのだろうか。いや、科研費のあり方を考えれば、すでに国家が研究内容に介入しているとも言えるのである。
また、そもそも「君が代」は「帝の支配が永遠に続きますように」と祈願する呪歌であり、およそデモクラシーに相応しくない専制色の濃いものであることも付言しておく。

日本国憲法はありとあらゆる分野で浸食され、実質的な効力を失いつつある。同時に日本のデモクラシーと自由も、その実効性を失いつつある。やはり人は、失って初めて失ったものの価値を知る、ということなのだろうか。

【参考】
『言論抑圧 - 矢内原事件の構図』 将基面貴巳 中公新書(2014)
治安維持法は言論弾圧法ではなかった?! 
日本国旗・国歌の異質性 
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2015年06月15日

人文学部廃止は現代の焚書坑儒か

【その学部、本当に必要? 全国立大に見直し通知、文科省】
 文部科学省は8日、全86の国立大学に、既存の学部などを見直すよう通知した。主に文学部や社会学部など人文社会系の学部と大学院について、社会に必要とされる人材を育てられていなければ、廃止や分野の転換の検討を求めた。国立大に投入される税金を、ニーズがある分野に集中させるのが狙いだ。
 国立大には、法人化された2004年度以降、6年ごとに「中期目標」を作って文科省に提出する義務がある。6月末が16年度からの目標案の提出期限で、大学の認可を受けるには、目標が通知の趣旨に沿っている必要がある。
 通知は「特に教員養成系や人文社会科学系学部・大学院は、組織の廃止や社会的要請の高い分野に転換する」ことを求めた。例えば、人文社会系の卒業生の多くがサラリーマンになるという実績を踏まえ、大学は地元で必要とされている職種を把握。需要にあった人材を育てる学部に転換するなどといった想定だ。
(朝日新聞、6月8日)

焚書坑儒は、秦の始皇帝が郡県制を始めとする改革に反対する儒者に対する弾圧に端を発したもので、後に規模が拡大して反体制派に対する大粛清となった。粛清が激化すると、弾圧対象は人から思想そのものに移り、国庫にある書物はおろか、人民が所有する書物まで供出させられて焼き払われた。その際、国に奉仕する医学、農学、卜占の関係書のみは例外とされ、焚書を免れた(挟書律)。ナチス・ドイツも「ドイツのためにならない」書物の排除を進めた。

これらに共通するのは、国家が「役に立つもの」と「役に立たないもの」を選別、後者を徹底的に排除する点で、要は批判勢力を根絶やしにするのが狙いなのだ。
すでに国立大学の中枢は、文科省の天下り官僚が主導権を握って改革を進めており、教授会などの権限はほぼ無効化されている。そのため、今では文科省が通知を出せば、いかなる内容のものでも殆ど抵抗なく全て実施される見込みだ。教授会という抵抗拠点こそ潰したものの、抵抗者そのものはまだ残っているため(かなりの数の教員がすでに辞めている)、最終的な排除を試みるつもりなのだろう。治安維持法で共産党を禁止しただけでは足りなく、全ての党員やシンパまで刈り尽くそうとした戦前と酷似している。

国立大学に人文社会学部を置かず、理工系と医学部のみを認めるというのは、国家(日本政府)が人文社会科学系統の学問に価値を認めず、国家と産業に奉仕する学問のみ存在を許すという価値観を抱いていることを示している。人文社会科学の本質は「現存するものを疑う」ことにあり、権力者からすれば自らの存在を否定しかねない学問であるため、常に緊張関係にあった。故に、学問の自由と大学の自治は、もともと権力の介入を想定してのものだった。現に戦前の滝川事件や天皇機関説事件などで国家権力が介入、リベラルアーツが弾圧されたため、ポツダム宣言を履行する形で現行憲法第23条の「学問の自由」が成立している。その意味では、日本は高等教育政策でも「戦後レジームの打破」が進んでいると言えよう。

「国立大学だけで私立大学には人文社会が残るから問題ない」という意見はあるだろう。だが、学費や(特に地方の)アクセスの良さという点で、国立大学の優位性は免れず、今後リベラルアーツを学びたい者は私立大学に行くしかなくなるというのは望ましくない。また、国立大学(のみ)から人文社会系の教員や教員候補(博士課程)が排除され、私立大学に丸投げされるというのは、学問のバランスを大いに欠くものと言える。公立大学の存在意義をもう一度問い直すべきだ。

国立大学が職業学校に転化するくらいならば、そもそも国立大学を廃止して全て私立大学にして、国家介入を完全に排する方がまだマシだろう。
いや、つくづくこんな時代に自分や自分の子どもが生まれないで良かったと思う。

【追記】
あ、私大も私学助成金をもらっているからやっぱり政府の支配下に入らざるを得ないのか。私大の入学式に日章旗が掲げられて「君が代」(天皇賛歌)が斉唱される日は意外とすぐそこまで来ているのかもしれない。
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2015年06月05日

5月の読書記録(2015)

計画を出す前に月が終わってしまった(笑)ので、記録ということで。
連休中はしっかり休め、鍼療養も終わって、肉体的にも精神的にも平常運転に戻った感じ。暑さが本格化する前に難易度高めの本を読んでおくことが今後の課題か。

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『長篠合戦と武田勝頼』 平山優 吉川弘文館(2014)
既出。お薦め。

『新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い』 白峰旬 宮帯出版社(2014)
関ヶ原戦役は、知名度の割に本格的な研究が少なく、既存のイメージが支配している。有名過ぎることが逆に研究者を忌避させているのかもしれない。だが、現代の我々がイメージする関ヶ原像は、すべて江戸中期以降に書かれた軍記物などを参考にしており、同じくそれに基づいて記された明治陸軍の研究によって定説化してしまった。本書は実際に戦役に参加した者や同時代人が記した文書を重視、比較することで、史実の再発見を試みている。特に参戦者たちの報告や回顧では、開戦とほぼ同時に小早川勢が寝返って、正午くらいには石田陣営が敗走していたことになっており、世に知られる「問鉄砲」が江戸中期以降の創作であったことはほぼ間違いないとしている。また、どうやら島津勢も最初から戦闘に参加していたようで、世に言う「敵中突破」は戦闘中の判断だったらしい。部隊の初期配置についても、定説は微妙に間違っているところがあるようだ。今後はゲームにも訂正が求められるかもしれない。そして、当時の一次文書にはどちらも相手を「敵」としており、特に自らの正統性を誇示するような表現はなされておらず、徳川史観の支配力の強さが際立っている。ただ、全体的には分量が少なく、いくつかの論点が強調されているのみなので、マニア以外にはお薦めできない。

『多数決を疑う−社会的選択理論とは何か』 坂井豊貴 岩波新書(2015)
「一人一票の多数決で決めているから民主的」というのは硬直化した形式主義である。例えば12人の小さな理事会で理事長選が行われ、3人が立候補したとする。投票の結果、A5票、B4票、C3票となり、Aが当選した。確かに形式的には問題ないが、それとBやCの支持者が納得するかは別問題だからだ。民主主義の形式ばかりが重視され、担い手の制度に対する信頼や当事者意識が低下しているのが、現代日本の姿では無いか。本書は、意思決定と民意集約のあり方を検証し、多様な仕組みとその原理について解説する。一部統計学の知識が無いと厳しいものがあるが、問題提起としては私が常々疑問に思っていたことを明快に説明してくれたので、非常に役立っている。

『ゴルバチョフが語る 冷戦終結の真実と21世紀の危機』 山内聡彦 NHK出版新書(2015)
番組を見ていないので最終的な評価は下せないものの、現在のウクライナ問題やNATO問題も絡んでいるだけに、当事者たちの「証言」はやや恣意的、あるいは誘導的なものがあり、この分野を研究している者からすると「ご都合主義的」な印象を受ける。これなら素直にゴルバチョフ回顧録を読んだ方が、当時の当時者の思いや考えが伝わる。
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2015年03月16日

3、4月の読書計画(2015)

2月に少し盛りすぎたことと、やや気力が低下していたこともあり、積み残しがあるため、今月は控えめにしたいと思うが、4月には統一自治体選挙で地元に寄騎することになりそうなので、今のうちに可能な限り読み進めておきたい。

『イスラム戦争 中東崩壊と欧米の敗北』 内藤正典 集英社(2015)
昨今のイスラム国を中心とする中東紛争の深層を、特にイスラムの視点と論理を交えながら明快に説明してくれる好著。人質事件を経て同様の解説本が山のように発刊されているものの、その大半はやはり米欧視点からの解説であり、19世紀の植民地主義の発想の域を出ない。だが、本書は米欧の近代主義と中東のイスラム主義(原理主義ではない)を相対化し、近代主義を絶対視すること無く、問題の本質を浮かび上がらせている。近代の論理(進歩主義と資本主義)を絶対視する視点からは、「遅れた文明を教化するためには侵略は正当化される」という結論しか出てこないことを、我々は認識しなければならない。

『華北戦記 中国であったほんとうの戦争』 桑島節郎 朝日文庫(1997)
既出

『経済政策で人は死ぬか? 公衆衛生学から見た不況対策』 デヴィッド・スタックラー、サンジェイ・バス 草思社(2014)
公衆衛生の視点から緊縮財政が市民の健康にどのような影響を与えるかを検証する。特にソ連崩壊後のロシアについては、私自身が同時期に滞在していただけに、身につまされる思いだ。同時期に体制転換したポーランド、チェコ、ハンガリーなどでは「ショック療法」が採用されず、緩やかに改革が進められた結果、少なくとも平均寿命がガタ落ちするようなことは無かった。借金が1千兆円を超え、国家予算が税収の2倍に達する日本は全く人ごとではない。

『21世紀の貨幣論』 フェリックス・マーティン 東洋経済新報社(2014)
貨幣論の視点から世界史を見直しつつ、貨幣に対する価値観の変遷と揺らぎを考察する。だが、その本質は現代の正統派経済学への懐疑と言える。貨幣論好きの私にはたまらない一冊だが、少し話が大きすぎる気もする。ただ、私も米ドル、豪ドル、金などを運用しており、現代資本主義の落日における「マネー」に対する考え方が揺らいでいることを実感している。

『毛沢東の朝鮮戦争―中国が鴨緑江を渡るまで』 朱建栄 岩波現代文庫(2004)
先年、中国で(ダブル)スパイ容疑で検束された朱建栄先生の代表作。朝鮮戦争に参戦する中国共産党内部の意志決定過程を検証する。国共内戦で疲弊した国内を抱え、軍部が猛反対、ソ連が協力を拒否する中で、毛沢東が介入の意志を貫徹して行く過程を緻密に描いている。なぜか内部資料がふんだんに使われ、周恩来秘書や参謀本部の情報将校などの生き残りに対するインタビューも充実しており、「共産党体制下で良くここまで調べられるな」というのが率直な感想。私は中国の専門家では無いが、いつか他の研究も見て、ブログの記事にしたいと思っている。
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2015年02月06日

2月の読書計画(2015)

仕事と原稿でなかなか多忙で休日に真面目な本を読む精神的余裕がないのだが、まぁこの程度は読んでおきたい。けど、どうにも気が乗らないというか・・・・・・

『日本軍の治安戦 日中戦争の実相』 笠原十九司 岩波書店(2010)
華北を中心に実施された対ゲリラ戦は、二次大戦における最も陰惨な戦場の1つだったと考えられるが、現代日本では殆ど知られることなく、教わることも無い。それどころか、日本で研究に従事する人も殆どおらず、著者は「中共の手先」扱いされる始末。しかし、治安戦の実態を知らないと中国における「反日」の根っこの部分が理解できない。南京事件だけでは日中戦争を知るには不十分すぎるのだ。

『特高警察』 荻野富士夫 岩波書店(2012)
特高も戦前日本の最暗部ということで学術研究が進んでおらず、数少ない概説書になっているが、最新の研究成果を簡潔にまとめており、新書一冊で概要を把握できるのは嬉しい。伯父に特高刑事を持つ身としても正面から向き合う必要がある。

『「特高」経験者として伝えたいこと』 井形正寿 新日本出版社(2011)
就職した会社への不満と兵役を逃れたい気持ちから大阪県警を受験し、警察官になったはいいものの、文学部卒ということで思想警察である特高に配属されてしまった著者の回顧録。今の警察と同じで、「業績」を上げるために体制・戦争批判へと誘導するような行為が横行していたことが赤裸々に書かれている。NK党の出版社であることを差し引いても一読に値する。

『食糧の帝国 食物が決定づけた文明の勃興と崩壊』 エヴァン・D・G・フレイザー他 太田出版(2013)
文明が余剰食糧の質・量とともに発展し、その衰退が水不足と土壌劣化に起因した歴史を概観する。化学肥料には限界があり、農地の代替地も殆ど無い現状を憂うと共に、代替案を提示する興味深い一冊。

『戦国の交渉人』 渡邊大門 歴史新書 洋泉社(2011)
最近再評価されつつある安国寺恵瓊の評伝。備中高松城で清水宗治に自害を強要したとするエピソードは後世の軍記物にしかなく、当時の資料を見る限り疑問が多いといった最新の研究成果が反映されており、公正な視点で有能な外交僧としての恵瓊が描かれている。想像以上のタフネゴシエーターで、羽柴・毛利戦争の和睦には1年半もかけ、羽柴陣営の5カ国割譲要求を半分近くまで減じるなどの成果を挙げている。
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